柴田宵曲 續妖異博物館 「打出の小槌」
打出の小槌
日本に行はれる打出の小槌は、「支諾皐」に見えた新羅國の話が出典であらう。山上の月夜に紅衣の小兒が集まつて遊ぶうちに、お前は何が欲しいかと云ひ、酒が欲しいと答へると、一つの金錐を以て石を擊つ。樽に入つた酒をはじめ、酒を飮むのに必要なものが直ちに出る。おれは何か食ひたいと云へば、また錐で石を擊つて山海の珍味を出す。暫く飮食した後、どこかへ行つてしまつた。金錐が石の割れ目に插してあるのを見て持ち歸り、欲しいものを片端から打ち出して大變な金持になつた、といふのである。日本ではキリの場合に錐の字を用ゐるので、ちょつと感じが出ないが、張良が壯士を雇つて博浪沙に投ぜしめた鐡椎の類である。「御伽厚化粧」がこの話を取り入れた時も、標題は「福德擊出椎」となつてゐるが、本文には金槌と書いてある。
[やぶちゃん注:
以上は「酉陽雜俎」の「續集卷一 支諾皋上」の冒頭に出る話であるが、宵曲はイントロダクションをカットしてしまっているために話がよく判らなくなってしまった感がある。この話の主人公は新羅国の最高の貴族階級の男の祖先であった、旁㐌(ぼうい)という人物である。大事にしていた、たった一本の穀物の穂を加えて飛んで行ってしまった鳥を追って㐌は山中に向かった。そこで夜半に目撃するのが、以上のシークエンス(以下の下線太字で示した箇所)なのである。その赤い衣を着た小児が別の小児に訊ねるのを岩の窪みから眺め、その魔法の錐を㐌が手に入れるのである。
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新羅國有第一貴族金哥。其遠祖名旁㐌、有弟一人、甚有家財。其兄旁㐌因分居、乞衣食、國人有與其隙地一畝、乃求蠶穀種於弟、弟蒸而與之、㐌不知也。至蠶時、有一蠶生焉、目長寸餘、居旬大如牛、食數樹葉不足。其弟知之、伺間殺其蠶。經日、四方百里內蠶飛集其家。國人謂之巨蠶、意其蠶之王也。四鄰共繰之、不供。穀唯一莖植焉、其穗長尺餘。旁㐌常守之、忽爲鳥所折銜去。旁㐌逐之上、山五六里、鳥入一石罅、日沒徑黑、旁㐌因止石側。至夜半、月明、見群小兒赤衣共戲。一小兒云、「爾要何物。」。一曰、「要酒。」。小兒露一金錐子、擊石、酒及樽悉具。一曰、「要食」。又擊之、餠餌羹炙羅於石上。良久、飲食而散、以金錐插於石罅。旁㐌大喜、取其錐而還。所欲隨擊而辦、因是富侔國力。常以珠璣贍其弟、弟方始悔其前所欺蠶穀事、仍謂旁㐌、「試以蠶穀欺我、我或如兄得金錐也。」。旁㐌知其愚、諭之不及、乃如其言。弟蠶之、止得一蠶如常蠶、穀種之復一莖植焉。將熟、亦爲鳥所銜。其弟大悦、隨之入山。至鳥入處、遇群鬼、怒曰、「是竊予金錐者。」。乃執之、謂口、「爾欲爲我築糠三版乎。欲爾鼻長一丈乎。」。其弟請築糠三版。三日饑困、不成、求哀於鬼、乃拔其鼻、鼻如象而歸。國人怪而聚觀之、慚恚而卒。其後子孫戲擊錐求狼糞、因雷震、錐失所在。
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この話を、南方熊楠は「鳥を食うて王になった話」と「一寸法師と打出の小槌」で採り上げ、「鬼の瘤取の物語の根本らしい、と古人は論じた」と述べ、その呪具としての打出の小槌はインド由来ではないか、としている。しかし、この話、展開の後半は「打出の小槌」よりも、「瘤取り爺さん」とよく似ているように私には思われてならない。
「金錐」金で出来た玄能。
「張良が壯士を雇つて博浪沙に投ぜしめた錢椎」張良は始皇帝を暗殺するために怪力の壮士倉海公を雇い、博浪沙の砂中に鉄製の大きなハンマーを埋めさせておき、行幸の列が目の前に来た際、彼にそれを投げさせた。馬車は木端微塵に粉砕されたが、それはダミーで始皇帝は載っていなかったというエピソードに出る、恐ろしく重い巨大な金槌(かなづち)のことである。
「御伽厚化粧」「福德擊出椎」同書の掉尾にある。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから画像で視認出来る。]
打出の小槌の事は京傳が種々の文獻を渉獵して「骨董集」に擧げてゐる。後には大黑樣に附きもののやうになつてしまつたけれど、狂言では蓬萊の嶋なり鬼ガ嶋なりに住む鬼の寶物の中にあり、一寸法師なども鬼が逃げ去つた後、この小槌を自分の物にしたのだから、古くは鬼に所屬してゐたのかも知れぬ。笑話とも童話ともつかぬ「こめくら」の話――或人が打出の小槌を獲て、人の尚ぶところは食住である、先づ米庫を打ち出さうとし、頻りに米庫米庫と唱へて打つたところ、二三尺ぐらゐの小盲(こめくら)が陸續と現れるのに困惑し、小槌を棄てて逃げ去つたといふ話は、「甲子夜話」續篇に出てゐるが、その人の手に入る前の所藏者は誰であつたか書いてない。
[やぶちゃん注:山東京伝の「骨董集」のそれは、「中の卷」にある「打出小槌、猿蟹合戰」の前半部。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。【 】は原典の割注。一部の読みは省略した。
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「異制庭訓」に、祖父祖母之物語(おほぢおばのものがたり)とあるは、むかしむかしぢゞとばゞとありけりといふ發語(ほつご)をとりて、名目(みやうもく)にしたるものなるべければ、童(わらべ)の昔ばなしはいとふるきことなり。おのれ二十四五年前(さき)、童話(むかしばなし)の出所(しゆつしよ)をたづねてかきとゞめたるもの。童話考(どうわかう)と名づけて一册あり。いまだ考の足ざる所あれば、年ひさしくひめおきぬ。さて隱笠(かくれがさ)隱蓑は、古歌にもあまたよみたれども、打出の小槌の事をしるしたるものすくなし。しかれども「平家物語」祇園女御の段に、「是(これ)ぞ誠の鬼とおぼゆる、手にもちたるものは、きこゆる打出の小づちなるべし。云々(しかじか)」【「盛衰記」卷之廿六にも、打出の小槌の事見えたり。是と同談。】と見えたれば、古くいひ傳へたる事なるべし。又康賴の「寶物集」卷之一に云、「されば人の寶には、打出の小槌といふ物こそ能(よき)寶にて侍りけれ。廣野(ひろきの)に出(いで)て、居(ゐ)よからん家(いへ)や、面白からん妻(つま)男(をのこ)や、遣能(つかひよ)からん從者(ずさ)、馬牛(うまうし)、食物(くひもの)、衣物(きるもの)なんど、心に任(まかせ)て打出(うちいだ)してあらんこそ、【中略】能(よく)侍(はべる)べけれと云に、又人傍(そば)より指出(さしいで)て云樣は、打出の小槌は目出度寶にて有(あれ)ども、口惜事(くちをしき)は、物を打出して樂(たのし)くて居たる程に、鐘の聲をだに聞つれば、打出したる物、皆こそこそと失(うせ)る事の侍るなり。されば目出度(めでたく)て居たるとは思へども、左樣の時は廣き野中に只獨(ひとり)裸にて居たらんこそ、淺增(あさまし)かるべけれ。【中略】昔より隱蓑の少將と申す物語も、有增敷(あらまじき)事を作(つくり)て侍るとこそ承はれ云々(しかじか)」と見えたり。是則(これるなはち)「酉陽雜俎續集」の、旁色[やぶちゃん注:「旁㐌」の誤読であろう。]が得たる金椎子(かねのつち)と、和漢相似(あひに)たる談(はなし)なり。【「狹衣」に、かくれみのゝ中納言やおはすらんといふことあり。「寶物集」に、かくれみのゝ少將の物語といふ事あれば、かくれみのといへる物語ふるくありしなるべし。今傳はらず。】
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「甲子夜話」続篇は所持するが、目次を縦覧した限りでは、今は見出せなかった。発見次第、追記する。【2018年8月9日追記:これは「甲子夜話続篇」の巻頭にある「打出の小槌」であることが判った。】]
延享四年十二月晦日、伊福部宿禰勝世といふ人の家で、元日の用意の物を取り出すために、手燭を秉(と)つて土藏に往來することが屢々であつたが、夜更けになつて土藏の前に一つの槌が置いてあるのを發見した。然も人が持つて來て置いたやうに、ちやんと正面に据ゑてある。今まで自分のうちにこんな物のなかつたことは慥かであるから、母家にゐた人々にも見せたが、普通に大工などの使ふやうな槌ではない。強ひて云へば春の初めの事とて、子供の玩具にでも拵へたものであらうか。桐の木で作つた槌で、大きさは橫六七寸に周圍三四寸、柄は短く上下に通つてゐて、上に出た方は少ししかなく、下に出た方は銀杏の葉のやうにひろがつて居り、穴を穿つて紅の總(ふさ)が付けてある。全體は黑塗りで、ところどころに金銀の箔が貼つてあつたが、今拵へたばかりと見えて箔が落着かず、ひらひらして見える。伊福部氏の居宅の近所は土民ばかり集まつてゐる村里で、こんな玩具を拵へる人がありさうにも思はれぬ。この評判が世上に聞えて、わざわざ見物に來る人が澤山あつたくらゐだから、もし一二里四方の間にこれを作つた者がゐたならば、必ず知れさうなものであつたが、遂に出所不明に了つた。中には狐の仕業だらうなどといふ人もある。とにかく年のはじめであるし、福神の授けられた打出の小槌といふものであらうと、方々から人が祝ひに來るので、勝世も大いによろこび、毎日酒肴を出してもてなしたのみならず、後には一社の神に祭り、土藏の内に固く封じ込めたと云つて、所望する者があつても見せなくなつた。けれどもこの小槌を得た後、伊福部家に吉事らしいことは何もなく、却つて嫡子の中務といふ者が亡くなつたと「雪窓夜話抄」に見えてゐる。
[やぶちゃん注:「延享四年十二月晦日」グレゴリオ暦で一七四八年一月二十九日。
以上は同書の「卷三」にある「伊福部氏槌を得る事」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらから視認出来る。]
打出の小槌は古來人間の懷(いだ)いた夢の一つである。一寸法師などもこの小槌を手に入れると、第一に自分の丈を大きくなれと打ち出し、次いで飯を打ち出し、然る後金銀を打ち出して都に上つてゐる。百事如意といふわけであるが、さういふ幸福を打ち出した話もあまりない。伊福部氏の話は最も好適な例で、はじめに子供の玩具と思つたとあるのを見ても、大した寶物でなかつたことはわかる。勿論願ひのまゝのものが打ち出せたわけでもない。恐らく出入りの者が主人をよろこばせるために、こんな細工をしたのであらうが、あまり評判が高くなつたので、つい名乘り出る機會を失つたものと思はれる。この評判は主人の心理にも影響して、遂に一社の神に祭り、土藏に固く封じ込めて、容易に見せなくなつた。目に見えぬ幸福を希(ねが)つて、目に見えぬ不幸の到來に氣が付かなかつたのである。かういふ風に考へれば、一の短篇を形成することになりさうであるが、さう面倒に扱ふ必要もあるまい。吾々は昔噺の打出の小槌を、此較的近い江戸時代に見出したので滿足する。