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« 宿直草卷五 第一 うぶめの事 | トップページ | 宿直草卷五 第三 仁光坊と云ふ火の事 »

2017/07/25

宿直草卷五 第二 戰場の跡、火燃ゆる事

 

  第二 戰場の跡、火燃ゆる事

 

Sennjyounohi

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のものだが、かなり細かく清拭した。大阪の陣で命を落とした武士(もののふ)のために。]

 寛永十一の夷則(いそく)二日に、若江の里に行き、有るか無きかの月に涼まんとて、暮過(くれすぎ)つゝも、四、五人連れて出でけるが、梶(かぢ)の葉風も秋は秌(あき)かなと悲しく、禊萩(みそはぎ)が枝に殘る螢も、年(とし)に一度の渡り逢ひを待つか、焦がれ燃ゆるは淚の玉も祭らんためかと、身に沁むばかり眺めしに、猶、踏めば惜し、踏まねば行かぬ道に敷くは、玉かあらぬか露深き、稻葉も戰(そよ)ぐ田面(たのも)に出でしに、三十間ばかり先に、煌々燿々(くはうくはうようよう)として、火、燃え出たり。

 長さ四、五尺ばかりにて、四つ五つほど連れ立(だ)ち、四、五間ほど行(ゆ)きては消え、消えては、また、燃え、海原(うなはら)に立つ浪のごとし。

 誘(いざな)ひし人、語りしは、

「元和(げんわ)の軍(いくさ)のころ、五月六日に重義輕命(ぢうぎけいめい)の勇士、多く、こゝに死す。その亡魂の今もまだ火となりて燃えさふらふ。はや、去りゆける御垣守(みかきもり)、衞士(ゑじ)の焚(た)く火になけれども、夜(よる)は燃えつゝ物思ふらんと、哀れに侍る。」

と云ふ。我、聞きて、

「邂逅(わくらば)に、また見る事もあらざらめ。いざ、あの邊り行かん。」

と云へば、

「いやとよ、行けば行(ゆく)ほど火も行くなり。脇より見れば、こゝとても燃えさふらふなり。」

と云ふ。

「田か畔(あぜ)か。」

と云へば、

「堤(つゝみ)ぞ堀(ほり)ぞの分(わ)きもなし。」

と語る。

 さても今、廿年(はたとせ)にも余(あま)らんに、その魂魄の殘ればこそ、かく燃えに燃えて見ゆれ。

「さぞ、修羅(すら)の巷(ちまた)の矢叫びも。」

と、思ひやらるゝわざなれ。

「よし、葭垣(あしがき)の間近く見ずとも。」

と、念佛(ねぶつ)とともに、歸りしなり。

 目(ま)の當たり、かゝる事、見侍りき。

 

[やぶちゃん注:筆者実録物で、前の「卷四」の掉尾と直連関する怪異である。

「寛永十一の夷則(いそく)二日」「夷則」は旧暦七月(文月)の異称。寛永十一年七月二日は一六三四年七月二十六日。

「若江」既出既注。河内国若江郡。現在の大阪府河内市内の若江を冠する地名のある一帯。ここ(グーグル・マップ・データ)。古地図を見てもこの附近は低湿地帯である。大阪城の南東六キロ圏内。

「有るか無きかの月」二日月であるから非常に細い上弦の月である。

「梶(かぢ)の葉風も」岩波文庫版で高田氏はこの「梶の葉」の部分だけに注して、『古く、七夕祭りの時、七枚の梶の葉に詩歌などを書いてそなえ、芸能の向上や恋の成就を祈った』と記しておられる。「梶」はイラクサ目クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera。実際には七夕に限らず、古代より神に捧げる神木として神聖視された樹木で、樹皮や葉が新撰の敷物などに使用されてきた。

「秋は秌(あき)かな」実際にはまだ夏という感覚を暦の上ではといなしたもので、同字を使うのを無風流とした異体字使用であろうが、実はこれによって「秋」「秌」という字にはこの後に出るところの「火」が含まれていることを暗示させる伏線のようにも思われる。

「禊萩(みそはぎ)」原典は「みそはぎ」、底本は「みそ萩」、岩波文庫版原文は『溝萩』と表記する。フトモモ目ミソハギ科ミソハギ属ミソハギ Lythrum ancepsウィキの「ミソハギ」によれば、『湿地や田の畔などに生え、また栽培される。日本および朝鮮半島に分布。茎の断面は四角い。葉は長さ数センチで細長く、対生で交互に直角の方向に出る。お盆のころ紅紫色』六『弁の小さい花を先端部の葉腋に多数つける』。『盆花としてよく使われ、ボンバナ、ショウリョウバナ(精霊花)などの名もある。ミソハギの和名の由来はハギに似て禊(みそぎ)に使ったことから禊萩、または溝に生えることから溝萩によるといわれる』。『秋の季語』とある。私は敢えて「禊萩」で表記したが、話柄に合わせて敢えて遊ぶなら、「精靈萩(みそはぎ)」としたいところである。

「螢」秋(暦上)の蛍を出して、まずは人の魂のような青白いそれを暗闇に舞わせるのは実景ながら、上手い漸層的手法である。

「焦がれ燃ゆる」蛍の末期の哀しき恋のそれを言いながら、やはり後の怪火への波状的伏線となっている。

「淚の玉も祭らん」蛍火を恋に焦がれ燃える男女の情炎にし、その儚い恋の涙から、人の儚い命から人魂に落ち着かせた。岩波文庫版の高田氏の注には、『魂祭り(七月十五日)を踏んだ表現』とある。

「踏めば惜し、踏まねば行かぬ道に敷くは、玉かあらぬか露深き」田圃道を踏み行けば恋し合う蛍を驚かせて互いを散らせてしまうことを「惜し」い、とまずは言っておいて、更に、後の、淡い月光や蛍火に煌めく道端の草々に置く「玉かあらぬか」と見紛う「深き」「露」(儚い命の常套的シンボル)をあたら散らせてしまうことを「惜し」いというのであろう。

「三十間」五十四メートル五十四センチ。

「煌々燿々(くはうくはうようよう)として」きらきらと有意に耀くさま。

「四、五尺」一メートル二十一センチから一メートル五十二センチほど。

「四、五間」七メートル二十八センチから九メートル九センチ。

「元和(げんわ)の軍(いくさ)」徳川が豊臣を滅ぼした「大坂夏の陣」のこと。大阪城の落城は慶長二〇(一六一五)年五月七日(グレゴリ暦六月三日)であるが、二ヶ月後の七月十三日に「元和」に改元している。

「五月六日に重義輕命(ぢうぎけいめい)の勇士、多く、こゝに死す」落城の前日五月六日に行われた「若江の戦い」。ウィキの「八尾・若江の戦い」(八尾は「やお」と読む。若江の南東から南の現在の大阪府八尾市内)によれば、午前五時頃、豊臣軍の木村勢が若江に着陣、先鋒を三手に分け、『敵に備えた。その右手に藤堂勢の右先鋒、藤堂良勝、同良重が攻撃をかけた。藤堂勢は兵の半数を失い敗走、藤堂良勝、良重は戦死した。木村は玉串川西側堤上に鉄砲隊を配置し、敵を田圃の畦道に誘引して襲撃しようともくろんだ』。午前七時頃、『井伊直孝は若江の敵への攻撃を決断、部隊を西に転進させた。井伊勢の先鋒は右手庵原朝昌、左手川手良列。木村勢を発見した川手は、玉串川東側堤上から一斉射撃後、敵に突入した。堤上にいた木村勢は西に後退し、堤は井伊勢が占拠した。川手はさらに突進したが』、『戦死した。そこに庵原も加わ』って『激戦となった。木村重成は自身も槍を取って勇戦したが戦死した。山口弘定、内藤長秋も戦死し、木村本隊は壊滅した』。『それまで戦闘を傍観していた幕府軍の榊原康勝、丹羽長重らは味方有利と見て木村勢左先手木村宗明を攻めた。宗明は本隊が敗れたため』、『大坂城へ撤退した』とある。

「はや、去りゆける」遠い昔に消え去ってしまった。

「御垣守(みかきもり)衞士(ゑじ)の焚(た)く火」「詞花和歌集」の「戀上」大中臣能宣の「題知らず」とする歌(二二五番歌)で「小倉百人一首」にも四十九番歌として採られている、

 

     題不知

御垣守衞士の焚く火の夜は燃え晝は消えつつものをこそ思へ

 

に基づく。「御垣守」(「もり」ではなく「もる」とする伝本もあり、私は「もる」の方が遙かに良いと思っている。定家がそうしなかったことを訝るぐらいである)内裏の諸門を警護する者。衛門府に属し、夜は篝火を焚いて門を守った。「衞士」は諸国から交替で招集された兵士ここは「御垣守」と同義である(だからこそわたしは前を「もる」と読みたいのである)。しかしまあ、彼らの姿は読まれていないわけだから(「御垣守衞士の焚く火の」は恋の炎を引き出すためだけの序詞)ムキになっても仕方ないか。しかし、まさにここで死んでいった連中は秀頼を守らんとした「御垣守」「衞士」であったのだ。その彼らの無念の思いが「燃えつゝ物思ふらんと、哀れに侍る」というこの荻田の友の台詞は、ただの風流の遊びではなく、重い

「邂逅(わくらば)」漢字表記は岩波版を用いた。「たまたま・偶然に・まれに」の意。

「行けば行(ゆく)ほど火も行くなり。脇より見れば、こゝとても燃えさふらふなり」この言が正確であるとすれば、天然ガスなどの噴出による発火現象ではなく、光学的自然現象ということになる。町屋や民家の灯の大気の逆転層による反映か。

「堤(つゝみ)ぞ堀(ほり)ぞの分(わ)きもなし」「田」・「畔(あぜ)」・「堤」・「堀」の区別なく、どこでも自在に発火し、消滅するというのである。ますます光学的錯覚であることが強く疑われる。

「さても今、廿年(はたとせ)にも余(あま)らんに」先に示した通り、話柄内時制は寛永一一(一六三四)年七月で、「大坂夏の陣」は慶長二〇(一六一五)年五月であるから、経過時間は実質十九年二ヶ月余りであるが、ここは年を数えでやっておいて月だけ比較換算したものだろう。

「よし、葭垣(あしがき)の間近く見ずとも」この「よし」のあとには底本も岩波を読点は打たない。原典は「よしあしがき」で総て平仮名。私は、ここは「葦(よし)葭(あし)」(孰れも同じ単子葉類植物綱イネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis を指す。難波の蘆(あし)は万葉以来のここの名景物である)で拵えた貧者の「垣」の意に、副詞の「よし」(仕方がない・ままよ・まあよかろう)の意を掛けたものと採る。されば、「よし葭垣」や「葦葭垣」では荻田の台詞の深い感懐のパンチが失われてしまう。そこでかく表記した。]

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