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2017/07/06

宿直草卷三 第八 湖に入、武具を得し事

 

  第八 湖(みづうみ)に入(いり)、武具を得し事

 

 江州にてある里侍(さとさむらひ)、長(たけ)二間ばかりの虵(じや)を切り、巷(ちまた)、擧(こぞり)て虵切(じやきり)と呼ぶ。

 この人の住(すみ)所は琵琶の湖(うみ)の東なり。其浦に虵あり、常に湖の底に棲むなど云ひ觸れり。

 しかるに、何者のわざにや、かの侍の門に、

――此浦の虵御退治(ごたいぢ)しかるべし――

と札(ふだ)に書きて貼(を)す。侍、見て、

「筆まめなる事。」

とて引き捲りて捨(すて)けり。又、次の夜も、

――是非殺し給へ――

とて貼(を)す。これも取りて捨(す)つるに、後には捨てても捨てゝも、札六、七枚、八、九枚も貼(を)して、あまさへ、雜言惡口(ざうごんあつこう)す。輕忽(きやうこつ)なる事、云ふばかりなし。

 侍見て、

「今は、有るにし無きにし、殺さでは叶はぬ。」

と思ひ、我も是非なく札を立てたり。

――我 不幸に虵を殺す 人 賴まぬに蛇切と呼ぶ 嬉しきにもあらず 又 手柄と思はねば 自讚したる事もなし しかるに 此浦に蛇ある由(よし)にて 我を指圖し給ふ 頗る難義なれども 又 一人に選ばるゝも 且つは面目なり これ 止む事 得難(えがた)し 下官(やつがれ) いかでか辭せんや 幸ひ 來月幾日(いくか) 庚寅(かのえとら)にして吉日也 巳の刻に退治可申候 その浦へ御寄りあるべく候也――

と書けり。

 諸(もろ)人、見て、

「札の面(おもて)、聞えたり。無理なる所望にこそ。」

と云ひ合へり。

 かくて、其日になるに、侍も幕引かせ、彼處(かしこ)に行けば、見物も群(むれ)連れて來(きた)る。

 時に臨めば、侍、酒、飽くまで酌(くみ)て、裸かになり、下帶(したおび)に脇差指(さし)て、千尋(ちひろ)の底に入(い)る。あはや、と見るに、上(あが)らず。暫時(しばし)して、浮かめり。

 息を、とくと繼ぎて、

「扨々。虵やあると、右往左往(あふさきるさ)見るに、元無きか。あれど、出(いで)ぬ歟(か)。虵と思ふものもなし。然共(しかれども)、こゝなる岸(きし)の下に、廣さ三間四方ばかりの洞(うつろ)あり。この峒(ほら)に水の動くにうつろふて、光りもの、見えたり。さてこそと思ひ、やがて、側(そば)に寄り、二刀(かたな)三刀刺すに、敢へて働きもせず。如何樣(いかさま)、合點(がてん)行かぬものなり。今一度行きて、取りて帰るべし。」

と云ひ、長き繩(なは)を取り寄せ、其端(はし)を下帶に付け、又、入ると見えしが、やがて上(あが)り、

「引(ひき)上げよ。」

と云ふ。

 人々、寄りてこれを引くに、具足・甲(かぶと)着たる者、引上げたり。其時、見物、一度にどつと賞(ほ)むる聲、止まず。

 さて、よく見れば、鎧武者(よろひむしや)の入水(じゆすい)したると見えて、筋骨(すぢぼね)の差別(しやべつ)もなく凝(こり)たる體(てい)にして、兜・具足・太刀・差し添(ぞ)へも、金作(こがねづくり)なり。餘(よ)の物、錆腐(さびくさ)れども、金(こがね)は全(また)ふして、此侍、德を得たり。

「保元(ほうげん)・壽永か、あるは建武・延元(えんがん)の比(ころ)の、然(しか)るべき大將にや。」

と云へり。見物の者も、

「天晴(あつぱれ)、虵を殺せる勇士かな。」

と賞めて歸りしと。

 

[やぶちゃん注:前話とは蛇絡みで軽く連関。札書きの部分は恣意的にダッシュを用いた。

「里侍(さとさむらひ)」主家を離れた浪人の田舎住まいの武士の謂いか。

「二間」三メートル六十四センチ弱。本邦産の蛇類では三メートルを有意に越るの個体はまず見られない。但し、三メートルほどの死んでくたっとしたものを熨せば、これくらいにはなろう。

「虵(じや)」漢字も読みも原典に従った。

「輕忽(きやうこつ)」「軽骨」とも書く。ここは人を侮って軽蔑することを指す。

「有るにし無きにし」岩波文庫版の高田氏の注に、『どちらにしても』とある。

「下官(やつがれ)」「僕」とも書き、「奴吾(やつこあれ)」の転で古くは「やつかれ」と清音であった。一人称で、自分自身を遜って言う語。上代では男女ともに用いたが、近世には男性がやや改まった場で自己卑称として用いた。「下官」はかつて武士が公家の衛士(えじ)であったことを意識した用字か。

「來月幾日(いくか)」実際には日が書かれていたものを伏せた。

「巳の刻」午前十時頃。

「札の面(おもて)、聞えたり。無理なる所望にこそ。」「お侍さまが札に書かれたその趣旨はよう判る。無理難題を所望したものじゃ。」と同情したのである。

と云ひ合へり。

「侍も幕引かせ」見世物ではなく、侍は大真面目な命を賭けた厳粛な儀式として行のである。

「右往左往(あふさきるさ)」岩波文庫版の高田氏の注に、『「おうさくるさ」に同じ。行ったり来たりする様』とある。ここは現行の慌てふためくの意はないあちこちと湖底を探ったことを指すフラットな用語である。

「元無きか」伝承にはあれども、もともとこの浦にはそのような悪しき大蛇なんどはいないのかも知れぬ。

「三間」五メートル四十六センチメートル弱。

「洞(うつろ)」「峒(ほら)」水底洞窟。

「繩(なは)」底本は「鎖縄」とするが、原典はただ「なは」であるのでかくした。岩波文庫版も単に『縄』である。確かに相当な重量のものをこの後にサルベージするのだから、金属製の鎖である方がしっくりくることはくる。

を取り寄せ、其端(はし)を下帶に付け、又、入ると見えしが、やがて上(あが)り、

「引(ひき)上げよ。」

「筋骨(すぢぼね)の差別(しやべつ)もなく凝(こり)たる體(てい)にして」遺体が木乃伊(ミイラ)のようになって、肉や骨が縮んである程度、凝集していたことを表現したものであろう。

「保元(ほうげん)・壽永」保元は一一五六年から一一五八年で保元の乱(保元元(一一五六)年七月に皇位継承問題や摂関家内紛によって朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂して武力行使に至った政変)辺りを、寿永は一一八二年から一一八三年で寿永二年の木曾義仲入京から平家の都落ち及び翌年の義仲の宇治川の戦いでの敗走自害辺りを想起したものであろう。

「建武・延元(えんがん)」建武(南朝方では西暦一三三四年一月末から一三三六年二月まで、北朝方では同じ基点から一三三八年八月まで)・延元(南朝方の元号で一三三六年から一三三九年まで。北朝は概ね暦応年中)で、鎌倉幕府滅亡翌年からの南北朝動乱を想起したもの。]

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