宿直草卷二 第十一 小宰相の局幽靈の事
第十一 小宰相(こざいしやう)の局(つぼね)幽靈の事
[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。小宰相のために清拭し、上下左右の枠を除去した。見開きの別々な二枚の絵であるが、接合してみたところが、上手く合わない。畳の縁(へり)の太さを見ても一致せず、そもそもがこの二枚は一枚を単純に切り分けたものではないと想像される。そのため、少し中央を空けておいた。なお、以下の本文は入れ子構造が激しいため、特異的に核心のストーリー部分の前後を一行空けとし、点線も活用した。]
わが家(いへ)へ出入する座頭の語りしは、
「わが『平家』傳受せし師匠は、攝州尼が崎に星山勾當(ほしやまこうたう)と云ふ人なり。第九の卷を習ふとき、
『此(この)「小宰相」の局を一句かたりて、耳をうしなひし人あり。かまへて語るとも心せよ。』
と云へり。
我、聞かまほしく思ひ、
『如何なる事にか。』
と云ふ。師のいはく、
……我(わが)むつまじくかたる座頭、名を團都(だんいち)といふ。この人、淸貧なりしかば、なづさふ人を知る邊(べ)に、筑紫(つくし)へ下り、身を稼ぐべきと思ひ、遙けき海原(うなばら)を経て行く。また、聊か知りたる人のあれば、中國に流離(さそら)へ、赤間關(あかまがせき)に、先(まづ)、着きぬ。そこらの人、不愍(ふびん)の者に爲(し)て、しばらく、日を經(ふ)るうちに淨土派の寺ありて、これを寄る邊(べ)とす。
此寺には、壽永頃、果て給ひし、平家の一門の卒塔婆(そとば)、石塔、御墓(みはか)など、世を經し苔に朽(く)つ。その緣(ゆかり)も、今は絶えてし世なれば、誰(たれ)訪(と)ふ者もなく、露置く千般(ちつら)の草、風に馴(な)るゝ砌(みぎり)の松のみ、昔も問ふかと、物さびたり。
かくて團都は、客寮(きやくれう)に臥(ふす)に、ある夜、いとゞ物憂き旅の宿(やど)、夢は古郷(こきやう)に通ひ、さて、寢ざめがちにして、まだき、曉(あけ)には及ばざりしに、扉(とぼそ)を叩く者、有り。
「誰(た)そ。」
と云ふに、
女の聲して、
「これはさる御方より使(つかひ)に參り候。『今宵、御つれづれ明かしかねさせおはしませば、願はくは、參り給ひて、御伽(おとぎ)申させ給へかし』と申し參れとの事にて、これまで參り候。ただ來たり給へ。具(ぐ)し申(まうし)たき。」
といふ。座頭、とかくに及ばず、
「參るべし。」
と。
「さらば。」
とて手を引きて行くに、夥しき惣門(そうもん)に入(い)ると覺えしより、石の階(きざはし)、玉の檻(おばしま)と思(おぼ)しくて、いと結構なるべしと思ふ殿作(とのづく)りなり。しばしば行くに、樓(たかどの)に至る。錦(にしき)ならん几帳(きちゃう)も手に觸れ、御簾(みす)ふく風に常ならぬ匂ひもかよへり。侍女(おもとびと)多く並み居(ゐ)る。御座(おまし)近(ちか)ふ參りしに、あてやかなる上﨟(じやうらう)の御聲にて、
「扨も、座頭は嬉しくも參れり。願はくは『平家』を一句、聞かまほし。語れかし。」
と宣(のたま)ふ。
かしこまりて、
「何(いづ)れか、御望みに御座候。」
と云ふ。
「されば、哀れにもおもしろきは、『小宰相』の句なり。これ、語れかし。」
とありしかば、お受け申しつゝ、四(よつ)の緒(を)をかき鳴らし、甲に上げ、乙に落(おと)して、音勢(をんぜい)いみじく語りければ、一座、鳴りを靜めて、もてはやす。
語り終はれば、茶菓(ちやくは)なんど給りて、
「さても。呂律(りよりつ)すゞしく、撥音(ばちをと)も妙(たへ)にこそさふらへ。いさゝめ、休みてよ。さても一の谷(たに)より矢嶋(やしま)へ越え給ひし人々は、さなきだに弱り果てにしに、況んや、越前の三位に別れ給ひし小宰相の局は、あさはかなる契り、其思ひ隈(ぐま)、如何(いか)ばかりかあらん。あかぬ中中(なかなか)身もこがれて、入水(じゆすい)し給ふも、理(ことわ)りならずや。また、通盛(みちもり)も此(この)人、二八よりの緣(えにし)なるに、今更、婀娜競(あだくら)べとなりければ、戰かふもうき湊川(みなとがは)にて、今を別れに、こよなふ悲しくや思はん。思ひやるさへ中中に、淚の種(たね)となる物を。」
と宣へば、並みゐる人々、皆、袖を絞る。餘所(よそ)の哀れのいと露けくぞ見えし。
しばしして、
「今一句、語れ。」
とあり。かしこまりて、
「何を聞(きこ)しめさん。」
と云ふ。上﨟のいはく、
「いや何迄もなし。今の句の限りなふおかしかりければ、押し返して、『小宰相』を語れかし。」
と也。否みもあへず、また、琵琶抱(いだ)きて、語る。
その句、未だ終はらざるに、長老の聲して、
「如何に。そこにて、誰(たが)聞けば『平家』は語るや。」
と、いらなくも呼ぶ。
座頭、いぶかしく思ひ、琵琶を止め、邊りを撫でて見るに、上﨟の御座(おまし)に居ますと思ふに、さはなくて、石塔、手に當れり。侍女(おもとびと)などあると探れば、苔深き卒塔婆也。
「こはいかに。」
と思ひ、
「さて。ここは何處(いづく)にや。」
と云へば、長老(ちやうらう)、聞(きき)て、
「内墓(うちはか)なり。其石塔は小宰相なんいふ上達女(かんだちべ)の碑(ひ)なり。」
と云ふ。
夜もさらに明(あけ)て、四方(よも)も喧(かまびす)し。
長老の云(いはく)、
「今朝(けさ)、とく起こすに、汝、見えず。琵琶もなし。小夜(さよ)の衣(きぬ)いたづらにして、枕むなしく橫たふ。『さては我なん恨みて出でけるか』と、あらぬ事のみ思はれて、いろいろと尋ねしに、琵琶の音(ね)かすかに聞えしにぞ、此處(こゝ)とは知れり。如何なる事に來りしや。」
と云ふ。
その時、團都、正氣になり、宵よりの次第、細かに語る。
「扨は。さふか。然(しか)らば今日、汝、外(ほか)へ出づる事、なかれ。出づれば命なからん。『平家』を聞(きき)しは、かの局の幽靈ならん。着心(ぢやくしん)深ふして、百夜(もゝよ)もこれを聞かん。由々しき愼(つゝし)みなり。さりながら、我、汝が身を裹(つゝ)まん。心やすく思へ。」
とて、かの座頭に行水をさせ、降魔呪(がうまのしゆ)、般若(はんにや)の文(もん)など書きて、全身を帶(お)ぶ。また、麁相(そさう)にして、左の耳に文字(もじ)ひとつも書かずして是をおとす。
さて、教へて云ふやう、
「行夜(ゆくよ)も來たらん。音、すな。返事、すな。又、驚く事、なかれ。」
と。
やがて、其日も暮れて、例(れい)の頃、果して、かの女房、呼ぶ。
返事せず、恐ろしく屈(かゞ)みゐるに、
「不思議や。座頭のおはしまさぬ。」
とて、ひたに探す。
其(その)手、身に當りければ、今は死するよと悲しきに、經文書きたれば、幽靈の手には覺えねばこそ。しばし尋ねてあぐみしが、かの文字を書かぬ、左の耳を探りて、
「こゝに、座頭の耳、有(あり)。」
とて、かなぐりて行く。
痛しなんどもおろかなり。
長老にかくと語れば、
「扨々、左の耳に經文書かざる事よ、今、思ひ出だしたり。いと悔しくこそ。さりながら、かしこくも、命は助かりたり。耳一つ得て、靈の着(ぢやく)は失せてん。今よりは心やすかれ。」
と、のたまふ。
それよりこそ、此人を、『耳きれ團都』と異名(いみやう)して呼びけり。……
と、話せり。」。
[やぶちゃん注:所謂、小泉八雲の名怪談集“Kwaidan”中の白眉たる第一話“The Story of Mimi-Nashi-Hoichi”で人口に膾炙する「耳なし芳一」譚の類話である(各種の酷似した類話があるが、そこでの琵琶法師の名は「團一(だんいち)」であったり、「うん一」であったりする)。湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』の「曾呂里物語」の巻四の九「耳きれうんいちが事」の類話にこれを引き、堤邦彦氏が「江戸の高僧伝説」(二〇〇八年三弥井書店刊)で『法然の弟子住蓮の法脈にある浄土僧が展開した小宰相局伝承と、壇ノ浦の「耳なし芳一説話」とを合わせ、「小宰相局」の幽霊譚として創作された話とする』と記され、また、広瀬朝光氏は「小泉八雲論 研究と資料」(昭和五一(一九七六)年笠間書院刊)で、「耳なし芳一」の近世期に於ける三系譜の淵源の一つが「曾呂里物語」の「耳きれうんいちが事」であるとし、『それが『雨月物語』「吉備津の釜」から『臥遊奇談』へと継承されたと』している、とある。「曾呂里物語」版の梗概をいつものように湯浅氏の論文から引き、比較参考に供したい。
《引用開始》
信濃国善光寺の比丘尼寺に、越後国の座頭うん市が出入りしていた。病の後、半年ぶりに寺を訪れ、主の老尼に案内され客殿に宿をとる。そこへ、三十日程前に亡くなった比丘尼の慶淳が訪れ、うん市を無理に寮に連れて行き、部屋に閉じ込める。慶淳は経師に会いに出ていき、夜明けてうん市を閉じ込めている部屋に戻る。三日目の暁に、飢えたうん市は寮の戸を叩いて寺の者を呼び、事情を語り、慶淳の死を知って興ざめた。寺中の人が集まり百万遍の念仏を称えると、慶淳の霊が現れ、うん市の膝を枕に眠ったので、その隙に人々はうん市を逃がす。うん市がある寺の長老に助けを求めると、長老たちは体中に尊勝陀羅尼を書き付ける。そこへ怨霊が来てうん市を探し回り、陀羅尼の書き足りなかった耳をもぎ取って帰った。うん市は逃れ、耳切れうん市と呼ばれ老いるまで越後国にいたということだ。
《引用終了》
これはまた、やはり「宿直草」とシンクロ出版している「諸國百物語」の「卷之一 八 後妻うちの事付タリ法花經の功力」にも影響を与えているが(リンク先は私の電子化注)、以上の湯浅氏の「曾呂里物語」梗概や私の「諸國百物語」版を読んで戴くとお分かり戴ける通り、それらに比して、本話は遙かに現在の我々の知る「耳なし芳一」譚に近いことが知れる。小泉八雲が原拠としたものは一夕散人(いっせきさんじん)著になる「臥遊奇談」天明二(一七八二)年の第二巻にある「琵琶祕曲泣幽靈」(琵琶の祕曲幽靈を泣かしむ)であるとされ、主人公の名も芳一ではある(ヘルン文庫には「臥遊奇談」が確かに含まれているが、同時に本「宿直草」も含まれている)。しかし、本「宿直草」(延宝五(一六七七)年刊)はそれに先行すること百五年も前でありながら、全体の結構はオーソドックスな「耳なし芳一」に酷似している。私は本「宿直草」版は正統なる同譚の本流に属した貴重な一話と考えるものである。
「小宰相(こざいしやう)の局(つぼね)」(嘉応元(一一六四)年?~寿永三年二月十四日(一一八四年三月二十七日))は平通盛(仁平三(一一五三)年?~寿永三(一一八四)年三月二十日:平清盛の異母弟教盛の嫡男。従三位となって越前を知行、「越前三位」と称された。源平の乱では北陸道の鎮圧に当たったが、倶利伽羅合戦でで木曾義仲に敗れて敗走した。以下は後を参照)の妻。刑部卿藤原憲方の娘。ここは非常に上手く纏めてあるウィキの「小宰相」より引きたい。『一ノ谷の戦いでの通盛の死と小宰相が後を追って入水したエピソードは、『平家物語』で一章が割かれ、一ノ谷の戦いでの象徴的な悲話になっている』。『小宰相は上西門院(鳥羽天皇の皇女で後白河天皇の同母姉)の女房で、宮中一の美女とうたわれた。彼女が』十六歳の時(治承三(一一七九)年)頃か)に『法勝寺の花見にお供した際に、これを見た中宮亮・平通盛は彼女に一目ぼれした。その後、和歌や恋文をしきりに贈る』ものの、三年経っても、『小宰相は返事をしなかった』。『これが最後と思い、文を書き使いに渡したが、折悪しく取次の女房がおらず、使いが戻ろうとすると、ちょうど里から帰ってくる小宰相の車に行き合った。使いは文を車に投げ入れて去った。小宰相はとりあえず持ち帰ったが、御所で宮仕えしていた』際、『上西門院の前でこの文を取り落とし、女院はこれを拾って「あまり気が強いのもよくありませんよ」と、みじめな最期を遂げたという小野小町の例を出して、自ら硯を取り寄せて返事を書いてやるようにうながした』。『こうして女院の仲立ちで通盛と小宰相は結ばれた。恋愛の末に結ばれたので、ふたりはたいそう仲睦まじかった。通盛は小宰相の他に政治的な必要で従兄の平宗盛の娘も妻にしていたが、こちらはまだ』十二『歳程度の幼い少女なので手をつけることはなかった』。しかし、『やがて、治承・寿永の乱がはじまり、通盛は各地を転戦するが、平家は源義仲に大敗を喫し』、寿永二(一一八三)年、遂に『都落ちを余儀なくされた。小宰相は通盛とともに海上を流浪』、『平家は讃岐国屋島に本営を置き、やがて摂津国福原に』も進出したものの、寿永三(一一八四)年二月、『範頼・義経は大軍を率いて福原へ迫った』。『合戦を前に、通盛は沖合の船団から妻を呼び寄せ』、『「明日の戦で討ち死にする様な気がする。私がそうなったら、君はどうする」と言った。小宰相は戦はいつものことだから、この言葉が本当だとは思わず、自分が身籠っていることを告げた。通盛はわたしは』「私は三十になるが、どうせなら男子であって欲しい。子は既に幾月になるか? 船上のことなれば心配なことだ」『と大そう喜んだ』。『そこへ平家随一の剛勇で知られた』実『弟の教経がやって来て、怒りながら「ここはこの教経が置かれるほどの危険な戦場ですぞ。そのような心がけではものの役に立ちますまいに」と兄をたしなめた。通盛ももっともなことと思い』、『妻を船へ帰した』。結局、『合戦は平家の大敗に終わり、一門の多くの者が討ち死にし、通盛もまた船へ帰ってこなかった』。『屋島へ向かう平家の船団の中で小宰相は、夫が討たれたとは聞いてはいたが、何かの間違いであろうと、生きて帰ることもあるかもしれないと心細く夫の帰りを待ち続けていた』。『小宰相が乗船している船に通盛の従者の滝口時員がやってきて、通盛が湊川で討死した旨と最後の奮戦の様子を報告した。これを聞いて小宰相は返事もできずに泣き伏し、夜が明けるまで起き上がることもできなかった』。二月十四日のこと、『船団が屋島に到着する夜、小宰相は乳母に「湊川の後、誰も夫と会った人はいませんでした。もう、夫は亡きものと覚悟しました」と言うと福原での夫との最後の対面のことを語り、「子を産んで形見として育てねばならないと思うが、悲しみは増すばかりで、亡き人の恋しさに苦しむよりは海の底へ入ろうと思い定めました。どうか夫と私の菩提を弔っておくれ」と頼んだ』。『乳母は涙を抑えて「子を産んで育て、尼になって生きるべきです」と必死に止めた。小宰相もその場は「身を投げるといって、本当に身を投げる人はいませんよ」と思いとどまったように答えた』。『やがて、乳母がうたた寝すると小宰相は起き上がり、「南無西方極楽世界』……『どうか、別れた夫婦を極楽で会わせてください」と念仏を唱えると海に身を投げた』。『梶取りがこれを見かけて、乳母を起こして、みなで海を探し、ようやく小宰相の体を引き揚げたが、すでに死んでいた。乳母は通盛の鎧を亡骸に着せて、泣く泣く小宰相を海に沈めて葬った。その後、乳母は通盛の弟で僧侶になっていた中納言律師仲快のもとで剃髪出家して、通盛と小宰相の菩提を弔った』。『人々は、夫に先立たれた妻は尼になるのが普通なのに、後を追うとは珍しいことだと感心し』、『「忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫にまみえず」と(『史記』の故事をひいて)言い合った』。『『建礼門院右京大夫集』にも上西門院の美人で有名だった女房が通盛の妻となり、夫の死の後を追ったことが「これまでにない契の深さよ」と京都でも評判になったと記されて』ある、とある。
「星山勾當(ほしやまこうたう)」人物は不詳。「勾當」とは中・近世の盲人の自治組織である「当道座」の制度に於ける階級の一つで、「検校」・「別当」の次に位する盲官の名称。これらの上位の位に就任するには多額の費用がかかり、そのために江戸の中後期に於いてはそうした位を得るために彼らは高利貸しに手を染めたりした。因みに、「ブリタニカ国際大百科事典」には、何時の頃とは書かれていないが、この勾当となるのには五百両を要したとある。この視覚障碍者のギルド的組織に於ける階級制度の詳細については、私の「譚海 卷之二 座頭仲間法式の事」の私の注を参照されたい。
「第九の卷」「平家物語」の流布本系の「卷第九」は概ね、「宇治川先陣」「河原合戦」から、「木曾最期」と「樋口被斬(きられ)」と展開、「六箇度軍」と「三草合戦」を経て、一谷(一ノ谷)合戦に入って「坂落」、以後、平家勢の「忠度最期」・「重衡虜(いけどり)」・「敦盛最期」と続いて、巻末に、まさにこの小宰相の入水自殺があって閉じる。物語としても最もクライマックスの連峰と言える部分に当たる。岩波文庫版の高田氏の注では、『平曲では巻九は、音曲上の「秘事」とされ、伝授は大事とされていた』とある。なお、岩波文庫版ではこの「第九の卷を習ふとき」を星山勾当の台詞としている。即ち、星山が嘗てその師匠から習った折りに聴いた話とするのであるが、私は従えない。その話者である座頭が平曲の師匠である星山からこの秘曲を習ったまさにその時、その折りに、星山から打ち明けられた話としてこそ、星山の語りの核心部のリアリズムがよりダイレクトに強固なると私は思うからである。
「我(わが)むつまじくかたる座頭」星山勾当は親しくしていたのがまさに、この怪異の体験者主人公であったとするのである。所謂、友達の友達の話的都市伝説などとは大いに異なる直話構造を持っている点で、この話柄は優れていると言える。
「團都(だんいち)」琵琶法師などが有した名は「いちな」と称し、「一名・市名・都名」などと漢字表記した。これは名前の最後に「一」・「市」・「都」などの字が附したことに由来し、特に鎌倉末期の如一 (にょいち) を始祖とする平曲の流派は必ずこれを附けたことから「一方(いちかた) 流」と呼ばれた。後には広く一般の視覚障碍者がこうした名を名乗った。「都」に「イチ」の音はないが、恐らくは「都」の持つ「多く集まる」の意味に交易の場としての「市」を当てて、かく当て読みしたものではなかろうか。
「なづさふ」馴れ親しむ。
「赤間關」寿永四(一一八五)年の壇ノ浦の戦い(三月二十四日(一一八五年四月二十五日)による平家滅亡と安徳天皇入水でしられる山口県下関市の古称。ウィキの「下関市」によれば、「下關」という名称の初見は貞観一一(八六九)年であるが、「赤間(が)關」の名称の初見は元暦二(一一八五)年とある。但し、これを関所の名と捉え、「あかま」(赤間・赤馬)を地名と解するならばさらに『平安時代まで遡ることができる。いずれにしても鎌倉時代に「赤間関」という呼び名が成立し、付属する港湾や関門海峡の長門国側を指す広域地名、更には対岸の豊前国門司関を含めた関門海峡全体の別名としても用いられた』とある(鎌倉幕府による長門探題設置は建治二(一二七六)年)。少し後も述べておくと、『元寇をきっかけに赤間関を防衛するために長門守護は長門探題とされて北条氏一門が任ぜられた。北条氏が滅びると長門の御家人であった厚東氏が長門守護とされるが、南北朝の内乱の中で周防国の在庁官人・御家人であった大内氏が南朝方として周防・長門両国を征服、後に北朝方に離反して室町幕府から両国の守護、更に対岸の豊前国の守護にも任ぜられて赤間関を含めた関門海峡両岸を大内氏が支配する体制が』十六世紀中期まで二百年近くも『続くことになる。大内氏は赤間関に代官を設置して直接管理し、港湾の管理・関銭や帆別銭の徴収・明や朝鮮などの外交使節への応対などにあたった』とある。大内義長が長府の長福寺(功山寺)にて自害して大内氏が滅亡するのは、弘治三(一五五七)年のことである。
「そこらの人、不愍(ふびん)の者に爲(し)て」一応、場所柄、滅んだ平氏への憐憫もあって、且つ、それを語る盲目の琵琶法師としての団都(だんいち)を憐れんで呉れ、の謂いでとっておく。でなくては、ここに有意な時間、滞留する意味を見出せないからである。
「淨土派の寺ありて、これを寄る邊(べ)とす」寺名を出していないが、思うに、モデルとしたのは安徳天皇が葬られた阿弥陀寺ではなかろうか? 山口県下関市阿弥陀寺町にあった真言宗の寺であったが明治八(一八七五)年に廃仏毀釈によって寺は廃されてしまい、現在は安徳天皇を祀る赤間神宮となっている。この寺は中世までは浄土宗であった。なお、後に形成される「耳なし芳一」譚の舞台もここである。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「千般(ちつら)」読みは不詳であるが、「千般」(せんぱん/せんばん)は「種々・さまざま・いろいろ」の意。「ちつら」は「千蔓(ちつら)」で「無数のつる草」の謂いか? 識者の御教授を乞う。
「風に馴(な)るゝ」関門海峡を抜ける強く厳しい海風に耐えることに馴れた松、或いはその強風に従って逆らわずに靡き馴れた低い松の謂いか。
「砌(みぎり)」ここは「庭」の意。
「客寮(きやくれう)」寺内の修行僧や行脚僧のための宿舎。
「とかくに及ばず」琵琶法師である以上、それを拒んだり、相手が誰かなどと穿鑿するまでもなく。申すまでもなく。
「夥しき」非常に壮大な感じの。
「檻(おばしま)」欄干。手すり。
「思(おぼ)しくて」団都は視覚障碍者であることに注意。手で触れた感触や、音声や周囲から体感される雰囲気から以下を判じてゆくのである。この辺り以降のシークエンスは我々も目を瞑った気持ちで味わう必要がある。
「侍女(おもとびと)」「御許人」。貴人のお傍近くに仕える人。
「四(よつ)の緒(を)」「緒」は楽器の弦。一般に知られ、現代まで続いている琵琶は四弦。
「甲に上げ、乙に落(おと)して」邦楽で音階音より音を上げることを「かる」と称し、下げること「める」と称し、これを漢字では「上下」以外に「甲乙」と書き、こで「かるめる」「かりめり」(或いはひっくり返して「めりかり」)などと呼ぶ。
「呂律(りよりつ)」「呂」も「律」も雅楽の音階名。雅楽合奏の際、この呂の音階と律の音階が上手く合わないことを「呂律(りょりつ)」と言っていたものが、訛って「ろれつ」となり、それが我々の音声の発音に広がって比喩されたものが、今我々が使っている「呂律(ろれつ)が回らない」である。
「いさゝめ」通常は「いささめに」の形で使用する副詞。仮初めに。ちょっと。暫く。
「思ひ隈(ぐま)」心中の奥深い部分。或いはそこに隠し秘めた思い。
「あかぬ」「飽かぬ」。二人の思いが互いに対して。
「中中(なかなか)」最初の「中」は互いの「仲」で、「中中」が形容動詞の語幹で、その互いの思いがはなはだしいことに掛ける。後の「中中に」も同じだが、後者はちょっと五月蠅い気がする。
「こがれて」「焦がれて」であるが、「漕がれて」を掛けて「入水」と縁語となる。
「二八」十六歳。前に注した通り、小宰相の方の年齢。当時の通盛は二十六前後か。
「婀娜競(あだくら)べ」岩波文庫版の高田氏の注には、『はかなさを競うこと』とある。
「うき湊川」「憂き」に「浮き」を掛けて「湊川」の縁語となる。湊川は兵庫県神戸市を流れる川。平家の拠点福原に近く、何より、夫通盛がここで戦死した。
「餘所(よそ)の哀れのいと露けくぞ見えし」私には直前の「並みゐる人々、皆、袖を絞る」の言い換えに過ぎないようにしか見えぬが、或いは、こちらは事実らしい視覚的情景を前に出して、読者へ映像的喚起を示した上で、改めて聴覚だけでその哀しみのまことに感じ入った団都の実感を示したものかも知れぬ。
「如何に。そこにて、誰(たが)聞けば『平家』は語るや。」怪談のコペルニクス的転回点の台詞である。それが「いらなくも」、際立って甚だしい大声で大袈裟にも、であるだけ、読者もビクッとするのである。以下の段落の、あくまで触覚感覚による団都の点検描写も、読者自身にとっても、異界が断絶して現実界へ引き戻される物理的質感をよく伝えて、すこぶる優れている。
「長老」ここでは団都が寄宿している寺の住持の意。
「小宰相なんいふ上達女(かんだちべ)の碑(ひ)なり」現在、小宰相の局の墓と伝えるものが徳島県鳴門市鳴門町土佐泊にある。「鳴門総合情報サイト【鳴との門】」のこちらを参照されたい。墓の画像も地図もある。考えて見れば、彼女の悲劇のエピソードを考えるなら、この赤間関近くにその墓があるというのは、実はやや解せぬとは言える。
と云ふ。
「とく」「疾く」。早くに。
「小夜(さよ)の衣(きぬ)」夜具の衾(ふすま)の美称。
「さては我なん恨みて出でけるか」と何故、この住持は思ったのだろう? つまらないことが気になる、僕の悪いクセ。
「着心(ぢやくしん)」現世への執着心。
「百夜(もゝよ)もこれを聞かん」今回、「橘 伊津姫」なる方が自身のブログで幾つかの「宿直草」を現代語訳されているのを発見したが(本話はこちら。かなり意訳で一部の原文のくだくだしいところがカットされているものの、全体の雰囲気は悪くない)、そこでこの辺りを、『執着の心があまりにも深く、お前を『向こう』へ連れて行って百夜でも語らせるつもりであるのだろう』と訳しておられ、これは、訳として正しいかどうかは別として、逐語訳でやるよりは、素敵なもののように感じられる。特に住持が団都を救わんとする契機として、よい。次の私の注も参照されたい。
「由々しき愼(つゝし)みなり」「忌忌し・由由し」などと漢字を当てるが、ここの意味はとりにくい。本語は「おそれ多い・憚られる・神聖だ」の原義から派生して、両極性の意味を保持するからである。概ね、「不吉だ・忌まわしい・縁起が悪い」から常軌を逸して「甚だしい・一通りでない・ひどい・とんでもない」の意を持つかと思えば、そのベクトルが反対に対しても同時に向いて、かなり古くから「素晴らしい・立派だ」の意も有するからである。しかもそれが形容するのが「つゝしみ」(原本表記)であるのが困る。小宰相の霊に対し、ごくごく善意の立場からとるならば、霊となっても夫通盛への至上の愛を忘れぬために、何度でも夜の墓場で「平家物語」の「小宰相」の段を聴き、悲しみと恋慕を新たにし続けようとするのはある意味、亡者とはいえ、夫や自分を死に追い詰めた源氏への怨恨を出さぬ「立派で控えめな仕儀である」と理屈ではとれなくもないが、如何にもそれは無理がある。問題は「つゝしみ」で、これは実は。今の我々の感覚としての善い意味での自己抑制がきいている「慎み」なのではなく、同系列である、「包む」を源とする動詞「愼(つつ)む・障(つつ)む」で「人目を憚る」の謂いなのではなかろうか? 亡者が実に永い間、そうした執心を以って平曲の自身の死を主題とした音曲を生者と偽って聴くなどということは「とんでもなく忌まわしい人目を憚る現実世界を脅かす行為」であると断じていると読むのが正しいのではあるまいか? それは結果して、騙されて琵琶を弾く団都の命をも縮める悪事であることは言を俟たぬ。さればこそ、長老(住持)は、そんな命に関わる大変な事態ではあるが、「さりながら、我、汝が身を裹(つゝ)まん」(「裹まん」は「守ってつかわす」という断言の意志表現である)「心やすく思へ」と言い切るのであると私は思う。
「降魔呪(がうまのしゆ)」「降魔」とは、心の中に生じる内なる煩悩魔や、外部から襲ってくる天魔などの正法(しょうぼう)を妨げんとする悪魔を、仏法の力によって打ち倒すこと、悪魔を降伏(ごうぶく)することを指す。そうした呪文、基本的には梵字を用いた真言呪と思われる。
「般若(はんにや)の文(もん)」「般若」は梵語の「智慧」の意の漢音写で、人間が真実の存在に目覚めた際に立ち現われるとする根源的絶対的な叡智。世界の窮極的真理を知ること智恵を指すが、ここは経典の中のそうした強力無敵な絶対の智力を有すると考えられている種々の経文の中の神聖な文句や梵語の種字を指すのであろう。
「麁相(そさう)にして」「粗相して」と同じい。不注意からミスをして。
左の耳に文字(もじ)ひとつも書かずして是をおとす。
「行夜(ゆくよ)」今夜。
「ひたに」一途に。そこら中を。
「其(その)手、身に當りければ、今は死するよと悲しきに、經文書きたれば、幽靈の手には覺えねばこそ」こういう描写が本話の上手である。
「かなぐりて」荒々しく取り去って。乱暴に引き千切って。]
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