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2017/07/19

譚海 卷之二 京三十三間堂梁木の事

○京都三十三間堂の梁は、六十六間通りたるものにて萩の樹なるよし、羽州秋田郡勝平山より出(いづ)といふ銘きりつけてありといへり。

[やぶちゃん注:「京三十三間堂」現在の京都府京都市東山区三十三間堂廻町にあるそれは、正式名称を蓮華王院本堂と称し、近世以降は現在の東山区妙法院前側町にある天台宗南叡山妙法院の境外仏堂となり、同院が現在も所有管理をしている。ここに記されているような三十三間堂の梁の素材・記銘についてはネット上では全く確認出来ない

「六十六間」これは「三十三間堂の一間(けん:これは距離単位の「間(けん)」ではなく、柱と柱の間を「一間(けん)」と呼ぶ建築用語)が通常距離単位の二間(けん)分に当たる」という説明から出た厳密な意味に於いては誤認識に基づく記載である。ウィキの「三十三によれば、『三十三間堂の名称は、本堂が間面記法』(けんめんきほう:奈良期から南北朝に用いられた建築の平面・規模・形式を表現する方法。中世前期までの建築は母屋と廂(ひさし)によって構成され、母屋の間口(梁行)柱間を「何間」と表わし、奥行(梁間)は通常は柱間二間であったから省略されて母屋に「何面」の廂が附いているかで表記された)『で「三十三間四面」となることに由来する。これは桁行三十三間』『の周囲四面に一間の庇(廂)を巡らせたという意味である。つまり柱間が』三十三『あるのは本堂の内陣』(母屋)であって、『建物外部から見る柱間は』三十五である。現在は正面に七間の向拝(こうはい/ごはい:仏堂や社殿で屋根の中央が前方に張り出した部分の称)を付けているるが、これは慶安二(一六四九)年から四年頃に増築されたものである。『ここで言う「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語である』。しかも『三十三間堂の柱間寸法は一定ではなく』、『その柱間も』、現在、『柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当しない』ものである。「三十三間堂の一間(柱間)は今日の二間(十二尺)に相当する」として堂の全長を「33×2×1.818で約120メートル」と『説明されることがあるが、これは柱間長についても、柱間数についても誤りである』(但し、『実際の外縁小口間の長さ』は約百二十一メートルで、殆んど一致する)』とある。

「萩」マメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza であるが、不審。木本類ではあるが、凡そ梁に使える木ではない。伊原恵司氏の論文「古建築に用いられた木の種類と使用位置について」(PDF)を見る限り、ヒノキ・ヒバが圧倒的で次にツガ・マツ・ケヤキ・スギ・クリ等が並び、これらが素材の殆んどである。私の好きな人形浄瑠璃に「卅三間堂棟由來(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)」(文政八(一八二五)年初演)があるが、あれはまさに白河法皇の病気の原因を取り除くために三十三間堂の棟木に柳の大木を用いることになるという設定であるが、これは実際の伝承をインスパイアしたもので、ウィキの「三十三によれば、『後白河上皇は長年頭痛に悩まされていた。熊野参詣の折にその旨を祈願すると、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがあった。そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ』、『「上皇の前世は熊野の蓮華坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げた。上皇が岩田川(現在の富田川)を調べさせるとお告げの通りであったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛は治ったという。「蓮華王院」という名前は前世の蓮華坊の名から取ったものであるという。この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称された』とあるのだが、この芝居、見ながら、不思議に思ったことがある。柳の木は柔らか過ぎてとても梁には使えんだろうという不審であった。ここでまたしても不審が増えてしまった。何方か、私のこの波状的不審を解いては戴けまいか?

「秋田郡勝平山」現在の秋田県秋田市勝平(かつひら)地区。周辺(グーグル・マップ・データ)。ここに記された内容が事実なら、ネット上の検索に掛かってきてよさそうなものだが、ここから三十三間堂の梁材が供給されたという事実は出てこない。識者の御教授を乞う。]

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