譚海 卷之二 豆州大島火をふりて燒たる事
○安永六年夏の比より、伊豆大島燒(やけ)はじめて、海南へ火もえ出(いづ)る事あり。房州瀕海の地はこの燒(やく)るひゞき、地にこたへて地震(なゐ)のごとく、津浪あるべしとて恐怖にたへず。此もゆる火光(くわかう)夜には品川沖或ははねだ邊まで天に映じて見えたり。翌年猶もゆる事たえず、やうやくにして止(やみ)たり。
[やぶちゃん注:これは伊豆大島三原山の安永の大噴火である。三原山の歴史噴火記録が十分残されている大規模噴火の一つで安永六(一七七七)年から翌年にかけて発生した。ウィキの「伊豆大島」によれば(記載が総てグレゴリオ暦なので独自に旧暦換算もしておいた)、一七七七年八月末(安永六年七月下旬相当)に『カルデラ内の山頂火口から噴火が始まり、火山毛』(かざんもう:「ペレーの毛」(英語:Pele's hair:「ペレー」はハワイに伝わる火山の女神の名。火山の爆発の際にマグマの一部が引き伸ばされて髪の毛状になったものを指す。主に玄武岩由来のガラス質からなる褐色の細い単繊維で、典型的なものは断面が円形に近く、直径は〇・五ミリメートルより細く、長さは最大二メートルにも及ぶことがある)やスコリア(英語:scoria:火山噴出物の一種で塊状を成す多孔質のガラス質物質の中でも暗色のものを指し、「岩滓(がんさい)」とも呼ぶ。主に玄武岩質のマグマが、噴火の際に地下深部から上昇、減圧することによってマグマに溶解していた水などの揮発成分が発泡したために多孔質となったものである)『の降下があった。山頂噴火活動は比較的穏やかだったが』、翌一七七八年二月末頃(安永七年一月末から二月末相当)まで続き、同年四月十九日(安永七年三月二十二日)から『激しい噴火が始まり、降下スコリアが厚く堆積し、溶岩の流出が起こった。このときの溶岩流は北東方向に細く流れ、泉津地区の波治加麻神社付近まで流れ下った』。五月末頃(安永七年六月下旬相当)には一旦、噴火が沈静化したものの、十月中旬頃(安永七年八月下旬相当)より再び噴火が激しくなり、十一月(安永七年九月中旬から十月中旬相当)には『再び溶岩の流出が起こった。このときの溶岩流は三原山南西方向にカルデラを超えて流れ下ったほか、やや遅れて北東方向にも流れ、現在の大島公園付近で海に達した。溶岩の流出などは年内には収まったが』、一七八三年(天明三年)から『大量の火山灰を噴出する活動が始まり』、一七九二年(寛政四年)まで実に最初の兆候から十五年ほどに亙って『噴火が続いた。このときの火山灰の厚さは中腹で』一メートル以上に『達し、人家、家畜、農作物に大打撃を与えた』とある(下線やぶちゃん)。私は一九八六年十一月二十一日に始まった大噴火(溶岩噴泉高度千メートル以上、噴煙高度一万メートルに達した)を、翌日の夜、友人の車で遊びに行った江ノ島から偶然に目撃した。海上に妖しく垂直に立ち上ぼるオレンジ色のやや太い火の柱をよく覚えている。
{ふりて」は「降りて」或いは「振りて」で「降らして」或いは「火を振り散らすようにして」の謂いであろう。「燒たる」は「やけたる」と訓じておく。
「海南」底本では「南」の下にポイント落ちで「邊」の訂正注がある。
「地震(なゐ)」読みは私の推定。
「品川沖」三原山山頂からは直線で百キロメートルほど。
「はねだ」羽田沖で九十五、六キロメートルほど。最初に注した私が見た江ノ島は六十四キロメートルほどである。]
« 譚海 卷之二 上總國笹栗幷山邊赤人の事 | トップページ | 甲子夜話卷之四 17 大岡、神尾、乘邑の器量を賞する事 »