宿直草卷三 第十二 幽靈、讀經に浮かびし事
第十二 幽靈、讀經に浮かびし事
慶安(きやうあん)の比か、津の國内瀬(ないせ)といふ所に、百姓の妻、果てけるに、其七日めに、又、他(よ)の妻、呼べり。例(ためし)少なくぞ侍る。
「まだき淚に袖漬(ひ)ぢて、跡(あと)弔(とふら)ひこそせめ。」
などゝて、巷(ちまた)、
「目安〱もなし。」
と謗(そし)る。
案のごとく、後の妻、來ると、其まゝ、物の怪(け)づきて、夜(よ)も日も物狂(ぐる)ほし。
女の父母(ちゝはゝ)、
「さやうの所にながらふベきなし。歸れ。」
と云へど、深く思ひ入(いり)て、此女、歸るべき覺悟はなし。
夜晝としもなく、始(はじめ)の妻、來たりて、組(く)んづ轉(ころ)んづする。
人目には獨り狂ふやうなれ共、かの妻の目には、ありありと見えたり。
笑止(せうし)ぶりに思ふ人、二月堂の牛王(ごわう)を貸しければ、其間は來たらず。
貸したる家に行(ゆき)、
「いかで牛王を貸したるぞ。」
と怨む。この人、大に驚(おどろき)てこれを取り返す。
然るに今の妻、心強くは云へど、氣もうかとなりて、見るさへあさましかりければ、親しき人、其男に異見するは、
「死(しし)て七日めに、今の妻を呼び、跡もしかじか弔ひ給はず。御身の誤りにあらずや。」
と云ふ。男、
「げに尤(もつとも)なり。」
と、急ぎ我(わが)寺に行き、樣子語りければ、
「さらば、跡弔はん。」
とて、淨土眞宗なりしが、觀無量壽經を讀みて、念佛𢌞向す。
まことに佛力(ぶつりき)不思議にして、猛火(めうくは)轉じて、淸凉風(しやうれうふう)となりしにや、其夜より幽靈、來たらず。妻も本性(ほんしやう)になれり。
爭はれぬ事にあらずや。また、急がしさうに後の妻呼びたるも新しき事なり。はた、怨みざるべきか。
[やぶちゃん注:「慶安(きやうあん)」通常は「けいあん」。一六四八年から一六五一年まで概ね徳川家光の治世であるが、家光は慶安四年四月二十日(一六五一年六月八日)に没し、家光嫡男家綱が同年八月十八日(十月二日)、第四代将軍宣下を受けて就任(満十歳)、翌慶安五年九月十八日(一六五二年十月二十日)に承応(じょうおう)に改元されている。
「津の國内瀬(ないせ)」清音は底本のママ。旧大阪府三島郡玉櫛(たまくし)村大字内瀬で、現在の大阪府茨木市内瀬(ないぜ)。話柄内時制ならば当時は板倉重宗の領地。この中央付近(グーグル・マップ・データ)。
「目安〱もなし」見た目も見苦しい。
「物の怪(け)づきて」物の怪が憑りついたような感じになって。但し、この「づき」は「憑き」ではなく、動詞「付く」から生じた接尾語「づく」(名詞或いはそれに準ずる語に付いて動詞を作り、「そのような状態になる・そういう様子が強くなる」の意を添える)であるので注意されたい。
「組(く)んづ轉(ころ)んづ」現在の「取っ組み合ったり離れたりして激しく争うさま」を言う連語「組んず解(ほぐ)れつ」(「組みず」は「組みつ」の音変化)と同じ。
「笑止(せうし)ぶり」この場合の「笑止」は「気の毒なこと・さま」の謂いで、同情に値するような様子・事情・有様の意。
「二月堂の牛王(ごわう)」牛王札は既注であるが再掲しておく。奈良東大寺二月堂で出される厄除けの護符牛王宝印(ごおうほういん)のこと。紙面に社寺名を冠して「~牛王宝印」と書き、その字面に本尊などの種子梵字を押し、神仏を勧請(かんじょう)したものであることを表わしたもの。現在の二月堂のそれはこんなものらしい(ネット上の個人の写真にリンク)。
「氣もうかとなりて」気が抜けて朦朧とした感じで正気を失ったような状態になってしまって。「うか」は気持ちが落ち着かないさまを意味する副詞「うかうか」から造語した名詞ととる。
「觀無量壽經」浄土教諸宗が拠り所とする浄土三部経の一つ。劉宋の畺良耶舎(きょうりょうやしゃ)が漢訳した。全一巻。内容はインドのマガダ(摩掲陀)国の王ビンビサーラ(頻婆娑羅(びんばしゃら))の夫人バイデーヒ(韋提希(いだいけ))が、自分の子アジャータシャトル(阿闍世(あじゃせ))の悪逆に苦しめられて救いを求めた際、仏陀が神通力を以って十方の浄土を示し、阿弥陀仏とその浄土を説いたとする極めて劇的な内容を持つ。
「急がしさうに」岩波文庫版の高田氏の注に『妻の死後、ただちに、即座に、の意』とある。
「新しき事」この場合は、旧来の節操に全く以って反した行為という指弾的形容である。]