譚海 卷之二 仙臺宮城野萩の事
○奧州仙臺宮城野の萩は、皆喬木にて火入(ひいれ)灰吹(はひふき)の具に造(つくり)たるものあり、往來の人萩の下をかよひゆくに、花しだりたれて袖を染(そめ)なす事、萩の花ずりといへる事僞(いつはり)ならずと人のいひし。予近き頃松島にあそびてみやぎのを通りたるに、八月の末にして花すでに散(ちり)たりといへり。原町(はらのまち)といふ高き所より野をみつゝ行(ゆく)に、さのみ萩はらおほからず。はるかなる所なれば近く分(わけ)よりてみたらんには、さる事ありやしらず。但し又かく人のいへるは、今よりはるかに昔の事にや、奧州見聞の事はあこやの松といふものに記したれば、こゝに贅(ぜい)せず。
[やぶちゃん注:前の不審な「京三十三間堂梁木の事」と奥州と萩絡みで連関するだけでなく、「往來の人萩の下をかよひゆくに、花しだりたれて袖を染なす事、萩の花ずりといへる事僞ならず」というトンデモ記述でも似ている。但し、こちらは津村の実見体験であることを明記して記す点では、短いものの、「譚海」の中では一種の特異点とは言える。
「仙臺宮城野萩」「仙臺宮城野」は「源氏物語」にも既に詠まれた平安の昔からの歌枕で、「奥の細道」で芭蕉も訪ねている(リンク先は私が二〇一四年に行った「奥の細道」全行程のシンクロニティ・プロジェクトの一篇)。陸奥国分寺が所在した原野で「宮木野」とも書き、「宮城野原」とも称した。陸奥国分寺は現在の真言宗護国山医王院国分寺の前身であるが、本寺は室町時代に衰微、後に伊達政宗によって再興されたものの、明治の廃仏毀釈で一坊を残して廃絶、それが現存の宮城県仙台市若林区木下にある国分寺名義となって残る。ここ(グーグル・マップ・データ)で、以上から地形的には若林区の北に接する現在の宮城野区の仙台市街の中心にある榴ケ岡(つつじがおか)辺りから東及び南に広がる平野部で、この国分寺周辺域までの内陸平原一帯が原「宮城野」原であると考えてよいであろう。ここで言う「宮城野」の「萩」は通常のマメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza である。「宮城野萩」という和名を持ち、宮城県の県花にも指定されている萩の一種、ハギ属ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii なる種が存在するが、本種は宮城県に多く自生はするものの、近代になって歌枕の宮城野の萩にちなんで命名されたものであるから、本種に比定することは出来ない。特に本邦に自生するハギ類で我々が普通に「萩」と呼んでいるものはハギ属ヤマハギ亜属(模式種ヤマハギLespedeza
bicolor。芽生えの第一節の葉がハギ亜属では互生し、ヤマハギ亜属では対生する違いがある)のものである旨の記載がウィキの「ハギ属」にはある。
「火入」煙草盆の中に組み込んで置く煙草の火種入れの容器。中に灰を入れ置いて火を熾(おこ)した切炭を中央に埋めておく。香炉の小振りな物や向付を見立てで使用したのが始まりと思われ、普通、火種を入れることから陶磁器製であり、萩の木で出来たそれというのはちょっと変わっていると私は思う。
「灰吹」やはり煙草盆の中に組み込んで置くもので、煙草を煙管で吸い終えた後、煙管の火皿部分に残った灰を打ち落とし入れるための筒状の容器。これも普通に見るそれは油抜きをした白竹或いは青竹製である。
「八月の末にして花すでに散たり」萩の開花時期は新暦の七月前後から九月前後までで、旧暦の八月末では遅いと新暦十月上旬頃になってしまい、ちょっと遅い。
「原町」「はらのまち」は現存する地名呼称とウィキの「原町(仙台市)」の記載からかく読んでおいた。現在の宮城県仙台市宮城野区原町(はらのまち)を中心とした古い広域地名。現在の町域はここ(グーグル・マップ・データ)。以下、当該ウィキより引く。『かつて仙台市東部の広い範囲の町名に「原町」の名が冠されていた』。『仙台の東部、宮城野区の中心部に当たる町で、古くから多くの人が往き来していた。また、現在の宮城野区役所所在地の表記は「宮城野区五輪(ごりん)」であるが、この五輪は、かつて原町に含まれてい』て、昭和三(一九二八)年四月までは『宮城郡原町だった。その後、原町小田原、原町南目、原町苦竹の地名で広範囲において称されており、その面積は現在の青葉区と若林区の一部と宮城野区西部を占めていた』。『石巻街道の、仙台を出て最初にあった「原町宿(はらのまちじゅく)」が起源となっている。江戸時代には、塩竃湊から、舟入掘、七北田川、舟曳堀を経て苦竹まできた船荷が、牛車で原町宿の米蔵まで運ばれていた。以上のことから、原町は仙台の東のターミナルであった。のち、鉄道が開通してその地位を失ったものの、仙台の市街地拡大によって街の東端としての地位を得』ている、とある。
「あこやの松」底本の竹内氏の注に『津村淙庵の奥州紀行記』で現在、『写本が岩瀬文庫に残っている。二巻』とある。書名のそれは「阿古耶の松」で、現在の山形市東部にある千歳山(標高四百七十一メートル)にあったとされる阿古耶姫の伝説に出る松の名。「山形市観光協会」公式サイト内の「あこやの松(千歳山)」の解説によれば、『阿古耶姫は、信夫群司の中納言藤原豊充の娘と伝え、千歳山の古松の精と契を結んだが、その古松は名取川の橋材として伐されてしまったので、姫は嘆き悲しみ、仏門に入り、山の頂上に松を植えて弔ったのが、後に阿古耶の松と称されたという』とある。
「贅せず」必要以上の言葉は添えない。]