宿直草卷五 第十一 五音を聽き知る事
第十一 五音(ごゐん)を聽き知る事
ある俗(ひと)、每宵(まいせう)、謠講(うたひかう)に行く。
其座に醫者有(あり)て、
「さても、御身の聲の惡しき事よ。」
と。男、聞(きき)て、
「氣分も惡しからず。いかで、さはのたまふ。」
と云ふ。醫のいはく、
「よし、さもあらばあれ、聲は夜半は過ぎぬ命に聽こえ候へ。」
と云ふ。
男、大きに驚き、
「しからば、まづ、脈をとり給れ。」
と云ふ。
「さらば。」
とて、とりて見、
「いよいよ沈(ちん)にして數(さく)なり。命門(めいもん)、巡氣(じゆんき)なし。これ、飮み給へ。」
とて、藥を呉るゝ。
「脈の品(しな)、少(ちと)賴み所あり。養性(やうしやう)し給へ。」
と云ふ。
男、其座にあるもあられねば、我屋(わがや)に歸るに、夜もはや更けて人靜まれども、醫師(くすし)のなまじゐなる諫(いさ)めにより、いとあぢきなくて、目も合はざるに、側(そば)に寢たる妻、手を越して、鼻息を、三度まで、探(さぐ)る。
寢たふりにもてなすに、また、閏(ねや)の内に長持ありしが、その中に人の息差(いきざ)し、有(あり)。
男、聞(きき)て、
『さては妻、密夫(まおとこ)ありて、我が寢たらんには殺さんと思ふにこそ。』
と。
やがて立(たち)て、かの長持を見るに、いつも鎖(じやう)下ろすに、今宵、金打(かなもの)免(ゆる)してありけり。
『賢くも、五音を聽き貰ひし。』
と思ひて、かのゑびつぼに笄(かうがい)を差し、さて、妻を詮索するに、違(たが)ふ事なし。
思ひのままに計らひし也。
これ、名醫の五音を聽きし德なり。
[やぶちゃん注:この類話は大陸の志怪小説や本邦の怪談及び落語、或いは近代以降の噂話や都市伝説にさえも認められるものである。
「五音(ごゐん)」「五音」なら歴史的仮名遣は「ごいん」が正しいが、これは「五韻」とも書き、それならばこの「ごゐん」で正しい。中国と本邦の音楽理論の用語で、音階や旋法の基本となる五つの音(低い方から順に「宮(きゅう)」・「商(しょう)」・「角(かく)」・「徴(ち)」・「羽(う)」と呼ばれるが、基本的いは洋楽のド・レ・ミ・ソ・ラと同様の音程関係になる。
「聲は夜半は過ぎぬ命に聽こえ候へ」「貴殿の声の調子や様態は、貴殿の命、これ、今夜の夜半過ぎぬ前に果ててしまうものと聴こえて御座る。」。
と云ふ。
「沈」「沈脈」(ちんみゃく)。漢方で脈搏が薄弱なことを指す語。強く指を押しつけないと感じられない脈の打ち方を言う。
「數(さく)」「數脈」(さくみゃく)。漢方で頻脈のことを指す語。脈拍数が「一息五至」(一分間に九十回)以上の脈を指す。
「命門(めいもん)」狭義には「生命の門戸」の意の経絡(臍の位置の背中側)を指すが、ここはそのまま「生命」の意で、その「巡氣(じゆんき)」(これも狭義には肺気・胃気の循環を意味するらしいが、ここは単に正常な「循環」でよかろう)が絶たれつつある状態にあるというのであろう。
「脈の品(しな)」脈の質の良し悪し。最悪の「沈にして數」なのであるが、そこに微妙にある違いがあって、そこに「少(ちと)賴み所あり」(少しばかりであるが希望がかけられるところある)、死なずにすむかも知れぬ、というのである。
「養性(やうしやう)」「養生」に同じい。
「なまじゐなる」中途半端な。不完全な。
「あぢきなくて」やり切れない思いで。
「手を越して」原典は「手をこして」。「手起して」かも知れぬが、こちらの方が私は仕草として映像的にしっくりくるので、かく、した。
鼻息を、三度まで、探(さぐ)る。
「もてなす」見せかける。
「人の息差(いきざ)し、有(あり)」本話のポイントである聴覚的特異点が、巧みに意外なところで活かされてくるシーンである。
「金打(かなもの)免(ゆる)してあり」錠前が完全に外されてあった。
「ゑびつぼ」「海老錠・蝦錠」エビのように半円形に曲がった錠前。唐櫃や門扉の閂(かんぬき)に用い、単に「えび」とも呼んだ。ここはそれを掛けて封じる突起に開いた穴(複数箇のそれを貫いて鍵がかかる)のことと思われる。だから、「笄(かうがい)」(髪を整えるための道具で毛筋を立てたり、頭の痒いところを掻いたりするために用いた箸に似た細長いもの。高級なものは象牙や銀などで作った)を差して中から蓋が開けられないようにしたのである。]