譚海 卷之二 下總國利根川水中に住居せし男の事
○下線國利根川水中に住居する人有(あり)。その所布施より大寶と云(いふ)際(きは)にて、時々見かくる事あり。其人、魚などを取てくひつゝ五六十日づつほどは都(すべ)て水居すといへり。餘り飢(うゑ)たる比(ころ)と覺(おぼゆ)る時は、水泊(すいはく)の舟に近付(ちはづき)てひそかに食物をこひ、餐餘(さんよ)のものなどもらふ事有。往來の船頭正しく見たる事にて、魅魅(びき)のたぐひにもあらず人間也。陸には住居する樣子にもあらざりしとぞ、安永の初めの事也。其後何方(いづかた)へ行(ゆき)たりけん在所をしらずといへり。
[やぶちゃん注:前話は妖怪変化(へんげ)としての「川太郎」、河童であったが、ここに出るのは、完全な「人間そっくり」の「水棲人間」であって、外見上の河童らしさは全くない。しかし、あくまで水中に棲み、時に相応の距離を遊泳して江戸に行き、五十日か六十日ほどは江戸の川の中に居住するという、ある意味、非常に特異な記載である。魚を獲るが、それはあくまで自己の食い物としてであり、それを売るわけでもなく、また、必ずしも魚摑みの達人というのではもないようで、時には餓えて舟泊まりしている人の食い物の残飯などを乞うて貰い食いをするのである。こうした叙述からは厳密には「両生類」的人間と言うべきか。或いは、何らかの下肢に奇形や疾患があって陸上歩行が困難な障碍者なのかも知れぬ。ともかくもリアル(ある時から忽然と姿を見せなくなったという辺りが寧ろ嘘っぽくない)に不思議な話ではないか。
「布施」千葉県柏市布施(ふせ)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。江戸時代の利根川の鮮魚の水運輸送のルートとして栄えた地であり、関東三弁天(江ノ島・上野不忍)の一つとして古くから知られる布施弁天(真言宗紅竜山東海寺の通称)もあるから、水棲人間とは所縁があろう。
「大寶」不詳。以下は私の勝手な推理であるが、前に「布施」という地名を示してある以上、そこから極端に離れた場所の利根川本流流域外の地名とは私にはまず考えられない(それを問題にしないなら、鬼怒川流域の、昔は大宝沼があった茨城県下妻市大宝(ここ(グーグル・マップ・データ))がある)。ここは寧ろ、彼(水棲人間一個体)のテリトリーを布施を基点とした利根川本流の狭い範囲であると考えるならば(生物学的な個体の狭義の日常的常住テリトリーを考える時はその方が自然である)、これは実はごく布施に近い場所なのではあるまいか? そこで地図を精査して見ると、布施の西方のごく近くの利根川流域に柏市大室(おおむろ)を見出せたのである(ここ(グーグル・マップ・データ))。一つ、津村が「大室」を「大宝」と読み違えた可能性を考え、しかも上記のような理由から私はここを比定候補としたい。
「安永」一七七二年から一七八〇年まで。第十代将軍徳川家治の治世。本「譚海」は寛政七(一七九五)年自序。]
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