宿直草卷四 第二 年經し猫は化くる事
第二 年經(としへ)し猫は化くる事
其(その)以前、大坂の町奉行に嶋田の何某(なにがし)なん云ふ人、内(うち)は東(あづま)に居給へば、大坂には婢女(はした)もなく、情(なさけ)によるの添ひ臥(ぶし)も、願はくは、男ならで見ん、扈從(こせう)・茶堂(さだう)なれば、常(つね)の間(ま)、寢間(ねま)までも、伽(とぎ)とて、出入する者、多し。
或る夜、池田勾當(こうとう)といふ琵琶法師の訪(とふら)ひて、遊びも長き糸竹の、夜(よ)を籠(こ)めて侍るに、巡る盃とりどりに、數(かず)汲む霞(かすみ)程經(ほどへ)ぬれば、これらも暇(いとま)給はりて、次の間に臥すに、暫(しば)しして、勾當の連れし十二、三の小盲(こめくら)、
「扈從衆(こせうしゆ)。」
と聲して、氣疎(けうと)く、起こす。
痛(いた)ふ寢て誰も起きあへず。
越前殿、
「何事ぞ。」
と宣(のたま)へば、
「只今、襖、障子、三重(みへ)開(あ)けて、口(くち)の間(ま)より、此(この)間へ入(い)る者あり、見給へ。」
と云ふ。
「やれ。」
とて、人々、起きて、燭(しよく)振りて見るに、者、無し。
たゞ、手馴れし猫の、尾振りてあれども、宵より居(ゐ)まじきものにあらざれば、それに氣は付かず。
「いかい、寢言云(ねごとい)ひかな。」
と云ふ。
「確かに參りました。」
と云ふ。
「まだ言ふは。」
とて、頭、張り散らかし、
「生面倒(なまめんどう)な、眠(ねむ)きに。」
とて叱りければ、その分(ぶん)にして止みぬ。
ある時、越前殿、晝の寢覺めに、植込(うへご)みの方(かた)を見給ふに、かの猫、四つ、五つばかりの兒(ちご)の、帷子(かたびら)銜(くは)へ來(き)、それを着て立ちたり。とかくすと思ふうち、美しき姫(ひめ)に成りたり。
「さては小盲めが咎(とが)めしも、此(この)ものめにこそ。無理にてはなかりし。」
と得心(とくしん)し給ふに、高塀(たかへい)を飛(とび)越して外へ出(いで)ぬ。やがて歸るを待ち、木綿袋に入(いれ)、人に云ひ付け、天滿橋(てんまばし)に流し給ふ。人々、故(ゆへ)は知らず、
「良く鼠捕りし描にてさふらひしを。」
と、惜しみければ、右の事、語り給ひしと也。
『千歳(せんざい)の狐は美女と成り、百年の鼠は相卜(さうぼく)す』と經文に見えたり。年經し猫は「猫また」とも成るべし。猫も猫による歟(か)。
我家(わがいへ)に猫あり。鼠をも虎毛(とらげ)猫の捕りもせで、竈(かまど)の前に蟠(わだかま)つて無精(ぶせう)から、竈(へつゐ)の中の灰毛に呼ばれ、
「よしさら、無精者よ。」
と侮(あなど)れば、手白手白(てじてじ)と飛(とび)囘(まは)り、肴(さかな)を三毛(みけ)の盜み喰らひ、己(をの)が毛の斑(ぶち)に打(う)たれても、まだらまだらとまな板に向かひ、磨(みが)けど爪は無患子(むくろじ)か。黑猫の生れつきとて、白(しら)みもあへず蹲(つくば)ふは、細き眼(まなこ)に長髯(ながひげ)の、面倒にも侍る。また、形(かた)のごとく化粧(けはひ)ては、妻戸のもとに轉(ころ)び寢(ね)を、鼠鳴(ねずな)きの細々と、
「姫(ひめ)よ、乙(をと)よ。」
と呼ばれても、身をあらはねば、あか猫の、
「にやん。」
と鳴いたるむぐつけさ。頸玉(くびたま)のたまさかに、人を待つ夜の伽ともならず、炬燵(こたつ)を狹ばめて足を舐(ねぶ)り、あたら、また寢(ね)の夢を覺ますぞ、賞(ほ)めたけれども、うとましき。
かの半蔀(はしとみ)の翠簾(みす)ひく綱(つな)の、繫(つな)がる緣(えん)となりし袖は、げに、媒(なかだち)とも賴みつらん。あせらかせど、側(そば)へず、立居につけて、腰の拔けたる世を唐猫(からねこ)の風情(ふぜい)して、果ては、三味(しやみ)の皮(かは)になりて、何の咎(とが)にか、ばちは當たると、哀れなるもあめり。
[やぶちゃん注:「其(その)以前」本書は前話をほぼ確実に受け、概ね、何らかの連関性を意識的につけながら続いているところから、この「其」は前の「ねこまたといふ事」を受けた連続した「ねこまた」の夜伽話(第一話の冒頭の話者の謂いを参照のこと)という体裁をとっていると読む。しかもこの話柄内自体に夜伽衆が登場することからも、これは確信犯の物謂いであると私は読む。
「大坂の町奉行に嶋田の何某(なにがし)なん云ふ人」岩波文庫版で高田氏は、『家康家臣嶋田清左衛門か』とされる。「大坂町奉行」や呼称の「越前殿」から見てモデルは明らかに彼である。左衛門は通称で、本名は島田直時(元亀元(一五七〇)年~寛永五(一六二八)年)である。ウィキの「島田直時」より引く。『安土桃山時代から江戸時代初期にかけての旗本』で『大坂町奉行(初代西町奉行)を務めた。島田重次の三男』として『父の領していた三河国矢作城にて生まれ、父と同じく徳川家康に仕えた。小田原征伐に出陣し、九戸一揆では陸奥国岩出沢へ、文禄・慶長の役の際にも名護屋城まで付き従っている。関ヶ原の戦いでは父重次が預かっていた足軽五十名を率いて奮戦したことを評され』、慶長七(一六〇二)年には『鉄炮足軽三十名を預けられることになる』。『その後は父や兄弟たちと同じく代官として甲斐国内での活動が見られる。直時は日向正成(半兵衛)とともに代官頭大久保長安に代わり、徳川忠長領であった甲斐へ赴任する。編纂物においては島田・日向両名は大久保長安と同様に「国奉行」として支配にあたったとされるが、残存する文書からもこれは確認されている』。『大坂の陣に従』い、その後の元和二(一六一六)年、『父重次の足軽五十名を正式に引き継い』でいる。三年後の元和五年、『河内国交野郡森に領を得て、大坂町奉行(初代西町奉行)に任ぜられた』。寛永二(一六二五)年には従五位下越前守を叙任されている(ここでの呼称が正確な共時性を持つと考えるならば(実際にはそういう可能性はあまり高くない)この話はそれ以降とはなる)。さらに、寛永四(一六二八)年には『堺奉行も兼ねるなど、順調に出世を重ね、活躍を見せていた』が、翌寛永五(一六二八)年八月十日、江戸城内で起こった老中井上正就に対する刃傷事件に責任を感じ、二ヶ月後の十月七日に自刃してしまった。『これは直時の娘を老中井上正就の嫡子正利に嫁がせるという縁談話を春日局などによる圧力によって反故にされ』『た仲人豊島信満による、正就の殺害事件であ』ったという。本書は延宝五(一六七七)年の成立であるから、彼の死後からは四十九年後である。いや……或いは……この「猫また」の祟りででも……あったのかも……知れぬ…………
「内(うち)」妻。
「東(あづま)」江戸。
「婢女(はした)もなく」お側に仕える者にはまるっきり女っ気がなかったのである。読者の興味を怪談とは違った変な色気で以って無駄に引き延ばすやり方で、私は気に入らない。
「よるの」「情けに寄る」と「夜の添ひ臥(ぶし)」の糞掛詞。
「願はくは、男ならで見ん」嶋田何某にはあまり男色の嗜好はなかったらしい。
「扈從(こせう)」御小姓。武将の身辺に親しく仕え、諸々の雑用を担当した職。概ね、若年の者が就き、平時には秘書役をも勤めたが、戦時や火急の際には身を捨てて主君を守ることが主命であることから、一定水準以上の知識・作法・武芸を求められ、成長すると、主君の側近にスライドして行く者も多かった。また、主君とは若年時からの付き合いであるため、男色関係を伴うことも多かった。
「茶堂(さだう)」茶坊主。武将の身辺に付き添い、特に茶の湯の手配や給仕・来訪者の案内接待を初めとした家中のほぼあらゆる雑用に従事した職。帯刀せず、剃髪していたことから「坊主」と呼ばれたが、僧ではなく、武士階級に属する。やはり男色の対象ともなった。
「勾當(こうとう)」既出既注。
「糸竹」前後の詞の韻律構成から、ここは音読みの「シチク」ではなく「いとたけ」と読んでいる。狭義には「糸」は琴・三味線などの弦楽器、「竹」は笛・笙(しょう)などの管楽器で、和楽器、管弦の意であるが、ここは広義の音曲の意。言わずもがなであるが、前の夜伽の「遊び」が「長」く続く形容としての「いと」「長け」の糞掛詞ともなっている。
「霞(かすみ)」したたかに酌み交わす酒を神仙のネクターである「霞」に掛け、さらに酔いで眼がかすむ「程」に酒宴が「程經(ほどへ)ぬれば」、深夜に及んだというのであろう。ホラーの日常的前振りはなるべく簡潔に、ゴテゴテさせないのが優れた怪談の必須条件である。ここはグタグタした、しかも怪談とは無縁な思わせぶりの叙述が如何にも目障りである。
「痛(いた)ふ寢て誰も起きあへず」皆、酔っ払ってすっかり寝込んでしまっていて、起きないのである。全員、失格。聴きつけたのが奥の間の「越前殿」であるのは寧ろ滑稽でさえある。
「口(くち)の間(ま)」入口の間。なお、この、怖れて声を挙げたのが、視覚障碍者の少年であることに注意されたい。後の「無理にてはなかりし」注を参照されたい。
「やれ」感動詞。相手に対して呼び掛けたり、注意を促したりする際に発する。「おい!」「それっ!」。
「居(ゐ)まじきものにあらざれば」ここにもともと居なかったものではなかったので。夕刻から始まった夜伽の宴会に初めからこの猫はいたから不審に思われなかったというのである。
「いかい」中近世の口語。「嚴(いか)い」(形容詞「いかし」のイ音便)でここは皮肉を込めた「ご大層な」の意。
「確かに參りました」江戸前期で既にして現代語と全く同じ口語が使用されていたことがこの直接話法で判る。
「張り散らかし」したたかに何度も叩いて。
「生面倒(なまめんどう)な」「ええぇい! クソ面倒なガキじゃ!」。「なま」は名詞に付いて「十分でない・いいかげんなものであること・未熟で程度の劣ったものであること」を表わす。
「その分(ぶん)にして」その程度にあしらって。
「小盲め」「め」は人や動物を卑称する接尾語「奴(め)」。後の「ものめ」の「め」も同じい。
「無理にてはなかりし」勾当の連れていた弟子の視覚障碍者の少年が、目が見えぬにも拘わらず、異様に怖れたのも無理はないことだったのだ、と気づいたのである。いや、少年は(少年なれば酒もそうは過ごしていなかったであろうし)目が見えぬからこそ、他の感覚が研ぎ澄まされており、妖気を敏感に感じとっていたのである。
「天滿橋(てんまばし)」大阪府大阪市の大川に架かる(北区から中央区へ)の天満橋。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「故(ゆへ)は知らず」嶋田某がそうした理由が判らなかったから。
「『千歳(せんざい)の狐は美女と成り、百年の鼠は相卜(さうぼく)す』と經文に見えたり」こんなことが書かれている仏教経典は私は知らない。岩波文庫版で高田氏も「相卜す」の注で『不詳。うらないをする、の意か』とされておられる以上、高田氏もこんな経文は御存じないものと私は読む。但し、前の「千歳(せんざい)の狐は美女と成り」というのは、恐らく晋の郭璞(かくはく)の撰になる博物誌「玄中記」(散逸してしまい、後の佚文が「太平廣記」等に引かれて一部が残るのみ)に「千歲之狐爲淫婦、爲神巫」(千歲の狐、淫婦と爲(な)り、神巫と爲る)或いは別本では「狐五十歲能變化爲婦人、百歲爲美女」(狐、五十歳にして能く變化(へんげ)して婦人と爲り、百歳にして美女と爲る)とあり、また「千歳卽與天通爲天狐」(千歳、卽ち、天と通じて天狐と爲(な)す:狐は千年の年を生き永らえると、天の気と通じて「天狐」という妖狐となる)と記されているのや、明の謝肇淛(しゃちょうせい)撰の「五雜俎」の「卷九 物部一」に出る、「狐千歳始與天通、不爲魅矣」(狐、千歳せば、始めて天と通じ、魅(び)を爲さず:狐は千歳を超すと天の気と通じ、最早、人を化かしたり蠱惑したりしなくなる)とも書かれている(後者は「其魅人者、多取人精氣以成内丹。然則其不魅婦人、何也。曰、狐、陰類也、得陽乃成。故雖牡狐、必托之女。以惑男子也。然不爲大害、故北方之人習之。南方猴多爲魅、如金華家貓、畜三年以上、輒能迷人、不獨狐也。」(下線やぶちゃん)と続いており、千歳を過ぎて天に通じた狐というものは、その前の千年間、美女などに変じて人間の男から精気を吸い取った結果としてそうなると述べている)のを捩ったもののようには思われる。
年經し猫は「猫また」とも成るべし。猫も猫による歟(か)。
「我家(わがいへ)に猫あり」以下、荻田の怪談とは無縁の、いらぬ評言、というより、何だかなの風流「猫毛色尽くし」である。あんまりやる気にならんが、一応は注しておく。
「虎毛(とらげ)」「とら」に鼠を「捕ら」ぬを掛ける。
「竈(へつゐ)の中の灰毛」「かまど」と「へつひ」(歴史的仮名遣はこれが正しい)は同じ。韻律を遊ぶために換えただけ。「へっつい」だから「灰」が縁語となり、猫の毛色の「灰毛」を引き出す。
「よしさら」「ままよ! 本当に全く以って!」。
「手白手白(てじてじ)と」岩波文庫版の高田氏の注に、『ちょこまかと。なお』、『前足の毛の白い猫を「手白」といい、これをかけた語』とある。
「肴(さかな)を三毛(みけ)」魚を「見」つ「け」に毛色の「三毛」を掛ける。
「毛の斑(ぶち)」毛色に「打(ぶ)つ」を掛けて、下の「打(う)たれ」を引き出す(というかただの屋上屋の駄洒落に過ぎぬ。
「まだらまだらと」毛色の「斑(まだら)」に、未練たらしく、魚を料理した俎板の臭いのする前に居座って「だらだらと」と「向か」っている、という情景を掛ける。
「磨(みが)けど爪は無患子(むくろじ)か」岩波文庫版で高田氏は「無患子」にのみ注して、『ムクロジ科の落葉喬木。種子を追い羽根』(羽子板)の例の黒い『球に用いる。「黒」をかけた用語』とされておられる。ムクロジ目ムクロジ科ムクロジ属ムクロジ
Sapindus mukorossi。数珠の球にも用いる。ネット上の語源説として「無患子」は「患ひ無き子」の意であって本種子を用いる羽子板やその羽根が無病息災のお守りとされたことによるとまことしやかに書かれてはあるが、私は微妙にこの説には載れない気がしている。閑話休題。『「黒」にかけた』は猫の黒毛・黒猫のことを指すわけだが、しかし、これではこの全体の意味(掛けた意味)がすっきりと私には採れないのである。猫がその爪を磨いたとて、それは所詮、猫でしかなく、虎にはなれぬ、ただの黒猫とでも言いたいのか? 識者の御教授を乞う。
「白(しら)みもあへず」「黑猫の生れつきとて」で毛が白くなることもなく、の意であるが、やはりただのそれではない。実はここ、岩波文庫版では本文が『虱(しらみ)もあへず』とあるのである。「白(しら)み」に猫につきものの白い「虱」を掛けてあるわけである。
「鼠鳴(ねずな)き」鼠の鳴くような声を出すこと及びその声で猫所縁ではあるが、現在でも我々が猫や犬や鳥などを呼び招くのに出す「チョッチョッ」は「鼠鳴き」なのであり、ここでは鼠を喰らう猫を呼ぶのに「鼠鳴き」するというところを、まずは面白がっているのであろう。そうして実はさらに「鼠鳴き」には「女のもとに忍んで来た男などが女の家の家人らに知られぬように合図として発するところの「鼠の鳴き真似」をも言う語なのである。それが以下の処女の娘乙姫の「姫(ひめ)よ、乙(をと)よ。」と呼応するわけである。
「姫(ひめ)よ、乙(をと)よ」或いは江戸時代の猫の名前は「ひめ」「おと」(歴史的仮名遣はこちらが正しい)が一般的だったのかも知れない、などと私はこの台詞から妄想してしまった。
「身をあらはねば、あか猫の」「身を現はね」(ちっとも懐いて寄ってきて姿を現すこともない)「赤」毛の「猫」が表で、それに「身を洗はねば」、汚い「垢」だらけの「猫」の意を掛ける。
「むぐつけさ」濁音は原典のママ。原義は対象の実相や本性・心が判らず、不安な気持ちから生まれる「気味が悪い・恐ろしい」であるが、ここはそこから派生した「無骨である・むさくるしい・無風流だ」の意。ここまでで「毛色尽くし」は終り。
「頸玉(くびたま)」「首玉」。「くびったま」。犬・猫などの首に附ける首輪。
「たまさかに」「偶さか・適さか」で、ここは「滅多なことでは」。
「あたら」「可惜」と漢字を当て字したりする副詞。元々は「立派なものが相応に扱われていないのを惜しむ」の意で、基本、価値のあるものを失うことが惜しまれるさまを意味し、「残念なことに・惜しいことに・勿体なくも」などと訳される。ここで勿体ない対象は楽しい「夢」である。
「また寢(ね)」「又寝・復寝」。一度目を覚まして再び寝ること。ここは「転寝(うたたね)」の意であろう。
「賞(ほ)めたけれども、うとましき」飼っている猫ではあるから可愛くないことはなく、時には褒めてやりたく思うこともあるけれども、やっぱり、その総体の行動や動作は概ね不快を感じるのである、というのである。飼い主の勝手な謂いで総体、不快である。
「かの半蔀(はしとみ)の翠簾(みす)ひく綱(つな)の、繫(つな)がる緣(えん)となりし袖は、げに、媒(なかだち)とも賴みつらん」「源氏物語」の「若菜上」の柏木と女三宮の出逢いのシークエンスを言っている。光源氏が女三宮(十三か十四歳)を正式に妻として迎えた翌年(光四十歳)の三月、光の私邸六条院で蹴鞠が催され、柏木は女三宮の部屋辺りにいたが、偶然、彼女の飼っている唐猫が御簾を端から走り出た拍子に御簾が高く捲き上げられてしまい、柏木は彼女を垣間見強く惹かれてしまい、その夜、恋文を出してしまうのである(禁断の契りは次の「若菜下」で、この時の出逢いからは数年後)。その場面のみを引く。
*
御几帳どもしどけなく引きやりつつ、人氣近く世づきてぞ見ゆるに、唐猫のいと小さくをかしげなるを、すこし大きなる猫追ひ續きて、にはかに御簾のつまより走り出づるに、人びとおびえ騷ぎて、そよそよと身じろきさまよふけはひども、衣の音なひ、耳かしかましき心地す。
猫は、まだよく人にもなつかぬにや、綱いと長く付きたりけるを、物にひきかけまつはれにけるを、逃げむとひこしろふ[やぶちゃん注:引っ張る。]ほどに、御簾の側いとあらはに引き開けられたるを、とみにひき直す人もなし。この柱のもとにありつる人びとも、心あわたたしげにて、もの懼ぢしたるけはひどもなり。
几帳の際、すこし入りたるほどに、袿姿(うつきすがた)にて立ちたまへる人あり。階(はし)より西の二の間の東の側なれば、まぎれどころもなく、あらはに見入れらる。
紅梅にやあらむ、濃き薄き、すぎすぎに、あまた重なりたるけぢめ[やぶちゃん注:重ね着をしたその色の違い・変化。]、はなやかに、草子のつまのやうに見えて、櫻の織物の細長なるべし。御髮のすそまでけざやかに見ゆるは、糸をよりかけたるやうになびきて、裾のふさやかにそがれたる、いとうつくしげにて、七、八寸ばかりぞ餘りたまへる。御衣(おほんぞ)の裾がちに、いと細くささやかにて、姿つき、髮のかかりたまへる側目(そばめ)、言ひ知らず、あてにらうたげなり。夕影なれば、さやかならず、奧暗き心地するも、いと飽かず、口惜し。
鞠に身を投ぐる若君達(わかきんだち)の、花の散るを惜しみもあへぬけしきどもを見るとて、人びと、あらはをふともえ見つけぬなるべし。猫のいたく鳴けば、見返りたまへる面もち、もてなしなど、いとおいらかにて、若くうつくしの人やと、ふと見えたり。
*
但し、本文からも判るように、ここは「半蔀(はじとみ)」(蔀戸(しとみど:格子を組んで間に板を挟んだ戸。日光・風雨を完全に遮るための建具。普通は長押(なげし)から釣り、水平に撥ね上げて開き、鉤型の釣り金物で固定する)を上下二枚に分けて上半分を外側に撥ね上げて垂木から吊るようにしたもの)ではない。これでは猫は出られない。
「あせらかせど、側(そば)へず」岩波文庫版の高田氏の注に、『いじっても戯れ遊ばず、の意』とある。
「腰の拔けたる世を唐猫(からねこ)の風情(ふぜい)して」「世(よ)を」は「樣(やう)なるを」を掛けるか。猫の柔軟な肢体での立ち居は「腰が抜けたる樣」には見える。「唐猫」が難物であるが、これは中国から来た「唐猫」(事実、猫は中国から伝来する仏典の鼠害を防ぐために中国から帰化したものとされる。また、先に出た「源氏物語」の仲立ちとなるのも「唐猫」であった)に、「離(か)」る、人間に心から馴れ親しむことない感じのする猫から、「疎遠になる・心が離れる」の意を引き出し、そのまさに「猫また」的な現実離れした妖しい雰囲気から「世を離(か)」る、「時空間を隔てて離れる・遠ざかる・退き去る」で、異界の生物のような異様な「風情」、雰囲気を「して」いるという謂いか。或いはここも「源氏物語」の先の周辺部分と何か関係があるのか?(私はさる理由のあって「源氏物語」のあの辺りはちゃんと読んでいない)大方の御叱正を俟つ。
「ばちは當たる」三味線の「撥」と「罰」を掛ける。]