甲子夜話卷之四 16 享保の頃は士風の強きを育せし事
4-16 享保の頃は士風の強きを育せし事
享保の頃の重職は、士風の手強きを育てらるる心あつきことゝ見へたり。左近へ御役人の某が建言せしとき、今日は御用ありとて坐を起んとせられしかば、その御役人、左近の裾をひかへ、申上候事も御用に候と申ければ、左近起れずして其事を聞終れり。その後その同寮に左近逢れて、某はよくぞ我等を押へて存寄申盡され候とて、感賞せられしとなり。松平能登守【乘堅】加判のときか、參政のときか、蓮池通りを行しとき、西城の通御ありて御門を打たるに心付れず、御門までかゝられしに、固めに立ける同心恐怖して、留めもせずありしかば、番所に居し同心、聲を厲しくして、能登殿でも通すことはならずと呼ける。その後營中にて、能登守其組の御先手頭に逢はんとありしかば、頭も恐れながら謁しけるに、此頃蓮池番所にありし同心、心掛よろし、褒置申べしとありしとなり。
■やぶちゃんの呟き
「育せし」「育て」標題は「いく」、本文は「そだて」。
「重職」幕府の大老や老中など。老職に同じい。
「左近」既出既注の松平左近将監松平乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)。肥前唐津藩第三代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主で老中。享保八(一七二三)年に老中となり、以後、足掛け二十年余りに亙って享保の改革を推進した辣腕。
「起ん」「たたん」。
「逢れて」「あはれて」。
「某」「なにがし」。
「存寄申盡され」「ぞんじよりまうしつくされ」。
「松平能登守【乘堅】加判のときか、參政のときか」「乘賢」が正しい。美濃国岩村藩第二代藩主で老中であった松平能登守乗賢(のりかた 元禄六(一六九三)年~延享三(一七四六)年)。「加判」は老中、「參政」はその下の若年寄のことで、乗賢は享保八(一七二三)年三月に奏者番から若年寄に昇進、その十二年後の享保二〇(一七三五)年五月に西丸老中に昇進、延享二(一七四五)年には本丸老中となったが、翌年、没している。
「蓮池通り」本丸とその西側に広がる西丸(現在の皇居)を隔てる蓮池濠の西丸側の通り。
「西城の通御」西日本の大名の参内か。
「御門」どの門か私には不詳。若年寄時代ならば、位置的に見て西丸裏門か。
「立ける」「たちける」。
「留め」「とめ」。
「居し」「をりし」。
「厲しく」「はげしく」。
「呼ける」「よばひける」と訓じておく。
「御先手頭」「おさきてがしら」。複数あった先手組(さきてぐみ:江戸幕府軍制の一つ。若年寄配下で、将軍家外出時や諸門の警備その他、江戸城下の治安維持全般を業務とした)の組頭。ウィキの「先手組」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、時代によって『組数に変動があり、一例として弓組約十組と筒組(鉄砲組)約二十組の計三十組で、各組には組頭一騎、与力が十騎、同心が三十から五十人程配置され』たという。『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられた』とある。
「褒置申べし」「ほめおきまうすべし」。
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