宿直草卷四 第十七 蛇をうむ女の事 / 宿直草卷四~了
第十七 蛇(へび)をうむ女の事
河内若江の庄に、ある侍の妻、産をするに、取り上げ見れば、袋なり。中に數限りなき蛇、あり。
面(おも)なかりければ、湧きかへる湯にいれ、
「子は死したり。」
と云ふ。
その後、また、懷妊す。この度(たび)もまた如何あらんと、かねて案ずるに、果して右のごとし。これも深く包みけり。いかなる報ひぞやと人知れぬ泪、白玉か何ぞと人の問ふまで、せり。
歳月ほど經て、また、たゞならぬ身となりければ、婦(をんな)、うち泪ぐみて、年古き人に語りければ、老人(おいびと)のいはく、
「聊(いさゝ)か聞き侍る事あり。三輪の神の見入れし女は、蛇を産むもの也。御身、眉目(まみ)麗(うるは)し。此度(このたび)も、さあらん。隱すに依りて來たります。人の行きかふ巷(ちまた)に曝(さら)せ。高札立てゝ諸人(もろびと)に見せよ。重ねてはさあらじ。」
と云ふ。
案の如く、また袋を産みて蛇あり。やがて老人の教へのごとくす。
その後(のち)、まふけたる子は、親に似たる人にてぞありける。
かやうの事、聞き置くべきをや。又、故實なり。
ちはやふる神も願ひのある故に、人の情(なさけ)によりしかど、げにや、契りも恥づかしの、洩りて餘所(よそ)にも聞えしかば、通ふも今宵ばかりに思(おぼ)しけめ。宮居のしるしも過ぎし代(よ)ならで、今もかゝる事、はんべり。
[やぶちゃん注:これは二つ前の「第十五 狐、人の妻に通ふ事」で武士の妻が夫に化けた狐と四度交接し、四匹の狐の子を生む奇譚から隔世的に連関する。異類婚姻譚は数あれど、婦人が狐そっくりの子を四体まで産み、懐妊するつど、武士の奥方が袋状のものに入った無数の蛇を産むというのは、これ、他では滅多にお目にかかれぬ。そうしたかなり猟奇的新奇さで二匹目の泥鰌を狙った感は拭えない。にしても、先の話柄が妖狐の変身した贋夫との交接が四度行われ、四匹の狐様胎児を出産したという一応の、額縁としての物理的論理立てがなされているのに対し、こちらは三度の蛇玉出産に対応する三輪の神との神人交合が全く描かれていない(多分、夢の中なのであろうが)のが私には非常に不満である。
なお、中身が蛇というのを、髪の毛の塊りなどを誤認したものとするならば、医学的には「卵巣成熟嚢胞性奇形腫」で腑には落ちる。
「河内若江の庄」河内国若江郡。現在の大阪府河内市内の若江を冠する地名のある一帯。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「面(おも)なかりければ」奇怪にして、恥ずかしく面目ないことであったので。ちょっと気になるのは、この後の湧き返る熱湯に囊ごとつけて無数の蛇を殺して「子は死したり」と世間に言ったのは誰か、という点である。夫である武士が前の狐の話の時のように、産婆と口裏を合わせてかくしたというのが現実的ではあるが、そうして妻にも「子は死産だった」と告げて真相を言わなかったとすると、次の段落の二度目の蛇玉出産とその後の描写、及び三度目の懐妊と展開がうまく繫がらなくなってしまうからである。婦人には少々残酷であるが、一度目のそれで事実は妻に告げられたもの解してこそ、後がスムースに読めるのである。
「これも深く包みけり」今回も世間に対しては死産或いは流産として深く包み隠したのであった。
「いかなる報ひぞやと人知れぬ泪」ここが問題の箇所で、この涙を流すのはやはり妻自身でなくてはおかしいのである。そうして、事実は夫と産婆ぐらいしか知らぬから、他人は、「不幸にも二度も死産・流産であったとはいえ、かの御夫人がそれを気に病むことはなかろう……おや? 御夫人、お美しいそのお顔に光っておりますのは何でしょう? 光る白玉か何かがお顔にくっついつおられますよ。」などと不思議がるのである。婦人が人に言えぬ忌まわしい出産の秘密に、隠れて悲哀の涙にくれていることを夢にも知らぬ人々には、まさか、それが激しい絶望的な悲しみから落ちる涙の「玉」であるとは、とてものことに思い至らぬのである。
「三輪の神」、奈良県桜井市にある三輪山(標高四六七・一メートル)の神。記紀には最も古い伝承の一つとして三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)の伝説が載る。それは活玉依姫(いくたまよりびめ)という美しい娘の元に夜な夜な男が訪れ、遂に姫は身籠る。男性の正体が判らなかったことから、着物の裾に麻糸の附いた針を刺してその跡を辿ることとした。翌朝、麻糸は戸の鍵穴を通り抜けて、三輪山の大物主神の社に留まっていた(この時、麻糸が三巻分、残っていたことからこの地を「三輪」と名づけたともされる)という話であるが、大物主は一般に豊穣・疫病除・醸造などの神として篤い信仰を集め、穀物を食害する鼠を捕食する蛇は太古の昔より五穀豊穣の象徴とされてきたことから蛇体の神とされ、同様に稲作に不可欠な治水を司る水神としては龍体の神ともされた。
「隱すに依りて來たります。人の行きかふ巷(ちまた)に曝(さら)せ。高札立てゝ諸人に見せよ。重ねてはさあらじ」というこの個別な呪法が、如何なる意味合いによって説明されるのかは私は不学にして判らぬが、現在でも出産した奇形児を神の託宣のシンボルとして崇める習俗は世界の一部に根強く残っているし、生まれたということを暴露し公言する(言上げする)ことによって、「ハレ」の「蛇玉」自動再生システムが停止し、この婦人が「ケ」たる現実の日常の時空に帰還出来、正常な美しい子を生む、という構造も、世界中の神話や民話の古層に残る原形的パターンであるとは言える。そうした核心の作用や理由は人知を越えているのであるが、しかし確かにそのようなことは安全で平和な状態を取り戻したり、維持したりするのに不可欠な「故實」(お定まりのこと)なのであるし、そのような「事」は総てを解明出来なくとも厳然たる事実として存在するのであり、いいかげんに聞き流してしまってはいけない、しっかりと「聞き置くべき」、子孫に永く伝えるべき一件なのである、と筆者は言っているのであろう。但し、最終部分は、それを、人間に引き下げて敢えて洒落て言おうとした結果、「ちはやふる神も」「願ひのある」存在らしい、だから「人の情(なさけ)に惹かれてついつい「より」(寄る/憑る)ついてきてしまったけれど、「げにや契りも恥づかしの」(いやはや、恥ずかしい密やかな交わりをすれば、神であってもお恥ずかしや、相応なる子をも出来てしまう)、それが「洩」れて世間に知れ渡ってしまって神さまも流石に恥ずかしくなり、「通ふも今宵ばかりに」こそ「思(おぼ)しけめ」なんどとやらかした結果、またまた話柄のホラー・リアリズムがすっかり殺ぎ落とされてしまった感がある。
「宮居のしるしも過ぎし代ならで、今もかゝる事、はんべり」神が我々人間にお示しになられる諸々のことは、必ずしも神々が生き生きとあった過ぎた御世だけのことではなく、今のこの現代にも、こうした不思議なことは往々にしてあることなのであるということをよく理解しておくべきである。]