譚海 卷之二 同國相馬文内事
○又同國藤ケ谷(ふじがや)村といふ所に、相馬文内といふ郷士あり。平の將門の子孫にて、相馬家へも親類にて往來す。その家に所持の幕、つなぎ馬の紋なるものは將門より傳來せるもの也。公儀よりも指上(さしあげ)候樣に命ありし處、一石にても御知行頂戴仕候はば差上申べく候、此より外に家の系譜無ㇾ之(これなき)候よし申立(まうしたて)、その事止(やみ)たりとぞ。此幕土用干せし折節、地頭そのそばを馬上にて通(とほり)たるに落馬せしとぞ。
[やぶちゃん注:「同國藤ケ谷村」同じくまたまた前話の続き。現在の千葉県柏市藤ケ谷か。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「相馬文内」不詳ながら、「ぶんない」と読んでおく。但し、柏市公式サイト内の「将門伝説と相馬氏」によれば、現在の柏市を含んだ中世の旧相馬郡を支配した相馬氏は、将門の子孫であるという伝承は良く知られているとある。相馬氏は下総国北西部(現在の千葉県北西部)及びその後に陸奥国南東部(現在の浜通り夜ノ森以北)を領した豪族で、始祖は桓武平氏良文流千葉氏庶流であった相馬師常。鎌倉初期の名武将千葉常胤の次男で父から相馬郡相馬御厨(みくり:現在の千葉県北西部の松戸から我孫子にかけての一帯)を相続したことに始まる。
「つなぎ馬の紋」杭に繫いだ馬を紋所として形象化したもの。相殿に将門を祀る東京都千代田区九段北にある神社築土(つくど)神社の公式サイト内の「(6)将門の繋ぎ馬(つなぎうま)」を参照されたい。将門が使用したという「繋ぎ馬」を描いた陣幕の画像もある。]
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