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« 宿直草卷四 第十二 山伏、忍び者を威す事 | トップページ | 宿直草卷四 第十四 魔法を覺えし山伏の事 »

2017/07/22

宿直草卷四 第十三 博奕打(ばくちうち)、女房に恐れし事

 

  第十三 博奕打(ばくちうち)、女房に恐れし事

 

[やぶちゃん注:最初に断わっておくと、この「女房」は単なる既婚の婦人のことで、「博奕打」ちの女房ではない。博奕打ちとこの女房は見ず知らずの関係である。そうして読まないと長く不審のままに読むことになるので、かく注することとした。]

 

Bakutuitunyoubou

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。]

 

 緣は異(い)なものなれや、命の關(せき)まで思ふあり、長く添ふても呉竹のよに、節々(ふしぶし)の中となり、飽かれて退き、捨てゝ別るゝ有(あり)、情(なさけ)の山の奧深み、戀の淵の底知れぬも、望みの花の枯れず凋(しぼ)まぬからなるべし。去(い)にし代に焦(こが)れて竹を染め、歎きて石となりしも、外(ほか)に男のあらぬにはなけれど、思ふど程に思はねばなるべし。

 ある女房、武藏野のゆかりの草(くさ)もつらく、また男憎(おとこにく)みして露(つゆ)受く袖に、むば玉の夜に紛(まぎ)れて出けるが、行くべきかたに人音(ひとをと)しければ、

「露に濡れてふ玉鉾(たまぼこ)の、道ゆく人にやあらん、待(まち)つゝも通さばや。」

と思ひ、片方(かたへ)に墓堂(はかだう)の有(あり)ければ、暫くも隱るゝに、此者どもも、その墓へ來たる。

 はや逃ぐべき樣(やう)なかりければ、梁(うつはり)を傳ひ、天井へ上がるに、いとゞ荒(あば)らにして、身一つ隱(かく)るべきも猶いぶせきに、十文字に渡せる虹梁(こうりやう)に上がり、身を潛(ひそ)めてありしに、例(れい)の人と見えて、若き男(をのこ)、四、五人連れて來たり、火を打ち、行燈(あんどう)の影に莚(むしろ)敷き、はや、ひたと、博奕を打つ。

 女見て、

「扨も、うたてや、籠の鳥、鼎(かなへ)の魚(うを)の出でなん方(かた)もなし。すぐに行かば、かくばかりの氣遣いはあらじ、また見つけられなば、如何(いか)ばかりの心にまかせぬ事かあらん。」

とやかくと思ひ煩(わづら)ふうちにも、やゝ時移るに、其中に、一人負けて、はうはうの有樣なり。

「錢(ぜに)貸せ、金(かね)貸せ。」

云へど、皆、鼻哥(はなうた)にて、あひしらはざれば、手を叩(たゝ)き、膝を振(ふ)るふて、車座を立ち退(の)き、欠伸(あくび)し、伸(の)びし、仰(あふの)いて空(そら)を見れば、妖(あや)しの女ありて、鉄漿(かね)黑く、紅(べに)赤く、髮は亂(みだ)けて下に傾(なだ)れ、裾は下がりて風翻(ひるがへ)り、夜目遠目、仄(ほの)かにして、燈火(ともし)の火影(ほかげ)に化生(けしやう)のものと見えたり。

 側(そば)なる者に、

「あれは何ぞ。」

と指(ゆび)さしすれば、これも心得ず顏(がほ)に見る。

 一人二人、五人の者、目と目を見合はせ、暫し、物も云はず、堪(こら)へ兼ねたる風情なりしが、一人、つい、立ちければ、殘る者、捨られたる心地して、我先(われさき)にと逃(にげ)行きて、後(あと)見返らずなりければ、女房は錢金(ぜにかね)拾ひ、親里(おやさと)へ歸りしなり。

 初めは我(われ)脅(おど)されて、後に繕(つくろ)はずも、人を脅(おど)す。拔かぬ太刀(たち)の高名(かうみやう)か。山田守(やまだもる)庵(いほり)眞近くなく鹿(しか)に驚ろかされて驚かすかな。

 

[やぶちゃん注:前話「第十二 山伏、忍び者を威す事」の山伏を女性に換えただけで構成はそっくり同じの、やはり疑似怪談。新味はないものの、博奕打ちの一人がただ一人大負けをし、天井を見上げて以降の描写が、前の話より遙かに映像的で面白い。前の話は出歯亀的いやらしさが横溢してちょっと生理的にいやな感じがあったが、こちらはそうした不快感がなく、博奕打ちらが鬼女と勘違いして蜘蛛の子を散らすように逃げ去る辺り、実に好ましい

「命の關(せき)まで思ふあり」偕老同穴相思相愛。

「呉竹のよ」「よ」は「節(よ)」で本来は竹の節(ふし)と節との間を指すが、後に転じて、その節(ふし)自体を指すようになった。ここは節目、特にすっきりとしない躓きの時節で「節々(ふしぶし)の中」(ぎくしゃくとした仲)となってしまって、と続く。さすればこの「くれたけのよ」(「呉竹」は淡竹(はちく:単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科マダケ属クロチク変種ハチク Phyllostachys nigra var. henonis)の異名で中国の呉から渡来したとされることに由来。古来、宮中の清涼殿東庭の北寄りにある「呉竹の台」に植えられてあったもので知られる竹)はまずは「節」を引き出すためでありつつも、実は「暮れ」てしまった今の褻(け:穢れた状態を指す語)の「世(よ)」を掛けているのではないかと私は読む。荻田の過剰な修辞技巧の痙攣的濫用を体験してくると、自然、神経症的にそう分析したくもなってきてしまうのである。

「焦(こが)れて竹を染め」曹雪芹の「紅楼夢」の中に『将来この人は自分の夫を思いこがれて、あの竹もきっと斑竹』(はんちく)『になってしまうでしょう』(富士正晴・武部利男訳)とある。

「歎きて石となりし」望夫石(ぼうふせき)のこと。中国では湖北省武昌の北の山の上にある岩を指し、昔、貞女が戦争に出かける夫をこの山上で見送り、悲しみのあまり、そのままそこで岩となってしまったとする伝承がある。本邦でも同様の伝承は各地に散在し、その中でも肥前国松浦(現在の佐賀県唐津市)に伝わる松浦佐用姫(まつらさよひめ)の話は有名。彼女は百済救援のための兵を率いて松浦潟に停泊した大伴狭手彦(おおとものさでひこ)と契りを結び、出船する夫を鏡山の上から夫の船に向かって領巾(ひれ:肩から腕にかける長い細布で出来た女性の装身具)を振って別れを惜しんだが、悲しみのあまり、狭手彦の形見の鏡を抱いて川に沈んだとも、夫の船を追って、やっとの思いで辿り着いた加部(かべ)島で、泣き伏したままに石となったとも伝えられる。佐用姫の化した「望夫石」は、後に加部島の田島神社境内に遷され、現在も末社佐用姫神社として祀られている。

「外(ほか)に男のあらぬにはなけれど、思ふど程に思はねばなるべし」どうもこういうちゃちゃの入れ方は気に入らない。やっぱり、荻田安静にはかなり強い女性嫌悪感情が見てとれると言ってよい。君が好き勝手に書くように、私はその勝手な記述から勝手に君を精神分析させて貰う。悪しからず、荻田君。

「武藏野のゆかりの草(くさ)もつらく」これは「拾遺和歌集」の「卷第七 物名」にある知覚法師の一首(第三六〇番歌)、

 

  さくなむさ

 紫の色には咲くな武藏野の草のゆかりと人もこそ見れ

 

に基づく。巻名の「物名(もののな)」とは事物を和歌の中二隠し詠む遊戯を言う。詞書「さくなむさ」は石楠花(しゃくなげ)のことで、恐らくはシャクナゲ(ツツジ目ツツジ科ツツジ属シャクナゲ亜属 Hymenanthes。多くの種の花は淡い紅色であるが、紅紫色を呈するものもある)を詠んだものと思われ、まさに二句目三句目に「いろにはさくなむさしのの」の語が詠み込まれてある。なお「さくなむさ」は「石南草(さくなんさう)」の略と言われる)一首は「紫色に咲いてはいけないよ……武蔵野の草、紫と縁(ゆかり)のある草なのだろうと言って、人が間違えて見るかも知れぬから……」であるが、この「武藏野の草のゆかり」というのは「古今和歌集」に「題知らず」「讀人知らず」で載る一首(第八六七番歌)、

紫の一本(ひともと)ゆゑに武藏野の草は皆がらあはれとぞ見る

を踏まえたものである。ここは、ただ「ゆかり」(縁)を引き出し、それが「つらい」、即ち、結婚した夫との「縁に恵まれなかった」と言いたいためだけに使われたものであって、武蔵野を舞台にしているわけでもなんでもないので老婆心ながら、注意されたい。

「男憎(おとこにく)み」岩波文庫版の高田氏の注に、『夫憎み。夫に愛想をつかして』とある。

「露(つゆ)受く袖に」遁走する夜の夜「露」を受けた「袖」であるが、「露」は辛さ故に流した「涙」をも比喩する。

「むば玉の」「夜」の枕詞。古くは「ぬばたまの」で「射干玉の」などと漢字表記した。「ぬばたま」はヒオウギ(単子葉植物キジカクシ目アヤメ科アヤメ属ヒオウギ Iris domestica)の種子で、それが黒いことから「黒」「夕」「宵」「髪」などの枕詞となった。

に紛(まぎ)れて出けるが、行くべきかたに人音(ひとをと)しければ、

「露に濡れてふ玉鉾(たまぼこ)の」岩波文庫版の高田氏の注に、『出典不詳。「道行」の序詞の役わりをはたす語』とある。

「虹梁(こうりやう)」建物の主柱に架け渡す梁材で虹形に上方に反り返った形状のものを指す。主に社寺建築に於いて下から見える部分に使う。挿絵では絵師の視点位置が悪く、その独特の形状が屋根と女房によって隠れてしまっている。

「例(れい)の人」先ほど、行く手でした人音の主。

「氣遣い」「い」は原典のママ。

「あひしらはざれば」「あへしらふ」は「応対する」の意。「あしらふ」の古い形で、現代語の(適当に)「あしらう」の元である。この場合はそれが打ち消されているのでまさに現代語のニュアンスの「適当にあしらうばかりで、全く相手にしなかったので」の謂いとなる。

「手を叩(たゝ)き、膝を振(ふ)るふて」何だか、無視された大負け男にこの多動的な感じ、実にまっことリアルではないか。

「車座を立ち退(の)き、欠伸(あくび)し、伸(の)びし、仰(あふの)いて空(そら)を見れば」この動きも、無視されて屋台の中央から少し壁際に退くのは極めて自然でリアル、そこで手持無沙汰から欠伸をして、背伸びをすると自然と体は上へ仰向くわけで、梁上に潜む女房の姿が視界に入るまでの男の挙止動作のカメラ・ワークが実に上手いのである

「鉄漿(かね)」お歯黒。

「髮は亂(みだ)けて下に傾(なだ)れ、裾は下がりて風翻(ひるがへ)り」すこぶる動画的で上手い。以下の他の男たちが順々に頭上の女房を見るモンタージュも素敵!

「親里(おやさと)」自分の実家。

「繕(つくろ)はずも」岩波文庫版の高田氏の注には、『わざとではなしに』とあり、結果的には肯んずるものではあるが、「つくろふ」という古語の意味や用法としては一般的なものではない。

「拔かぬ太刀(たち)の高名(かうみやう)」諺。実際に優れた手腕を示したわけではないのだが、結果としてそのような格別の仕儀を現出させること。但し、「高名」は「賞讃を浴びること・重んじられること」であるから少しこの諺の意義からはずれる。また、この諺は別に、口では有能であるかのようなことを盛んに吹聴するものの、実際には、その手腕を示したことがない人物を嘲って言う言葉でもあり(「太刀を抜いてしまったら実力が知れてしまうぞ! 抜かぬうちが花よ!」)という意味合いで使用されるから、ここに附すに相応しいとは必ずしも言えぬ。

「山田守(やまだもる)庵(いほり)眞近く鳴く鹿(しか)に驚ろかされて驚かすかな」かなりの和歌を調べて見たが、これにぴったりくる和歌は見当たらなかった。しばしばお世話になる「日文研」の「和歌データベース」を検索してみた結果からは、「金葉和歌集」の初度本の「卷三 秋」には「山田守る」「庵」「鹿」の三語が共通する、

 

 山田守る賤(しづ)の庵(いほり)の邊りには鹿よりほかに來る人もなし

 

があった(この一首、私の持つ同家集には所収していない)ぐらいで、ネット検索では古浄瑠璃の一節に、

 

 いとゞさびしき山田もるいほりの内にしかぞなく

 

というのがある(安田富貴子「古浄瑠璃 太夫の受領とその時代」の資料翻刻より)程度である。これは荻田の創作歌か。識者の御教授を乞う。]

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