宿直草卷五 第四 曾我の幽靈の事
第四 曾我の幽靈の事
[やぶちゃん注:挿絵は今回はよりクリアーな岩波文庫版を用いた。多少、清拭を加えた。]
古めかしき咄(はなし)に、修行者(すぎやうじや)有(あり)て、國國、𢌞(まは)る。宇都(うつ)の山べの現(うつゝ)とも、夢としもなく世を渡るに、ある時、其名も高き富士の麓(ふもと)過(よ)ぎる。「行衞も知らぬ」と眺めし聖(ひじり)の心に似(の)りて見れば、そも又、誰(た)が焚く煙ぞや、降るか殘るか、解けぬか無きか、いさ、しら雪の雲に高く、雷(いかづち)も半腹(はんふく)に鳴り、鳥も如何でか中央(ちうわう)より翔(か)けらん。比叡(ひえ)の山二十(はたち)重(かさ)ぬべき、我が秋津洲(あきつす)の見目(みめ)のみかは、三國に類(たぐ)ふべきもあらず、突兀(とつごつ)として、また、時知らず、目離(めが)れずも崦(やま)を眺めて、まだ秋としもなきに、時も酉(とり)にかい暮れ、我(わが)衣手(ころもで)の墨染(すみぞめ)の頃なり。
もとよりも流離(さすら)への袖なれば、木蔭、苔莚(こけむしろ)など尋ぬるに、彼方(かなた)を見れば、灯影(ほかげ)仄(ほの)めいて、四阿屋(あづまや)の軒(のき)、淋しきあり。
立ち寄りて見れば、賤しからず設(しつら)ひ、几(をしまづき)に草紙(さうし)引き散らし、常ならぬ空燒(そらたき)の香(か)、おかしく美(うるはしふ)して、いと優(ゆふ)なる女房の、衣裳めでたきばかりなるが、竈(かまど)近く寄り居(ゐ)、松が枝(え)、松笠(まつかさ)うちくべて、燒火(たきび)に添ふたるさま、又、鄙(ひな)には目馴(めな)れずぞ有(あり)ける。
やがて、立ち寄り、假寢(かりね)のことを詑(わ)ぶるに、女房、聞(きき)て、
「いたはしや。旅行の袖の、なに行き暮(くれ)給ふとや。人目(ひとめ)離(か)れたるあしひきの、山の住居の憂き席(むしろ)も、一夜(ひとよ)は明かし給へかし。」
と許す。
うち嬉しくて内へ入るに、かの女房の焚(た)く釜を見れば、湧きかへりて、湯玉立つを、いさゝめ、盥(たらひ)に汲みて、浴(あび)けり。
凡そ、人のわざとは見えず。
かくて沐(ゆあみ)仕舞(しま)ふに、外(ほか)より鎧(よろ)ふたる者の歸入(かへりい)りぬ。
その身、朱(あけ)になりて、疵(きず)多く蒙(かうふ)りたり。女房、
「歸へり給ふ。」
と云ふに、苦しげなる答(いら)へせしは、軍(いくさ)の歸(かへ)さか、と見えたり。
物具(もののぐ)取りければ、痛手と見えしも、つい、癒(いへ)けり。
いとゞ不思議にぞ侍る。
僧を見て、
「誰(たれ)ぞ。」
と云へば、妻、
「旅の人にて宿を召したり。」
と云ふ、夫、聞いて、
「さては、行き暮れ給ふか。かゝる見苦しき所にお宿めし候事よ。恥づかしくこそ侍れ。」
と云ふ。僧、
「旅寢を許し給ふ事、嬉しくこそさふらへ。さるにても、御身は如何なる人にてまします。」
と云へば、
「我は曾我の十郎祐成(すけなり)、あの者は大磯(おほいそ)の虎(とら)といふ女(をんな)也。今は昔に過(すご)し世を、語るにつけて淺ましけれど、去りにし建久の頃、此邊りにして、夜晝(よるひる)、仇(かたき)を狙ひ、遂に祐經(すけつね)を討ち、年比(としごろ)の本意を遂げつゝ、身はその時に空しくなれど、魂魄はまだ消えもせで、その罪、修羅(すら)に感じ、執心、今さら殘る世の、御僧にまで見(ま)みえ參らせさふらふぞや。草の枕のうたゝ寢も、緣あればこそ見もし見えもすれ、然るべくは、弔(とふら)ひ給はれ。さりながら、うれしくも、やがて修羅の巷(ちまた)を出でゝ、來年の秋は小田原の城主に生(むま)れさふらふ。客僧、緣あらば、それにて御目にかゝるべし。これを持ちて出(いで)給へ。」
と、太刀の目貫(めぬき)、片方(かたかた)、外(はづ)して、僧に與(あた)ふ。
僧、目貫を受けとりしに、此人も無くなり、日も、まだ暮れず。
不思議に思ひ、夢かと思へど、目貫はさらに有(あり)けり。
さて、そこ立ち退き、とかく送るうち、はや、明(あく)る年の秋になる。
何となふ、小田原に行く。
ちまたの沙汰に、
「殿には、若君、出で來給へども、左の手、握り給ひて、開かず。父母、歎き給ふ。」
と云ふ。
僧、
「さては約束の人なり。」
と知り、奧へ人して、
「御手、開くるやうに致し申さん。」
と云ふ。やがて、
「召せ。」
とて、僧、參り、片方(かたかた)の目貫、取り出だし、若君に見せければ、その時、左の手を開き給ふに、目貫、有(あり)て、僧の持て來たりしと一對なり。
人々、不審しけるに、富士の裾野の約束を語りしと也。
[やぶちゃん注:前話の終りに曾我の弟時致が出た(但し、そこに出る話は私には不祥であったが)のでその兄貴曾我祐成とその愛人虎御前で直連関である。この話、荻田のまどろっこしい評言もなく、話柄の展開も非常に私好みである。曾我兄弟の仇討ちの経緯は、そうさ、私の「北條九代記 富士野の御狩 付 曾我兄弟夜討 パート2〈曾我兄弟仇討ち〉」を参照されたい。
「古めかしき咄(はなし)に」とわざわざ断っているから、ここは江戸初期から遡ること、有意に古い時代ととってよかろうから、個人的には戦国時代の小田原北条の時代と設定したくはなる。本文中で主人公の僧が、普通に「軍(いくさ)の歸(かへ)さか」と思うシーンが出てくる。こうした思いが普通に出て、その姿を不思議に思わないのは江戸幕府成立より有意に以前でなくてはならぬ。そうすると、「卷四 第十五 狐、人の妻に通ふ事」に次いで古い話柄とはなる。
「宇都(うつ)の山べの現(うつゝ)とも」「宇津の山」は今の静岡県静岡市と志太(しだ)郡岡部町(おかべちょう)との境にある山。歌枕。南側に宇津谷(うつのや)峠があり、東海道中の難所として知られた。本話のロケーションとしてもしっくりくるが、この導入部は主人公も併せて、例の荻田の好きな「伊勢物語」の「東下り」の一節に完全に基づいて構成されている。
*
行き行きて、駿河の國に至りぬ。宇津の山に至りて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、蔦、楓(かへで)は茂り、もの心細く、
「すずろなる目を見ること。」
と思ふに、修行者(すぎやうざ)、会ひたり。
「かかる道は、いかでか、いまする。」
と言ふを見れば、見し人なりけり。
京に、その人の御もとにとて、文(ふみ)書きてつく。
駿河なる宇津の山べのうつつにも
夢にも人にあはぬなりけり
富士の山を見れば、五月(さつき)のつごもりに、雪いと白う降れり。
時知らぬ山は富士の嶺(ね)いつとてか
鹿(か)の子まだらに雪の降るらむ
その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十(はたち)ばかり重ね上げたらむほどして、なりは塩尻(しほじり)のやうになむありける。
*
『「行衞も知らぬ」と眺めし聖(ひじり)』西行のこと。「新古今和歌集」の「卷第十七 雜中」に載る(一六一五番歌)、
東(あづま)の方(かた)へ修行し
侍(はべり)けるに、富士の山をよ
める
風になびく富士の煙(けぶり)の空に消えてゆくへも知らぬわが思ひ哉
を指す。
「似(の)りて」「乘る」と同じで、「のりうつる」の意からの敷衍。
「三國」日本・唐土(もろこし)・天竺の三国。
「突兀(とつごつ)」清音で「とつこつ」とも。高く突き出ているさま。高く聳えるさま。「時知らず、目離(めが)れずも」時が移るのも忘れてしまい、一瞬たりとも富士の霊峰から目を離すことが出来ずに。
「まだ秋としもなきに」釣瓶落としの秋というわけでもないのに。ここで時制は晩夏と推定される。
「酉(とり)」午後六時前後。
「我(わが)衣手(ころもで)の墨染(すみぞめ)の頃なり」自らが着ている僧衣(そうえ)の墨染めの衣のように、暗い時分となっていた。
「苔莚(こけむしろ)」苔蒸した場所を臥所の莚に譬えた。
「几(をしまづき)」「机」とも書き第一義は「脇息(きょうそく)・肘掛け」。机の意もあるが、ここは映像からも前者がよい。
「空燒(そらたき)の香(か)」その部屋ではなく、家の別な室でさりげなく焚いて、どこからともなく香ってくるように、香(こう)を焚き燻らすこと。
「かの女房の焚(た)く釜を見れば、湧きかへりて、湯玉立つを、いさゝめ、盥(たらひ)に汲みて、浴(あび)けり」「凡そ、人のわざとは見えず」回国修行の僧であるから、直接に女房の裸の女体(にょたい)を凝っと見ているわけではない。しかし狭い家で視界の端に沸騰した熱湯で! 沐浴をして、しかも! 何ともないそれが見えてしまうのである。さりげない画面の端に現われる怪異の第一! 実に美事!
「物具(もののぐ)取りければ、痛手と見えしも、つい、癒(いへ)けり」武具を取り外すと、その武士の身に刻まれていた多数の重い傷痕が、「Xメン」のウルヴァリンの如く! すぅーと治ってしまうのである! 怪異の第二! いいね!
「曾我の十郎祐成」(承安二(一一七二)年~建久四年五月二十八日(一一九三年六月二十八日)ここではウィキの「曾我祐成」を引いておく。安元二(一一七六)年、祐成が五歳の時、『実父・河津祐泰が同族の工藤祐経に暗殺された。その後、母が自身と弟を連れ相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の領主・曾我祐信に再嫁した。のち養父・祐信を烏帽子親に元服』『して祐成を名乗り、その後は北条時政の庇護の下にあったという』。建久四年の五月二十八日、『富士の巻狩りが行われた際、弟・時致と共に父の敵・工藤祐経を殺害したが、仁田忠常に討たれた』(弟時致は翌日に処刑)。先に示した私の「北條九代記 富士野の御狩 付 曾我兄弟夜討 パート2〈曾我兄弟仇討ち〉」の本文及び私の注も参照されたい。
「大磯(おほいそ)の虎(とら)といふ女」虎御前(安元元(一一七五)年~寛元三(一二四五)年)は相模国大磯の遊女。和歌にも優れ、容姿端麗であったという。「曾我物語」では曾我十郎祐成の愛人として登場し、曾我兄弟が仇討ちの本懐を遂げて世を去った後、兄弟の供養のために回国の尼僧となったと伝えられる。「曾我物語」のルーツは彼女によって語られたものとも言う。これは後、踊り巫女や瞽女などの女語りとして伝承され、やがて能や浄瑠璃の素材となり、曾我物と呼称する歌舞伎の人気狂言となった。
「祐經(すけつね)」工藤祐経(久安三(一一四七)年?~建久四年五月二十八日)は藤原南家の流れを汲む工藤滝口祐継の嫡男。ウィキの「工藤祐経」から引いておく。『幼少期に父・祐継が早世すると、父の遺言により義理の叔父である伊東祐親が後見人となる。元服ののち、祐経は祐親の娘・万劫御前を娶り、祐親に伴われて上洛し平重盛に仕える。歌舞音曲に通じており、「工藤一臈」と呼ばれた。だが、祐経が在京している間に祐親は祐経が継いだ伊東荘を押領してしまい、妻の万劫御前まで奪って土肥遠平に嫁がせてしまう。押領に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる』。『所領と妻をも奪われた祐経は祐親を深く怨み、祐親父子の殺害を図って』安元二(一一七六)年十月、『郎党に命じ、伊豆奥野の狩り場から帰る道中の祐親の嫡男・河津祐泰を射殺する。跡には祐泰の妻と子の一萬丸(曾我祐成)と箱王(曾我時致)の兄弟が残された。妻は子を連れて曾我祐信に再嫁し、兄弟は後に曾我兄弟として世に知られる事になる』。治承四(一一八〇)年八月の『源頼朝挙兵後、平家方として頼朝と敵対した伊東祐親は』、十月の『富士川の戦い後に頼朝方に捕らえられて自害した。祐経の弟とされる宇佐美祐茂(うさみすけしげ)が頼朝の挙兵当初から従い、富士川の戦いの戦功で本領を安堵されており、祐経は京から鎌倉へ下って頼朝に臣従し、祐茂を通して伊東父子亡き後の伊東荘を取り戻したと考えられる。祐経の子・伊東祐時は伊東を名乗り、伊東氏を継承する。祐時の子孫は日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・飫肥藩藩主となる』。「吾妻鏡」での祐経の初見記事は、元暦元(一一八四)年四月の『一ノ谷の戦いで捕虜となり、鎌倉へ護送された平重衡を慰める宴席に呼ばれ、鼓を打って今様を歌った記録である。祐経は平家の家人であった事から、重衡に同情を寄せていたという』。同年六月に『一条忠頼の謀殺に加わるが、顔色を変えて役目を果たせず、戦闘にも加わっていない。同年』八『月、源範頼率いる平氏討伐軍に加わり、山陽道を遠征し』、『豊後国へ渡る。文治二(一一八六)年四月に』『静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞った際に鼓を打っている』。建久元(一一九〇)年の頼朝上洛の際には『右近衛大将拝賀の布衣侍』七『人の内に選ばれて参院の供奉をし』。建久三(一一九二)年七月には、『頼朝の征夷大将軍就任の辞令をもたらした勅使に引き出物の馬を渡す名誉な役を担った。祐経は武功を立てた記録はなく、都に仕えた経験と能力によって頼朝に重用された』建久元(一一九〇)年七月、『大倉御所で双六の会が催され、遅れてやって来た祐経が、座る場所がなかったので先に伺候していた』十五『歳の加地信実を抱え上げて傍らに座らせ、その跡に座った。信実は激怒して座を立つと、石礫を持ってきて祐経の額にたたきつけ、祐経は額を割って流血した。頼朝は怒り、信実の父・佐々木盛綱に逐電した息子の身柄を引き渡して祐経に謝罪するよう求めたが、盛綱は既に信実を義絶したとして謝罪を拒否』した。『祐経は頼朝の仲裁に対し、信実に道理があったとして佐々木親子に怨みを持たないと述べている。祐経の信実に対する振る舞いには、頼朝の寵臣として奢りがあった事を伺わせる』。建久四年五月、『頼朝は富士の裾野で大規模な巻狩りを行い、祐経も参加する。巻狩りの最終日』であった五月二十八日『深夜、遊女らと共に宿舎で休んでいた所を、曾我祐成・時致兄弟が押し入り、祐経は兄弟の父・河津祐泰の仇として討たれた。祐経が仲介して御家人となっていた備前国吉備津神社の神官・王藤内も一緒に討たれている。騒動の後、詮議を行った頼朝は曾我時致の助命を考えたが、祐経の子の犬房丸(のちの伊東祐時)が泣いて訴えたため、時致の身柄は引き渡され、梟首され』ている。
「身はその時に空しくなれど、魂魄はまだ消えもせで、その罪、修羅(すら)に感じ、執心、今さら殘る世の、御僧にまで見(ま)みえ參らせさふらふぞや」基本的に輪廻した祐成は修羅道に転生したのである。「感じ」とは応感して応報の上に修羅道に生まれ変わったことを意味している。その「魂魄」が現世の主人公の行者に見えるのは矛盾でない。例えば、餓鬼道に落ちた餓鬼は「餓鬼草紙」では、現世空間にパラレルな形で、共存しているし、実際に水餓鬼が衆人環視の中で出現した記録も残る。畜生道の牛馬はしばしば現世の存在として語られ、地獄道のそれでさえ、たまさか、我々の感懐や幻視の中にその光景を見せるのである。されば、修羅道に堕ちた(三善道では人間(じんかん)道の下だから一応、「堕ちた」と言っておく)仇討ち一途に生きて悔悟する余裕もなく死んだ彼が修羅道へ転生し、かく行者の目の当たりに姿を見せたことは、これ、なんら、不思議ではないのである。
「緣あればこそ見もし見えもすれ、然るべくは、弔(とふら)ひ給はれ」ここは底本では「見えこそすれ」の後を句点とするが、私は「こそ」已然形(読点)の逆接用法として採る。祐成の亡魂はここで予定された現世への転生の確かさをダメ押しとして求めるために、自身では出来ない供養を行者に依頼したのである。
「太刀の目貫(めぬき)」「目」は「穴」の意で、刀身が柄(つか)から抜けないよう、柄と茎(なかご)の穴にさし止める目釘或いはそれを覆う金具で、次第に刀装の特徴となり精緻にして美麗な飾り物となった。そうした装飾具となったそれは、刀の柄の左右に対になって施された。ここはそれを言う。
「僧、目貫を受けとりしに、此人も無くなり、日も、まだ暮れず」瞬時に家も祐成も虎御前も消え、場面が一面の野原に変ずる怪異の第三! 小泉八雲の「食人鬼」(リンク先は私の古い現代語訳。「小泉八雲“JIKININKI”原文及びやぶちゃんによる原注の訳及びそれへの補注」もどうぞ!)のラストのように、すこぶるいい!]