宿直草卷四 第九 月影を犬と見る事
第九 月影を犬と見る事
ある人、五月雨(さみだれ)の晴れ間に、里傳(さとづた)ひの道を行く。月は浮雲の薄きに包まれ、芝生露敷いて、貫(つら)拔き止めぬ玉の數は、崑山(こんざん)もかくやと覺しきに、眺めもいとゞ長き江(え)を、南向(むき)て行く。
芦(あし)も疎らに刈る澤の文目(あやめ)も分(わか)ぬところに、塘(つゝみ)を沿ふて、白犬あり。礫(つぶて)を以つて追へば、ひたもの、逃ぐ。靜かに行けば、犬も靜(しづか)に、止まれば、犬も止まれり。かくて、追(をふ)と思ひつゝ、十四、五町行く。一聲(こゑ)吠ゆる事もなし。
それより江の堤には沿はず、我行く道は橫なりしに、犬、見えずなる。
「こは如何に。」
と、又、元の方(かた)へ戾りて見れば、犬、あり。
不思議の思ひをなすに、何の別の事もなし。
濁水(にごりみづ)に、曇りし月の影、うつろひしなり。
犬と思ひし時は月と見えず。月と合點して、何ほど犬に見なさんとせしかども、犬とは嘗て見えざるなり。
「一念の趣くところ、異なものにて、十四、五町迷へり。知りて後は、迷ふて見んと思ひしかども、迷はれず。」
と語れり。
これやこの、李君が箭(や)走りて堅石(けんせき)を穿ち、王覊(わうき)が戰(いくさ)敗れて深淵を渡ると云ひ、虎と見て射る矢も岩に立つ、と讀みしやまと哥(うた)の例(ためし)か。唯識(ゆいしき)の貴(たふと)き論に、三性(さんしやう)を立(たて)て偏計依他(へんけゑた)の迷ひも、圓成實(ゑんじやうじつ)の明(あきら)かなるに到りては、迷はんと思ふとも、如何で迷はん事を演(のべ)給へり。此話にも知られ侍る。かの金口(きんく)、佛語(ぶつご)に眞(まこと)を教へ、未來を勸(すゝ)むるの巍(よそほい)、その操(みさほ)の貴き、また宜(むべ)ならずや。
[やぶちゃん注:またしても犬で連関するが、これは、心霊が写っているとする悪意のない画像系の、錯視による思い込みを原因としたシミュラクラの完全疑似怪談。
「崑山(こんざん)」中国古代の伝説上の神仙の山で、中国の西方にあって黄河の源と考えられた崑崙山(こんろんざん)のこと。
「江(え)」川。
「芦(あし)も疎らに刈る澤の文目(あやめ)」「あやめ」には「菖蒲(あやめ)」を元として序詞的に引き出した上で、それに「物の区別」の意の「文目」を掛けて下へ意味を繫げた。
「ひたもの」既出既注。副詞で「一途に・只管(ひたすら)・矢鱈(やたら)と」の意。
「十四、五町」一キロ半から一キロ六百メートル強。
「我行く道は橫なりし」「江の堤には沿は」なかったが、堤の陸側の、少し離れた横の、やはり川に附かず離れずの道であった。
「李君が箭(や)走りて堅石(けんせき)を穿ち」「史記」の「李將軍列傳」に出る李広(前漢の武将で、かの李陵の祖父に当たる)の逸話、『廣出獵、見草中石、以爲虎而射之、中石沒鏃。視之石也。因復更射之、終不能復入石矣。』(廣、出でて猟(かり)し、草中の石を見、以つて虎と爲して之れを射、石に中りて鏃(やじり)を没す。之れを視れば石なり。因りて復(ま)た更に之れを射るも、終(つい)に復た石に入ること能はず。)に基づく。これは安静の好きな謡曲の、「戀重荷」にもシテの台詞で『重くとも。思は捨てじ唐國の。虎と思へば石にだに。立つ矢の有るぞかし。いかにも輕く持たうよ』と使われているが、この詞章は寧ろ後の「虎と見て射る矢も岩に立つ、と讀みしやまと哥(うた)」に示した了誉の和歌がネタ元かとも思われる(竹本幹夫氏の『「作り能」の初期形態』(PDF)を参照されたい)。
「王覊(わうき)が戰(いくさ)敗れて深淵を渡る」全く不詳。しかし、前の章句と対句になっているから、「王覊」なる武将が「戰(いくさ)」に「敗れて」、失意のどん底の中、敗走した際、その絶望的な意識が物理的外界をも制して、彼は非常に深い「淵を」さえ浅瀬を「渡る」ように渡ってしまっていた、というのであろう。原拠を御存じの方は、是非、御教授願いたい。
「虎と見て射る矢も岩に立つ、と讀みしやまと哥(うた)の例(ためし)」これは、
虎と見て射る矢は石に立つなるをなど我が戀の通らざるらん
という、南北朝から室町中期にかけて生きた浄土宗の学僧で神道・儒学・和歌にも精通した聖冏(しょうげい 興国二年/暦応(一三四一)年~応永二七(一四二〇)年:号は酉蓮社了誉(ゆうれんじゃりょうよ))の「古今集序註」に出る彼の和歌であろう。
「唯識」この世の事物現象は客体として実在しているものではなく、人間の心の根源である「阿頼耶識(あらやしき)」が展開して生じたものに過ぎないとする思想。法相宗(ほっそうしゅう)の根本教義。
「三性(さんしやう)を立(たて)て偏計依他(へんけゑた)の迷ひも、圓成實(ゑんじやうじつ)の明(あきら)かなるに到りては、迷はんと思ふとも、如何で迷はん事を演(のべ)給へり」「三性」はインドの唯識学派の所説の一つで、総ての存在の本性・状態の在り方を有・無・仮(け)・実という点から「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」・「依他起性(えたきしょう)」・「円成実性(えんじょうじっしょう)」の三種に分けて説いたもの。「三自性・三性相・三種自性・三相」などとも称する。「遍計所執性」は「遍(あまね)く分別によって構成された性質のもの」「虚妄の存在」という意味で、「世俗的生活で経験される諸々の事物は主観が妄執によって構想したものに過ぎない」「相対的存在」ということを指し、「依他起性」は「他に依存して生起する性質のもの」の意で、「万物は純粋に主観の作用の中に存在するものであって因果関係によって他者に依存して生起するもの」であることを言う。最後の「円成実性」は「円満・完成・真実の性質のもの」という意で、これが「絶対の境地」を表わしているとする。前二者「遍計所執性」と「依他起性」は孰れも無自性であるが、この両者の無自性を正しく認識するとき、存在の絶対的様相、即ち、「円成実性」が真の認識として立ち現われる。それは「無常」であって、変遷する現実世界の中に立ち現れながらも、それは主客の対立を超えているとする。それは「実相・真如・法界」とも呼ばれるものであって,「完全絶対の清澄な悟りの世界」であるとする考え方である(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」を参考にした)。如何で迷はん事を「演」(のぶ)は論理的に説明するの意で、虚妄であり、相対的な存在でしかないシミュラクラを認識した時はその下らない現象(道家思想で言う「物化」)を理屈で真面目に語ったり、或いは完全再現をしたり、今一度同様の意識に立ち戻るなどということは出来ない相談だ、と反語で言っているのである。
「金口」「きんこう・こんく」とも読む。釈迦の口を尊んでいう語で、転じて広く釈迦の説法を指す。
「未來」来世。ここは正しき仏法の王国としての極楽浄土。
「巍(よそほい)」当て訓(歴史的仮名遣の誤りはママ)。「巍」の原義は「高い」「高大なさま」で、現行でしばしば使われるこの字の唯一の熟語「巍然」は山の高く聳えて広大なさま以外に、人物が甚だ優れていることの形容として用いられる。]