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2017/07/15

柴田宵曲 續妖異博物館 「木馬」

 

 木馬

 

 トロイの木馬は少し古過ぎる。あの木馬は巨大な點で人を驚かしたかも知れぬが、腹中に人が潛んで、城を陷れる謀略用に供せられたものだから、話としての妙味は寧ろ少い。「アラビアン・ナイト」の中には空を飛ぶ黑檀の馬が出て來る。ペルシャ王に獻ぜられたこの馬は、昇降の裝置が出來てゐるので、昇る裝置だけ教へられた王子は、暫く空を飛び續ける外はなかつたが、そのうちに漸く下る裝置を見出して、或王宮の屋根に下りる。話はその後二三曲折があつた末、王子が姫と同乘して故國に飛び戾るといふ大團圓になる。不思議な木馬に伴ふ謀計は無論あるけれど、トロイの木馬のやうな大がかりなものでないだけに、話の興味もあれば、童話的な親しみもあるわけである。

[やぶちゃん注:「トロイの木馬は少し古過ぎる」木馬の奇策戦法についてはトロイアの木馬を参照されたい。小アジアのトロイア(現在のトルコ北西部のダーダネルス海峡以南にあったとされる。私は行ったことがあり、遺跡の入り口には木馬の複製が建てられてあった)に対してミュケーナイを中心とするアカイア人の遠征軍が行ったギリシア神話上の戦争トロイア戦争については、紀元前一二五〇年頃にトロイアで大規模なモデルとなった戦争があったとする説もあれば、全くの絵空事であるという説もあるという(ウィキの「トロイア戦争」による)。

『「アラビアン・ナイト」の中には空を飛ぶ黑檀の馬が出て來る』梗概は、ウィキの「千夜一夜物語のあらすじ」にある黒檀の馬奇談(第414夜 - 第432夜)の項を参照されたい。]

 

 空を飛ぶ木馬は支那にもあつた。話は極めて簡單なもので、或童子が歸りがけに馬を請うた時、戲れに木馬を作つて與へた。童子は困ると思ひの外、私は泰山府君の子です、この馬は有難く頂戴いたします、と一禮して、ひらりと跨がると同時に、木馬は忽ち天空に騰り去つたと「太平廣記」にある。あまり簡單過ぎて「アラビアン・ナイト」に對抗することは出來ぬが、頭も尻尾もなしにいきなり飛び去るところに、木馬奇譚らしい面白味がないでもない。

[やぶちゃん注:「騰り」「のぼり」或いは「かけあがり」と訓じているか。

「頭も尻尾もなしに」別に与えた木馬が頭も尻尾もない馬だったのではない。話の頭も尻尾もよく判らぬうちに忽ちに終わる短章だからである。以下の通り、原典は字数にしてたった四十六字である。

 以上は「太平廣記」の「妖怪二」に載る「後魏書」にあったとする「段暉」。

   *

段暉、字長祚、有一童子辭歸、從暉請馬。暉戲作木馬與之、童子謂暉曰、「吾泰山府君子、謝子厚贈。」。言終、乘木馬、騰空而去。

   *]

 

 宋の紹興元年、兵亂を避けて江南に居つた人々が、だんだん故郷へ歸らうとする中に、山陽地方の士人が二人あつた。准揚を通過して北門外に宿を取らうとしたが、宿の主人は丁寧に謝絶した。長い兵亂の後で家も穢くなつて居り、盜賊どもが徘徊するので甚だ物騷である、こゝから十里ばかり先に呂といふ家があるから、そこへ行つてお泊りになつたらよからう、僕や馬を添へてお送りさせる、といふのである。呂といふのは前から知つてゐる家なので、二人は主人の云ふ通りにした。主人は別れを告げるに當り、日が暮れたから馬にお召し下さい、と云ひ、歸りにもまた寄つて貰ひたい、と云つた。僕二人、馬二頭の道中は何事もなかつたが、呂氏の家ではいろいろ物騷な噂のある折から、二人が夜を冒して來たのを怪しむ樣子であつた。そこで前の宿の話によつてこゝまで辿り着いた事情を説明し、馬から下り立たうとすると、馬も人も全然動かない。燈に照らして見た結果、人と思つたのは二本の太い竹、馬と思つたのは二脚の腰掛けであることがわかつた。支那では竹を切つて人の身代りにすることがよくあるが、腰掛けの馬はあまり聞かぬやうである。役目を果した木と竹は、その場で燒かれてしまつたけれど、何も怪しい事は起らなかつた。五六箇月たつて北門外へ行つて見たら、その家は空家で、主人らしい姿も見えなかつた(異聞總錄)。

[やぶちゃん注:「紹興元年」底本は「紹與」であるが、中国の「宋」を名乗った国の元号にこんなものはない。以下の原文によって誤字と断じ、特異的に訂した。南宋時代に高宗の治世で用いられた元号で元年は一一三一年。この五年前の一一二六年、北宋は靖康(せいこう)の変(北宋が女真族(後の満州族の前身)を支配層に戴く金(きん)に敗れて華北を失って北宋が滅亡した事件。靖康は北宋の最後の当時の年号)によって宋は一旦、滅び、戦闘こそ収束したものの、国内は著しく混乱していた。

「山陽」現在の西安の南東にある陝西省商洛市山陽県か。(グーグル・マップ・データ)。

「淮揚」淮陽か。であれば、現在の江蘇省淮安市淮陰区西部附近。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「異聞總錄」の「卷之四」に出る以下。

   *

紹興十年、兩淮兵革甫定、避地南渡者、稍複還郷。山陽二士子歸理故業、道經淮揚、舍於北門外、日已暮矣、主人慰諭綢繆、云、「吾主張此邸、惟恐客寓不久、然於二君之前、不敢不以誠白、是間殊不潔淨、又有盜、不可宿也。距此十里呂氏莊、寬雅幽肅、且有御寇之備、願往投之、當以僕馬相送。」。士子見其忠告、且素熟呂莊、頷之而去、主人殷勤惜別、仍囑囘途見過、遣兩健僕控馬、其行甚穩。夜未半抵莊、莊乾出迎、云此地多鬼物、何爲夜行、士子具道所以、方解鞍、僕馬屹立不動、亟躍下、取火視之、但見大枯竹兩竿、木橙兩條而已、卽碎而焚之、後亦無他。歷數月再到其處、北門寂然、無所謂主人也。

   *

この話は岡本綺堂の「中国怪奇小説集」にも「竹人、木馬」として訳が載る。青空文庫」で読める。]

 

 この話の山は愈々目的地に達して氣が付いたら、人も馬も武人腰掛けに變つてゐたといふ一點に在る。物騷な夜道をとぼとぼと行く腰掛けの馬は、百鬼夜行の圖に漏れた愛すべき化物でなければならぬ。

 

 「廣異記」の高勵が桑の木の下に立つて、人の家の麥打ちを見てゐるところへ、東の方から馬を飛ばして來る男があつた。高勵の前に來て再拜し、お願ひでございます、馬の足をなほしていただきたう存じます、と云ふ。わしは馬醫者ではないから、馬の療治などは出來ないと答へたら、その男は笑つて、いえ、そんなむづかしい事ではありません、たゞ膠(にかわ)で付けていたゞけばよろしいのです、と云ふのである。高勵には先方の云ふことがよくわからぬので默つてゐると、男ははじめて自分の事を説明した。實は私は人ではありません、この馬も木馬なのです、あなたが膠で付けてさへ下されば、この木馬でずつと先まで行けるのです――。高はまだ十分腑に落ちなかったけれど、云はれるまゝに膠を持つて來て、火にかけて溶かしてやつた。男の話によれば馬の病氣は前足に在るといふことなので、その箇所に膠を付けてやり、膠を煮た鍋を片付けてもう一度出て來たら、馬は見違へるやうに元氣になつて、いづれへか走り去つた。

 

 膠を高に乞うた男は、自ら人に非ずと云つた。「太平廣記」はこの話を鬼の部に入れてゐるから、いづれその邊に所屬するのであらう。倂し前足を痛めた木馬に跨がつて、どこからどこへ行かうとしたのか、高を見かけて膠を乞うたのは全くの偶然か、それとも何か因緣があつたのか、さういふ點に關しては「廣異記」は何も書いてない。通りがかりにこんな事を賴まれただけで、別に後腐れがなかつたのは、高に取つては幸ひであつた。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「鬼二十三」に「廣異記」を出典として「高勵」で載るもの。

   *

高勵者。崔士光之丈人也。夏日、在其庄前桑下、看人家打麥。見一人從東走馬來、至勵再拜、云。請治馬足。勵云。我非馬醫、焉得療馬。其人笑云。但爲膠黏即得。勵初不解其言、其人乃告曰。我非人、是鬼耳。此馬是木馬。君但洋膠黏之。便濟行程。勵乃取膠煮爛、出至馬所、以見變是木馬。病在前足。因爲黏之。送膠還舍、及出、見人已在馬邊。馬甚駿。還謝勵訖。便上馬而去。

   *]

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