甲子夜話卷之四 17 大岡、神尾、乘邑の器量を賞する事
4-17 大岡、神尾、乘邑の器量を賞する事
大岡越州の、山田奉行より德廟の御鑑を蒙り、寺社奉行までに陛りしことは、世の人知る所なり。其人才智も衆に勝れたりしが、常に儕輩に對して松平左近將監計は、其才智の敏捷なること梯しても及ぶべからずと云しとなり。その故は、事もつれて入組、いかんとも斷案しがたき公事訴訟の類を、數日を費して調べ、漸條理貫通するやうになりたることを持出て、左監へ申せば、其半にも至らぬ内に、此事はかくかく移りて、かく結局すべし。さればかくは斷案せらるゝ心得かと、先より申さるゝことの、いつも露違ふこと無りしとぞ。左候と云へば、夫にてよし。今日は事多ければ、詳に承るに及ばずなどありしこと、常の事なりしと云。かゝる神妙の才、亦世に出べしとも思はれずと、人に語りしとなり。又神尾若狹守、享保中司農の長官にて、種々の功績ありしこと、これも亦人の能知れる所なり。若狹守の申たるは、左近將監ほど人をよく使ふ人は無し。あの如く使はれては、誰にても働らかねばならぬと云ける。その故は、あるとき若州病より起て登營し、左近に謁すれば、病氣快やとの尋なり。若州いやとよ未だ全く快らず、此節御用差支べしやと存ずるまま、押て出勤せしと答へしかば、左近色を正くして、其許出勤せずとて御用の支あるべしやと、苦々しく申されければ、若州も失言を悔て退きぬ。扨若州、朝散して家に歸れば、左近より使なり。書札を披讀すれば、病後食氣も未だ薄かるべし。此品調理ほゞよく覺へたれば、分ち進ずとて、鱚の製したるを小重に入れて送りしとなり。
■やぶちゃんの呟き
「大岡」御存知、名奉行大岡越前守忠相(延宝五(一六七七)年~宝暦元(一七五二)年)。千七百石の旗本大岡忠高の四男として江戸に生まれたが、貞享三(一六八六)年満九歳で同族の旗本大岡忠右衛門忠真の養子となって忠真の娘と婚約した。第五代将軍徳川綱吉の時代に寄合旗本無役から元禄一五(一七〇二)年に書院番となり、翌年には元禄大地震に伴う復旧普請のための仮奉行の一人を務め、宝永元(一七〇四)年には徒頭、三年後の宝永四年には使番、翌宝永五年に目付に就任、幕府官僚として成長、第六代将軍家宣の時(正徳二(一七一二)年一月)に遠国奉行の一つである山田奉行(伊勢奉行)に就任した。七代将軍徳川家継の時代の享保元(一七一六)年には普請奉行となって江戸の土木工事や屋敷割りを指揮、同年八月に吉宗が将軍に就任すると、翌享保二年に江戸町奉行(南町奉行)となった(以上はウィキの「大岡忠相」に拠った)。
「神尾」「かんを」と読む。旗本神尾若狭守春央(かんおはるひで 貞享四(一六八七)年~宝暦三(一七五三)年)。ウィキの「神尾春央」によれば、『苛斂誅求を推進した酷吏として知られており、農民から憎悪を買ったが、将軍吉宗にとっては幕府の財政を潤沢にし、改革に貢献した功労者であった』とある。『下嶋為政の次男として誕生。母は館林徳川家の重臣稲葉重勝の娘。長じて旗本の神尾春政の養子とな』。元禄一四(一七〇一)年に仕官し、『賄頭、納戸頭など経済官僚畑を歩み』、元文元年(一七三六)年に勘定吟味役、翌年には勘定奉行となった。時に『徳川吉宗の享保の改革が終盤にさしかかった時期であり、勝手掛老中・松平乗邑の下、年貢増徴政策が進められ、春央はその実務役として積極的に財政再建に取り組み、租税収入の上昇を図った。特に』延享元(一七四四)年には『自ら中国地方へ赴任して、年貢率の強化、収税状況の視察、隠田の摘発などを行い、百姓たちからは大いに恨まれたが、その甲斐あって、同年は江戸時代約』二百六十『年を通じて収税石高が最高となった』。『しかし、翌年』、ここに出る『松平乗邑が失脚した影響から春央も地位が危うくなる。春央は金銀銅山の管理、新田開発、検地奉行、長崎掛、村鑑、佐倉小金牧などの諸任務を』一『人で担当していた他、支配役替や代官の所替といった人事権をも掌握していたが』、延享三年九月に『それらの職務権限は勝手方勘定奉行全員の共同管理となったため』、彼の影響力は著しく減衰した。『およそ半世紀後の本多利明の著作「西域物語」によれば、春央は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と述べたとされており、この文句は春央の性格を反映するものとして』『広く知られている』。『また、当時の勘定組頭・堀江荒四郎芳極(ほりえ あらしろう ただとう)と共に行った畿内・中国筋における年貢増徴の厳しさから、「東から かんの(雁の・神尾)若狭が飛んできて 野をも山をも堀江荒しろ(荒四郎)」という落書も読まれた』とある(この最後の落書のエピソードは本「甲子夜話」が出典)。
「乘邑」松平左近将監(さこんのしょうげん)乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)。肥前唐津藩第三代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主。老中(享保八(一七二三)年就任)。複数回既出既注。
「御鑑」「御感」の誤字であろう。
「陛りし」「のぼりし」。
「儕輩」「さいはい/せいはい」仲間。同輩。同僚。
「計は」「ばかりは」。
「梯」底本では『てい』とルビする。梯子(はしご)のこと。
「入組」「いれくみ」。
「公事訴訟」「くじそしよう」。現在の民事事件の裁判。
「類」「たぐひ」。
「漸」「やうやく」。
「持出て」「もちいでて」。
「其半にも至らぬ内に」「其半」は「そのなかば」。報告内容の詳細な説明が半分も終わらないうちに。
「此事はかくかく移りて、かく結局すべし。さればかくは斷案せらるゝ心得か」「この公事訴訟案件はそこからこれこれのように推移して、このように結果したものと推測される。さればこれこれといったような裁きを、貴殿は決せられのではないかと推察するが、如何?」。
「先より申さるゝこと」これから拙者がお話しようとした経緯の推移とその結審案を、みるみるうちに簡潔に推測なされて申される、その内容は。
「露違ふこと無りし」「つゆたがふことなかりし」。仰せられた内容には、ほんの少しも違っていることがなかった。
「詳に」「つまびらかに」。
「出べし」「いづべし」。
「享保中」一七一六年~一七三六年。
「司農」(しのう)は中国古代の官名で農政を司ったことから、幕府の財政担当業務の長官であった勘定奉行の別称。
「能知れる」「よくしれる」。
「起て登營し」「起て」は「たつて」。病身を無理におして登城し。
「快や」「よきや」。底本のルビに従った。
「尋」「たづね」。
「差支べしや」底本ではルビして「さしつかゆべしや」と読んでいる。
「押て」「おして」。
「其許」「そこもと」。
「支」「つかへ」。
「悔て」「くひて」。
「朝散」「てうさん(ちょうさん)」は江戸城を下がること。
「使」「つかひ」。
「病後食氣も未だ薄かるべし」病み上がりで食欲もまだあまりないことと推察仕る。
「此品調理ほゞよく覺へたれば」この品はちょっとばかり上手く料理(つく)ることが出来たと思うたによって。
「鱚」高い確率で条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目キス科キス属シロギス Sillago japonica である。身は脂肪が少なく柔らかい白身で美味とされる。白鱚の旬から見てもこのシークエンスは夏と思われ、病み上がりの贈答で「製したるを小重に入れて送りし」とあることからも、これは酢塩でしめたものと推察される。