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« 嫌悪する女 | トップページ | 宿直草卷四 第十三 博奕打(ばくちうち)、女房に恐れし事 »

2017/07/22

宿直草卷四 第十二 山伏、忍び者を威す事

 

  第十二 山伏、忍び者を威(おど)す事

 

Yamabusiodosi

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。]

 

 山伏有(あり)て諸國巡る。

 ある日、里遠き所にて、日暮れたり。殊更、鬼一口(おにひとくち)の闇の夜に、あやなく迷ひ行くに、一の堂ありて住持なし。賴(たのむ)木(こ)の下(もと)雨たまらず、四面荒れて物さびたり。甍(いらか)破(やぶ)れて、霧、ふだんの香(かう)を燒(やき)、扉(とぼそ)落ちて、月、常住の燈(ともしび)を掲(かゝ)ぐ。江上(こうしやう)の小堂(せうだう)、※翠(ひすい)巣くひ、薗邊(ゑんへん)の高塚(かうてう)麒鱗(きりん)臥(ふ)すと眺(なが)むるに、かゝる所へ夜も更けなんに、火、一つ、見えたり。此火、さしにさして、來る。[やぶちゃん字注:「※」=(上)「羽」+(下)「比」。]

「こは好(す)かぬ事や。」

と柱を傳ひ、天井へ上がるに、見目(みめ)よき女房、行燈(あんどう)提(さ)げて來る。

 いよいよ恐ろしく思ひしに、此女房、堂の隅、淸(きよ)らかに掃き、聊(いさゝ)か携へし蒲團を、いと寢(ね)良げに敷きけり。又、疊紙(たゝふがみ)より小櫛(をぐし)とり出し、粧(よそほ)ひかいつくろふ體(てい)、もの待つ風情(ふぜい)にも見えたり。かゝる所へ、兩腰(れうこし)差したる男(おとこ)の、事柄(ことがら)由々しきが、會尺(ゑしやく)もなく入(いり)ければ、女、うち悦びて、

「如何(いか)なれば遲くはまします。思はねばこそ。」

など、かこち顏なるに、男も、

「宮仕(みやづか)へてふ身は、淀(よど)に繫(つな)ぐ鯉にはなけれど、身をも心にまかすべきかは。待つも待たるゝも、包むに餘る花の香(か)の、漏(も)るゝを忍ぶ憂き袖は、思ひ亂るゝ煙(けふり)くらべに、など變りあらんや。さまで恨み給ふそ。」

など斷はるも、流石(さすが)に馴れし中(なか)と見えたり。

 山伏見て、

「さては。こゝを出合處(であいどころ)に定め、稀(まれ)に逢ふ忍び者なめれ。我、威(をど)せで許すべし。」

と、心して侍るに、如何でかくとは知るべきなれば、二人(ふたり)の袖も打合(うちあは)せ、いろなる心やみ立ちまさり、をのがきぬぎぬ置き重ね、恨みも髮(かみ)も解(と)け解(ほど)け、海士(あま)も釣(つり)する枕のなみ、うち並びつゝ有(あり)ければ、堪(こら)へすませる山伏も、何時(いつ)しか疎(うと)み果(は)てたり。げに、拔かれたる心地こそせめ。

「いつまでかは殿居(とのゐ)せん。」

と、認(したふ)て持ちし柿紙包(かきかみつゝみ)を、かのしきたへの枕の上へ、天井より、どう、と落とす。

 もとよりも思ひ寄りなかりければ、二人ともに肝(きも)魂(たましゐ)もあらばこそ、慌てふためき、裸になりて逃(にげ)さりけり。猶も、

「鬼(おに)と聞けや。」

と、いろいろの聲をして、天井の板、踏み鳴らし、謀(はか)りつゝも威(おど)しけるにぞ、後(あと)見返へらず、逃げ侍る。

 さて、山伏は殘せし道具ども取り、

「斯樣(かやう)の良き宿、又もあらじ。」

と立出(たちいで)しとなり。

 

 昔、梁(りやう)の代(みよ)のたはれ男(お)、塔(たう)の第二層(そ)に交はりて、其報ひ、雷(いかづち)に打たれて死せり。この戀衣(こひころも)のあかづきて、山伏にあらはれしも、其類(たぐ)ひか。貴(たふと)き精舍(しやうじや)をよるべとせし、あさましくも侍る。但し、昔も后宮(こうきう)たる袖、西の御堂(みだう)を隱れ家(が)にして、假寢(かりね)の床に新枕(にゐまくら)せしも、その報ひなくても過(すぎ)ぬ。

「たゞ山伏よ、情なし、妹背(いもせ)の中のならひ、鬼も淚を捩(ね)ぢ切り、荒き夷(ゑびす)も情(なさけ)に弱り、燃ゆる螢も鳴く鹿も、聖(せい)も賢(けん)も押し並べて、笙(しやう)の岩屋(いはや)の聖(ひじり)の外(ほか)、ちはやふる神代(かみよ)よりも始まり、御裳裾(みもすそ)川の流れ久しく、曉季(ぎようき)の今(いま)に人種(たね)あるも、情けの道の育(そだ)たればなり。いかに見のがしもせで、やぶさかりしぞや。人やりならず、あさまし。」

と云へば、一人の曰く、

「また、山伏になりても見給へ。」

と云ふ。

 げに、此(この)評判、難しくこそ。

 

[やぶちゃん注:疑似怪談で前と連関する。なお、最後の附言部分は直接話法の混在などでごちゃごちゃしていることから、読み易さを考慮して恣意的に一行空けして改行をかなり施してかく示した。

「鬼一口の闇の夜」平安初期の「日本霊異記」の「中卷」の「女人(によにん)、惡鬼に點(し)められて、食噉(は)まるる緣第三十三」(美しい処女の娘を一人の男がものにするが、男は実は鬼で、その初夜の契りの夜、頭と指一本を残して喰らわれてしまう話)があるが、この「鬼一口」という言い方は、言わずもがな、その後に書かれた「伊勢物語」の知られた第六段「芥川の段」のそれで、ある男が女と駆け落ちをし、夜更けて激しい雷雨に見舞われ、女をあばら屋の蔵に匿ったものの、その夜のうちにその女を「鬼、はや一口(ひとくち)に食(く)ひてけり」という部分に由来する。ここは単に闇夜の怖さを形容するために用いただけである。

「あやなく」暗くて視界がはっきりせず、物の判別がつかないために。

「賴(たのむ)木(こ)の下(もと)雨たまらず」堂の上に茂った樹木のお蔭で、堂の中は(すっかり荒れ果ててはいるものの)雨水は溜まっておらず。

「甍(いらか)破れて、霧、ふだんの香(かう)を燒(やき)」破れた屋根の穴から霧が入り込んできて、それは不断に仏事として香を焚きしめているようでもあったという皮肉な比喩。私はこの「ふだん」は「絶えず」の「不斷」以外に「日々いつも」の「普段」の意も掛け、さらには「香」の譬えから考えれば、「ふだん」の「だん」は「檀」で、焚きしめるための香木の栴檀(せんだん)・白檀(びゃくだん)・紫檀(したん)などの総称である「檀香」をも洒落て掛けたものと読む

「月、常住の燈を掲(かゝ)ぐ」破れた天上から覗く月を法灯に、やはり皮肉に喩えたもの。

「江上(こうしやう)」大河の畔り。しかしそのような描写は他になく、挿絵も山の中の描画である。意味のない筆が辷り過ぎる傾向のはなはだ強い荻田の、単なる無意味な修辞粉飾で、この廃堂のそばには川などはないと考えてよい。「堂」に対する河が欲しかっただけだろう。

「※翠(ひすい)巣くひ」(「※」=(上)「羽」+(下)「比」)「※翠」は翡翠。蜘蛛の巣に月光が乱反射して虹色に見えるのを比喩したものであろう。

「薗邊(ゑんへん)」庭の辺り。廃堂の周辺。

「高塚(かうてう)」土饅頭の墓であろう。

「麒鱗(きりん)臥す」弔う人もなく、その塚は苔蒸してしまい、草がぼうぼうに生えているのであろう、こんもりとしたところに毛のように草の生えるそれは、かの賢人の生まれる時にのみ出現するという聖獣麒麟が病んで死にかけて蹲っていると見る、世も末の、これまた、超辛口の皮肉である。

「さしにさして」「さし」は光りが鋭く「射し」て、しかも明らかにこの廃堂を「指し」て近づいて来ることを掛けていよう。

「好(す)かぬ事」よからぬ禍々しい凶兆を思わせる現象。

「いと寢(ね)よげに」たいそう寝易いように(独り寝するには明らかに大きく)丁寧に整え設えて。

「疊紙(たゝふがみ)」「たたうがみ」が歴史的仮名遣としては正しい。現代仮名遣の「たとうがみ」(畳紙)で、「畳み紙」の転じた語。単に「たたう(たとう)」とも呼ぶ。普通は詩歌詠草や鼻紙などに使用するために畳んで懐に入れておく懐紙(ふところがみ)を指すが、ここは櫛を取り出しているから、厚手の和紙に柿渋や漆などを塗って折り目をつけた結髪の道具や衣類などを入れるのに用いたそれの小型のものととっておく。

「思はねばこそ」「心配しないとでも思って?」。

「かこち顏」恨みや不平を示す表情。

「淀(よど)に繫(つな)ぐ鯉」「淀」はここは人工的に流れをせき止めた澱みで、庭の池と採る。そこに自由を奪われて飼われている鯉である。

「身をも心にまかすべきかは」反語。「心の思うままに自由に振る舞うことは出来ぬものじゃて。」。

「煙(けふり)くらべ」香道に於ける香を聴くそれを指すか。前の恋の熱で焚き立つ「花の香(か)」の縁語的手法で、そう考えると「袖」も何時もの「人」の意味の以前に香を焚き染めるところの「袖」であることが判る。

「さまで恨み給ふそ」このままなら「そこまでお恨みになるか」の謂いだが、私は禁止の「給ひそ」の誤りのように感じる。

「斷はる」相手に了解を求めるの意。

「威(をど)せで許すべし」反語。「威さねで、おくべきかッツ!」という怒りである。この二人の密会を怪異か盗賊などの出来と早合点して天井裏に隠れ潜んだ自分が情けなく、その鬱憤を彼ら二人に押し付けたのである。

「心して侍るに」気づかれぬように凝っとして、深く用心しておったところ。

「如何でかくとは知るべき」反語。

「いろなる心やみ」色好みからくる(双方の)心の激しい乱れ。「心やみ」は「心闇」(思慮分別が失われている状態・煩悩に迷い狂っていること)の意の名詞でとらないと意味が通らない。

「をのがきぬぎぬ置き重ね」「きぬぎぬ」は現実的行為としての「衣衣」で男女が二人の衣服を重ね掛けて共寝をすること。しかし「きぬぎぬ」には、ここでは何となく視覚的な「着ぬ衣」で双方が全裸になっている感じを想起させる仕掛けがあるようにも見えぬことはない(これは私の色好みのせいか?)。

「恨みも髮(かみ)も解(と)け解(ほど)け」「恨み」は附会すりならば前の男が遅れて来たことへの「恨み」ととれるが、ここは寧ろ、「恨み」の「み」を「髪(かみ)」の「み」の音に合わせて韻を踏む効果を狙ったに過ぎない。

「海士(あま)も釣(つり)する枕のなみ」「なみ」は「浪(波)」に「並み」を掛けて、並べた二つの枕(実際には枕はなく、男女が伴寝してぴっちりと抱き合って頭を並べていることを指す)を引き出すための退屈な序詞的修辞。「海士」「釣」「浪」は同時に縁語である。

「堪(こら)へすませる山伏も、何時(いつ)しか疎(うと)み果(は)てたり。げに、拔かれたる心地こそせめ」「拔かれたる心地こそせめ」「騙されたような気分になったに違いない」の意。山伏は怪異か不審者と誤認して隠れたのであって事実はそうではないものの、山伏が見下ろし覗く二人の媚態の映像を想像するに、心情としてはすこぶる納得出来る。このシーンの筆者の心理描写は相当に上手い。

「いつまでかは殿居(とのゐ)せん」「いつまでも手前(てめえ)らの睦言の宿直(とのい)をしてると思うなッツ!」。

「認(したふ)て持ちし」しかるべき時のために普段から所持していた。

「柿紙包(かきかみつゝみ)」雨具や物が濡れぬように包むために柿渋をひいた渋紙(しぶがみ)。投げ落として「どう」と有意な音が立つぐらいであるから、折り畳んではあるが、相当に広く、重量もそれなりにあると読まねばならぬ。

「しきたへの」「敷妙の」。枕詞。ここは「枕」のそれであるが、一般にこの枕詞は男女の供寝のイメージ・シーンに伴って用いられることが多いから、ぴったりの用法と言える。

「もとよりも思ひ寄りなかりければ」もとより、想像だにしていない出来事であったので。

「慌てふためき、裸になりて逃(にげ)さりけり」挿絵では逃げる二人がちゃんと着物を著けているのは、失望の極み! 素っ裸で逃げる男女を描いてこそ山伏の鬱憤も晴れようというものを!

「鬼(おに)と聞けや。」「鬼の発する声だと思えよッツ!」

「謀(はか)りつゝも」いろいろと工夫を企んで。

「梁(りやう)の代(みよ)のたはれ男(お)、塔(たう)の第二層(そ)に交はりて、其報ひ、雷(いかづち)に打たれて死せり」「層」の読み「そ」は原典のママ。原典不詳。識者の御教授を乞う。「塔」で「報ひ」とある以上、この「塔」は仏塔(仏教の多層塔)とは読める。

「この戀衣(こひころも)のあかづきて、山伏にあらはれし」よく意味がとれない。二人の「戀」の「衣」だけを纏った素っ裸の二人のいちゃつきを見た山伏が怒り心頭に発した(「あらはれし」)という言うのか? 「あかづく」は衣の「垢(あか)」と見続けることにすっかり「飽」き切ってしまいの意を掛けるか?

「貴(たふと)き精舍(しやうじや)をよるべとせし」廃堂とは言え、貴い寺を密会して性交する「寄る邊」とした。或いは「よるべ」には密やかな添い寝の「夜邊」(夜の時間)の意も利かせているか。

「后宮(こうきう)たる袖、西の御堂(みだう)を隱れ家(が)にして、假寢(かりね)の床に新枕(にゐまくら)せしも、その報ひなくても過(すぎ)ぬ」誰のことを指しているのか、不学にして不詳。何方か、出典だけでもお教え願いまいか?

「笙(しやう)の岩屋(いはや)の聖(ひじり)」「笙の岩屋」は吉野と熊野を結ぶ大峯山(おおみねさん)を縦走する修験道の修験道(みち)である大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)の途中にある行場「靡(なびき)」の一つ。平凡社「世界大百科事典」の「洞窟」の記載によれば(コンマを読点に代えた。下線はやぶちゃん)、『洞窟は、地下世界、死者の国への出発点であると同時に、豊饒(ほうじよう)の根源、母胎とも観念されていた。洞窟は、黄泉国、根の国、妣(はは)が国への入口であり、生、死、豊饒、大地、女性などのイメージを宿し、蛇や鬼の住む魔所であるが、一方で神霊の斎(いつ)く聖所でもあるという始源性を帯びている』。「道賢上人冥途記」(「扶桑略記」(神武天皇から堀河天皇の寛治八(一〇九四)年までの編年史。延暦寺学僧皇円の編で十二世紀末成立)所収)によれば、天慶四(九四一)年に道賢(日蔵)がこの笙の窟で参籠中、死んで冥途巡りをし、蘇生した話を記しているという。『洞窟が生と死の境にあり、修行者がそこにこもって山霊と交感し、霊力を身につけて再生して山を下る様相を示している。修験者が山を母胎に見立てて、山中の洞窟や岩の割れ目で行う胎内くぐりは、擬死再生を行為によって確証するもので、成年式の試練を果たす意味合いもあった』とあり、ここはまさにそうした女性器のシンボルとしての窟をこの話者は述べているのであって、そうした性的象徴性の中で大徳(だいとこ)の「聖」日蔵上人さえも蘇生(産道をシンボライズした窟を通って再生)したことを通して「妹背の」仲「のならひ」(習い)としての性行為の本来の古代からの神聖性をことさらに主張したいのであろう。因みに、その立場には私はすこぶる賛成する。だから、保守派なんぞの都合のいい消毒された主張なんぞよりも、私は「古事記」の素戔嗚までを総て古文の教科書に載せて、みっちりと濃厚に判り易く全高校生に教授すべきであると大真面目に考えているのである

「御裳裾(みもすそ)川」三重県の伊勢市を流れる五十鈴川(いすずがわ)。倭姫命(やまとひめのみこと 生没年不詳:垂仁天皇第四皇女。天照大神を磯城(しき)の厳橿之本(いむかしのもと)に神籬(かみがき)を立てて、垂仁天皇二五年三月に伊勢の地に祀った(これが現在の伊勢神宮の前身とされる)皇女であるとされ、これが伊勢神宮に奉仕する未婚女性「斎宮(いつきのみや)」の濫觴ともされる)が御裳の裾の汚れを濯いだという伝説から「御裳濯川(みもすそがわ)」の異名を持つ歌枕である。斎宮とは神と婚姻した処女であり、ここに出すのは専ら、神との交合を実際の男女のコイツスに引き下げて等価化することを意味していると私は読む。

「曉季(ぎようき)の今に人種(たね)あるも」天地開闢の「曉」(あかつき)の「季」(とき:時間)の謂いか? しかし思うにこれは実は原典の「澆季」の誤記ではあるまいか? 「澆季」とは「道徳や人情などがすっかり乱れてしまって一つの時代が終わる寸前の時期」の謂いである。そんな末世・乱世にあっても愚かな人間が滅亡することなく、かくも繁殖し栄えているのも。

「なさけの道の育(そだ)たればなり」男女の恋情が大切なものとされ、それによる肉体関係が連綿と続けられ、子孫が生まれ、その性行為の神聖性が育まれてきたからに外ならない。ここまで畳み掛けられると(というか、かくも「くどくどと」訳している私も)まっこと「くどい」気はしてくる。

「やぶさかりしぞや」不詳。文字列から直ちに想起される「吝か」では、意味が通じないない。寧ろ、山伏の脅しの実際行動から考えると、「破り盛り」「破り逆り」ですっかり怒りを爆発させて、二人の性交を邪魔するだけでなく、行為を中止させて完遂することを「破」ってだめにしてしまい、無益無暗に彼らに逆らっては吠え立ててエキサイトした(「盛り」「逆り」)の謂いか?

「人やりならず」「人遣りならず」(名詞「人遣り」(自分の意志ではなく他から強制されてすること。人からさせられること)に断定の助動詞「なり」の未然形と打消の助動詞「ず」がついた連語)で、誰のせいでもない、自分のせいである、意。ここは山伏が勝手に怪異・不審と思った最初の行為の誤りに立ち返って山伏の行動を指弾しているのである。

「あさまし」情けなく、興醒めだ。

「此(この)評判、難しくこそ」この一件について正しく分析批評することは実に難しいことではある。]

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