宿直草卷四 第八 冷食を盜む犬の事
第八 冷食(ひへめし)を盜む犬の事
寛永七八年の比、河内高安より、越前北の庄へ下る、木綿商人(あきんど)あり。
その年のみにもあらず、前つかたも度々下りければ、其問屋(といや)の下女に枕ならべ、旅寢の床の情け深きに、此下女を、宿の妻、朝每(ごと)に叱る。いと笑止なれば、下女に、
「何事にかくは叱らるゝ。」
と云ふ。下女、
「その事よ、こゝに不思議なる事こそさふらへ。昨夜(よべ)の冷飯(ひへめし)、櫃(ひつ)に入置き候に、今朝見ればなし。誰がわざとも知れず。我より外に知る者あらじ、と叱らるゝ。指圖(さしず)し給ふも尤(もつとも)なれども、ゆめ、さら、知らぬ事にこそさふらへ。かゝる事語るも、面(おも)なし。」
など云ふ。
商人、聞きて、
「しからば、もの一夜の事、如何でつけて見ぬぞ。」
と。下女のいはく、
「誰か等閑(なをざり)ならん、なれど、朝六(あさむつつ)、夕(ゆふ)さり四つ過(すぎ)て臥(ふす)ゆへ、えも見屆(とゞ)けで臥(ふす)。」
と云ふ。
「さらば、我、つけて見ん。」
と、その夜、待つに、人靜まりて、外面(そとも)の戸、開(あ)く。
「あは。」
と見るに、また中戸のくゞり、開くる。よく見れば、いつも庭にゐる白犬なり。
しばし、四方を見𢌞(みまは)し、大釜(おほかま)の上へ上がり、それより筋易(すちかひ)に、七尺ばかりの棚へ、やすやすと飛(とび)あがり、櫃、銜(くは)へ、下(お)りて、蓋(ふた)開(あ)け、中なる飯(めし)、皆、喰らひ、元のごとくにして戸を開(あ)け、また、閉めて外へ出づる。其ありさま、愚かなる人間には過(すぎ)たり。
「さて、盜人(ぬすびと)は知れたり。」
と臥(ふし)ける。
夜明(よあけ)て、宿の妻、又、下女を呼び、櫃、見せて訇(のゝし)る。商人、側(そば)に寄り、
「冷飯の事ならば、これに飼(かひ)給ふ犬が喰らひ候。」
と云ふ。
亭夫婦(ていふうふ)、聞きて、
「如何で贔屓(ひゐき)はし給ふ。二重(ふたへ)の戸開けて、如何で狗(いぬ)の盜まん。」
と云ふ。
「さらば、行く夜、つけて見給へ。」
と云ふ。
商人の云ふにまかせて、つけてみるに、違(たが)ふ事なし。
亭主、呆れ果(は)て、翌朝(あくるあさ)、犬を庭へ呼び、
「扨々、をのれ、畜生の分(ぶん)として、二重(ふたへ)の戸を開(あ)けて盜みをせし事よ。商人殿の、宣(のたま)はずは、知るべきか。憎き奴(やつ)かな。」
と叱る。
犬、耳を垂れ、身震ひして、去りぬ。
さてこそ、盜みをも、下女(しもおんな)かと疑ひしも晴れてこそ侍れ。
かの商人の臥(ふす)所は二階にて、箱階(はこばし)あるに、其夜、例(れい)の犬、葭(よし)一本、銜へて來る。不審に思ひ、寢たる顏(がほ)にこれを見れば、わが堅橫(たてよこ)の長(たけ)、比べて歸る。つけ送りて見るに、家の裏に穴を掘る。葭の長(たけ)にて、これを比(くら)ぶ。
「さては。我を殺さん工(たくみ)ぞ。」
と心得、大小をとり、帶(おび)をして、枕に夜着(よぎ)引かづけ、別(よ)の間(ま)へ入(いり)て覗きて見るに、犬、二階に來たり、喉(のど)の邊りと志(こゝろざ)して一文字(いちもんじ)に飛(とび)かゝるに、人無かりければ、大きに怒り、夜着を三つ、四つに喰らい破り、外へ出でしが、大方(おほかた)危うくぞ見えける。
夜明(よあけ)て、亭主に語る。
「夜着を喰らひ、穴を掘りしありさま、人間には勝(まさ)りたり。」
「いで、其犬、殺さん。」
と犇(ひしめ)けど、行衞(ゆくゑ)、さらになし。
商人も越前より歸り、再び行かずとなん。
鹽賣(しほう)りが科(とが)は、榑賣(くれう)り、さらに知らず。無實(むじつ)を負(おほ)すべからず。菅相(かんしやう)獨り、是を悲しめり。凡そ、人を使ふ人、よく思慮すべし。犬の科(とが)を下女の得しは、如何に悲しからん。忠の疑はしきは祿(ろく)し、罪(つみ)の疑はしきは宥(なだ)むとは、君主の軌(のり)、先生の句(ことば)なり。
間(まゝ)、大人の上(うへ)に正直(せいちよく)の袖も、ねぢけ人の唇(くちびる)により、あたら、名を罪に充(あて)られ、思ひの外の災ひに遭ふあり。鹽治(ゑんや)が忠も師直(もろなふ)が讒(ざん)によりて、惜しき勇士も路頭に滅ぶ。「晏氏春秋(あんしししゆんじう)」に、『景公(けいこう)の家の鼠を憂(うれ)へ、出(いで)ては君の威を借り、入(いり)ては君の傍(かたはら)にあり』と。ものゝ害ある人を病(やめ)り。今とても家々にもて扱(あつか)ふたる人、星(ほし)のごとくあるべし。君としてその臣を知らずは、家、整(ととの)ほらじ。猶、御前(おまへ)追從(ついせう)聞き紛(まが)ひ給ふ師(ひと)は、其(その)智(ち)の淺きゆへか。
[やぶちゃん注:前話とはある意味で人に執心(恋情・怨恨)を持った超常的犬を主要登場人物とする点で強く連関するが、それ以上に、この一篇は、主人公の商人の出身地を「高安」とする点、犬が「飯」を「櫃」から「手ずから」取り出して食うとシチュエーションから見て、明らかにかの「伊勢物語」の第二十二段、「筒井筒」の最後の部分、「河内の國高安の郡に」作った愛人のところへ、「まれまれ」「來てみれば、初めこそ心にくくもつくりけれ、今はうちとけて、手づから飯匙(いひがひ)取りて、笥子(けこ)の器物(うつはもの)に盛りけるを見て、心憂(こころう)がりて行かずなりにけり」のパロディであることが見え見えである(と私は思う)。だから私はあまり面白いとは思わぬし、最後のとってつけた教訓も歯が浮くようで厭な感じだ。
「寛永七八年」一六三〇~一六三二年。
「河内高安」現在の大阪府八尾市内に古くからある地名。同市の東部の玉串川沿いの旧大和川堤防跡の東から生駒山地の奈良県境にかけての広範囲に亙る広域。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「越前北の庄」現在の福井県福井市の旧地名。
「いと笑止なれば」殆んど毎日叱られているのを見るので、あまりにも面白おかしく思って。
「指圖(さしず)」(お前がこっそり食ったのだろうと暗に)指弾されること。
「面(おも)なし」恥ずかしくて面白くないことです。
「もの一夜の事」ただ一晩ばかりのことじゃないか。
「如何でつけて見ぬぞ」どうして寝ずの番をして見張って見ないんだ?
「誰か等閑(なをざり)ならん」それはその通りで、私だって濡れ衣着せられて、そのままじゃいられません。
「朝六(あさむつつ)」午前六時頃。
「夕(ゆふ)さり四つ」午後十時頃。
「愚かなる人間には過(すぎ)たり」愚鈍な人間なんぞに比べたら、遙かに敏捷なだけでなく智恵が働いている行動であった。
「訇(のゝし)る」「訇」は原義は音「コウ」で大きな声の形容。
「如何で贔屓(ひゐき)はし給ふ」当然ながら、下女と商人の関係を受けた批判。
「行く夜」今夜。
「商人殿の、宣(のたま)はずは、知るべきか」反実仮想的な謂い。「かの商人(あきんど)さまがおっしゃられなかったならば、我ら、ことの真相を知ることが出来なかっただろうに。」。
「箱階(はこばし)」側面に戸棚や引出などを設けた収納家具兼用になっている階段。「箱階段」「箱段」などとも呼ぶ。
「葭(よし)」葭簀や屋根葺材などに棒状の茎を用いる単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis。
「つけ送りて」あとをつけて行って。
「大小」打ち刀と脇差。一部の有力な豪商などは町人身分であっても苗字帯刀を許されたケースがある。
「引かづけ」「引(ひつ)被(かつ)げ」。なるべく姿を隠すためにひっかぶったのである。
「大方(おほかた)危うくぞ見えける」そのまま気づかずに襲われていたら、命も危うい状況だったと冷や汗をかくような状況であった。
「夜着を喰らひ、穴を掘りしありさま、人間には勝(まさ)りたり。」「いで、其犬、殺さん。」の独立させた台詞は底本では地の文で連続しているが、恣意的に分離して前者を商人、後者を亭主の台詞として、臨場感を出した。後者の「其犬」という謂いからは、商人だけの台詞として独立させたほうがよいかも知れないが、そうすると、直後の「犇(ひしめ)けど」(二人以上が集まって大騒ぎをする)のエキサイト感が生きてこないと判断した。
「鹽賣(しほう)りが科(とが)は、榑賣(くれう)り、さらに知らず」「榑賣(くれう)り」の「榑(くれ)」は一定の大きさに割られた比較的薄い板材の一種で、屋根葺き火つけ木・薪などに用いた。それを売る行商人である。ここは鎌倉時代の僧無住の著した「沙石集」の「卷第五」にある「六 學匠の見解僻む事」に基づく謂い。原文を所持するが、注が必要になるので、簡単に述べると、自分の思い込みで安い塩を高い絹で交換した学僧が、弟子たちにそれはとんでもない高い買い物してしまったと指摘されて、恥じ入りつつも、内心、騙されたと不満を持っていたところが、翌日、全く関係ない別人の榑売りが来たのを「昨日は貴様に騙された!」と棒を以って打とうとする。弟子たちがこれは榑売りで昨日の塩売りとは違いますと注意したところが、学僧は、「御房達は本より非學生にて、子細しらぬさかしらする物哉。鹽賣は鹽賣、榑賣は榑賣とは、別教の心なり。圓教(ゑんげう)の心には、榑賣、卽、鹽賣、鹽賣、卽、榑賣なり。」と言って叱ったので、弟子たちは榑売りを蔭に呼んで幾許かの銭を摑ませて早々に帰らせた、というエピソードをもとに、半可通の仏法認識から誤ったトンデモ行動をしてしまったこの学匠を批判した条々である。「圓教」とは総てが差別を超えて互いに融け合って互いに完成するとする天台教学において特に多用される考え方である。
「菅相(かんしやう)獨り、是を悲しめり」「菅相」は稀代の学識者でありながら、左大臣藤原時平に讒訴され、その冤罪によって失脚した菅原道真で、彼だけが真の仏法の真の実相、円教(えんぎょう)の真意を摑み、それがこの世では全く理解されない、誰一人判っていないことを悲しんだというのであろう。何か、道真のより具体的なエピソードを元にしているのかも知れぬが、私にはその原拠は判らぬ。識者の御教授を乞うものである。
凡そ、人を使ふ人、よく思慮すべし。犬の科(とが)を下女の得しは、如何に悲しからん。忠の疑はしきは祿(ろく)し、罪(つみ)の疑はしきは宥(なだ)むとは、君主の軌(のり)、先生の句(ことば)なり。
「間(まゝ)」副詞。時に。
「大人のうへに正直(せいちよく)の袖も、ねぢけ人の唇(くちびる)により、あたら、名を罪に充(あて)られ、思ひの外の災ひに遭ふあり」「袖」は「人・存在」の意で、まさに直前の道真のケースに代表されるような讒言による失墜の悲劇の事例を言っているのであろう。
「鹽治(ゑんや)が忠も師直(もろなふ)が讒(ざん)によりて、惜しき勇士も路頭に滅ぶ」鎌倉後期から南北朝にかけての武将塩冶判官高貞(?~興国二/暦応四(一三四一)年)は鎌倉幕府滅亡の二年後の建武二(一三三五)年の中先代の乱の後、関東で自立して権勢を持った足利尊氏を討つべく、東国に向かう新田義貞が率いる軍に佐々木道誉と参陣するも、箱根竹ノ下の戦いで足利方に寝返り、室町幕府にあっては出雲国及び隠岐国の守護となった。しかし、尊氏の側近高師直(こうのもろなお ?~正平六/観応二(一三五一)年)の讒言によって謀反の疑いをかけられて領国出雲に向けて逃走、山名時氏らの追討を受けて妻子らは播磨国で自害した。彼自身は出雲に帰りついたが、家臣から妻子自害の事実を聞き、同じく自害して果てた(以上はウィキの「塩冶高貞」に拠った)。
「晏氏春秋」春秋時代の斉に於いて霊公・荘公・景公の三代に仕えて宰相となった名臣晏嬰(あんえい ?~紀元前五〇〇年)に関する言行録を纏めたもの。著者不詳。内篇六巻・外篇二巻の計八巻から成り、内篇は晏嬰が仕えた君主への諫言に纏わる説話が記されている(以上はウィキの「晏氏春秋」に拠った)。
「景公(けいこう)の家の鼠を憂(うれ)へ、出(いで)ては君の威を借り、入(いり)ては君の傍(かたはら)にあり」私は「晏氏春秋」を読んだことがないので、文字列をぼんやり見て思っただけであるが、これは例えば、同書の以下の部分を指すか。個人ブログ「IKAEBITAKOSUIKA」の「◆景公問治國何患晏子對以社鼠猛狗…君主が国を治めるとき患うこととは?、晏子春秋・内篇・問篇・問上 第九◆」を参照されたい。原文・訓読・現代語訳が出る。
「ものゝ害ある人を病(やめ)り」意味不詳。或いは「ものの害、或る人を病めり」で、「ある種の精神的な害毒は或う種の人の精神を蝕むものである」という謂いか? 識者の御教授を乞う。
「家、整(ととの)ほらじ」家が安泰に立ち行くことは、これ、あるまい。
「御前(おまへ)追從(ついせう)聞き紛(まが)ひ給ふ師(ひと)」佞臣や企みごとを腹の中の潜ませた悪賢い親しい者の御追従をそのままに受け取ってしまわれるような御仁は。]
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