フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 宿直草卷四 第七 七人の子の中も女に心許すまじき事 | トップページ | 譚海 卷之二 京三十三間堂梁木の事 »

2017/07/19

柴田宵曲 續妖異博物館 「龍の變り種」(その2)~「龍の變り種」了

 

 盧君暢といふ人が野に出て二疋の白犬を見た。田圃道を元氣に駈け𢌞つてゐるが、その犬の腰が甚だ長い。盧もその點に不審を懷き、馬をとゞめてぢつと見てゐると、俄かに二疋とも飛び上つて、その邊にあつた沼の中に飛び込んだ。沼の水は一時に湧き上り、水烟の中から朦朧として白龍の昇天するのが見えた。雲氣はあたりに充ち滿ち、風聲雷擊交々起るといふ物凄い光景になつたので、盧は大いに恐れ、馬に鞭打つて急ぎ歸つたが、何里か來るうちに、衣服は悉く濡れ通つてしまつた。はじめて二犬の龍なるを悟ると、これは「宜室志」にある。

[やぶちゃん注:「太平廣記」の「龍六」に「宣室志」を出典として載せる「盧君暢」を示す。

   *

故東都留守判官祠部郎中范陽盧君暢爲白衣時、僑居漢上。嘗一日、獨驅郊野、見二白犬腰甚長、而其臆豐、飄然若墜、俱馳走田間。盧訝其異於常犬。因立馬以望。俄而其犬俱跳入於一湫中、已而湫浪汎騰、旋有二白龍自湫中起、雲氣噎空、風雷大震。盧懼甚、鞭馬而歸。未及行數里、衣盡沾濕。方悟二犬乃龍也。

   *]

 

 支那に多いのは蟄龍(ちつりやう)の話であるが、蟄龍に至つては眞に端倪すべからざるもので、どこに潛んでゐるかわからない。「龍」(芥川龍之介)の中で、猿澤の池のほとりに「三月三日この池より龍昇らんずるなり」といふ札を立てた得業惠印が瘤の中から龍が昇天する話を、しかつめらしく説くところがあるが、この話は明かに「大唐奇事」に出てゐる。洛陽の豪家の子供が、眉のほとりに肉塊が出來て、いくら療治してもなほらぬ。洛城の一布衣、自ら終南山人と稱する男がこの肉塊を見て、先づ恭しく神を祭り、壺の中から一丸藥を取り出して碎いてつけたところ、暫時にして肉塊が破れ、小さな蛇が中から出て來た。はじめは五寸ぐらゐの長さであつたが、忽ちのうちに一丈ばかりになつた。山人が一擊叱咤すると、雲霧俄かに起り、蛇はその雲に乘じて昇天しようとする。山人忻然としてこれに跨がり、去つて行く所を知らずといふのである。この話などは奇拔な蟄龍譚の中に在つて、最も奇拔なものであるに相違ない。

[やぶちゃん注:「蟄龍(ちつりやう)」地中に潜んでいる竜。後は専ら「活躍する機会を得ないで、世に隠れている英雄」の譬えとして用いられることが殆んどである。

「端倪すべからざるもの」「端倪(たん げい)」は「荘子」「大宗師篇」を初出とする語で「端」は「糸口」、「倪」は「末端」の意で「事象の始めと終わり」の意であるが、後に中唐の韓愈の文「送高閑上人序」(高閑上人を送る序)で「故旭之書、變動猶鬼神、不可端倪、以此終其身而名後世」(故に旭の書、變動、猶ほ鬼神の端倪すべからざるがごとし。此(ここ)を以つて其の身を終ふれども後世に名あり:「旭」はこの前で述べている草書の達人)という文々から「推しはかること」の意となった。ここは後者で「その最初から最後まで或いはその総体を安易に推し量ることは出来ない・人智の推測が及ぶものではない・計り知れない」といった意。

『「龍」(芥川龍之介)』「龍(りゆう)」は大正八(一九一九)年五月発行の『中央公論』初出。「青空文庫」のこちらで全文(但し、新字新仮名)が読める。この作品全体は「宇治拾遺物語」の「卷第十」の「藏人得業猿沢池龍事」(蔵人(くらうど)得業(とくごふ)、猿沢池の龍(りよう)の事)を素材とするが、原拠では龍は昇天しない。

「得業惠印が瘤の中から龍が昇天する話を、しかつめらしく説くところ」「惠印」は「ゑいん」と読む。これは悪戯で恵印が立てた札を見て呆気(あっけ)とられた婆さんが、「此池に龍などが居りませうかいな」と、何食わぬ顔をして様子を見に来た恵印に問うたシークエンスに出る落ち着き払った恵印ののたまうところの台詞である。岩波旧全集から引く。

   *

「昔、唐(から)のある學者が眉の上に瘤が出來て、痒うてたまらなんだ事があるが、或日一天俄に搔き曇つて、雷雨車軸を流すが如く降り注いだと見てあれば、たちまちその瘤がふつつと裂けて、中から一匹の黑龍が雲を捲いて一文字に昇天したと云ふ話もござる。瘤の中にさへ龍が居たなら、ましてこれほどの池の底には、何十匹となく蛟龍毒蛇がつて居ようも知れぬ道理じや。」

   *

 以上の「大唐奇事」のそれは「太平廣記」に同書からとして「異人二」に「王守一」として出る。

   *

唐貞觀初、洛城有一布衣、自稱終南山人、姓王名守一、常負一大壺賣藥。人有求買之不得者、病必死、或急趁無疾人授與之者。其人旬日後必染沈痼也。柳信者、世居洛陽、家累千金、唯有一子。既冠後、忽於眉頭上生一肉塊。歷使療之、不能除去、及聞此布衣、遂躬自禱請、既至其家、乃出其子以示之。布衣先焚香、命酒脯、猶若祭祝、後方於壺中探一丸藥、嚼傅肉塊。復請具樽爼。須臾間、肉塊破、有小蛇一條突出在地、約長五寸、五色爛然、漸漸長及一丈已來。其布衣乃盡飲其酒、叱蛇一聲、其蛇騰起、雲霧昏暗。布衣忻然乘蛇而去、不知所在。

   *]

 

「聊齋志異」にある蟄龍は書樓の中であつた。陰雨晦冥の際、螢のやうな小さな光りある物が現れて几に登つたが、その過ぎる跡は皆黑くなる。漸くにして書卷の上に達すると、その卷もまた焦げるので、これは龍であらうと思ひ、捧げて門外に出で、暫く立つてゐたところ、少しも動かなくなつた。龍に對しいさゝか禮を失したかと思ひ返して、もう一度書卷を几に置き、自分は衣冠を改め、長揖してこれを送る態度を執つた。今度は軒下に到り、首を上げ身を伸べ、書卷を離れて橫飛びに飛んだ。その時嗤(わら)ふやうな聲がしたと思つたが、縷の如き一道の光りを放ち、數步外へ行つて首を囘らした時は、已に甕の如き頭となり、恐るべき大きな龍の身を示して居つた。お定まりの霹靂一聲で天外に去つた後、書樓に戾つて調べて見るのに、それまでは書笥中に身を潛めてゐたものの如くであつた。或時は額の瘤、或時は書笥の中、竟に窮まるところを知らぬのが、龍の神變自在なる所以であらう。

[やぶちゃん注:「書樓」書斎を兼ねた多層階状の書庫。

「書笥」「しよし」。後の柴田天馬氏の訳で判る通り、本箱・本棚のこと。

 以上は「聊齋志異」の「卷四」の「蟄龍」。まず原文を示す。

   *

於陵曲銀臺公、讀書樓上、陰雨晦冥、見一小物、有光如熒、蠕蠕登几、過處則黑、如蚰跡、漸盤卷上、卷亦焦、意爲龍、乃捧送之。至門外、持立良久、蠖曲不少動、公曰、「將無謂我不恭。」。執卷返、乃置案上、冠帶長揖而後送之。方至簷下、但見昂首乍伸、離卷橫飛、其聲嗤然、光一道如縷。數步外、囘首向公、則頭大於甕、身數十圍矣。又一折反、霹靂震驚、騰霄而去。回視所行處、蓋曲曲自書笥中出焉。

   *

 柴田天馬氏の訳(昭和五一(一九七六)年改版八版角川文庫刊)で以下に示す。

   *

 

 蟄竜(ちつりゅう)

 

 暗い雨の日だった。銀台(つうせいし)の於陸曲(おりくしょく)公が、楼上で書を読んでいると、螢のような光のある小さな物が、うじうじ机に登って来た。その通った処は、蚰(なめくじ)の跡のように黒くなり、だんだん巻(ほん)の上に来て、とぐろを巻くと、巻も、やほり焦げるのだった。公は竜だと思ったので、巻を捧げて門外に送って行き、巻を持って、しばらく立っていたが、曲がったままで少しも動かなかった。公は、

 「我(わし)のしかたが、恭しくないと思うのではないかな」

 と言って、巻(ほん)を持って引き返し、もとのように机の上に置いて、衣冠束帯に身を正し、長揖(おじぎ)をしてから送って行った。そして軒下まで来ると、首をあげてからだを伸ばし、巻を離れて飛びあがった。しっ、という音がして、一道(ひとすじ)の光が糸すじのようであったが、数歩を離れ、公に向かって、ふりかえった時には、頭(かしら)は甕(かめ)よりも大きく、からだは数十囲であった。そして向きなおるとともに、霹靂(いかずち)が大地をふるわせ、空へ登って行ってしまった。小さい物の歩いた処を見ると、書笥(ほんばこ)の中から出て来たのであった。

   *

「銀台」は内外の上奏書を受けて処理する役所である通政司或いはその長官通政使の俗称。]「於陸曲(おりくしょく)公」原文との相違が激しく、何だかおかしいと感じたので、所持する平凡社の「中国古典文学大系」(第四十巻)版の訳を見たところ、冒頭で『於陵(山東省)の銀台にいた曲(きょく)公』と訳されてある。これはそれで腑に落ちる。「蚰」平凡社版は『みみず』(蚯蚓)とするが、「蚰」は中文サイトを見ても「蛞蝓」とするので天馬訳を採る。「長揖」平凡社版には『ちょうゆう』とルビし、割注で『拱手(きょうしゅ)した腕を上から下へおろす礼』とある。「数十囲」平凡社版は『十抱(かか)え』とする。中国特有の誇張表現と考えれば、平凡社版の方が判りはよい。しかし、仮に日本人体尺の両腕幅である「比呂(尋)」(=百五十一・五センチメートル)としても、十五メートル強となる。昇龍としてはもう充分過ぎるほど、ぶっとい。]

 

「夜譚隨錄」にあるのは、李高魚といふ人が枕碧山房の壁に掛けた古い劍である。例によつて大雷雨の日、一尺餘りの黑い物が、細い線を引いて動くあとを、紅い線のやうなものが逐つて行く。何とも知れぬ二つの線が窓から入つて來て、室内を飛び步くうちに壁に近付いて劍の鞘の中に入つてしまつた。戞々(かつかつ)といふ音がして、狹い鞘の中を動き𢌞るのに、少しも閊へる樣子がない。やゝ暫くして今度は鞘を飛び出し、蜿蜒として軒端まで行つた途端、迅雷が家屋を震はせ、紅い光りが四邊に漲るやうに感ぜられた。その時は黑い線も紅い線も、已に所在を失して居つたが、窓の下を見ると數片の鱗が落ちてゐる。穿山甲(せんざんかふ)の鱗に似たものであつた。劍の刃には蟲の巣のやうな小さな孔が無數に出來て居り、鞘もまた同樣であつた。或人は龍の變化したものだと云つたが、霹靂一擊以外、龍らしいものは姿を見せてゐない。古劍は恐らく贋物になつたことと思はれる。

[やぶちゃん注:「蜿蜒」(ゑんえん)は原義は蛇などがうねりながら行くさま。そこからうねうねとどこまでも続くさまの意となった。

「穿山甲」哺乳綱ローラシア獣上目センザンコウ目センザンコウ科 Manidae のセンザンコウ類(インドから東南アジアにかけて四種と、アフリカに四種の計八種が現存種)であるが、中国だと、南部に棲息するセンザンコウ属ミミセンザンコウ Manis pentadactyla であろう。本種は中文名でまさに「中華穿山甲」と称する。

「古劍は恐らく贋物になつたことと思はれる」ここは柴田宵曲の鋭い指摘である。

 以上は「夜譚隨錄」(既出既注の清代の志怪小説)の「龍化」。

   *

李高魚枕碧山房、壁掛古劍。一日大雨雷、瞥見一黑物、長尺餘、細如線、後一紅線逐之、自窗凌空而入、繞室飛行、俄延壁上、穿入劍鞘中。即聞戛戛作聲、旋出旋入、無所阻礙。良久、忽又飛出、蜿蜒空際、甫及檐、霹靂一聲、屋宇震動、紅光燭天、不及察二物所至、唯見窗下落鱗數片、酷似穿山甲。取劍視之、鋒刃盡穿小孔、密如蟲蛀、鞘亦如之。或曰、「此龍之變化。」。想當然耳。

   *]

 

 日本の龍には遺憾ながらあまり奇拔な話は見當らぬ。建部綾足(あやたり)が「折々草」に書いた龍石の話の如き、奇といふ點では支那の諸譚に遠く及ばぬに拘らず、妙に無氣味な點で日本に於ては異彩を放つに足るかと思ふ。

 

 高取の城下に人を訪ねることがあつて、夏の夜の明けぬうちに家を出た。三里ばかりの道であるから、夜が明けるまでには著くつもりで、もう五丁ばかりといふところに到つた時、漸く東の方が白んで來た。この邊で一休みといふことになつたが、草ばかり茂つてゐて適當な石がない。二尺ばかりの石を見出して道の眞中に運び、手拭を敷いて腰をおろしたのはよかつたが、不思議な事に何となくふはふはして、座蒲團でも積み重ねたやうな氣がする。それも氣のせゐかと煙草などをくゆらし、朝日が出たのを見て步き出したが、何分暑くて堪らず、淸水に顏を洗つたりしながら、持つてゐる手拭に異樣な臭氣のあるのに氣が付いた。いくら洗つても臭氣は更に落ちぬので、新しい手拭を惜し氣もなく棄ててしまひ、それからは道にも迷はずに辿り著いた。先方の家で食事をしてゐるのを朝飯かと思へば、今日は晝飯が遲くなつたのだと云ふ。自分達は例の石に腰をおろして煙草を吹かしただけなのに、何でそんなに時間がたつたのかわからぬ。狐に化されたのではないかといふ話になつて、石の事を云ひ出したら、それは惡いものにお逢ひなすつた、あれは何の害もしないけれど、龍が化けてゐるといふので龍石といふ、妙な臭ひがするのはそのためで、あの石に觸れた者は病氣になるといふ話だが、あなたは何ともないか、と聞かれた。さう云はれると熱があるやうである。幸ひ先方の家は醫者であつたから、藥を煎じて貰つて飮み、駕籠を雇つて貰つて歸ることにした。主人は更に注意して、歸りに氣を付けて御覽、その石は必ずありますまい、と云つたが、成程どこにも見當らなかつた。あたりに石一つないところなので、人が取りのけたにしても目に入らなければならぬ。愈々怪しい事になつて來た。連れてゐた下男は休んだ時も石に觸れなかつた爲、遂に何事もなかつたが、腰かけた男の方は翌月までわづらつて、漸く快方に向つた。これに懲りた男は、山へ往つた時など、得體の知れぬ石に腰かけるものではないと、子供等に教へてゐたさうである。

[やぶちゃん注:「鈍色」「にびいろ」。濃い灰鼠色。

「折々草」は既出既注。

「あれは何の害もしないけれど」と言いながら、「あの石に觸れた者は病氣になるといふ話だが、あなたは何ともないか、と聞」くのは如何にもおかしい。以下に原典を示したが、柴田は「其化物は何に侍るともしらねど」(その化け物の正体は、一体何ものでありますのかということも存じませねど)を訳し間違えているとしか思われない。

 以上は同書の「夏の部」の「龍石をいふ條」。岩波新古典文学大系本を参考に、恣意的に正字化して示す。繰り返し記号や踊り字の一部を変更或いは正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママ。カタカナで示された原典の読みのみを附した。

   *

 

    龍石をいふ條

 

 大和の國上品寺(ジヤウホンジ)[やぶちゃん注:現在の奈良県橿原市上品寺町(じょうぼんじちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]とふ里にいきてあそび侍るに、此主(アルジ)物がたりしき。

 主のいとこは、同じ國高取(タカトリ)[やぶちゃん注:現在の奈良県高市(たかいち)郡高取町(たかとりちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。当時は植村氏二万五千石の高取藩の居城高取城があった。]といふ城下(キモト)に土佐(トサ)といふ所に侍り[やぶちゃん注:底本の高田衛氏の注にその高取城城下の『大手口に城下土佐町村があった』とある。現在、高取町内には「上土佐(かみとさ)」「下土佐」の地名が残る(上土佐はここで、「下土佐」はその西北隣りのここ(グーグル・マップ・データ))なお、高取城は町域からは三キロメートルほど南東の離れた山上にある。]。久しくおとづれざりしかばいかむとおもひて、みな月望(モチ)計(バカリ)[やぶちゃん注:七月十五日頃。]、いとあつき比なれば、寅の時[やぶちゃん注:午前四時頃。]に出て往(イキ)ける。道は三里(ミサト)ばかりなれば、明むとするころは參りつくべしとおもひて行に、そこへは今五丁(イツトコロ)[やぶちゃん注:五百五十メートル弱。]ばかりにて、やうやう東(ヒンガシ)のそらしらみたるに、「いととくも[やぶちゃん注:たいそう早く。]來たりぬ。少しやすらはゞや」とおもへど、此わたりは皆野らにて、芝生(シバフ)の露いと深く、ひた居(ヲリ)にをりかねたれば、と見かう見するに、草の中によき石の侍るを見出て、いきて腰かけむとおもへど、蚋(ブト)などや多からむに、こゝへもて來むとて、手を打かけて引に、みしよりはいとかろらかに侍る。大きさは二尺(フタサカ)斗にて、鈍色せる石也。こを道の眞(マ)中にすゑて、淸らを好(コノ)む癖の侍るに、手拭(タナゴヒ)のいと新らしくてもたるを其上に打しき、さて腰(コシ)かけたれば、此石たはむさまにて、衾(フスマ)などを疊み上て其上にをる計におぼえたる。くしき事とはおもへど、心からにや侍りけむと[やぶちゃん注:単なる気のせいに過ぎぬのであろうと。]、事もなくをりて、火打袋(ウチブクロ)をとうでゝ[やぶちゃん注:後でも出てくるが、「取り出して」の意のようである。]火をきり出し、下部(シモベ)にもたばこたうべさせなどし、稻どもの心よげに靑み立たるを打見遣りて、しばし有間(アルアヒダ)に、朝日のいとあかくさしのぼる。いざあゆまむとて立て、道二丁(フタトコロ)[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]斗行に、汗のしとゞに流れて唯あつくおぼえけり。淸水に立よりてかほなどあらひ侍るに、何となくくさき香(カ)のたへがたうしけるを、何ぞとおもへば、かのたなどひにいたくしみたる

 何に似たるかをりぞとおもふに、蛇(オロチ)の香にて、そがうへにえもいはずくさき香のそひたるなり。「こはけしからぬ事かな。かの石のうへにかれ[やぶちゃん注:蛇を指す。]がをり侍りけむ名殘(ナゴリ)也。さるにても洗(アラ)ひ落(オト)さむ」とおもひて淸水に打ひぢて[やぶちゃん注:「漬ぢて」浸(ひた)して。]洗へども、中々にさらず。水に入りては猶くさき香のつのりて、頭(カシラ)にもとほるべくおぼゆるに、たなどひは捨て遣りける。さて手もからだもものゝうつりたる[やぶちゃん注:これは先の臭さだけではなく、何かの「もの」=物の怪のまがまがしい気(かざ)ようなものが体に染みつく、憑依したような感じで、の意。]、たへがたければ、はやくいきて湯あみせむといそぎて、いとこのがり[やぶちゃん注:「許(がり)」は 接尾語で人を表わす名詞又は代名詞に付いて「~の所へ」「~の許(もと)に」の意を添える。「處在(かあり)」が転じたものと言われる。]いきつけば、みなまどひ[やぶちゃん注:「圓居」で車座になって座ること。歴史的仮名遣としては「まどゐ」が正しい。]して、朝食にかあらむ、物たうべてはべるが、主のいはく、「久しくみえ給はざりし。かゝるあつき時に、あかつきかけては來(キ)給はで、かく日のさかりには何しに出おはしたり」と聞ゆ。

 此男きゝて、「寅の時に出て、唯いまふもとにて夜の明てさぶらへ。主(ヌシ)たちも今朝食參るならずや」といへば、家の内の人皆笑らひて、「いづこにか午睡(ヒルイ)してねおびれ給へるならむ。空は未(ヒツジ)の頭(カシラ)[やぶちゃん注:午後一時頃。早朝の出立から実に九時間も経過していた。]にてさむらへ。けふは晝いひのおそくて、唯今たうぶる也」といふに、少しあやしく成りて空をみれば、日ざしも實にしかり。またあつき事も朝のほどならず。下部をみれば、これも唯あやしくおもへる顏にて、「道には何も程すごすばかりの事はしたまはず。火をきりてたばこ二吸(フタスヒ)斗(バカリ)して侍るのみ也」と申すに、主どもが、「それはかの[やぶちゃん注:底本の高田氏の注に『不詳。「かの」という妖異か。または例のものの意か』とある。考えてみると、強力或いは凶悪な霊や物の怪はその名を口にすることを忌むから、それが単なる指示語であるのは寧ろ自然な気が私にはする。]にて侍らむ。山のふもとにはよからぬ狐(キツ)の折々さるわざして侍ることの有に」といへば、「いな、狐ともおぼえず。かうかうなむ侍る事のありて、其香のいまださらず侍るにいたくなやめり。ゆあみせばや」といへば、主(アルジ)打おどろきて、「それはあしきめにあひたまへり。かの石は龍石[やぶちゃん注:底本注に不詳とする。]とて、此わたりにはかまへて[やぶちゃん注:待ち構えて。]侍り。其化物は何に侍るともしらねど、必ず蛇(オロチ)の香のし侍るをもて、所の者は龍(リヤウ)の化(バケ)て侍る也とて、それをば龍石とは申す也。是に觸(フレ)たる人は、疫病(エタシヤミ)[やぶちゃん注:伝染性の病気。]して命にも及(オヨブ)者多し。御心はいかに侍る」といふに、たちまちに身のほとぼり來て[やぶちゃん注:熱を帯びてきて。]、頭(カシラ)もいたく、いと苦しく成しほどに、いとこは藥師(クスシ)なりければ、「こゝろえて侍り」とて、よき藥(クスリ)を俄(ニハカ)に煮させ、又からだに香のとまりたる[やぶちゃん注:附着浸透しているの。]をば、洗(アラ)ふ藥をもてのごはせなどしけり。「此家にかく病臥(ヤミフシ)てあらむもいかに侍れば、かへりて妻子(メコ)どもに見とらせむ[やぶちゃん注:看病させようと思う。]」とて、某日の夕つかた、堅間[やぶちゃん注:底本では『かたま』とルビし、注で『竹で編んだかご』とする。]にのりてうめきながらかへるべくす。

 又主(アルジ)のいはく、「かのやすみ給ふ所にて見させよ。必ず其石は侍るまじきに」ときこゆるに、下部(シモベ)ども心得て、「かの石は道の眞中にとうでゝ侍りける」とて、行かゝりてみれども更になし。人のとりのけしにやとてをちこちみれども、もとより石ひとつなき所なれば有べきにもあらず。「さては化(バケ)たる成けり。おのれは下部だけに、地(ツチ)にをりて侍れば、石にはふれざりける」とて、福(サイハヒ)えたるつらつきしてかへりにけり。

 かの男は、八月(ハヅキ)斗(バカリ)までいたくわづらひて、やうやうにおこたりはてぬ[やぶちゃん注:病気の勢いが弱まって良くなった。古語の「怠る」自体に、その意味がある。]と。さて後は子共らにも誰(タレ)にも、「山にいきては心得なく石にな腰かけそ」と教へ侍りきと聞えし。

   *]

 

 龍石の正體は結局わからぬが、あたりに何もないところに、この石だけあるのが怪しい上に、鈍色で思つたより輕いといふのも怪しい種の一つである。腥臭(せいしう)が腰かけた人にこびり付いて、いくら洗つても落ちぬのは無氣味なことおびたゞしい。夜が明けてから道に迷つた覺えもなく、どうして數時間も費したか、龍に化されるのは狐狸よりも氣味が惡いことになつて來る。綾足は大和でこの話を聞いたといふのであるが、水にも雨にも關せず、野中に在つて人を惑はす龍は、支那にも類がないかも知れぬ。

 

« 宿直草卷四 第七 七人の子の中も女に心許すまじき事 | トップページ | 譚海 卷之二 京三十三間堂梁木の事 »