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2017/07/21

柴田宵曲 續妖異博物館 「虎の皮」

 

 虎の皮

 

  虎が人になり、人が虎になる支那の話の中で、特に奇妙に感ぜられるのは虎が美人に化する話である。蒲州の人崔韜なる者、旅中仁義館といふところに宿る。館吏の話によると、この建物は惡い評判があつて、誰も宿泊せぬといふことであつたが、崔は構はずに一夜を明すことにした。夜の十時頃、突然門があいて、一疋の虎が入つて來たので、崔もびつくりして暗がりに身をひそめたが、虎は毛皮を庭に脱ぎ捨て、綺麗に著飾つた女子になつて上つて來た。相手が人間の姿になれば別にこはくもないから、一體獸になつて入つて來たのはどういふわけか、と尋ねた。女子はそれに答へて、願はくは君子怪しむことなかれ、私の父兄は獵師でありますが、家が貧しいために良緣を求めることが出來ません、それで夜ひそかにこの皮を被り、自分の生涯を托すべき人を待つてゐるのですが、皆恐怖して自ら命をなくしてしまふのです、今夜は幸ひにあなたのやうな方にお目にかゝることが出來ました、どうか私の志を聽き屆けて下さい、と云ふ。崔も係累のない獨身者であるから、二人の結婚は忽ち成立した。崔は例の毛皮を館の裏にあつた空井戸に投げ込み、匆々に女子を連れて立ち去つた。崔はその後官途に就いて次第に立身し、地方に赴任するに当當り、久しぶりで仁義館に一宿した。彼に取つては忘れ得ぬ記念の地なので、早速裏の空井戸に行つて見ると、投げ込んだ毛皮は依然としてもとのままに在る。そこで妻に向つて、お前の著物はまだあるよ、と云つたら、まだありますか、と云つて妻は眼を輝かしたが、人に賴んで井戸の底から取り出して貰つた。やがて妻は笑ひながら、私はもう一度これが著て見たいと云ひ、階下に下りて行つたかと思ふと、忽ちに虎に化して上つて來た。話はこれまでにして置きたいのであるが、一たび人間から虎に變つた以上は仕方がない。崔もその子も虎に食はれてしまつたと「集異記」に書いてある。

[やぶちゃん注:「蒲州」(ほしう)は現在の山西省にあったそれであろう。

「崔韜」「サイトウ」(現代仮名遣)と読んでおく。

 以上は「太平廣記」の「虎八」に「集異記」を出典として「崔韜」で載る。

   *

崔韜、蒲州人也。旅遊滁州、南抵歷陽。曉發滁州。至仁義舘。宿舘。吏曰。此舘凶惡。幸無宿也。韜不聽、負笈昇廳。舘吏備燈燭訖。而韜至二更、展衾方欲就寢。忽見舘門有一大足如獸。俄然其門豁開、見一虎自門而入。韜驚走、於暗處潛伏視之、見獸於中庭去獸皮、見一女子奇麗嚴飾、昇廳而上、乃就韜衾。出問之曰。何故宿餘衾而寢。韜適見汝爲獸入來、何也。女子起謂韜曰、「願君子無所怪。妾父兄以畋獵爲事。家貧、欲求良匹、無從自達。乃夜潛將虎皮爲衣。知君子宿於是舘。故欲託身、以備灑掃。前後賓旅、皆自怖而殞。妾今夜幸逢達人、願察斯志。」。韜曰、「誠如此意、願奉懽好。」。來日、韜取獸皮衣、棄廳後枯井中、乃挈女子而去。後韜明經擢第、任宣城。時韜妻及男將赴任、與俱行。月餘。復宿仁義舘。韜笑曰、「此舘乃與子始會之地也。」。韜往視井中、獸皮衣宛然如故。韜又笑謂其妻子曰、「往日卿所著之衣猶在。」。妻曰、「可令人取之」。既得。妻笑謂韜曰、「妾試更著之。衣猶在請。妻乃下階將獸皮衣著之纔畢。乃化爲虎。跳躑哮吼。奮而上廳。食子及韜而去。

   *]

 

 これとよく似た話は「原化記」にも出てゐる。旅中一宿した僧房に於て、十七八の美人を見ることは同じであるが、この方は虎になつたのを目擊したわけでなく、虎の皮をかけて熟睡してゐるに過ぎなかつた。この皮をひそかに取つて隱してしまひ、然る後その美人と結婚する。役人となつて地方に赴任し、また同じ僧房に宿るまで、「集異記」の話と變りはない。たゞこの女房は、主人公が往年の事を云ひ出したら、びどく腹を立てて、自分はもと人類ではない、あなたに毛皮を隱されてしまつた爲、已むを得ず一緒になつてゐるのだ、と云つた。その態度が次第に兇暴になつて、いくらなだめても承知せぬので、たうとうお前の著物は北の部屋に隱してある、と白狀してしまつた。妻は大いに怒り、北の部屋を搜して虎の皮を見付け出し、これを著て跳躍するや否や大きな虎になつた。全體の成行きから見ると、この方が悲劇に終りさうに見えるが、林を望んで走り去り、亭主が驚懼して子供を連れて出發することになつてゐる。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「虎二」に「原化記」を出典として「天寳選人」という題で載る。

   *

天寶年中、有選人入京、路行日暮、投一村僧房求宿。僧不在。時已昏黑、他去不得、遂就榻假宿、鞍馬置於別室。遲明將發、偶巡行院。至院後破屋中、忽見一女子。年十七八、容色甚麗。蓋虎皮。熟寢之次、此人乃徐行、掣虎皮藏之。女子覺、甚驚懼、因而爲妻。問其所以、乃言逃難、至此藏伏。去家已遠、載之別乘、赴選。選既就、又與同之官。數年秩滿、生子數人。一日俱行、復至前宿處。僧有在者、延納而宿。明日、未發間、因笑語妻曰、「君豈不記余與君初相見處耶。」。妻怒曰、「某本非人類、偶爾爲君所收、有子數人。能不見嫌、敢且同處。今如見耻、豈徒為語耳。還我故衣、從我所適。」。此人方謝以過言、然妻怒不已、索故衣轉急。此人度不可制、乃曰、「君衣在北屋間、自往取。」。女人大怒、目如電光。猖狂入北屋間尋覔虎皮。披之於體。跳躍數步、已成巨虎、哮吼囘顧、望林而往。此人驚懼、收子而行。

   *]

 

「河東記」に出てゐるのも、旅中風雪の夜にはじめて相見た少女と結婚する話で、夫妻唱和の詞などがあり、才子佳人の情話らしく思はれるのに、末段に妻の家に歸つたところで、壁に掛けた故衣の下から虎の皮を發見すると、妻は俄かに大笑し、あゝこれがまだあつたか、と云ひ、身に著けると同時に虎になつて咆哮し、門を衝いて去るとある。前に虎になることは勿論、虎の皮の事も全く見えぬ。最後に虎の皮を得て忽ち虎に化し去るのは、何だか取つて付けたやうで、少しく唐突の嫌ひがないでもない。

[やぶちゃん注:以上は「河東記」に出る「申屠澄」。

   *

申屠澄者、貞元九年、自布衣調補濮州什邠尉。之官、至眞符縣東十里許遇風雪大寒、馬不能進。路旁茅舍中有煙火甚溫煦、澄往就之。有老父嫗及處女環火而坐、其女年方十四五、雖蓬發垢衣、而雪膚花臉、舉止妍媚。父嫗見澄來、遽起曰、「客沖雪寒甚、請前就火。」。澄坐良久、天色已晚、風雪不止、澄曰、「西去縣尚遠、請宿於此。」。父嫗曰、「不以蓬室爲陋、敢不承命。」。澄遂解鞍、施衾幬焉。其女見客、更修容靚飾、自帷箔間復出、而閑麗之態、尤倍昔時。有頃、嫗自外挈酒壺至、於火前暖飮。謂澄曰、「以君冒寒、且進一杯、以禦凝冽。」。因揖讓曰、「始自主人。」。翁卽巡行、澄當婪尾。澄因曰、「座上尚欠小娘子。」。父嫗皆笑曰、「田舍家所育、豈可備賓主。」。女子卽囘眸斜睨曰、「酒豈足貴、謂人不宜預飮也。」。母卽牽裙、使坐於側。澄始欲探其所能、乃舉令以觀其意。澄執盞曰、「請徵書語、意屬目前事。」。澄曰、「厭厭夜飮、不醉無歸。」。女低鬟微笑曰、「天色如此、、歸亦何往哉。」。俄然巡至女、女復令曰、「風雨如晦、雞鳴不已。」。澄愕然嘆曰、「小娘子明慧若此、某幸未昏、敢請自媒如何。」。翁曰、「某雖寒賤、亦嘗嬌保之。頗有過客、以金帛爲問、某先不忍別、未許、不期貴客又欲援拾、豈敢惜。」。卽以爲托。澄遂修子婿之禮、祛囊之遺之、嫗悉無所取、曰、「但不棄寒賤、焉事資貨。」。明日、又謂澄曰、「此孤遠無鄰、又復湫溢、不足以久留。女既事人、便可行矣。」。又一日、咨嗟而別、澄乃以所乘馬載之而行。既至官、俸祿甚薄、妻力以成其家、交結賓客、旬日之、大獲名譽、而夫妻情義益浹。其於厚親族、撫甥侄、洎僮僕廝養、無不歡心。後秩滿將歸、已生一男一女、亦甚明慧。澄尤加敬焉。常作贈詩一篇曰、「一官慚梅福、三年愧孟光。此情何所喩、川上有鴛鴦。」其妻終日吟諷、似默有和者、然未嘗出口。每謂澄曰、「爲婦之道、不可不知書。倘更作詩、反似嫗妾耳。」。澄罷官、卽罄室歸秦、過利州、至嘉陵江畔、臨泉藉草憩息。其妻忽悵然謂澄曰、「前者見贈一篇、尋卽有和。初不擬奉示、今遇此景物、不能終默之。」。乃吟曰、「琴瑟情雖重、山林志自深。常尤時節變、辜負百年心。」。吟罷、潸然良久、若有慕焉。澄曰、「詩則麗矣、然山林非弱質所思、倘憶賢尊、今則至矣、何用悲泣乎。人生因緣業相之事、皆由前定。」。後二十餘日、復至妻本家、草舍依然、但不復有人矣。澄與其妻卽止其舍、妻思慕之深、盡日涕泣。於壁角故衣之下、見一虎皮、塵埃積滿。妻見之、忽大笑曰、「不知此物尚在耶。」。披之、卽變爲虎、哮吼拿攖、突門而去。澄驚走避之、攜二子尋其路、望林大哭數日、竟不知所之。

   *]

 

 虎の因緣の頗る稀薄な最後の話はしばらく除外するとして、「集異記」及び「原化記」の話は、一面に於て餘吾の天人以來の白鳥傳説を連想せしめると同時に、他の一面に於て「情史」の「情仇類」中の話と多少の連關を持つてゐる。鉛山に人あり、一美婦に心を寄せてゐたが、容易にその意に從はぬ。たまたまその夫が病氣になつた時、大雨の日の晦冥に乘じ、花衣兩翼を著け、雷神のやうな恰好をしてその家に到り、鐡椎を揮つて夫を殺してしまつた。今なら到底こんな事でごまかせるものではないが、當時は雷雨中の出來事だけに雷に打たれたものとして怪しまなかつたと見える。それから稍時間を置いて、人を介して結婚を申し込み、首尾よく本望を達し得た。夫婦仲も不思議に睦まじく一子を擧げた後、この前のやうな雷雨があつたので、男の方から一部始終を話し、もしあの時あゝいふ非常手段を執らなかつたら、お前を妻にすることは出來なかつたらう、と云つた。妻はさりげなく笑つて、その著物や翼は今でもありますか、と尋ねる。こゝにあると箱から出して見せたのが運の盡きで、妻は夫の外出を待ち、これを證據物件として官に訴へ、夫は申開きが立たず、死罪になつた。この話には妖味はないが、隱して置いた祕密を自ら持ち出した爲、運命の破綻に了ることは、前の虎の話と揆を一にしてゐる。

[やぶちゃん注:「餘吾の天人」「近江国風土記」に記載される現在の滋賀県長浜市にある余呉湖(琵琶湖の北方にある独立した湖。ここ(グーグル・マップ・データ))を舞台とした羽衣伝説の天人。この伝承では天女が衣を掛けるのは柳となっている。

「白鳥傳説」各地に伝わる天の羽衣伝説では天女はしばしば白鳥となって舞い降りて美女に変ずるところから、古来の倭武尊や浦島伝説に登場する「白鳥伝説」とも関連性が強く、聖鳥が本体とするならばこれは、以上のような虎が女となって人と交わる異類婚姻譚と同じ系に属すとも言え、実際、ウィキの「羽衣伝説」によれば、本邦の羽衣伝説は神話学上の「白鳥処女説話(Swan maiden)」系の類型と考えられており、これは『日本のみならず、広くアジアや世界全体に見うけられる』とある。

「情史」明末の作家で陽明学者の馮夢龍(ふうむりゅう 一五七四年~一六四六年)の書いた小説集「情史類略」のこと。

「情仇類」「じょうゆうるい」(現代仮名遣)と読んでおく。

 以上は同書の「第十四卷 情仇類」の「鉛山婦」。

   *

鉛山有人悦一美婦、挑之不從。乘其夫病時、天大雨、晝晦、乃著花衣爲兩翼、如雷神狀、至其家、奮鐵椎椎殺之、卽飛出。其家以爲真遭雷誅也。又經若干時、乃使人説其婦、求爲妻。婦許焉。伉儷甚篤。出一子、已周矣。一日、雷雨如初。因燕語、漫及前事、曰、「吾當時不爲此、焉得妻汝。」。婦佯笑、因問、「衣與兩翼安在。」。曰、「在某箱中。」。婦俟其人出、啓得之。赴訴張令。擒其人至、伏罪、論死。

   *]

 

 尤も虎皮を用ゐて虎に化する話は、決して女子に限るわけではない。女の虎になるといふ話が何だか不似合に感ぜられるので、先づその話を擧げて見たに過ぎぬ。王居貞なる者が洛に歸る途中、一人の道士と道連れになつた。この男は一日何も食はずにゐて、居貞が睡りに就いて燈を消すと、囊(ふくろ)の中から一枚の毛皮を取り出し、それを被つて出かけて行く。夜半には必ず歸つて來るので、或時居貞が寢たふりをして、いきなりその皮を奪つてしまつた。道士は頗る狼狽し、叩頭して返してくれといふ。君が本當の事を云へば返すよと云ふと、實は自分は人間ではない、虎の皮を被つて食を求めに出るのだ、何しろこの皮を被れば一晩に五百里は走れるからね、といふことであつた。居貞も家を離れて久しくなるので、ちよつと家に歸りたくなり、賴んでその皮を貸して貰つた。居貞の家は百餘里の距離だから、忽ちに門前に到つたが、中へ入るわけに往かぬ。門外に豕(ぶた)のゐるのを見て、たちどころに食つてしまひ、馳せ歸つて毛皮を道士に返した。家に戾つてから聞いて見ると、居貞の次男が夜、外へ出て虎に食はれたといふ。その日を勘定したら、正に居貞が毛皮を被つて行つた晩であつた(傳奇)。――我が子の見分けも付かなくなるに至つては、物騷でもあり不愉快でもある。虎皮を被ればおのづから虎心を生じ、眼前の動物が皆食糧に見えるのかも知れない。

[やぶちゃん注:「王居貞なる者が洛に歸る途中」原文を見ると判るが、「下第」で彼は科挙試を受けて落第して、消沈して帰る途中である。

「この男は一日何も食はずにゐて」原典では道士はそれを道術の「咽氣術だ」と述べたとする。

「五百里」何度も述べているが、中国唐代の一里は五百五十九・八メートルしかないが、それでも二百八十キロメートル弱となる。

「傳奇」は晩唐の文人官僚裴鉶(はいけい)の伝奇小説集で、唐代伝奇の中でも特に知られたもので、本書の名が一般化して唐代伝奇と呼ばれるようになったとも言われている。ここに出るのは「太平廣記」の「虎五」の「王居貞」。

   *

明經王居貞者下第、歸洛之潁陽。出京、與一道士同行。道士盡日不食。云、「我咽氣術也。」。每至居貞睡後、燈滅。卽開一布囊、取一皮披之而去、五更復來。他日、居貞佯寢、急奪其囊、道士叩頭乞。居貞曰、「言之卽還汝。」。遂言吾非人、衣者虎皮也、夜卽求食於村鄙中、衣其皮、卽夜可馳五百里。居貞以離家多時、甚思歸。曰、「吾可披乎。」。曰、「可也。居貞去家猶百餘里。遂披之暫歸。夜深、不可入其門、乃見一豬立於門外、擒而食之。逡巡囘、乃還道士皮。及至家、云、居貞之次子夜出、爲虎所食。問其日、乃居貞囘日。自後一兩日甚飽、並不食他物。

   *

原典では後からつけたように、最後に「王居貞が虎に変じて豚に見えた自分の子どもを食べた後は、一日二日の間、腹が一杯の状態であって何も食べなかった」という象徴的なカニバリズム・ホラーの駄目押しが行われいることが判る。]

 

 由來虎の話に關する限り、道士なる者が甚だ怪しいので、石井崖なる者が或溪のところへ來ると、朱衣を著けた一人の道士が靑衣の二童子を從へて石の上に居る。その量子に語る言葉を聞けば、わしは明日中に書生石井崖を食ふ筈になつてゐる、お前達は側杖を食つて怪我をするといかんから、どこかへ行つてゐた方がよからう、といふのであつた。井崖の眼には道士の姿が見えるが、道士は井崖のゐることに氣が付かぬらしいので、驚いて旅店に匿れ、幾日も外へ出ぬやうにしてゐた。たまたま軍人がやつて來て、お前は武器を携へて居りはせぬかと問ふ。井崖は道士の言を聞いて居るから、刀を出して軍人に渡し、自分は槍の穗先を拔いて懷ろに呑んで居つた。井崖が容易に出發せぬのを見て、頻りに追ひ立てようとする。已むを得ず宿を立つ段になつて、槍の穗先を竹に仕込み、恐る恐る出かけると、果して一疋の虎が路を要して居る。井崖は忽ちに捉へられたが、用意の槍を以てその胸を突き、途にこれを發した。前の二童子もどこからか現れ、この體を見て大よろこびであつたと「廣異記」にある。この話には虎の皮の事は見えぬが、多分井崖を襲ふ前には隱し持つた虎の皮を被つて一躍咆哮したことであらう。「解頤錄」に見えた石室中の道士のやうに、已に九百九十九人を食ひ、あと一人で千人に達するといふ、五條橋の辨慶のやうな先生も居る。この道士は架上に虎の皮をひろげて熟睡してゐたといふから、道士だと云つて油斷は出來ない。道士を見たら虎と思へといふ諺、どこかにありはせぬかと思はれるくらゐである。

[やぶちゃん注:「解頤錄」(かいいろく)は唐代伝奇の一つで包湑(ほうしょ)作とするが疑わしい。

最初の話は「太平廣記」「虎七」に「廣異記」からとして「石井崖」で出る。

   *

石井崖者初爲里正。不之好也、遂服儒、號書生、因向郭買衣、至一溪、溪南石上有一道士衣朱衣、有二靑衣童子侍側。道士曰。「我明日日中得書生石井崖充食、可令其除去刀杖、勿有損傷。」。二童子曰、「去訖。」。石井崖見道士、道士不見石井崖。井崖聞此言驚駭、行至店宿、留連數宿。忽有軍人來問井崖。莫要携軍器去否。井崖素聞道士言、乃出刀、拔鎗頭、懷中藏之。軍人將刀去、井崖盤桓未行。店主屢逐之、井崖不得已、遂以竹盛却鎗頭而行。至路口、見一虎當路。徑前躩取井崖。井崖遂以鎗刺、適中其心、遂斃。二童子審觀虎死。乃謳謌喜躍。

   *

この話、幾つかの意味不明な箇所が却って話を面白くさせているように私には思われる。まず、井崖には道士が見えたのに、道士には見えなかった点で、これは逆に井崖にこそ仙骨があることの暗示であろう。武器を取り上げた軍人は道士の変じたものであろうが、さても意外な展開で虎が斃されると、例の青衣の二童子が出て来て大喜びする辺りには、道士の弟子は師匠が死なないと、真の仙道修行が出来ないのであろうと私は推測するものである。なお、これと、次の話を読むに、羽化登仙するレベルの低い手法の中には、実は一定数の人間を喰うというカニバリズムによるそれが存在したことがよく判ってくる

   *

 後者は「太平廣記」の「虎一」に「峽口道士」として載る。

   *

開元中、峽口多虎、往來舟船皆被傷害。自後但是有船將下峽之時、即預一人充飼虎、方舉船無患。不然。則船中被害者衆矣。自此成例。船留二人上岸飼虎。經數日、其後有一船、皆豪強。數有二人單窮。被衆推出。令上岸飼虎。其人自度力不能拒、乃爲出船、而謂諸人曰、「某貧窮、合爲諸公代死。然人各有分定。苟不便爲其所害。某別有懇誠、諸公能允許否。衆人聞其語言甚切。爲之愴然。而問曰、「爾有何事。」。其人曰、「某今便上岸、尋其虎蹤、當自別有計較。但懇爲某留船灘下、至日午時、若不來、卽任船去也。衆人曰。我等如今便泊船灘下、不止住今日午時、兼爲爾留宿。俟明日若不來、船卽去也。」。言訖、船乃下灘。其人乃執一長柯斧、便上岸、入山尋虎。並不見有人蹤。但見虎跡而已。林木深邃、其人乃見一路、虎蹤甚稠、乃更尋之。至一山隘、泥極甚、虎蹤轉多。更行半里、卽見一大石室、又有一石床、見一道士在石床上而熟寐、架上有一張虎皮。其人意是變虎之所、乃躡足、于架上取皮、執斧衣皮而立。道士忽驚覺、已失架上虎皮。乃曰、「吾合食汝、汝何竊吾皮。其人曰、「我合食爾、爾何反有是言。二人爭競、移時不已。道士詞屈、乃曰、「吾有罪于上帝、被謫在此爲虎。合食一千人、吾今已食九百九十九人、唯欠汝一人、其數當足。吾今不幸、爲汝竊皮。若不歸、吾必須別更爲虎、又食一千人矣。今有一計、吾與汝俱獲兩全。可乎。其人曰、「可也。」。道士曰、「汝今但執皮還船中、剪髮及鬚鬢少許、剪指爪甲、兼頭面脚手及身上、各瀝少血二三升、以故衣三兩事裹之。待吾到岸上、汝可抛皮與吾、吾取披已、化爲虎。卽將此物抛與、吾取而食之、卽與汝無異也。」。其人遂披皮執斧而歸。船中諸人驚訝、而備述其由。遂於船中、依虎所教待之。遲明、道士已在岸上、遂抛皮與之。道士取皮衣振迅、俄變成虎、哮吼跳躑。又衣與虎、乃嚙食而去。自後更不聞有虎傷人。衆言食人數足。自當歸天去矣。

   *]

 

 かういふ道士の顏觸れを見來つて、「聊齋志異」の向杲の話を讀めば、何人も自ら首肯し得るものがあらう。向は今までの話と違ひ、莊公子なる者に兄を殺され、常に利刀を懷ろにして復讐を念願としてゐる。先方もこれを知つて、焦桐といふ弓の名人を雇ひ、警衞に怠りないので、容易につけ入る隙がないけれど、なほ初一念を棄てず、あたりを徘徊してゐると、一日大雨に遭つてずぶ濡れになり、山の上の廟に駈け込んだ。こゝに居る道士の顏を見れば、嘗て村に食を乞うた時、向も一飯を饗したおぼえがある。道士の方でも無論忘れては居らぬ。褞袍(どてら)のやうなものを出して、濡れた著物の乾くまで、これでも着ておいでなさいと云つてくれた。總身の冷えきつた向は、犬のやうにうづくまつてゐたが、身體が暖まるにつれてとろとろとしたかと思ふと、自分はいつの間にか虎になつてゐた。道士はどこへ行つたかわからない。この時莊公子の事が灼き付くやうに心に浮んで、向は虎になつたのを幸ひに、敵を嚙み殺してやらうと決心した。山上の廟へ飛び込む前、自分の隱れてゐたところに來て見たら、自分の屍がそこに橫はつてゐる。はじめて自分は已に死に、後身が虎になつたものとわかつたが、自分の屍を鳶鴉の餌にするに忍びないので、ぢつとそれを守つてゐるうちに、思ひがけなくも莊公子がそこを通りかゝつた。虎は跳躍して馬上の莊公子を襲ひ、その首を嚙み切つたが、護衞の焦桐は一矢を放ち、あやまたず虎の腹に中(あた)つた。向は再び昏迷に陷り、夢の醒めるやうに氣が付いた時は、もとの人間に還つてゐた。夜が明けて家に帰ると、向杲の幾日も歸らぬのを心配してゐた家人は、よろこんで迎へたけれど、彼は直ぐ橫になつて何も話をしない。莊公子の虎に襲はれた噂は間もなく傳はつた。向は初めてその虎は自分だと云ひ、前後の事情を話した。莊の家ではこの話を傳聞して官に訴へたが、役人は妄誕として取り上げなかつた。道士の消息は更に知られて居らぬ。彼は向に一飯の恩を受けてゐたのだから、向が敵討の志願を懷いてゐることは、勿論承知だつたに相違ない。向に貸した褞袍は何であつたか。貸し手が道士だけに、もしこれが虎の皮であれば、首尾一貫するわけであるが、「聯肅志異」はたゞ「布袍」とのみ記してゐる。道士は平生この布袍によつて虎と化してゐかどうか、その邊は更に證跡が見當らぬけれど、彼は漫然この布袍を貸し、向杲は測らず虎になつたたものとは考へにくい。虎に化して敵を斃した後、虎に死し人に蘇る經緯は、すべて道士の方寸に出たらしく思はれる。

[やぶちゃん注:「向杲」「コウコウ」(現代仮名遣)と読んでおく。

「焦桐」「ショウトウ」(同前)と読んでおく。

 以上は「聊齋志異」の「第六卷」の「向杲」。

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向杲字初旦、太原人。與庶兄晟、友于最敦。晟狎一妓、名波斯、有割臂之盟、以其母取直奢、所約不遂。適其母欲從良、願先遣波斯。有莊公子者、素善波斯、請贖爲妾。波斯謂母曰、「既願同離水火、是欲出地獄而登天堂也。若妾媵之、相去幾何矣。肯從奴志、向生其可。」。母諾之、以意達晟。時晟喪偶未婚、喜、竭貲聘波斯以歸。莊聞、怒奪所好、途中偶逢、大加詬罵。晟不服、遂嗾從人折箠苔之、垂斃、乃去。杲聞奔視、則兄已死。不勝哀憤。具造赴郡。莊廣行賄賂、使其理不得伸。杲隱忿中結、莫可控訴、惟思要路刺殺莊。日懷利刃、伏於山徑之莽。久之、機漸洩。莊知其謀、出則戒備甚嚴、聞汾州有焦桐者、勇而善射、以多金聘爲衞。杲無計可施、然猶日伺之。一日、方伏、雨暴作、上下沾濡、寒戰頗苦。既而烈風四塞、冰雹繼至、身忽然痛癢不能復覺。嶺上舊有山神祠、強起奔赴。既入廟、則所識道士在内焉。先是、道士嘗行乞村中、杲輒飯之、道士以故識杲。見杲衣服濡、乃以布袍授之、曰、「姑易此。」。杲易衣、忍凍蹲若犬、自視、則毛革頓生、身化爲虎。道士已失所在。心中驚恨。轉念、得仇人而食其肉、計亦良得。下山伏舊處、見己尸臥叢莽中、始悟前身已死、猶恐葬於烏鳶、時時邏守之。越日、莊始經此、虎暴出、於馬上撲莊落、齕其首、咽之。焦桐返馬而射、中虎腹、蹶然遂斃。杲在錯楚中、恍若夢醒、又經宵、始能行步、厭厭以歸。家人以其連夕不返、方共駭疑、見之、喜相慰問。杲但臥、蹇澀不能語。少間、聞莊信、爭即牀頭慶告之。杲乃自言、「虎卽我也。」。遂述其異。由此傳播。莊子痛父之死甚慘、聞而惡之、因訟杲。官以其事誕而無據、置不理焉。

異史氏曰、「壯士志酬、必不生返、此千古所悼恨也。借人之殺以爲生、仙人之術亦神哉。然天下事足髮指者多矣。使怨者常爲人、恨不令暫作虎。」。

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例によって柴田天馬氏の訳を掲げておく。一部の読みは省略した。

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 向杲

 

 向杲は字を初旦と言って、大原の人だった。腹違いの兄にあたる晟(せい)と友于最敦(たいそうなかがよ)かったが、晟には波斯(はし)という狎(なじ)みの一妓(おんな)があって、割臂之盟(ふかいなか)だつたが、女の母親が高いことを言うので、二人の約束は遂げられずにいた。

 そのうちに、女の母親は、堅気になろうという気がでたので、まず渡斯を、どこへかやりたいと願っていると、前から波斯と心やすくしていた荘という家の公子が、身受けをして妾にしたいと言ってきたので、波斯は母に言った、

 「あたしも、いっしょに苦界を出ようと願ってるんだわ! 地獄を出て天堂に登ろうというんだわ! 妾になるんだったら、今と、たいして違わないじゃないの? あたしの願いをいれてくださるんだったら、向さんが、いいのよ」

 母が承知したので、晟に考えを知らせると、晟は妻をなくしてまだ結婚しない時だったから、ひどく喜んで財布をはたき、波斯を聘(めと)って帰ったのであった。

 荘はそれを聞くと、晟が好きな女を取ったと言って怒った。そして、あるとき、途中で晟に会い、たいそう晟を罵ったが、晟が、あやまらないので、供のものに言いつけ、箠(むち)の折れで、ひどく、なぐらせ、晟が死にそうになったのをみて、行ってしまった。

 それを聞いて杲が駆けつけたときには、兄は、もう死んでいた。杲はたらなくかなしかった。腹だたしくもあった。で、すぐ郡に行って訴えたが、荘は広く賄賂をおくって、その理くつを通らないようにした。杲は、くやしいとは思うけれど控訴するみちがないので、待ち伏せをして荘を刺し殺そうと思い、毎日、利刃(わざもの)を懷(の)んで山路の草むらに隠れている、その秘密が、だんだん漏れて、荘は彼の謀(たく)みを知り、出るときには、厳しい戒備(そなえ)をつけていた。そして汾州の焦桐と小う弓の上手な勇士に、たくさんな金をやって、焦を呼び迎え、護衛の一人としたため、呆は手が出せなくなったが、それでも、なお毎日ねらっているのだった。

 ある日、ちょうど、かくれているときだった。雨が、にわかに降ってきたので、ずぶぬれになり、寒さに苦しんでいるうちに、ひどい雨が、いちめんに吹き起こったと思うまもなく、続いて、あられが降ってきた。呆は忽々然(うつとり)して、痛いとか、かゆいとかいう覚えが、もうなくなったのであった。

 嶺の上には、古くから山神の祠があった。呆は強(むりや)りに走って行き、やがて廟にはいると、そこには所識(なじみ)の道士がいた。前であるが、道士がかつて村に乞いに行ったとき、呆は道士に食べさしてやったことがあるので、道士は杲を知っていた。で、杲が、ぬれねずみになってるのを見ると、布の(もめん)の袍(うわぎ)をわたし、

 「とにかく、これと易(か)えなされ」

 と言うので、杲は、それと着かえ、寒さをこらえながら、犬のように、うずくまっていたが、見ると、たちまち毛が生えて、からだは虎になっていた。道士は、もう、いなかったのである。

 杲は、心の中で驚きもし恨みもしたけれど、仇人(かたき)をつかまえて、その肉を食うには都合がよいと思いかえし、峰を下りて、もと隠れていた所へ行って見ると、自分の死骸が草むらの中に臥(ふせ)っていた。で、やっと前身は、もう死んだのだと悟り、烏や鳶の腹に葬られるのが心配だったから、ときどき見まわって守っていた。

 趣日(あくるひ)、ちょうど荘がそこを通ると、たちまち虎が出て、馬上の荘をたたき落とし、首を齕(か)みきって飲んでしまった。焦桐が、とって返して射った矢が、虎の腹にあたって、虎は、ぱったり倒れた。と、杲は在錯楚中(はやしのなか)で、うっとりと目がさめた。そして、ひと晩すぎて、やっと歩けるようになり、厭々(ぶじ)に帰って来たのだった。

 家のものはみんな杲が幾夜も帰らないのを心配しているおりからだったので、彼を見ると、喜んで、慰めたり、たずねたりしたが、呆は、ただ臥(ね)ているはかりで、口がきけなかった。

 しばらくしてから、荘のたよりを聞いて、みんなは枕もとに来て争(われさき)に話して聞かせた。で、杲は、

 「虎は、おれさ!」

 と言って、ふしぎなことを、みんなに話した。それが伝わったので、父の死を痛み嘆いていた荘のせがれは、それを聞くと悪(くや)しがって、杲を訴えたが、役人は事がらが誕(ばから)しいうえに拠(よりどころ)がないので取りあわなかった。

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天馬氏がカットした蒲松礼齡の評言は、

――「壯士、酬ひんと志ざさば、必ず、生きては返らず」とは、千古の昔より、人々に如何とも言い難いやるせない思いをさせてきた所のものである。人が誰かを殺すのに手を貸した上、以ってその人の生命(いのち)をも救ったとは、その仙人の術、これ、なんとまあ、神妙なものであることか! それにしても、この世には怒髪天を衝くが如き痛憤なる出来事が実に多い。怨みを懐かさせられる者は、これ、いつも人間なのであって、仮に暫しの間でさえも虎となれぬことを恨めしく思うことであろう。――

といった意味である(訳には平凡社の「中国古典文学大系」版の訳を一部、参考にさせて貰った。]

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