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2017/07/13

柴田宵曲 續妖異博物館 「金の龜」

 

 金の龜

 

 玄宗皇帝の時に或方士が一疋の龜を獻じた。直徑一寸ぐらゐの小さなものであるが、總身から金色の光りを放つてゐる。方士の言によると、この龜は何も食はぬが、枕の笥(はこ)にでも入れて置けば、大蛇の毒を避けることが出來るといふ話であつた。たまたま帝の寵を受けた臣下の一人が、何かの連累の罪を問はれて、南方に流竄(るざん)されることになり、帝としては赦してやりたく思はれたが、國家の法を枉(ま)げるわけに往かぬので、ふとこの龜のことを思ひ出して、びそかにこれを與へられた。聞けば南方には大蛇が多いさうな、これを常に身邊近く置いたらよからう、といふことで、その男は有難く頂戴して出發した。

[やぶちゃん注:「枕の笥(はこ)」常に寝台の枕元に置いて枕を収納する箱のことと解釈しておく。]

 

 象郡の或村に著いた時、彼の泊つた宿屋には一人の旅客もなく、ひつそり閑としづまり返つてゐた。その夜は晝のやうにいゝ月夜であつたに拘らず、雨風の聲が遠くに聞え、それがだんだん近付いて來る模樣なので、例の龜を出して階上に置いた。やゝ暫くして龜は首を伸ばし、冠の紐ぐらゐの氣を吐いたが、その氣は三四尺の高さに上り、徐々に散じて行つた。龜は一たび氣を吐いた後、安らかに休んで居り、風雨の聲も聞えなくなつた。この人は室内に在つて、これだけの事實を見たに過ぎなかつたが、夜が明けると驛の役人達がやつて來て意外な話を知らせた。昨日役人達がこの人を迎へに出る途中、あやまつて一疋の報冤蛇(はうえんだ)を殺した。今夜は必ず祟りを受けると覺悟して、附近の人々は三十里、五十里の遠方まで避難したが、役人達はさう遠くには行かず、近くにある山の中の岩穴に隱れて夜の明けるのを待つた。こゝにゐながら何事もなかつたのは、全く神助によるもので、人力の及ぶところでない、といふのである。やがて往來の人が相次いで到著する。その人達の話によると、來る道に大蛇が十數疋も糜爛(びらん)したやうになつて死んでゐる。これ以來報冤蛇の話は全く耳にしなくなつたが、どうして多くの蛇が一時に斃(たふ)れたか、その消息を知る者は一人もなかつた。一年ほどたつて南方流竄の臣も赦されて歸り、金の龜を皇帝に返上する際、彼は感泣して、自分の生命のみならず、南方一帶の人間が災害から救はれたのは、第一に聖德、第二に神龜の力による旨を奏上した(録異記)。

[やぶちゃん注:「象郡」(ぞうぐん)は秦及び漢代にかけて現在のベトナム北部から中部に置かれた郡であるが、この話柄内時制にあっても既に旧郡名で、ここは恐らくベトナム国境を越えたベトナム北部附近を指しているように思われる。中部(現在のベトナムのゲアン省)はこの頃、徳州となり、さらに驩(かん)州と改められた。六二八年には驩州都督府が置かれているが、ここは後に現在のハノイの安南都護府の管轄となっている。

「報冤蛇(はうえんだ)」「太平廣記」の「蛇一」に「報冤蛇」として「朝野僉載(ちょうやせんさい)」(既注)からの引用として『嶺南有報冤蛇、人觸之、卽三五里隨身卽至。若打殺一蛇、則百蛇相集。將蜈蚣自防、乃免』とある。岡本綺堂の「中国怪奇小説集」の「報寃蛇」によれば、「二尺ばかりの青い蛇」とあって大蛇ではない。しかし、その晩泊まった宿屋の亭主から、それに手出し(そこでは杖で撃っただけ)をしただけで、その毒気が人体に転移し、しかもその蛇本体が「百里の遠くまでも追って来て、かならず其の人の心(むね)を噬(か)」むと言われて恐懼する。旅人が「懼れて救いを求めると、主人は承知して、龕(がん)のなかに供えてある竹筒を取り出し、押し頂いて彼に授け」、「構わないから唯ただこれを枕もとにお置きなさい。夜通し燈火(あかり)をつけて、寝た振りをして待っていて、物音がきこえたらこの筒をお明けなさい」と忠告した。「その通りにして待っていると、果たして夜半に家根瓦のあいだで物音がきこえて、やがて何物か几(つくえ)の上に堕ちて来た。竹筒のなかでもそれに応(こた)えるように、がさがさいう音がきこえた。そこで、筒をひらくと、一尺ばかりの蜈蚣(むかで)が這い出して、旅人のからだを三度廻って、また直ぐに几の上に復(かえ)って、暫くして筒のなかに戻った。それと同時に、旅人は俄かに体力のすこやかになったのを覚えた」。「夜が明けて見ると、きのうの昼間に見た青い蛇がそこに斃(たお)れていた。旅人は主人の話の嘘でないことを初めてさとっ」たとある。岡本の同書「支那怪奇小説集」は所持するが、時間を節約するため、以上は「青空文庫を加工させて貰った。なお、この蛇、大きさと色からは実在する蛇がモデルではあろうが、中文サイトでも積極的に実際の種に比定する叙述は見当たらないようである。

「三十里、五十里」唐代の一里は五百五十九・八メートルしかないから、十七キロメートル弱から二十九キロメートル相当となる。

 以上は五代の蜀の道士杜光庭(八五〇年~九三三年)の撰になる志怪集「錄異記」の「卷五」に載る以下。

   *

明皇帝、嘗有方士獻一小龜、徑寸而金色可愛。云、「此龜神明而不食、可置之枕笥之中、辟巨蛇之毒。」。上常貯巾箱中、忽有小黃門、恩渥方深而爲骨肉所累、將竄南徽、不欲屈法免之、密授此龜。敕之曰、「南荒多巨蟒、常以龜置於側、可以無苦闔者。」。拜受而懷之。洎達象郡之屬邑、里市綰舍、悄然無一人。投宿于旅館、飮膳芻、豢燈燭、供具一無所闕。是夜、月明如晝、而有風雨之聲。其勢漸近、因出此龜、置於階上。良久、神龜伸頸吐氣、其大如艇直上、高三四尺、徐徐散去。已而龜遊息如常、向之風雨聲亦已絶矣。及明、驛吏稍稍而至、羅拜庭下、曰、「昨知天使將至、合備迎奉、適綠行旅、誤殺一蛇。衆知報冤、蛇必此夕爲害。側近居人、皆出三五十里外、避其毒氣。某等不敢遠去、止在近山巖穴之中、伏而待旦。今則天使無恙、乃神明所祐、非人力所及也。」。久之、行人漸至云、當道有巨蛇十數、皆已糜爛。自此無復報冤之物、人莫測其由。逾年、黃門應召歸長安、復以金龜進上、泣而謝曰、「不獨臣性命、賴此生全。南方之人、永祛毒類、所全人命、不知紀極、實聖德所及、神龜之力也。」。

   *

なお、宵曲の梗概はよく抑えてあるが、原文との比較対象のために、やはり岡本綺堂の「中国支那)怪奇小説集」の「青空文庫」版の「異亀」の載る頁をリンクさせておく。なお、岡本のそれは戦前の昭和一一(一九三六)年の刊で、本書より遙かに先行する。]

 

 これに似た金の龜の話は同じ唐時代にもう一つある。史論が將軍になつた時、妻女の室に當つて不思議な光のあるのに氣が付いた。それから夫婦一緒に室内を隈なく搜して見たが、何も見當らぬ。或日妻女が早く起きて、化粧箱の蓋を取つたら、中に錢ぐらゐの大きさの金色の龜がゐて五色の氣を吐き、その氣は見る見るうちに室内に滿ち渡つた。これは方士が玄宗皇帝に獻じ、皇帝から南方流鼠の臣に賜はつて、南方の報冤蛇を掃蕩した龜の同類らしい。鏡ぐらゐの大きさで金色の光りを放つところ、五色の氣を吐くところ、一々比較對照するまでもあるまいと思ふ。史論が將軍になつた時に出現したのだから、吉兆瑞相であることは疑ひを容れぬが、この龜の吐いた氣は室内に滿ち渡つただけで、一夜にして報冤蛇を斃し盡すやうな奇蹟は演ぜられてゐない。その家常にこれを養ふといふ外、何の記載もないのが物足らぬ。

[やぶちゃん注:「史論」不詳。但し、出典である「酉陽難狙」の、別な「卷二」の「玉格」の話にも登場している。

「五色」道家思想の根本にある陰陽五行思想では「五色」は緑(東)・赤(南)・黄(中央)・白(西)・黒(北)が五色として配される。

「その家常に」「その家、常に」。以下に見る通り、原文は「後常養之」。

 以上の出典を宵曲は記していないが、次段で語る「酉陽難狙」の「卷十五 諾皋記下」に出る以下である。しばしば宵曲はこうした不親切をする。現行、彼は書誌学者と片書きされるが、これはその名にし負うていない残念なことである。

   *

史論作將軍時、忽覺妻所居房中有光、異之。因與妻遍索房中、且無所見。一日、妻早妝開奩、奩中忽有五色龜、大如錢、吐五色氣、彌滿一室。後常養之。

   *]

 

「酉陽雜俎」によれば、寧晉縣の沙河の北に大きな棠梨の樹があり、百姓が常に祈禱するところになつて居つたが、或時何千といふ群蛇が東南より來つて、沙河の北岸及び南岸に集結した。これを見た三疋の龜がその周圍を繰り繞り步くと、蛇は悉く死んでしまつた。その蛇の腹には矢で射られたやうな疵があつたさうである。前の象郡の話と云ひ、またこの沙河の話と云ひ、龜と蛇との間には何か宿敵のやうな因緣があつて、一溜りもなく斃されるのであらうか。この龜は何色をしてゐたかわからぬが、やはり直徑一寸ぐらゐの小さなものであつた。

[やぶちゃん注:「寧晉縣」現在、河北省邢台(けいだい)市寧晋県。(グーグル・マップ・データ)。「沙河」の地名は確認出来なかった。

「棠梨」(とうり)は、本邦で「ずみ」(「酸実・桷)とも呼ぶ林檎の近縁種、バラ目バラ科ナシ亜科リンゴ属ズミ Malus toringo に一応、同定はしておく。

 以上は「卷十 物異」の以下。原典は時制が記されている。建中四年は七八三年で唐の徳宗の治世である。

   *

龜、建中四年、趙州寧晉縣沙河北、有大棠梨樹。百姓常祈禱、忽有群蛇數十、自東南來、渡北岸、集棠梨樹下爲二積、留南岸者爲一積。俄見三龜徑寸、繞行積傍、積蛇盡死。乃各登其積、視蛇腹各有瘡、若矢所中。刺史康日知圖甘棠奉三龜來獻。

   *]

 

 報冤蛇などといふ厄介なものの居らぬ日本には、不思議な金の龜も棲息せぬのかも知れぬ。「めでたき風景」(小出楢重)の中の「龜の隨筆」を讀むと、小出氏の家は大阪堺筋の藥屋で、膏藥天水香の龜の看板が屋根の上に飾られてゐたさうである。それは殆ど一坪を要する木彫りの大龜で、用材は楠であつたが、この龜が「地車の唐獅子の如く、眼をむいて波の上にどつしりと坐り、口を開いて往來をにらんでゐる」相貌は、近所の子供達の魂を脅かしたものらしい。この龜には奇蹟があつて、嶋の内燒けといふ大火の火の手が、鄰家まで來て急に風向きが變つたのは、天水香の龜が水を噴いた爲だといふことになつてゐる。その後堺筋の樣子が一變したので、龜も屋根の上にゐられなくなり、下町の心光寺に預けられた。或年心光寺の本堂が炎上した際も、この龜は庫裡に在つて燒失を免れた。奇蹟は二度繰り返されたといふべきであらう。

[やぶちゃん注:「めでたき風景」昭和五(一九三〇)年創元社刊の小出の随筆集。

「小出楢重」(こいでならしげ 明治二〇(一八八七)年~昭和六(一九三一)年)は洋画家。彼は大阪府大阪市南区長堀橋筋一丁目(現在の中央区東心斎橋)の一子相伝の膏薬「天水香」の製造販売を家業とする家の長男として生まれ、所謂、典型的な大阪の「ぼんち」(お坊ちゃま)であった。

「龜の隨筆」青空文庫の「風景」で全文が読める。

「心光寺」大阪府大阪市天王寺区下寺町にある浄土宗心光寺。心斎橋筋の南東直近である。(グーグル・マップ・データ)。]

 

 生きた金の龜に對し、木彫りの大龜を擔ぎ出したのでは釣合ひが取れぬやうだが、吾々の手には然るべき持ち駒がない。日本でうつかり金龜子などと書くと、コガネムシと間違へられる虞れがあるから、しばらく天水香の看板に名代を勤めさせることにする。金の龜は氣を吐いて報冤蛇を斃し、木の龜は水を噴いて火を斥ける。「和漢新撰蒙求」の材料にならぬこともなからう。天水香の大龜は今存否を知らぬけれど、「めでたき風景」の插畫の中にこの龜があり、水を噴いて火焰をしづめるところまで畫いてあるから、たとひ本物は亡びても、永くその面影を偲ぶことが出來る。

[やぶちゃん注:「和漢新撰蒙求」(わかんしんせんもうぎゅう:現代仮名遣)これは恐らく架空の書物で、夏目漱石の「吾輩は猫である」の「六」で迷亭が仮想書として示す「新撰蒙求」を捩ったものであろう。因みに「蒙求」は無論、知られた中国の初学者向け教科書で、本邦でも平安時代以降、長期に亙って使用された。そもそもが同小説のこのシーンには仕掛けがあり、臍曲がりの頑固者の「漱石」というペン・ネームの濫觴である「漱石枕流」の故事は、実にこの「蒙求」に記されているのである。

「天水香の大龜は今存否を知らぬけれど」「めでたき風景」の「龜の隨筆」の末尾には、心光寺回禄の際にも焼けずに残った話の後に、

   *

 近ごろその亀も、いよいよ朽ちはてようとしつつある時、たまたま大朝(だいちょう)の鍋平朝臣(なべひらあそん)、一日、私に宣(のたも)うよう、あの亀はどうした、おしいもんや、一つそれを市民博物館へ寄附したらどうやとの事で、私も直に賛成した。そして、亀は漸(ようや)くこの養老院において、万年の齢(よわい)を保とうというのである。

   *

(青空文庫版より引用)とあるが、大阪市民博物館なるものは存在せず、あったとしても果たしてそこに寄贈されたかも確認出来ず、「膏薬 天水香 亀 看板」のグーグル画像検索を掛けてもそれらしいものは出ない(因みに、これで掛けると、驚くべきことに頭に出るのは何故か私の芥川龍之介の「江南游記」の画像ではないカイ!? 何じゃあ? こりゃ?!)。現存しないと考えた方がよかろう。]

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