宿直草卷三 第五 山姫の事
第五 山姫(やまびめ)の事
ある牢人(らうにん)のいはく、
「備前岡山にありし時、山家(さんか)へ行(ゆき)て遊ぶ。其處(そこ)なる人の語りしは、
『殺生のために、ある時、太山(みやま)へ分け入(いり)しに、年のほど、廿(はたち)ばかりの女房、眉目(まみ)麗(みやびやか)にして世に類(たぐ)ふべきもなし、色珍しき小袖に、黑髮の尋常(よのつね)に艷(にほ)やかなるありさま、またあるべき人とも見えず。斯(か)かる生計(たつき)もしらぬ山中に、覺束なくも思ひければ、鐵砲取り直し、眞正中(まつたゞなか)を擊つに、右の手に是(これ)を取り、深見草(ふかみぐさ)の唇(くちびる)に尓乎(にこ)と笑(ゑ)めるありさま、猶、凄(すさま)じくぞ有(あり)ける。
さて、二つ玉にて藥(くすり)籠(こ)み、手前速く放(はな)つに、これも左の手につい取りて、さらぬ體(てい)に笑ふ。この時に、はや、手は盡くしぬ。如何(いかゞ)あらんと恐ろしく、急ぎて歸るに、追(をつ)かけもせず、歸りしなり。
その後(のち)、年長(とした)けたる人に語りしに、
『それは山姫(やまびめ)と云ふものならん。氣に入れば、寶など呉るゝと云ひ觸れり。』
と語る。
よしや、寶は貰(もらは)ずもあらなん。」。
[やぶちゃん注:「山姫」一般的なそれは私の「谷の響 一の卷 三 山婦」の冒頭注を参照されたいが、確かに色の白い美女として出現するものの、その多くは圧倒的に人の血を吸血したり、人を食ったりするおぞましい妖怪である。本話と強い親和性を感ずるものとしては、私は「想山著聞奇集 卷の參」にある「狩人異女に逢たる事」を挙げたい(場所は御嶽山の麓)。未読の方は是非、読まれたい。また、同じく私の「柴田宵曲 妖異博物館 山中の異女」の本文と私の注もすこぶる参考となろうとは存ずるので、お読みになられたい。また、本話の面白さは、妙齢の美女が何も語らず(先の「想山著聞奇集」の方のそれは、これ、すこぶるよく語り、殺生を諫めて狩人が出家させる動機を作り、同書の後の「卷の四 西應房、彌陀如來の來迎を拜して往生をなす事」の西応房はその元狩人であり、彼実に来迎を迎えて極楽往生したとする実録の附すのである。この山姫(のような山中の異女)さまさまなのである!)、撃った二度の鉄砲の弾丸を、右左の手でひょいと握り執ってしまうという“X-MEN”のクイックシルバー(Quicksilver)の原形みたようなところである。
「牢人(らうにん)」浪人に同じい。
「太山(みやま)」一般名詞。大山(たいざん)、大きな山で深山の意。
「覺束なく思ひければ」疑わしく不審に思ったので。
「深見草(ふかみぐさ)」ここは牡丹の異名。この妖女、よっぽど美しかったのであろう。
「尓乎(にこ)」底本は『爾乎』であるが、原典の表記(「爾」の異体字)で示した。
「よしや、寶は貰(もらは)ずもあらなん。」話者である浪人の感懐ととる。そんな鉄砲の弾を握り執ってしまうような何をどうされるか判らぬ妖怪からは、一時は好かれたとしても「たとえ、仮にも、迂闊に宝なんぞはゆめゆめ貰わぬがよかろうと思うた。」というのである。私は妙に納得した。]
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