宿直草卷四 第五 殺生して神罸當たる事
第五 殺生して神罸當たる事
ある侍、夜に入(いり)て厠(かはや)に行く。
飛石の上に、大なる法師あり。
「此處にあるべき樣(やう)、これこそなけれ。」
と、脇差振り上げ、肩先、一刀(かたな)、斬り、眞正中(まつたゞなか)、二刀(かたな)、刺す。この者、搔き消して、見えず。
さて、歸らんとするに、身、重(おも)ふして歸り得ず。漸々(やうやう)、脇差を杖にして歸るに、手を負ふたる心地す。
不思議に思ふに、妻、見て驚き、
「こは。そも、何事ぞ。肩、一刀、正中(たゞなか)二ケ所、手を負ひ給ふ。」
と、淚、流す。これに仰天して見るに、紅(くれなゐ)、身を帶(おび)たり。
色々、治すれども、叶(かな)はず、遂に逝(まか)りぬ。
我には、其の舅(しうと)、話せり。
女子はあれども、男子無(な)ふして跡もたゝず。
後家も大坂に牢居(らうきよ)せり。
後に、又、さる人の語りしは、
「其人こそ天照大神(あまてるおほんかみ)の禁(いま)しめ給ふ地にて、殺生(せつしやう)せし罸なり。」
と云へり。
今の壯士(さうじ)、畏れざるべきや。領地に求(あさ)り、知行に狩(かり)て、網を張り、釣を垂れ、鵙(もず)を落とし、山雀(やまがら)を獲(と)るも、衆魚(しゆぎよ)放生池(はうじやうち)の汀(みぎは)、殺生禁斷の塲(には)に侵(おか)すべからず。用捨あるべき事にや。その上(かみ)、士峯(じほう)の御狩のとき、瞋猪(いかりゐ)を止(とゞ)めし袖も、遂に山の神の咎(とが)めに遭ひて非法の死をせしをや。
[やぶちゃん注:本話は特異的で、作者荻田安静が怪異によって命を落とした亡き当の主人公の、その妻の父から直接に採取した実録物である。しかし、具体的な実名や場所が一切記されていない点で都市伝説、作り話の域を出ない。
「跡もたゝず」後継を立てることが出来ず、家は断絶した。
「牢居」この「牢」は「淋しい・心細い」の意の形容。独りで侘び住まいしていること。
「天照大神(あまてるおほんかみ)の禁(いま)しめ給ふ地にて、殺生(せつしやう)せし罸なり」当時の各地の寺社(神仏習合時代であるからこう言うのが正しく、その殺生戒思想自体が多分に仏教の影響下にある)の境内には殺生禁断の神域や放生(ほうじょう)のための海浜・湖沼池水を持っていた。現在でも天照大御神を祭神とすると伝える神祠周辺で殺生を禁ずる区域は各地に残っている。
「鵙」スズメ目スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius bucephalus。食用としたようだが、苦く腥いとされる(個人サイト「鳥便り」の「料理」に拠る)。
「山雀」スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラParus
varius。前記リンク先によれば、『奥州会津近郊の山中では秋にヤマガラを獲って肉を干し、冬の保存食とした』とあり、また、『飛騨地方ではヤマガラの黒焼きは赤痢や下痢の妙薬』という薬食(くすりぐ)いとしての記載もある。
「塲(には)」「には」は「何か特別な目的のために特殊な儀式が行われる所、則ち、神事や公事(くじ)の行われる区域」を指す語でもあった。神下ろしをし、神の御告げを聞く斎場を「さには」と称した。
「士峯(じほう)の御狩のとき、瞋猪(いかりゐ)を止(とゞ)めし袖も、遂に山の神の咎(とが)めに遭ひて非法の死をせしをや」「士峯(じほう)」は富士山。「御狩」はさすればまず、源頼朝が建久四(一一九三)年五月に多くの御家人を集めて富士の裾野付近で行った壮大な「富士の巻狩り」が浮かぶ(創作性が強い「曽我物語」には巻狩の三日目の夕刻、手負いの大猪が頼朝に向かって突進してきたところを頼朝の側近新田忠常がそれに飛び乗って刀を突き立てこれを退治したとする武勇伝が載りはする)が、頼朝の死は「吾妻鏡」が欠落しているためにその死因にかなり不審な点はあるものの(但し、私は単なる脳卒中を疑っている)、「非法の死」とは逆立ちしても言えないと私は思う。とすると、ここは、父頼朝に倣って富士の巻狩を好んで挙行した嫡男源頼家ではあるまいか? 彼は建仁三(一二〇三)年九月二日に北條時政の謀略によって発生した比企能員の変によって将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉されてしまい、翌元久元年七月十八日(ユリウス暦一二〇四年八月十四日)に満二十一の若さで謀殺されている(公的には病死とされた)。摂政関白藤原忠通の子慈円の「愚管抄」(第六)に殺害当日の日付を附して記された内容によれば、『修禪寺ニテ又賴家入道ヲバ指(さし)コロシテケリ。トミニエトリツメザリケレバ、頸ニ緒ヲツケ、フグリヲ取リナドシテコロシテケリト聞エキ』とあり、これは文字通り、悲惨な「非法の死」と言える。]