宿直草卷二 第十 夢に驚て信を得る事
第十 夢に驚(おどろき)て信(しん)を得る事
西六条に、さる法師の語られしは、
「我、前(まへ)、藝州廣島に下りしに、某所の人々、語りて云(いふ)やう、
『何が菩提の種(たね)になるべきも知れぬ事なり。この所に恐ろしき夢を見て、信(まこと)に赴(おもむき)たる人あり。ある夜、わが家(いへ)の破風(はふ)より、その色、黑き鬼、内へ入(いり)て、臥したる所へ來たる。迯(にげ)べきやうなし。追ひ來りて、足の爪先(つまさき)を嚙む。起きんとすれども、起きられず。骨をかぶる齒音、高(たか)ふして、痛き事、堪えがたし。しばらくして、夢、醒めぬ。
「さてこそ、今は現(うつつ)ぞ。」
と思ふに、遍身、汗雫(あせしづ)くして、あたか、湯(ゆ)に入(いる)が如し。やや胸騷(さは)げども、夢なりければ、さのみ驚かざりしに、次の夜の夢、また同じうして、第三夜も、さらに變らず。苦しび身にあまるに、夢のうちに、僧、有り。嬉しく思ひ、
「この苦を、いかゞして、助かり申べきや。」
と云へば、僧のいはく、
「佛法に歸すべし。」
と。男のいはく、
「何れの法に歸すべきや。淨土眞宗を願はんか。」
と云へば、
「おふ。しかるべし。」
とのたまふと覺えて夢も醒めぬ。
「おふ。」
とのたまふ言葉にまかせて、一向宗佛護寺を賴み、それより此方(このかた)、二年餘り、每日、二度の勤行(ごんぎやう)に缺けぬ人あり。』
と語れり。
「さらば、其人、見ん。」
といふに、人々、指(ゆび)ざしして教ゆ。その齡(よはひ)、天命を知る頃なり。しかるべき方便(てだて)か。」。
[やぶちゃん注:前話とは夢告と鬼の登場でしかるべく連関している。直接話法の入れ子構造になっているが、エンディングに筆者が登場しないで聴き手の直接話法で断ち切られている(こういう筆者の影が最後に全く出ないで終わるというのはかなり珍しい部類である)。これはこれで額縁を定式通りには拵えない面白い手法であると私は思う。
「かぶる」古語としては「少しずつ物を嚙んで食う・齧(かじ)る」。中部から関西圏では現行でも広く「嚙みつく」「齧(かじ)る」の意を持つ。現行、全国的に使用される物、特に食い物に勢いよくかみつくの意味の「かぶりつく」の語源はこれと考えてよいように思われ(「かぶりつく」の漢字表記は「日本国語大辞典」でも「齧り付く」「嚙り付く」である)、最早、方言でさえないと言える。同辞書は「かぶる」の語源説として「嚙觸(かみふ)る」「頭振(かみふ)る」の二説を挙げる。後者を対象に対して覆い被さるようにした際の肉食動物の摂餌行動由来とするならば「被(かぶ)る」は同源のように私には思われるのだが?
「あたか、湯(ゆ)に入(いる)が如し」原典は無論、読点はないのだが、「あたか湯」で「熱い湯」でもあるまい。「あたか」(恰)のみで「太平記」などに「あたかも」の意での使用例が既に見られる。
「一向宗佛護寺」広島県広島市中区寺町にある浄土真宗本願寺派の本願寺広島別院の旧称。旧安芸国の「安芸門徒」と呼ばれる浄土真宗門徒の活動の中心寺院。ウィキの「本願寺広島別院」によれば、前身は、長禄三(一四五九)年、安芸武田氏によって現在の武田山山麓(現在の広島県立祇園北高等学校付近)に建立された天台宗龍原山仏護寺である。『この寺院は安芸武田氏の影響下にあり、初代住職正信も安芸武田氏一門であった。建立当時は天台宗の寺院であった。しかし』、第二世住職円誓が本願寺の蓮如に帰依し、明応五(一四九六)年に浄土真宗に改宗している。『その頃の安芸国は戦乱の日々で、安芸武田氏はその波に揉まれ』、天文一〇(一五四一)年(同寺住職は第三世超順)に『安芸武田氏は大内氏と毛利氏に攻められて滅亡してしまう。仏護寺は堂宇を焼失するなど大きく疲弊するが、信仰心篤い毛利元就の庇護を受け、石山合戦では毛利軍の一員として畿内に出兵』もしている。『豊臣秀吉の世になると、毛利輝元は広島城の築城に着手』、『その時の町割によって』天正一八(一五九〇)年、『仏護寺は広島小河内(現広島市西区打越町)に移転した』。慶長五(一六〇〇)年の『関ヶ原の戦いで毛利氏は広島を去るが、その後領主となった福島正則によって』、慶長一四(一六〇九)年に『現在の寺町へと移転させられた』(下線やぶちゃん)。『福島正則の去った』後、『広島は浅野氏の支配となるが、そのまま浅野氏の庇護を受けて明治維新を迎え』ている。明治三五(一九〇二)年に広島別院仏護寺と改称し、その六年後の明治四十一年には現在の「本願寺広島別院」と改称した。昭和二〇(一九四五)年八月六日の原子爆弾投下の際は、爆心地から僅か一キロメートル足らずの距離であった(以下のリンク先の地図を参照のこと)ここは完全な廃墟と化したが、昭和三九(一九六四)年に本堂が再建されたとある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「その齡(よはひ)、天命を知る頃なり」五十歳前後。
「しかるべき方便(てだて)か」「不思議な夢告を受けて信心を致すというのは、怪異(けい)な部分もあるものの、それはそれ、まさに一つの正しき帰依に至る道の正当なる一つの手段とも言えよう。」。疑問の終助詞で終わってはいるが、これまでに連続する因果応報譚型怪談の列群の中にあっては(但し、この場合は直接の話者は筆者ではなく、話題提供者の法師)これは概ね、荻田によっても肯定されているものと考えてよかろう。]

