宿直草卷四 第十四 魔法を覺えし山伏の事
第十四 魔法を覺えし山伏の事
その上(かみ)、因幡伯耆(いなばはうき)の大守何某(なにがし)の人の家人(けにん)、伯州に住む人の内にて、常に使ひ給ふ茶碗、見えず。
近習(きんしゆ)の内に、
「これしきのもの誰(たれ)か盜まん。また外(ほか)の者、此間(このま)へ入らず。不審なる事よ。」
と云ふに、茶入(ちやいれ)も見えず、水差し、釜なども無(な)ふなる。筆架(ひつか)硯屛(けんびよう)文沈(ぶんちん)樣(やう)の物も失(う)する。
「不思議なる事よ。」
とて、ひたと詮索するに、盜人(ぬすびと)、さらに知れず。祿は萬をもつて數へつる人なれば、内外(うちと)嚴(きび)しく番をするに、家内(かない)の調度(てうど)、大方(おほかた)無くなる。日に三色(いろ)、四色、あるは十、二十づゝ失(う)する。
上下、皆、呆れ果ててありしに、ある日、また、臟部屋(ざうべや)にある臼(つきうす)、地(ち)より一尺ばかり上を水の流るゝやうに、行く。中間二、三人、居(お)り合ひて、引き止(とゞ)むれども、え取りも止(とゞ)めずして失せたり。後(のち)には、かやうに目に見えて失せ、大方(おほかた)、殘り少なくなる。よからぬ怪異(けい)なりけり。
かゝる所へ、出入する人、
「調度の失せしは、そこに住む山伏、慥(たしか)に知り申べく候。」
と。
かねて思ひ據(よ)りや有(あり)つらん、内證(ないせう)、かくと告(つぐ)る。
「やれ、召せ。」
とて、山伏、參る。
「しかじかなり。汝、よく知りてん。」
と云ふ。
「ありやうに申せ。少(すこし)も僞(いつは)らば曲事(くせごと)なるべし。」
と聞えしかば、山伏、赤面して、
「其所(そこ)にさふらはん。」
と云ふ。
やがて、人、遣りて見するに、屋敷より十四、五町隔てて、森の内、深き谷あり。失せし道具、一つも損せず、有(あり)けり。
「さて如何なれば、またかくはせしぞ。」
とあれば、
「されば、御道具、盜むべきにてはなし。御祈禱を仰(おほせ)つけられ候やうにと存じ、かく致し候。」
と云ふ。
「さて。また何として盜み出だせしぞ。」
とあれば、
「それがし、狐を使ひ申候へば、何やうの事も調(とゝの)ひ申(まうす)。」
と語る。
「さては恐ろしき工(たくみ)かな。且(かつ)うは憎き振舞ひなり。成敗(せいばい)に命とるべきなれど、僧形(さうぎやう)なれば、許す。殿の領地、兩國には叶ふべからず。」
とて、拂ひ給へり。
思ふに此山伏、飯綱(いづな)とやらん鄙法(ひはう)を覺えて、白狐(びやくこ)を使ひしと見えたり。竺(ぢく)の幻術、倭(わ)の魔法、皆、言般(これつら)を得たり。一時(いちじ)の妙に化(ばか)かされて一心を亂すべからず。
この念をやらんとては、正法(しやうほう)に寄特(きどく)なしとて有所得(うしよとく)の心を捨てしめ、眞諦(しんたい)の實理(じつり)を勸(すゝ)め、究竟(くきやう)、涅槃の悟りに導き、或るは千差萬別(せんしやまんべつ)の機に隨(したがつ)ては、大千森羅(たいせんしんら)の諸法を説き、自在神通(じざいじんつう)の奇瑞を現(あらは)すは、また假諦(けたい)門の契事(かいじ)なり。有用成事(うようじやうじ)とても無體則空(むたいそくくう)の理(り)を離れず。無一物(むいちもつ)の所より、無盡藏の益(やく)多きは、獨り、我(わが)佛法か。
[やぶちゃん注:「因幡伯耆(いなばはうき)の大守何某(なにがし)」旧因幡国及び伯耆国は江戸時代を通じて鳥取藩で終始、池田氏が治めた。
「家人(けにん)」「伯州に住む人」「祿は萬をもつて數へつる人」となると、これはもう、鳥取藩の家老クラスとしか考えられない。ウィキの「鳥取藩」を見る限りでは、家老荒尾但馬家(伯耆米子領一万五千石・藩主外戚・米子城代)及び家老荒尾志摩家(伯耆倉吉領一万二千石・藩主外戚)の二家辺りがモデルか。
「三色(いろ)、四色」この場合の「色」は助数詞的用法で「品」「種」の意。
「臟部屋(ざうべや)」各種の品を収蔵する部屋の意か。母屋から完全に独立していたら、「藏」と呼ぶはずであるから、母屋の中か、それに付属した形で存在する部屋と思われる。但し、近世のそうした部屋は圧倒的に「納戸(なんど)」と呼ばれることが多く、私はこの「臟部屋」という表記は見たことがない。「日本国語大辞典」では同じ発音で「雑部屋」というのが見出しとして出、これはいろいろなものを入れておく「物置き部屋」の意であり、ここはただの搗き臼であるから腑に落ちる。
「臼(つきうす)、地(ち)より一尺ばかり上を水の流るゝやうに、行く。中間二、三人、居(お)り合ひて、引き止(とゞ)むれども、え取りも止(とゞ)めずして失せたり」怪奇現象が明確に事実として示される(ただ見えている場合は錯覚の範囲内であるが、複数の中間がそれを制止させようとしたところで怪異が現実を決定的に侵犯するのである)キモの部分で、描写が上手い。
「そこに住む」近くに住む。
「思ひ據(よ)り」思い当たるところ。心当たり。
「内證(ないせう)」家内に広く公表することはせずに、側近の者がごく内密に直接、主人に伝えたことを指す。ここは現象が怪奇なものであるからではなく、その真犯人が家内の者もよく知っている近くに住む修験者であるということを聴けば、それを真に受けた血気にはやった者が彼に乱暴を働いたりして、ところが、いざ、後になってそれは誤認だったなどということになれば、それこそ主家の面目に関わるからである。
かくと告(つぐ)る。
「曲事(くせごと)なるべし」ここは「法に背いた処罰すべきゆゆしき大犯(だいぼん)である」の意。
「其所(そこ)にさふらはん」消失した物品の具体的な在り処(か)(森の中の深い谷)を言ったのである。
「十四、五町」一キロ半強から一キロ六百三十六メートル。
「御祈禱を仰(おほせ)つけられ候やうにと存じ、かく致し候」やや判りにくいが、「そうした訳の分からない怪奇現象を起こせば、近くに住む修験者である私(話者である山伏自身のこと)に祈禱を依頼して呉れるに違いない(そうすれば、有意な礼金を得られる)と思いまして、このようなことをしでかしてしまいまして御座る」と言った意味であろう。
「殿の領地、兩國には叶ふべからず」「構(かまえ)」「払い」などと呼ばれた追放刑。この場合は軽追放(けいついほう)相当であるが、公的な藩の処罰ではなく、この主人の命じた一種の私刑であるから、鳥取藩だけを禁足地とするものである。幕府が公式に認めていた本来の「軽追放」は、犯罪者の居住国及び当該犯罪行為を行使した或いはしようとした国の他に、江戸十里四方と京都及び大坂、さらに東海道の道筋と日光街道への立ち入りが禁じられた(但し、後には犯罪者が百姓・町人の場合には居住国・犯罪国・江戸十里四方のみに限られた)。なお、所有する田畑や家屋敷なども当然の如く没収されたから、この場合も山伏のそれはこの主人がそうしたものと考えてよい。
「飯綱(いづな)」管狐(くだぎつね。或いは「イヅナ」「エヅナ」とも呼んだ。狐とは全く別の幻獣とされるケースと妖狐と同類とするケースがあり、ここは直後に「白狐」とあるので後者である)と呼ばれる霊的小動物を使役して、託宣・占い・呪(のろ)いなどのさまざまな法術を操った民間の呪術者である「飯綱使い」の法術。飯綱使いの多くは修験系の男であった。「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 始めて聞く飯綱の法」の注を参照されたい。
「鄙法(ひはう)」公的な仏教や神道や陰陽道からは外れた(但し、それらの影響を大きく受けた)民間に伝わる怪しげな法術・呪法の意であろう。
「竺(ぢく)の幻術」「竺」はインドの古名であるから、ここは仏教系の外道の呪法。
「倭(わ)の魔法」本邦土着の民間信仰やその後の神道系の外道の呪法。
「言般(これつら)」「これづれ」と同じ。名詞で「これくらいのもの・この程度の対象物」の意。「こうした忌まわしい怪しげな呪法の仕方」の意であろう。
を得たり。一時(いちじ)の妙に化(ばか)かされて一心を亂すべからず。
「この念をやらんとては」こうした邪念(に基づく観念や信心信仰)を捨て去るには。
「寄特(きどく)なし」「寄特」は原典のママ。「奇特」でここは、「摩訶不思議な対象や現象などというものは実は存在しない」という超常現象は見かけだけで真の不可思議な現象などというものは絶対にないという意であろう。
「有所得(うしよとく)」仏語。見かけ上の恣意的な理解や知覚を得たとすること。或いは、こだわりの心を持つこと。
「眞諦(しんたい)」仏語。絶対不変の真理。究極の真実。
「千差萬別(せんしやまんべつ)の機に隨(したがつ)ては、大千森羅(たいせんしんら)の諸法を説き」よく判らぬが、相対世界に於ける「千差萬別」(個々の差別性や区別性)をまず認識「機」(認知能力)した上で、そうした見かけ上の差は実は全く意味がないのだという「機」へと進み、あらゆる総て(「大千」)の天地の間に存在する諸対象(「森羅」)の絶対の法則のあることを説法し。
「假諦(けたい)門」総ての存在は縁によって仮りに生じて現前して見えるだけで実体はなく実在はしないという真理。天台宗で唱えられる「三諦」説の一つ。空諦(くうたい)・仮諦・中諦。「諦」とは梵語の漢訳語で「真理」の意。「空諦」とはあらゆる物事にはおよそ実体というようなものはないという基本真理を意味し、「仮諦」はその「空諦」真理に基づいて存在が現象的な見かけ上のものに過ぎないという真理を説き、中諦はそれらを受けながら、さらに全存在は「空諦」や「仮諦」によって一面的に認識されるべきものではなく、結局、仏法の「真理」は言葉では言い表わせないということを意味する。
「契事(かいじ)」「決まりごと」の意であろう。「仮諦」認識に立てば幻術・呪術などという見かけ上の奇を衒ったそれらはことごとく「仮諦」としての「お決まりごと」に過ぎぬ下らぬ、とるに足らぬ見かけ上の変異(荘子の謂う「物化」)に過ぎぬと言っていると私は読む。
「有用成事(うようじやうじ)とても無體則空(むたいそくくう)の理(り)を離れず」唐代の高僧法蔵(六四三年~七一二年)「大乗起信論」を解釈した「大乗起信論義記」に説かれる華厳教学の重要な一つ。不生不滅の「真如(しんにょ)」には「不変」と「随縁」の二義が、「真如」に対する「無明(むみょう)」(梵語の漢訳で原義は「愚痴・無智」の意。迷い・真理に暗い状態・真の智慧に照らされていない様態を言う)にはこの「無體卽空」と「有用成事」の二義があるとする。栃木県那須郡那珂川町の浄土宗慈願寺住職池田行信氏のブログのこちらに載る、荻田安静と同時時代人の浄土真宗の僧西吟(さいぎん 慶長一〇(一六〇五)年~寛文三(一六六三)年)の「正信偈要解」の一節には次のような記載がある。『無明闇とは無智不覚にして而して一切善悪の事において分明ならざること、猶、暗夜のごとし。故に無明闇と云ふ。起信の疏に、無明を解するに二つ。一に無体即空の義。謂く、無明の惑、皆、衆生の妄心に依って真如に違して、而して妄境を起こす。元と空、本と有ならずが故に、無体即空の義と云ふ。二には有用成事の義。謂く、無明自体無しと雖も而して能く世間・出世間の一切の事業を成弁す。故に有用成事の義と云ふ』(下線[やぶちゃん)。この下線部の解をを順序を逆にして読むと、この荻田の謂いは腑に落ちる。私は二十代の頃に「大乗起信論」を論じたある論文を読んだが、一ページを理解するのに一日かかったこともあり、結局、読み終わるのに一ヶ月もかかった。]
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