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2017/08/31

北越奇談 巻之五 怪談 其四(埋蔵金伝説)

 

    其四

 

 「漆千杯・朱千盃・黄金(わうごん)千兩、朝日映夕日暉有梨樹下(あさひ、えいじ、ゆふひ、かがやく、りじゆのしたに、あり)」、如ㇾ此(かくのごとき)古碑、他邦は知らず、が國、已に三ケ所あり。

 其一 長岡東山下、釜ケ島村(かまがしまむら)、觀音。

 其二 新發田(しばた)より南、牧山藥師(まきやまやくし)。

 其三 村上關谷(せきたに)、桂村なり。

 其里俗、頻りに此古碑をつのりて、

「昔、長者某(それがし)、黄金等(とう)を土中(どちう)に埋(うづ)め、此碑を立(たつ)。」

と。

「今、其所在を失(しつ)して、尋ね求(もとむ)るに由なし。」

と云へり。

 是を見聞(みきく)人、羨み思はざるはあらじ。

 按ずるに、中古、如何なる好事の人か、如ㇾ此(かくのごとき)戲作(ぎさく)をなして、衆人の惑(まど)ひを起さしめけん。是、必ず、禪家の僧のなす所なるべし。只、三ケ所の中(うち)、其一所は碑を建(たて)たること、實(じつ)にして、其余(そのよ)は、下愚の人、羨み思ふが故に、

「此事、我郷にもありし。」

なんど云ひ觸らしたるを、誤まり傳(つたふ)るなるべし。

 密(ひそか)に此句を考(かんがふ)るに、漆は黑(くろき)が故に北となし、朱は赤を以つて南となし、金(かね)は黄(き)なるを以(もつて)中央とし、朝日は東にして、夕日は西なり、梨樹は和訓して「なし」と云ふ。是、即(すなはち)、「東西南北中央ともに一物(いちもつ)無し」と云ふ。義なるべし。誠に可一笑(いつせうすべし)。これを以つて是を見れば、黄金は實(じつ)に得難きものか。

 凡(およそ)此三話、怪事にもあらざれど、が國民間(かん)、下愚の輩(ともがら)、他邦の人に對して、是等の話を以つて我國を誇(ほこら)んとす。深く恥べきの至(いたり)なり。只、他邦の人も下愚は信ずべし。中智は謗(そし)るべし。上智は心裡(しんり)に笑(わらひ)て罷(やま)ん。

 

[やぶちゃん注:これは要するに、全国各地に伝わるところの怪しげな埋蔵金伝説の一つであり、似たような符牒はゴロゴロある(漆や朱(辰砂(しんしゃ):硫化水銀。古えより高貴な赤色顔料や漢方薬原料として珍重されてきた)は実際のそれではなく、この「漆千杯・朱千盃」で高価な財宝の譬えである)。例えば、群馬の桐生氏の埋蔵金伝説では「朝日さす夕日耀く雀のみよとりのところ黄金千杯朱千杯あり」(に従う)、石川県の春日野のそれでは元旦に鶏が「漆千杯、塩千杯、黄金の鶏が七番」と鳴くのだと言い(に従う。ここの頭には新潟県の埋蔵金伝承地が列挙されてある。但し、新潟県に関わるこの暗号歌は確認出来なかった)、長野県竹山砦のそれは「朝日さす夕日輝くその下に黄金千両朱千杯」(同前)とあり、静岡県旧金山繩地のそれは「朝日さし夕日輝くゆずり葉の下に黄金千杯数千杯」(同前)、東北地方もゴマンとある()。崑崙ではないが、私はこの手の話に全く興味がないので食指が動かないので、これ以上は注さない。悪しからず。ともかくも、崑崙先生、越後ばかりじゃござんせんよ、ニッポン全国そこたらじゅうにござんすぜ!

「長岡東山下、釜ケ島村(かまがしまむら)、觀音」現在の新潟県長岡市釜ケ島か。(グーグル・マップ・データ)。「觀音」とする場所或いは寺は不詳。

「新發田(しばた)より南、牧山藥師(まきやまやくし)」不詳。因みに、現在の新発田市街の南に「真木山」という山ならばある。(グーグル・マップ・データ)。

「村上關谷(せきたに)、桂村」これは現在の新潟県岩船郡関川村桂である。(グーグル・マップ・データ)。

「つのりて」調子に乗って言いつのって。

「禪家の僧のなす所なるべし」後の崑崙の解読からは確かに「無一物無尽蔵」のそれっぽい感じはするね。

「三ケ所の中(うち)、其一所は碑を建(たて)たること、實(じつ)にして」三箇所のどこかぐらい、崑崙先生、一言、書いといて下さいよ! そうすりゃ、もうすこしディグできるのに!

「此事、我郷にもありし」直接体験過去の「き」であることに注意。確かにあったのを私は知っているが、惜しいかな、今は失われてしまった、とうそぶいているのである。

「漆は黑(くろき)が故に北となし……」以下は陰陽五行説の色と方位の組み合わせに基づく。

「此三話」これは「其二」からこの埋蔵金伝説までの三話としか読めない。即ち、「其二」のお化け井守も巨大泥鰌も、「其三」の光り蚯蚓も、蚯蚓が鳴くのも、田螺が鳴くのも、妖魚「河鹿」の話も、皆、調べて見れば、他愛もない普通の生き物を大袈裟に言ったり、誤認したりした馬鹿話に過ぎず、この埋蔵金話も採るに足らないガセ話だと一笑一蹴しているわけである。既に「怪談」は二巻目に入ってはいるものの、実は鬼神は信じるが、崑崙先生、なかなか、伝聞の怪談には眉に唾つけるタイプである。都市伝説(アーバン・レジェンド)にはそうそう騙されない人物と見た。だから、好き!!!]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 斯螽(はたおり)

Hataori

はたおり  斯螽 蚣蝑

螽斯

      【波太於里】

 

本綱似草螽而大者曰螽斯似螽斯而細長者曰蟿螽

△按螽斯長二寸許青色尖首長脚有毛露眼其間甚狹

 而眼側有二硬髭小兒戯捕兩足曰汝織機當放去則

 屈股俯仰狀似織機故名之詩經曰五月斯螽動股者

 是也其老者灰赤色黒點善跳作聲如曰吉吉

 

 

はたおり  斯螽〔(ししゆう)〕 蚣蝑〔(しようせい)〕

螽斯

      【「波太於里」。】

 

「本綱」、草螽(いなご)に似て大なる者を螽斯〔(しゆうし)〕と曰ふ。螽斯に似て細長き者、蟿螽(はたはた)と曰ふ。

△按ずるに、螽斯は、長さ二寸許り、青色、尖りたる首、長き脚に、毛、有り。露(あらは)なる眼、其の間、甚だ狹く、眼の側〔(そば)〕に二つの硬き髭〔(ひげ)〕、有り。小兒、戯れに兩足を捕へて曰く、「汝、機(はた)を織(を)れ。當〔(まさ)に〕放ち去るべし」といへば、則〔(すなはち)〕、股を屈(かが)めて、俯(うつふ)き仰(あをむ)く狀〔(かたち)〕、機を織るに似たり。故に之れを名づく。「詩經」に曰く、「五月 斯螽 股を動かす」いふは是れなり。其の老する者は、灰赤色、黒點〔あり〕。善〔(よ)〕く跳〔びて〕、聲を作〔(な〕して、「吉吉〔(きちきち)〕」と曰ふがごとし。

 

[やぶちゃん注:現在の本邦産種としては、直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属ニシキリギリス Gampsocleis buergeri(本州西部(近畿・中国)及び四国・九州に分布)とヒガシキリギリス Gampsocleis mikado(青森県から岡山県(淡路島を含む)に分布し、近畿地方ではニシキリギリスを取り巻くように分布)の二種を挙げておけばよかろう。参照したウィキの「キリギリス」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『成虫の頭〜翅端までの長さはヒガシキリギリスがオス二十五・五~三十六・〇ミリメートル、メス二十四・五~三十七・〇ミリメートル、ニシキリギリスがオス二十九・〇~三十七・〇ミリメートル、メス三十・〇~三十九・五ミリメートルで、メスの方がやや大きい傾向がある』。『緑色を基調とする緑色型と、褐色を基調とする褐色型がある』。『翅の長さも個体群によって長短の変異がある。一般にヒガシキリギリスでは翅が短く』て『側面に黒斑が多く、ニシキリギリスでは翅が長く』て『黒斑は一列程度か、あるいは全くない。ともに触角は長く、前脚には脚の直径より長い棘が列生する。オスは前翅に発音器をもち、メスは腹端に長い産卵器をもつ』。『成虫の頭から翅端までの長さはおよそ二十四~四十ミリメートルほどで、生育環境により』、『緑色の個体と褐色の個体が生じる。若齢幼虫は全身が緑色で頭部が大きい』。「バッタとの比較」の項によれば、バッタに較べると、『からだが短くて体高が高く、脚と触角が長い。成虫の翅の形は種類やオスメスでちがう』。キリギリスは『音の受容体(耳)が前脚の中ほどにある』のに対して『バッタは胸と腹の間にある』。キリギリスの『メスの尾部には刀のような産卵管が発達する』。キリギリスの前の二対の『脚にはたくさんのトゲがあり、雑食性である』。「生態」の項。『年一化で、成虫は夏に現れ、草むらなどに生息して他の昆虫などを捕えて食べる。鳴き声は「ギー!」と「チョン!」の組み合わせで、普通は「ギー!」の連続の合間に「チョン!」が入る』とある。

「本綱」以下は「蟲部 化生類」に「𧒂螽」(フウシュウ)として載る中の「集解」の一節。

「草螽(いなご)」ここでは直翅(バッタ)目バッタ亜目イナゴ科 Catantopidae のイナゴ類としておく。

「蟿螽(はたはた)」直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科ショウリョウバッタ亜科 Acridini 族ショウリョウバッタ属ショウリョウバッタ Acrida cinerea 或いはそのより有意に大型)。

「露(あらは)なる眼」目が飛び出ていることをいう。

「當〔(まさ)に〕放ち去るべし」この部分は原典に従わずに、私が勝手に訓じた。原典では「當放」の右に「イナソ」とカタカナのルビがあり、「去」には読みらしきものがなく、送り仮名もない。私には「當放去」の三字で「いなそ」(或いは「去(い)なそうぞ」で「放してやるぞ!」の意か?)と読んでもどうもピンとこなかったので従わなかった。かく読んだなら、「お前、機(はた)を織れ! 織ったならば解き放ってやるぞ!」という意味で自然に採れるからである。因みに、東洋文庫版も「お前、機(はた)を織れば放してやろう」と訳してある。大方の御叱正を俟つ。

『「詩經」に曰く、「五月 斯螽 股を動かす」』既出既注

『「吉吉〔(きちきち)〕」と曰ふがごとし』う~む、この鳴き声は、キチキチバッタでショウリョウバッタなんですけど。]

北越奇談 巻之五 怪談 其三(光る蚯蚓・蚯蚓鳴く・田螺鳴く・河鹿鳴く そして 水寇)

 

    其三

 

[やぶちゃん注:ここの条の改行は一箇所を除いて原典のママ。崑崙自作の七絶は整序して並べ、前後を一行空けた。]

 

 西川曾根といへる所、町裏(まちうら)、窪(くぼか)なる池に、塵芥(あくた)を捨て、數(す)十年、掃除も用ひざるに、一とせ、六月、淋雨(りんう)して盡(ことご)蒸し暑き夜、靑白(せいはく)の光あるもの、其邊(ほとり)に現はれ、這𢌞(はひまは)れり。人々、怪しみつゝ、大勢、挑灯(てうちん)[やぶちゃん注:「挑」はママ。]など照(てら)し、集まりて、是を見れば、長二尺ばかりなる蚯蚓(みゝず)なりし。是を以つて按(あんず)れば、西國(さいこく)大蚯蚓(だいきうゐん)の奇も真(しん)なるべきか。

 蚯蚓(きうゐん)の吟(ぎん)ずる事、唐山(もろこし)の書にも見へて、歌女(かじよ)の稱あり。夏日、淋雨、晴(はれ)んとする頃、庭際(ていさい)、溝溜(かうりう)などの畔(ほと)り、土中に吟じて、その声、清寥(せいりやう)たり。これを按ずるに、諸虫の吟ずるもの、皆、羽(は)あり。その羽を戰(ふる)ひ、其声を出すものなり。又、口、舌、有(ある)は、勿論なり。何ぞ蚯蚓(きうゐん)のみ、羽舌(うぜつ)なくして、此吟をなさんや。是、必(かならず)、螟螻(けら)の吟を誤まりて蚯蚓(みゝず)となすものならん。蚯(みゝず)、螻(けら)、もと、其居(お)る所、相同(あいおな)じ。依(よつ)て上古(しやうこ)、正愚(せいぐ)の者、土中に吟あるを探り得て、以(もつて)、螻の早く逃げ去(さり)たるを知らず、蚯蚓(みゝず)の跡に殘れるを見て、是(ぜ)となせるならん。或人の曰(いはく)、「蚯蚓(きうゐん)の吟と、螟螻(けら)の吟とは別音(べつをん)なり」と云へれど、是は妄説なること、明かなり。只、蚯蚓(きうゐん)、口無きにはあらず、頭の先を開(ひらき)て、よく、水垢(みづあか)・靑苔(あをごけ)などを吸(すふ)ものなり。

 又、「田螺鳴(たにしな)く」と云へること、俳諧季節などにも春の部出し發句(ほつく)もあり、且、農俗、よく是を云ふ。早春、雪消(ゆききえ)より、耘(くさかり)、耕(たがやす)の頃まで、田間(でんかん)、常に其声を聞くと雖も、心を用ひざれば、その何ものたるを知らず。過(すぎ)し春、頸城郡にありて、初めて、其(その)田螺なることを聞(きか)されど、心を用ひ、耳を傾(かたむ)くるに、「古呂(ころころ)加良(からから)」の声、寂寥と、かの長安の鼓吹(こすい)にも恥(はぢ)ざるべし。爰(こゝ)に一絶を新製(しんせい)す。

 

  田間水足事春耕

  風暖黄苗半寸生

  弦月朦朧含雨夕

  巡畴静聽蝸蠃鳴

 

 本草田螺・蝸蠃(くはら)ノ二品(にひん)に擧ぐ。蝸蠃は葢(ふた)なし。只、農俗云(いふ)、「田螺、蓋(ふた)なきもの、よく鳴く」と云へり。依(よつ)て此野調(やてう)を賦(ふ)して、以(もつて)、聊(いさゝ)か其(その)田家春夜(でんかしゆんや)の情(じよう)を述(のぶ)ると雖も、密(ひそか)に考(かんがふ)るに、田螺、よく此声をなすの謂(いは)れなし。即(すなはち)、田畦(たのあぜ)に出て、靜(しづか)に、獨り、其聲に付(つき)て探り求(もとむ)るに、田螺・蝸蠃、三ツ四ツを得、是を泥盤中(でいばんちう)に放ち、庭前に置きて、以(もつて)、試(こゝろむ)るに、終夜(よもすがら)、竟(つゐ)に不ㇾ鳴(なかず)。翌夜(よくや)、又、かの田畦(たのくろ)に至(いたつ)て聞(きけ)ば、即(すなはち)、声あり。重ねて尋ね求むれども、田螺、なし。頻りに杖を以て畦(くろ)を打(うて)ば、忽(たちまち)、土中(どちう)より白靑(しろあを)みたる小蛙(こがへる)一ツ、飛出(とびいで)たり。即、俗に「石蛙(いしかはづ)」と云ふものなり。是を取(とつ)て池中(ちちう)に放(はなつ)。其夜(よ)、忽ち、声、有(あり)て、田畴に異(こと)なること、なし。蚯蚓(きうゐん)の説、相同じ。以可一笑(もつていつせうすべし)。

 越國(ゑつこく)の俗諺(ぞくげん)に、「河鹿(かじか)、土中に鳴く時は、三年にして其堤(つゝみ)、崩(くづ)る」と云へり。河鹿、其形、鯰魚(なまず)に似て、小なるもの、一、二寸、大なるも、四、五寸に不ㇾ過(すぎず)。其声、鹿に似たれば、河鹿と云ふなるべし。是も又、前の二説に類して、かゝる小魚(しようぎよ)の鳴く理(り)なしと雖も、いまだ不ㇾ試(こゝろみず)。此魚(うを)、常に水上(すいしよう)に不ㇾ浮(うかばず)。砂石(しやせき)に著(つ)きて遊ぶ。或(あるひ)は水中(すいちう)土穴(つちあな)に住む。鬚(ひげ)あり。尾中、針(はり)ありて、人を刺す。然(しか)れば、堤の下など、自然に埋(う)みて、水を含み、空所有(ある)が故に、此魚、集まり住(すみ)て、其声をなせるか。[やぶちゃん注:ここは原典・野島出版版ともに文章は繋がっている。私が恣意的に改行した。明らかに崑崙の主張内容ががらりと様相を変えるからである。]

 が郷(きよう)、本(もと)より水國(すいこく)、常に洪水を防ぐの用をなす。殊に信川(しんせん)の淼流(ひようりゆう)、両岸(りやうがん)に付(つき)て、數百邑里(すひやくのゆうり)、年々(としとし)、水を愁(うれひ)、雨を苦(くるし)んで、是を防ぐの費(ついへ)、幾千万ぞや。然(しか)りと雖も、大河、一たび溢(あふ)る時は、千日の苦辛(くしん)、忽(たちまち)、あだとなり果てゝ、百尺(ひやくせき)の堤、只、一蟻穴(いちぎけつ)より破(やぶれ)、覆(くつがへ)り、其淼流が赴く所、林木(りんぼく)を拔き、村屋(そんおく)を傾(かたぶ)け、數十里(すじうり)の平田(へいでん)、只、泥海(でいかい)となりて、稻粱(いなくさ)の類ひは、云ふもさらなり、是がために、靑草一葉(せいさういちよう)の食(しよく)に當(あつ)べきもの、なし。故に、雨水(うすい)打ち續(つづく)年は、飢民(きみん)、寢席(しんせき)を暖(あたゝ)むること、能(あた)はざる也。目(ま)の當たり、是を見る人、誰(たれ)か愁(うれひ)となさゞることを得んや。或(ある)人の曰(いはく)、「今、猶、禹王(うわう)のあることを得ば、水國の下民(かみん)、此災(わざはひ)を免かるべし」と。笑(わらつ)て曰、「不ㇾ然(しからず)。上古(じようこ)の水(みづ)を愁(うれふ)る民は、分國の隔(へだ)てなく河(かは)溢(あふる)れども、今時(こんじ)のごとく、堤の防ぎもなく、其水の押し行く所、屋宇(おくう)漂ふことをなせども、正愚の民、是を補(おぎな)ふの術(じゆつ)なし。故に、禹王、その水脈を正(たゞ)し、地理のよろしきに隨(したがつ)て流(ながれ)を導くものなり。今の世は是を補ふの奇術ある人も、その南によろしきは、其北に障(さは)りあり。其西を宥(なだ)むれば、東、又、不ㇾ從(したがはず)。たまたま、四方(しほう)のよろしきを得る人ありとも、今時(こんじ)の人情、只、己(おのれ)に勝(まさ)れるを憎み、其下風(かふう)にたゝんことを恥(はづ)る。故に相爭(あいあらそふ)て止まず。たとへ、禹王、在(います)とも、何ぞ、其術を盡(つく)すことを得ん。が國、此水寇(すいこう)を免(まぬか)るゝことを得ば、方(まさ)に是(これ)、富饒(ふじよう)の地なるべし。」。

 

[やぶちゃん注:前半は生物奇談であるが、後半は俄然、崑崙が越後の治水の如何に困難であるかを語る、憂国の士としての厳しい事実の提示となっている。いつの世も怖いのは奇怪な生物なんぞではなく、自然災害であり、もっと忌まわしいのは人間のエゴだと崑崙は言うのだ。凄い!!!

「西川曾根」現在の新潟県新潟市西蒲区曽根。地区の西端を西川が北流する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「淋雨(りんう)」雨が絶え間なく降る雨。長雨。

「靑白(せいはく)の光ある」「蚯蚓(みゝず)」実は、現在の本邦には〈光るミミズ〉が棲息する。環形動物門貧毛綱ナガミミズ目ムカシフトミミズ科 Microscolex属ホタルミミズ Microscolex phosphoreus である。ウィキの「ホタルミミズ」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、小型のミミズの一種で、『生物発光することで知られている。日本でも各地に産する』。『体長四十 ミリメートル程度、体幅一~一・五ミリメートル程度の小型種である。体節数は七十四ないし七十六個で、ほぼ全体が淡黄白色を呈し、環帯以外の部分は半透明である。環帯は十三節目から二十七節目までを占め、環状に全面を覆う。剛毛は各体節に四対あり、ほとんどの関節では』、互いに『離れた位置にある。背孔はない。受精嚢は第八節と第九節の間で体表に開口し、雄性孔は一対のみで第十七節にあり、また』、『産卵孔は一対で第十四節に存在する』(老婆心乍ら、多くのミミズ類は雌雄同体である)。『日本においては、寒い時期の降雨中(あるいは降雨の直後)における目撃例が多い。夏期に見出されることはきわめて少なく、温暖な時期は卵の状態で越すか、あるいは異なった場所に移動して過ごす可能性が考えられている。地表に排出した糞塊(earthworm cast)は粉質で粒径が小さく、同様の場所に生息する他のミミズのそれと異なるために、比較的容易に生息場所が特定できるが、この糞塊も、晩秋から冬(特に十一月末から十二月末ぐらいまでの期間)にかけて多く見られ、夏場はほとんど見出されないという』。『主に有機物に富んだ黒ボク土や、花崗岩が風化してできた真砂土のようなシルト質の土壌を好み,畑や山林などさまざまな場所で確認されている。乾燥しすぎた場所や、逆に土壌含水率が過剰な場所には生息していない。当初は珍しい種であると考えられていたが、現在では公園や校庭などで見られる普通種であるとされる』。『名古屋大学キャンパス内での調査によれば、発見された場所は建物の北側などで地面が湿っており、地表にコケが生え、草本は少なくて表土が露出していて、あまり人が歩き回らない場所であった。緑地環境が保護された場所では全く発見されなかったという』。『生活史などの詳細は不明であるが、単為生殖で繁殖するのではないかと推定されている』。『北半球の温帯地域(ヨーロッパ・南北アメリカおよび日本)に広く分布する』。『日本では、神奈川県(大磯市)および鹿児島県において』昭和九(一九三四)年に『初めて発見され、さらに下って一九七二年の段階では福島・埼玉・神奈川・静岡・香川・福岡・鹿児島の各県から知られていた。二〇〇五年には鳥取県下で発見され、二〇〇三年および二〇一〇年には茨城県でも採集された。また、二〇〇四年から二〇〇九年にかけての奈良県下での調査で見出されたほか、二〇一二年には富山県下からも採集され、現在では東北から九州まで分布が知られている』。『なお、本種について、日本の在来種ではなく帰化したものではないかとする推測がある』。『発光能力があることで知られるが、特別に分化した発光器は持たず、外界からの刺激(ピンセットや針などによる機械的な刺激やクロロホルムなどの化学的刺激、電気的刺激を受けて、口や肛門または皮膚表面から体外に滲出した体腔液が光を発する。体腔液が発する光を分光器測定した結果では』、その波長は五百三十八ナノメートルで黄色みがかった緑色『であったという』。『本種が生息する地域を夜間に歩くと、地表面に点々とホタルのそれを思わせる光が観察される。ピンセットによって機械的刺激を与えた例では、体の末端から体液が出て、約一分間にわたりぼんやりとした光を発したという。富山県魚津市内での発見例でも、発光部位は体の後端であると報告されている』。『発光の意義については確実な説明がなされていないが、ケラなどの外敵が、発光しているホタルミミズに対して忌避を示して摂餌しない例が観察されていることから、外敵に対する威嚇ではないかとする説がある』。『日本産の陸生環形動物のうち、発光能力を有する種としては、他にイソミミズ(Pontodrilus litoralis:かつてはP. matsushimensis の学名があてられていたが、この名は現在では異名とされている)が知られる。本種より大型(体長三十二~百二十ミリメートル、体幅二~四ミリメートル程度)で、海岸付近の砂浜に生息する。軽微な機械的刺激では発光は観察されず、イソミミズの虫体を激しく傷つけたりすりつぶしたりすることで得られる体液から発光が認められるという』とある。しかし、ホタルミミズの発見はごく現代で、近代以降の帰化生物の可能性が高く、発光時期が本ロケーションと符合しない。後のイソミミズにしても、棲息域の問題と発光機序に何らかに強い刺激や粉砕が必要である点が厳しい。しかも孰れの種も大きさが小さ過ぎて、これらを同定候補するにはあまりにも無理がある。考え得る一つはイソミミズを捕食した鳥が運んで落した可能性である(イソミミズは現在のところは宮城県松島が北限であるが、本州の日本海側では発見例がない模様である。「日本産ミミズ大図鑑」のこちらを参照されたい)。

「二尺」六十一センチ弱。

「西國(さいこく)大蚯蚓(だいきうゐん)」石川県から滋賀県にかけてのみ分布するハッタミミズ(貧毛綱ジュズイミミズ目ジュズイミミズ科ジュズイミミズ属ハッタジュズイミミズ Drawida hattamimizu)は最大長六十センチメートルから一メートルにも達し(但し、これは伸縮度が大きいせいもある)。中部日本以西に棲息するシーボルトミミズ(ナガミミズ目フトミミズ科フトミミズ属シーボルトミミズ Pheretima sieboldi)は最大で四十五センチメートルにもなるから、実在するこれらのことを指していると見てよかろう。

「蚯蚓(きうゐん)の吟(ぎん)ずる事」大陸伝来の誤認で、本邦でも近代に至るまでミミズは鳴くものと考えられてきた(鹿児島大隅半島の山の中に暮らしていた私の母方の祖母もよくそう言っていた)が、発声器官を持たない彼らは当然、鳴かない。これは直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科グリルロタルパ(ケラ)属ケラ Gryllotalpa orientalis である。詳しくは、私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 螻蛄(ケラ)」の注を参照されたい。崑崙の以下の「螟螻(けら)の吟を誤まりて蚯蚓(みゝず)となすものならん。蚯(みゝず)、螻(けら)、もと、其居(お)る所、相同(あいおな)じ」といった否定見解はすこぶる鋭く科学的且つ実証的である。

「唐山(もろこし)の書」野島出版脚注には『抱朴子。博喩。』酉『陽雜俎。などの中国の書物』とする。

「歌女(かじよ)」野島出版脚注に『蚯蚓はよく地中に長吟す。江東(揚子江の東方)』にては『これを歌女と云う。又』『鳴砌』(「メイサイ」或いは「メイセツ」)『ともいう(古今注)』とある。「古今注」は西晋(二六五年~三一六年)の崔豹(さいひょう)の撰とされる名物考証書であるが、実際には原本は失われており、現行本は五代(九〇七年~九六〇年)の馬縞(ばこう)の「中華古今注」三巻に基づいて編せられたもので、しかもこれの自体も唐の蘇鶚(そがく)の「蘇氏演義」二巻に依っていることが明らかになっている。

「庭際(ていさい)」庭の端。

「溝溜(かうりう)」「どぶだめ」。排水用の溝及び雨で出来た水溜まり。

「清寥(せいりやう)」清らかで静かなさま。私は螻蛄の鳴き声をそのようなものとして確かに感ずる。

「正愚(せいぐ)の者」先行使用例を見ても崑崙は「正愚」という言葉を全くの無知の輩への全否定的ニュアンスでは用いていない。寧ろ、知力に欠けはするものの、素朴な質の連中といった感じである。

「只、蚯蚓(きうゐん)、口無きにはあらず、頭の先を開(ひらき)て、よく、水垢(みづあか)・靑苔(あをごけ)などを吸(すふ)ものなり」崑崙の附け加えであるが、実に正確な観察である。ミミズの口は頭部尖端に開いており、落ち葉などの形成した腐植土などを摂餌している。

「田螺鳴(たにしな)く」崑崙が述べている通り、江戸の歳時記で既に三春の季語であった。実際に今でも田螺(腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae のタニシ類)が鳴くと思っている人はいるようだが、無論、鳴かない。これは崑崙が検証している通り、蛙の鳴き声の誤認で、特に現代では両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri の鳴き声に特定されている。この蛙の鳴き声は近代以前には非常に好まれ、季節の贈答品として生きたまま贈られたりさえした。私の「谷の響 四の卷 一 蛙 かじか」なども参照されたい。但し、崑崙が実験のために捕捉したそれはそれらしくない。カジカガエルはアオガエル科 Rhacophoridae ながら、体色は灰褐色で、「白靑(しろあを)みたる小蛙(こがへる)」というのは同種とは思われない。しかし崑崙の音写するその鳴き声「古呂々々(ころころ)加良々々(からから)」はまさにカジカガエルの音写と読める。後に出る俗名「石蛙(いしかはづ)」は確認出来ない(カジカガエルとしてもそれ以外の蛙の異名としても、である)。因みに、同季語の発句を例示しておく。

 

 菜の花の盛に一夜啼(なく)田螺 河合曽良

 田螺鳴く畝のたんぽぽ打ちほけぬ 加藤曉臺

 鳴く田螺鍋の中ともしらざるや  小林一茶

 

寧ろ、「田螺鳴(たにしな)く」という諧謔味を好んだのは近代俳人で、鳴かないことを知っていて確信犯で季語として使用したものが異様に多い。今も信じている方々のその根っこにはこの罪深い連中の駄句があるように思われる。

 

 にぎやかに田螺鳴く夜や一軒家  正岡子規

 賣られてや京の眞中に鳴く田螺  正岡子規

 御佛に棚田棚田の田螺鳴く    高野素十

 水入れて近江も田螺鳴くころぞ  森 澄雄

 

ただ、子規の「賣られてや」の句などは、タニシが身を縮めて蓋をして閉じこもる際の出る小さな「チュ~ッ」という音とすれば、許せるところではある(タニシは足の後部背面に褐色のキチン質の蓋があり、殻口をぴったり塞ぐことが出来る。蓋は殻口と同形の滴状を呈したもので、核は中央付近にあって蓋は同心円状に成長する。蓋を閉める際、殻内の空気が隙間から漏れ出して音がすることが実際にある。ここはウィキの「タニシ」に拠った)。因みに、他に鳴かないのに鳴くとされて季語になっているものには「亀鳴く」(春)と、先の「蚯蚓鳴く」(秋)が著名。

「長安の鼓吹(こすい)」鼓(つづみ)と笛で、ほぼ打楽器と管楽器と構成されている楽曲。ここは唐の都長安の宮殿で催された祝宴用の音楽を漠然と想起したものであろう。

「田間水足事春耕 風暖黄苗半寸生 弦月朦朧含雨夕 巡畴静聽蝸蠃鳴」漢字を正字にして野島出版脚注にあるそれを参考に訓読する。

 

 田間(でんかん) 水 足(た)りて 春耕を事とす

 風 暖かにして 黃苗(くわうべう) 半寸(はんすん) 生(しやう)ず

 弦月 朦朧として 雨を含む夕(ゆふべ)

 疇(ちう)を巡りて 靜かに聽く 蝸蠃(くわら)の鳴くを

 

結句の「疇」は田の畦のこと。「蝸蠃」は本草書では有肺類 Pulmonataの蝸牛(かたつむり)のことだが、「蝸」も「蠃」も広く巻貝一般を指す語としても用いられる。ここは田螺である。

「本草」明の李時珍の「本草綱目」。

「蝸蠃は葢(ふた)なし」こんなことは「本草綱目」には書かれていない。思うに、カタツムリ類は多くが蓋を持たない(但し、貝殻亜門腹足綱ヤマタニシ上科ヤマタニシ科 Cyclophoridae:陸生貝類でカタツムリの一種。真正のタニシと全く無縁なので注意)などでは蓋があり、ヤマタニシ科ヤマクルマガイ属ヤマクルマガイ Spirostoma japonicumでは蓋が円錐形に盛り上がるのが特徴になっている。ここはウィキの「カタツムリ」を参考にした)。

「田螺、蓋(ふた)なきもの」蓋のないタニシは本邦産ではいないと思われる。蓋がないのは老成して衰弱した死にかけた個体か、外敵によって食いつかれ剝がれたものと私は推測する。

「野調(やてう)」野趣。

「賦(ふ)」ここは広義の漢詩(韻文)の意。

「河鹿、其形、鯰魚(なまず)に似て」これはどうもカジカガエルではない。以下を一読して、ピンときたのは、条鰭綱ナマズ目ギギ科ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps である。ただ、「小なるもの、一、二寸、大なるも、四、五寸に不ㇾ過(すぎず)」というのはちと小さいが、成長過程の若魚とすれば問題ない。実際に音を発する川魚であり、棘を持ち、刺されると痛む(但し、尾鰭ではない)ウィキの「ギギ」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『全長は三十センチメートルにもなるなど、ギギ科のなかで最も大きくなる。同じギギ科のギバチに似ているが、ギギは尾びれが二叉になっているので区別できる。背びれに一棘七軟条、尻びれに二十軟条、腹びれに六軟条、触鬚が四対。上顎に二対、下顎に二対、合計八本の口ひげがある。昼間は岩陰に潜み、夜間に出て底生動物や小魚などを食べる。腹びれの棘と基底の骨をすり合わせ、「ギーギー」と低い音を出す。背びれ・胸びれの棘は鋭く、刺さると痛い』(「其声、鹿に似」ているかどうかは知らぬ)。『直径約二ミリメートルの強い粘着性のある黄褐色の卵は、千二百粒から二千百粒ほど産卵された後に約七十時間で孵化し、体長五ミリメートル程度の稚魚となる。稚魚は一週間で卵黄を吸収し、九ミリメートル程度まで成長すると、摂食を開始する』。本種は『新潟県阿賀野川より以南、九州東部まで分布』から、分布域もクリアー出来る。但し、ギギを異名で「河鹿」と称するというのは聞かない。

「用」必要。

「信川(しんせん)」信濃川。

「淼流(ひようりゆう)」淼(正しくは「ビヨウ(ビョウ)」)は「水が果てしなく存在するさま」を意味する。厖大な水流。

「両岸(りやうがん)に付(つき)て」川の両岸にとりついて浸食し。

「數百邑里(すひやくのゆうり)」数多くの村里。

「苦辛(くしん)」苦しく辛(つら)い農作業や治水の仕儀。

「あだ」ここは「徒」で、「甲斐のないさま・無駄」「役に立たなくなること・つまらないもの」の意。

「百尺(ひやくせき)の堤」百尺(ひゃくしゃく)は約三十メートル強であるが、ここは築かれた長い堤の意。これは次の「韓非子」のそれの記憶違いで千とすべきところであろう。

「一蟻穴(いちぎけつ)」たった一つのちっぽけな蟻の巣の穴のようなもの。「韓非子」の「喩老」に、「千丈之隄、以螻蟻之穴潰、百尺之室、以突隙之煙焚」(千丈の隄(つつみ)も螻蟻(らろうぎ)の穴を以つて潰(つひ)へ、百尺の室も突隙(とつげき)の煙(けむり)を以つて焚(や)く)「螻蟻」は螻蛄(けら)と蟻。後半は「百尺もある大きな部屋も煙突の隙間の煙から灰燼に帰す」で、何事も早急に対処することが肝要であることの譬えである。

「稻粱(いなくさ)」野島出版版は本文を「稲梁」とし、ルビを『いなさく』とする。確かに原典は「稻梁」としか読めないのであるが、それでは意味が通らない(或いは、野島出版版の校訂者は稲を架ける「はさ」(稲架)を想起したのかも知れないが、「はさ」は「挟む」が原義であり、「梁」にはそのような意味はないから、私は採れない。しかも原典のルビは明らかに「いなくさ」である。そこで私は二字目を粟(あわ)の意の「粱」の誤字と採り、農民が育てる稲や粟などの穀類の「草」の意で、かく、した。大方の御叱正を俟つ。

「靑草一葉(せいさういちよう)」たった一枚の青菜、菜っ葉。

「寢席(しんせき)」寝床。

「禹王(うわう)」中国古代の伝説の聖王。特に黄河の治水に功績があって、聖王舜(しゅん)から禅譲によって帝位を受け継ぎ、夏王朝を建てたとする。

「水寇(すいこう)」水の侵攻。大規模で甚大な水害。]

2017/08/30

「北越奇談」の作者が棲んだという「池端」の考証情報を拝受

「北越奇談」で橘崑崙茂世が壮年期に澄んでいた「池端(ちたん)」は固有名詞で、それは新潟県新発田市池ノ端(ここは寄合旗本溝口家越後池端五千石の陣屋があった)ではないかという、詳細な検証を添えたメールを未知の方より、つい先ほど、拝受した。
 
それは地理的な位置からも崑崙の叙述から、すこぶる納得の出来る地理条件にあることが判り、これは幾つかの複数の注を大幅に変更する必要が生じた。
 
私事上、それらを直ぐに訂正する余裕がないので、ここに、その新たな御教授を受けた事実を示しおいて、向後、幾つかの注を大きく変更することになることを先に申し述べておきたい。これは先に同定してこれだと述べた場所や寺なども、全く違ったものとなることになる(既に幾つか誤りであることが、ほぼ判明した)。
 
因みに、そこで最後にその方は、作者崑崙橘茂世は実は、『池端陣屋に関係する現地雇用の手代、手先のような者ではなかったでしょうか?』 『鬪龍の条の竜巻発生状況、被害が詳しく、飛脚便の書類を目にできる立場にあるような気がしました』と述べておられ、思わず、「そうか!」と独りごちてしまったほどである。
 
また、未知の方に導かれた。

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)


Koorogi

こほろぎ  蛬  蛩【同】

      促織   蜻蛚

      趨纖

蟋蟀

      【古保呂木】

ころろん

 

三才圖會云似蝗而小正黒而有光澤如漆有翅及角善

跳以夏生立秋後夜鳴好吟於土石磚甓之下尤好闘勝

輒衿鳴其聲如急織故謂促織亦曰趨織【本草綱目所言亦同之】

五雜組云呉國有闘促織之戯决賭其雌者有文采能鳴

健闘雄者反是以立秋後取之飼以黃豆糜至白露則夜

鳴求偶然以雄者進不當意輙咋殺之次日又以二雄進

又皆咋殺之則爲將軍咋殺三雄則爲大將軍闘之以股

之遠去尺計無不糜爛乃以厚價售

△按蟋蟀有二種扁脊者善鳴其聲如曰古呂呂牟古呂

 呂牟清美亞于松蟲 窄脊者尻有劍刺不鳴

 古今注云蟋蟀秋初生得寒則鳴俚語有言趨織鳴嬾

 婦驚蓋蟋蟀莎雞斯螽等和漢共不得辨今畧解于左

詩豳風曰五月斯螽動股六月莎雞振羽七月在野八月

在宇九月在戸十月蟋蟀入我牀下

 朱子註曰斯螽莎雞蟋蟀一物隨時變化而異其名儆

 玄衍義曰斯螽蝗也莎雞促織也蟋蟀蛩也自是三物

 安得謂之隨時變化而異其名朱註此一處可改之

 按儆之説是也然莎雞以爲促織者非也

順和名抄云絡緯一名促織【和名汝太於里女】蜻蛚【和名古保呂木】螽

一名蚣蝑一名蠜螽一名春黍【以禰豆木古萬呂】蟋蟀一名蛬【和名

木里木里須】

 按是皆混雜異名和名共齟齬也後人據之相謬乎今

 曲辨之見于各條

 

 

こほろぎ  蛬〔(きよう)〕    蛩〔(きよう)〕【同じ。】

      促織〔(そくしよく)〕 蜻蛚〔(せいれつ)〕

      趨纖〔(そくしよく)〕

蟋蟀

      【「古保呂木」。】

ころろん

 

「三才圖會」に云、蝗〔(いなご)〕に似て小さく、正黒にして光澤有りて漆のごとく、翅及び角、有り。善く跳(と)ぶ。夏を以つて生まれ、立秋後に、夜、鳴く。好んで土石・磚甓(いしだゝみ)の下に吟ず。尤も、闘〔ひ〕を好み、勝つときは、輒〔(すなはち)〕、衿(ほこ)りて鳴く。其の聲、急に織〔(はたお)〕るがごとし。故に促織と謂ふ。亦、趨織と曰ふ【「本草綱目」に言ふ所も亦、之れに同じ。】。

「五雜組」に云、呉國に促織を闘はしむるの戯、有り。賭(かけもの)を决す。其の雌は、文采〔(もんさい)〕有り、能く鳴きて健〔(すこや)〕かに闘〔(たた)〕かふ。雄は是れに反す。立秋の後を以つて之れを取る。飼〔ふに〕黃豆(まめ)の糜(かゆ)を以つてす。白露〔(はくろ)〕に至るときは、則ち、夜、鳴きて、偶(とも)を求む。然るに雄なる者を以つて進むるに、意に當てざれば、輙〔(すなはち)〕、之れを咋(か)み殺す。次の日、又、二雄を以つて進む。又、皆、之れを咋み殺すを、則ち、「將軍」と爲す。三雄を咋み殺すを則ち、「大將軍」と爲す。之れ、闘ふに、股を以つて、一たび、之れを(け)るに、遠く去ること、尺計りにして、糜爛〔(びらん)〕せずといふこと無し。乃〔(すなはち)〕、厚價を以つて售(う)る。

△按ずるに、蟋蟀、二種、有り。扁(ひらた)き脊(せなか)なる者、善く鳴く。其の聲、「古呂呂牟(ころろむ)、古呂呂牟」と曰ふがごとし。清美にして、松蟲に亞〔(つ)〕ぐ。窄(すぼ)き脊〔(せなか)〕なる者は、尻に劍刺〔(けんし)〕有り、鳴かず。

「古今注」に云、『蟋蟀(こほろぎ)、秋の初めに生まれて、寒を得れば、則、鳴く』と。俚語〔(りご)〕に『趨織(こほろぎ)鳴けば、嬾婦〔(らんぷ〕驚く』と言へること、有り。蓋し、蟋蟀(こほろぎ)・莎雞(きりぎりす)・斯螽(いなご)等、和漢共に辨ずるを得ず。今、畧(あらあら)、左に解す。

「詩」の「豳風〔(ひんぷう)〕」に曰、『五月 斯螽(〔(ししう)〕/はたをり) 股〔(こ)〕を動かす 六月 莎雞(〔さけい〕/きりぎりす) 羽を振ふ 七月 野〔(や)〕に在り 八月 宇〔(う)〕に在り 九月 戸〔(こ)〕に在り 十月 蟋蟀(〔(しつしゆ〕/こうろぎ) 我が牀〔(しやう)〕の下〔(もと)〕に入る』〔と〕。[やぶちゃん注:読みの『/』以下は左ルビ。前のそれは私が附した音読み。「こうろぎ」はママ。]

朱子の註に曰、『斯螽・莎雞・蟋蟀は一物〔(いちもつ)〕にして、時に隨ひて變化して其名を異にす』といへり。儆玄〔(けいげん)〕が「衍義〔(えんぎ)〕」に曰、『斯螽は蝗なり。莎雞は促織なり。蟋蟀は蛩〔(きよう)〕なり。自(をのづから)是れ、三つの物〔なり〕。安く〔んぞ〕之れを時に隨ひて變化して其の名を異にすと謂ふを得ん。朱の註、此一處、之れを改むべし』といへり。按ずるに、儆が説、是〔(ぜ)〕なり。然れども、莎雞を以つて促織と爲〔(せ)〕るは、非なり。

順〔(したがふ)〕〔が〕「和名抄」に云、『絡緯〔(らくゐ)〕、一名、促織【和名、「汝太於里女〔(はたをりめ)〕」。】。蜻蛚〔(せいれつ)〕【和名、「古保呂木(こほろぎ)」。】。螽〔(しゆうし)〕、一名、蚣蝑〔(しようしよ)〕、一名、蠜螽〔(はんしゆう)〕、一名、春黍〔(しゆんしよ)〕【以禰豆木古萬呂〔(いねつきこまろ)〕】。蟋蟀、一名、蛬〔(きよう)〕【和名、「木里木里須(きりぎりす)」。】。

〔△〕按ずるに、是れ、皆、混雜して異名・和名共に齟齬(くいちが[やぶちゃん注:「い」はママ。])ふなり。後人、之れに據つて相ひ謬〔(あやま)〕るか。今、曲(ひとつひとつ)、之れを辨じて、各條に見〔(みあ)〕はす。

[やぶちゃん注:巨視的には直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科 Grylloidea に属するものの総称とするが(ウィキの「コオロギ」等)、同上科にはケラ(螻蛄)(ケラ科グリルロタルパ(ケラ)属ケラ Gryllotalpa orientalis)やカネタタキ科 Ornebius 属カネタタキ Ornebius kanetataki 等が含まれ、私は到底、従えない。同上科の中でもコオロギ科 Gryllidae に絞っても、Homoeogryllus 属スズムシ Homoeogryllus japonicusXenogryllus 属マツムシ Xenogryllus marmoratus・カンタン亜科カンタン属カンタン Oecanthus longicauda 等の明らかに素人の私でも鳴き声で区別し、コオロギとは呼ばない、体型も色も異なるような種が含まれる。寧ろ、私は主にコオロギ亜科 Gryllinae に属する種群を狭義に指すとする方が、より正しいと考えている。実際、コオロギ亜科に属する種には、

フタホシコオロギ族エンマコオロギ属エンマコオロギ Teleogryllus emma

オカメコオロギ属ハラオカメコオロギ Loxoblemmus campestris

オカメコオロギ属ミツカドコオロギ Loxoblemmus doenitzi

ツヅレサセコオロギ属ツヅレサセコオロギ Velarifictorus micado

といった本邦の「コオロギ」の呼称で知られるオール・スター・キャストが含まれているからである。なお、白っぽい小型種で♂♀ともに翅を欠いていて鳴かない(求愛行動はフェロモン誘導と振動ディスプレイによるものと推測されている)茅蟋蟀(コオロギ科 Gryllidae Euscyrtinae属カヤコオロギ Euscyrtus japonicus)がいるが、これは鳴かない点、見た目が今一つコオロギらしくない点、上記のコオロギ亜科の種群に比べると一般人の認知レベルが低い点などから、「コオロギ」を名に持ちながらも、この範疇から漏れるとしても致し方ないように私は思う

 さらにここで今一つ注目すべきは、しばしば、したり顔で国語教師が言うところの(かつての私もそうであった)古文に於ける〈松虫と鈴虫の逆転現象〉と同列で〈蟋蟀と螽斯(きりぎりす)の逆転現象〉を言うのは、ここで良安が添えた挿絵及びその鳴き声「古呂呂牟(ころろむ)、古呂呂牟」のオノマトペイアからも無効であること、則ち、コオロギはコオロギであり、キリギリスはキリギリスとして正しく認識されており、誤ってなどいないという点である。

 「蟋蟀」という語は使い勝手がよく、秋の鳴く虫の総称として「こおろぎ」と訓じられ、歌語として「万葉集」以来用いられてきた広義の用法は確かにあったと考えてよいと思われるが、だからと言って、近世以前の人間が「コオロギをキリギリス、キリギリスをコオロギと呼んでいた」などという説(これを定説とまことしやかに言う文学者は有意にいる)は私にはこの本「和漢三才圖會」の正しい記載から見ても全く支持出来ない

 いや、この誤認伝承は寧ろ、近代作家の小説での確信犯的使用によるものの方が、罪がより重いとさえ考えているのである。

 その最大の現況は、ほぼ誰もが高校一年で読まされてしまう、かの芥川龍之介の「羅生門」である。あの有名な作品の冒頭の第四文(第二段落内)は、

   *

唯、所々丹塗(にぬり)の剝げた、大きな圓柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまつてゐる。

   *

であり、羅生門下の第一シークエンスの終り(第八段落末尾。次の段落で楼上へと通ずる梯子を見出す)では、

   *

丹塗の柱にとまつてゐた蟋蟀(きりぎりす)も、もうどこかへ行つてしまつた。

   *

と描写される。私はかつて「羅生門」の好きなシーンを絵コンテにさせる作業をさせたことがあるが、何人もの生徒がこの冒頭シーンを好んで絵にした。ところが、その時に使用していた教科書には、余計なお世話の例のしたり顔で以って「蟋蟀(きりぎりす)」に注が附されてあって、「今のコオロギの古名」なんどとやらかしてあったのである。「蟋蟀」が「こおろぎ」であり、その真正のコオロギ、恐らくは最大種のエンマコオロギ Teleogryllus emma を描いた生徒もいるにはいたが、その円柱に貼りついたコオロギはゴキブリのように大きくて頽廃的ではなく生理的に気味が悪いのであった。多くはルビ通りの真正の「きりぎりす」、則ち、直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属 Gampsocleis のキリギリスの類いが描かれていた。その丸柱にとまるキリギリスはすこぶる自然であった。私はそれを見た時に確信したのである。

「こりゃ、注にあるようなコオロギであるはずがない!」

 このシークエンス、そもそもが、

コオロギでは丸柱にはとまりにくかろう。いるなら、丸柱の根である。とまれるのはキリギリスである。

カメラが丸柱の下に寄ったとしてもエンマコオロギでは体色から絵にならない。絵になるのはモノクロームの画面に一点彩色のキリギリスに若(し)くはない。

柱にとまっているという描写、それがいなくなるという描写、というのは時間経過を示すための小道具であるが、それを認知出来るのは、聴覚的な虫の鳴き声よりも(それは無論あってもよい)、緑色の体色によって初めて際だって成功する。

翻って、大正時代の芥川龍之介が「蟋蟀」を「キリギリス」と読み、キリギリスとコオロギとを誤認していたはずは無論ないわけで、ここは平安末期の雰囲気を出すために中古に一部で実際に混同が行われていたそれを敢えて出したのだとも言えようが(それを龍之介の衒学趣味とする評言もある。しかし、だとすれば、これはやはりコオロギということになるのだが、本当にそれで心内映像が撮れるとは私は思わない)、或いは、芥川龍之介はキリギリスを示す漢語「螽斯」を使いたくなかったのではないか? と私は思うのである。実は私は「こおろぎ」を示す時に「蟋蟀」という漢字は好んで書くが、「きりぎりす」を示すのに「螽斯」という熟語を書くのは、躊躇する。前者は発音もスタイルもスマートであるのに対し、後者は二字を並べると妙にぼってりとしてバランスも悪いからである。私は生理的に「螽斯」という漢字は嫌いなのである。私は芥川龍之介を愛すること、人後に落ちない。幾多の電子化注をしてきた中で、彼の文字への好悪感覚も普通の人よりは相当に認識しているつもりである。芥川龍之介もきっとこの「螽斯」という表記は嫌いだったと私は思うのである。大方の御叱正を俟つ。

 

「趨纖〔(そくしよく)〕」後で「趨織(こほろぎ)」とも出るが、「趨」は「速く・速やか」の意があるから、素早く機織りをするさまに譬えた異名であろう。

『「本草綱目」に言ふ所も亦、之れに同じ』恐らく、ここまでこの「蟲類」の電子化注にお付き合い下さった奇特な方は、何故、本項が他と違って「本草綱目」を引かないのかと、疑問に思われるであろう。実は、引きようがないのである。実は「蟋蟀」の叙述は「蟲部 化生類」の「竈馬」(かまどうま:既出)の附録で僅かに出るだけだからである。以下にその原文を示してみる。今回は中文サイトの引用ではなく、国立国会図書館デジタルコレクションの原典の当該条の画像を視認して厳密にオリジナルに電子化した。

   *

竈馬【「綱目」。】

(釋名)竈雞【俗。】。

(集解)【時珍曰、竈馬處處有之、穴竈而居。按、「酉陽雜俎」云、竈馬狀如促織、稍大長、好穴。竈旁俗言、竈有馬、足食之兆。】。

(附錄)促織【時珍曰、促織、蟋蟀也。一名蛬、一名蜻蛚。陸璣「詩義疏」云、似蝗而小、正黑有光澤如漆、有翅及角、善跳好斗、立秋後則夜鳴。「豳風」云、七月在野、八月在宇、九月在戸、十月蟋蟀入我牀下是矣。古方未用、附此以俟。】。

(氣味)【缺。】(主治)竹刺入肉、取一枚搗傅【時珍。】。

   *

『「五雜組」に云』以下はこの下り。中文サイトより、ベタで出す。一部の字を本良安の訳に沿って変えた。

   *

一呉有開促織之戲然極無謂閏之有場盛之有器必大小相配兩家審視數四然後登楊央龐左右袒者各從其耦其睹在高架之上只篇首一人得見勝貴其篇耦者仰望而巴禾得寓目而輪直至於千百不悔甚可笑也促織惟雌者有文采能鳴復開雄者及是以立秋後取之飼以黃豆麋至白露則夜鳴求偶然後以雄者進不當意輒昨殺之次日又以兵雄遣又皆昨殺之則爲將軍矣昨殺一雄則爲大將軍持以央闢所向州前又某家有大將軍則衆相戒莫敢與闢乃以厚價潛售宅邑入其大將軍開止以股賜之遠去尺許山不糜爛或富腰斐斷不須間也大將軍死以金棺盛之將軍以銀瘞於原得之所則次年復有此種爪前川洲矣

   *

ここで語られているのは「闘蟋」(トウシツ)と呼ばれるコオロギのここにあるようなではないので注意!)を戦わせる賭博である。これは荒俣宏氏の「世界博物大図鑑 第一巻 蟲類」(一九九一年平凡社刊)の「コオロギ」の項の「コオロギ合戦」の条に詳しいので引用させて戴く。コンマ・ピリオドを句読点に代えさせて貰った。

   《引用開始》

【コオロギ合戦】中国におけるコオロギ文化の精華は〈コオロギ合戦〉であろう。コオロギの戦闘的な性質は、中国でも古くから知られ、三才図会にも〈大へん闘いを好み、 勝っと衿(ほこ)って鳴く〉とあるほどであった。

 この賭博を秋興(チウシン)という。コオロギの雄どうしを闘わせる動物賭博の一種で、 一説に唐代の8世紀前半に成立したとされる。明・清代には階層の上下を問わず大流行、 明の宣徳帝は強いコオロギを献上させ,賭博用に特製の容器で飼育したという。勝負は重量別に土鉢の中で行なわれ、一勝負が数ラウンド、各ラウンドとも一方がうずくまると終わりとなる。2匹に勝ったコオロギは〈将軍〉、3匹に勝つと〈大将軍〉とよばれ、死体を小さな金製の箱に入れて手厚くとむらう風習もあった。飼育法の指南書も数かず著され,たとえば17世紀の書、劉個促織志には、餌としてウナギ、サケ、蒸し粟、粟めしなどを与えるとよい、と記されている。また傷ついたものには子どもの尿を2倍に薄めて飲ませると治る、ともいわれた。なお競技には、東部や北部ではツヅレサセコオロギやエンマコオロギの類が,南部ではブタホシコオロギやシナコオロギが使われたらしい。

 明の宣徳年代(1430年代ころ)、上記のようにコオロギ合わせがさかんに行なわれ、 優秀なコオロギを民間から取り立てる風習も慣例化した。だが聊斎志異の一篇〈促織〉をみると、そのために風紀がいかに乱れたかがよくわかる。街のチンピラは強いコオロギを手に入れると、値をつり上げてぼろもうけ。地方の役人は高いコオロギを中央に献納するという口実で重税を取り立てる。あげくコオロギを1匹たてまつるごとに、数戸の家が傾いた。〈促織〉では幸い主人公の部落長が、天の功徳か、とてつもなく強いコオロギを偶然手に入れる。おかげで彼は大金持ちになった。ちなみにこの話のコオロギは、小さくて赤黒、頭は四角で脛孟が長く、土狗(どこう)(ケラ)に似ていた、とある。強さもさることながら、琴瑟(きんしつ)の音に合わせて踊る芸もあったため、たいそう喜ばれたそうだ。

 〈秋興〉は、新中国になって賭博が禁止されたため、完全にすたれたといわれていた。しかし最近またさかんになりつつあり、天津などでは秋に大会も開かれるという。

 小西正泰虫の文化誌によると、コオロギを闘わせて賭をする習俗は現在でも台湾やタイやジャワ島、バリ島などアジア各地に見られる。台湾でも子どもたちがコオロギを採集し、竹筒の中で闘わせて楽しむという(田中梓昆虫の手帖)。

   《引用終了》

私の好きなサイト、カラパイアの『コオロギを闘わせ最強の虫王を決める中国伝統の昆虫バトル「闘蟋(とうしつ)」』も必見! なお、コオロギは充分な摂餌が出来ない場合には、弱いコオロギが強いコオロギに食べられてしまうことがあり、また、産卵期のを食べてしまうこともあるという。闘蟋のために飼育している際に、そうした共食いを目撃し、それをかく剛い者と見たものでもあろう。

「文采〔(もんさい)〕」模様。これはコオロギのであろう。は後ろ足のギザギザの部分とこすり合わせて鳴き声を出すため、羽に指紋のような模様が見える。

「白露〔(はくろ)〕」二十四節気の第十五の八月節(旧暦では七月後半から八月前半)。現在の陽暦にすると九月八日頃に当たる。

「偶(とも)」配偶者。

「意に當てざれば」意に添わなければ。

「二雄」直後に「又、皆」とあるからには二匹目のではなく、二匹のである。

「三雄」良安の前の叙述からすれば、またその翌日に今度は三匹のを宛がってみて、その三匹全部をまたしても悉く噛み殺したものを「大將軍」と呼ぶということになる。大将軍になるためには六匹を噛み殺すというわけであるが、先に示した原典から見ると、一日一匹で三日間で三匹のように読める

「糜爛」蹴られただけで、爛れ崩れるというのは尋常ではない。彼らが何かそうさせる強い気を放つとでも思ったものか。

「厚價」高い値。

「售(う)る」売る。

「扁(ひらた)き脊(せなか)なる者、善く鳴く」である。

「古呂呂牟(ころろむ)、古呂呂牟」このオノマトペイアはエンマコオロギの「コロコロコロ、コロ、コロ、コロ」と一致する。他のコオロギ(私の言う狭義の)は有意に鳴き方が異なり、ハラオカメコオロギやミツカドコオロギでは「リッリッリッ、リッリッリッリッ」であり、ツヅレサセコオロギでは「リィリィリィリィ」と音写されることが多い。

「松蟲」マツムシは一般に「ピッ、ピリリッ」或いは「チッ、チリリッ」などと音写されることが多い。

「亞〔(つ)〕ぐ」次ぐ。良安はマツムシの声(ね)がお好きらしい。

「窄(すぼ)き脊〔(せなか)〕なる者は、尻に劍刺〔(けんし)〕有り、鳴かず」長く尖った産卵管を持つである。

「古今注」西晋(二六五年~三一六年)の崔豹(さいひょう)の撰とされる名物考証書であるが、実際には原本は失われており、現行本は五代(九〇七年~九六〇年)の馬縞(ばこう)の「中華古今注」三巻に基づいて編せられたもので、しかもこれの自体も唐の蘇鶚(そがく)の「蘇氏演義」二巻に依っていることが明らかになっている、と東洋文庫の書名注にある。

「趨織(こほろぎ)鳴けば、嬾婦〔(らんぷ〕驚く」「嬾婦」は「怠け女・不精な女性」の意で、女性の仕事とされた機織りを怠けている女がその声に、焦り驚くというのであろう。

「莎雞(きりぎりす)」既出既注。直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属 Gampsocleis のキリギリス類。「雞」は「鷄」、「沙鶏」とも書く。

「斯螽(いなご)」直翅(バッタ)目バッタ亜目イナゴ科 Catantopidae のイナゴ類。

「和漢共に辨ずるを得ず」和漢の孰れの本草書等に於いてもそれらを明確に弁別することが出来ていない。

「詩」「詩経」。以下は同書の「国風」の最後に配された「豳風〔(ひんぷう)〕」(豳は現在の陝西省にあった古地名で後に「邠(ひん)」となり、今は陝西省咸陽市彬(ひん)県附近を指す。西安市の北西百キロメートルほどの位置。ここ(グーグル・マップ・データ))の中の冒頭にある、「国風」の中で最長の、農民の生活を歌う「七月」の一節。「raccoon21jpのブログ」のこちらで全詩(原文・書き下し・訳)が読める。

「五月 斯螽(〔(ししう)〕/はたをり) 股〔(こ)〕を動かす 六月 莎雞(〔さけい〕/きりぎりす) 羽を振ふ 七月 野〔(や)〕に在り 八月 宇〔(う)〕に在り 九月 戸〔(こ)〕に在り 十月 蟋蟀(〔(しつしゆ〕/こうろぎ) 我が牀〔(しやう)〕の下〔(もと)〕に入る」「七月」以降の句は主語は「蟋蟀」である。

――五月になると、螽斯(はたおり)が脚を動かして出で来ては鳴き、六月には機織(きりぎりす)が羽根を振わせて鳴く。七月、蟋蟀(こおろぎ)まだ野にある。それが八月になると軒下にやって来て、九月には家の戸口まで近づいて、十月には私の床(とこ)の下へと入り込んでくる。

といった意味である。問題は「螽斯(はたおり)が脚を動かして出で来ては鳴き、六月には機織(きりぎりす)が羽根を振わせて鳴く」の部分であるが、昭和五〇(一九七五)年明治書院刊の乾一夫著「中国名詞観賞 1 〈詩経〉」では(乾先生に「詩経」を習ったが、本書はその教科書である。私は大学時代の数少ない「不可」の一つを先生から貰った。その顛末は「無門關 三十五 倩女離魂」の注に記してある。今、考えれば、ボイコットせずに受ければよかったなと思うておる)、『五月にはきりぎりすが足を動かし、六月にははたおりが羽根を振って鳴き』と訳されており、「斯螽」の語注には、『きりぎりす。「螽斯」』『に同じ』とされ、「動股」は『鳴き声を発するをいう。古は、きりぎりすは両股をもって、声を発するとした』(実際のキリギリスのは前翅にある発音器を用いて鳴く)とある。また、「莎雞」については『はたおり虫。「紡織娘」と呼ばれる』とある。ここで乾先生は「きりぎりす」と「はたおり虫」を別種として扱っておられる(一部では「はたおりむし」は「きりぎりす」の別名である)。しかし、これは乾先生が「はたおり虫」をキリギリスではない別な虫、恐らくはキリギリス科 Mecopoda 属クツワムシ Mecopoda nipponensis と認識しておられたからであると思われる。その証拠に、乾先生の「紡織娘」は現在、中国語で同じ Mecopoda 属のタイワンクツワムシ Mecopoda elongata の漢名に当てられているからである。良安も問題にしている錯綜から言えば、先の「raccoon21jpのブログ」の訳で「斯螽」を『バッタ類』とし、「莎雞」を『くつわむし』と訳しておられるのも、これ、一案であろうとも思う。

「朱子の註」宋の朱熹の撰になる「詩経」の注釈書である「詩集伝」のこと。全八巻。

「斯螽・莎雞・蟋蟀は一物〔(いちもつ)〕にして、時に隨ひて變化して其名を異にす」三種を同一の虫であって、そのライフ・サイクルのそれぞれの変態ステージでかく別個な名を持っているだけだと言っているので、これはあまりにも乱暴でひど過ぎる。

『儆玄〔(けいげん)〕が「衍義〔(えんぎ)〕」』不詳。東洋文庫の書名注も不詳とする。

「斯螽は蝗なり。莎雞は促織なり。蟋蟀は蛩〔(きよう)〕なり」三種を別個な虫であるとしたのはよいが、これだと、「斯螽」(キリギリス)が「蝗」(イナゴ)で、「莎雞」(キリギリス)が「促織」(コオロギ)で、「蟋蟀」(コオロギ)に至ってはコオロギでない「蛩〔(きよう)〕」という虫だということになる。しかし「蛩」は既に良安が「コオロギ」の別称として挙げているので、ますます混乱が激しくなるばかりである。良安が三種は異なる虫であるから朱子の注は改められねばならないという点には賛同しながらも、「莎雞」を「促織」とするのは間違いだと否定する気持ちはよく判る。

「順〔(したがふ)〕」「和名類聚抄」の作者源順(みなもとのしたごう)。

「絡緯〔(らくゐ)〕、一名、促織【和名、「汝太於里女〔(はたをりめ)〕」。】」やはり錯綜。「絡緯」は現在はクツワムシに比定する向きが大半である。

「蜻蛚〔(せいれつ)〕【和名、「古保呂木(こほろぎ)」。】」これは良安の記載の中では問題がない。

「螽〔(しゆうし)〕、一名、蚣蝑〔(しようしよ)〕、一名、蠜螽〔(はんしゆう)〕、一名、春黍〔(しゆんしよ)〕【以禰豆木古萬呂〔(いねつきこまろ)〕】」これも錯綜。「蚣蝑」はキリギリスの別称でよいが、「蠜螽」は恐らくは直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科ショウリョウバッタ亜科 Acridini 族ショウリョウバッタ属ショウリョウバッタ Acrida cinerea より有意に大型)で(個人ページと思われる「ショウリョウバッタとおぼしき記述」を参照)、「以禰豆木古萬呂〔(いねつきこまろ)」というのはまさにショウリョウバッタの古名であるから、その直前に配された「春黍〔(しゆんしよ)〕」なるものも、同じくショウリョウバッタ(或いはその)である。次の次に「蠜螽(ねぎ)」が出るが、その異名は「春黍」であり、附図は正しくショウリョウバッタだから間違いない。

「蟋蟀、一名、蛬〔(きよう)〕【和名、「木里木里須(きりぎりす)」。】」これはまさに、私が都市伝説レベルと断ずる「コオロギ」←→「キリギリス」説である!

「曲(ひとつひとつ)」「曲」には「細かな一つ一つの部分・隅々・詳しいこと」の意がある。あまり意識していないが熟語「委曲」で御理解頂けよう。

「之れを辨じて、各條に見〔(みあ)〕はす」それぞれを区別して、それぞれの条ではっきりと分別して分かるようにしたつもりである、の謂いであろう。この各条とは前後を指す。因みに次は「螽斯(はたおり)」[やぶちゃん注:「お」はママ。]である。]

 

2017/08/29

柴田宵曲 續妖異博物館 「猿の妖」

 

 猿の妖

 

「輟耕錄」にある「鬼」といふ話は猿の妖を書いたものである。陝西の老婆の家に道士が來て食を乞ふ。老婆は少しも厭な顏をせずに給してゐたが、一日道士は、お前の家は妖異のために苦しめられて居りはせぬかと問ひ、老婆が然りと答へるのを聞いて、それならわしが退治してやると云つて、囊の中から符を取り出して火の中に投じた。忽ち落雷のやうな響きがすると、道士は老婆を顧みて、妖は已に退治したが、一つだけ取り逃してしまつた、二十年ばかりたつて、この家に災難が來るだらう、その時はこれを焚くがいゝ、と告げ、鐡簡を與へて立ち去つた。老婆には娘が一人あり、長ずるに從つて非常な美人になつたが、或日大王なる者が大勢の供を連れて老婆の家に宿り、お前の家に異人から授かつた鐡簡があるさうな、それを見せろ、と云ふ。老婆はその前から鐡簡を見せろといふ人が屢屢あるので、ひそかに僞物を作つてこれを示し、眞物は肌身離さぬやうに持つてゐた。大王に見せたのも無論僞物の方であつたが、彼はそれを返さぬのみならず、娘に酒の酌をさせろなどと云ひ出して、いくら辭退しても承知しない。老婆は道士の云つたことを想ひ起し、勘定して見ればあれから丁度二十年になる。災難といふのはこれかも知れぬと氣が付いたので、腰に付けてゐた鐡簡を竈の下に抛り込んだ。いつかと同じ落雷のやうな響きと共に電光が閃き、家の中は煙で一杯になつた。その煙が薄れてから見ると、何十疋といふ猿が斃れて居り、その最も大きなのが大王と稱したやつで、道士が一つだけ逃したと云つた者に相違ない。彼等の携帶した金銀寶玉の類は、老婆からの訴へにより悉く官庫に沒收された。

[やぶちゃん注:「鬼」原典を見ると「鬼贓」で、これならば鬼の「贓品」(不正な手段で手に入れた品物)の意で腑に落ちる。

「鐡簡」鉄製の札。恐らくは呪力を封じた、或いは、そうした力を持った呪符や呪言(じゅごん)を記したものであろう。

 以上は「輟耕錄」の「卷六」の「鬼贓」。

   *

陝西某縣一老嫗者、住村莊間、日有道流乞食、與之、無吝色。忽問曰、「汝家得無爲妖異所苦乎。」。嫗曰、「然。」。曰、「我爲汝除之。」。卽命取火焚囊中符篆。頃之、聞他所有震霆聲。曰、「妖已誅殛。才遁其一、廿年後、汝家當有難。今以鐵簡授汝、至時、亟投諸火。」。言訖而去。自是久之、嫗之女長而且美、一日、有曰大王者、騎從甚都、借宿嫗家、遣左右謂曰、「聞嘗得異人鐵簡、可出示否。」。蓋嫗平日數爲他人借觀、因造一僞物、而以眞者懸腰間、不置也。遂用僞獻。還、謂曰、「可呼汝女行酒。」。以疾辭、大王怒、便欲爲姦意。嫗竊思道流之説、計算歳數又合、乃解所佩鐵簡投酒灶火内、既而電掣雷轟、煙火滿室。須臾、平息、擊死獼猴數十、其一最巨、疑卽向之逃者。所齎隨行器用、悉系金銀寶玉。赴告有司、籍入官庫。泰不華元帥爲西臺御史日、閲其案朱語、曰鬼髒云。餘親聞泰公説甚詳、且有鈔具案文、惜不隨卽記錄、今則忘邑裏姓名歳月矣。

   *

この話は岡本綺堂「中國怪奇小説集」に「鬼の贓品」として訳されてある。「青空文庫」のこちらで読める。]

 

 この話をそのまゝ日本の舞臺に持つて來たのが「御伽百物語」の「宮津の妖」である。道士といふのは工合が惡いから、順禮の僧とし、大王も「なま上達部(かんだちめ)の雜餉(ざつしやう)なりける男」と大分格下げになつてゐるが、全體の筋は同じ事で、最後に金銀の類を官家の貨殖に收めるところまで殆ど變りがない。それが「御伽空穗猿」の「猿官人に化て婦女を奪ひし事」になると、木曾の駒ガ嶽に話を持つて行つた。鐡札を與へた行脚の沙門は順禮の僧と大差ないが、こゝでは國主の使者に對し、先づ鐡札を香爐にかざして退散させ、愈々國主自ら乘り込んだといふ時、圍爐裏に投じて猿の一族を滅盡するといふ二段になつてゐる。たゞ最後の金銀寶玉の一條はこの話にはない。

[やぶちゃん注:「順禮」諸国巡礼。

「なま上達部(かんだちめ)」若い公卿。三位以上の公家の総称。参議は四位であるが、特例としてこれに準ぜられた。

「雜餉(ざつしやう)」貴族・武家に仕えて雑務に携わった者。

 「御伽百物語」の「宮津の妖(ばけもの)」は以下。活字本二種を持つが、今回は早稲田大学古典籍総合データベースの画像を視認して示す。読みは一部に限り、踊り字〱は正字化した。適宜、句読点や記号を打った。直接話法等は改行した。挿絵は画像が綺麗な所持する国書刊行会「江戸文庫」版を用いた。一部に注を附したが、二次創作でもあり、地名等のそれは省略した。【2018年3月3日追記:カテゴリ「怪奇談集」で「御伽百物語」全篇を電子化注であるが、本「宮津の妖」に辿り着いた。底本が異なり、注も一からやり直しているので、そちらも参照されたい。これはこれでこのまま残しておく。

   *

 

      宮津の妖

 

Otogihyakumiyadunoyou

 

 丹後の國、宮津といふ所に、須磨屋忠介といひけるは、常に絹をあきなふの家にて、精好(せいかう)の機(はた)をたて並べ、糸繰りの女、肩をつきしろひ[やぶちゃん注:互いに突(つつ)き合う。励ます意或いは居眠りを注意することであろう。]、日夜に家業おこたらず、富貴(ふうき)も年々にまさり、眷屬、あまた引きしたがへける中に、其ころ、年久しくつとめて、中老の數に入りたりける、源(げん)といひし糸繰(いとくり)は、成相(なりあひ)のわき在所、伊禰(いね)といふ村のものにてありしが、稚(おさな)き程に父にはなれ、母ひとりの介抱にて、三つ四つまでそだちける比(ころ)、此邊は、みな、網をひき、魚とりて、身すぎとする所なりければ、常に彼(かの)母、この源を抱(いだ)きおひて、濱に出で、鰯を干し、鯖を漬けなどして每日を過しけるが、其比(そのころ)しも、いづくともなく、順禮の僧と見えて、年五十四、五ばかりなるが、此さとに來たりて、家々に物を乞(こひ)、袖をひろげて身命(しんめい)をつなぎ、夜は此後家が方へたよりて、一夜(よ)をあかしけり。されども、内に入りてしたしく寢る事はなく、只、おもての庭にむしろを敷(しき)、門(かど)の敷居を枕として寢たりければ、日暮れては、さらに内より出づる事もかなはず。まして外(そと)より來たる人は、此寢たる僧にはゞかりて、得(え)入らず。その上、此坊主、ちかごろの朝寢し也。然れども、此孀(やもめ)、すこしもいとふ氣色なく、心よく、もてなしけるに、ある時、此僧、かたりていはく、

「誠に此とし比(ごろ)、こゝに起き臥しをゆるし、心よくもてなし給ふ御芳志のほど、忘れがたく、何をがなと思へど、世をいとひし身なれば、今さら報ずべき此世の覺えもしらず。さりながら此家のやうを見るに、度々、妖怪の事ありと思ふなり。」

といへば、あるじの女のいうやう、

「さればとよ、此家のみにあらず。惣じて此伊禰(いね)の村は、海にさし出でたる嶋さきなれば、むかふの沖に見えたる中の嶋より、あやしきもの、折々、渡り來て、里人をたぶらかし惱(なやま)す也。されば、我が妻(つま)[やぶちゃん注:夫。]の夭(わかじに)したまひしも、此物怪(もつけ)の故なり。」

とかたれば、僧のいふやう、

「さればこそ。其あやしみの兆(きざし)を見とめたるゆへぞかし。日ごろの御おんには、せめて、其難を救ひてまいらすべし。今は吾も故郷のなつかしうなりたれば、近き内におもひたちて、遙(はるか)なる旅にをもむく也。いでや、先づ、こよひの内に此家の難をしりぞけて參らせんずるぞ。」

と、火をあらだち[やぶちゃん注:ことさらに掻き立てて燃え上がらせ。]、水をあびなどして、何やらん、咒(まじなひ)の御札(おふだ)をしたゝめ、圍爐裏(いろり)にむかひて、彼(かの)札どもを燒(やき)あげたれば、しばらくありて、雨風の音はげしく、あつ松[やぶちゃん注:不詳。「向うの松」の謂いか? 或いは「壓松」で押し伏されたかのように低く這うように生えている松の意か?]のかたより、ふり來たるよ、と見えしが、伊禰の山もくづるゝばかり、大きなる神なり、いなづまのひかりひまなく、時ならぬ大(おほ)ゆだち[やぶちゃん注:激しい夕立。]して、中の嶋にわたると見えしが、あるじの女は氣もたましゐも身にそはで、ちゞまり居たる内、やうやう、雲、はれ、星のひかり、さはやかになりける比、かの僧のいひけるは、

「今は心やすかれ。長く、此家にあやしき物、來たるまじ。さりながら、口惜しき事は、今ひとつの惡鬼(あつき)を取りのこしたり。今より廿年を經て、此家に難あるべし。その折ふし、我がせしやうに、是れを火にくべ給へ。是れをさへ燒き給はゞ、永く、妖怪の根(ね)をたちて、子孫も繁昌すべきぞ。」

と、鐵(くろがね)の板に朱にて書きたる札を取りいだして、あるじにとらせ、僧はなくなく、その家を立ち出でしが、終(つひ)に、いづくにか去(いに)けん、二たび、歸らずなりぬ。これより久しうして、彼(かの)女のそだてつる娘が、やうやう、人となり、はや廿三、四になりけるが、田舍にはおしきまで、心ばへ、やさしく、容顏、いつくしく、他(た)に勝(すぐ)れるそだちゆへ、其ころの人のもてはやしにて、高き賤しきとなく、誰も心をかけ、戀ひわたりけれども、此母の親、心おごりして、尋常の人にあはせんとも思はず、かしづきわたりけるに、此ころ、都より、大内(おほうち)方の何がしとかやいふ、なま上達部(かんたちめ)の「雜餉(ざつしやう)なりける男、年五十ばかりなるが、城崎(きのさき)の湯に入りける歸り、此丹後に聞えたる切戸(きれと)[やぶちゃん注:京都府宮津市文珠字切戸にある臨済宗智恩寺。]・成相(なりあひ)[やぶちゃん注:丹後半島南東部の天橋立の北側にある真言宗成相山成相寺。境内から天橋立が一望される。]の寺々をもおがまばやとて、うち越え、かなたこなたと珍しき所々見めぐり、江尻より舟に乘りて、枯木(からき)、ぬなわの浦、水江(みづのえ)のさとなどを心がけてこぎ出でけるが、此いねの磯を通るとて、彼のむすめのありけるをかいまみしより、しづ心なく思ひみだれし體(てい)にて、暮れかゝるより此磯に舟をかけさせ、船人にとい聞き、浦の海士にたづねて、此やもめの家に幕(まく)うたせ、物の具とりはらはせなどして、宿をかりつゝ、夜ひとよ、歌をうたひ、舞をかなでゝ、酒をのみ、宿のあるじといふ女をも、ひたすらによび出だし、見にくき姿をもいとはず、そゞろに酒をしゐのませ[やぶちゃん注:「強い吞ませ」。]、扨、かのみそめつる娘の事を尋ねしに、此母、なを、心を高くもちて思ひけるは、

『都の人とこそいへ、大やけのまた者(もの)[やぶちゃん注:将軍・大名などに直属していない家来。又家来。陪臣。]なんどに我が娘をあはせては、かねがね、戀(こひ)わたりつる此あたりの人の心ばへも恥(はづ)かし。とても、都へとならば、いかなる卿相(けいしやう)の妾ともとこそ祈りつれ。』

とおもへば、なかなか、よそ事に聞きて返事もせず。彼(かの)都人、いよいよ、こひ佗(わび)て、ひたすらに母が機嫌をとりつゝ、けふ聞きおきし、何かの事を、ひとつ、我(われ)しりがほにいふ内、

「いつぞや、旅の僧のくれたりと聞く守り札は、今にありや。何やうのものぞ。見せよ。」

と望めば、彼の母、つねに此まもりを大事とおもふ心より、似せ札をこしらへて持ちたりけるを、さし出だす。都人、それを取りけるより、いよいよ手(て)つよく、

「彼のむすめを我にくれよ。」

と、乞ふ事、しきりなりしかども、母、また、なをなを、口こはくいひて、うけあはさりしかば、今は、都人も大(おほき)に怒り、はら立、

「所詮、こよひの内に下部はら、殘る隈なく家さがしして、理不盡に娘を奪ひとれ。都へとく具してゆくべし。」

と罵るほどに、母の親、いまはせんかたなく、非道の難にあふ事を歎きしが、ふと、おもひあはせけるまゝに、肌の守りより、例の札を取りいだし、茶がまの下の火に、さしつけて燒(やき)けるが、ふしぎや、俄(にはか)に、大かみなり、大雨、しきりにして、いなづまの、かげより、はたと落ちかゝるかみなり、あやまたず、此家(いゑ)のむかひなる磯に落ちしよ、と見えしが、雨、はれ、夜あけて見れば、彼の都人と見えしは、いづれも、年へたる古き猿どもの、衣服したるにてぞ、ありける。さて、彼(かの)家にて、とりちらしたる道具ども、大かた、此世の物にあらず。みな、金銀のたぐひなりしかば、悉く官家(くわんか)に申して、是れを成相(なりあひ)の寶藏(ほうざう)におさめけるとぞ。

   *

「御伽空穗猿」「おとぎうつぼざる」と読む。浮世草子怪談集。江戸中期の戯作者摩志田好話(ましだこうわ 生没年未詳。後に静観房好阿(じょうかんぼうこうあ)と名乗る)の作。「猿官人に化て婦女を奪ひし事」はその「卷之一」の二話目。所持するはずなのだが、見当たらない。活字本は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらから読め、原典は早稲田大学古典籍総合データベースのこちらの十四コマ以降で視認出来る。]

 

 

 猿はキツプリングの「ジャングル・ブック」あたりを見ても、常に同類群居し、團體行動を營んでゐる。「輟耕錄」の大王なる者は、どのくらゐの與黨を持つてゐたかわからぬが、衆を恃んでゐたことは慥かである。「今昔物語」の人身御供(ひとみごくう)の話にしても、大勢の眷屬を從へて居つた。「白猿傳」の如く單騎獨行する例は、極めて稀であるらしい。

[やぶちゃん注:『キツプリングの「ジャングル・ブック」』イギリス統治下のインドを舞台にした作品や児童文学で知られるボンベイ(ムンバイ)生まれのイギリス人小説家で詩人のジョゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling 一八六五年~一九三六年)が一八九四年に出版した短編小説集The Jungle Book。翌年には続編The Second Jungle Book)も出版されている)。赤ん坊の頃から狼に育てられた少年モウグリ(Mowgli:「蛙」の意)が主人公。参照したウィキの「ジャングル・ブック」及び同英語版によれば、猿の群れが登場するのは、Kaa's Hunting(カー、狩りをする)の章で、『前作で人間の世界に戻る前の物語。モウグリは猿の群「バンダー・ログ」』(Bandar-logs)『にさらわれ、ジャングルの中の、廃墟となった人間の元宮殿に送られる。「バンダー・ログ」はモウグリの賢さを利用し、自分たちのリーダーにしようとしていた』。クマのバルー(Baloo)と黒豹のバギーラ(Bagheera)は、トンビのチリ(Chil)や『巨大なニシキヘビのカーの助けをうけて、モウグリを助ける』とある。小学生の時に読んだ記憶だけはあるのだが、哀しいかな、皆、忘れて、思い出せない。

『「今昔物語」の話』先行する「人身御供」の注で電子化済み。

「白猿傳」先行する「白猿傳」を参照。]

 

 

「八犬傳」の中の庚申山に於ける山猫退治は、「剪燈新話」の「申陽洞記」に據つたものと云はれてゐる。隴西の李生なる者が騎射をよくし、膽勇を以て稱せられながら、未だ志を得ずにゐる時、錢翁といふ豪家の愛孃が忽然として行方不明になつた。もし女の所在を知る者あらば、家財の半分を與へる、女もその人に嫁せしむる、といふ懸賞條件まで發表されたが、少しも消息がわからぬ。一日獵に出た李生が麞(くじか)の走るを逐ひ、山深く入るほどに日が暮れてしまつた。たまたま山頂に古い廟のあるのを認め、そこまで辿り著いて見ると、全く荒れ果てて鳥獸の跡があるのみである。李生も氣味が惡かつたが、已むを得ずその軒下に一夜を明すことにした。ところが一睡もせぬのに、遙かに警蹕(けいしつ)の聲が聞える。こんな山中に深夜何者も來る筈がない、鬼神でなければ山賊であらう、と思つたので、廟の欄を攀ぢ上り、梁(はり)に身を隱し、樣子を窺つてゐると、やがて二つの紅燈を眞先に門のところまでやつて來た。首領らしい者は紅い冠をかぶり、淡黃色の袍(うわぎ)を著て、神座の前の案(つくゑ)に著坐し、武器を持つた者などが階下に居ならぶ。なかなかいかめしい樣子ではあるが、彼等の容貌は人間ではない、大猿である。李生が腰に帶びた矢を取り出し、首領を狙つて放つと、矢はあやまたず臂に中(あた)り、皆うろたへて散亂した。夜が明けて神座のほとりを見れば、點々たる鮮血の痕がある。その痕を尋ねて南へ五里ばかり行つたら、果して大きな穴があり、血の痕はその中に入つてゐる。李生は穴のほとりを徘徊してゐるうちに、足を滑らしてその穴に轉落してしまつた。

 穴は深かつたけれども幸ひに無事であつた。路らしいものがあるのを探り探り、眞暗な中を進むこと百步ばかりで、急に明るいところへ出た。そこに石室があつて、申陽洞といふ立札がしてある。門を守つてゐるのはいづれも昨夜見た妖怪であつたが、李の姿を見て驚いた。何者でどうしてこゝへ來たかと問はれたので、私は城中の醫者でございますが、山へ藥草を採りに參りまして、つい足を踏み外してこゝへ落ちました、どうか御勘所下さいまし、と丁寧に答へた。醫者だと聞くと、彼等は皆喜んだ樣子で、實は主君申陽侯が昨夜出遊の際、流れ矢に中つて病牀に居られる、お前が醫者なら幸ひだから治療して貰ひたい、と云ひ出した。李生は彼等に案内されて曲房深く入る。華麗な奧の間の石榻に橫はつてゐるのは一の老猿で、絶世の美人が三人、その傍に侍してゐる。李は子細らしくその疵を見て藥を與へ、群妖の請ひに任せてまた藥を與へた。その藥といふのは矢の先に塗つて猛獸猛禽を發すのに使ふ、恐るべき毒であつたから、群妖は立ちどころに昏倒した。壁にかゝつてゐた寶劍を執り、三十六の首を斬り、三人の美人も倂せて斬らうとしたが、彼女等は皆人で、その一人は例の錢翁の愛孃であることがわかつた。李は思ひがけず一擧に群妖を討滅し得たが、地底を脱出する方法がない。思案の途も盡きたところへ、虛星の精と名乘る老人が現れ、今まで妖怪の爲に屛息してゐた次第を語り、李及び三人の美女のこゝを脱する法を講じてくれた。老人の言に從つて、半時ほど目を閉ぢてゐる間、絶えず風雨の聲がしてゐたが、その聲が止んだので目を開いたら、大きな白鼠が直ぐ前に居り、鼠や豕の如き者が穴を穿ちつゝあつた。浮世に還つた李生は約束通り錢翁の壻となつたことは云ふまでもない。

 この話は多少「白猿傳」に似たところがある。人界より良家の美女を奪ひ去るあたり特に然りであるが、申陽洞はいさゝか賊寨じみてゐて、「白猿傳」の如き豪快味がない。妖は一ながら相距(さ)ること遠しである。

[やぶちゃん注:『「八犬傳」の中の庚申山に於ける山猫退治』瀧澤馬琴の「南總里見八犬傳」は妻の愛読書で、彼女は通して三度ほど読み返しているらしいが、私は部分的にしか読んだことがないので、ウィキの「南総里見八犬伝」の「庚申山の妖猫退治」より引く。『諸国を経て下野国を訪れた現八は、庚申山山中にて妖猫と対峙し、弓をもって妖猫の左目を射る。現八が山頂の岩窟で会った亡霊は赤岩一角を名乗り、自らを殺した妖猫が「赤岩一角」に成り代わっていることを告げる。山を降りた現八は、麓の返璧(たまがえし)の里に一角の実子・犬村角太郎の草庵を訪って語らう。角太郎の妻・雛衣の腹は身に覚えのない懐妊の模様を示しており、角太郎は不義とみなして雛衣を離縁、自らは返璧の庵に蟄居していた』。『偽赤岩一角(実は妖猫)は、後妻に納まっていた船虫とともに角太郎を訪れ、雛衣を復縁をさせたが、これは偽一角が目の治療のために孕み子の肝とその母の心臓とを要求するためのものであった。孝心に迫られて窮した角太郎を救い、みずからの潔白を明かすために割腹した雛衣の胎内からは、かつて誤飲した珠が飛び出して偽一角を撃った。角太郎は現八と共に、正体を現した妖猫を退治し、名を大角と改めて犬士の一人に加わる』とある。

『「剪燈新話」の「申陽洞記」』原文も訳本も所持しているが、長いので引かない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で、頭注のある訓点附きをここから視認出来る(明治三三(一九〇〇)年青木嵩山堂刊の「剪燈新話」)。また、「青空文庫」で岡本綺堂の「中国怪奇小説集」の「申陽洞記」及び田中貢太郎訳の「申陽洞記」がそれぞれ読める。また、本話は浅井了意の「伽婢子」で「隱里(かくれざと)」として翻案もされている。

「隴西の李生」名は徳逢(とくほう)。

「麞(くじか)」獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ属ノロジカ Capreolus capreolus。体長約一~一・三メートル小型のシカ。

「警蹕(けいしつ)」貴人の通行などの際に先払いの者が掛け声を掛けて人々をいましめたその声。

「臂」音「ヒ」であるが、ここは「ひじ」で訓読みしておく。但し、この語は肩から手首までの腕部分を広範囲に指す語である。

「五里」「剪燈新話」は明代の作品であるから、一里は五百六十メートル弱であるから、二キロ八百メートル程。

「石榻」「せきとう」で石製の寝台のこと。

「虛星の精」二十八宿の一つ虚宿(きょしゅく/とみてぼし)。北方玄武七宿の第四宿で実在する星として主体となる星官(星座)としての「虚」は「みずがめ座β」及び「こうま座α」の二つ。鼠はこの虚星の精であるとされた。]

 

 倂し猿の妖を説く以上、「廣異記」の一小話を閑却するわけには往くまい。戸部尚書韋虛已の子、晝間閣中に獨坐してゐると、軒に妙な物音がして、地獄の圖にある牛頭(ごづ)のやうな顏が、中を窺つてゐるのが見えた。韋の子が小さくなつてぢつとしてゐると、今度は階を上つて牀前に現れ、覗き込むやうにしてゐる。かういふことが二三度あつて、韋の子は恐ろしくてそこにゐられなくなつた。思ひきつて外へ出ようとし、枕を取つてそのものに投げ付けたけれど中らなかつた。門を開いて逃げ出したら、うしろから追駈けて來る。韋の子は恐怖の叫びを擧げながら、そこにある空井戸の周圍をぐるぐる𢌞るうちに、たうとうつかまりさうになつたので、井戸の中に飛び込んだ。底から仰ぎ見れば、井戸に據つて坐つてゐるのは一疋の猿であつた。叫び聲を耳にして家人が駈けて來た時は、猿は已にどこかへ行つてしまひ、井戸の傍には踏み荒した足跡が殘つてゐた。韋の子は直ぐに發見され、下げた綱に縋つて上つて來たが、茫然として何も云はず、三日ほどたつて漸く恐ろしかつた話をするやうになつた。倂し一月餘りで亡くなつたさうである。この話は小規模ではあるが、妖味は頗る多い。牛頭の如きものの内を窺ふあたり、特にさうである。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「畜獸十一」に載る「廣異記」を出典とする「韋虛己子」版である。

   *

戸部尚書韋虛己。其子常晝日獨坐閤中。忽聞簷際有聲、顧視乃牛頭人、眞地獄圖中所見者、據其所下窺之。韋伏不敢動、須臾登階。直詣牀前。面臨其上。如此再三、乃下去。韋子不勝其懼。復將出内、卽以枕擲之、不中、乃開其門、趨前逐之。韋子叫呼、但遶一空井而走。迫之轉急。遂投于井中。其物因據井而坐、韋仰觀之、乃變爲一猿。良久、家人至、猿卽不見。視井旁有足跡奔蹂之狀、怪之、窺井中、乃見韋在焉。懸縋出之、恍惚不能言、三日方能説。月餘乃卒。

   *]

北越奇談 巻之五 怪談 其二(巨大井守)

 

    其二

 

 蒲原郡旭村より五泉の方(かた)へ越(こゆ)る所、山中に三五郎池と云ふあり。此池に長(たけ)四尺ばかりなる蛤蚧(いもり)ありて、夏日、晴天、靜(しづか)なる時は必(かならず)、水上に浮び出ツ。

 又、論瀨村(ろんせむら)古阿賀(こあか)川に、五尺ばかりの蛤蚧あり。日中、田間(でんかん)、人無き頃、密(ひそか)に堤の陰に佇(たゝず)みて窺ひ見る時は、必ず、浮(うか)み出ツ。其背、鐵黑(てつこく)にして、頜(おとがゐ)の下、朱(しゆ)のごとし。里人(りじん)、はからず、是を見る時は、

「蝮蛇(うはばみ)なり。」

として驚き、病(やみ)ぬ。

 又、長峰村に泥鰌地(どぢやういけ)と云へるあり。同諏門嶽(すもんだけ)の中に泥鰌池と云ふありて、其棲(す)める所、泥鰌、二、三尺ばかり、一尺ばかりなるは、甚だ夛(おほ)し。然(しか)れども、池中(ちちう)、泥深くして、人至れば、皆、隱(かく)るゝ故に、取得(とりう)ること能(あた)はずと云へり。可ㇾ惜(おしむべし)一把(いつは)の葱白(そうはく)に和(わ)して是を煮て、以、三杯(ばい)を傾(かたふ)けざる事を。

 

[やぶちゃん注:「蒲原郡旭村より五泉の方(かた)へ越(こゆ)る所、山中に三五郎池」「蒲原郡旭村」は恐らく現在の新潟県五泉市旭町地区内で、(グーグル・マップ・データ))から、東北へ直線で二十キロメートル弱で五泉市街に至る。その間に北に延びる山地があり、そこには山越えのルートが複数認められ、その道筋には池や堤が現在も存在するからその中の一つと考えられる。

「四尺」一メートル二十一センチ。オオサンショウウオ(両生綱有尾目サンショウウオ亜目オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus)並みであるが、同種は新潟には元来、自然棲息しないから違う

「蛤蚧(いもり)」両生綱有尾目イモリ上科イモリ科Salamandridaeの総称であるが、本邦では通常はイモリと言えば、トウヨウイモリ属の日本固有種アカハライモリCynops pyrrhogaster を指す。ここでも後の論瀬村のケースが顎の下を朱色とすることから、それに同定してよかろう。但し、同種は十センチメートル前後で、以下に出るような巨大個体は存在しない。

「論瀨村(ろんせむら)古阿賀(こあか)川」新潟県五泉市論瀬(ろんぜ)。(グーグル・マップ・データ)。現在の同地区の北端を阿賀野川が流れるから、この名称は阿賀野川の旧流路を指すか。

「五尺」一メートル五十一センチ強。

ばかりの蛤蚧あり。日中、田間(でんかん)、人無き頃、密(ひそか)に堤の陰に佇(たゝず)みて窺ひ見る時は、必ず、浮(うか)み出ツ。其背、鐵黑(てつこく)にして、頜(おとがゐ)の下、朱(しゆ)のごとし。里人(りじん)、はからず、是を見る時は、

「蝮蛇(うはばみ)なり。」

「長峰村に泥鰌地(どぢやういけ)と云へるあり。同諏門嶽(すもんだけ)の中に泥鰌池と云ふあり」これは「泥鰌池」が同地区に二つあるというのではなく、「長峰村」の「諏門嶽」の山中に「泥鰌池」があるということであろう。諏門嶽は既出既注で、現在の新潟県魚沼市・三条市・長岡市に跨る守門岳(すもんだけ:標高千五百三十七・二メートル)のことで、同ピークの西北西四キロ強の位置、長岡市栃堀に「長峰」というピークを確認出来る。(グーグル・マップ・データ)。

「葱白(そうはく)」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ネギ Allium fistulosum。ここは特に東日本で好まれる、成長とともに土を盛上げて陽に当てないようにして育てた、風味が強くて太い根深葱(ねぶかねぎ:長葱・白葱)を指す。

「三杯(ばい)を傾(かたふ)けざる事を」崑崙は酒好きであったようだ。]

北越奇談 巻之五 怪談(スクモムシの怪)

 

北越奇談巻之五

 

        北越 崑崙橘茂世述

        東都 柳亭種彦挍合

 

    怪談

 

 葛塚(くづづか)は七十年前(ぜん)、沼草原(ぬまくさはら)、多かりしを開發して、今、屋並、數(す)百軒、田畑、甚だ廣濶なり。

 爰に辻番太郎と云ふ者、娘一人あるのみにして、家貧しく、昼は農事を營み、夜(よる)は町の番に出て曉まで不ㇾ歸(かへらず)。

 一日、畑に出(いで)て、草沼深く打返(うちかへ)したるに、忽(たちまち)、土中、穴ありて、何かは知らず、竦(すく)み居(ゐ)たるさまなり。猶、深く掘りて見れば、大小田原提灯(をだはらでうちん)の如(ごとく)なる蠐螬(すくもむし)一つ、轉(まろ)び出たり。かの男、鎌を以つて其頭(かしら)を打つに、金鐵(きんてつ)のごとし。依(よつ)て吸居(すひゐ)たる烟草の吹殼(ふきがら)を、かの虫の蟠(わだかま)りたる所に落とせば、虫、猶、縮寄(ちゞみよ)りて、丸くなるを、又、吹殼を數(す)十落したれば、終(つゐ)に燒死(やけし)す。

 其夜も、かの男は、辻の番に出(いで)て居らず、娘一人、茅屋に臥し居(ゐ)たるに、忽然と、犬のごときもの、枕の傍(かたは)らに蟠りありて、押し動かす。女、驚き起上(おきあが)り見れば、更に一物もあることなし。

 眠(ねふら)んとすれば、又、如ㇾ此(かくのごとし)。女家に居ること、能(あた)はず、即(すなはち)、番小屋に至(いたり)て、父に告ぐ。父、叱つて是を歸す。女、(おんな)、家に至れば、又、如ㇾ此。

 夜々、化物、來たり、驚かすこと、數(す)日、終に奇病を發す。

 依(よつ)て僧を請じ、法華(ほつけ)を讀誦して、此怪、止みぬ。怪しむべし、躶虫(くはちう)と雖も、數(す)百歳のもの、其(その)死氣(しき)、妖怪をなすこと如ㇾ此(かくのごとし)。

 

[やぶちゃん注:「葛塚(くづづか)」新潟県新潟市北区葛塚(くずつか)。現在は「つか」は濁らない。「巻之一 蝮蛇」で既に「葛塚は福湖の西涯」と出、現在も一部が残る福島潟(既出既注)の西北にいある現在の新潟県新潟市北区葛塚周辺。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の謂いから見ても、福島潟の一部或いは西岸の低湿地地帯だったものを干拓したものであることが分明。新潟市街区とは阿賀野川を挟んで東の端近い。北区公式サイト福島潟の干拓によると、『阿賀野川の松ヶ崎開削で、広大な開発可能な土地ができると、幕府は』宝暦四(一七五四)年、『福島潟周辺の』三十三箇村『を幕府領とし、潟の開発を頸城郡鉢崎村(現柏崎市)の山本丈右衛門に許可し』、『丈右衛門は潟に流れ込む水量を少なくするため加治川や新発田川の改修、新太田川の掘削などを行い、新鼻や太田地区など』八十九町歩(約八十九ヘクタール)を開発、明和七(一七七〇)年に病死したが、それは、その十九年後の寛政元(一七八九)年、『水原町市島徳次郎をはじめとする』十三『人衆に受け継がれ』る。『開発する場所を土手で囲み、中にマコモ』(単子葉植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Oryzeae 族マコモ属マコモ Zizania latifolia『を植えて土砂を沈殿させ、水を抜いて水田にする方法が行われ』、『また、潟に流入する河川の上流から土を流し、潟の底を高くする方法もとられ』た。『さらに、潟の全面開発を目指し、浜茄子新道(県道豊栄・天王線)、天王新道、山倉新道(主要地方道新潟・五泉・間瀬線)の堤防を築き、潟を分割しましたが、洪水で決壊し、不成功に終』わったものの、この十三『人衆の開発面積は潟の周囲全面に』及び、じつに四百五十二町歩を増やした、とある。

 

「七十年前(ぜん)」「北越奇談」の刊行は文化九(一八一二)年春であるから、一七六〇年代初頭となり、最短時間で宝暦末(宝暦九(一七五九)年~宝暦一二(一七六二)年)に相当する。

「辻番太郎」原典「つぢばんたらう」とルビするが、この呼称は「辻番」の愛称略称「番太」「番太郎」と完全に一致するから、私は全体が一語の通称とする(彼は「太郎」という名ではない)ととる。辻番は江戸時代の主に城下町の町村に召し抱えられた見張り番で、職務は町によっては四つ辻などにある番小屋に於ける木戸番(夜間の出入の監視)或いは火の番や夜警、村によっては山野水門の警備や火急の用件の使い走(ぱ)しりや浮浪者の取締りなどであった。地方のそれは非人身分の者が担当したことが多かったようである。

「竦(すく)み居(ゐ)たるさま」身体を見た目で小さくしようと殊更に縮んで固くしている様子。

「小田原提灯(をだはらでうちん)」直筒灯籠型(円筒形)で、不用な時には、畳んで袂又は懐中に入れて携帯の出来る提灯。天文年間(一五三二年~一五五五年)相模国小田原の甚左衛門が箱根越えの旅人のために考案して売ったものが起源とされる。懐(ふところ)提灯とも称し、大きさはここでは後で変化したと思われるものが「犬のごときもの」と出るから、六寸提灯(直径十八センチ・高さ六十五センチメートル)程度をイメージすればよかろう。

「蠐螬(すくもむし)」これは所謂、「地虫」、本邦では主に、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族コガネムシ属 Mimela に属するコガネムシ類の幼虫を指す。なお、和名「すくもむし」の「すくも」とは、古くから葦や萱(かや)などの枯れたものや、藻屑、葦の根などを指したようだが、語源は不明である。私の和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 目録 / 蠐螬 乳蟲を参照されたい。

「金鐵(きんてつ)」金属。

「押し動かす」「押し蠢く」、顫動する、の謂いと読む。

「法華(ほつけ)」鳩摩羅什(くまらじゅう)漢訳本「妙法蓮華經」。主人公は日蓮宗徒であろう。

「躶虫(くはちう)」「躶」は音「ラ」で「らちう」が正しい。「躶」は「裸」の異体字であるから「赤裸の・露出した・剝き出しの・赤裸々な」の意で、「裸虫」。これはもともと陰陽五行説に基づく生物分類で、身体の大部分を蔽う羽・鱗・毛などを持たずに生まれてくる動物を指す。通常は実は特に人間を意味するのであるが、ここは「蠐螬(すくもむし)」をそう捉えての呼称。見かけ上は納得出来る。]

2017/08/28

北越奇談 巻之四 怪談 其十四(大蝦蟇) / 巻之四~了

 

    其十四

 

Oogama

 

[やぶちゃん注:葛飾北斎の挿絵。左上に「岩と おもひて 怪物の 頭に 釣をたるゝ」というキャプションがある。大蝦蟇の肌のボカシが絶妙で、目蓋が動いて開閉するような錯覚をさえ覚えるではないか。]

 

 

 村松の諸士、河内谷(かはちだに)の溪流に釣を垂るゝこと、其(その)常(つね)なり。故にその坐すべき岩、憩ふべき木蔭(こかげ)、流(ながれ)の澱(よど)みなんどあれば、各(おのおの)坐を設(もふ)くる術(てだて)を成し居(お)れり。

 一日(いちじつ)、藤田某(それがし)、何時(いつ)も岩頭(がんとう)に至(いたつ)て釣(つり)すれども、昼過(すぐ)る頃まで、魚(うを)一ツも不ㇾ得(えず)。故に方便(てだて)を替(かへ)、川の淺瀨を渉り、遙(はるか)なる水上(みなかみ)に登りて、其(その)よろしき所をたづぬるに、山陰(やまかげ)深く、淵に臨(のぞん)で、滑らかに疣(いぼ)立(たち)たる岩、一ツあり。凡(およそ)疊三帖(じよう)ばかりも敷(しく)べし。即(すなはち)、其上に坐して釣を垂るゝに、又、一人の士、川向ひの岸に來りて釣を垂(た)る。

 やゝ久しくして、川向ひの士、急に釣竿を收(おさ)め、此方(こなた)の方(かた)に向ひ、密(ひそか)に手招きして、早く歸(かへら)んことを指差(ゆびさ)し教(おしへ)て、ものをも言(いは)ず、慌(あは)てふためき、川下へ迯去(にげさ)りぬ。

 藤田氏(うぢ)も、何か心淋しくなりて、岸に上がり、元の道を歸り、淺瀨(あさぜ)を渉り、其人に走り付(つき)て、

「何事の候や。」

と問(とふ)。

 彼(かの)士、大息(おほいき)つきて、

「扨(さて)、貴公は不ㇾ知哉(しらずや)、即(すなはち)、公の坐したる岩、忽(たちまち)、兩眼を開(ひらき)、大なる口、少し開けて、欠伸(あくび)するさまにて、又、眼(まなこ)を閉(とぢ)たり。其眼中(がんちう)、赤(あかき)事、火のごとく光(ひかり)て、恐しなど、言(いふ)ばかりなし。是(これ)、必ず、蝮蛇(うはばみ)ならんとて、迯歸りぬ。」

 其後(そのゝち)、朋友相伴(あいともなふ)て、其所(そのところ)に行(ゆき)て見しかども、かの岩と覺しきもの、なし、と云へり。

 是も、山中(さんちう)、大蝦蟇(おほがま)なるべきか。

北越奇談巻之四終

 

[やぶちゃん注:崑崙は先行条に合わせて蝦蟇怪とするが、朋友の言は蟒蛇(うわばみ)であり、或いは、それに合わせるために「疣(いぼ)立(たち)たる」という粉飾を施したとも思えなくもない。寧ろ、この形容がなければ、「大蝦蟇(おほがま)なるべきか」という結語は出ないとも言えるからである。

「村松」村松藩。越後国蒲原郡の中の村松・下田・七谷・見附地方を支配し、藩庁は村松城(現在の新潟県五泉市)に置かれた。藩主は一貫して堀氏。

「河内谷(かはちだに)」既出既注。新潟県五泉市川内。の附近(グーグル・マップ・データ)と私は推定する。]

2017/08/27

北越奇談 巻之四 怪談 其十三(蝦蟇怪)

 

    其十三

 

 新泻真浄寺は大精舎(おほいなるてら)なり。寺中(じちう)の僧某(それがし)、秋の夜(よ)、いたく更行(ふけゆき)、寺に歸るとて、独(ひとり)、小家(こいへ)の軒(のき)を通りたるが、忽(たちまち)、心淋しくなりて、身の毛よだち、あたりを顧(かへりみ)れば、藁葺の厠(かはや)の屋根に、南瓜(かぼちや)繁り、纏(まと)ふたる葉の間に、靑みたる人の頸(くび)、一ツありて、かの僧に向ひ莞尓(にこ)と笑ふ。

 僧、驚き、

ッ。」

聲を出し、持ちたる杖にて、かの頸をしたたかに打(うつ)。

 その声に近所の人々、目を覺(さま)し、

「誰(た)ぞ。」

と問ふ。僧の曰(いはく)、

「化物あり。起きよ、起き。」

と呼ぶほどに、近隣皆々、驚き出(いで)て、火を點(とも)し、是を見れば、南瓜に杖の打(うち)たる痕(あと)あり。人々、

「これは、人の頸にはあらず。『南瓜あたま』なりけり。」

と、笑ひけるに、僧も己(おのれ)が臆病を恥(はぢ)て、猶、其南瓜を打叩(うちたゝ)くに、

「グウグウ。」

と、声、あり。

 人々、怪(あやし)み、葉の蔭を探し求(もとむ)るに、忽(たちまち)、大(おほきさ)狗子(いのこ)のごとくなる、蟇(ひき)一ツ、葉の蔭に竦(すく)み居たり。

「扨は。此、くせものなり。」

とて、遂に打殺(うちころ)しぬ。

 「博物志」に蝦蟆(がま)の三奇を出(いだ)す。釋文(しやくもん)に、『蝦蟇、物を呑(のま)んとして口を開けば、其氣、物を引來(ひききた)りて、おのれと、口に入(いる)。故に「ひき」と言(いへ)、又、千里の外(ほか)に捨(すつ)れども、一夜(いちや)の中(うち)に歸り來(きた)る。故に「かへる」と和訓す』とあり。

 文化元甲子(きのえね)の夏六月、信州鬼無里(きなさ)山中(さんちう)、松巖禪寺(しようごんぜんじ)に停留し、障壁に画(ゑがく)こと数日(すじつ)、其寺の後園(こうゑん)に大蝦蟇(おほがま)数十(すじう)ありて、黃昏(たそがれ)より洞口(どうこう)を出(いで)、四方に亂飛(らんひ)して、食を求む。その聲、

「ガウガウ。」

と囂(かまびす)し。さなきだに、短夜(みじかよ)の眠(めふり)を妨ぐること、連夜なり。是(これ)に依(よつ)て、堂頭(どうてう)和尚(おせう)に謁し、此ことを以(もつて)、かの蟇(ひき)を他所に移さんことを請ふ。

 和尚の曰(いはく)、

「されば過(すぎ)し年、江湖(ごうこ)の僧ども、打寄(うちよ)りて、『此蝦蟇、禪定(ぜんじやう)を妨ぐ』とて、一夕(いつせき)、洞口より蚑出(はへいづ)るを、捕へ盡し、俵二ツに入(いれ)、門前の急流に捨てたりしが、翌朝、皆、歸り來りて、元のごとし。力(ちから)を勞して功なし。」

と。

 是を聞(きゝ)て、

「既に、蝦蟇の二奇を知る。今一奇なり。密室に封ずと雖も、一夜(いちや)にして出(いづ)ると云へり。吾、未(いまだ)是を試みず。」

と、語りけるに、若き僧達、その夕(ゆふべ)、竊(ひそか)に大蟇(おほひき)一ツを捕らへ、是を銅盥(かなだらゐ)に入(いれ)、石を以(もつて)、蓋(ふた)とし、其上に、猶、大石(たいせき)をのぼせ、我(わが)枕に近き障子の外に置きて、以(もつて)、その奇を試んとす。

 扨、終夜(よもすがら)、他の蝦蟇(がま)、

「ガウガウ。」

と鳴渡(なきわた)るに、かの銅盥中(かなだらゐのうち)、只、時々、

「グウグウ。」

と微声(びせい)ありて、も又、眠(ねふ)ること、能(あた)はず。

 丑の時頃より、寺僧、起出(おきいで)て、堂上(どうしやう)に讀經(どくきやう)の声、喧(かまびす)し。

 漸々(やうやう)明(あけ)七ツにもならんと思ふ時分、四方に散乱せる蝦蟇(がま)、忽(たちまち)、庭に聚來(あつまりきた)り、其鳴(なく)声、数百群(すひやくぐん)なりしが、忽、其声、止みて、肅然(しようぜん)と、物凄し。

 又、銅盥(かなだらゐの)中(うち)の声も不ㇾ聞(きこへず)なりぬ。

 怪しみながら臥居たるに、早(はや)、若き僧達二、三人、走來り、

「如何に。」

と問ふ。依(よつ)ても起上(おきあが)り、かの大石(たいせき)を除(の)け、板石(いたいし)を取りて、鋼盥(かなだらゐの)中(うち)を見るに、更に、一物(いちもつ)、なし。

 不思義と云ふも、猶、あまりあり。

 凡(およそ)、蝦蟇(がま)、烏(からす)を恐るゝのみ、犬猫と雖も、さらに省(かへりみ)ず、道を避けて行く。

 實(じつ)に蝦蟇(がま)、虫類の怪物なり。此一事、他邦の奇なれども因(ちなみ)に擧ぐ。

 

[やぶちゃん注:蝦蟇(漢字表記は他に「蟇」「蟆」「蟇蛙」「蟾蜍」等)「ひきがえる」「がま」「ひき」の怪で、しかも後半はまたしても崑崙の実体験物。この手の実録随筆で筆者の怪奇体験がかなり克明に記されるケースは寧ろ、特異的と言ってもよい。

 さて「ひき(がえる)」「がま(がえる)」は、一般には、大きな蛙を全般に指す語であるが、その実態はやはり、両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus と考えてよいと思われる。ヒキガエルは洋の東西を問わず、怪をなすものとして認識されているが(キリスト教ではしばしば悪魔や魔女の化身として現れる)、これは多分にヒキガエル科 Bufonidae の多くが持つ有毒物質が誇張拡大したものと考えてよい。知られるように、彼等は後頭部にある耳腺(ここから以下の毒液を分泌する際には激しい噴出を伴うケースがあり、これが本話でも言うところの、摂餌対象に「氣」を放って「引」くと言ったような、口から怪しい白気を吐く妖蟇(ようがま)のイメージと結びついたと私は推測している)及び背面部に散在する疣から牛乳様の粘液を分泌するが、これは強心ステロイドであるブフォトキシンなどの複数の成分や、発痛作用を持つセロトニン様の神経伝達物質等を含み(漢方では本成分の強心作用があるため、漢方では耳腺から採取したこれを乾燥したものを「蟾酥(せんそ)」と呼んで生薬とする)、ブフォトキシンの主成分であるアミン系のブフォニンは粘膜から吸収されて神経系に作用し、幻覚症状を起こし(これも妖蟇伝説の有力な原因であろう)、ステロイド系のブフォタリンは強い心機能亢進を起こす。誤って人が口経摂取した場合は、口腔内の激痛・嘔吐・下痢・腹痛・頻拍に襲われ、犬などの小動物等では心臓麻痺を起して死亡する。眼に入った場合は、処置が遅れると、失明の危険性もある。こうした複数の要素が「マガマガ」しい「ガマ」のイメージや妖異を生み出す元となったように思われるのである。因みに、筑波の「ガマの油売り」で知られる「四六のガマ」は、前足が四本指で後足が六本指のニホンヒキガエルで、超常能力を持った妖怪として、よく引き合いに出されるのであるが、これは奇形種ではない。ニホンヒキガエルは前足・後足ともに普通に五本指であるが、前足の第一指(親指)が痕跡的な骨だけで、見た目が四本に見え、後足では、逆に第一指の近くに内部に骨を持った瘤(実際に番外指と呼ばれる)が六本指に見えることに由来するものである。

 なお、ここに記されたような「がま」の怪異は非常に多くの怪奇談に古くから書かれてある。私の電子化訳注或いは注したものでは、例えば、「耳囊 卷之四 蝦蟇の怪の事 附怪をなす蝦蟇は別種成事」「耳囊 卷之五 怪蟲淡と變じて身を遁るゝ事」(これは本条の後半の崑崙の実体験の怪異と同じ密閉した空間から消えてなくなるそれである)、『柴田宵曲 妖異博物館 「古蝦蟇」』『「想山著聞奇集 卷の參」「蟇の怪虫なる事」』などが大いに参考になるはずである。

「新泻真浄寺」新潟市中央区西堀通に現存する浄土真宗ここ(グーグル・マップ・データ)。野島出版脚注に『院家にて赤沼と号す。開基明慶坊は常陸の人。初』め、『土屋五郎重行と云。源家の勇士なりしが』、『後、出家して求道持經修行の功績をみて、頸城郡四江邑に居住せしに、親鸞國府に謫流の時、行きて謁して教導を受け、信心了解して弟子となり、法名を明慶と改め、師の東行に従い、信州水内郡』(みのちごうり)『赤沼に至る時、師の云、汝此処に止まり、專修念仏の法を弘む可しと因て一宇を造立して眞淨寺と名づく。其の後、故ありて新潟に移る。寺宝家蔵多あり(越後野志)』とある。

「博物志」晋の政治家文人張華(二三二年~三〇〇年)が撰した博物書。現行本は全十巻。神仙や人間を含む奇怪な動植物についての記録を主とし、民間伝説などが混じっている。一説には本来は四百巻あったが、武帝から内容が疑わしいとして削除を命ぜられ、十巻になったともいうが、六朝から唐にかけての伝奇や諸本草書に「博物志」として引用された文章で、現行本には記載されていないものがしばしばあり、また、原典の記載自体、断片的なものが多い点から、原本は、一度、失われてしまい、現行本は後人が他書に引用されたものを蒐集して纏めたものに過ぎないと考えられる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。但し、現行の十巻及び「太平廣記」で「博物志」引用とする文章を縦覧してみたが、蝦蟇の三つの奇異の記載は見出せなかった。識者の御教授を乞うものである。

「釋文(しやくもん)」その「博物志」の蝦蟇の三奇の記載を注釈したものと読んでおく。

『蝦蟇、物を呑(のま)んとして口を開けば、其氣、物を引來(ひききた)りて、おのれと、口に入(いる)。故に「ひき」と言(いへ)、又、千里の外(ほか)に捨(すつ)れども、一夜(いちや)の中(うち)に歸り來(きた)る。故に「かへる」と和訓す』この引用元を知りたい。識者の御教授を切に乞うものである。非常に面白い語源説ではある。如何にも眉唾っぽい(特に「かへる」の方)が、大槻文彦の「言海」の「ひき」(蟇)の冒頭には確かに、『氣ヲ以テ子蟲ヲ引寄セテ食ヘバ名トスト云フ』とあり(但し、直後に読点して『イカガ』と疑問を呈してもいる)、「日本国語大辞典」も「ひき」と「かえる」の語源説にこれらを一説としてちゃんと掲げてある。生命力が強く死んだように見えても、生き「かえる」からという説もあるが(ある種の両生類や爬虫類はショックを与えると一時的な生理的仮死状態になるものがいる)、それはもう、これより私は苦しいと思う。因みに、ちょっと脱線するが、私が青春時代を過ごした富山(高岡市伏木。大伴家持所縁の地である)では蛙を「ぎゃわず」と称した。これは万葉以来の歌語としての「かはづ」と同源と考えてよい。しかし私はその「かは」を「川」とは採らない。これはまさに「ギャ」「グヮ」という彼らの鳴き声のオノマトペイアが「くは」「かは」と転訛したと採るのが私には自然であるように思われる。

「文化元甲子」一八〇四年。

「信州鬼無里(きなさ)」長野県長野市鬼無里(偶然であろうが、ここは旧上水内郡で先の真浄寺があったのも同じ郡内であった)。ここ(グーグル・マップ・データ)。天武天皇の信濃遷都伝承に基づく鬼殲滅や平維盛の鬼女「紅葉」退治の伝説(「鬼無里」の名はそれに由来)、木曾義仲に纏わる話で知られる地である。

「松巖禪寺(しようごんぜんじ)」鬼女「紅葉」の守護神を祀ると伝える曹洞宗の寺である旧鬼立山(きりゅうざん)地蔵院。少なくとも現在は松巖寺(しょうがんじ)と読む。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「障壁」野島出版脚注に『堡障』(外塁壁)『のことであろうが、ここでは壁画か対立』(「衝立(ついたて)のことであろう)『の意であろう』とある。崑崙は画人として相応の評価があったことが、ここの事実から判る(野島出版版解説によれば、彼はそれ以前に、医学の素養があり、漢詩人としても知られていたようである。但し、博覧強記乍ら、それぞれの師が誰であったのかも皆目分らないそうである)。

「後園(こうゑん)」裏庭。

「洞口(どうこう)」山の斜面にある巣穴。

「亂飛(らんひ)して」跳躍跳梁して。

食を求む。その聲、

「さなきだに」(副詞「さ」+形容詞「なし」の連体形+限定類推の副助詞「だに」)そうでなくてさえ。

「堂頭(どうてう)和尚(おせう)」堂頭(どうちょう)の和尚(おしょう)。「和尚」の歴史的仮名遣は「をしやう」が正しい。禅寺の住持を「堂頭」という。

に謁し、此ことを以(もつて)、かの蟇(ひき)を他所に移さんことを請ふ。

「江湖(ごうこ)の僧」修学参禅を行う学僧。昔、唐代の名禅僧馬祖道は現在の江西省で禅宗を広め、同時代の今一人の名禅僧石頭希遷は南岳衡山(湖南省)に住し、天下の禅僧はこの二師のもとを往来したという故事に基づく。

「禪定(ぜんじやう)」思念を静めて心を明らかにし、真正の理を悟るための修行法。精神を集中し、三昧 (さんまい) に入って寂静の心境に達する禅行。

「蚑出(はへいづ)る」這い出す。

「門前の急流」同寺の前を裾花川(すそばながわ)が東へ流れ下る。

に捨てたりしが、翌朝、皆、歸り來りて、元のごとし。力(ちから)を勞して功なし。」

と。

 是を聞(きゝ)て、

「蝦蟇の二奇」先の釈文にある「気を吐いてそれで餌を誘引して喰らう」奇と、「どんなに遠く離れた場所へ移しても必ずもといたところへ戻ってくる帰巣本能の奇。

「丑の時」午前二時前後。禅宗の修行では起床を「開静(かいじょう)」呼ぶが、現行では午前三時から四時であるが(季節によって異なる。永平寺の修行体験例では夏で午前三時十分、冬で四時十分、春明は三時四十分とする)は、暁前がその規程であるから、この話柄の夏ならば、午前三時には起きていなくてはならず、そのための準備を考えれば、御前二時過ぎは正しい。実際、良寛の記録などを見ると、午前三時に開静している(解定(かいちん:就寝)は今も午後九時)。

「明(あけ)七ツ」定時法なら午前四時であるが、不定時法(夏)では三時半過ぎ。

「数百群(すひやくぐん)なりしが」聴くだけで数百(五,六百匹)の群れと覚えたが。

「蕭然(しようぜん)」ごくひっそりとして物寂しい様子。蕭条。ピタ! っと止んで後は「更に、一物(いちもつ)、なし」なんともはや、蝦蟇一匹どころか、全く、何も、なく、空っぽである。

「蝦蟇(がま)、烏(からす)を恐るゝのみ」雑食性のカラスは蛙も食うが、このカラスのみを恐れるという部分には、民俗学的に古えより神の使いとされた八咫烏(やたがらす)のイメージが包含されているのかも知れぬ。

「他邦」崑崙の実体験ながら、このロケーションは越後国ではなく信濃国。]

北越奇談 巻之四 怪談 其十二(山の巨魁)

 

    其十二

 

 神田村(かんたむら)に鬼新左衞門(おにしんざゑもん)と云へる者あり。其性(せい)、暴悪にして、物の命をとること、草を苅るがごとし。里人(りじん)・親族と雖も、その強きを憎んで相厭(あいいと)ふ。

 爰(こゝ)に村を離るゝこと、十餘丁、山神(さんしん)の小社(ほこら)あり。其下、溪流湛(たゝ)へて、水鳥、甚(はなはだ)多しと雖も、里人(さとびと)、殺生を禁じて、是を獲らず。

 過(すぎ)し冬、新左衞門、雪中に獨り、其所(そのところ)に至り、黐繩(もちなは)を引流(ひきなが)して鳥を獲ること、夜每(よごと)に甚多く、ある夜、又、到りて、繩を引くに、宵より、鳥一ツも不ㇾ來(きたらず)、夜半にも、又、來たらず。

 已に曉方(あかつきがた)に及んで、山の上より、何(なに)とも知らず、氷(こほり)たる雪の上を、ものゝ步行來(あゆみく)る音す。新左衞門、小屋の中(うち)より竊(ひそか)に是を覗(うかが)ひ見れば、其長(たけ)一丈あまりなる男、髮(がみ)、目の上に覆ひたるが、出來(いできた)れり。

 新左ヱ門、恐れて、声も出(いで)ず、小屋の中(うち)に竦(すく)み居(ゐた)りしに、かの大男、近く步み來り、小屋の中へ、箕(み)のごとくなる手を差し入(いれ)、新左ヱ門を摑(つか)み出(いだ)し、遙かに投げ飛(とば)したりと覺へて、氣絶しぬ。

 さて、夜明(よあけ)、家(いへ)の女房、新左ヱ門が歸りの常より遲きを以(もつて)、訝(いぶか)しく、かの小屋に到り見れば、居らず。又、足跡もなし。

 女房、驚き、立歸(たちかへ)り、是を村長(むらおさ)に訟(うつた)ひ、人を出(いだ)し、山々谷々(やまやまたにたに)、不ㇾ殘(のこらず)尋ね求(もとむ)るに、北谷(きただに)二ツを越へて、新左左ヱ門、雪中(せつちう)に倒れ死す。

 人々、漸々(ようよう)に助け來りて家に入(いり)、藥を注(そゝ)ぎ、(あたゝめ)なんどしけるに、一時(いちじ)あまり過ぎて、人心(ひとごゝち)付(つき)ぬ。

 其後(そのゝち)、殺生は止(やめ)たれども、三年を不ㇾ待(またず)して卒(そつし)ぬ。

 深山の奇、はかり難し。

 

[やぶちゃん注:今までの山男の延長線上にある巨魁。この「小社(ほこら)」(二字へのルビ)に祭祀されているのは「山の神」で、自然、この男を同一視したくなるが、「山の神」は女神とされるから、これは連関を求めるとならば、その「山の神」の眷属と見るべきであろう。

「神田村(かんたむら)」一つの候補は旧中頸城郡神田村か。現在の新潟県上越市三和(さんわ)区神田(かんだ)。(グーグル・マップ・データ)。

「鬼新左衞門(おにしんざゑもん)」通称で、「鬼」は「悪太郎」「悪源太」などと同様、勇猛で力が強いことを示す添え辞であって、本来は禍々しい蔑称ではない。

「十餘丁」十三町ほどとして、一キロ半弱か。

「黐繩(もちなは)」鳥黐(バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属モチノキ Ilex integraやマンサク亜綱ヤマグルマ目ヤマグルマ科ヤマグルマ属ヤマグルマ Trochodendron aralioidesなどの樹皮から抽出した粘着性物質。前者から得たものは白いので「シロモチ」或いは「ホンモチ」、後者からのそれはは赤いので「アカモチ」と呼称する)を塗った縄を水面に張り巡らすことで水鳥を捕獲する(特に鴨猟)「流し黐猟」(但し、現在は鳥黐を用いた鳥猟は総て禁止)。ウィキの「流し黐猟によれば、『秋から冬、夜間、黐を塗り付けた縄を湖沼に流し、カモを捕獲する』。『長縄に黐を塗り付け、暗夜に湖沼や海面に流し、遊泳しているカモを捕獲する。各所で行なわれたが、千葉県で最も盛んであった。他に、京都、新潟、千葉、茨城、滋賀、岐阜、青森、福井、富山、島根、岡山、愛媛などで行なわれた。縄は、シュロ縄、藁縄、カヤツリグサ縄、フジ蔓、麻糸などで、これにキリ製の浮きを付ける。アシ、マコモの縄が最上とされた。千葉県では、秋分頃に刈り取ったアシを細く裂いて乾し、これを直径』三ミリメートル』『もどの縄にし』、一本の縄の長さは凡そ千五百メートル『とした。縄は小田巻という枠に巻き付けて』おき、『使用時には水中でも容易に鳥に付くように』(鳥黐は水に漬けると粘着性がなくなってしまう性質がある)、『これに種油を混ぜて煮た黐を塗り付ける』。『猟は小船で乗り出し』、一『人は棹を使い』、一『人は小田巻を扱い、水面に黐縄を放流しながら進む。千葉県手賀沼では、沼のほとりのアシのある所で鴨網を張り、同時に流し黐猟を行なった。水面の流し黐に驚いたカモの群れがアシ原に逃げてくると、鴨網にかかるから、再び水面に戻るというふうで、この』二『つの猟法を用いれば、多数のカモを捕獲することが出来たという。この猟法は、夜半に行ない、また燈火は用いず、静寂の中で行なわれた』とある。(下線太字はやぶちゃん)。以上は他にウィキの「鳥黐等も参考にした。

鳥を獲ること、夜每(よごと)に甚多く、ある夜、又、到りて、繩を引くに、宵より、鳥一ツも不ㇾ來(きたらず)、夜半にも、又、來たらず。

「一丈」三・〇三メートル。

「箕(み)」穀類を煽って篩(ふる)い、殻や塵(ごみ)を除く両手で支えるほどの大きさの農具。

「死す」仮死状態にあった。

(あたゝめ)」既出既注。温め。暖かくしてやり。「」は「冷えたものを温める」の意。

「一時(いちじ)」一時(いっとき)。約二時間。

「三年を不ㇾ待(またず)して卒(そつし)ぬ」先の焚」でもこの期間が示されてあった。或いは、新潟ではある種の妖異に遭った者はそうなるという広汎な民俗理解があったものかも知れない。]

2017/08/26

北越奇談 巻之四 怪談 其十一(山男その二)

 

    其十一

 

 高田大工又兵衞弟(おとゝ)某(それがし)、西山本に雇(やとは)れ、數日(すじつ)留(とま)りけるが、ある夜、急げる私用ありて、獨り、山路(やまぢ)を歸りしに、岨道(そはみち)の引囘(ひきまは)りたる所にて、不ㇾ慮(はからず)、大人(たいじん)に行逢(ゆきあふ)たり。其形、赤身(はだかみ)にして、長(たけ)八尺ばかり、髮、肩に垂れ、目の光(ひかり)、星のごとく、手に兎一ツを提(さげ)、靜かに步行來(あゆみきたる)。大工、驚(おどろき)て立止(たちとま)れば、かの大人も驚たるさまにて立止りしが、遂に物も言はず。路を横切(よこぎ)りて、山に登り、去りぬ、と云へり。

 是等も、かの山男なるべし。

 

[やぶちゃん注:山男の連投。

「現在の新潟県上越市の高田の西の上越市浦川原区に「山本」という地名を現認は出来る。(グーグル・マップ・データ)。高田へは直線で十一キロメートルほどあり、この地区自体は丘陵地にある。

「岨道」険しい山道。

「引囘(ひきまは)りたる所」大きくカーブして先が見えない箇所。

「八尺」二メートル四十二センチ。]

北越奇談 巻之四 怪談 其十(山男)

 

    其十

 

Yamaotoko

 

[やぶちゃん注:葛飾北斎の挿絵。右上に「山男 衆人に交て よく人語を解す」とある。今回も、見開きの絵を合成し、四方の枠を除去した。囲炉裏端の縁と板敷の目が合わないが、北斎独特の煙の曲線のみを整合させることを優先した。]

 

 妙髙山・黑姫山(くろひめざん)・燒山(やけやま)、皆、高山(かうざん)なり。それより、万山(ばんざん)相重(あいかさな)り、信州・戸隱・越中立山に至るまで、數(す)十里に連(つらな)り渡りて、その深遠(しんえん)、云ふべからず。髙田藩中、數千家(すせんか)の薪(たきゞ)、皆、此山中(さんちう)より伐出(きりいだ)すことなり。凡(およそ)、奉行より木挽・杣(そま)の輩(ともがら)に至るまで、各(おのおの)誓(ちかつ)て曰(いわく)、

「山小屋の在中、如何なる怪事ありとも、人に語るべからず。」

となり。

 一年(ひとゝせ)、升山(ますやま)某(それがし)、此(この)役に當たりて、數日(すじつ)、山小屋にありしが、夜々(よるよる)、人々、打寄(うちより)、火を焚くこと、不ㇾ絶(たへず)。これを圍(かこ)みて、炉にあたる。

 しかるに、山男(やまおとこ)と云ふもの、折節、來りて、焚火にあたり、一時(いちじ)ばかりにして、去(さる)。

 其(その)形、人倫に異なることなし。赤髮(せきはつ)、裸身(はだかのみ)、灰黑色(はいくろいろ)。長(たけ)八尺あまり。腰に草木(そうもく)の葉を着(つく)る。

 更に、物言(ものい)ふことなけれども、声を出(いだ)すこと、牛のごとし。又、よく、人の言語(ごんご)を聞(きゝ)別(わ)くる。相馴(あいなれ)て、知る人のごとし。

 一夕(いつせき)、升山氏(うじ)、是に謂(いひ)て曰(いはく)、

「汝(なんぢ)、木葉(このは)を纏(まと)ふは、其(その)恥(はづ)る所を、知る。火にあたるは、寒(さむさ)を恐(おそ)るゝ也。然(しから)ば、汝、夏冬となく、裸身(はだかみ)にして、寒暑、堪(たえ)たると云ふにもあらず。何ぞ、獸皮を獲(と)りて、暖身(あたゝか)に身を纏はざるや。」

と。

 山男、つくづく、是を聞(きゝ)て、去る。

 扨(さて)、翌夜(よくや)、忽(たちまち)、羚羊(しらしゝ)二疋を両(ふたつ)の手提(さ)げて來(きた)り、升山が前に置く。

 升山、其意(こゝろ)を悟り、短刀を拔き、その皮を取りて、山男に與ふ。

 山男、頻りに口を開き、打笑(うちわら)ひ、喜び、去(さる)。

 それより二夜(にや)過(すぎ)、又、小熊(こぐま)一、兎一を持來(もちきた)りて、是を小屋の中(うち)に投げ入(いれ)て去(さり)しが、已にして、又、來(きた)る。人々、是を見れば、先(さき)の皮、一枚は背を覆ひ、藤(ふぢ)を以つて繫(つな)ぎ合(あは)せ、一枚は腰を纏ふたれ共、生皮(なまかは)をそのまま着たる故、乾くに隨(したがつ)て縮み寄り、硬張(こはばり)たり。

 皆皆、打笑(うちわら)ひ、依ㇾ之(これによつて)、熊の皮を取り、十文字に刺す。竹を入れ、小屋の軒に下げて、その製(せい)し方(かた)を教へ、升山、又、是(これ)に山刀(やまがたな)【長一尺ばかり、白鞘(さや)なり。】一丁を與へて歸らしむ。

 其後(そののち)、數日(すじつ)、不ㇾ來(きたらず)と云へり。

 是を聞(きゝ)て按ずるに、凡(およそ)、山男・山女(やまおんな)と云へるは、鬼神(きしん)の術(じゆつ)あるがごとく言傳(いひつた)へたれど、全く左(さ)にはあらざるべし。卽(すなはち)、山中自然の人種にして、言語(げんぎよ)、習ふことなければ、言はず。服(ふく)、製することを知らざれば、裸なる者にして、只(たゞ)、夷地(いち)五十年前(ぜん)の風俗に同じく、愚(ぐ)の甚しき者なるべし。よく、是にも、人道のてだてを教(おしへ)ば、如何(いか)ならんと思ふのみ。

 文化甲子(きのえね)の夏、信州に遊び、虫倉山(むしくらやま)と言(いへ)る高山(こうざん)に登(のぼり)て、山女の住(すみ)たる洞(ほら)を見たり。凡(およそ)、三洞(さんどう)あり。古洞(こどう)は谷を隔(へだて)て古木(こぼく)林中(りんちう)にあり。山燕(やまつばめ)の巣、甚だ多し。今洞(こんどう)と云ヘるは、其上(そのうへ)、絶壁の中腹に在(あり)て、下より仰見(あふぎみ)ること、數(す)十丈、かの山女は見へざれども、洞(ほら)の口(くち)、草苔(くさこけ)の打ち生(はへ)るなく、甚だ奇麗(きれい)なり。如何にも住(すめ)る者、あるがごとし。雪中には、山の中(うち)、大なる足跡ありと云へり。

 

[やぶちゃん注:以上は以前に、「想山著聞奇集 卷の貮」の「𤢖(やまをとこ)が事」で電子化したものをブラシュ・アップし、注を新たに附した。上記リンク先も参照されたい。また、ブログ記事も本邦の山人(さんじん)・山男関連の記事をよく蒐集して纏めておられる。

「妙髙山」(めうこうさん)は現在の新潟県妙高市にある。標高二千四百五十四メートル。

「黑姫山(くろひめざん)」現在の長野県上水内(かみみのち)郡信濃町(まち)にある黒姫山(くろひめやま)。標高二千五十三メートル。妙高山頂上からは直線で南南東九キロ弱であるが、やや気になるのは、ここは高田藩領ではない点である。山入伐採権を持っていたものか? 高田藩は一時、幕府領となっていた時期があり、黒姫山は天領も多いから、その関係もあるのかも知れない。識者の御教授を乞うものである。

「燒山(やけやま)」新潟県糸魚川市大平焼山。妙高山の西北七・七キロメートル弱。この地図で三つの山を確認出来る(グーグル・マップ・データ)。

「髙田藩」福嶋藩(ふくしまはん)とも呼ばれ、藩庁は高田城(現在の新潟県上越市)にあった。

「木挽」伐り出された木を大鋸(おおが)で材木にする木挽き職人。

「杣(そま)」単に木を伐り出す木樵(きこ)りかと思ったが、野島出版脚注に『山に樹木を植え付けて生長させた山を杣山という。この杣山の木を伐る役目の人を杣といった』とある。

「升山(ますやま)某(それがし)」不詳。

「一時(いちじ)」一時(いつとき)で現在の二時間であろう。

ばかりにして、去(さる)。

「八尺」二メートル四十二センチ。

「羚羊(しらしゝ)」鯨偶蹄目反芻亜目 Pecora 下目ウシ科ヤギ亜科ヤギ族カモシカ属ニホンカモシカ Capricornis crispus のこと。

「文化甲子(きのえね)」文化元(一八〇四)年。

「虫倉山(むしくらやま)」現在の長野県長野市中条(なかじょう)御山里(みやまさ)にある虫倉山。ここ(グーグル・マップ・データ)。この中条地区には山姥伝説がある

「夷地(いち)」野島出版版は『いぞち』とあるが、原典画像では「ぞ」は痕跡も見えない。「蝦夷(えぞ)地」。]

北越奇談 巻之四 怪談 其九(生まれ変わり)

 

    其九

 

 關谷大島(せきたにおほしま)と云へる所の百姓某(それがし)、娘一人あり。養子聟(やうしむこ)を迎ひ、五年にして、娘、懷妊す。老親(ろうしん)・夫婦、甚だ喜び、勞(いたは)りけるに、其児(そのこ)、生(むまれ)て後(のち)、三日にして、死せり。老母いたく嘆き、その死(しゝ)たる児を抱(いだ)き上げ、

「汝、果報少(すくな)く、祖父祖母(ぢゝばゝ)の顏も見知らで、又、黄泉(くはうせん)に歸ることを。再び、生(むま)れかへりて來(きた)るべし。其印(そのしるし)、付(つけ)てやらん。」

とて、淚と共に、己(おのれ)が指三本に茶釜の下の炭(すみ)を付(つけ)、死たる児の腹を撫で、終(つゐ)に是を葬(ほうむり)ぬ。

 扨、一ととせあまりを歴(へ)て、娘、又、懷妊す。生(むま)るゝに及(およん)で、其児、即(すなはち)、腹の上に三ツ指の痕(あと)、黒くありて不ㇾ消(きえず)。十歳ばかりの頃までありしが、次第に消失(きえう)せぬ。不思義と云ふもあまりあり。

 然りと雖も、世上、中智の輩(ともがら)、必(かならず)、此説を聞(きい)て、万物(ばんもつ)の生死(せいし)、皆、如ㇾ此(かくのごとき)もの、とのみ思ふべからず。人智、各(おのおの)、差別あること、百人にして一人(ひとり)も同じきことを不ㇾ得(えず)。儒(じゆ)・仏(ぶつ)・神(しん)の道(みち)より、士農工商、今日(こんにち)世間の交(まじはり)に至るまで、何(いづ)れをか異(こと)なりとせん。今、仏を以(もつて)これを論ぜんに、煩悩即生死即涅槃(ぼんのうそくぼだいしやうしそくねはん)を見破(けんぱ)し、四大本(しだいほん)に皈(き)し、性(せい)、空(くう)に去(さつ)て苦樂ともに免(まぬ)かる。是を以(もつて)大悟と第一智となす。其下(そのしも)、數(す)十段にして不ㇾ可ㇾ盡(つくすべからず)。仏名(ぶつみよう)を稱し、別世界を願ふは、下愚(かぐ)の人に示方便にして、勧善懲悪の教(おしへ)、實(じつ)に治國平天下(ちこくへいてんか)の奇法となすべし。智にして愚を謗(そし)るは、明智(めいち)にあらず。只、此道(このみち)、上(かみ)は以(もつて)聖智なるべく、下(しも)は以(もつて)下愚なるべし。下をして必(かならず)、智ならしむべからず。上智はよく明らかなれども、得難く、中智は疑(うたがひ)、且(かつ)、侮(あなど)る。下愚は冥(くら)くして、よく信ず。故に是(これ)を云ふ。密(ひそか)に按ずるに、死後の性(せい)は今の性を曳(ひ)く所がありて、仏(ほとけ)とやならん、鳥獸(ていじゆう)とやならん、再び、此生(せい)を願ふ者、死して、又、其性の託(たく)する所を得て生(しやう)ずべし。仏(ほとけ)を念じ、別世界を願ふ者は、死後の性、かの西方十万億土外(がい)に至(いたつ)て、如何なる仏(ほとけ)となるやらん、予は是を知らず。かの十万億土外に尋ね當たることなくんば、又、其先、十万億土外に行行(ゆきゆ)かば、其性、遂に眞空に歸するなるべきか。今の僧俗、共に中智の輩(ともがら)、よく空(くう)を云へども、他(た)の空なることを知りて、其(その)己(おのれ)を空(くう)ずることを知らず。神(しん)の道を行ひども、六根淸淨(ろくこんせいじよう)ならしむること、不ㇾ能(あたはず)。聖教(せいきよう)を學んで行ふこと、不ㇾ能。仏(ぶつ)を信じて、其性を悟(さとる)事、不ㇾ能。煩惱、止(やむ)時なく、死に至る者、其性、凝塊(ぎくわい)して、不ㇾ散(さんぜず)。體(たい)なくして、苦愁(くしう)、隙(ひま)なきなり。是を地獄と云へ、生死(しようし)の間(あいだ)に託す。是を迷(まよひ)と云へ、喜怒愛樂[やぶちゃん注:ママ。]に心を不ㇾ滯(たいせず)。生死(しようし)二ツながら、念を斷(たつ)者、死して、其性、真空に皈す。是を大悟(だいご)の人と云ふ。凡(およそ)、後(のち)、生(せい)を願ふ者は、かの鍋炭(なべずみ)の説を喜ぶけれど、生は皆、迷(めい)にして、今の生、後の生を不ㇾ知(しらず)。是(これ)を以(もて)思へば、今、貧賤下愚(ひんせんかぐ)、即(すなはち)、死後、仮令(たと)へ、富貴上智(ふうきしやうち)の人に生(むま)るとも、今の我(われ)なることを知事(しること)なくんば、何ぞ、樂しとするに足らん。只今の生人(せいひと)の富貴上智を羨むがごとくなるべし。然(しから)ば、大悟(たいご)の人、生死(しやうし)を離れ、真空に皈することを得んには劣れるか。聖人の道も、仁義の性、正しく、孝貞忠臣の行ひ、不ㇾ違(たがはず)。今の生(せい)を守り得る時は、死もまた、安然として、迷ふ所なく、豈(あに)大悟の人に異(こと)ならんや。

 

[やぶちゃん注:これは生まれ変わりの奇談を枕とした崑崙独自独特の死生観である。但し、かなり、くだくだしく、部分的に意味をとりにくい箇所もある。さればここで、ここでの以下の注は、場合によっては私の勝手な解釈であることをお断りしておく。

「關谷大島(せきたにおほしま)」新潟市中央区の関屋を冠する地域のどこかか。この関屋分水路の右岸広域(グーグル・マップ・データ)。

「老親(ろうしん)」後で出る祖父母。

「夫婦」娘の父母。

「世上、中智の輩(ともがら)」巷間の中程度の「智」しか持たない連中。この発語からし「四大本(しだいほん)」仏教に於いては物質界は地・水・火・風の性質を本元とする元素、四大種によって構成されているとする。ここはそれに完全に還元されることを指す。

「其下(そのしも)」「性(せい)、空(くう)に去(さつ)て苦樂ともに免(まぬ)かる」ところの最上の「第一智」である「大悟」に至るまでの階梯。過程。

「數(す)十段にして不ㇾ可ㇾ盡(つくすべからず)」数十段の大きなレベルに分かれており(その一段階一段階がこれまた無数に区分けされていて)数え尽くすことは出来ない。

「故に是(これ)を云ふ」よく判らぬが、以下のようにとった。「仏名(ぶつみよう)を稱し、別世界を願ふは、下愚(かぐ)の人に示方便にして、勧善懲悪の教(おしへ)、實(じつ)に治國平天下(ちこくへいてんか)の奇法と」言うべきものであって、「智にして愚を謗(そし)るは、明智(めいち)にあらず。只、此道(このみち)、上(かみ)は以(もつて)聖智なるべく、下(しも)は以(もつて)下愚なるべし。下をして必(かならず)、智ならしむべからず。上智はよく明らかなれども、得難く、中智は疑(うたがひ)、且(かつ)、侮(あなど)る。下愚は冥(くら)くして、よく信ず」というのは、まさに「故」にこそ「これ」(「是」)が、その仏教に於ける凡愚の大衆に仏説を分かり易く説く際に用いられるところの、真実の教えに至る前段階として教化される側の能力に応じるように変形された教法としての真理ではない「方便」なのであり、儒教に於ける馬鹿にも判る「勧善懲悪」の辛気臭い教訓的理論であり、それは実に「大學」で語られてある「修身斉家(せいか)治國平天下」(天下を真にやすらかに治めるには、まず、各個人自身が自律的に行いを正しくし,次に家庭を円満に豊かにし、次にその中から生まれた優れた人格者である君子が、その家族の集合体としての国家を治め、そこで初めて天下を絶対の安静平和へと向かわせるという儒教の国家論のパラドキシャルな基本理念)という世にも稀な迂遠にしていたく巧妙なる政治的奇法である、と「言う」(「云ふ」)のであろう。

「死後の性(せい)は今の性を曳(ひ)く所がありて」人の死後の存在の属性は現在の個人としての人間の属性を残存させているところがあって。

「仏(ほとけ)を念じ、別世界を願ふ者は、死後の性、かの西方十万億土外(がい)に至(いたつ)て、如何なる仏(ほとけ)となるやらん、予は是を知らず。かの十万億土外に尋ね當たることなくんば、又、其先、十万億土外に行行(ゆきゆ)かば、其性、遂に眞空に歸するなるべきか。」野島出版版は下線太字で示した部分がすっぽり抜けてしまっている。恐らく、原典の三度繰り返される「十万億土外」の読み取りの際に、誤まって飛ばしてしまったものと思われる本文翻刻としては致命的なミスである。崑崙の仏教への実証主義的反論が面白い。言わずもがなであるが、極楽浄土は「西方十万億(佛國)土」の外にあることになっている。ある奇特な方の計算によれば、「一仏国土」(一人の仏が教化する面積単位)の広さは銀河系ぐらいで、その十万億倍は、約百六十億光年の先となるそうで、これは現代の宇宙物理学に於ける宇宙の直径と概ね一致するそうである

「今の僧俗、共に中智の輩(ともがら)、よく空(くう)を云へども、他の空なることを知りて、其(その)己(おのれ)を空(くう)ずることを知らず」現代の僧や俗人の中でも、中程度の智しか持っていない輩(やから)に限って、盛んにこの仏教の「空(くう)」の認識に大切さを口角泡を飛ばして述べ立てるけれども、他(ほか)の時空間に於ける「空」という存在の在り方(というよりも「非在」の在り方)を知っているくせに、それを偉そうに主張している自分自身の認識や存在を「空」に対峙させ、自身の心をば「空」にすると言う唯一の大事なことを全く知らない。これはなかなかに正鵠を射ている。こういう輩は今もゴマンといるではないか!

「神(しん)の道」神道(しんとう)。ここ以下は神道批判。

「六根淸淨(ろくこんせいじよう)」正しい発音と歴史的仮名遣は「ろくこんしやうじやう」。本来の「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」は仏教用語で、人間に具わった六根(眼根(視覚)・耳根(聴覚)・鼻根(嗅覚)・舌根(味覚)・身根(触覚)五感と、それに第六感たる意根(意識)を指す)を清らかにすることを指すから、どうにも場違いな謂いである。しかし、この修行(不浄な対象を見ない・聴かない・嗅がない・味わって迷わされて身の内に入れたりしない・触らない・感じないようにすることが求められる)のために、俗世との接触を絶つことが行なわれたが、神仏習合の江戸時代までは、非常に幅広い神仏に対する巡礼や古神道や山岳信仰・仏教(密教)のゴッタ煮の修験道などでは、この言葉が好んで用られたから、崑崙は、或いは「穢れ」を極度に忌避する神道の禁忌や神域結界などに対して、自分勝手にこの言葉を当て嵌めたのではないかと私には読める。このあたりを読むと、崑崙は少なくとも天皇を頂点とするような国家神道的なものはあまり信じていない感じがする。寧ろ、鬼神を強く信じていた辺り、アニマチズム的古神道信仰に近いようにも思われる。

「聖教(せいきよう)」「聖教」聖人の教え。孔子の教え。儒教。ここ以下は儒教批判。

「學んで行ふこと、不ㇾ能」「學んで」も現に「行ふこと」「能(あた)はず」。次も同じ。

「煩惱、止(やむ)時なく、死に至る者、其性、凝塊(ぎくわい)して、不ㇾ散(さんぜず)」「ぎくわい」の読みは原典のママ。凝り固まって。ここからが崑崙の独擅場。鬼神論である。

「體(たい)なくして、苦愁(くしう)、隙(ひま)なきなり」実体は存在しない(従って原則、目には見えない。前で凝り固まってしまって、しかも仏教で言うような四大素に還元されることもない。何でもいいが、崑崙のいう鬼神とは煩悩のような観念の実体物があるとして、それが徹底的に凝縮凝集して点のような存在になるというのだろうか?)状態で、しかしその苦しみや憂いはその時空間の中に隙間なくみっちりと詰っている。点でなければ、パラレル・ワールド、かの「餓鬼草紙」のようなものか?

「後(のち)、生(せい)を願ふ者」輪廻転生。

今、貧賤下愚(ひんせんかぐ)」最初の謂いと合わないし、致命的な論理矛盾をきたすから、見え見えの謙辞である。

「生人(せいひと)」現に生きているこの世界の人々。国名の後を「ひと」と読む漢文調の読みを洒落たものか。

「今の生(せい)を守り得る時は、死もまた、安然として、迷ふ所なく、豈(あに)大悟の人に異(こと)ならんや」この崑崙の言葉は実に清々しい。有象無象の宗教家の話より、百倍、身に沁みた。]

北越奇談 巻之四 怪談 其八(崑崙の実体験怪談)

 

    其八

 

 世に幽㚑の怪談、甚だ多しと雖も、諸國・古今(こゝん)、皆、相類(あいるい)するの話のみにして、いまだ真(しん)とすべきの説を撰(ゑら)ばず。

 壯年の頃、池端(ちたん)に居(きよ)ありし時、田間(でんかん)十余町を隔(へだて)て圓福寺(えんふくじ)といへる禪院あり。

 五月半(なかば)の頃ならん、終日、爰(こゝ)に遊び、夜(よ)いたく更けて歸り來(きた)るに、連日の梅雨(ばいう)、小川の水、增(ま)さり、橋、已に落(おち)て、如何ともすべきやうなし。依(よつ)て、寺の後(うしろ)に戾り、橋と成して渡るべき物やあるや、と尋(たづぬ)るに、杉の森深く、古墳累々と、只、數十(すじう)の卒都婆(そとば)あるのみ。其中(そのうち)、大なる卒都婆に對して独言(ひとりごと)して曰(いわく)、

「亡者(ぼうじや)、我、今、此卒都婆を借り、橋と成し、渡らんとす。明日(めいじつ)、必ず、洗い淸めて、返すべきぞ。」

と、云終(いへおはり)て、遂に其卒都婆を拔き持ちて、先(さき)の小川に至り、是を打渡(うちわた)して、家に歸りぬ。

 扨、明くる日、乙地松原(おとちまつばら)と云へる本道より、かの寺に至り、終日、又、遊び暮らして、遂に卒都婆を返すことを忘れ居(い)たり。

 さて、水も引きたれば、其夜、人、靜まり、獨(ひとり)、かの裏道より歸り、小川のもとに至りたれば、忽(たちまち)、其卒都婆を見て、亡者に約せしことを思ひ出し、終(つい)に卒都婆を水に洗ひ淸め、是をかたげて、寺の後(うしろ)、杉林の中(うち)、墓所に至る時、提灯(てうちん)、已に消へて、咫尺(しせき)もあやなき暗夜(あんや)なれば、何處(いづく)を元の墓所とも辨(わきま)へがたく、だんだん、手探りに石碑(せきとう)・地藏の頭(あたま)なんど、撫囘(なでまは)し撫囘し、かの卒都婆の拔けたる跡を探し求(もとむ)れど、數百(すひやく)立並(たちなら)びたる墳墓なれば、更に其所(そのところ)に尋ね當たらず。已に時移り、心、倦(うみ)て、忙然(ぼうぜん)と立居(たちゐ)しが、獨り言に戲(たはむ)て曰(いわく)、

「亡者、卒塔婆を返す。受取給へ。」

と、其言葉、いまだ終はらざるに、其間(そのあいだ)、六尺あまりも先ならん、墓のうちより、陰火(ゐんくは)、忽然と燃上(もえあが)りて、卒塔婆を拔きたる跡、明かに見へ渡りぬ。

 驚き、かの卒塔婆を元のごとく立(たて)、合掌一拜すれば、陰火、消え失せて、又、うば玉の暗(やみ)とはなりけり。

 誠に無鬼論の説はあれども、遊魂の怪、如ㇾ此(かくのごとし)。

 

[やぶちゃん注:驚天動地! 筆者橘崑崙茂世自身の真正の怪異体験談である!

「池端(ちたん)に居(きよ)ありし時、田間(でんかん)十余町を隔(へだて)て圓福寺(えんふくじ)といへる禪院あり」遂に壮年期の彼の、池の端にあった家を地域限定出来る記載に辿り着いた。この寺は現在の新潟県長岡市寺泊上荒町一六一三に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)である。十三町は千四百十八メートルであるから、概ねこの寺の半径千五百メートル圏内に崑崙の寓居はあったと考えてよかろうこの寺は寺泊港の直近であるから、西北方向は海である。ここから一・五キロメートルの半円を描くと、東北方向は「寺泊磯町」、真東は地図上の「寺泊名子山」の地名の字の頭の位置、南西方向は「金山海水浴場」と「寺泊長峯」及び「寺泊金山」を頂点とした三角形の中央附近となる。この圏内には池塘と思しいものが地図上で現認出来るものだけでも十五以上存在する(なお、画面を航空写真に切り替えて現在の円福寺を拡大してみると(これ)、まさに寺の真後ろ(東北)が墓地となっていることが判る)。さて以上の条件に加えて、

①この寺から崑崙の池端の家に帰る際には、格好の近道があり、そのルートには卒塔婆を渡して渡れるぐらいの小川がある。

②近道をしないならば、その小川を通らずに(或いはその小川にしっかりした橋が架かっているのを渡って)円福寺に行ける行き来する「本道」ルートが存在する。

③その近道をしない「本道」ルートは当時、「乙地松原(おとちまつばら)」と呼ばれていた。

という事実を重ねれば、崑崙の住まいは限定出来る、と思ったのだが、そうは問屋(といや)は卸さなかった。まず、①がよく判らぬ。国土地理院の地図を見ると、円福寺の墓の北近くには川があることが判る(ここ)が、これと限定は出来ない。後で述べる寺泊松沢町で国道に合流する県道二二号の合流点の少し手前(円福寺方向)にも小川があるからである(ここ)。②・③の「乙地松原(おとちまつばら)」という「本道」ルートが、これまた分らぬ。現在の海岸線を走る北陸道(国道四〇二号)か、それに並行して内陸を走る街路がまず「松原」という名称から想起されるのであるが、寺泊松沢町で国道に合流する県道二二号も排除し難いからである。但し、これらを並べて考えてみると、崑崙の寓居は円福寺の東の県道二二号方向ではないのではないかという推理は出来る。何故なら、このルートでは現行の地図を見る限りでは、本道も近道なるものも、円福寺に向かっては、まず、距離に有意な差を認め得ないからである。そうして、改めて池を考えてみる。すると、俄然、南西方向よりも北東方向に目が行く。私は彼が近道としているのは、円福寺の裏手の東側の峰の下を東へ回り込むルートではないかと推理した。そうして崑崙の家は現在の寺泊上田町の東の内陸にある池(グーグル・マップ・データでは大きな二つと小さな一つの計三つがある。ここの近くではないか? という候補を立てたいのである。実はここは崑崙が本書でしばしば言及して来た旧「円上寺潟」の南西の比較的近くにも当たるからでもある。更に言い添えておくと、試みに実測してみると、この三つの池へ北陸道辺りを北上して東に折れるとなると二キロメートル強、私の考える近道を通ると、一・五キロメートルほどで着けそうだ。たいした近道ではないにしても、夜の夜中にはなるべく早く帰りたいことを考えれば、五百メートルは立派な「近道」である。大方の御叱正を俟つ。なお、この寺について、野島出版脚注には、『一寺泊に在り。医王山と号す。往昔天宗にて、今は曹洞宗なり。佐藤荘司が妻其の子兄弟の別を悲しみ、此の寺に來り、二子の石塔を立つ。老尼及兄弟の牌あり。老尼の戒名、宝鏡院玉泉栄妙照。嗣信の戒名、忠叟道信。元暦元年甲辰三月十一日。忠信の戒名、正応常信。文治二年丙午二月六日(越後野志)』とある【2017年8月31日追記】が、これは誤認である後述する新潟県新発田市下中ノ目の曹洞宗円福寺が正しい)。因みに、この「佐藤荘司」は佐藤基治(永久元(一一一三)年?/永久三(一一一五)年?~文治五(一一八九)年?)のこと。奥州信夫郡(現在の福島県福島市飯坂地区)に勢力を持った武将で、源義経の従者として凄絶な死を遂げた佐藤継信(屋島の戦いで戦死)・忠信(潜伏していた京の中御門東洞院で自害。「狐忠信」のモデルとして知られる)兄弟の父。ウィキの「佐藤基治」によれば、『歴史学者の角田文衛によると、当時としては珍しい佐藤一族の義経に対する熾烈とも見える忠節は、君臣の関係だけでは説明がつきにくく、義経が平泉時代に迎えた妻は、佐藤基治の娘であったのではないかとする説を唱えている』。新潟県公式観光情報サイト「にいがた観光ナビ」の同寺の解説には、曹洞宗で延長六(九二八)年『開創、開基は観辨。境内には、源義経に伴い』、『平家討伐に従軍したわが子を慕って寺泊まで訪れてきた音羽の御前が、わが子の冥福を祈るため建てられた石塔』二『基がある。この時、埋葬した鏡、数珠、懐剣、外器は、町文化財に指定されており、同寺が所蔵している』。この「音羽の御前」は「乙和子姫」で、基治の継室(奥州藤原氏初代当主藤原清衡の四男で第二代当主藤原基衡の弟である藤原清綱の娘とされる)で継信・忠信兄弟の実母。【2017年8月31日追記】前の「巻之一 鬪龍」の「池端」の注追記で示した通り、H・T氏の考証により、私の位置認識が全く以って誤っており、これは新潟県新発田(しばた)市池ノ端(いけのはた)ここ(グーグル・マップ・データ))であることが判明した。H・T氏はさらにここでの私の見当違いについて、この「圓福寺(えんふくじ)」は寺泊のそれではなく、新潟県新発田市下中ノ目にある曹洞宗円福寺(ここ(グーグル・マップ・データ))であり、ここは、かの池之端陣屋のある池端から南西方向に一キロメートル程度である旨を御教授戴いた。

 そこで改めて、ここの地図上で①②③を検証してみることにした。まず、③の「本道」ルートが当時は「乙地松原(おとちまつばら)」と呼ばれていた事実に基づき、地図を調べてみると、俄然、目が止まった。

円福寺を実測八百メートルほど南に下ると、現在の国道四六〇号にぶつかるが、その交差点の名は「乙次」である。この交差点の南西を除く一帯は現在の新潟県新発田市乙次(おとじ)である。「乙地(おとち)」と似ている。

ここは現在の新潟県新発田市と同県柏崎市とを結ぶ道で、羽越本線とも並走しているから、当時のしっかりした地方街道と見て問題はなく、とすれば「松原」という名もしっくりくる

さて、池端のどこに崑崙の寓居があったかは定かでないが、仮に池之端陣屋があったと思われるこの中央附近(ヤフー地図)をそこに仮定するならば、現在の国道四六〇号の「池ノ端交差点」を経て円福寺に行くとなると、東南に下った後、現在の「池ノ端交差点」付近から大きく南西に下って、そこからさらに大きく北上せねばならない。その距離は凡そ三キロメートル弱にもなる。

しかし、円福寺から東北にそのまま直進すると、地図上では、この附近までは約一キロメートルである。この陣屋に崑崙の住居があったとするなら、当然、この近道を使いたくなるはずで、これは①に合致する。崑崙は寓居と円福寺の距離を「十余町」としている訳だが、これを「十町ほど」の意味でとるなら、一キロ九十メートルほどとなり、やはり一致するとも言える。しかもこの近道は現在の航空写真を見ても、まさに「田間」なのである(これ(グーグル・マップ・データ))。なお、現在の円福寺は裏手と横(東)に墓地がある(但し、裏手のそれは山を切り崩して新墓地として造成したようにも見えるが、或いは旧方丈の位置は異なっていて、現在の横手が裏であったのかも知れない)。

但し、その間には現行でも二本の小さな川が存在する(街道にも二本の川(一本は同じで、今一本はその二本の川の一つが合流した、より大きなもの)のがあるが、この二箇所は街道なら橋があったと想定してよいであろうから、②に合致すると言える)。

 以上、情報をお寄せ下さったH・T氏に改めて謝意を表するものである。]

北越奇談 巻之四 怪談 其七(舟幽霊)

 

    其七

 

Hunayuurei

 

[やぶちゃん注:葛飾北斎の舟幽霊(ふなゆうれい)の挿絵。右上に白抜きで、「船頭孫助 洋中にたゞよひて 幽霊舩を見る」とキャプションがつく(原画はもっとはっきり見え、引用元の野島出版版でもよく抜けているのであるが、これを画像ソフトでよく見えるようにすると、全体の白のエッジが荒くなるのでやめた)。この絵は原典では(リンク先は例の早稲田大学の画像)見開きで左右二枚なのであるが、この絵は私の大のお気に入りの一枚で、なんとか合成を試みてみた。但し、私のちゃちなソフトは斜度を微妙に調整することが出来ず、右画像の傾きをどうしても補正しきれなかったため、絵自体を切り取ることなく、不自然な部分を隠すために、一部の箇所を黒で塗り潰したり、白で抹消してある。御寛恕願いたい。原画を見て戴くと判るが、北斎のダイナミックな筆致は私の合成の方が遙かに伝わってくると思う。]

 

 海上(かいしよう)の奇は、はかり難し。その中(うち)、幽㚑舟(ゆうれいぶね)と云へる事、常に人の物語る所なれども、去(さる)宝暦(ほうりやく)の秋、五ケ濱、船頭孫助と云へる者、水主(かこ)共に七人乗(のり)、順風に帆を張りて、松前を出(いで)、三日と云へるに、佐州の沖、越後新泻を巽(たつみ)の方(かた)に見なしたる頃、俄(にはか)に、逆風、落(おち)來たり、裏帆(うらぼ)、引絞(ひきしぼ)りて、舩(ふね)、已に、覆(くつがへ)らんとす。舟子(ふなこ)、慌(あは)て、立騷(たちさは)ぎ、

「荷物を打(うて)。帆柱、伐(き)らばや。」

なんど、狼狽𢌞(うろたへまは)るに、ほどなく、怒浪(どらう)、山のごとく、打重(うちかさ)なりて、頂(いたゞき)の上に崩れかゝり、忽(たちまち)、艫(とも)、裂け、舳(へ)、碎けて、六人の者共(ものども)、海底の魚腹(ぎよふく)に葬らるゝこととは、なりぬ。

 しかるに、船頭孫助一人、波上(はしよう)に浮出(うかみいで)たる折節、舟の破(やぶ)れ裂けたる板一枚、長(たけ)二尺ばかりなるが、手に觸(さは)りたり。孫助、嬉しく、浮木(うきゞ)の亀(かめ)と、これに取附(とりつ)き、一息つきて、

「助け舟やある。」

と見圍(みまはせ)ども、日は巳に暮果てたり。

 風雨、目口を開き難く、鯨浪(おほなみ)、千尋(ちひろ)の底より湧き返りて、咫尺(しせき)も分かたぬ暗夜(あんや)成(なれ)ば、何(いづ)れを佐州、何れを越後の方(かた)とも知らざれば、志(こゝろざ)して泳ぎ寄るべき便(たよ)りもなし。然れども、

「もしや、命(いのち)の助かることもや。」

と、心中に金毘羅宮を念じ、伊夜日子(いやひこ)に立願(りうぐはん)して、只、一片の薄板(うすいた)を力に、何處(いづ)くともなく漂居(たゞよへゐ)しが、大波、頻りに打ち疊(たゝ)みて、水底(みなそこ)に沈むと思へば、又、浮(うか)み、心も共に、消へ果てぬべく見へし折りしも、忽(たちまち)、沖の方(かた)より、大勢の立騷(たちさは)ぐ音して、手(て)ん手(で)に、

「……柱……伐れ……荷を……打て……楫(かぢ)……直(なほ)せ……」

なんど、呼(よば)はり呼はり、其船、已に程近く來たりたれば、孫助、嬉しく、

「何卒(なにとぞ)して、此舟に助け乘せ給らばや。」

と、波間より、顏、差し出だして、これを見れば、其舟、既に、半(なかば)、裂け碎けたるがごとく、十人ばかりの舟子(ふなこ)、左右に立騷(たちさは)ぐ有樣(ありさま)、さらに生(いけ)る人とも、覺へず。

 面(おもて)、靑褪(あをざ)め、瘦衰(やせおとろ)へたる姿、文目(あやめ)も知らぬ闇なれども、影のごとく、仄(ほの)見へて、右の方(かた)を漕(こぎ)通り、瞬(またゝき)の間(ま)に、數十丁(すじつてう)、行過(ゆきす)ぎたりしが、忽、一同に、

「……ッ……」

泣叫(なきさけ)ぶ声して、其舟、ぐはらぐはら、と、打碎(うちくだ)け、書消(かきけす)ごとく、形(なり)失せて、荒波、どうどうと、鳴渡(なりわた)る声のみなり。

「扨は、幽㚑のものなるべし。」

とて、心に佛神を念じ、漂(たゞよ)へ居(ゐ)るうちに、又、初めのごとく、立騷ぐ音して、声々(こへごへ)に呼はり呼はり、其舟の碎けたる所に至りては、忽、泣叫びて消失(きへう)せぬ。如ㇾ此(かくのごとく)なること、幾度(いくたび)と云ふことを知らず。

 見るに、魂(たましゐ)、飛び、心、消ゆるがごとし。

 已にして夜も明渡(あけわた)れば、雨風、少し止みたれども、助かるべき舟も、あらず。

 何(いづ)れを目當(めあて)の山本(やまもと)とも、更に見へ分(わ)くことなければ、次(しだい)に波に揉まれ、潮に引かれて、淼渺(びやうびやう)たる蒼海(さうかい)に漂へ居(ゐ)ること、二日二夜(よ)なり。

 漸々(やうやう)、波風、鎭(しづ)まり、空、少し晴(はれ)たれども、身力(しんりよく)疲れ、目も眩(くら)みて、何(いづ)く共、浦・山を辨(わきま)へ難く、又、餓渴(うへかは)きたれども、口に味(あぢは)ふべき物もなく、已に命も絶入(たへいり)ぬべき所に、何(なに)とも知らぬ藁苞(わらづと)一ツ、波に搖れて流れ來(きた)れり。

 孫助、漸々(やうやう)に是を取り、開きて見るに、赤き蕃椒(とうがらし)二蔓(つる)あり。即(すなはち)、是を食するに、さらに辛(からき)とも覺へず。腹の空(すき)たるまゝに十ばかりを食しければ、忽、餓(うへ)を凌(しの)ぎ、心力(しんりよく)、爽(さは)やかなることを覺へて、其餘(そのあまり)を首に掛け、餓へる時は、一ツ二ツを食し、遂に三日に及びける。

 朝(あさ)、佐州の方(かた)より、船一艘、帆を張りて來(きた)れるあり。あまりに嬉しく、舟の向(むか)ふ方(かた)を心掛(か)けて、身力を盡して游(およげ)ども、渺(びやう)たる海上、只、一ツ所に居(ゐ)るがごとし。

 漸く、船近くなるほどに、頻りに声を立(たつ)れども、音、嗄(か)れて、不出(いでず)。

「如何(いかゞ)はせん。」

と、悶(もだ)へ苦しみたりしが、忽、一計を思ひ出(いだ)し、かの藁苞を手に差し上げて、舟の方(かた)を招きければ、かの舟の親父、是を見付(みつけ)、

「何樣(なにさま)、人のわざならん。」

と帆を下げ、櫓を押して漕ぎ來り、竟(つゐ)に孫助を引上(ひきあ)げ、樣々(さまざま)に介抱し、身を(あたゝめ)、粥(かゆ)など勸(すゝ)め、勞(いたは)りければ、漸(やうや)く、言語(げんぎよ)分かり、始(はじめ)よりの艱難(かんなん)を物語るに、舟の者ども、大に驚き、

「まことに命(いのち)強き人かな。」

とて、終(つゐ)に、是を送りて新泻に到りぬ。

 寛政丑(うし)の春、かの地に至りて、數日(すじつ)、逗留せしに、ある日、七十ばかりの老人來りて相見(あいまみ)ゆ。宿の主(あるじ)、此老人を指(ゆび)さして、

「此翁こそ、かの命強(いのちづよ)き人なり。」

とて笑ひぬ。其實(じつ)を問(とふ)に、かの老人の曰(いはく)、

「咄(はな)し候は、いと安く侍れども、其艱難を話す每(ごと)に、身の毛、よだち候。まゝ、身(み)の毒と存じ、其後(そのゝち)は不語(かたらず)。」

と云へり。

 今(このとし)、已に七十三歳とぞ。

 誠に命(めい)は天にあるものか。

 

[やぶちゃん注:舟幽霊の台詞を生者と区別するため、鍵括弧内に「……」を挿入して示した。

「宝暦(ほうりやく)」一七五一年から一七六四年。本書の刊行は文化九(一八一二)年春であるから、そこからなら、四十八年前から六十一年前であるが、最後で、崑崙はこの主人公孫助に直接会ったのを「寛政丑(うし)の春」としており、これは寛政五年癸丑(みずのとうし)であるから、一七九三年で、そこからだと、二十九年前から四十二年前となる。また、その時、孫助は数え「七十三歳」であったとあるから、この孫助は享保六(一七二一)年生まれであることが分かり、事件当時は満で、三十歳から四十三歳の間であったことになる。

「五ケ濱」現在の新潟県新潟市西蒲区大字五ケ浜(ごかはま)。ここ(グーグル・マップ・データ)。佐渡島を望む陸の孤島とも称された地で、かつては漁業や入浜式塩田で栄えたらしい。後に北海道(後注参照)への移住者いることが、個人ブログ「ペタンク爺さん」のこちらで判り、そこに地名について、日蓮の佐渡流罪の際、『彼を護送して佐渡に渡った中に、遠藤左衛門尉藤原正遠』がおり、その子孫は十一代まで佐渡に在住し、十二代の『遠藤冶部左衛門定通の時に五ヶ浜に移住して、代々庄屋を勤め』たとする。移住当時、この地には五ヶ所に村があって、それらの総家数は六十軒ほどであったが、この定通が、その五ヶ村を一村に纏めて、『「五ヶ村」と名づけて村方取立てを申し出たものと伝えられて』い』るとある。この「命強き」「孫助」も「遠藤」姓だったら面白い。

「船頭」ここは、和船で船に乗り組み、指揮をとる船長(ふなおさ)のこと。

「水主(かこ)」下級船員のこと。後の「船子」も同じ。

「松前」北海道渡島(おしま)半島南端にある町。十五世紀半ばに武田信広が、この地を平定して第五代慶広が福山城を築いて、松前氏を称して城下町とした。江戸時代は蝦夷(えぞ)地経営の中心地となった。

「佐州」佐渡国。佐渡島。

「巽(たつみ)」東南。この時の孫助の舟の位置はここ(グーグル・マップ・データ)の中央付近と思われる。

「俄(にはか)に逆風落(おち)來たり、裏帆(うらぼ)、引絞(ひきしぼ)りて、舩(ふね)、已に、覆(くつがへ)らんとす」野島出版版は「來たり」で句点とするが、ここは急に落ち来たった強烈な逆風(この場合は南西の風と読める)が、帆を裏側にしてすっかり引き絞ってしまって(巻き上がってしまって)、帆走不能となり、バランスを崩して船が沈みかけたというのであるから、ここは読点とすべきである。なお、この船は西廻廻船で、船の種類は所謂、「弁才船(べぜざいせん)」である。これは和船の一つで、江戸時代の海運の隆盛に対応して全国的に活躍し、俗に「千石船」とも呼ばれた典型的な和船である。船首の形状や垣立(かきたつ:和船の左右の舟べりに垣根のように立てた囲い。かきたて)に特徴があり、一本の帆柱に横帆一枚をつけるだけながら、帆走性能や経済性に優れた。菱垣(ひがき)廻船・樽(たる)廻船・北前船なども、総て、この形式を用いた。

「荷物を打(うて)」「荷物を海に投げ捨てよ!」。バランスを崩した上に、船内の荷が一方に片寄れば、転覆を早めるからである。

「帆柱、伐(き)らばや」船主である孫助に水主(たちが)「帆柱を伐っておくんなせえ!」と懇願しているのである。山田淳一氏の論文「弁才船の漂流――なぜ帆柱を切ったのか――」(PDF)によれば、弁才船は帆柱の横揺れによって致命的に破損する構造であったからであるとある。この論文、実に素晴らしい(特に冒頭の部分の、何故、帆柱を伐ったかについての他の諸説もそれぞれに納得が出来た。特に、伐らないと、荷を故意に捨てたと疑われた、というのは意外な事実可能性の一つであった)必見にして必読!

「浮木(うきゞ)の亀(かめ)」「盲亀(まうき(もうき))の浮木(ふぼく)」と同じい。大海中に住んでいて百年に一度だけ水面に浮かび出てくるという目の見えない亀が、たまたまそこに浮き漂っていた流木に遭遇し、しかもそこに開いた小さな穴からたまたま頭を出す、という「涅槃経」にある「人として生まれて真の仏説に出会うことが非常に稀れなことあること」の譬え話に基づき、「滅多に会えないこと」を言う。

「咫尺(しせき)も分かたぬ」「咫尺」は「史記」の「蘇秦傳」に拠る語で(「セキ」は漢音)、「咫」は周尺の八寸(十八センチメートル)、「尺」は一尺(二十二・五センチメートル)であって、相対距離が非常に短いこと、対象との距離が極めて近いことであるから、眼と鼻の先にな何かあっても全く見えない、判らないの意。

「金毘羅宮」香川県仲多度郡琴平町にある金刀比羅宮(ことひらぐう)。当時は真言宗象頭山松尾寺金光院で「象頭山金毘羅大権現」と呼ばれたが、悪名高き明治の廃仏毀釈によって現在の神社となった。古くから海上交通の守り神として全国的に信仰されており、今も漁業や船員などの海事関係者の崇敬を集めている

「伊夜日子(いやひこ)」多数回既出既注の新潟県西蒲原郡弥彦(やひこ)村弥彦にある彌彦(いやひこ)神社。祭神の天香山命(あめのかごやまのみこと)は社伝によれば、越後国開拓の詔によって越後国の野積の浜(現在の長岡市)に上陸して地元民に漁撈・製塩・稲作・養蚕などの産業を教えたとされる。このため、越後国を造った国造りの神として弥彦山に祀られ、「伊夜比古神」として崇敬された。「越後国一の宮」とも呼ばれる。神社の後背地である弥彦山(やひこやま)は標高六百三十四メートルであるが、海岸線に近く、漁師の海上での目安ともなるランドマークでもある。

「數十丁(すじつてう)」十町は約千九十一メートル。私は不定数を示す「数」は必ず六掛けを基本としているので、遠過ぎる。ここはせめて「十數町」とすべきところである。

「淼渺(びやうびやう)」既出既注。水が広く限りのないさま。

(あたゝめ)」温め。暖かくしてやり。野島出版脚注では、『アテ字であろう』としているが、この字は正しく「冷えたものを温める」の意である。

「言語(げんぎよ)」読みは原典のママ。]

2017/08/25

北越奇談 巻之四 怪談 其六(夜釜焚)

 

    其六

 

 夜釜焚(よがまたき)と云へること、小児(しように)の御伽話とのみ心得たるに、近來(きんらい)、猶、此怪あり。頸城郡高津村塩坪(しほつぼ)、某(それがし)が家來、夏の夜、遠く遊びて、子(ね)の時過ぐる頃、獨り歸り來(きた)るに、村の端(はし)四ツ辻の邊(ほと)りに、靑き火、忽(たちまち)、燃へて、又、消ゆる。如ㇾ此(かくのごとく)なること、數度(すど)。彼(かの)男、思ひらく、

「朋友、未(いま)だ凉み居(ゐ)るならん。」

と。却(かへつ)て、是を戲(たはむ)れ驚(おどろか)さんがために、拔き足して、密(ひそか)に窺(うかゞ)ひ見れば、隣家某(それがし)の二男(じなん)なり。

 両の脚を組み、手を以(もつて)膝を抱(かゝ)へて、俯(うつふ)き、地上に坐(ざ)し、その両足の間より、とろとろと、靑き火、燃出(もえいづ)ること、一尺ばかり。面色(めんしよく)、甚だ靑ざめ、皮肉、瘦せ衰へたり。

 かの男、あまりに驚き、

ッ。」

声を出(いだ)せば、化物、顏を擧げ、彼(かの)男を見て、莞爾(につこと)笑ひ、忽(たちまち)、消え失せて、見へず。

 かの男、慌(あは)て、走り歸りて臥しぬ。

 扨、翌朝(よくてう)、未だ漸々(やうやう)明白(あけしら)みたる頃、主人、是(これ)に命じて、馬(むま)の草を苅(から)しむ。

 かの男、起出(おきいで)て、鎌など携へ、山岨(やまそは)の草野に至り見れば、細川(ほそがは)を隔(へだ)て、早く來り、草を苅る者あり。

 彼(かの)男、細川を一飛(ひととび)にして、

「誰(たれ)ぞ。」

と聲をかく。

 其人、後(あと)へ振り向きたる顏を見れば、昨夜の辻に火を焚(たき)たる男なり。

 あまりに打驚(うちおどろ)きて、ものも云はず立(たち)たれば、其者の云へるは、

「必(かならず)、昨夜のこと、人に談(かた)りてたもるな。」

と。

 此(この)一言(いちごん)に、再び、心、驚きて、逃げ歸りけるが、それより、病(やまひ)に臥し、不ㇾ起(たゝざる)こと、十日餘り、遂に其村に居(お)ること、不ㇾ能(あたはず)、主人に暇(いとま)を乞ふて、己(おのれ)が里に歸りぬ。

 同(おなじく)、大光寺村(たいくはうじむら)、鍛冶(かぢ)、某(それがし)の母、近來(きんらい)、此怪、ある事、まゝ見當たりたる人、夛(おほ)し。

 凡(およそ)、此怪ある人は、三年ならずして、必(かならず)、神氣(しんき)衰(おとろ)へて、死す。

 總て、此邊(このへん)、南山(なんざん)に續き、畑(はた)の土に交(まじは)り、石鏃(やのねいし)・雷斧(らいふ)。石鐱(せきけん)等(とう)を出(いだ)すこと、夛し。去年の去年(こぞ)の春、此地に到り、見るに、昔、兵火(ひやうくは)のために燒(やか)れたる戰塲(せんじやう)と覺へて、燒石(やけいし)・瓦・土器物(どきぶつ)など多し。然(しか)れば、是を按ずるに、此怪も「傳尸勞(でんしろう)」の類(たぐひ)にして、苦愁(くしう)の㚑鬼(れいき)、緣(えん)に乗(じよう)じ、人に付(つい)て、此(この)怪崇(くはいそう)を成すか。不思義なりし一奇なり。

 

[やぶちゃん注:「夜釜焚(よがまたき)」新潟県で伝承される妖怪とされ、夜道に胡坐(あぐら)をかいて座っている化け物で、その組んだ足の間から青白い火が立ち上るとされる、と「大辞泉」にはあるのだが、「日本国語大辞典」には載らないし、私の所持する複数の妖怪関連の学術的民俗学書にも出ない。不思議。この事実自体が、奇怪だ!

「頸城郡高津村塩坪(しほつぼ)」不詳。新潟県上越市高津附近か?(グーグル・マップ・データ)。

「子(ね)の時」午前零時。

「山岨(やまそは)」現代仮名遣「やまそわ」。山の険しい所。切り立った崖。

「大光寺村(たいくはうじむら)」「巻之二 俗説十有七奇 (パート1 其一「神樂嶽の神樂」 其二「箭ノ根石」(Ⅰ))」で既出既注。旧中頸城郡内。現在位置不詳。識者の御教授を乞う。但し、一つ言えることは、後で実地調査をした崑崙が、「此邊(このへん)、南山(なんざん)に續き」(この「南山」は越後の南の山地・山脈の意であって固有名詞ではあるまい)とあることで、この「此邊」とは主な話柄の舞台である頸城郡高津村塩坪と、この大光寺村が近いことを意味していると考えられることである。推定比定した高津の南東は山岳地帯であるからである。

「鍛冶(かぢ)、某(それがし)の母、近來(きんらい)、此怪、ある事、まゝ見當たりたる人、夛(おほ)し」「凡(およそ)、此怪ある人は、三年ならずして、必(かならず)、神氣(しんき)衰(おとろ)へて、死す」前の部分はその妖怪を鍛冶屋の母なる人がやはり目撃したという謂いとしか読めないのであるが、問題は後の部分で、これはその「夜釜焚」を見た人ではなく、それになった人物(本話では隣家の次男)が三年経たぬうちに死ぬ、という意味にしか採れない見た人がそうなってしまうというのなら、かの家来なる男は郷里に帰って三年の内に死んだと記さねばならぬのに、それがなく、大光寺の刀自も死んだとは書いてない。二人とも見たのがこの記載よりも三年未満の前だからだなどと屁理屈を言うなら、これはこいつらも近いうちに死んじまう、というとんでもない不謹慎な怪談になってしまう。崑崙がそんなことを書くはずはない。隣家の次男は実際に三年絶たずして死んだのだろうが、それは過去の事実としてであるのならば、許せるのである。私は昨今の都市伝説の中の「この話を聴いた人間はその霊に遭う」とか「見聞きするだけでとり殺される」的話柄や、心霊写真や動画に於ける「非常に霊障」などという謂いを苦々しく思っている人種である。読んだら、見たら、聴いたら、死ぬかもしれないと恐れさせる怪談は下劣の極みであると断ずる。怪談にも最低の節操が必要であると私は思うのである。

「石鏃(やのねいし)・雷斧(らいふ)。石鐱(せきけん)等(とう)」先に示した「巻之二 俗説十有七奇 (パート1 其一「神樂嶽の神樂」 其二「箭ノ根石」(Ⅰ))」を参照されたい。

「傳尸勞(でんしろう)」漢方で伝染性の慢性的な全身性消耗疾患を指すようである。所謂、「勞咳」=肺結核に類したものを想起してよかろう。隣家の次男の容貌はまさにそれを想起させるではないか。人を含む動物の死骸の中に「」(「虫」或いは悪しき「気」か)なるもの(今の微生物・細菌・ウィルス)がおり、それが人に「傳」染することによって、慢性的な激しい体力疲「」(消耗)を生じさせる死に至る病い、という意味と私はとる。野島出版脚注にも『病名。肺病を云う。死尸の労虫(微生物)によって伝染する病気』とある。

「苦愁(くしう)の㚑鬼(れいき)、緣(えん)に乗(じよう)じ」苦しみ迷っている霊魂或いはそれが変じた鬼神(「石鏃」のところで既に見た通り、崑崙は鬼神の存在を信じている)が、ある不可思議な人智によっては解明出来ない機縁に乗じて。

「付(つい)て」憑依して。

「怪崇(くはいそう)」「崇」はママ(読みがおかしく、歴史的仮名遣なら「くわいすう」である)。「怪祟」(クワイスイ)の誤りであろう。妖しい邪(よこしま)なる現象。]

北越奇談 巻之四 怪談 其五(飯を食われる怪)

 

    其五

 

 地藏堂の西、圓淨湖の邊(ほとり)、七ケ村(しちかむら)と云へる所あり。農夫某(それがし)なる者、秋の半(なかば)過(すぐ)る頃ならん、ある夜(よ)、家人(けにん)、皆、寢(いね)て、獨り、燈(ともしび)の下(もと)に繩を糾(あざ)なへ居(ゐ)けるが、夜、いたく更(ふけ)て、窓にばらばらと雨の一しきりかゝる音を聞く。其後(そのあと)、寂寥(せきりやう)と物凄くなり、終(つゐ)に繩を捨て置き、閨(ねや)に入(いり)て臥しけるが、翌日(あくるひ)早く起出(おきいで)て見るに、その邊(あた)りに、見も馴れざる木(こ)の葉、靑黄(しようわう)、打混(うちま)じりて一箕(み)ばかり有(あり)。如何なるわざとも知ることなし。

 時に其(その)婦(ふ)、飯(いゐ)を炊(かし)ぎ終はりて、家内(かない)打寄(うちより)、食(くらは)んとするに、釜中(ふちう)、飯(はん)、巳に、空(むな)し。家人、驚け共(ども)、其(その)食(しよく)したる者を知らず。

 それよりして、飯(めし)を炊(た)きて、如何にもよく匿(かく)し覆ふと雖も、忽(たちまち)、喰(くら)ひ盡くして、無し。

 如何なるものの成すわざとも目に見ることなければ、力、不ㇾ及(およばず)。

 如ㇾ此(かくのごとく)なること、數日(すじつ)、家にありて食すること、不ㇾ能(あたはず)。

 依之(これによつて)、家内(やうち)、皆、外(ほか)に移り、空屋(あきや)にして、歸らざること、一月餘り。後(のち)、立歸(たちかへ)りて、飯(いゐ)を炊(かし)ぐに、其怪、巳に去りて、元のごとし。如何なるものか、木葉(このは)に駕(か)し來りて、人の食を貪りけん。不思義と云ふも、猶、餘りあり。

 

[やぶちゃん注:前夜の雰囲気と状況証拠から天狗の仕業と思われるから、やはり先行する条々との親和性が窺える。

「地藏堂の西、圓淨湖の邊(ほとり)、七ケ村(しちかむら)」現在は円上寺と書き、その「円上潟」は大方が埋め立てられて現存しないが、附近(グーグル・マップ・データ)。この一帯は、現在、西北の新潟県長岡市寺泊円上寺を始めとした長岡市の寺泊地区、及び、中央付近が新潟県燕市真木山になるのであるが、野島出版脚注に「七ケ村」は『蛇塚村・中曾根村・北曾根村・川崎村・東山村・辯才天村・京ケ入村を云う。明治前は村上領』とあり、地図をよく見ると、「寺泊蛇塚」・「寺泊中曾根」・「寺泊川崎」・「寺泊弁才天」・「寺泊京ケ入」といった地名を現認出来る。「地藏堂」は地名で、大河津分水路の対岸の、現在の新潟県燕市中央地蔵堂である((グーグル・マップ・データ))。に南東を除いて丘陵に囲まれた盆地があり、この話柄のロケーションとしてはしっくりくる。

「寂寥(せきりやう)と」何とも言えず、もの淋しくて。

「見も馴れざる木(こ)の葉、靑黄(しようわう)」今まで見たこともない形の、青葉や黄葉した木の葉。う~む! 如何にも天狗の来訪じゃて!

「一箕(み)」穀類を煽って篩(ふる)い、殻や塵(ごみ)を除く箕一盛り分。

ばかり有(あり)。如何なるわざとも知ることなし。

「不思義」原典のママ。]

北越奇談 巻之四 怪談 其四(初夢怪)

 

    其四

 

 安永の頃、坂屋村貧民某(それがし)の女(むすめ)、同郷、酒造の家に奉公せしが、正月二日の朝、傍輩(ほうばい)に談(かたつ)て云ふ。

「今曉(こんきやう)、夢に、大船(たいせん)、帆を張りて我(わが)閨(ねや)の窓の下に着き、其帆柱の上、白き鷹一ツ、止(とま)りてありしが、飛(とん)で懷(ふところ)の内(うち)へ入(いり)たり。」

と云へり。

 皆々、聞(きゝ)て、其夢の吉(きつ)ならんことを祝す。

 かの女(むすめ)、喜んで笑(ゑみ)を含み、火箸にて、炉(ろ)の灰を搔き均(なら)すに、忽(たちまち)、錢(ぜに)二百文あり。

 主人、怪みて、

「かの女(むすめ)の盜み匿(かく)せるならん。」

とす。

 巳にして、又、二百文を灰の中(うち)より出(いだ)す。

 家人(けにん)、大きに怪しみ、皆々、炉中(ろちう)に求(もとむ)れども一ツもあることなし。

 かの女(むすめ)、火箸を執れば、忽然として、錢あり。

 それより、女(むすめ)、袂(たもと)を探(さぐ)れば、錢あり。懷を開けば、即(すなはち)、錢あり。至る所、皆、自然に錢ありて不ㇾ絶(たへず)と。

 主人、その怪を憎み、親の元に歸す。

 女(むすめ)、家に至る時、已に錢十五貫文を得(う)。

 人、皆、怪しみて抱(かゝ)へず。

 依(よつ)て、新潟他門(たもん)、舟問屋(ふなとひや)某(それがし)の家に奉公す。

 一日、塵(ちり)を川岸に捨(すつ)るに、忽(たちまち)、紙に包みたる物あり。取上(とりあ)げて、これを見れば、遺金(いきん)三十五両なり。

 終(つゐ)に捨(すて)たる主(ぬし)なし。

 是(これ)を以(もつて)、他の家(いへ)に嫁(か)して、今、猶、富(とめり)。

 是等(これら)は誠に奇怪はかりがたき事どもなり。

 

[やぶちゃん注:初夢の吉夢に始まる奇談。ウィキの「初夢によれば、文献上の「初夢」の初出は西行の「山家集」とし、室町時代頃からは吉夢を見るために『七福神の乗っている』宝船の絵に「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな(長き夜の 遠の眠りの 皆目覺め 波乘り船の 音の良きかな)」『という回文の歌を書いたものを枕の下に入れて眠ると良いとされ』、それでも『悪い夢を見』てしまった場合は、翌朝、その『宝船の絵を川に流して縁起直しを』したという。知られた吉夢のアイテムに江戸初期には既に形成されていたと思われる「一富士二三茄子」があるが、『それぞれの起源は次のような諸説がある』。

   《引用開始》

徳川家縁の地である駿河国での高いものの順。富士山、愛鷹山、初物のなすの値段

富士山、鷹狩り、初物のなすを徳川家康が好んだことから

富士は日本一の山、鷹は賢くて強い鳥、なすは事を「成す」

富士は「無事」、鷹は「高い」、なすは事を「成す」という掛け言葉

富士は曾我兄弟の仇討ち(富士山の裾野)、鷹は忠臣蔵(主君浅野家の紋所が鷹の羽)、茄子は鍵屋の辻の決闘(伊賀の名産品が茄子)

   《引用終了》

とあり、実は四番目以降も存在し、『四扇(しおうぎ、よんせん)、五煙草(多波姑)(ごたばこ)、六座頭(ろくざとう)』で、これは「俚言集覧」に記載があり、こちらは『一説として、一富士二鷹三茄子と四扇五煙草六座頭はそれぞれ対応しており、富士と扇は末広がりで子孫や商売などの繁栄を、鷹と煙草の煙は上昇するので運気上昇を、茄子と座頭』『は毛がないので「怪我ない」と洒落て家内安全を願うという』。他にも、この四又は五を「葬式・葬礼」「雪隠・糞」「火事」とするものがあるとする(不吉な葬儀や火事及び不浄の便所や排泄物は逆夢という解釈であろう)。本話柄も、先に述べた通り、心理学的には主人公が思春期の少女である点と最近起ったとされる都市伝説(アーバン・レジェンド)という点で先行する条々と極めて強い親和性を持ち(そうした主人公の「少女たち」の存在を崑崙は明らかに強く意識して書いている)、主人がそれを忌まわしいこととして憎んで追い出してしまうところには、背後に実際に実は金銭が消えていた(主人のへそくりであるとかして事実は言えない)、或いは、この少女に好色の主人や馬鹿息子が懸想して与えた金だったりする……という現実的解釈は、これ、無粋なのでこれで止めておこう。

「安永」一七七二年から一七八一年。

「坂屋村」不詳。新潟県新潟市江南区に酒屋町なら現存する。(グーグル・マップ・データ)。

「錢十五貫文」既に述べたが、一貫は正規には銭千文を指すが、江戸時代は実際には九百六十文が一貫とされた。しかし、としても、一万四千四百文で、江戸後期の一両は十貫文であるから、十五貫文で一両半、当時の平均的物価からは現在の七万五千円ほどにはなろうか。火鉢の灰の中からこれだけ出てくるというのは、まさに「奇怪」である。だからこそ、私は背後に男女の饐えた体臭を嗅ぎつけるのである。

「新潟他門(たもん)」新潟県新潟市北区葛塚上他門があり、これは新井郷川(にいごうがわ)の右岸地区であり、同じ川の少し下流の左岸にはバス停で「他門大橋」を認めるから、「舟問屋(ふなとひや)」とは親和性がある。(グーグル・マップ・データ。右上中央に「上他門」)。

「遺金(いきん)」お金の落し物。

「三十五両」これはもう尋常な金額ではない。先の換算(一両=五万円換算)で百七十五万円!]

仙人芝居夢

僕は最初に勤めた柏陽高校の夜の校舎内で、懐かしい女生徒たちと演劇の稽古をしている。

[やぶちゃん注:僕は実際、二十九の頃、私が教えた同校の演劇部OBたちの作った「蒼鷗舎」に参加し、新宿で清水邦夫の妖しい芝居を演じたことがある。驚天動地、それは素人劇団の旗揚げ公演であったが、何と、黒字であった。]

それは妖しい仙人の芝居であった。

主人公は「呂洞賓(りょどうひん)」で、副主人公は「李鉄拐(りてっかい)」(二人とも男であるが、演じているのは女生徒である)私はそれに絡む三人目の「費長房(ひちょうぼう)」役である。

しかし、困ったのだ!
僕は、演技や台詞回しには絶大な自信があるのだが、台詞を覚えていないのである!
明日が公演初日だというのに!
呂洞賓と李鉄拐役の女生徒が呆れ顔で黙って僕を睨んでいる……

[やぶちゃん注:「呂洞賓」は唐末宋初の道士。中国の著名な仙人の名数八仙の一人として知られる。「天遁(てんとん)剣法」と「金丹(きんたん)秘法」を駆使して、民衆の苦しみを救ったとされる人気の高い仙人である。因みに私は仙人フリークである。
「李鉄拐」も八仙の一人で私の好きな仙人。知られたエピソードとしては、『太上老君に崋山で逢うことになり、魂を遊離させ、逢いに行くことにした。そこで、彼が帰ってくるまでの七日間の間、魂の抜けた身体を見守るよう弟子に言いつけ、もし七日経っても帰ってこなければ身体を焼くように言った。しかし、六日目に弟子の母が危篤との知らせを受けて、弟子は鉄拐の身体を焼き、母の元に行ってしまった。鉄拐が戻ってきてみると、自分の身体は既に焼かれていた。彼は近くに足の不自由な物乞いの死体を見つけ、その身体を借りて蘇った』という「借屍還魂(しゃくしかんこん:屍を借りて魂を還す)」で知られる(引用はウィキの「李鉄拐」)。因みに、この「借屍還魂」は後に兵法三十六計の第十四計の戦術名となり、『亡国の復興などすでに「死んでいるもの」を持ち出して大義名分にする計略。または、他人の大義名分に便乗して自らの目的を達成する計略。さらに、敵を滅ぼして我が物としたものを大いに活用してゆく計略も指す』(引用はウィキの「借屍還魂」)。
「費長房」私の大好きな妖しい後漢の方士。ウィキの「費長房 (後漢)」より引く。『当初はとある市場の監視役人を務めていたが、市場の監視楼上から市中で売薬店を構える謫仙の壺公(ここう)』『が日没時に店先に吊した壺に跳び入る姿を目撃した事から壺公の許を訪れたところ、自分の秘密を目にし得た費に感心した壺公に連れられて壺中に入り、そこに建つ荘厳な御殿で美酒佳肴の饗応を受ける。その後、壺公から流謫も終わって人間界を去る事を聞かされると、自分も仙道を学びたいと思い、壺公の教唆に依って青竹を自身の身代わりに仕立て、縊死を装う事で家族の許を去り』、『壺公に就いて深山に入り修行する。修行は初め虎の群中に留め置かれ、次いで今にも千切れんとする縄に吊された大石の下に身を横たえるといった内容で、共に成果を修めるも最後に3匹の虫』『が蠢く臭穢な糞』『を食すよう求められて遂に上仙を断念し、壺公から地上の鬼神を支配出来る』一『巻の護符を授かって帰郷する』。『なお、山中での修行は僅か』に十日ほど『であったが、地上での実歳月は』十『年以上を経るものであった』とする。『帰郷後は治病に従事したり』、『壺公から授かった護符を使って東海地方(現山東省東南の海岸部)の水神である東海君や、人間に化けた鼈や狸を懲らしめる等、社公(地示)やあらゆる鬼神を使役懲罰し、また地脈の伸縮を自在に操る能力を有して』、『瞬時に宛(えん。現河南省南陽市)に赴いて鮓(さ。魚類の糟漬け)を買ったり』、一『日の中で数千里』(当時の中国の一里は約四百四十メートル。リンク先は五百五十メートルとするが、これは中国のいかなる時代の一里とも符合しないので採れない)を隔てた複数の場所を『往来したりしたが、後に護符を失った為に鬼神に殺された。晋代の葛洪は竹を自身の屍体に見せかけた費を尸解仙の例に挙げている』。この「尸解仙」とは、 一旦、死んだ後に生返って他の離れた地で仙人となることを指す。これはオーソドックスな羽化登仙する「天仙」や名山で霞を食して鶴に乗って行く「地仙」などの高級な仙人に対して、不死でなければならない仙人が仮にとは言え、死の形をとることから、最下級の仙化とされる。だからこそ僕は好き!

僕は実際、表現読みの朗読や台詞回しには誰にも負けないという自信がある(これは今もある)のだが、昔から(高校時代の僕は演劇部で将来は役者になろうかとも真面目に思っていた。諦めた最大理由は体力が続かないからであった)、長台詞は苦手だった。因みに、先の「蒼鷗舎」の公演の際には、僕は主演を頼まれた。しかし、まさに台詞を覚えられないという一点に於いて仕事の忙しさを言い訳として辞退し、台詞が三つぐらいしかない端役を演じたのであった。懐かしい思い出である。

僕はしばしば芝居を演じている夢を見る。しかも必ず、その夢の中の僕は肝心のその夢の中の役の台詞をまるっきし覚えておらず、いつも絶望的に絶体絶命なのである。]

2017/08/24

北越奇談 巻之四 怪談 其三(少女絡みのポルターガイスト二例)

 

    其三

 

 寬政年中(ねんぢう)、蒲原郡(かんばらごほり)太田村、百姓某(それがし)の少女、十二、三なるべし、燕(つばめ)の町、祭禮見物に出(いで)て、連(つれ)に遲れ、獨り、群衆の内を訊ね求むるに、面(おもて)の赤き僧一人來り、相伴(あひともなふ)て見物す。少女、心に食(しよく)を思ふ。異僧、卽(すなはち)、是を知り、茶店(さてん)に入(い)り、其好むところを食さしむ。又、町に出(いで)て、小女、心に欲する所、櫛・笄(かんざし)となく、食物(しよくもつ)となく、何にても、皆、是(これ)に與(あた)ふ。更に錢(ぜに)を償(つくの)はざれども、賣人(うりひと)、また、咎めず。終(つゐ)に家に歸る。

 其日より、少女、心に求(もとむ)る所、ならずといふことなし。坐(ざ)しながら、遙かの物を取らんと欲(ほつす)れば、卽、飛來(とびきた)りて、前にあり。家人、是を怪しみ、少女を責むれば、忽(たちまち)、鳴動し、諸器物、おのれと飛(とん)で、人力(じんりき)を以つて制し難し。

 或は食せんとする時、鍋・釜なんど、忽、飛(とん)で梁上(りやうしよう)に上がる。小女を勞(いたは)り、詫(わぶ)る時は、卽、飛下(とびくだ)りて本(もと)のごとし。

 如ㇾ此(かくのごとき)事、數日(すじつ)、近村、競ひ來たりて、これを見る。

 もし、誤(あやまり)て怪を謗(そし)る時は、鍬・鎌・棒の類(るゐ)、獨り手(で)に飛來(とびき)て、その人を打(うつ)。甚だしきの怪なりしが、一月餘りにして、何時(いつ)となく、此事、止(やみ)ぬ。

 

○同年の秋、村松山(むらまつやまの)北、河谷村(きたかはやむら)、百姓某(それがし)、近村より、子守の小女を抱(かゝ)へたるに、一日(いちにち)、連(つれ)の童女(どうによ)相伴(あいともなふ)て、村端(むらはし)の茶屋に至り、各(おのおの)、柿を求め食(くら)ふ。かの小女、錢(ぜに)無くして、買求(かひもとめ)ること、能(あた)はず、獨り、是を羨む。忽、面(おもて)赤く、老猿(おひざる)のごとき僧の、白衣(はくい)なるが來りて、

「汝、柿を與へんか。」

と問ふ。小女、喜ぶ。

 卽、店の柿、四ツ五ツ、おのれと飛來(とびきた)り、小女が袂(たもと)に入(いる)。

 他の童女、さらに見ることなし。

 それより、家に歸(かへり)て、何によらず、得んと思ふもの、皆、飛來りて、懷(ふところ)に入(いる)。

 主人、これを怪しみ、親の家に返さんとすれば、忽、家財道具、おのれと飛び𢌞(めぐ)りて、家の内に居(をる)事、不ㇾ能(あたはず)。小女を勞(いたは)り、上坐(かみざ)に請(しやう)ずる時は、卽、止(や)む。

 村長(むらおさ)、是を聞(きゝ)、其家に來り、小女が上坐にあるを叱り、且(かつ)、怪(くはい)を罵(のゝしる)所に、忽、其庭に掛け置きたる鍬一丁、飛來(とびきたり)て、面(おもて)を打たんとす。村長、驚き逃出(にげいづ)れば、又、盥(たらひ)一ツ、飛來(とびきたり)て頭(かしら)に覆(おほ)ふ。

 是によつて、村中(むらぢう)、以(もつて)の外、騷動し、見物、市(いち)を成せり。

 扨、卽日、其怪事を領主に訟(うつた)ふ。即、足輕二人をして、其實否(じつふ)を見屆けしめんとす。于ㇾ時(ときに)、足輕、その家に到り、上坐について、小女を責め問へば、忽、勝手口より、斧一丁、飛來(とびきたり)て、足輕の鼻頭(はながしら)を擦りて落(おつ)。是(これ)によりて、衆人、如何ともすることなし。數日(すじつ)にして、何時(いつ)となく止(やみ)ぬ。如何なるものゝ怪異とも知らず。

 是等も、皆、天狗の成す業(わざ)ならんか。 

 

Poltergeist

[やぶちゃん注:葛飾北斎の挿絵。左上角に「怪物小女について怪異をなす」とある。]

[やぶちゃん注:天狗らしい怪人の出現によって少女が怪能力を有する点で連関するが、この天狗を除去すると、実はこれは現代のまで生きているボルタ―ガイスト現象(ドイツ語:Poltergeist/騒霊/天狗の石礫等々)に酷似するものである。その酷似する点は、成人前の少女がその超常現象の主役であったり、必ずその家内にいるという点でも属性が一致している。私は基本的に、これらは霊感を持っているということで他者とは違うという特別な存在という意識を持つことを志向する思春期の少女らによる似非怪奇現象と捉えており、近代以降の無意識的或いは意識的詐欺師としての霊媒師の存在と全く同じものであると考えている。これはまた、「池袋の女」「池尻村の女」などが古くから知られており、そこには信仰上の理由附けがなされていたり、民俗学的アプローチも行われている。それは私の「耳囊 之二 池尻村の女召使ふ間敷事など注を是非、参照されたい。なお、後半の「○」以降の話は原典も野島出版版も改行せずに、前に繋がっているが、これは私は改行をする方がよいと判断して、かく、した

「寬政」一七八九年から一八〇一年。

「蒲原郡(かんばらごほり)太田村」よく判らぬが、現在の新潟県燕市には東太田の地名がある。ただ、ここは燕市街で「燕(つばめ)の町、祭禮見物に出(いで)て」という表現からは近過ぎるか?

「おのれと」自然と。古文ではしばしば「自分と」などと漢字表記するのを見かける。

「村松山(むらまつやまの)北、河谷村(きたかはやむら)」不詳。識者の御教授を乞う。

「他の童女、さらに見ることなし」この一文、私は躓く。前とどう続くのか私には意味不明である。何方か、お教え願いたい。]

北越奇談 巻之四 怪談 其二(天狗その二)

 

    其二

 

 享和三亥年(ゐどし)、奧州の士(さむらひ)某(それがし)、越(ゑつ)の柏崎に赴く途中、石地(いちぢ)の駅に馬を繼ぎて、即(すなはち)、その士、馬(むま)に先立事(さきだつこと)、半丁ばかりにして、駅の町端(まちはし)に出(いづ)ると見へしが、忽(たちまち)、行末(ゆくゑ)を知らず。

 馬方(むまかた)、その跡を尋ねて、先の駅、椎谷(しゐや)に到り、問屋(とひや)に達す。問屋、其荷物、旦那の不ㇾ來(きたらざる)が故に不ㇾ受(うけず)。馬方、是非なく歸り來りて、石地の問屋へ申す。

 町役、即、柏崎の陳屋(ぢんや)に訟(うつた)ふ。是に依(よつ)て、人を出(いだ)し、四方を尋ね求(もとむ)れども、不ㇾ得(えず)。終(つゐ)に「死せり」として、其荷物を本國に返す。

 扨、かの士(さむらひ)、半年(はんねん)ばかりを過ぎて、古郷に歸り、夜(よる)、密(ひそか)に己(おのれ)が家を叩けば、人々、驚き、其故を問(とふ)に、

――初め、石地の町端を出(いづ)る時、山伏一人、出來(いできた)り。道すがら、相咄(あいはな)して行(ゆく)ほどに、何處(いづく)とも、其(その)至る所を知らず。

――疊嶺絶壁(でうれいぜつへき)、路(みち)なきの幽谷(ゆうこく)を行くこと、鳥の空に飛(とぶ)がごとし。

――一日(いちじつ)、忽(たちまち)、金閣玉樓、峨々たるを見る。

――依(よつ)て、其(その)地名を問(とふ)。

――かの山伏の云(いはく)、「日光山なり」と。

――士(さむらひ)、驚き、是(これ)を拜せんとすれば、忽、夢の醒めたるがごとく、平地(へいち)出(いづ)。

――よく見れば、古郷なりし。

と、なり。

[やぶちゃん注:天狗による遠隔地へのテレポーテション(及び時間感覚喪失)で前話と直連関。最後の武士の語りの部分は、途中で「士(さむらひ)」という三人称表記になってしまうため、直接話法には出来ないので、かくダッシュでやってみた。

「享和三亥年(ゐどし)」一八〇三年。本書刊行は文化九(一八一二)年春であるから、所謂、当時の都市伝説――比較的最近起ったとされる事実らしい噂話――の体裁を備えていると言える。

「石地(いちぢ)」現在の新潟県柏崎市西山町石地。(グーグル・マップ・データ)。直線で柏崎の北東十九キロメートル。

「半丁」五十四、五メートル。

「椎谷(しゐや)」新潟県柏崎市椎谷。(グーグル・マップ・データ)。石地からは直線で四・五キロメートルほど。

「問屋(とひや)」狭義には、江戸時代、領主と住人の仲介者として宿場町の自治行政を行うとともに問屋場(といやば:街道の宿場で人馬の継立・助郷賦課(すけごうふか:宿場保護や人足・馬の補充を目的として宿場周辺の村落に課した夫役)などの業務を行った運送業者)を管理した町役人(宿場役人)の長で、多くは本陣を経営した者を指すが、ここは、その者(後で出る「町役」)が元締めとして支配した、そうした問屋場(運送業者)の一つであろう。

「陳屋(ぢんや)」陣屋。郡代・代官及び旗本などが任地或いは知行地に所有した役所。]

北越奇談 巻之四 怪談

 

北越奇談巻之四

 

        北越 崑崙橘茂世述

        東都 柳亭種彦挍合

 

    怪談

 

 蒲原郡(かんばらごほり)瀧谷村(たきやぬら)、慈光寺(じくはうじ)と云へるは、村落(むらざと)と離れ、山林に入る事、一里、松・杉、千年の古木、鬱々として、誠に世外(せぐはい)の幽境なり。

 元弘の頃、楠正五郎(くすのきまさごらう)、入道して、此寺に寂す。今に正成の鎧、直筆の書簡などありて什藏(じうざう)とす。

 又、時ありて、佛法僧、鳥慈悲心鳥(てうじひしんてう)の啼けるを聞く事、山僧・樵夫、常となせるのみ。

 此山、殊に、天狗、甚(はなはだ)、多し。他方の者、寄宿する時は樣々(さまざま)の怪異をなして、人を驚かす。

 一年(ひとゝせ)、六月の半ばなりし。寺僧、皆、出(いで)て、僕童一人、留守を守り、徒然なる折りしも、髮長く生(はへ)たる旅僧(りよそう)一人來り、暫く休居(やすみゐ)て僕に向(むかつ)て云へるは、

「今日、祇園の祭事なり。汝、見んことを欲(ほつす)や否(いなや)。」

と。僕の曰(いはく)、

「願(ねがは)くは、見んことを思ひども、不ㇾ能(あたはず)。」

 旅僧、即(すなはち)、僕を伴ふて去る。

 忽(たちまち)、數千(すせん)の群衆、陌(ちまた)に滿ち、金鼓(きんこ)、耳に喧(かまびす)しく、錦繡(きんしう)、目に燦然として、終日、不ㇾ厭(いとはず)。暮に及んで、旅僧、伴ひ歸らんとす。即、一ツの菓子屋に至り、干葉(かんくは)一箱を求め、瞬(またゝき)のうちに寺に歸ると見へしが、旅僧、忽、不ㇾ見(みへず)。

 人々怪しみ、是を見るに、京二條通菓子屋某(それがし)の印(しるし)あり。

 又、大工・木挽(こびき)なんど、偶(たまたま)天狗の噂事(うはさごと)云へる時は、忽、其人の衣服なんど持ち去りて、高き杉の梢に掛く。これを如何ともすることなし。即、堂頭に詫(わ)び、給はんことを請ふ。

 爰(こゝ)に和尚、袈裟を掛け、其杉の下(もと)に到り、空に向かつて曰(いはく)、

「又、惡戲事(いたづらごと)を成せるものかな。早く、衣服を主(ぬし)に返さるべし。」

と。

 即、其衣服、風に隨(したがつ)て地に落(おつ)。

 如ㇾ此(かくのごとき)怪戲(くはいけ)、日々(ひゞ)にして、一々(いちいち)擧げて云ふべからず。

 

[やぶちゃん注:遂に「怪談」パートに入る。読み易さを考えて、以下、改行を自在に施すこととする。

「蒲原郡(かんばらごほり)瀧谷村(たきやぬら)、慈光寺(じくはうじ)」現在の新潟県五泉市蛭野にある曹洞宗明白山慈光寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。同寺公式サイトのこちらによれば、時の守護職『神戸太郎最重が室町時代初期』の応永一〇(一四〇三)年頃に、現在の村上市門前にある『耕雲寺の傑堂能勝禅師の道風を慕い、師を勧請して中興の祖となし、爾来、禅刹として再興』されたとあり、この開山『傑堂能勝禅師は、南北朝時代、後醍醐天皇を支えた楠木正成の直孫と伝えられる。早くから祖父・正成の意志を継いで、南朝の再興を願い、一族と共に良く奮戦』したが、二十五『歳の時、相手方の弓矢により足を痛め』、その『治療の折、仏典を読』んで、『戦国乱世の虚しさを感じ、諸方に多くの禅匠を参じた後、越前・龍沢寺の梅山聞本禅師の会下に投じ、禅の奥義を究めたといわれている』。後、数次の火災を受け、また、天文年間(一五三二年~一五五四年)に『於ける国内騒乱は、寺領の大半を武人によって侵掠され、伽藍も荒廃に委せ』『法運の衰微、はなはなだしく悲境に陥る。その後、村上藩主・堀丹後守直嵜公が中興開基として寺門を再興、また村松歴代藩主の帰崇、さらに曹洞宗中興の祖といわれる小浜・空印寺面山瑞芳禅師の上足・衡田租量禅師の晋住により法筵、再び繁栄』し、『多くの修行僧が各地より集まり、面目を一新す。その後、奥義を得た修行僧は各地に於いてめざましい活躍を』した、とある。

「楠正五郎(くすのきまさごらう)」楠木正成の嫡男正行(まさつら)の実子とされ、出家し、それが先の注の傑堂能勝と同一人物とされる。野島出版脚注に『楠正行の妻は内藤宮内の娘であった。宮内は後に高師直の方に随ったので、正行は妻をを離別した』が、当時、『懐妊していた娘が男子を生んだので、池田兵庫助が之を養子とし、後』、『仙見村五剣谷萩城主神戸備中守の聟となって神戸太郎原茂と改名した。これが楠正五郎である。正五郎は、後に出家して傑堂と云った』とある。

「正成の鎧」公式サイトには記載がないが、こちらには現在も同寺に『楠正成の所用という鎧が所蔵されている』とある。

「直筆の書簡」野島出版脚注に『伝えられる文面は次の如くである』として載るものを、以下に正字化して示す。字空けはママ。

   *

猶々此卷衣 從ㇾ君拜受 具足從祖父我等迄 著古候得共 長代之送形見候以上 此度 隼人 差越事非別儀 我等最後近々覺候 貴殿 成長の器量 見屆度候得共 義重處更難ㇾ遁 勤學無ㇾ怠 成長之後 我等心中 可ㇾ被ㇾ察候 謹言

 建武三年正月二十日 兵衞正成

   楠正五郎殿

   *

注には続けて『「吉野拾遺」巻三には、これと大同小異の文面があり、日付が建武二年五月となっている』とある。「建武三年正月二十日」は一三三六年三月十一日。因みに、楠木正成が湊川の戦いで自害したは延元元/建武三年五月二十五日である。この書簡が同寺に現存するかどうかは不明であるが、昭和七(一九三二)年発行の「新潟県史跡名勝天然記念物調査報告」(国立国会図書館デジタルコレクションの画像でから四コマで視認出来る)によれば、この書状はあると記されている。但し、偽物と断じている。

「什藏(じうざう)」この「什」は元の「器」の意ではなく、「什物」(じゅうもつ)で「代々伝わっている秘蔵の宝・什宝」の意。

「佛法僧」この場合は〈声のブッポウソウ〉でフクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus scops(本邦では北海道・本州北部では夏鳥であるが、本州南部では留鳥である)。本邦では永く、渡り鳥で夏鳥のブッポウソウ目ブッポウソウ科 Eurystomus 属ブッポウソウ Eurystomus orientalis の鳴き声と誤認され続けてきたので、この場合も崑崙のイメージする姿はそちらウィキの「ブッポウソウ」(非常に美しい色と姿をしておりその画像もリンク先に有る。なお、哲人のようなコノハズクの方はウィキの「コノハズク」でその姿を確認されたい)によれば、この誤認が解消されるのは実に昭和一〇(一九三五)年のことで、『森の中で夜間「ブッ・ポウ・ソウ」と聞こえ、仏・法・僧の三宝を象徴するとされた鳥の鳴き声がこの鳥の声であると信じられてきたため、この名が付けられた。しかし、実際のブッポウソウをよく観察しても「ゲッゲッゲッ」といった汚く濁った音の鳴き声』しか発せず、件(くだん)『の鳴き声を直接発することが確認できないため、声のブッポウソウの正体は長く謎とされた』。『結局のところ、この鳴き声の主はフクロウ目のコノハズクであり、このことが明らかになったのはラジオ放送が契機となった』。昭和十年六月七日、『日本放送協会名古屋中央放送局(現在のNHK名古屋放送局)は愛知県南設楽郡鳳来寺村(現在の新城市)の鳳来寺山で「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴く鳥の鳴き声の実況中継を全国放送で行った』が、『その放送を聞き、鳴き声の主を探した者が』、同年六月十二日に『山梨県神座山で、「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴く鳥を撃ち落とした』。その結果、その『声の主がコノハズクであることが分かった』。『時を同じくし』て、『放送を聴いていた人の中から「うちの飼っている鳥と同じ鳴き声をする」という人がでてきた』。放送から僅か三日後の六月十日、『その飼っている鳥を鳥類学者黒田長禮が借り受け見せてもらうと』、『その鳥はコノハズクであり、山梨県神座山で撃ち落とされたのと同日である』六月十二日の『早朝に、この鳥が「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴くところを確認した』。『そのコノハズクは東京・浅草の傘店で飼われていたもので、生放送中、ラジオから聴こえてきた鳴き声に誘われて同じように鳴き出したという』。『この二つの事柄が』、『その後に行われた日本鳥学会で発表され、長年の謎だった鳴き声「ブッ・ポウ・ソウ」の主はコノハズクだということが初めて判明した』という驚きの事実が記されてある。真正のブッポウソウの鳴き声はで、コノハズクの「仏法僧」という鳴き声はで聴ける(孰れも「You Tube」へのリンク)。

「鳥慈悲心鳥(てうじひしんてう)」カッコウ目カッコウ科カッコウ属ジュウイチ Cuculus fugax の鳴き声からの異名。画像はウィキの「ジュウイチで。鳴き声はこちら(これも「You Tube」へのリンク)。渡り鳥で夏鳥。

「祇園の祭事」京の八坂神社(祇園社)の祭礼である祇園祭(明治までは「祇園御霊会(御霊会)」と呼ばれた)。旧暦六月に行われていた。なお、こうした僻村の者が天狗に誘われて祇園祭や都の法会を見るという伝承や怪談は枚挙に遑がない。

「陌(ちまた)」巷。巷間。市井。「陌」には「街路・町」の意がある。

「金鼓(きんこ)」摺り鉦や太鼓。摺り鉦は「コンチキチン」で知られる、祇園囃子で一番大きな特徴を作る楽器。

「錦繡(きんしう)」祇園祭の山鉾を飾る錦の織物のことを指していよう。

「不ㇾ厭(いとはず)」飽きない。

「高き杉」個人サイト「全国巨樹探訪記」のに新潟県指定天然記念物の慈光寺の杉が載る。そのデータによれば、樹高四十メートルで目通り幹囲十・九メートル。推定樹齢三百年以上とある。]

岩波文庫ニ我ガ名ト此ノぶろぐノ名ノ記サレシ語(コト)

先週、近代文学研究家の山田俊治氏(現・横浜市立大学名誉教授)より、自筆の御葉書を戴いた。

山田氏の名は芥川龍之介新全集の諸注解で存じていた。最近では特に、ブログでの「侏儒の言葉」のオリジナル注企画で頻繁に引用させて戴いたが、無論、終生、巷間の野人たる小生は面識もない。何か誤ったことでも私がブログで書いているのを注意されでもしたものかと思うて読んでみたところが、そこには、

『この度 芥川龍之介の紀行文集を岩波文庫から出版することになり、注解にあたっては、ブログを拝見して、大いに刺激されるとともに、一般書のため、逐次 注にできませんでしたが、大変 参考にさせていただきました。そこで、一部献本させていただきますので、御受納いただければ幸いです』

とあって、驚いた。

昨日、それが届いた。

2017年8月18日発行・山田俊治編「芥川竜之介紀行文集」(850円)
 

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である。中国特派の際の五本は「Ⅱ」として纏められてあるが、それ以外の「松江印象記」(リンク先は私の初出形)に始まる九本の選択も非常に面白い。注を縦覧したが、語句や表現要所が非常によく押さえられており、「Ⅱ」パートでは地図なども附されてあってお薦めである(数年前に他社の文庫でもこれらは出ていたが、本屋で立ち読みしただけで、その注のお粗末さに呆れた果てたのを覚えている)。
特に、あの時代にあって稀有のジャーナリストたらんとして――芥川龍之介は自らを「ジヤアナリスト兼詩人」(「文藝的な、餘りに文藝的な」(リンク先は私の恣意的時系列補正完全版)の「十 厭世主義」)と称し、遺稿の「西方の人」(リンク先は私の正・続完全版)ではキリストを「古い炎に新しい薪を加へるジヤアナリスト」と評している――書かれた中国特派のそれらは、もっと読まれるべきものであると私は強く感じている(芥川龍之介の「上海游記」「江南游記」「長江游記」「北京日記抄」はそれぞれブログ分割版(全)があり、それらの一括版及び「雜信一束」はHTML横書版で「心朽窩旧館 やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「芥川龍之介」パート内の「§ 芥川龍之介中国紀行関連作品 §」に収めてある)。

さて。山田氏の解説の最後を読んで、さらに驚いた。
 

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何と! その末尾、参照先行文献の一覧の最後の最後には、天下の岩波版「芥川龍之介全集」(新全集)がずうっと並んだその終りに……『および、藪野直史「Blog鬼火~日々の迷走」』とあるではないか!?!

私のような凡愚の野人の仕儀が、誰かの役に立つとならば、逆に、恩幸、これに過ぎたるはないと言うべきで、ここに山田俊治先生に深く謝意を表したい。
 
 

2017/08/23

北越奇談 巻之三 玉石 其二十三(廬山石) / 巻之三~了

 

    其二十三

 

 与板(よいた)、三輪(みわ)氏(うじ)、富士石(ふじせき)を藏(ざう)す。甚だ絶品。真黑色(しんこくしよく)、半腹(はんふく)に白雲(はくうん)の形あり。床頭(しやうとう)の弄玩、可ㇾ知(しんぬべし)。長岡、原(はら)氏、陰陽(ゐんやう)二石(じせき)を藏す。男女根形(なんによこんぎやう)、誠に古今(こゝん)の絶品なり。水原(すいばら)の東(ひがし)、北高田村(きたたかたむら)に珠山(しゆざん)と云へる書画風流の人ありし。其家に亀石(きせき)を藏す。一塊(いつくはい)の石上(せきしやう)、自然に小龜(しようき)の形ありて、工(たくみ)が成せるがごとし。長岡、中村氏、烏帽子石(ゑぼしせき)を藏(おさ)む。黑石(こくせき)に白石(はくせき)の緣(へり)、甚だ奇なりしが、今は栃尾(とちを)某(それが)しの家に贈ると云へり。堀の内某(それがし)の家、一(いつ)奇石(きせき)を藏む。形、上下六面、皆、表(おもて)にして、床頭の弄玩、妙なりと雖も、今、其家の姓名を忘(わす)る。一年(ひとゝせ)駒ケ嶽に遊びて、深谷(しんこく)の間(あいだ)に一奇石を得(う)。真黑(しんこく)、光沢、形似廬山(ろさんににて)、大瀑布(だいばくふ)の勢(いきほひ)あり。故廬山石(ろさんせき)と名づく。左に図を表はす。

 

Rozanseki

 

[やぶちゃん注:「与板」既出既注。新潟県三島郡与板町(よいたまち)附近。現在の新潟県のほぼ中心に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「富士石」ご丁寧に中腹には白雲がかかったように見えるところの、富士山にそっくりなミニチュアの自然石。

「床頭(しやうとう)の弄玩、可ㇾ知(しんぬべし)」寝ようとしてその枕元(「床頭」(しょうとう))に置いてまでも賞玩するほどのものである。そのシミュラクラを推して知るべし、といった意味であろう。

「陰陽(ゐんやう)二石(じせき)」「男女根形(なんによこんぎやう)」、即ち、男女の陰部に似た形の石。男性の陰部に似るものを「陽石」、女性のそれを「陰石」とし、セットで祀ることも多い。豊饒神である。グーグル画像検索「陰陽石をリンクさせておく。

「水原(すいばら)の東(ひがし)、北高田村(きたたかたむら)」「水原」はその読みからも新潟県阿賀野市水原であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。「北高田」は見当たらないが、水原の東北に「高田」地区はある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「珠山(しゆざん)」不詳。

「亀石(きせき)」これは亀の化石ではなく、シミュラクラであろう。但し、「北越雪譜」の「二編二之卷」には「龜の化石」の条があり、その記述や附された図を見るに、これは真正の化石のようには見える。

「烏帽子石(ゑぼしせき)」烏帽子(恐らくは立(たち)烏帽子なら丈の低いもの、揉(もみ)烏帽子風のものかも知れぬ)に似た石。

「上下六面、皆、表(おもて)にして」「皆、表(おもて)にして」というのが今一つ分らないが、これは裏表がない、即ち、上下ともに全く同一形状の極めてシンメトリックな六角錐であることを言っているのであろう。六方晶系の結晶だとすると、これはアメジスト(amethyst)のような紫色の水晶ということになるが(但し、上下がかく成るには人為的な加工が疑われる)、叙述が不足していて、それと断定は出来ぬ。寧ろ、アメジストならその色と透明性をまず言い立てるはずだから、寧ろ、アメジストではないと考えた方がよいか。

「駒ケ嶽」既出既注。越後駒ヶ岳。新潟県南魚沼市と魚沼市に跨る。標高二千三メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「廬山」中国江西省九江県の南方の廬山(ろざん)。仏教霊場であったと同時に、幽邃な景勝地として今も名高い。

大瀑布」廬山のそれは李白の詩がよく知られる。

 

 望廬山瀑布

日照香爐生紫煙

遙看瀑布挂前川

飛流直下三千尺

疑是銀河落九天

 

  廬山の瀑布を望む

日は香爐を照らし 紫煙生ず

遙かに看る 瀑布の前川に挂(か)くるを

飛流 直下 三千尺

疑ふらくは是れ 銀河の九天より落つるかと

 

 以下、上に示した「廬山石」の図が載るが、その石の図の右上から左上にかけて、以下の長いキャプションが小さな字で記されてある。それを、図の後に示す。野島出版版では、この部分が今までの条々と同じく、柱の「」(野島出版版が独自に附したもので、原典にはない)をつけて、恰も本文の続きであるかのように活字化されているのは、私には承服出来ないのである。これはあくまで〈「廬山石」のキャプション〉であるからして、私はキャプション扱いとして基本、原典画像通りに電子化した(但し、ベタで続け、一部の読みは省略したので、以下の早稲田大学の画像で確認されたい)。従って野島出版版のような頭の一字下げを行っていない。また、実はこの挿絵は何時もの通り、野島出版版のそれを用いたのであるが、早稲田大学古典データベースのこちらの画像で判るように、実はこの廬山石の挿絵は原典では見開きであって、石の中央やや左寄りで左右に分断されてしまっている。この野島出版版はそれを実に上手く合成させた図なのである。但し、白く抜けた箇所が甚だ哀れなので、一部を原典画像を見ながら、恣意的に黒く塗り潰した(その結果として立体感が損なわれたかもしれぬ)。まずは、上のリンク先の画像をご覧あれかし。野島出版版では殆んど消えてしまっている瀑布以外の白い筋が確認出来る。]

 

 廬山石

 

駒ヶ嶽は魚沼郡(うほぬまこほり)にあり、即(すなはち)、大湯栃尾俣の温泉は、嶽(たけ)の麓也。一年秋八月、此温泉に浴して、日々、溪流下り、奇石をさぐり求む。其意(こゝろ)に適するものを得ざること、十日、巳に歸らんとするに臨(のぞん)で、深谷の間(あいだ)にして、一(いつ)樵夫にあふ。夫の曰、「此路(このみち)可ㇾ迷(まよふべし)、とをく行べからず。君、何に依(よつ)てか爰(こゝ)に至る」と。曰、「奇石を求(もとめ)んと欲す」。樵夫云、「我、前日、黑石(こくせき)一塊(いつくわい)を得て、是を庚申塚(かうしんづか)のうしろにかくす。君(きみ)、意(こゝろ)あらば、得て去(さる)べし」と。玆(こゝ)に相伴(あいともな)つて其所(そのところ)に至り見るに、奇玩、如此。よつて、樵夫に錢(せん)を贈(おくつ)てかへる。

 

[やぶちゃん注:地名はさんざん注したので略す。

「とをく行べからず」「とほく」(遠く)が正しい。山中、遠くへは足を踏み入れてはいけない。

「庚申塚(かうしんづか)」先の「玉石 其七(光る石)」に既出既注。

「うしろにかくす」「後ろに隱す」。

「君(きみ)、意(こゝろ)あらば得て去(さる)べし」あなたにそうした切なる奇石への思いがあるとならば、それを拾って持ち帰られるがよい。

「如此」「かくのごとし」。

 以下、早稲田大学の画像で判る通り、この廬山石に添えた橘崑崙茂世の入手当時と推定される讃としての五律の漢詩が続く。原典は白文で連続しているが、かく改行した。]

 

 

 

山翁石賜

未得所名宜

三寸自然操

尺圍天質碕

虎溪無送客

鹿洞月來遲

凡上生平玩

心遊亦可奇

     崑崙茂世

 

[やぶちゃん注:野島出版版では、これに続いてオリジナルの訓読文がある。それを参考にしながらも、私も全く独自に訓読をしておく

 

山翁(さんをう) 石(いせき)を賜ふも

未だ名(な)の宜(よろ)しとする所を得ず

三寸(さんずん) 自然の瀑(ばく)

尺圍(せきゐ)  天質の碕(き)

虎溪(こけい)  客(かく)を送ること 無く

鹿洞(ろくどう) 月 來(きた)ること 遲し

几上(きじやう) 生平(せいへい)の玩(ぐわん)

心遊(しんいう) 亦 奇とすべし

 

 以下、我流の訓読に従って注を附す。

石」」は原典では「玉」ではなく「王」であるが、これは通字形であるから、「」とした野島出版版では本文で一気にこれを『醫』としてしまっている。従えない。しかも同脚注によれば、こんな字(「」の「玉」を「王」とした字)は『字典にはない』と断言し、『医は醫と同じであるが、医石では意味が不明である。医石瑩石の誤記であろう』(この『医石』及び『瑩石』には「」の傍点が附されてあるのを太字で示した。「瑩」は音「エイ」で「明らか・鮮やか・艶やか」で「玉石の美しい色」を指す語)とされるのであるが、私は野島出版の注釈者の安易なこの「瑩石」誤字見解には全く従えない」の字はあるのである。しかも」(中国音「イー」)には中文サイトの漢字辞典に「黑色的美石」・「黑玉」・「黑色的琥珀」の意であるとあるのである(引用はこちら)。これは黒い光沢を持った黒玉石(こくぎょくせき)の意である。

「三寸」凡そ九センチ一ミリ。

「尺圍(せきゐ)」野島出版版は『せきえ』とルビする。従えない。石全体の周囲の長さが一尺。であることを言う。三十センチ三ミリ。

「天質の碕(き)」野島出版版は『天質碕(き)なり』とする。前句と対句であるから私はかく訓じた。「碕」は「崎」の異体字で、河海の曲がった岸を指す。野島出版脚注には『石の白い線がまがって瀑』(たき)『の如くなっていることをいう』とある。挿絵と合わせて(まさにこの脚注の直上に「廬山石」の右手の「瀑布」が落ちているのである)言い得て妙の注である。

「虎溪(こけい)」廬山にある東林寺の前の渓谷。画題として好まれた「虎渓三笑」の故事で知られる。六朝東晋の時、この寺に慧遠(えおん 三三四年~四一六年)という学僧がおり、白蓮社(四〇二年に自らから創建した東林寺に於いて僧や知識人らからなる同志百二十三人とともに阿弥陀浄土への往生を誓願した念仏結社。名は寺の傍らの池に白い蓮を植えたことに由来する。彼の念仏行とは後世の「浄土三部経」に基づく称名念仏とは異なるもので、浄土教典の先駆的作品とされる「般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう)」に基づいた禅観の修法であった)を結成、西方往生を期して三十年もの間、山を一歩も出なかった。ところが、ある日、陶淵明(三六五年~四二七年)と陸修静(四〇六年~四七七年 道士で道教教学の優れた学者であった)の両人が彼を訪ねて清談し、両人が帰る際して、慧遠は送りに出たが、それでも話が尽きず、いつもは結界として出なかった虎渓に架かる石橋を渡ってしまい、気づいた時には、虎渓を数百歩も過ぎていた。そこで三人ともに手を打って破顔大笑したという禅味に富んだ話である。しかし、淵明はいいとしても、陸修静は生年から無理がある。

「鹿洞(ろくどう)」廬山の麓にある中国四大書院の一つで宋代の学校であった白鹿洞書院のこと。五代十国(九〇七年~九六〇年)に正式な学校として建てられ,これを廬山国学(白鹿国学)と称した。一時衰退したが、南宋の一一七九年に朱熹が再興、明代には王陽明ら代表的な儒家学者がここで講学した。景勝地でもあったらしい。

「几上(きじやう)」机上。

「生平(せいへい)」「平生(へいぜい)」に同じい。

「心遊(しんいう)」野島出版脚注に『心の楽しみ』とある。

 以下、今度は漢詩人柏木如亭(かしわぎじょてい:後注する)の七絶が載る。原典は白文で連続しているが、かく改行した。]

 

 

 

 廬山石

 

崑崙隱士身邊石

几席寒生玉一堆

若不巫山々上得

會從星宿海中來

 

  如亭題 落款1 落款2

 

[やぶちゃん注:先と同様に野島出版の訓読を参考にしつつ、オリジナルに訓読する。

 

 廬山石(ろざんせき)

 

崑崙隱士 身邊(しんぺん)の石(せき)

几席(きせき) 寒(かん)生(しやう)ず 玉(ぎよく)一堆(いつたい)

若(も)し 巫山(ふざん)が山上に得ずんば

會(かなら)ず 星宿の海中より來らんを

 

  如亭 題す 落款1 落款2

 

 落款1は「昶印」。落款2は「永日印」か?

 作者柏木如亭(宝暦一三(一七六三)年~文政二(一八一九)年)は漢詩人。ウィキの「柏木如亭」によれば、初め、『名は謙、字は益夫、通称は門作といった。のち、名は昶、字は永日とあらためる。号は』当初、『舒亭と名乗り、後に如亭とする』。江戸生まれで、『家は幕府小普請方の大工の棟梁であった。市河寛斎の江湖詩社に参加し』、寛政五(一七九三)年に最初の詩集「木工集」を刊行して『新進詩人として知られるようになった。翌年、家督を一族のものに譲り、棟梁職を辞し、専業詩人として生きることになった』。『遊歴の詩人として生き』んと決した『如亭は、まず』、『信州中野(長野県中野市)に居を定め』、『晩晴堂と名づけ、晩晴吟社を』開いて近隣の人々とともに『詩作に励んだ。この間、越後を遊歴もしていた』(恐らくはこの時に崑崙(生年から見て彼は崑崙と同世代である)を訪ね、この七律をものしたものと思われる)。享和元(一八〇一)年に、江戸に戻って芝に住んだ。その後、文化四(一八〇七)年には今度は西に向かって遊歴し、京都を主として『備中庭瀬(岡山市)に滞在もした。京都では頼山陽や浦上春琴、小石元瑞らとの交友があり、また豊後竹田の田能村竹田とも交わった』。文化一一(一八一四)年に、再び、江戸に戻って『大窪詩仏のところに寄寓する。しかし、江戸の詩風は如亭に』合わず、再び『遊歴の旅に出ることになる。信越各地を』廻って、文化一五(一八一八)年に『京都に帰ってきたのであった。東山黒谷に紫雲山居を構え、いちおうの根拠地としたが、生活のためには、各地を巡歴し、潤筆料をかせぐこととなった。その間、年少の梁川星巌と交流をし、みずからの死後には遺稿の出版も頼んでいる』。『持病の水腫が悪化し』て『京都で没した』。死後に梁川の手で刊行された「詩本草」は私も所持するが、美食と旅と漢詩に生きた彼の優れた随筆である。

「几席(きせき)」野島出版脚注に『机のおいてある部屋』とある。

「寒(かん)生(しやう)ず」野島出版版では『寒は生(しよう)ず』と訓じている。脚注には『石がかたいので、見るからにさむざむとしている』と訳してある。確かにそう読みたくは確かになる。しかし、どうもに私は係助詞の「は」はしっくりこないので、かく訓じた。なお、「寒生(かんせい)」で「貧しい書生」の意から「自己の謙称」の意もあるが、それでは一句が名詞の連続となって固まった絵になってしまい、漢詩としては死んでしまうし、この幽玄に触れた冷感(霊感)によって引き出される転・結句も生きてこない。

「一堆(いつたい)」一塊(ひとかたま)り。

「巫山(ふざん)」重慶市巫山県と湖北省の境にある名山。ウィキの「巫山によれば、『長江が山中を貫流して、巫峡を形成する。山は重畳して天日を隠蔽するという。巫山十二峰と言われ、その中で代表的なものに神女峰がある』。『巫山は四川盆地の東半部に多数平行して走る褶曲山脈の中でも最も大きく最も東にある山脈で、四川盆地の北東の境界に北西から南東へ走る褶曲山脈の大巴山脈へと合わさってゆく。長さは』四十キロメートル余りにも及び、主峰の烏雲頂は海抜二千四百メートルにも達する。楚の宋玉『の「高唐賦」(『文選』所収)序に、楚の懐王が高唐(楚の雲夢沢』『にあった台館)に遊んだ際、疲れて昼寝していると、夢の中に「巫山の女(むすめ)」と名乗る女が現れて王の寵愛を受けた、という記述がある。彼女は立ち去る際、王に「私は巫山の南の、険しい峰の頂に住んでおります。朝は雲となり、夕べは雨となり(旦為朝雲、暮為行雨)、朝な夕な、この楼台のもとに参るでしょう」』『と告げた』。『この故事から、「巫山の雲雨」あるいは「朝雲暮雨」は、男女が夢の中で契りを結ぶこと、あるいは男女の情交を意味する故事成語として用いられるようになった』。『神女の素性について、『文選』所収の「高唐賦」では自ら単に「巫山之女」と名乗るだけであるが、『文選』所収の江淹「別賦」李善注に引く「高唐賦」、および江淹「雑体詩」李善注に引く『宋玉集』では、帝の季女(末娘)で、名を瑤姫といい、未婚のまま死去して巫山に祀られたと説明されている』。『また、李善の引用する『襄陽耆旧伝』では、瑤姫は赤帝(炎帝神農)』『の末娘とされている』。『後代の伝承であるが、後蜀の杜光庭の『墉城集仙録』では、雲華夫人こと』、『瑤姫は西王母の第』二十三『女で、禹の后となったとされる』。『中華民国の学者・聞一多は、この伝承を詳細に分析し、高唐神女は本来は楚の始祖女神であって、高唐神女、夏の始祖・女媧、禹の后・塗山氏』、『殷の始祖・簡狄は、もともと同一の伝承から分化したものではないか、と推測している』とある。

「星宿の海中」野島出版脚注に『星空の広い形容』とあり、この詩について、『珍しく立派な石なので、巫山の山中から出て来たものか、星空から降って来たものかと賞讃しているのである』としている。

 以下、儒者・経世家(政治経済学者)であった海保青陵(かいほせいりょう:後述)の識文「廬山石記」が載る。非常に長い白文である。原典の字はかなりクセのあるもので、やや判読に苦しむ字もあった。そこは野島出版版を参考にさせて戴いた。]

 

 

 

  廬山石記

 

長短相形高下相傾老君之言大矣哉物誠無定於髙下而人誠無分於長短從心目之所置留而變焉已故我置我心於萬丈之人而後五嶽小於指矣留我目於蠢尓之蟲貝臂毳巨於櫟社矣是之謂心遊也樂莫殷焉余遊越与崑崙橘君善矣君善畫最名干山水乃其閑則東逍西遙不名所之焉諮遠近於我眸詢當否於我脛曰是我爲厭足之道也帰則峙石繚沙以象其嶄淸冽曰是我救飢渇之術也其所最愛之曰廬山長六寸高半於長猶餘九分廣如髙而減四分重十二斤漆黒形類踞牛唯皦白纎絛自脊嶺出紆行囘流斜至膝巒岐爲二絛偃蹇拄頤欹臥望之宛然見廬瀑吹烟爲濃雲太息爲飄風當此時君意甚適其亦焉知我万丈之人乎將蠢尓之蟲乎貝亦焉論此石眞廬山乎將十二斤石乎貝亦焉辨今日文化之年乎將葛天無懷之世乎宜矣哉君之樂之不已

 乙丑之初夏武州府下之

 隱者靑陵道人鶴記  落款1 落款2

 

 

北越奇談卷之三終

[やぶちゃん注:前例に倣って、訓読して見るが、今回は野島出版版の訓読を大々的に参考にさせて戴いた(但し、歴史的仮名遣の誤りが多い)。但し、逆に従えない部分も幾つかありそこはオリジナルに変えてある。ここでは略字や異体字は正字に直した。

 

  廬山石記(ろざんせきき)

 

 長短、相(あひ)形づくり、高下(かうげ)、相傾(かたぶ)くと、老君の言(げん)、大(だい)なるか。物(もの)、誠に高下に定まること無く、人、誠に長短に分(わか)るること無く、心目(しんもく)の置留(ちりう)する所に從つて變ずるのみ。故に、我れ、我が心を萬丈の人に置きて、而して後、五嶽は指よりも小とす。我が目を蠢爾(しゆんじ)の蟲貝臂毳(ちうばいひせつ)に留(とど)めて、櫟社(れきしや)より巨(おほい)なりとす。是れを之れ、「心遊(しんいう)」と謂ふ。樂しみ、焉(これ)より殷(さかん)なるは莫(な)し。余、越に遊び、崑崙橘君と善(よ)くす。君(きみ)は畫(ぐわ)を善くし、最も山水に名(な)あり。乃ち、其れ、閑(かん)なれば、則ち、東逍西遙(とうしようせいよう)、之(ゆ)く所を名(い)はず。遠近を我が眸(ひとみ)に諮(はか)り、當否(たうひ)を我が脛(すね)に詢(と)ひて曰く、「是れ、我が厭足(えんそく)の道たるなり」と。歸れば、則ち、石を峙(そばだ)てて砂を繚(めぐ)らし、以つて、其の嶄(ざんしよう)淸冽(せいれつ)を象(つかさど)る。曰く、「是れ、我が飢渇(きかつ)を救ふの術なり」と。其の最も愛する所の石を廬山と曰(い)ふ。長さ六寸、高さは長さに半(なかば)にして、猶、九分(くぶ)を餘(あま)す。廣さは高さのごとくにして、四分(しぶ)を減(げん)ず。重さは十二斤(きん)にして漆黑。形、踞牛(きよぎゆう)に類(るい)す。唯、皦白(きようはく)の纎絛(せんたう)、自(おのづか)ら嶺(みね)を脊(せ)にして出で、紆行囘流(うかうくわいりゆう)、斜めに膝(ひざ)に至る。巒岐(らんき)、二絛(にたう)を爲(な)し、偃蹇(えんけん)、頤(おとがひ)を拄(ささ)へ、欹臥(きぐわ)して之れを望めば、宛然として廬瀑(ろばく)を見る。烟(けぶり)を吹きて濃雲(のううん)を爲(な)し、太息(たいそく)して飄風(へうふう)を爲(な)す。此の時に當たり、君が意、甚だ適(かな)ふ。其れ、亦、焉(いづく)んぞ、我が萬丈の人たるを知らんや。將(は)た、蠢爾(しゆんじ)の蟲(むし)たるか、貝(かひ)たるか、亦、焉んぞ、此の石、眞(まこと)の廬山たるかを論ぜんや。將(は)た十二斤の石たるか、貝たるか、亦、焉(いづく)んぞ辨ぜんや。今日、文化の年か、將(は)た葛天無壞(かつてむくわい)の世なるか。宜(うべ)なるかな、君(きみ)の之れを樂みて已まざること。

 乙丑(おつちゆう)の初夏 武州府下の隱者

 靑陵道人 鶴 記 落款1 落款2

 

 落款1は「皐之印」。落款2は私には判読出来ない。

 筆者儒者で経世家であった海保青陵(宝暦五(一七五五)年~文化一四(一八一七)年)についてはウィキの「海保青陵」を引く。『通称儀平(儀兵衛)または弘助、字は萬和。青陵は号である』。『別号に皐鶴。自著では「鶴」と称している』。『人生の過半を遊歴に費やし、各地で『論語』などの中国古典や漢文作成の文法を教えながら、一方で経済上の様々な相談や指導を行って家計や経営の立て直しに手腕を振い、現在の経営コンサルタントの先駆けとも評される』『人物である』。『丹後宮津藩青山家の家老・角田市左衛門(号・青渓、家禄は』五百『石)の長子として江戸で生まれる。青渓は荻生徂徠の系統を引く経世家でもあり、青陵の父と当時の藩主青山幸道は従兄弟に当たっていたため、父は藩の勝手掛という重職に就き藩財政の立て直しに努力していた。しかし、藩に内紛が起こったことで隠居せざるをえなくなり』、宝暦六(一七五六)年、未だ数え年二歳であった『にも拘わらず青陵が家督を相続する』。二年後、四歳『の時、藩主が美濃郡上藩に移封になると、一家は暇願いを出し浪人の身になる』。但し、『青陵の父は、彼が生きている限り』は『青山家から』二十人扶持で金百両ずつ、毎年、『送られることになっていたので、一家が困窮することはなかった。こうした幼いころの体験が、青陵が権力により果たすべき政策に大きな関心を持ちつつも、権力の中枢にたってそれを行使する気をもてなかった原因だろう』。『幼少時は父から、次いで』十『歳で父の師であった宇佐美灊水』(しんすい)『から儒学を学ぶ。灊水は荻生徂徠晩年の高弟で、徂徠学の公的な側面を受け継いだひとりである』。十六、七歳の頃、『蘭学医桂川甫三に住み込みで学び、ここから灊水の塾に通った。その子で父青渓の門人でもあった桂川甫周』(オランダの医学書「ターヘル・アナトミア」の翻訳「解体新書」に参加したことでとみに知られる外科医で蘭学者)『と兄弟同然に暮らした。青陵は秀才甫周を生涯』、『尊敬し、彼から西洋的な合理主義の思想を学んだという』。明和八(一七七一)年に『父青渓が尾張藩に出仕すると、青陵も後留書役に召され』たが、『学問中として辞して就かず』、安永五(一七七六)年には『弟を嫡子として角田家の家督を譲り』、『尾張藩に仕えさせ、自身は祖父の父の海保姓を名乗り、宮津藩青山公の儒者として家禄』百五十『石で奉公する。また、同年』、『日本橋檜物町に学塾を開く。このころから経世の問題に目を向ける様になった』。安永八(一七七九)年、禄を返上、さらに天明四(一七八四)年には青山家を脱藩、寛政元(一七八九)年、『経世家として身を立てるために上洛、江戸と京都を中心(しばしば木村兼葭堂を訪ねている)に大半を旅行に費やし、各地を遊学しつつ財政難に陥る大藩の高級武士や商人に経世策を説く一方、各地の産業や経済を身をもって見聞し、青陵自身の思想を深めていった』。一年間『逗留した武州川越で絹織物や煙草など産業改革案を進言したのは有名である』。享和元(一八〇一)年、『尾張藩の儒学者細井平洲が死去し』、『月並の講書が不足したため、青陵は再び尾張藩の藩儒とな』ったが、享和四(一八〇四)年には『大病を理由に辞』す。その後、金沢に二年弱逗留した(本記のクレジットは「文化乙丑」(きのとうし)でこれは文化二(一八〇五)年であるから、この金沢逗留時に越後に赴き、崑崙と逢ったものか?)後、文化三(一八〇六)年に『京都を終生の場と定め塾を開き、今までの旅でえた豊かな経験を元に『稽古談』『洪範談』『前識談』など数多くの著作に結晶させた。また、当時の文人のならいで』、『青陵は専門絵師の作品にしばしば着賛しているが、青陵自ら絵と賛をしたためた作品も残っている』。文化一四(一八一七)年に六十三歳で『京都に没す。法名は随応専順居士。生前の青陵は常々弟子たちに「私には親族はいないから、死んだら火葬し』、『骨を粉にして、大風の吹くにまかせよ」と語っていた』『が、実際には金戒光明寺の塔頭・西雲院に葬られ、「海保青陵先生之墓」が現存している』。『江戸時代後期における商業社会の拡大において、従来の封建的道徳観を否定し、智謀と打算によって富を得ようとすることを奨励した。青陵において旧来の道徳観念は活発な経済活動を抑圧する桎梏としてとらえられ、より感性的、道徳的に自由な経済観念を奨める。従来の儒者の奨める小仁(目先の上下関係に縛られ、大枠の合理性を見落としたもの)として批判し、よりマクロな視点での大仁を基に行動規範を模索した。この大仁とは、ある善行において翻って必ず悪行が付随するということを前提としたものである。経済的競争によって一方が得をし、他方が損をするという図式が、大枠においては全体的な福祉を増進するという考え方は近代的経済学との共通点を見せるとも言える。しかし一方で、旧世的な愚民観を脱却しきれず、一方的なエリート論に終始する点も見られた。こうした伝統的儒学を乗り越えようとする姿勢は、桂川甫山らの蘭学者の影響と考える者もいる。重商主義的考えに基づき藩を経営し』、『富国策を採用するよう勧めている』とある。生年から見て、崑崙より五つ六つ上であったかとも思われる。この記の書き方も親しい友とは言え、年上の相手に寄せたものではない

「長短、相(あひ)形づくり、高下(かうげ)、相傾(かたぶ)くと、老君の言(げん)、大(だい)なるか。物(もの)、誠に高下に定まること無く、人、誠に長短に分(わか)るること無く、心目(しんもく)の置留(ちりう)する所に從つて變ずるのみ」「老子」の「養身第二」に出る一節(下線太字部分)。

   *

天下皆知美之爲美。斯惡已。皆知善之爲善。斯不善已。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、前後相隨。是以聖人、處無爲之事、行不言之教。萬物作焉而不辭、生而不有、爲而不恃、功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。

(天下、皆、美の美たるを知る。斯(こ)れ、惡(あく)なるのみ。皆、善の善たるを知る。斯れ、不善なるのみ。故(まこと)に、有無、相ひ生じ、難易(なんい)、相ひ成し、長短、相ひ形(あら)はし、高下(かうげ)、相ひ傾(かたぶ)け、音聲(おんじやう)相ひ和し、前後、相ひ隨ふ。是(ここ)を以つて、聖人は、無爲の事に處(を)り、不言(ふげん)の教へを行なふ。萬物(ばんぶつ)作(つか)はれて、而(しか)も、辭せず、生(しやう)じて有(いう)せず、爲して、而も、恃(たの)まず、功、成つて、而も、居(を)らず。夫(そ)れ唯(ただ)、居らず、是(ここ)を以つて去らず。)

   *

これは冒頭で世の人間が「美」や「善」の認識を持つことによって、逆の「醜」や「悪」の概念が生まれてくるという相対観念を述べている。以下、個別の対立概念を挙げる中で出るのが、「長いものと短いものはそれぞれが互い互いを明らかにし合うものであり、高いものと低いものも互いに互いに勾配を持つことで限定し合って」最終的には調和している、というのが、この部分である。「老子」の以下は、だから聖人は徹底的に行動しないことことに拠り、無言を以って教えを伝える。だから、万物は、彼に使われて働かされても、労苦を厭わないし、彼が対象を育ててもそれを自分のものとはしないし、それを頼りとすることもせず、行為を成し遂げても、それへの敬意を求めもしない。ことさらに自分のしたことに敬意を求めないからこそ、彼はその到達した境地から追い払われることも永遠にないのである、と続いている。

「萬丈の人」野島出版補註に『心の広く大きい人』とある。

「五嶽」道教の聖地である五つの山の総称。陰陽五行説に基づき、木行(東)・火行(南)、土行(中央)・金行(西)・水行(北)の各方位に位置する五つの山が聖山とされ、東岳泰山(現在の山東省泰安市泰山区内)・南岳衡山(湖南省衡陽市南嶽区内)・中岳嵩山(河南省鄭州市登封市内)・西岳華山(陝西省渭南市華陰市内)・北岳恒山(山西省大同市渾源県内)がそれに当たる。中国神話では万物の元となった「盤古」が死んだ後に、その五体が分裂して五岳となったと伝えている。

「蠢爾(しゆんじ)」野島出版補註に『虫のうごめく形容』とある。

「蟲貝臂毳(ちうばいひせつ)」野島出版補註に『虫や貝や、やわらかい毛のある虫』とある。

「櫟社(れきしや)」野島出版補註に『櫟はくぬぎ、山野に自生する。櫟を神として祭った社。其の神木を』「轢社(れきしゃ)の樹(じゅ)」『という。荘子の人間世に出』る、とある。

「心遊(しんいう)」前の崑崙の詩の最後にもあった。心の楽しみ。

「殷(さかん)」「殷賑(いんしん)を極める」のそれ。活気があって賑やかなこと。繁華。

「善(よ)くす」親しく交友した。

「之(ゆ)く所を名(い)はず」行く所を選ばない。どこへなりとも自由自在に行く。目的地を遠近や難易などで好き嫌いで選ぶことをしないということであろう。

「遠近を我が眸(ひとみ)に諮(はか)り、當否(たうひ)を我が脛(すね)に詢(と)ひて」崑崙が、現場での実地検証と実見観察に基づいて、その当否を問うという、厳格な現実主義者であったことを指す。確かにその通り!!! 「詢」(慣用音「ジュン」)は「問う・諮(はか)る・問い訊ねる・相談する」の意。

「厭足(えんそく)」飽きて厭(いや)になるほどまで満ち足りること。即ち、ここは「満足」に同じい。

「石を峙(そばだ)てて砂を繚(めぐ)らし、以つて、其の嶄(ざんしよう)淸冽(せいれつ)を象(つかさど)る」「嶄」は山が嶮しく高く聳えたつことで、「淸冽」は深山の溪谷が冷たく澄み渡っていることを指し、現地調査でそうした峨々たる深山や谷川から自宅に戻ってくると、その実地調査をした場所を盆景の如くに縮小再現して、記録する際の視覚的参考に供したというのであろう。

「飢渇(きかつ)」ここは知的な意味での必然的要求を指す。

「長さ六寸、高さは長さに半(なかば)にして、猶、九分(くぶ)を餘(あま)す」「廬山石は」最大長軸で十八センチメートル、高さはその半分に「九分」(二・七センチメートル)を足したもので十二センチメートル弱。

「廣さは高さのごとくにして、四分(しぶ)を減(げん)ず」短軸を幅と見て「廣さ」と言っているか。「四分」(一・二センチメートル)を引くのだから、十センチ七ミリほどか。

「重さは十二斤(きん)」七キロ二百グラム。

「踞牛(きよぎゆう)」野島出版補註に『ひざをついてうずくまっている牛』とある。

「類(るい)す」シミュラクラであるが、言い得て妙。後の瀑布のような白い筋目が「斜めに膝(ひざ)に至る」「頤(おとがひ)を拄(ささ)へ」という「膝」「頤」(顎)がここに響いて非常に利いている。挿絵ともよく合致する。老婆心乍ら、挿絵の「廬山石」の正面手前を牛の蹲った頭部に見立てるのである。

「皦白(きようはく)」野島出版補註に『玉石の白色をいう』とある。

「纎絛(せんたう)」野島出版補註に『細い平うちの紐』とある。

「紆行囘流(うかうくわいりゆう)」野島出版補註に『まがって行き、わになって流れる』とある。

「巒岐(らんき)」野島出版補註に『山の峰のわかれている処』とある。

「偃蹇(えんけん)」野島出版版『いんけん』とルビするが、不審。物が延び広がったり、高く聳えたりしていること。

「欹臥(きぐわ)」寝転がって。石の平面位置まで視線を下げて、近づくことで遠近感を逆転させる幻視である。

「宛然として」まさにその通りに。さながら。

「廬瀑(ろばく)」廬山の瀑布。

「烟(けぶり)」瀧の落ちた水煙である。

「太息(たいそく)」これは私は観察者の溜息なんぞではなく、ミニチュアの廬山の大地の「大いなる気」が起こり、それが廬山の谷々を急に激しく吹く疾風(はやて)(「飄風(へうふう)」)となって吹き抜けるのを感じる、という比喩と読む。そうでないと、前の「烟(けぶり)を吹きて濃雲(のううん)を爲(な)し」と美しい対句にならぬからである。

「此の時に當たり、君が意、甚だ適(かな)ふ」この瞬間、君(橘崑崙)の幻想は美事に完成し、心が十全に満たされる。

「其れ、亦、焉(いづく)んぞ、我が萬丈の人たるを知らんや」年上の青陵にして、崑崙への最大の賛辞である。崑崙君は、まさに私にとっての拠り所とすべき、心の広く大きな人なのである、というのである。

「將(は)た、蠢爾(しゆんじ)の蟲(むし)たるか、貝(かひ)たるか、亦、焉んぞ、此の石、眞(まこと)の廬山たるかを論ぜんや。將(は)た十二斤の石たるか、貝たるか、亦、焉(いづく)んぞ辨ぜんや」この部分、野島出版版は訓読文が混乱してしまっていて参考にならない(意味自体が採れない)。しかし私の以上の読みも実は自信がない。識者の御教授を切に乞うものである。

「葛天無壞(かつてむくわい)」野島出版補註に『葛天は中国太古の帝王。無壊はくずるることのない時世。葛天の時代には無為にして化したという』とある。伝説上の帝王葛天氏(かってんし)。伏羲(ふっき)の号を継いで、その治世は治めずして治まったとされる。その名は葛(くず)の茎を煮て繊維を採り出し、三つの束を撚り合わせて糸や繩を創造したとされ、最初の衣服の創造神ともされる。

「武州府下の隱者」先の注の青陵の事蹟中で、私は、彼が金沢に二年弱逗留していた折りに越後に赴き、崑崙と逢ったのではないかと推理した(引用は省いたが、彼が越中高岡に訪ねたことはウィキの『名字「海保」の読み』の叙述から判明している)が、この時、彼はを見ると、尾張藩の藩儒を辞任しているから、一種の浪人であり、「武州府下の隱者」と限定した理由がやや解せない。或いは、これ以前、一年間ではあったが、武蔵国川越に滞在して絹織物や煙草など産業改革案を進言したと事蹟にあったから、或いは、この時の思い出が懐かしく蘇って、流浪の文化二(一八〇五)年の自分を、敢えてかく名指したのかも知れない。私には何となくそんな彼の気持ちが判るような気がするのである。]

 

北越奇談 巻之三 玉石 其二十二(化石溪・海石)

 

    其二十二

 

 大湯村【前に出す。】より、會津に越(こす)所、駒ヶ嶽(こまがたけ)の深谷(しんこく)に入る事、三里にして、化石溪(くはせきけい)と名づくる所あり。艸木(さうもく)となく、虫羽(ちうう)の類(たぐひ)となく、此流(ながれ)に落入(おちいる)時は一周年を歴(へ)て、皆、化石となる。其水、夏日と雖も、悉(ことごとく)苦寒(くかん)にして、渉(わた)るべからず。又、蘇門山(そもんざん)の北、下田郷(したゞごう)の深谷に化石する所ありと云へ傳ふ。いまだ、其地に至らず。凡(およそ)北越、奇石を出(いだ)す事、所々(しよしよ)に夛(おほ)しと雖も、河内谷幷ニ大湯村・佐奈志川の邊(へん)、尤(もつとも)多し。頸城(くびき)鍋浦(なべうら)、又、海石(かいせき)の奇を出(いだ)す。以(もつて)、好事の人、尋ね求(もとむ)るに、便りするものなり。

 

[やぶちゃん注:「大湯村」複数回既出既注。新潟県魚沼市大湯温泉。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「駒ヶ嶽」既出既注。越後駒ヶ岳。新潟県南魚沼市と魚沼市に跨る。標高二千三メートル。(グーグル・マップ・データ)。相当な山越えルートとなるが、大湯からこの山の南を回って(現在の国道三五二号相当)東北に向かうと、現在の福島県の「會津」地方に向かう。

「化石溪(くはせきけい)」不詳。後のかの鈴木牧之の名著「北越雪譜」の「二編二之卷」に「化石溪」が出るが、同じ野島出版の「校註 北越雪譜」(宮栄二監修/井上慶隆・高橋実校註/昭和四五(一九八〇)年初版刊。私が所持するのは平成五(一九九三)年刊の改訂版)の補註(三二〇頁)に、この「北越奇談」の『化石渓がどこであるか、はつきりしない。破間川』(あぶるまかわ:小出で羽根川と合流して魚野川に合流する川。佐梨川の北)『の上流あたりか、あるいは』『羽根川の誤聞かとも思われる』とある。先の北越奇談 巻之三 玉石 其四(木葉石)も参照されたい。

「艸木(さうもく)となく、虫羽(ちうう)の類(たぐひ)となく、此流(ながれ)に落入(おちいる)時は一周年を歴(へ)て、皆、化石となる」かく冷水によって固まり一年で化石化するとしたら、これは全く以って真正の怪談ということになるのであるが、これは形態を殆んど損していない美しい動植物の全形化石を、かく、伝承したものであろう。

「蘇門山(そもんざん)」既出既注。新潟県魚沼市・三条市・長岡市に跨る標高千五百三十七・二メートルの守門岳(すもんだけ)山のこと。(グーグル・マップ・データ)。

「下田郷(したゞごう)」旧南蒲原郡下田村、現在の新潟県三条市の地区(グーグル・マップ・データ)。

「河内谷」既出既注。新潟県五泉市川内。附近(グーグル・マップ・データ)と私は推定する。

「大湯村」既出既注。新潟県魚沼市大湯温泉。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「佐奈志川」既出既注。新潟県魚沼地方を流れる信濃川支流の魚野川のそのまた支流である佐梨川。駒ヶ岳を水源とし、全長約十八キロメートル。

「頸城(くびき)鍋浦(なべうら)」本書冒頭に出た「鍋が浦」現在の新潟県上越市大字鍋ケ浦。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「海石(かいせき)」石ではなく、既に冒頭の石」に出た珊瑚等の類。

「便りするもの」奇石収集の格好の採集(というよりも買い入れ)地とする場所。]

北越奇談 巻之三 玉石 其二十一(蒲萄石)

 

    其二十一

 

 糸魚川より、山中九里(くり)にして、蝋石山(ろうせきざん)あり。山の渡り、三里の間(あいだ)、頂(いたゞき)より谷に至りて、皆、蒲萄石(ぶどうせき)。色、少し柔らかなるが故に、印文(いんぶん)を成すに不ㇾ堪(たへず)と雖も、潤沢ありて可ㇾ愛(あいすべし)。此他の人、是を切取(きりとり)て温石(おんじやく)と成し、諸方に賣(うる)。亦、以(もつて)、香合(かうがう)・肉地(にくち)なんどを作るべし。いまだ此山に遊ばず。恨ら(うらむ)らくは、其(その)上品なる所に訪ね當たらざることを。

 

[やぶちゃん注:「蝋石山(ろうせきざん)」不詳。糸魚川市街地から三十五キロメートル強という謂いと、前の条で同じく「蝋石」(前条の私の注を参照)が出ていることから、前の条で推理した新潟県糸魚川市大平にある放山(ここ(グーグル・マップ・データ))の周辺域と考えてよいように私には思われる。識者の御教授を乞う。

「山の渡り」十二キロメートル弱というのだから、これは山の麓の直径ではなく(であったら、どでかい山で見つからぬはずがない)、山へのアプローチの実動距離のことであろう。

「蒲萄石(ぶどうせき)」葡萄石。古くはこうも書いた。但し、歴史的仮名遣は「ぶだうせき」である。層状珪酸塩鉱物の一つである「プレナイト」(prehnite)のこと。小学館「日本大百科全書」によれば、斜方短柱状、乃至、『菱餅(ひしもち)状の結晶形を示すが、多くは結晶面が湾曲し、さらにそれらが多数集合してブドウ状の球塊をつくる。また塊状、脈状をなす』。『変成した塩基性ないし中性火成岩中に』産する。空隙には、『しばしば淡緑色球状の結晶集合体がみられる。アメリカのニュー・ジャージー州パターソン産のものは世界的に有名』。『日本のおもな産地は島根県松江市美保関(みほのせき)町地区である。英名は、鉱物収集家でオランダの軍人プレーンHendrik von Prehn』(一七三三年~一七八五年)に由来し、和名はその外観に因る、とある。グーグル画像検索「prehniteをリンクさせておく。

「潤沢」しっとりとして艶(つや)や潤いがあること。

「印文(いんぶん)を成す」印材として文字を彫る。

「温石(おんじやく)」焼き石。焼いた石を綿や紙などで包んだもので、冬に体を暖めるのに使った。

「香合(かうがう)」歴史的仮名遣は「かうがふ」が正しく、「香盒」(現代仮名遣:こうごう)と同じい。香箱(こうばこ)。香を入れる蓋の附いた小さな容器。中・上流階級の持ち物。

「肉地(にくち)」普通は「肉池」だが、違和感はない。朱肉を入れる容器。肉入れ。印池(いんち)とも称する。]

2017/08/22

北越奇談 巻之三 玉石 其二十(瑪瑙らしき白石)

 

    其二十

 

 鉢伏山(はちぶせやま)の奥、高嶺(かうれい)、次第に重(かさな)り、深遠、云ふべからず。一日、樵夫、谷に入りて茯苓(ぶくりやう)を掘るに、大塊(たいくわい)の白石(はくせき)、其色、少し赤みて、重さ五貫目ばかりなるを得たり。樵夫、何(なに)と云ふことは知らざれども、其色の光沢(くはうたく)なるを以つて、是を擔(にな)ふて長岡の市(いち)に賣る。松屋何某(なにがし)なる者、是を買得(かいえ)て、弄玩するに、一日、浪華(らうくは)の商人(しやうじん)來りて強(しい)てこれを求む。其(その)名づくるに、「蝋石(ろうせき)」ならんことを以(もつて)す。終(つゐ)に是(これ)に贈る。按ずるに瑪瑙(めなう)なるべきか。可惜々々(おしむべし おしむべし)。

 

[やぶちゃん注:「鉢伏山(はちぶせやま)」幾つかの情報から推理すると、新潟県糸魚川市大平にある放山(ここ(グーグル・マップ・データ))の周囲の何れかのピーク(の名か或いは正規名ではない別称)ではないかと思われる。

「ぶくりやう(ぶくりょう)」は漢方薬に用いる生薬の一つ。既出既注であるが、再掲しておくと、茸の一種である松の根に寄生する松塊(まつほど:菌界担子菌門菌蕈(きんじん)綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensa)の菌核を乾燥させたもの。健胃・利尿・強心等の作用を持つ。

「五貫目」十八・七五キログラム。

「浪華(らうくは)」なにわ(漢字表記は他に「難波」「浪速」など)。大阪の古名。

「商人(しやうじん)」あきんど。

「蝋石(ろうせき)」普通に言う「蠟石(蝋石:ろうせき)」は緻密で塊状を成し、単一の鉱物ではなく、蠟のような感触を有する鉱物や岩石の総称。ウィキの「ろう石」によれば、葉蠟石(pyrophyllite:パイロフィライト:層状ケイ酸塩鉱物の一種で軟らかい。篆刻材などに用いる)などを含む蠟のような感じを持つも幾つかの鉱物の集合体の名称で、流紋岩やデイサイトなどが熱水作用を受けて生成したと考えられており、本邦では岡山県備前市三石や広島県庄原市勝光山などが産地で、『耐火煉瓦やガラス繊維などの原料として利用されている』とある。僕らの世代ぐらいまではお馴染みだった、舗装道路に落書きした、あの「ろう石」である。しかし、後で崑崙が言うように、これはそんな安物ではなく、確かに「瑪瑙」(めのう:縞状の玉髄の一種で、オパール(蛋白石)・石英などが火成岩或いは堆積岩の空洞中に層状に沈殿して出来た鉱物の変種で高級宝石)だったのであろう。]

北越奇談 巻之三 玉石 其十九(鍾乳石)

 

    其十九

 

Syounyuuseki

 

[やぶちゃん注:図をここに示す。既に右に半分出ている「音穰石」(おんじょうせき)は「北越奇談 巻之三 玉石 其十六(奇石数種)」合成画像を出した。左端のキャプションだけを電子化しておく。

 

白玉氷柱(白玉(はくぎよく)、氷柱(ひやうちう)のごとし)

  乳石の長ずる

  ものか 石髄か

 

「乳石」は図の上部の絵で見る通り、現在の鍾乳石(鍾乳石は狭義には垂れ下がるものをのみ指し、鍾乳石の下に出来るものは石筍(せきじゅん)・石柱として区別されるが、広義にはそれらを含む語としても使用されてはいる)である。左下の奇体なそれはよく判らない。鍾乳石が複数密集したものにしては、絡み方が普通でない。ある種の枝珊瑚の形骸のようにも見えなくはない。「石髄」は岩石学では「リソマージ」(lithomarge)と呼ばれる、長石に富む岩石が風化してできた緻密なカオリン(kaolin:白陶土。岩石中の長石の分解によって出来た残留粘土)を主とする土で、数種類の柔らかい粘土状の物質を指す。]

 

 妻有郷(つまありがう)十日町、山中絶壁の下(した)、乳石(にうせき)を出(いだ)す。甚だ、上品なれ共(ども)、常に採り得ること、難(かた)し。河内谷(かはちだに)より出(いづ)る所の石髓(せきずい)、岩下(がんか)に滴(したゞ)り、大塊(たいくわい)を成すもの、百蛇(ひやくだ)、相(あい)纏(まと)ふがごとく、奇怪の形、云ふべからず。此内、乳石を生ず。五泉(ごせん)、何某(なにがし)の藏(ぞう)する所、高サ四尺計(ばかり)、囘(めぐり)一圍半(いちゐはん)、左に圖す。堅實にして、刀刃(とうじん)の及ぶ所にあらず。其色光(しよくくはう)、白し。只し、水昌(すいせう)には劣れる物なり。

 

[やぶちゃん注:「妻有郷(つまありがう)十日町」越後妻有は新潟県十日町市及び新潟県中魚沼郡津南町(つなんまち)に及ぶ広域地名。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。ただ、この地区で現在、鍾乳石が採取出来るという情報はネット上には見当たらないようである。

「河内谷(かはちだに)」新潟県糸魚川市上路河内谷。(国土地理院地図)。この地区も現在、鍾乳石が採取出来るという情報はネット上には見当たらない。

より出(いづ)る所の石髄(せきずい)、岩下(がんか)に滴(したゞ)り、大塊(たいくわい)を成すもの、百蛇(ひやくだ)、相(あい)纏(まと)ふがごとく、奇怪の形、云ふべからず。「此内、乳石を生ず」は半可通。前の岩の下に滴ったものが、百匹もの蛇が絡み合ったものの如き奇怪な形の大きな塊りの中に、鍾乳石が生ずるという意味と採るしかないが、何だか、それも私には意味を成しているようには読めぬ。私が馬鹿なのか? どなたか、お教え願えると助かる。

「五泉(ごせん)」地名ととった。何故なら、現在の新潟県五泉市刈羽字大沢乙には「大沢鍾乳洞」が存在するからである((グーグル・マップ・データ))。五泉市の南、五泉市公式サイト解説によれば、『田上町との境をつなぐ大沢峠にあるめずらしい鍾乳洞で』、『大沢鍾乳洞は新生代新第三紀世』(二千四百万年から百八十万年前)『に砂が堆積してできたやわらかい砂岩の層が盛り上がり、陸となった後に形成され』たものとされる。『日本にある鍾乳洞の多くは数億年前の石灰岩という硬い岩石の』中に生じたものが殆んどで、『このように新しい地層の中にできた鍾乳洞は全国的にも珍し』いとする。現在の大沢鍾乳洞の総延長は百四十五・九メートル、高低差は十七メートルである。『もとはたくさんの鍾乳石や石筍があったといわれてい』る『が、今は天井、壁などにわずかしか見られ』ないとあるから、近代以前にその多くが採石されてしまったものと読める。

「囘(めぐり)一圍半(いちゐはん)」身体尺の両腕幅の「比呂」ならば二メートル二十七センチほどになる。高さが一・二メートルもあり、しかも図の左に描かれたように、ごちゃごちゃになったそれだから、その円周はこれくらいはありそうに見える。

「水昌(すいせう)」水晶のことであろう。]

北越奇談 卷之三 玉石 其十八(毒石=竜骨=スランガステイン)

 

    其十八

 

 長岡藩中、島(しま)氏(うぢ)の家に祕藏する所、毒石(どくせき)あり。大さ、如ㇾ卵(たまごのごとし)。色、靑黑(せいこく)。蝮蛇(ふくだ)の毒、及び、一切の毒を消(せう)す。其痛む所に石を押當(おしあつ)れば、卽(すなはち)、毒を吸盡(すひつく)して癒(いゆ)。其後(そのゝち)、石を以(もつて)、乳汁(にうじう)に浸(ひた)せば、皆、其毒を吐き盡(つく)せり。是、外國の產、その名を忘失(ぼうしつ)す。三島郡島崎(しまさき)村、加右ヱ門(かゑもん)と云へる者、數代(すだい)家に傳へる一塊(いつくわい)の小石(こいし)あり。その名を知らず。只、血を止(とめ)るに妙なり。諸血(しよけつ)、皆、治(ぢ)す。此石を疵口(きづくち)に附(つ)くれば、忽(たちまち)、血、止(とま)り、痛(いたみ)、去(さる)と云へり。

[やぶちゃん注:この石は恐らく「スランガステヰン」(オランダ語“slangensteen”(スランガステーン:「蛇の石」の意)である。江戸時代、オランダ人が伝えた薬石の名で、蛇の頭から採取するとされた、黒くて碁石に似た白黒の斑紋を持った石。腫れ物の膿を吸い、毒を消す力を持つとされ、「蛇頂石」「吸毒石」とも呼んだ。所謂、中国の「竜骨」(古代の象やその他何でもかんでも変わった化石は「竜骨」と称した)である。これは私の非常に得意な分野の一品で、既に私は「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「龍」の注でマニアックにしてフリーキーに追跡している。かなり長いが、是非、ご覧あれかし。ページ内検索に「須羅牟加湞天」(スランカステンと読む)を入れてお捜しあれ。捜すのが面倒な方は、私のブログの大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 龍骨」をどうぞ(同内容)。結論だけを言っておくと、この「毒石」の成分は、燐酸石灰と少量の炭酸石灰及び稀少の炭素との化合物で、それは即ち、動物の骨を焼いたもの、或いは、古代の動物の化石に他ならない。

「長岡藩」越後国の古志郡全域及び三島郡北東部・蒲原郡西部(現在の新潟県中越地方の北部から下越地方の西部)を治めた藩で、現在の新潟県長岡市・新潟市を支配領域に含む藩であった。藩主は初め、外様の堀氏(八万石)であったが、二年で越後村上に移され(元和四(一六一八)年)、譜代の牧野氏に交替した。

「島氏」不詳。非常に細かいウィキの「越後長岡藩の家臣団には載らない。

「蝮蛇(ふくだ)」言わずもがなであるが、蝮(まむし:有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii)のこと。

「三島郡島崎(しまさき)村」現在の新潟県長岡市島崎。(グーグル・マップ・データ)。]

北越奇談 巻之三 玉石 其十七(八ツ花形の古鏡)

 

    其十七

 

 三島蒲原の郡境(こほりざかひ)、五千石村、武久礼(たけくれ)の神社、今、荒果(あれは)てゝ小社(ほこら)なし。其神體、八ツ花形(やつはながた)の古鏡(こきやう)なり。何れの時か是を納めけん。近來(きんらい)、此神を以(もつて)、野中才と云へる寺に移すと云へり。

 

[やぶちゃん注:「武久礼神社のこと(野中才)」のページに以下のようにある。非常に貴重なので例外的に全文を引用させて戴いた問題があれば、除去する)。明らかな誤植と思われる箇所を訂し、また、一部、読み難い箇所に読点を追加した

   *

 野中才の神社の境内に武久礼神社が合祀されています。この武久礼さまについてすこしお話してみたいと思います。「北越奇談」という江戸時代の本によりますと、武久礼神社の古鏡と題して、「五千石に武久礼神社というのがあったが、荒れ果てて今はない、そして、その御神体は八ツ花の古鏡で、いつ納めたものであろうか、近来、この御神体を野中寺という寺にうつした」[やぶちゃん注:上記の通り、「野中寺」という記載は原典にはない。]とありますし、一方、野中才の村の明細張をみますと、「武呉さまは、弥彦大明神のみこ(御子)、天五田根命と申上げ、後に天急雲命と改名された神様であり、古書にも野中才のものだと書いてあるのに、五千石村開墾のときに囲いとられてしまった」と書いてあります。

 ともかく今は野中才にありますが、以前、この御神体が何者かにぬすまれてしまったことがあります。

 そのとき、専念寺の藤田了存師が夢知らせをうけて、御神体は巻の小道具屋にあるというので、小川原平ェ門が巻に行ったら、なるほど、夢の通りに古道具屋にあり、一分で買取ってきたと言うことです。四月五日(もとは四月四日)が祭りで、祭りの日には「おはぎ」を上げ申して、専念寺様が、阿弥陀経一巻を読んで下さる事になっているそうです。ために、疫病(特に痘瘡)は流行らず、村人は武久礼さまの御利益とばかりに喜んでおりました。尚、古鏡は横崎山から掘り出したものと伝えられていますが、残念ながら、今はありません、惜しむべき事ですね。

   *

「五千石村」現在の新潟県燕市五千石。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「武久礼(たけくれ)の神社」前の引用中に、『野中才の神社の境内に武久礼神社が合祀されてい』るとある。グーグル・マップ・データでは見当たらないので、国土地理院地図を用いて探してみた。名前はないが、現在の燕市野中才(のなかさい)にあるとすれば、この神社か? これはネット検索によって「諏訪神社」であることが判明した。因みに、野島出版脚注には、『西蒲原郡地藏堂駅[やぶちゃん注:現在の新潟県燕市分水桜町にある越後線の分水(ぶんすい)駅の旧称。ウィキの「分水駅」によれば、大正元(一九一二)年年末に新設されたもので、当時の駅名の「地蔵堂」は所在地の当時の町名であったとあり、昭和五八(一九八三)年に分水駅に改称したとある。野島出版版「北越奇談」の初版は昭和五三(一九七八)年で、その折りの注がそのまま残っているためにこうなっている。私の所持するのは平成二(一九九〇)年の第五版であるが、版を重ねている割には、残念ながら、細部が改訂されていないことが判ってしまう。本書の脚注が文章や表現にちょっと古い、しかも言い回しに妙な違和感があるのは、その古さのせいである。の西南方約一丁位に野中才と云う土地がある。この鎮守は今は諏訪宮であるが、こゝに武呉神社が併祀されている。この神社より西北一丁位に神明神社があって、この境内に大悲閣なる寺がある。この寺は神社の構造である。恐らくは薬師で石動神社でなかったかと思わるゝ。即ち神明、石動、諏訪の末社を有した武呉神社があったのが後に末社たる諏訪神社を主神としたものと思わるゝ(真島衞著伊夜日子神社祭神の研究上巻)』とある(下線やぶちゃん)。私が先に示した神社が、この下線部の「諏訪神社」で、そこから百九メートル西北に「神明神社があって、この境内に大悲閣なる寺がある」というのであるが、国土地理院地図でも寺も神社もない。野島出版版の注釈者はここが原「武久礼神社」であったと推定しているようである。郷土史研究家の方の御意見を伺いたいところである。

「野中才と云へる寺」「野中才」には原典ではルビ部分が真っ黒になっている。組み忘れか、後に削除して潰したものであろう。前の注を読まれれば判る通り、これは寺の名ではなく、地名(現在の五千石地区の北に接する)で、その地区に先の引用に出た浄土真宗専念寺があるここ(グーグル・マップ・データ)。

「八ツ花形(やつはながた)」辺縁に八つの稜を持つ古い形の鏡か。八ヶ岳原人氏のサイト内の「諏訪大社と諏訪神社」の中の『神宝「真澄の鏡」』に画像で出る「瑞花麟鳳八稜鏡」のようなものではなかろうか?]

 

北越奇談 巻之三 玉石 其十六(奇石数種)

 

    其十六

 

 頸城池舟(くびきいけふね)、上原(うえはら)氏(うぢ)、音穰石(おんじやうせき)と云へる物を藏(おさ)む。その形、河貝子(びんらうしかひ)のごとく、長八寸、又、貝の化石にもあらず。自然に孔(あな)ありて、是を吹(ふく)に、其聲、淸(すめ)る篳篥(ひちりき)のごとく高く鳴渡(なりわた)りて、數里(すうり)に聞(きこ)ゆ。以(もつて)、樂器となすに堪(たえ)たり。其石、皴文(しゆんもん)なく、形、麁(そ)にして雅なり。同(おなじく)、宮口村(みやぐちむら)、池田氏、胡瓜石(こくはせき)を、藏む。外(ほか)、堅實、麁皮(そひ)、黄赤色(くはうせきしよく)、これを兩片なせば、内、自然に肉白く、仁(にん)ありて、眞(しん)のごとし。同、深町(ふかまち)、田中氏、木賊石(せきぞくせき)なるを藏む。已に圖に表はす。同、梶村(かぢむら)、田中氏、大勾玉(おほまがだま)三品(ひん)を藏む。其圖、石鏃の部に出す。同、高田塩町(たかたしほまち)、大眼寺(だいがんじ)に牛額珠(ぎうがくしゆ)あり。丸くして、少し、平(ひら)みあり。灰色の毛、濃(こまやか)に包みたるものゝごとし。倉石氏(くらいしうぢ)は北越の奇石家にして、藏す所、數百品(すひやくひん)、一々(いちいち)擧ぐるに遑(いとま)あらず。只、予が國の産物追(おつ)て考(かんがへ)、後編に出(いだ)す。同(おなじく)、糸魚川(いとゐがは)上出村(かみでむら)神社、その神體、只、白玉一双、あり。誰人(たれびと)の納めたると云ふことを知らず。

 

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[やぶちゃん注:この最初の「音穰石」の図が、後(「其十三」の後)に出るが、二頁に亙っていて分断されてしまっているので合成した上、周囲の枠や続く鍾乳石(「其十九」で後述される)などをトリミングして本文の後に示した。私の仕儀の割には、かなり上手く合成出来た部類である。

「頸城池舟(くびきいけふね)」現在の新潟県上越市牧区池舟か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「上原(うえはら)氏」電話帳でも現在の池舟地区には上原姓の方が多い。或いは現在もこの石がこの上原姓のどなたかの家に伝わっているかも知れぬ。

「音穰石(おんじやうせき)」「穰」は「豊穣」のそれで、「穀物が豊かに稔る」・「豊か」の意であるから、音を共鳴させてよく響かせる石の謂いであろう。或いはこれは鍾乳石の一種か? 鍾乳石の成長したものには鍾乳管(ソーダ・ストローあるいは単にストロー)と呼ばれる中空状の部分(ここで言う孔)が生ずるからである。

「河貝子(びんらうしかひ)」腹足綱吸腔目カニモリガイ上科カワニナ科 Pleuroceridae に属するカワニナ(河螺)類(模式種はカワニナ属カワニナ Semisulcospira libertina)のこと。

「八寸」二十四・二四センチメートル。

「貝の化石にもあらず。自然に孔(あな)あり」かくも断言している以上、自然石らしい。

「皴文(しゆんもん)」「皴」は「皺」(しわ)に同じい。普通、多くの石の表面に生ずるはずの筋目・節理。

「麁(そ)」通常は「粗く雑な様子・大まかなこと」「賤しく粗末なこと」の意であるが、ここは「素朴なさま」ととっておく。

「宮口村(みやぐちむら)」上越市牧区宮口。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「池田氏」やはり現在の電話帳でも三氏を認める。

「胡瓜石(こくはせき)」胡瓜(ウリ目ウリ科キュウリ属キュウリ Cucumis sativus)そっくりな石らしい。

「麁皮(そひ)」粗い表面。

「これを兩片なせば」二つに折ってあって。

「仁(にん)」種(たね)。それが胡瓜と全く同じ位置に並んであるから、まさに本物の胡瓜が石となったように見える(「眞(しん)のごとし」)というのである。

「深町(ふかまち)」不詳。

「木賊石(せきぞくせき)なるを藏む。已に圖に表はす」本「巻之三 玉石」の冒頭これ。そこでは「とくさいし」と訓じている。私はウミトサカ(八放珊瑚)亜綱ヤギ(海楊)目角軸(全軸)亜目トクササンゴ科トクササンゴ属 Ceratoisis のトクササンゴ類に同定した。

「梶村(かぢむら)」新潟県上越市吉川区梶か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大勾玉(おほまがだま)三品(ひん)を藏む。其圖、石鏃の部に出す」「石鏃の部」は誤りで、「其九」(白玉環・勾玉・管玉)のこれである。

「高田塩町(たかたしほまち)」不詳。

「大眼寺(だいがんじ)」新潟県上越市寺町(通称で高田寺町。(グーグル・マップ・データ))に、現在、浄土宗五台山常住院大嚴寺(だいごんじ)、及び、曹洞宗高陽山太岩寺(たいがんじ)ならば存在する。

「牛額珠(ぎうがくしゆ)」不詳。形状も想起出来ない。識者の御教授を乞う。因みに、ナデシコ目タデ科タデ属ミゾソバ Polygonum thunbergii ィキの「ミゾソバによれば、『葉は互生し、形が牛の額にも見えることからウシノヒタイ(牛の額)と呼ばれることもある』とある。この葉の形(確かに牛の頭部に似ている)かと思ったが、「丸くして」とあるから違う。

「倉石氏(くらいしうぢ)は北越の奇石家」不詳。識者の御教授を乞う。

「後編」冒頭の注で述べたが、結局、この「北越奇談」後編なるものは出版されず、その草稿の有無も判明していない。まことに惜しい!

「糸魚川(いとゐがは)上出村(かみでむら)神社」現在の新潟県糸魚川市上出にある神明神社か。(グーグル・マップ・データ)。なお、一般には天照大神を祀る神社を神明神社と呼ぶが、太陽神である彼女を白玉で象徴することはおかしくはない。]

北越奇談 巻之三 玉石 其十五(石鯉)

 

    其十五

 

 松の山(やま)浦田口村(うらたぐちむら)、山(やま)氏(うじ)所藏の石鯉(せきり)、囲(めぐ)り、一尺余(よ)、頭(かしら)の方(かた)、半尺二寸ほどもあらんか。鱗鬚(りんしゆ)、全く備(そな)はり、金(きん)・黑色(こくしよく)交(まじは)る。一とせ、高山(かうざん)の峯、片缺(かたか)け落(おち)て、谷に入。一樵夫(いつしようふ)あり。その所に至(いたつ)て仰ぎみるに、缺け落ちたる所、數十丈上に金色(きんいろ)物、日に映じて見ゆ。樵夫、即(すなはち)、「黄金(わうごん)なり」として、獨り、是を得んことを欲(ほつす)れども、た易く取(とる)べからず。漸々(やうやう)にして、攀(よ)ぢ上り、其所(そのところ)に到れば、片足を踏み外(はづ)して、巳に落ちんとす。驚き慌(あは)て、力(ちから)を出(いだ)し、其物(そのもの)とりつきたれば、かの金色(きんしよく)なるが、さし出(いで)たる土際(つちぎは)より、折(おれ)て、是と共に谷に落(おち)たり。扨(さり)とて、得たる所の物を見れば、即、鯉(り)の頭(かしら)の方(かた)、半(なかば)より折(おれ)たるなり。其後(そのご)、好事の者、その尾の方を掘り得て、今、猶、他の家に藏(おさ)むと云へり。未(いまだ)、是を見ず。「金臺紀聞(きんたいきぶん)」云、『縣河灘上有乱石石魚長可二三寸天然鱗鬣或雙或隻不等』とあり。此類(たぐひ)なるべきか。

 

[やぶちゃん注:これは現在の新潟県十日町市松之山と推定される。ここ(グーグル・マップ・データ)。その根拠はイッシー氏のサイト内の「市町村の変遷」のこちらのページに、旧東頸城郡内に「浦田口村」という村が存在した事実、その村は明治時代に合併して「松之山村(まつのやま)」となっているが、その合併した村々の中には「松之山」という名はどこにもなく、これは或いは、この地区の古い広域地域呼称だったのではないかとも推測されること、明らかに山間地で、この話柄に合致すること、による。

「石鯉(せきり)」魚の(こい)鯉の形に酷似した石。鯉(条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科コイ属コイ Cyprinus carpio)の化石などではなく(化石の場合は骨格であることが多いが、ここの表現は明らかに生きた鯉の外面形態を保持しているとしか読めない)、素人ながら、私は黄銅鉱様の鉱石などを含んだ黒色粘板岩のシミュラクラではないかと私はまず推理した。或いはフェイク(人工的に石で彫り上げたもの)の可能性もあろう。

「半尺二寸」約三十六センチメートル。

「鱗鬚(りんしゆ)」鱗(うろこ)と鬚(ひげ)。「全く備(そな)はり」とあるからには、口元には二対の口髭があることになる。

「金臺紀聞(きんたいきぶん)」野島出版版脚注では不詳とするが、調べてみると、これは明の陸深の撰になる博物学的随筆である。中文古典テクスト・サイトの「中國哲學書電子化計劃」のここで原文が読め、そこに、

   *

郡縣河灘上有亂石、隨手碎之。中有石魚長可二三寸、天然、鱗鬣、或雙或只不等。雲藏衣笥中能闢蠹魚。又平陽府侯馬驛澮河兩岸仄土上、皆婦人手跡、或掌或拳、儼然若印、削去之其中複然。又大同山中有人骨、在山之腰、上下五六十丈皆石耳。惟中間一帶可四五尺、皆髑髏脛節齦齦然。關中之山數處亦爾。余聞之陝西舉人張守、後以訪之士大夫云果然。造化變幻。何所不有也。

   *

とある。思うに、こちらの叙述は魚化石のようにも読めぬことはない

「縣河灘上有乱石。石魚、長可二三寸。天然、鱗鬣、或雙、或隻、不等」「北越奇談」の原典は以下のような感じで訓じている。原典の略字を正字化し、歴史的仮名遣の誤りも訂して示す。更に〔 〕で私が必要と考えた送り仮名を添えた

   *

縣河(けんが)・灘上(たんしよう)に亂石(らんせき)有り。石魚(せきぎよ)〔は〕、長さ、二、三寸(ずん)〔あるべし〕。天然〔の〕鱗鬣(りんしゆ)〔あり〕、或いは雙(さう)、或いは隻(せき)〔にして〕不等(ふとう)〔たり〕。

   *

野島出版脚注には「縣河」は『傾斜が急で流れの早い川』とし、「灘上」『水浅く石多くして急に流れ、舟行の困難なる処』とある。「亂石」とはさまざまな形状を成した雑多な石塊の意味らしい。その中に「石魚」なるものがあると言うのであろう。「或いは雙、或いは隻にして不等たり」(最後は私は「等しからず」とは、鱗や「鬣」(これは「鬚(ひげ)」とも「鰭(ひれ)」ともとれる。両方でとっておく)の鱗(うろこ)や鰭(ひれ)や鬚(ひげ)は左右対称のものもあり、片方しかないものもあって、普通の魚のようなシンメトリーを成していない(「不等」)、の謂いと読んだ。]

2017/08/21

北越奇談 巻之三 玉石 其十四(古銭)

 

    其十四

 

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[やぶちゃん注:古銭の図。キャプションを電子化し、大きさを換算する。「其十三」の部分のキャプションの電子化注は既に示した

〈画像一枚目〉

○福井村古銭ノ内 珍銭数品(すひん)

徑八分[やぶちゃん注:「徑」は「わたり」で直径。二・四センチメートル。銭の左右に「半兩」。]

徑六分五厘[やぶちゃん注:二センチメートル弱。銭の左右に「三銖」銖は中国の重量単位で五百九十ミリグラム相当。本邦では江戸に貨幣単位として用いられ、一両の十六分の一、一歩(ぶ)の四分の一。「朱」に同じ。一銖(朱)は銀目(ぎんもく:銀貨相当)の約三匁七分五厘(十四グラム)に相当した。]

徑七分余[やぶちゃん注:「七分」は二・一二センチメートル。]

 文字かはり

     あり

[やぶちゃん注:「かはりあり」次とともに彫られた文字の手蹟が変わったものであるという謂いか? 右は「五」か? 左は先の「銖」。]

徑七分

 文字手かはり

      あり

[やぶちゃん注:左右に「布泉」。]

〈画像二枚目〉

二字  篆文

[やぶちゃん注:銭に「建炎元寳」(原典本文は「寶」の字を用いている(以下も同じ)。この銭の字は真書であるが、今一種、篆書体のものも鋳造したので、この「二字」はその二種の字のものが別に発掘品の中にあったことを示したものであろう。]

小銭

 徑六分[やぶちゃん注:二・四センチメートル。]

   余

[やぶちゃん注:銭に「紹興通寳」。]

二重輪

 徑八分

[やぶちゃん注:銭に「乾元重寳」。「二重輪」は「にじゆうのわ」で、銭の縁近くの二重になった輪のデザインのことを指していよう。]

中銭

 同一寸二分[やぶちゃん注:三・六センチメートル]

[やぶちゃん注:銭に「淳化元寳」。「中銭」本文にも出るが、不詳。野島出版脚注も『不詳』とする。]

中銭

 徑一寸

   二分

[やぶちゃん注:銭に「嘉熙通寳」。]

徑八分余(けんえんげんほう)

[やぶちゃん注:銭に「開運元寳」。]]

 

 古錢(こせん)を土中より掘り出(いだ)せること、所々(しよしよ)にありと雖も、皆、二、三百、乃至(なゐし)、一、二貫文に過ぎず。安永年中、蒲原郡(かんばらごほり)笈ヶ島(おいがしま)と云へる所にて、耕(たがや)して、泥中(でいちう)に古錢一壷(いつこ)を得(うる)。凡(およそ)十貫(じつくはん)ばかり、皆、永樂なり。文化三丙寅(ひのへとら)、頸城郡南新保村(みなみしんぼむら)、農夫某(それがし)、田を掘りて古錢五貫文を得(うる)。そのうち、古金(こきん)・銀錢(ぎんせん)混じりありしと云へ傳ふれども、其實(じつ)を知らず。銅錢(どうせん)は、皆、洪武・永樂・熙寧(きねい)等(とう)なり。偶(たまたま)、寛政四壬子(みづのへね)の春、伊夜日子(いやひこ)の梺(ふもと)、岩室(いわむろ)の温泉に浴し、數日(すじつ)逗留せしに、隣村(りんそん)、福井村某(なにがし)と云へる染屋、あり。藍の桶を埋(うづ)むとて古錢を掘る。大幅三尺、長六尺ばかりなる箱の形にして、只、一塊(いつくわい)に集まりたる也。その數(かず)、いかほどゝいふことを知らず。如ㇾ此(かくのごとき)もの二ツ相(あい)ならぶ。漸々(やうやう)にして、斧を持つて打碎(うちくだ)き、親子兄弟(けいてい)、夜々(やや)密(ひそか)に槌を以つて錆を落とし、分(わく)るに、百錢を得れば、二百錢は、皆、碎けて用ひがたし。其事、隣村なるが故に、早く聞傳(きゝつた)ひ侍れば、即(すなはち)、客亭(かくてい)の主(あるじ)を伴(ともな)ふて、其家に訪ね到(いた)り、かの古錢を賣(うら)んことを求む。家主(かしゆ)、即、これを許す。嚢中(のふちう)を探るに、只、金四兩あり。以(もつて)、古錢二十四貫文を得(う)。其後(そのご)、領主へ聞(きゝ)に達し、殘らず、差し上げたる由(よし)にて不ㇾ賣(うらず)。家に歸り、數日(すじつ)、これを弄玩するに、その錢(せん)、土(つち)に付(つ)きたる方は黑く麗(うるは)しけれども、錢錢(せんせん)相(あい)重なりたる所は綠錆(あをび)深く生じて文字も不分明(ふんめうならず)。漸(やうや)く磨きて、これを見る。尤(もつとも)一貫文のうちにして洪武・永樂、八、九百文あり。其余(そのよ)平錢(へいせん)數品(すひん)、珍錢、甚だ少(まれ)なり。凡(およそ)、品數(ひんすう)、百十一品(いつひん)、たまたま、中銭(ちうせん)混じりてあり。そのうち、珍と稱するもの、図のごとし。大半兩(だいはんりやう)【徑八分。】・小半兩【二。】・三朱【一。】・布泉(ふせん)【二。】・五朱【四。】・建炎元寶(けんえんげんほう)【二字、篆(てん)。】・紹興通寶【小形。一。】・中錢【八。】・乾重元寶(けんじうげんほう)【二重輪。一。】・開運元寶【一。】一・淳化元寶【大錢。一。】・嘉熙(かき)通寶【同。一。】嘉定(かてい)一(いちより)十六まで。其余(そのよ)、數品(すひん)擧ぐるに遑(いとま)あらず。皆、唐銭(とうせん)のみにして、和錢は一ツも、なし。永樂の渡り初めと見へて、鑢(やすり)目、明らかに分(わか)る。然(しか)れば、五百年前の乱を避け、他邦に走る者、これを埋(うづ)めたたりと覺ゆ。

 

[やぶちゃん注:「二、三百、乃至(なゐし)、一、二貫文」前者は「二百文か三百文」の謂い。 一貫は正規には銭千文を指すが、江戸時代は実際には九百六十文が一貫とされた。

「安永」概ね一七七二年から一七八一年まで。

「蒲原郡(かんばらごほり)笈ヶ島(おいがしま)」新潟県燕市笈ケ島。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「永樂」永楽通宝。明の第三代皇帝永楽帝の代の永楽九(一四一一)年から鋳造され始めた銅製銭貨。日本へも室町時代に日明貿易で大量に輸入されて江戸初頭まで永楽銭・永銭などと呼ばれて流通した。一文相当の銅銭一種のみ。

「文化三丙寅(ひのへとら)」一八〇六年。

「頸城郡南新保村(みなみしんぼむら)」現在の新潟県上越市南新保か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「洪武」永楽帝の父であった明の太祖第一代皇帝洪武帝が、即位した洪武元(一三六八)年から鋳造を始めた洪武通宝。一・二・三・五・十文の五種があった。

「熙寧(きねい)」熈寧元宝。熙寧北宋の第六代皇帝神宗が即位して熙寧(一〇六七年~一〇七七年)に改元、その年中に改鋳されたもの。

「寛政四壬子(みづのへね)」一七九二年。

「伊夜日子(いやひこ)の梺(ふもと)、岩室(いわむろ)の温泉」弥彦山の北方、現在の新潟県新潟市西蒲区岩室温泉。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「福井村」岩室温泉の北直近の現在の西蒲区福井。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「藍の桶」藍染用の藍汁を溜めた藍甕(あいがめ)。

「一塊(いつくわい)に集まりたる也」地中で徹底的に錆びついて、各個の銭が積み重なってくっ付いてしまって金属の塊りのようになってしまっていたのである。

「夜々(やや)密(ひそか)に」これもなるべく世間に知られぬように、毎夜、他の家が寝静まって後にまずはこっそりと加工してみたのである。

「百錢を得れば、二百錢は、皆、碎けて用ひがたし」まがりなりにも、原形をとどめた、ものになりそうな古銭百銭分を、その金属滓のようになった塊りから取り出すのに、倍の有に二百銭分を使用不能になるまで細かく粉砕せねば得られなかったというのである。

「客亭(かくてい)」旅館。

「四兩」以前に野島出版脚注では一両を今の二万円と換算していたから、それに従うなら、八万円。但し、江戸末期であるから、もう少し安く(一万円未満)見積もってもいいかもしれない。

「尤(もつとも)一貫文のうちにして洪武・永樂、八、九百文あり」この「尤」は「最も」で意味は「一貫文のうちにして」「最も」多かったのは「洪武・永樂」で「八、九百文」もあった、の謂いであろう。

「平錢(へいせん)」唐の開元以降の銭を指すらしいから、前の本文の叙述からみて、それ以降で宋代よりも前(北宋に入ると、鋳造の際の文字入れ等の面で飛躍的に技術が向上したらしい)までということになろうか。

「大半兩(だいはんりやう)」野島出版脚注に『漢の少帝恭の二年(前一八六年)八銖銭を行うとある。秦の始皇帝は制度を定め、一両を廿四銖とする』、秤で等量交換が出来る『貨幣を造』った。『秦の半両は大きく、径一寸二分程』、『重量二十四匁(重量が一両の半分)、即ち十二朱とな』るものであった。『漢の高祖は径を小さくして八朱半両を造』った。これは『三枚で一両となる。その後、六朱半両(四枚で一両)、四朱半両(六枚で一両)とだん』だん『小さくなる』とある。

「小半兩【二。】」以下の割注数字は枚数のことであろう。

「布泉(ふせん)」野島出版脚注に『中国古代の銭。後周書、武帝紀に、「保定元年、更に銭を鋳る。文仁布泉という。一布泉は五朱に当る、ともに行はる。」とある。二種ある。新羅の王寿が天鳳元年(一四年)に鋳造したものと、後周の武帝が保定元年(五六一年)に鋳造したものがある。前者は縣針書であり、後者は玉節篆である』とある。野島出版の注釈者は古銭に異様に詳しい。

「紹興通寶」「紹興」は南宋の初代皇帝高宗の治世の中後半で用いられた元号。一一三一年から一一六二年。

「乾重元寶(けんじうげんほう)」野島出版脚注に『唐の粛宗の乾元元年(七五八年)鋳造』とある。

「二重輪」野島出版版では『二乗輪』とある。誤判読であろう。

「開運元寶」「開運」は五代の第三の王朝である後晋に於いて石重貴の治世で用いられた年号。九四四年~九四六年。

「淳化元寶」野島出版脚注に『北宋の太宗、淳化元年(九九〇年)』以後の鋳造で、『鋳銭文は右廻り』で『輪読する。三文銭であろうと云う』とある。

「嘉熙(かき)通寶」野島出版脚注に「嘉熙」は『南宋理宗の代』の『嘉熙元年(一二三七年)』に鋳造されたもの、とある。

「嘉定(かてい)一(いちより)十六まで」「」は「より」の約物。野島出版脚注に『南宋の寧宗の代』の嘉定(一二〇八年から一二二四年)年間に鋳られた『嘉定通宝のことであると云う。この銭の背に一から十四までの数字が入って居て鋳造の年代をあらわしている。十六は誤』り、とある。

「永樂の渡り初め」野島出版脚注には、『徳川書府は慶長十三』(一六〇八)『年に永楽銭の通用を禁止した』とある。

「五百年前の乱」本書刊行(文化九(一八一二)年)の五百年前ならば、鎌倉幕府の滅亡(一三三三年)を指すか。しかし、永楽通宝は先に述べた通り、一四一一年から鋳造され始め、室町時代になってから渡来したのであるから、それはおかしい。さすれば、応仁の乱(応仁元(一四六七)年勃発)となるが、そうすると、四百年に満たない。不審な数字である。

北越奇談 巻之三 玉石 其十一・其十二・其十三(古金)

 

    其十一

 

 竹の町近村(きんそん)、搖上(ゆりあげ)と云へる所に、享保(きやうほ)の頃、農夫某(それがし)と云ふ者、一日、葱(ひともじ)を植ゆ。忽(たちまち)、鋤(すき)の物に當たる音あり。老夫、即(すははち)、金(かね)ならんことを思ふ。密(ひそか)に是を掘れば、一壷(いつこ)、重さ數十斤(すじつきん)なる物あり。土を拂(はらひ)て内を見れば、金光(きんくはう)、眼(まなこ)を射るがごとし。爰(こゝ)に、鶉衣(てゝら)を以つてこれを包み、家に歸りて深く藏(かく)し貯(たくは)ふと雖も、皆、異形(ゐぎやう)にして、用ゆべき所なし。偶(たまたま)、が父に二片と半を以つて、今の金(かね)交易(かえん)ことを求む。父、其金位(きんい)はかりがたきを以つて、是を新潟某(なにがし)に送る。其余(よ)、又、あることを知らず。老夫の云ふ、只、三片のみにして、殘す所なしと。其金(かね)、異形、左に圖す。

 

[やぶちゃん注:図は「其十三」の後に回した。

「搖上(ゆりあげ)」現在の新潟県新潟市西蒲区東汰上(ひがしよりあげ)周辺と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。河内一男氏の「越後の大津波伝説」によれば、この新潟市西蒲区東汰上及び同西汰上は江戸期には「ゆり上げ」と呼ばれていたとあり(以下、(アラビア数字を漢数字に代え、ピリオド・コンマは句読点に代え、一部に記号を補った)、以下のような文字通り、驚天動地の名称由来説が示されてある。

   《引用開始》

 現在は「よりあげ」と呼ばれ、標記のような漢字のあてられている両集落は、江戸期までは「揺り上げ」、または「ゆり上」と表記されていました。江戸時代の文献が二つあります。一つは「新潟県史資料編」(第八巻、付表一〇三三ページ)で、ここでは郷村帳とよばれる村々の一覧表の中にあります。もう一つは橘崑崙著の「北越奇談」巻の三、其の十一の本文中に確認できます。越後では「ゆ」が「よ」に転訛します。「ゆーさり」が「よーされ」、「ゆうべ」が「よんべ」です。両集落はかつては旧西蒲原郡巻町と西川町に所属し、西川をはさんで位置しています。現在の汰上は転訛したあとの当て字であることがわかります。

 この「ゆりあげ」の語源が名取市の閖上と同じとすれば[やぶちゃん注:宮城県名取市閖上(ゆりあげ)のリンク先の前の部分を参照されたい。]、いつの時かの大津波襲来時にここまで津波が遡った可能性があります。もっとも海陸の分布は今日と随分違っていたでしょうから、川を遡ったというより、近くまで海が入り込んでいた時期の津波だったのかもしれません。そうすると、壊滅的な被害を受けていた可能性があります。

   《引用終了》

「享保(きやうほ)」「きやうほう(きょうほう)」と二様に読む。概ね一七一六年から一七三六年。

「葱(ひともじ)」葱(ねぎ:単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ネギ Allium fistulosum)を指す女房詞(にょうぼうことば)の一つ。「ゆもじ」(浴衣:平仮名の頭語の「ゆ」に「もじ」を接尾)や「おくもじ」(奥様・頭語の「おく」に「もじ」を接尾)のように語尾に「もじ」(文字:単純に附加した「その文字」を指したり、「その文字の数」を指したりする一種の符牒)を附すタイプの一種(後は現在も普通に用いられている「おまる」(携帯便器)・「おかか」(削った鰹節)のように尊敬・丁寧の接頭語「御」由来の「お」「ごん」を語頭に附したものなどが主体。「おかちん」(餅)・「おだい」(飯)など。他に「こうこ」(沢庵)・「いしいし」(団子)・青物(野菜)・「なみのはな」(波の花/塩)・くのいち(女の忍びの者)等が挙げられる)。ウィキの「女房言葉」の総論部によれば、女房詞は『室町時代初期頃から宮中や院に仕える女房が使い始め、その一部は現在でも用いられる隠語的な言葉である。語頭に「お」を付けて丁寧さをあらわすものや、語の最後に「もじ」を付けて婉曲的に表現する文字詞(もじことば)などがある』。『省略形や擬態語・擬音語、比喩などの表現を用いる。優美で上品な言葉遣いとされ、主に衣食住に関する事物について用いられた。のちに将軍家に仕える女性・侍女に伝わり、武家や町家の女性へ、さらに男性へと広まった』とある。勘違いしてはいけないのは、「一文字」だからと言って「葱」の形状が「一文字」に似ているという意味ではない点である。葱は古くは「き」と呼ばれた。これは「気」や「息」の「き」と同語源と思われる、強い臭いを有するものを意味する文字である。それが「き」一文字であるから「一文字(ひともじ)」なのである。その証拠に「二文字(ふたもじ)」は同じネギ類である「韮」(ネギ属ニラ Allium tuberosum)を指すが、これは葱(ねぎ)を意味する「き」が「一文字」であるのに対し、「にら」が二文字であることに由来する。因みに「にもじ」(「に文字」)が別にあって、これもやはり、同属の「大蒜(にんにく)」(ネギ属ニンニク Allium sativum)を意味し、これは先と同じく頭語の「に」に「もじ」を接尾した語である。この三つは同じ接尾語「もじ」を介して、臭気の甚だしい同じような食物野菜という共通性で同類グループ語群を形成している点でも面白い。

「金(かね)」金物(かなもの)。

「密(ひそか)に」ここは文字通りで、あわよくば、何か金(かね)めになるような金物(かなもの)であって欲しい、そのためには人に気取られぬようにこっそりと、の謂い。

「數十斤(すじつきん)」一斤は百六十匁(一匁は三・七五グラム)に当たり六百グラム丁度、従って十斤は現在の六キログラム。六掛けで三十六キログラムであるが、男が独りで掘り出して(中身だけとしても)こっそり運び出すにはちょっと重過ぎるから、最低レベルの総重量二十キロ前後としておこう。

なる物あり。土を拂(はらひ)て内を見れば、金光(きんくはう)、眼(まなこ)を射るが「鶉衣(てゝら)」野島出版脚注に『振仮名「ててら」とあるのは「つづら」の転訛であろう。草木のつるで編んだ籠』とあるが、採らない。古語としての「鶉衣」(うづらごろも:歴史的仮名遣)」は鶉(キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica)の羽が斑(まだら)であるところから、継ぎ接(は)ぎのしてある着物。襤褸(ぼろ)な着物の意であり、「ててら」も古語で(「ててれ」とも言う)下着、肌「襦袢 (じゅばん)」や「褌(ふんどし)」の意であるからで、そもそもが後に「を以つてこれを包み」とある以上、籠などではなく、布地であることが明白であるからである。

「異形(ゐぎやう)」雰囲気から古銭ではあるらしいが、今まで全く見たことがない、異様に変わった形状と質を持っていたのである。

「用ゆべき所なし」とあるのは、金銀は含有しておらず、鉄や銅でも非常に粗悪な或いは強烈に錆びついて劣化したものででものあったか。

「二片と半」これは崑崙が後で「三片のみ」として図したものとは違うと読むべきであろう。

「今の金(かね)交易(かえん)ことを求む。父、其金位(きんい)はかりがたきを以つて、是を新潟某(なにがし)に送る」この農夫は、なにがしかの金に換金してもらおうと、崑崙の父(高井忠治郎。現在の新潟県長岡市寺泊当新田(とうしんでん)にある浄土真宗万福寺にある橘崑崙茂世の建立した墓碑に拠る。野島出版版の最後に附された解説に従った。茂世が生まれたのもこの寺(当時は薩埵山(さったさん)浄花庵と称した。この寺には良寛の師大森子陽の墓があり、大森は実に茂世とは同族の後裔である)と推定されている)に頼んだのであるが、父もそれを見てみるに、金めのものには到底見えなかったのであろう、しかしまあ、ともかくも古物としての価値もないとは言えぬと判断して、新潟のこの手の好事家或いは古物商に送って調べて貰ったというのであろう。その後の消息が全く記されていないから、まさに二束三文のものであったのであろう。それなりに古物的価値があったならば、即座に全部をこの農夫のところへ買い付けに来たであろうが、そんな記載もないから、そうした価値もなかったということであろう。

「其余(よ)、又、あることを知らず」掘り出された総重量から考えても、相当の量がなければならぬのに、それ以外のものが有意にあるかどうかは分らなかった。農夫は金めのものに交換出来ぬと知って、面白がって欲しがる周囲の連中などに分け与えてしまったのであろう。今回、改めてこの「北越奇談 巻之三 玉石」に記載するに当たり、崑崙が現地踏査に訪れた際には最早、「三片のみ」しか残っていなかったのである。

 

    其十二

 

 天明六丙午(ひのえうま)、苅羽郡(かりはこほり)五日市村の貧民某(それがし)、一男子(いちだんし)ありと雖も、家、貧なるが故に、奉公して東武にあること、巳に三年、只、老(おひたる)夫婦、家にありて、農事を努む。其子を迎(むかへ)んことを欲(ほつす)れども、不ㇾ能(あたはず)。茅屋(ぼうおく)の前に、只一大(おほいなる)[やぶちゃん注:このルビは「只一大」三字全部にかかっている。]梅樹(うめのき)あり。これを切(きつ)て薪(たきゞ)と成し、又、その根を掘るに、鋤、物に當たりて両断となる。取り上げて是を見るに、金光、燦然たり。凡(およそ)、十有五枚(じゆうゆうごまい)、老夫、その金(かね)なることを知らず、寺僧に示す。初めて其金なること知りて、終(つゐ)に領主に上す。領主、これに、通金(つうきん)數(す)百金を賜ふと云へり。其異形、左に図するごとし。

 

[やぶちゃん注:図は「其十三」の後に回した。

「天明六丙午」一七八六年。

「苅羽郡(かりはこほり)五日市村」現在の新潟県柏崎市西山町五日市か。ここ(グーグル・マップ・データ)。西直近に越後線の刈羽駅がある。

「東武」江戸。

「十有五枚」図のキャプション通りに忠実に数えてみると、厳密には計十八枚となる。

「通金(つうきん)數(す)百金」当時、現行で通用していた小判数百両。貧農の老夫婦、腰を抜かして立てずなったこと、これ、間違いない。]

 

    其十三

 

 明和年中(ぢう)、三島郡の内(うち)、金銀數(す)品を地中に掘得(ほりう)る者、在(あり)。その金銀、異形、是を見ると雖も、其人(ひと)、祕して不ㇾ顯(あらはさず)。其圖は左(さ)に記す。又、寛政四(し)壬子(みづのへね)、高田(たかた)關町(せきまち)と云へるにて、古銀(こぎん)一片を掘り出(いだ)す者あり。其形文(けいぶん)、左のごとし。【只此二図は友人某が図記して贈れるなり。】

 

[やぶちゃん注:「明和」概ね一七六四年から一七七二年まで。

「三島郡」「さんとうごほり」と読む。三島郡として現存するが、今は出雲崎町(いずもざきまち)一町のみ。近代以前は現在の長岡市の一部・新潟市西蒲区の一部・小千谷市の一部・燕市の一部を含む広域郡であった。

「寛政四(し)壬子(みづのへね)」一七九二年。

「高田(たかた)關町(せきまち)」現在の新潟県上越市南本町のことであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。高田城の南直近。

「此二図は友人某が図記して贈れるなり」後で見て戴くと判る通り、細部まで描写されていて、前二例のそれとは、雰囲気が有意に違う。友人が送付して呉れた細密に描かれたそれを崑崙が改めてここに転写したのである。]

 

Kokin


Kokin2

[やぶちゃん注:「其十一」「其十二」「其十三」の各条で語られた小古貨幣の崑崙による写し図。但し、原典では、後の「其十四」の途中に古銭の図とともに挟まって出る。キャプションを示し、度量衡の換算をしておく。で一分(ぶ)は三十八ミリグラムである。なお、私は古貨幣に全く興味がなく、これらを同定しようもない。悪しからず。その方面の識者の御教授があれば幸いではある。

 

〈見開き右頁〉

揺上村古金三片

三十二匁[やぶちゃん注:百二十グラム。]

同十六匁四分[やぶちゃん注:六十一・五グラム。]

同二十一匁七分[やぶちゃん注:三十一・三八グラム。]

 

五日市村古金十有五枚

長四寸 巾二寸余[やぶちゃん注:長さ十二・一二センチメートル。幅約六センチメートル強。]

三十七匁六分[やぶちゃん注:百四十一グラム。]

同三十一匁四分[やぶちゃん注:百十七・七五グラム。]

同二十四匁[やぶちゃん注:九十グラム。]

三十七匁一分[やぶちゃん注:百三十九・一三グラム。]

同十八匁六分[やぶちゃん注:六十九・七五グラム。]

〈見開き左頁〉[やぶちゃん注:「五日市村古金十有五枚」の続きなので続けた。]

重十八匁[やぶちゃん注:六十七・五グラム。]

同十八匁六分[やぶちゃん注:六十九・七五グラム。]

 無文金

 二十九匁四分[やぶちゃん注:百十・二五グラム。]

 十九匁四分[やぶちゃん注:七十二・七五グラム。]

 十三匁六分[やぶちゃん注:五十一グラム。]

 十二匁二分[やぶちゃん注:四十五・七五グラム。] 二枚

同二十一匁五分[やぶちゃん注:八十・六三グラム。]

 同形(どうぎやう)無文ノ金(きん)五枚

 只(たゞし)目かた おのおの相違あり

 

三島郡有得(ゆうとく)の者 高田小判(たかたこばん)といふ 共(ともに)三枚

〈最上部の表の図〉

表文[やぶちゃん注:「おもて」の「もん」(紋)。]

[やぶちゃん注:中に打たれてある文字は右が「越判」(推定)で、左が「高田」。]

〈中央の前の裏の図〉

背文[やぶちゃん注:「はいもん」。「○」の刻印と「田」の刻印(「高田」の「田」であろうか)、左上には楓の葉か鳥のようなデザインの刻印がある。]

厚サ三厘[やぶちゃん注:〇・九ミリメートルであるから、一ミリと見てよい。]

三匁九分五厘[やぶちゃん注:重量単位での「一厘」は一匁の百分の一だから三十七・五ミリグラムとなり、「五厘」は百八十七・五ミリグラムとなるから、「三匁九分五厘」は十四・八二グラム弱。]

 

〈最下段〉

上杉謙信 鋳ㇾ之(これをねる)

上杉謙信 鋳ㇾ之(これをねる)

[やぶちゃん注:貨幣の上部に謙信が特別に天皇家から下賜された「五七桐」の家紋が打たれてある。下部にあるのは、この左キャプションからは謙信の華押ということになるが、似てはいるが、かなり違う。或いは原画の筆者の誤りに加えて転写した崑崙のミスが重なったものかも知れぬ。

 

銀[やぶちゃん注:その下の貨幣の中の字は「價」か。]

御藏花降銀

 重二十匁[やぶちゃん注:七十五グラム。]

  形不定

新泻銀[やぶちゃん注:「泻」は「潟」の略字。]

柏崎

 村上銀

 此品 皆

  切てつかふ

[やぶちゃん注:最後は「切って使う」の意か? 集合体のものが連なっているのだろうか? 不詳。識者の御教授を乞う。]

銀小判

 

高田(たかた)関町古銀

重さ

二匁二分[やぶちゃん注:八・二五グラム。]

 

冒頭に述べた通り、以下は次の条で示す。]

2017/08/20

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 莎雞(きりぎりす)

 

Kirigirisu

 

きりきりす 絡緯 梭雞

      紡絲【爾雅翼】

莎雞

      【木利岐里須】

本綱【樗雞下云】莎雞居莎草間蟋蟀之類似蝗而斑有翅數重

下翅正赤六月飛振羽有聲人或畜之樊中

三才圖會云莎雞【又名梭雞】其狀頭小而羽大有青褐兩種率

以六月振羽作聲連夜札札不止其聲如紡絲之聲人家

養籠暖則數年居

△按莎雞青色者多褐色者少蓋褐【黃黒】色似麻油故俗名

 油莎雞【阿不良】聲最亮清爲珍養之樊中用甜瓜李或餳

 沙糖水冬亦能防寒則經數年其聲如言木里岐里須

 故名之一二聲而如鼓舌雌肥大善鳴

一種青色而尻有刺似帶劔者俗呼曰多知【大刀訓多知之謂乎】晝

不鳴夜鳴

    古今秋風にほころひぬらし藤はかまつゝりさせてふきりぎりす鳴

きりぎりす 絡緯〔(らくゐ)〕 梭雞〔(さけい)〕

      紡絲〔(ばうし)〕【「爾雅翼」。】

莎雞

      【「木利岐里須〔(きりぎりす)〕」。】

「本綱」【「樗雞」の下に云ふ。】、莎雞〔(きりぎりす)〕は莎草〔(はますげ)〕の間に居〔(を)り〕、蟋蟀の類〔なり〕。蝗〔(いなご)〕に似て、斑〔(ふ)あり〕、翅〔(つば)〕さ、數重〔(すうじゆう)〕有り。下の翅〔(つば)〕さ、正赤。六月、飛(とび)て羽を振(ふる)ひて、聲、有り。人、或いは之れを樊(かご)の中に畜(か)ふ。

「三才圖會」〔に〕云〔はく〕、莎雞【又、梭雞と名づく。】其の狀、頭、小にして、羽、大きく、青(あを)きと褐(きぐろいろ)の兩種有り。率(をほむ)ね、六月を以つて羽を振〔(ふる)〕はし、聲を作す。連夜(よもすがら)、「札札(ツアツア)」と止まず。其の聲、絲〔(いと)〕を紡(つむ)ぐ聲のごとし。人家、籠〔(かご)〕に養ひて、暖なれば、則ち、數年、居〔(を)〕る。

△按ずるに、莎雞は青色なる者、多し。褐色なる者、少なし。蓋し、褐【黃黒。】は、色、麻油に似たり。故に、俗、「油莎雞(あぶら)」と名づく【阿不良(あぶら)。】。聲、最〔も〕亮清〔(りやうせい)にして〕、珍と爲〔(な)〕し、之れを樊〔(かご)の〕中に養ふに、甜瓜(まくは〔うり〕)・李(すもゝ)或いは餳(しるあめ)・沙糖水を用〔ふ〕。冬も亦、能く寒を防げば、則ち、數年を經(ふ)。其の聲、「木里岐里須〔(きりぎりす)〕」と言ふがごとし、故に、之れを名とす。一、二聲で、舌〔(した)〕を鼓(う)つごとし。雌は肥大にして、善〔(よ)〕く鳴く。

一種、青色にして、尻に、刺〔(はり)〕、有り、劔を帶びたる者に似たり。俗、呼んで「多知」と曰〔(い)〕ふ【「大刀」を多知と訓ずの謂か。】。晝〔(ひ)る〕、鳴かず、夜、鳴く。

    「古今」秋風にほころびぬらし藤ばかまつゞりさせてふきりぎりす鳴く

[やぶちゃん注:現行では直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属 Gampsocleis で、青森県から岡山県に棲息するとするヒガシキリギリス Gampsocleis mikado 及び、近畿地方から九州地方を棲息域とするニシキリギリス Gampsocleis buergeri の二種に分ける考え方が一般的である。以下、ウィキの「キリギリス」から引いておく。成虫の頭部から『翅端までの長さはヒガシキリギリス』で♂は二十五・五から三十六ミリメートル、♀は二十四・五から三十七ミリメートル、ニシキリギリスで♂は二十九から三十七ミリメートル、♀で三十から三十九・五ミリメートルと、♀『の方がやや大きい傾向がある』。『緑色を基調とする緑色型と、褐色を基調とする褐色型がある』。『翅の長さも個体群によって長短の変異がある。一般にヒガシキリギリスでは翅が短く側面に黒斑が多く、ニシキリギリスでは翅が長く黒斑は』一『列程度か、あるいは全くない。ともに触角は長く、前脚には脚の直径より長い棘が列生する。オスは前翅に発音器をもち、メスは腹端に長い産卵器をもつ』。『生育環境により緑色の個体と褐色の個体が生じる。若齢幼虫は全身が緑色で頭部が大きい』。「バッタとの比較」の項。

・体型が短くて体高が高く、脚と触角が長いのがキリギリスの特徴。

・耳に相当する音の受容体は前脚の中ほどにある(バッタは胸と腹の間)。

・♀の尾部にはバッタに比して目立って長く伸びた、刀のような産卵管が発達する。

・前の二対の脚にある棘状突起がキリギリスでは目立つ。

本種の『成虫は夏に現れ、草むらなどに生息して他の昆虫などを捕えて食べる。鳴き声は「ギー!」と「チョン!」の組み合わせで、普通は「ギー!」の連続の合間に「チョン!」が入る』。『真夏の河原や草原で鳴いている昆虫としてよく知られるが、山間部にも生息している。縄張りを持つため、複数の個体が密集して生息することは無い』。『危険を感じると、擬死により落下して落葉の下に潜ろうとしたり、茂みの深い方へ深い方へ、下へ下へと素早く逃げ進んでいく性質を持つ。無闇に跳びはねて草上に姿を曝したりすることは少ない。とりわけ』、♀は鳴かないため、『居場所を特定できず、採集には労苦を伴う。体色も緑と茶のまだらもようで、鳴き声はすれども姿は見えずということが多い。こちらが近づくと足音を聞いて鳴くのをやめるので見つけるのはむずかしい。捕虫に成功しても後脚が折れたり切れたりしやすく、また鋭い大あごで手にかみついてくるので注意が必要。このように臆病であるため、飼育下でもその環境に慣れるまではケースの蓋の裏などの物陰にすぐに隠れてしまう』。卵は三~四月に『地中で孵化、地上に脱出した初齢幼虫は、草本上で生活を始める。初齢では体が小さいため、おもにイネ科草本植物の種子や花粉を食べて成長するが、成長するにつれ、鱗翅目の幼虫や小型の他の直翅目なども捕食するようになる。共食いもする。自らの陣取っている草本を中心とする縄張りを持ち、侵入してくる同種同性個体及び他種に対しては激しく攻撃を仕掛け、可能なら捕食する。肉食は不可欠であり、動物性タンパク質を摂らなければ』、『幼虫はうまく成長できず、またメスは産卵に支障を来す。飼育下でも、幼虫に植物性の餌だけを与えていると、元気に見えても』、ある日、突然、『死亡するというパターンがよく見られる。削り節やドッグフード等を与えるとガツガツとむさぼり、腹部がパンパンに膨れあがる様子が観察できる』。『春から初夏にかけて、林縁のハルジオン、ヒメジョオン、タンポポ等の花上に静止している幼虫をよく見かけるが、彼らは花粉を食べつつ、訪花してくる他の昆虫を待ちかまえている』。『前脚と中脚に生えているたくさんのトゲは、そういった獲物をとらえて逃がさないための適応である』。『脱皮及び羽化には困難が伴い、特に長い後ろ脚を抜くのには時間を要し、脱皮完了には』一『時間位を要する。この間』、『風に晒されて失敗することや、同種含む肉食性の外敵に喰われて死亡する個体もいる。このため比較的風の少ない、外敵の目に付きにくい夜間を選んで脱皮をすることが多く、特に明け方近くによく行われる。脱皮の姿勢は』六『本の脚で草の茎などにぶら下がり、頭をやや斜め下に向けた姿勢になって行う。バッタやコオロギなどでは水平面でも行われるが、キリギリスは長い脚が災いして脱皮の姿勢が限られてくるようである』。脱皮後、暫くは、体が固まるまで、『じっとしているが、動けるようになると』、まず、『自分の抜け殻を食べる。これは』『栄養補給のためだといわれるが』、『別に食べなくても正常に成長する』。『オスは前翅をこすり合わせて「チョン・ギーッ」と鳴く。活発に鳴くのは』、概ね、『日照量の豊富な快晴時に限られ、日が陰ったり、夕刻以降は原則として鳴かない。鳴いたとしても不規則で、次の声を発するまで時間を』空ける。♀は『尾端の長大な産卵管を地面に突き刺して産卵する。キリギリス亜科』Tettigoniinae『の孵化のメカニズムは不明な点が多く、適切な温度の上下が適切な回数加わらないと休眠プロセスが完了せず孵化しない。また、孵化が産卵の翌年のことも有れば、最大』四『年後になることもある。これらの点と激しい共食いによって多頭飼育が殆ど不可能なことから、日本で伝統的に親しまれてきた直翅目昆虫でありながら、スズムシと違って累代繁殖飼育方法が確立していない』。『野生下の成虫の寿命は生活環境にもよるが、平均』二『か月程度である。遅くとも』十一『月には全ての野生個体が死亡する。ただ、良好な飼育下では翌年初頭まで生存することもある。老化した成虫は付節が壊死して垂直面歩行能力が失われ、オスは鳴き声も弱々しくなる』。『繁殖の終わった成虫は冬を越すことなく死んでしまう。童話『アリとキリギリス』では歌ってばかりで冬への備えを忘れるなまけ者に描かれるが、それなりの生をまっとうするキリギリスにしてみれば失礼な話かもしれない』。『キリギリスは古くから日本人によって観賞用に飼育されてきた歴史を持つ。古典『虫愛づる姫君』にも登場する(今日のコオロギとしてではなく、「バッタ」によく似た緑色の虫として)』。『いわゆる「虫売り」という行商ビジネスは江戸時代中期に確立するが、キリギリスはスズムシ、マツムシと並ぶ彼ら「虫売り」の代表的商品の一つであった。当時、コオロギ科以外で唯一商品価値を持つ「鳴く虫」であったキリギリスは竹製のカゴ「ギスかご」に入れて販売されており、そのカゴが縁側や店先につるされてキリギリスが鳴き声を響かせるのは、江戸の夏の風物詩であった』。『これらは江戸時代の文化というより江戸文化であり、現在でも昆虫マニア的動機付けではなく伝統的娯楽としてキリギリスを飼う風習が伝播継承されている地域は関東一円がおもであるという。従って、「ギスかご」に入れられ飼われてきたキリギリスは、ヒガシキリギリスということになる』。『ただ、狭い「ギスかご」に入れてキュウリやナスだけ与えるという伝統的飼育手法は拙劣というべきで、それらの野菜に含まれる最低限の水分により短期間生存させておくに過ぎなかった。長期飼育技術において古くからより進歩していたのは』寧ろ、『中国であり、穀類や小昆虫といったタンパク源を与えて晩秋までコンスタントに生存させることができていた』。『現在の日本では飼育技術も大幅に進歩し、プラスチック水槽を飼育ケースとし、野菜よりも穀類、イネ科草本の穂、観賞魚用のペレット、ドッグフード等を豊富に与え、飲み水も別途用意することで、長期間』、『キリギリスを健康に生存させることが可能になっている。とりわけメスは延命効果が顕著で、飼育環境が良好であれば、正月を迎えることすらある』とある。

「梭雞〔(さけい)〕」「梭」は「杼」とも書き、「ひ」と読んで、機(はた)織りの際に横糸を巻いた管を入れて、縦糸の中を潜らせる、小さい舟形の道具を指す。キリギリスはその鳴き声から、古くから「機織虫(はたおりむし)」「機織女(はたおりめ)」といった異名を有してきたが、ここに並ぶそれらも多くがそうした由来を感じさせる。

『「本綱」【「樗雞」の下に云ふ。】』「本草綱目」では、「蟲之二」の「卵生類」の「樗雞」の条に載っている。

「爾雅翼」南宋の羅願(一一三六年~一一八四年)が撰した(一一七四年頃)動植物事典。草・木・鳥・獣・虫・魚に分類されている。

「莎草〔(はますげ)〕」単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科カヤツリグサ属ハマスゲ Cyperus rotundus。乾地に生える多年草雑草。「スゲ」と名がついているが、同じカヤツリグサ科 Cyperaceae に属するスゲ属 Carex ではない。海浜の砂浜にも植生し、「浜菅」の名もこれに由来するが、実際には庭や道端で見かけることの方が多く、繁殖力・生命力ともに旺盛。

の間に居〔(を)り〕、蟋蟀の類〔なり〕。

「蝗〔(いなご)〕」四項後の「𧒂螽」で出る。直翅(バッタ)目バッタ亜目イナゴ科 Catantopidae のイナゴ類。

「翅〔(つば)〕さ、數重〔(すうじゆう)〕有り」不審。言わずもがなであるが、昆虫綱の内の大部分を含む有翅亜綱 Pterygota の昆虫の翅は総て四枚である。キリギリスの大きな♀個体などが、そんな風な印象を持たせたものか?

「樊(かご)」「樊」(音「ハン」)には籠・鳥籠の意がある。

「札札(ツアツア)」知られた「古詩十九首」の「十」の冒頭はまさに、

 

迢迢牽牛星  迢迢(てうてう)たる牽牛星

皎皎河漢女  皎皎(かうかう)たる河漢の女(ぢよ)

纖纖擢素手  纖纖(せんせん)として素手(そしゆ)を擢(あ)げ

札札弄機杼  札札(さつさつ)として機杼(きぢよ)を弄す

 

である。「迢迢」は遥かに遠いさま。「河漢」は天の川。「札札」は先の「梭(ひ)」(ここでの「機杼」)を操る際に立つ音のオノマトペイア。現代中国音では「ヂァーヂァー」が近い。

「麻油」この場合は「褐色」であるわけであるから、胡麻油(現代中国語では「麻油」と言う)のことと考えてよいであろう。

「油莎雞(あぶら)」三字へのルビ。

「亮清〔(りやうせい)にして〕」東洋文庫版訳では『亮清(すきとおる)で』と意味訓的な変則ルビを附してある。

「甜瓜(まくは〔うり〕)」真桑瓜。双子葉植物綱スミレ目ウリ科キュウリ属メロン変種マクワウリ Cucumis melo var. makuwa

「李(すもゝ)」バラ目バラ科スモモ亜科スモモ属スモモ Prunus salicina

「餳(しるあめ)」汁飴。水飴のこと。

「沙糖水」砂糖水。

を用〔ふ〕。冬も亦、能く寒を防げば、則ち、數年を經(ふ)。其の聲、「木里岐里須〔(きりぎりす)〕」と言ふがごとし、故に、之れを名とす。一、二聲で、舌〔(した)〕を鼓(う)つごとし。雌は肥大にして、善〔(よ)〕く鳴く。

「刺〔(はり)〕」既に注した通り、♀の産卵管。なかなかに目立ち、確かに武士が大振りの太刀を佩いているかのように見える。

「秋風にほころびぬらし藤ばかまつゞりさせてふきりぎりす鳴く」「古今和歌集」の「卷第十九 雜體」の在原棟梁(むねやな ?~昌泰元(八九八)年:かの在原業平(天長二(八二五)年~元慶四(八八〇)年)の長男)の一首(一〇二〇番歌)、

   寛平御時(くわんぴゆあうのおほむとき)、后宮(きさいのみやの)歌合の歌

 秋風にほころびぬらし藤袴(ふぢばかま)つゞりさせてふきりぎりす鳴く

「寛平御時、后宮歌合」は宇多天皇の生母班子主催の歌合せで寛平元(八八九)年から五(八九三)年までに行われたもの。「ほころぶ」は秋風で藤袴(キク目キク科キク亜科ヒヨドリバナ属フジバカマ Eupatorium japonicum)の花の蕾が開いてしまうことに、織糸の結び目が解(ほど)けるの意を掛け、それを「きりぎりす」が「つづりさせ」(「ほころびを織り糸で刺し縫いなさい」)と鳴いているよ、と洒落たもの。但し、この「きりぎりす」は古典文学研究では本種キリギリスではなく、蟋蟀(コオロギ)とされる。]

北越奇談 巻之三 玉石 其十(古鏡)

 

Kokyou

 

[やぶちゃん注:原典はこの位置(柱「其十」の前で、見開きの左頁全部を使用。前の勾玉等の絵が右頁後半(前半は同本文)にある)に挿絵(崑崙自筆)が載る。以下、キャプション。直径は約二十四センチメートル、背紋に描かれた楽器は七孔の横笛(龍笛(りゅうてき)か)能管(のうかん)か篠笛(しのぶえ))・笙及び笙が湾曲したような楽器(竽(う)か?)及び鉦か鼓か(同心円状のもの)。四方(図の東西南北位置)に配されたものがよく判らないが、或いは対称図形化した箜篌(くご)か或いは琵琶のような弦楽器のそれようにも見える。間には雲形が挿入されて飛天による天界の楽の音をイメージするかのようにも見える。「綠錆」は後の「其十四」の古銭の条で本文に「あをさび」と訓じてある。所謂、緑青(ろくしょう)である。「宣估銅」の部分は「俗に宣(の)ぶる、估銅(こどう)と云へる物の如し」ではないか? 「估銅」は純粋な銅ではなく、鉛の上に銅をかぶせた物(中国ではこの熟語で銅銭でも粗悪な悪貨を言う)を指す語だからである。]

 

古鏡(こきやう)【徑(わたり)八寸】畧圖

 

 背文

  樂器

   図のごとし

 

 鏡面綠錆

 地が松の

     いろ

  俗に宣估銅と

    いへるものゝ

        ごとし

 

    其十

 

 伊夜日子(いやひこ)神社北一里、竹(たけ)の町(まち)村、此所(このところ)、菖(あやめ)の観音(くはんおん)と云へる在(あり)て、㚑驗(れいげん)著じるき古跡なり。四面、竹皇(ちくくはう)、欝然として、幽遠、量(はかり)なし。毎年、三、四月、此(この)竹を伐(きる)時は、必ず、雨、降る。其奥に禪院あり。院の後ろ、山の中段に菖蒲塚(あやめづか)と名付(なづく)るもの、方(ほう)五、六間、四面高一丈五尺、又、其の下に猪ノ隼人(ゐのはやと)の塚あり。方三、四間、高一丈ばかりなり。髙倉(たかくら)の乱に賴政戰死の後(のち)、臣(しん)隼人、菖蒲(あやめ)の前(まへ)を供奉(ぐぶ)して北越に落下(おちくだ)り、終(つゐ)に此地に葬(ほふむ)ると云へ傳ふ。過(すぎ)し頃、人ありて、密(ひそか)にかの塚を發(あば)くに、内、只、一(いつ)小缾(しようへい)・古鏡一面あり。遂に是を市(いち)に賣る。相傳(あいつたへ)て其古鏡は今が友、釈迦塚谷江(しやかづかたにゑ)氏(うぢ)の家(いへ)に藏(おさ)む。其鏡(かゞみ)、經(わたり)八寸、背文(はいもん)、樂器(がくき)、面(おもて)、地金(ぢがね)粗く、いまだ水銀を下(くださ)ざるがごとし。最(もつとも)唐鏡(とうきやう)也。小缾は、今、所在を失す。

[やぶちゃん注:野島出版版はこの条、異様に多くの注が附されてある。まず、本文の後には全体が三字下げで『「備考」』とあって、『昭和十三年三月十日、文部省より重要美術品の認定せられたるもの左の如し』という前振りの後、

   《引用開始》

一、陶製壺 二口 二、鋼製経簡 一口 三、銅製経簡残片 一口 四、銅製梅花双雀文鏡 一面 五、銅製菊花双雀文鏡 一面 六、銅製萩薄菊花双雀文鏡 一面 七、銅製草花僧雀文鏡一面 八、銅鏡残片 二ケ 九、青白磁小壺 一口 十、青白磁盒子 二口

   《引用終了》

とある。これらは後に注する菖蒲塚(あやめづか)古墳の出土品である。なお、「盒子」は「ごうし・ごうす」(「合子」とも書く)と読み、身と蓋(ふた)とを合わせる意で、蓋のある比較的小さな器の総称である。このリストに就いては後の「菖蒲塚(あやめづか)」の注を参照のこと。

「伊夜日子(いやひこ)神社」現在の新潟県西蒲原郡弥彦(やひこ)村弥彦(やひこ)にある彌彦(いやひこ)神社。この一帯は既出既注。

「竹(たけ)の町(まち)村」新潟県新潟市西蒲区竹野町。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、現在の竹野町地区は直線でも彌彦神社から北へ六キロメートル以上はある。

「菖(あやめ)の観音(くはんおん)」後の「禪院」は誤り。竹野町に現存する真言宗金仙寺。創建は治承四(一一八〇)年にここに出る源頼政の妻菖蒲の前が夫の菩提を弔うために小堂を建立して観音像(伝弘法大師作)を安置したのが始めとされ、菖蒲の逝去後、嘉禄二(一二二六)年に旧従者達が道弁和尚を招いて堂宇を建立、新たに開山としたという。江戸時代に入ると、三根山藩主牧野家の祈願所となり、寺領を寄進されるなどの庇護を受けた。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「菖蒲塚(あやめづか)」以下の話は伝承であって実際には前方後円墳。上記グーグル・マップ・データの金仙寺の西北直近にある。ウィキの「菖蒲塚古墳」(あやめづかこふん)を引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。角田山(かくだやま:既出既注。新潟県新潟市西蒲区。標高四百八十一・七メートル)『東麓の台地先端部にある。本古墳は金仙寺境内に所在し、その周辺は「越王」(こしわ)と通称されている所である。 全長五十三メートル、後円部径三十三メートル、同高さ三メートルで、前方部高さ二メートルと後円部より前方部が低い。 新潟県内では最大クラスである。日本海側で最北端に位置する柄鏡形の古式前方後円墳であり、一九三〇年(昭和五年)に国の史跡に指定された』。『内部主体は明らかでない。石室を有しない木棺直葬ではなかったかと推定されている。築造年代は五世紀前半と推定されている』。『当古墳の最も古い資料としては一八一二年(文化九年)刊行の「北越奇談」で、盗掘され、鏡が出土したことが記されている。その鏡と伝えられている鼉竜鏡(だりゅうきょう)が新潟県の有形文化財に指定されている。径二十二・七センチメートル、仿製鏡(ぼうせいきょう)』(リンク先の注に『中国鏡を摸して、国内で製作した鏡』とある)『で、古墳時代前期のものと推定されている。言い伝えにより、古墳の中には源頼政の妻菖蒲御前が葬られた墓とされている。また、隣接する隼人塚古墳には、家臣である猪隼太の墓とされた(古墳の造成時期は、当該古墳と同時期と考えられている。)』。『二〇〇二年・二〇〇三年に古墳の範囲の確認のために巻町教育委員会が調査を行い、その結果、緩やかな傾斜を持つ台地の上に全体の形を設計した後、周囲に溝を掘り、その際に出た土などで盛り上げて作られた墓であることが判明。その際、土質の異なる土を交互に盛るなどして強化する工夫がなされた』。『当古墳の墳丘上には、平安時代から室町時代にかけて経塚が営まれている。経塚から出土した銅製経筒、陶製壺、銅鏡等の遺物は「越後国菖蒲塚古墳経塚出土品」として一九六二年(昭和三十七年)に国の重要文化財(考古資料)に指定されている(金仙寺蔵)』。「出土品」の項。●『壺』:『溝から発見。古墳の上から転落したと考えられる。壺の特徴から、古墳時代前期の後半に作られたことが明らかになった』。●『銅鏡』:『江戸時代に出土しただ龍鏡。直径二十三・七センチメートルで新潟県内では最大の鏡である。新潟県の有形文化財に指定されている。個人蔵(東京国立博物館に寄託)』(紋様に基づく名称からお分かりと思うが、老婆心乍ら言っておくと、これはここで挿絵として崑崙が提示した鏡とは全く違うものである。新潟県立生涯学習推進センターの運営になる「ラ・ラ・ネット」内の鼉竜鏡がそれであるが、楽器紋様に記載は一切なく、画像が小さいが、拡大する限り、本図の鏡ではない)。●『勾玉・管玉』:『新潟市歴史博物館に保管されている。勾玉(長さ二・三センチメートル)はヒスイ製で一点、碧玉製管玉(長さ一・七~三・四センチメートル)は七点。古墳の後円部の埋葬室内に副葬品として納められていた』。以下の「文化財」にリストが載るが、それを見て戴くと、野島出版版の本文の『備考』が、本菖蒲塚古墳のリストであることがはっきりと判る。

「五、六間」九・一から十一メートル弱。「方」とあるが、円墳部の崩れたものであろう。

「一丈五尺」約四メートル五十四センチメートル。

「三、四間」五・五から七・三メートル弱。方墳部。

「一丈」約三メートル。

「髙倉(たかくら)の乱」は後白河天皇の第三皇子以仁王(仁平元(一一五一)年~治承四(一一八〇)年)の平家打倒の挙兵を指す。彼の邸宅が三条高倉にあったことから「高倉宮」と称された。事前に露見して、治承四年五月二十六日(一一八〇年六月二十日)に山城国宇治(現在の京都府宇治市)の宇治川での橘合戦を以って、以仁王は討ち死にし、ともに戦った源頼政(長治元(一一〇四)年~治承四(一一八〇)年)は同日、平等院の庭で自害した。

「賴政戰死の後(のち)、臣(しん)隼人、菖蒲(あやめ)の前(まへ)を供奉(ぐぶ)して北越に落下(おちくだ)り」野島出版脚注に『源三位頼政は、戦不利なるを見て「越後は自分の釆地』(さいち:領地)『であり』、『縁者も多いといい、供の武士に猪ノ早太守岡崎藤平義高、小國頼作頼忠等の供をつけて菖蒲の前を越後に下したと寺伝にある』(この家臣の名の文字列は読み難いが、推定では切れそうにないのでそのままとした。「猪ノ早太」(いのはやた)が先に出た「猪ノ隼人(ゐのはやと)」と読めはする)とある。

「菖蒲(あやめ)の前」(生没年未詳)源頼政の妻で、元は鳥羽院に仕えていた女官。講談社の「日本人名大辞典」によれば、以仁王の挙兵に先だって彼女自身の故郷であった伊豆長岡へと逃れ、頼政の死後に伊豆西浦の禅長寺に堂を建立、出家して名を西妙と改め、一説には建保三(一二一五)年に八十九歳で死去したという、とある。

「終(つゐ)に此地に葬(ほふむ)る」菖蒲の前のこと。

「小缾(しようへい)」「缾」は「瓶」に同じい。小さな瓶(かめ)。

「釈迦塚谷江(しやかづかたにゑ)」野島出版脚注に『南蒲原郡今町字釈迦塚谷江家』とある。ここは現在の新潟県見附市釈迦塚町である。(グーグル・マップ・データ)。菖蒲塚古墳からは南へ二十キロメートルも離れる。

「いまだ水銀を下(くださ)ざるがごとし」水銀アマルガムをガラスに付着させて鏡を作る方法は一三一七年(日本は鎌倉時代末期)にベニスのガラス工が発明したもので、そうしたガラス鏡は天正一八(一五四九)年にポルトガルの宣教師フランシスコ・ザビエルが贈り物として初めて日本に齎したと言われており、本邦で初めてガラス板が製造されたのは十八世紀後半の泉州(大阪府)佐野であったとされる(三重硝子工業株式会社」公式サイト内知識」に拠る)。

「最(もつとも)唐鏡(とうきやう)也」最も古い形の中国様式(中国製ではない)の鏡。野島出版脚注にも『崑崙は唐鏡といっているが、考古學者の研究によれば、中國鏡ではなくて、我國で鋳造した彷製鏡で、神獣鏡を模したものであろうという』とある。]

2017/08/19

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 竈馬(いとど)


Itodo

いとど  竈雞

いとじ

竈馬

     【古云 伊止止

      今云 伊止之】

ツアゥ マアヽ

 

本綱其狀如促織稍大脚長好穴竃旁俗言竈有竈馬足

食之兆也

△按竃雞似促織而小色亦淡身團而足長秋夜鳴聲似

 蚯蚓而細小最寂寥

 

 

いとど  竈雞〔(そうけい)〕

いとじ

竈馬

     【古へ、「伊止止〔(いとど)〕」と云ひ、今に「伊止之〔(いとじ)〕」と云ふ。】

ツアゥ マアヽ

 

「本綱」、其の狀〔(かたち)〕、促織〔(こほろぎ)〕のごとく、稍(やや)、大〔(おほき)〕に〔して〕、脚、長し。好〔(このみ)〕て竃〔(かまど)〕の旁〔(かたはら)〕に穴〔(あな)す〕。俗の言〔(いは)〕く、「竈に竈馬〔(いとじ)〕有れば、食を足(た)すの兆(きざし)なり」〔と〕。

△按ずるに、竃雞〔(いとじ)〕は促織(こうろぎ)に似て、而〔(しか)〕も小さく、色、亦、淡(うす)し。身、團〔(まろ)〕くして、足、長し。秋の夜、鳴〔く〕聲、蚯蚓(みゝづ)に似て而〔(しか)〕も細〔く〕小〔さく〕、最も寂寥(さび)し。

 

[やぶちゃん注:直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目カマドウマ上科カマドウマ科カマドウマ亜科カマドウマ属カマドウマ亜種カマドウマ Diestrammena apicalis 或いはその近縁種或いは亜種。ウィキの「カマドウマ」竈馬)によれば、形状的には同じ剣弁(キリギリス)亜目 Ensifera のキリギリス(次項)・コオロギ(次々項)・ウマオイ(キリギリス科ウマオイ属ハヤシノウマオイ Hexacentrus japonicus・ハタケノウマオイ Hexacentrus unicolor)にやや似た部分はあるものの、『成虫でも翅を』持たないために翅による飛翔は出来ず、専ら、『長い後脚で跳躍する。その跳躍力は非常に強く、飼育器の壁などに自ら激突死してしまうほどである。姿や体色、飛び跳ねるさまが馬を連想させ、古い日本家屋では竈の周辺などによく見られたことからこの名前が付いた。俗称として「便所コオロギ」などと呼ばれることがある。日本列島及び朝鮮半島の一部に分布するが、地域によっては体の色や交尾器の特徴などが微妙に変化しているため、いくつかの亜種に区別されている』。『カマドウマという和名は、厳密には北海道から九州の地域と韓国に分布する原名亜種(複数ある亜種のうち最初に学名が付けられた亜種)のみを指し、他の亜種には別の和名が付いている。しかし』、『カマドウマ科の昆虫は互いに似たものが多く、日本産のカマドウマ科だけでも』三亜科七十『種以上が知られ、専門家以外には正確な同定は難しい。したがって、明確な種別の認識なしにこれらカマドウマ科の昆虫を一まとめにカマドウマと言うこともある。この場合は「カマドウマ類」の意か、別種を混同しているかのどちらかである』原名亜種のカマドウマの体長はで約一・八~二・一センチメートル、で一・二~二・三センチメートルほどで、は『腹部後端に長い産卵管があり、この産卵管を含めると』二・一~三・三センチメートル『ほどになる。他のカマドウマ科の種と同様に、成虫でも翅をもたない。体はやや側扁し(左右に平たく)、横から見ると背中全体が高いアーチを描いた体型をしている。背面から側面にかけては栗色で、腹面や脚の付け根、脛節などは淡色となる。各部には多少の濃淡はあるが、目立つ斑紋はない。幼虫も小型である以外は成虫とほぼ同様の姿をしているが、胸部が光沢に乏しいことや、』第一跗節から第三跗節(ふせつ:節足動物の脚の最終節。脛節の下にあり、昆虫では通常は数節以内に分かれていて(脛節に近い方を第一跗節と呼び、最終跗節の先には小さな爪を有する)の『下面に多数の剛毛があることなどで成虫と区別できる』。『顔は前から見ると下方に細まった卵型で、口付近には』一『対の長い小顎鬚(こあごひげ)がある。体長の』三『倍以上ある触角で、暗所でも体の周囲全体を探れる。』三『対ある脚のうち後脚は特別に発達して跳躍に適した形になっており、腿節は体長とほぼ同じ長さがあり、脛節は体長よりも長い』。『主に身を隠せる閉所や狭所、暗所、あるいは湿度の高い場所などを好むため、木のウロ、根の間、洞穴などに生息し、しばしば人家その他の建物内にも入る。また時には海岸の岩の割れ目に生息することもある。古墳の石室内にも群生し、しばしば見学者を驚かせる。夜行性のため日中はこれらの隠蔽的な空所にいるが、夜間は広い場所を歩き回って餌を探す。夜に森林内を歩けば、この仲間がよく活動しているのを見ることができる(特に夏季)。また後述の通り樹液にも集まるため、カブトムシ等の採集のために設置したトラップに大量に集まるということも珍しくない』。『極めて広範な雑食性。野生下ではおもに小昆虫やその死骸、腐果、樹液、落ち葉などを食べている。飼育下ではおおよそ人間が口にする物なら何でも食べ、山岳部では好んで羊の生き血をすする』(これは知らなかった。驚き!)。『動物質、植物質、生き餌、死に餌を問わない。野外でも共食いがしばしば発生しているという』。『繁殖は不規則で、常に卵、成虫、様々な齢の幼虫が同時期に見られる』。『天敵はヤモリ』、『ネズミ、カエル、各種鳥類、寄生蜂、ゲジ、カマキリ、アシダカグモ等である』。『カマドウマ科にはよく似たものが多いため正確な同定はかなり難しく、単なる絵合わせによって正しく同定をすることは不可能で、脚の棘や交尾器の形態などの詳細で正確な観察に基づいて同定しなければならず、それほど簡単ではない。特に幼虫の場合は専門家でない限り正確な同定はほぼ不可能と考えてよい』。但し、『ただし家屋や納屋などに見られるカマドウマ科』Rhaphidophoridae『のうち、胴体や脚に濃淡の斑紋が明らかなものは少なくともカマドウマではなく、多くは』Tachycines属クラズミウママ Tachycines asynamorus)かカマドウマ属マダラカマドウマDiestrammena japonica『である。また一つの地域に生息する種は限られるので、産地や環境からある程度の種に絞り込むことも可能である』。『竈馬という風流な名』を持ち、『特に大きな害をなさないこの虫も、今日では』「便所蟋蟀(べんじょこおろぎ)」『というイメージの良くない名とともに不快害虫として忌み嫌われることも少なくない。かつての日本家屋は密閉度が低かったため、カマドウマが周辺の森林などから侵入し、多くの日陰や空隙と共に食料も提供してくれる土間の隅などに住み着くことも多かった。そのため家人にとっては馴染みの日常的な存在であったが、自然が住宅から遠ざかり家屋の構造や住環境も変化した結果、カマドウマ類が生息する家も少なくなった。更に殺虫剤の発達と相俟って、人間に発見されれば即座に殺傷駆逐の対象とされることも多くなり、駆除対象以外での日本人とのかかわりが少なくなっている』とある。そういえば、私も小さな頃は勝手口の風呂釜の横で何時も見かけたのに、気がついてみると、もう何十年も見ていない。ちょっぴり、淋しい気がした(但し、先にあるように私が少年の頃にしばしば出逢ったのはその色から、カマドウマではなく、クラズミウママかマダラカマドウマであったのだと気がついた)。私はあの頃、「えびばった」と呼んでいたのをふっと思い出した(その頃、芭蕉の「海士(あま)の屋は小海老にまじるいとどかな」の句は知らなかった)が、彼らは他に本文でも吉兆とするように、「カミノツカイ」「ダイコクノヒゲ」「イドカミサマ」「エビスノウマ」「フクコオロギ」や、よく跳ねることから兎に譬えて「ウサンコ」「ウサギムシ」「カベウサギ」、同じく猿で「オサルコオロギ」「サルッチ」、猫で「ネコギス」「ハネネコ」という別名もあるようである。

 

「竈雞〔(そうけい)〕」「雞」は「鷄」(にわとり)に同じい。よく飛び跳ねるところの比喩であろうが、カマドウマ類の中には脚部が先端にゆくに従って、有意に赤く見えるものがおり、これは私には鷄の鶏冠(とさか)の色を連想させるし、の腹部末端の尖って突き上がる産卵管も赤く、これは私にはやはり鶏の蹴爪(けづめ)のようにも見えることを言い添えておく。

「促織〔(こほろぎ)〕」直翅目剣弁亜目コオロギ上科 Grylloidea のコロオギ類。

「竈馬〔(いとじ)〕」「かまどむま」と読みを振りたくなったが、先の今の呼称に従った。後の「竃雞〔(いとじ)〕」も同前。

「食を足(た)すの兆(きざし)なり」食物に不足して困ることがないことの吉兆とする。先の異名の「神の使い」「大黒の髭」(長い触角を喩えたのであろう)「恵比寿様」(大黒も恵比寿も福の神である)「福蟋蟀」もそうした系列のものと読める。

「秋の夜、鳴〔く〕聲」無翅であるカマドウマ類は鳴くことは出来ないから、これは他のバッタ類の鳴き声の誤認である。以下で「蚯蚓(みゝづ)に似て而も細く小さく、最も寂寥(さび)し」とあるところからは、環形動物門貧毛綱 Oligochaeta のミミズ類の鳴き声と誤認された、直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae ケラ(螻蛄)類の鳴き声と限定して考えてもよいとも思われる。]

北越奇談 巻之三 玉石 其八・其九(白玉環・勾玉・管玉)

 

    其八

 

 柏崎の西南、海岸に臨みて、三十番神(ばんじん)の社(やしろ)あり。過(すぎ)し頃、此山の梺(ふもと)を掘りて一ツの壷を得る者あり。内、皆、赤土(せきど)。是を海潮(かいてう)に洗ひば、其内、白玉環(はくぎよくくはん)一双・勾玉(まがたま)・管玉(くだだま)等、數品(すひん)、有(あり)。皆、小児(しように)等(ら)に分かち與(あた)ふ。後(のち)、知れる者あり。漸々(やうやう)にして、その品(ひん)、五ツ六ツを得ると雖も、其余(そのよ)、所在を失(しつ)す。惜しむべきの甚(はなはだし)きなり。偶々(たまたま)、是を見るに、靑緑(せいりよく)・白色(はくしよく)、奇玩、絶品なり。密(ひそか)に按ずるに、昔より、帝都の乱を避けて、貴人(きにん)の北越に逃(のが)れ住める者、甚(はなはだ)多し。今、その系跡(けいせき)、定(さだ)かならずと雖も、是等も、其人を葬(ほうむ)れる地なるべきか。

 

[やぶちゃん注:現在の柏崎市番神二丁目に現存する「番神堂(ばんじんどう)」(柏崎市指定文化財・有形文化財・建造物に指定)。柏崎市公式サイト内のによれば、これは柏崎市西本町にある日蓮宗妙行寺(みょうぎょうじ)の境外仏堂で、文永一一(一二七四)年に日蓮が佐渡流罪から赦免された帰り、三十番神(後注参照)の霊を請じ迎えて祀ったものと伝えられているものとある。(グーグル・マップ・データ)。

「三十番神」国土を一ヶ月三十日(旧暦は大の月が三十日)の間、交替して守護するとされる三十の神。神仏習合に基づいた法華経守護の三十神(先の崎市公式サイト内の柏崎市ページに、その総ての神名とその祭日の一覧が載る)が著名。初め、天台宗で、後に日蓮宗で信仰された。

「白玉環」軟玉(なんぎょく:nephrite:ネフライト:翡翠のなかで硬度の低い、半透明で乳白色を呈したもの)で作った環状の装飾品。腕輪・指輪・耳輪などにするものの、特に中国では古えより男子が腰に帯び、それを狭義に「玉環」とも呼んだ。但し、ここはそれに限定する必要はない。

「勾玉」コンマ形に湾曲した弥生・古墳時代の装飾用の玉。丸い部分の貫通孔に紐を通して首飾りとした。瑪瑙・翡翠・水晶・琥珀・ガラスなどで作った。獣類の歯牙に孔(あな)をあけたものに起源をもつといわれ、縄文時代にも不整形のものがある(「大辞泉」の記載)。

「管玉(くだだま)」「くだたま」とも。ウィキの「によれば、『管状になっている宝飾装身具の部品、ビーズの一形態で、管に糸を通して腕飾り(ブレスレット)や首飾り(ネックレス)などとして』現代でも『用いられる。古代においてはガラスも含む希少な宝石(宝玉)から作られたので、漢字文化圏では別の形状である曲玉・とんぼ玉とともに「ビーズ」に代えて「玉」(ぎょく)名で分類する』。『日本では、縄文時代からみられ、今日と同じように腕飾りや首飾りなどとして用いられていたものとみられる。古墳時代にあっては、古墳の副葬品となることが多かった。遅くも奈良時代までに』、『宝飾部品としての製作は一旦』、『途絶している』以下は、『主に日本古代におけるものについて』の解説。『形状は、縄文時代のもの』は、その側面が、やや、『楕円形を呈するのに対し、弥生時代以降のものは正円筒形をなしている』。『素材は、ガラス・碧玉・滑石・凝灰岩などが多い。礫石を採取する場合と原石を採取する場合があり、管玉製作地』『は、原石産出地や原石の採取可能な海岸の比較的近くに立地することが多い』。『用途としては、首飾り、胸飾り、腕飾りなどの装身具としてであるが、縄文時代など時代をさかのぼるにつれ、美しく飾るというよりはむしろ呪術的な意味合いが強かったものと考えられる』。『装身具として利用するために紐を通すための孔(あな)をあける必要がある。そのための穿孔具としては、竹、鳥類の骨、極細の石製のドリル(石錐)や鉄製ドリルなどがあった。竹・鳥骨はじかに素材玉にあてて穿孔したが、ドリルの場合は細長い管の先に取り付けられて回転させることによって穿孔する』。『ドリルを用いた穿孔技術としては』、『管に錐(ドリル)をあてて直接両手でもみこむ揉錐(もみきり)技法』、『弓の弦に管を巻き付け、弓を左右に動かすことで錐(ドリル)を回転させる弓錐(ゆみきり)技法』、『管を弓の中央の孔に通し、弦を管に螺旋状に巻き付けて、弓を上下に動かすことによって錐(ドリル)を回転させる舞錐(まいきり)技法』『があった』と推定されている。『なお、これに際しては、木材でつくった固定板を用意し、中央に穴をあけて粘土を詰め、そのなかに素材の玉を埋め、さらに固定板を足で押さえるなど材料・工具をともに固定する手立てが講じられ、さらに、ドリルの回転の際には摩擦材として硬く微細な砂をまくなどの工夫が施された』『。仕上げ段階ではさらに全体に研磨が施されてひとつひとつの管玉が完成したものと考えられる』とある。

「昔より、帝都の乱を避けて、貴人(きにん)の北越に逃(のが)れ住める者、甚(はなはだ)多し。今、その系跡(けいせき)、定(さだ)かならずと雖も、是等も、其人を葬(ほうむ)れる地なるべきか」これが崑崙の歴史認識の限界を示している。これらは恐らく、古墳時代(三世紀中頃から七世紀頃)の地方豪族の古墳の副葬品と思われる。]

 

    其九(く)

 

 寺泊より東一里、竹森(たけもり)と云へる所、古き砦の跡ありて、角櫓(すみやぐら)と覺しき所、尤(もつとも)高く、方(ほう)なり。此村の中(うち)、路(みち)・堤(つゝみ)など、傷(いた)み損ずる時は、必ず、其櫓の土を採りて、是を補ふ。過ぎし頃、土中(どちう)深く掘り穿(うが)つに、白玉の勾玉(まがだま)一つ、出(いず)。甚だ、常に見るよりは、大なり。後、其(その)得たる者、東武に行(ゆき)て、これを失(しつ)す。

 

Magatamanado

 

[やぶちゃん注:原典はこの位置に挿絵(崑崙自筆)が載る。記載内容から、これらは総て、前者「其八」の出土品である。]

 

[やぶちゃん注:「寺泊より東一里、竹森(たけもり)と云へる所」現在の越後線寺泊駅のある新潟県長岡市寺泊竹森。(グーグル・マップ・データ)。現在の町域はまさに寺泊港から東南東に四キロ離れた位置にある。

「角櫓(すみやぐら)」城郭の隅に立てた櫓のことであるが、これは方墳か崩落した前方後円墳の一部を指しているのではあるまいか? 同地区には室町期の城塞跡もあるが、他にも古墳時代或いはそれ以前とされる竹森上向遺跡及び中向遺跡が存在する新潟県埋蔵文化財包蔵地一覧表(PDF)の四ページ目の右「遺跡台帳 長岡市(6)」の冒頭の遺跡番号「1073」番から「1198」番(連番ではないので注意)までの十五箇所が総て竹森地区内である。]

2017/08/18

ブログ990000アクセス突破記念 花嫁と瓢簞 火野葦平

 

[やぶちゃん注:本文では特異的に拗音が散見されるが、それならここも拗音となるべきであると思われる箇所がなっておらず、全体にそうした歴史的仮名遣的箇所の方が多い。それらは総てママとした。

 以下、簡単な注を附しておくが、ネタバレになる本話全体への私のある感懐は最後に回した

・本文で二箇所に出る「先登」はママ。先頭。

「カルカヤ」本邦では単子葉植物綱イネ目イネ科キビ亜科メガルカヤ属メガルカヤ Themeda triandra var. japonica(或いはThemeda triandra)を指す。高さ約一メートルで、長毛を有する。九月から十月にかけて稈頂に包葉がある仮円錐花序をつける。日当りのよい丘陵地や草地に生え、本州から九州に分布する。和名は「雌刈萱」で、オガルカヤ(雄刈萱:キビ亜科オガルカヤ属 Cymbopogon tortilis var. goeringii)に対し、それよりも小形であることに由来する。Katouの「三河植物観察」を参照されたい。

・「德の洲」は正確には「徳淵の津」である。この附近(グーグル・マップ・データ)で、マー君のブログ「生涯現役毎日勉強」の「徳淵の津と河童」に詳しく、画像も載るが、後者のリンク先は読後に見られんことをお勧めしておく

・本文で球磨川の支流として「白川」・「靑葉川」・「枕川」と順に出し、最後の枕川で本流の球磨川に接続したという記載が出るが、「白川」は阿蘇山の根子岳(ねこだけ)に発し、阿蘇カルデラの南部の南郷谷を西流し、南阿蘇村立野で、カルデラの北側の阿蘇谷を流れる支流の黒川と合流、急流の多い上中流域を抜けて、熊本市市街部を南北に分けて貫流した後に有明海に注ぐ川である(ここ(グーグル・マップ・データ))。「靑葉川」と「枕川」は不明で(国土地理院の地図も調べたが、当該河川名を発見出来なかった)、現在の河川状況からは、この白川から球磨川に支流河川を通って容易に行けるようには私には思われない。現在の白川の最も南の部分から直線でとっても球磨川は真南に約三十キロメートルも離れている。可能性としては平地である宇土を抜けて河川を行くルートか。あったとすれば、その付近に「靑葉川」及び「枕川」はあることになる。因みに、白川の南には「緑川」が流れており、これは「靑葉」という名とは親和性があるように思われはする。ただ、「枕川」が肝心要の作品の舞台及びその近くの川であるから、実在するならば、何とかして知りたい。識者の御教授を乞うものである。

 また、「松尾川」は熊本県熊本市西区を流れる現存河川で、西区松尾町上松尾附近を源流とし南流し、熊本市立松尾東小学校近くを通って、先の「白川」の北側を流れる坪井川に合流する川である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 虎助の台詞の「ええごとしてもろうて、よか」は「好きにしてもらって、いいぞ」の意であろう。

 「カマツカ」コイ目コイ科カマツカ亜科カマツカ Pseudogobio esocinusウィキの「カマツカ」によれば、体長十五~二十センチメートルほどの『細長い体と、長く下に尖った吻が特徴。吻の下には』一『対のヒゲがある』。『主に河川の中流・下流域や湖沼の砂底に生息し、水生昆虫などの底性の小動物や有機物を底砂ごと口から吸い込み、同時に砂だけを鰓蓋から吐き出しながら捕食する。繁殖期は春から初夏にかけてである』。『おとなしく臆病な性質で、驚いたり外敵が現れたりすると、底砂の中に潜り、目だけを出して身を隠す習性があることから「スナホリ」・「スナムグリ」・「スナモグリ」など、また生態が海水魚のキスに似ていることから「カワギス」など、また鰓蓋から勢いよく砂を吐き出す仕草から「スナフキ」という別名もある』。美味な淡水魚として知られ、塩焼きや天ぷら、甘露煮などにする、とある。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが990000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年8月18日 藪野直史】]

 

         一

 

 稻の穗の稔りのうへを秋風がすぎると、黃金色の波が美しい縞をつくりながら、はてしもなくかろがつて行く。風が強いときには鳴子(なるこ)が鳴り、ある田ではキラキラと銀紙が光つて、雀どもが一散に飛び立つ。案山子(かかし)のおどけた姿や顏にさわやかな太陽があたり、その光線は村のいたるところに、象牙細工のやうな柿の實を光らせてゐた。部落の藁屋根や瓦葺のうへには銀杏の葉が降りそそぎ、野や畦道(あぜみち)は、オミナエシ、キキョウ、ハギ、カルカヤ、キクなどの花盛りであつた。天には、悠々とトンビが舞つてゐる。平和で美しい村の風景である。

 しかし、今、この美しい村をさらに一段と美しく彩つて、通りすぎて行くのは花嫁の一行であつた。白い眞綿の帽子に角かくし、あでやかな衣裳をつけた花嫁は、馬の背に橫坐りになり、紅白だんだらの手綱を持つた馬子に引かれて行く。その前後には型どほりの行列が、村民たちの見物のなかを拔けて、靜々と、婚家先へ進んで行つた。眞晝間なのに、先登の男は定紋入りの提燈をぶらさげ、もう醉つぱらつてゐるのか、すこし千鳥足で、調子はづれの鼻唄をうたつてゐた。

 村人たらは、沿道は勿論、遠近(をちこち)の自分の豪から、田圃のなかから、丘のうへから、このあでやかな花嫁道中を眺めてゐた。

「おい、お前たらもそろそろぢやッど」

 百姓虎助は、自分の左右にゐる三人の娘たちを見まはして、意味ありげにいつた。

「まだ早かたい」

「なんの早かろか。大體がもう三人とも遲れちよるちゆうても、よかくらゐぢや。あげな晴れがましか花嫁衣裳ば、早よ着てみたうはなかッとかい?」

「そら着てみたかばつてん」

「今年のうちに、みんなよか婿ば取らんば。ウメは一番上ぢやけん、養子をせんにや仕樣なかばつてん、キクとアヤメはよかとこへ行けや。それで、お父ッあんもおッ母ァも安堵ばするけん」

 虎助は特別に慾張りでも因業でもなかつたが、やはり、三人姉妹の婿が金に困らぬ男で、氣立てがよく、よく働き、男ぶりも惡くないことを祈らずには居られなかつた。どういふものか男の子が出來ず、養子をしなければならぬことが殘念だけれども、揃ひも揃つて三人娘が器量よしなので、きつと自分を滿足させる婿が來るだらうと樂觀してゐた。虎助が娘たちを意味ありげな眸でながめたのは、さういふ思ひをこめてゐたからで、彼は自分の三人娘が自慢でたまらぬのだつた。

「虎助どんは幸福者ばい。三人ともこん村にならぶ者がなか別嬪ぢやで、寶物を持つとると同じたい。三國一の花婿が來らすぢやろ」村人も口を揃へて、それをいふ。そのたびに相好をくづして、

「トンビがタカば生んだッたい。へへへへ」

 と、やに下がるのが常だつた。

 河童たちも、この花嫁行列を見てゐた。この部落のはづれを流れてゐる枕川は、球磨川(くまがは)の支流で、さうたくさんはゐないが、二三十匹ほどの河童が棲んでゐた。彼等はいたづら好きで、ときどき村民に角力(すもう)を挑んだりするけれども、子供たちの尻子玉(しりこだま)を拔いたり、野菜畑を荒したりして、ひどい被害をあたへることはなかつた。たまに、犬や馬や牛を川へ引きこんでみたりする。しかし、それとて、それらの動物たちを殺したり、これを餌(えさ)にしたりすることが目的ではなく、自分たちの力をためしてみたい心からで、もう一つはこれらの動物たちが水中で必死にもがくさまが面白くてたまらぬからだつた。スポーツか見世物のつもりなのだ。もともと、四千坊頭目に率ゐられてゐたのは、九千坊一族が球磨川から筑後川へ大移住したとき、破門されて本流から支流へ追放された連中の末孫だから、まづ優秀の部類とはいへない。それでも村では恐れられてゐて、村民はなるべく河童に觸(さは)らないやう、河童と事をかまへないやうに極力注意してゐた。

 花嫁行列の絢爛(けんらん)さに、河童たちは感にたへてゐた。河童の仲間でも嫁入りのときには、花嫁は飾るけれども、たかが蓮の葉の帽子にありあはせの花をのせ、背の甲羅を水中の藻で飾るくらゐが關の山で、人間の花嫁の美しさとはくらべものにならない。河童たらは眼を瞠(みは)り、嘴を鳴らし、しきりに、巨大なためいきを吐きつづけてゐた。

 そのなかで、もつとも恍惚とした眼つきになり、惱ましげに、やるせなげにしてゐるのは三郎河童であつた。彼は羨望のあまり、河童に生まれて來たことを嘆くほどの感動にとらはれてゐた。出生の宿命はくつがへすべくもない。日ごろは自分の身分を下賤とは思はず、かへつて人間の愚劣さを輕蔑さへしてゐたこともあつたのに、この花嫁姿の美しさはほとんど三郎の人生觀をくつがへしてしまふほどのショックであつた。

 

          二

 

 花嫁の一行が村はづれに出て、枕川の岸邊にさしかかつたとき、椿事がおこつた。

 長い道中なので、堤防にある大きな榎や銀杏のかげに八つて、一行は休憩してゐたのだが、そのとき、花嫁が乘つてゐた馬が、河童のため、川へ引きづりこまれたのである。花嫁は降りて床几に腰かけてゐたので被害はなかつた。河童の方も花嫁を傷けようとは考へて居らず、いくらか燒き餅年分、花嫁の乘馬にいたづらしたのである。五六匹の河童が馬の尻尾や肢をつかみ、まつたく無造作に、川の中へつれて行つてしまつた。三尺足らずの小さい身體なのに、頭の皿に水が滿ちて居れば、トラックでも機關車でも引きこむくらゐ強力なのである。花嫁はこれを見て仰天し、氣をうしなつてたふれた。

「ガラッパの畜生奴」

「馬を返せ」

 混亂におちいつた伴(とも)の連中は、口々に叫んだ。しかし、ただ騷いでゐるばかりで、馬を助けに行かうとする者はない。行けば自分たちも引きこまれることは眼に見えてゐる。馬がゐなくなつても、花嫁を送りとどけることは出來るといふ計算もあつた。

 馬はあばれて抵抗した。狂つたやうにいなないた。水面がはげしく波立ち、魚やウナギやスッポンがはねあがつた。しかし、案ずるはどのことはなかつた。河童はいたづらしただけだから、まもなく、馬は川面に浮きあがつた。ぶるんぶるんと鬣(たてがみ)や身體の水を切りながら、鼻を鳴らして岸にかけあがつて來た。

 すると、枕川の水面がふいに渦をまいたやうに騷ぎはじめ、急速に水量が增して、堤防の緣すれすれまでにあがつて來た。これは川底で河童たらが大笑ひをしてゐるためにおこつた現象である。古老はこの傳説の掟を知つてゐた。河童をあまりひどくよろこばせたり、怒らせたり、悲しませたりしては危險なのであつた。そのたびに川の水量が增して洪水になる場合があるのである。二匹や二匹ではそんなことはないが、十匹を越えると增水の可能性が生まれるのだつた。

「まつたく困つたガラッパどもぢや」

 花嫁をとりまいて、村人たちは苦々しい顏をした。河童たちが笑ひやんだとみえて、水面は下がり、渦も消えた。

 このいたづら河童たちのなかには、三郎はゐなかつた。彼は、花嫁姿に對して、さういふチャチな鬱憤晴らしでは消えないほどの強烈な衝擊を受けてゐたので、仲間の方法をたわいないものに考へ、さういふ單純さのなかには進步はないし、理想追求の熱情も感じられないと思つた。三郎の眼には、不思議な淚が宿つてゐた。

 この騷動の噂はすぐに村中に傳はつた。そして、あらためて河童を恐れさせた。

「お父ッあん、ガラッパの征伐は出來んとぢやろか?」

 末の妹のアヤメが訊(き)く。

「コラコラ、そぎやんなことを大きな聲でいひばしするな。ガラッパが立ち聞いたら、どぎやん仕返しすァか知れんど」

 虎助はおびえた顏つきで、あたりを見まはした。アヤメは笑つて、

「こぎやんとこにガラッパが居るもんか。枕川とは三町も離れとる。聞えはせん。な、お父ッあん、ガラッパの語ば、して聞かせて」

「そぎやんいやァ、まさか、ここでの話し聲が枕川まで屆きはすまい。さうぢやなァ。今夜は閑(ひま)ぢやけん、お前たちにガラッパの話でもしてやろかい」

 熊本から鹿兒島地方にかけて、河童はガラッパと呼ばれてゐる。虎助は、三人の娘にとりまかれ、芋燒酎を引つかけながら、ガラッパの話をはじめた。

「大體、日本のガラッパはこの熊本縣が本家たい。お前たちも球磨川下りをしたことがあるけん、知つとるはずぢや。八代(やつしろ)の德の洲にやァ、河童上陸記念碑が立つとる。ガラッパはどこか遠いアジアの方から來たもんらしか。おれやァ學問のなか土百姓ぢやけん、詳しいこた知らんばつてん、なんでもアラビア地方から、九千坊ちゆう大頭目が何千何萬といふガラッパを引きつれて、東方に移動して來たちゆうんぢや。ジンギスカンてら、アレキサンダー大王てらいふ豪傑のまねしたかどうか知らんばつてん、インドのデカン高原の北、ヒマラヤ山脈の南にあるタクラマカン沙漠を通つて、蒙古、支部、朝鮮、それから海をわたつて、この熊本縣の德の洲から日本に上陸したらしか」

「大遠征ばいねえ」

「うん、途方もない大遠征ぢや。途中でだいぶん落伍したガラッパもあつたぢやらうが、ともかく、德の洲から日本に入つたガラッパが、今ぢやァ日本中に散らばつたとたい。枕川に居るとはその名殘りぢやよ」

「ガラッパにも、男と女とがあッと?」

「あたりまへのことよ。雄と雌とが居らんにやァ、子孫はふえんたい」

「ガラッパでも、惚れたり張れたりするぢやろか」

「するぢやろな」

「ああ、をかしか。ガラッパの戀か――ウフフフ、ガラッパの花嫁さんば、いつペん見たいもんぢやな」

「コヲコラ、ガラッパには近づかんにかぎる。ガラッパはやつばり化けもんぢやけんなァ」

 

          三

 

 虎助は自分は學問のない百姓だといつたが、河童についての傳説はよく知つてゐた。醉つて來るといよいよ雄辯になり、聲も大きくなつた。そして、熱心に聞き入る娘たちに、次のやうな語をした。

 ――昔、川に橋が少なく、渡船が交通機關であつたころ、或る日、渡船場で、一人の若者が船頭に一通の手紙と、一挺(いつちやう)の小さな樽とをことづけた。

「實はこれを持つて球磨川に行くはずでしたが、急に母が危篤といふものですから、ここから引きかへきなくてはならなくなりました。ついては、この手紙と樽とを球磨川の魚津といふところで、川に投げこんで下さいませんか。お禮は充分いたします」

 船頭ははじめ面倒くさいことに思つたが、若者が莫大な謝禮金をさしだすにおよんで、二つ返事で引きうけた。若者が去ると、船は川面に出、白川、靑葉川、枕川と、支流を經て、球磨の本流に入つて來た。

 ところが、乘客のうちで、その手紙と樽とはどうもをかしいといひだした者があつた。大體、品物を誰かに渡すのなら話はわかつてゐるが、川の中へ投げこめとは腑に落らない。若者は依賴したとき、この樽には大切なものが入つてゐるし、手紙も重要な祕密文書だから、どちらもけつして途中で見てくれるなと、くどいほど念を押した。見るなといはれれば見たくなるのが人情だし、まして、怪しいとすれば、眞相をたしかめたくなる。船頭ははじめ躊躇したけれども、乘客の輿論に押しきられて、遂に、樽の方から先に開けてみた。梅干に似た丸つこい物がいつぱい詰まつてゐる。なにかわからないが、蓋をとつた途端、嘔吐(おうと)をもよほす異臭がとびだして、乘客は一樣に鼻をつまんだ。

 次に手紙を讀んだ。奇妙なくづしかただつたが、やはり漢字まじりの日本文なので、どうにか判讀することが出來た。

「拜呈仕候。九千坊將軍閣下には愈御盛大大慶至極に存じ上候。きて、例年の尻子玉年貢百個、早々に差し出すべき筈の處、最近は人間共がすこぶる用心深くなり、なかなかに數を揃へ申す事が困難にて、延引の段お許し下され度候。然るに、更にお詫び申し上げたきは、百個の定の處、遂に〆切までに九十九個しか集らず、一個不足致し居る事にて候。その不足分は何卒この船の船頭の尻子玉を拔きて、數をお揃へ下され度、御配慮の程よろしく御願申上候。恐惶(きようくわう)謹言、三拜九拜。肥後の國、松尾川頭目、二百坊より」

 舷頭はまつ靑になつた。腰が拔けてしまひ、船底にへたばつた。乘客たちもおどろいたが、船頭にくらべるとものの數ではなかつた。船頭は癲癇(てんかん)にかかつたやうに泡をふいてゐる。

 球磨川の河童大頭目九千坊が、これによつて、所々の中小頭目から年貢を取りたててゐることがわかつた。所によつてちがふのであらうが、松尾川の二百坊は年間尻子玉百個を約めねばならぬらしい。それが一個足りないので、船頭ので埋めあはせてくれといふのだつた。

「手紙は燒いてしまび、樽だけをここで投りこめ」

 と、客が忠告した。船頭はそのとほりにした。小さい樽すぐに川底へ引きこまれた。船頭は無事だつた。

 しかし、この事件がきつかけになつて球磨川にはお家騷動がおこつた。年貢の取り立てなどは大頭目九千坊のあづかり知らぬことだつたからである。九千坊の威光を笠に、九千坊の名で税金を課し、苛斂誅求(かれんちゆうきゆう)を事としてゐたのは、家老職の四千坊であつた。四千坊が松尾川から來た尻子玉が九十九しかないことを詰(なじ)り、ただちに一個追加の嚴命を發したため、ひどい搾取(さくしゆ)に隱忍してゐた二百坊も、遂に堪忍袋の緒を切つて謀叛(むほん)をおこしたのである。なにも知らぬ九千坊は、はじめ、二百坊の謀叛を怒つて、追討軍をさしむけようとしたが、眞相を知るにおよんで、四千坊の方を懲罰に附した。一族を引きつれて、筑後川へ大移動することになつたとき、四千坊とその腹心を枕川に流刑したのである。

「それでなァ、いま、枕川に居るガラッパたちは、四千坊の子孫ちゆうわけなんぢやよ」

 語り終ると、虎助はおいしさうに、芋燒酎をまたぐいぐいと傾けた。[やぶちゃん注:「芋燒酎」は底本では「芋酎燒」。誤植と断じて特異的に訂した。]

 家の外にたたずんでゐた三郎河童は、急に自分の身體がふくらんで來るやうな氣がした。あんまり虎助の聲が高いし、ガラッパといふ言葉がいく度も聞えるので、枕川から出て來て立ち聞いてゐたのだが、虎助の語は三郎に大いなる期待をあたへた。三郎は立ちあがると、誇らしげに、呟いた。

「おれは、名門四千坊の末裔(まつえい)だ。下賤でもなければ、低級でもない。このあたりの土百姓どもにくらべれば、貴族といつてよい。今日から、胸を張つて生きるんだ」

 枕川の仲間たちは、自分たちの歷史や傳統をまるで知らない。四千坊が死んで後は、なんの記錄も殘つてゐないので、單に、配流の河童として無意味に生きてゐただけだつた。人間から教へられたことは皮肉だが、それはもうどうでもよかつた。三郎は新しい光明に向かつて進むやうに、せせこましい枕川を望んで步きだした。胸を張り、肩を怒らし、頭の皿をまつすぐにして、まるで、凱旋將軍でもあるかのやうに。

 

          四

 

 旱魃(かんばつ)といふほどではないが、雨が少く、水の切れる田が出來はじめた。稻はよく稔つてゐるけれども、いま田が涸れ、龜裂を生じたりすると、収穫に大影響する。虎助の五段ほどの田は山手に近く、それでなくてさへ水引きが惡いのに、日照りつづきで、どの田もからからに乾いた。勢のよかつた稻穗もげんなりとしほれ、色が變りはじめるのも出た。虎助はおどろき、狼狽し、躍起(やくき)になつて、每日、水揚げ車を踏んだ。しかし、枕川からも遠く、堤からの潅漑用水も制限されてゐて、田を蘇生させるには不充分だつた。

「畜生、これだけやつても駄目か。神も佛も居らんとか」

 絶望的になり、天を恨んだ。見あげる秋空には積亂雲がもりあがり、雨の氣配などどこにもなかつた。村では一週間も前から、鎭守社で雨乞ひ祈願がおこなはれてゐるけれども、一向に靈驗のあらはれる兆候はない。

 どこの田にも百姓たちが出て、必死に水あげに熱中してゐた。しかし、努力は報はれず、百姓たちは情なささうな顏を見あはせあひ、無言で、日に灼けこげた顏を打ちふつた。表情をまつたく變へないのはおどけた顏の案山子だけである。稻穗をわたる秋風も無情だつた。

 くたくたに疲れた虎助は、田の畦に腰をおろし、鉈豆煙管(なたまめぎせる)を腰から拔いて、一服吸つた。好きな煙草の味もしなかつた。死にかかつてゐる田を眺めると泣きたくなる。絶えまなく、ためいきが出て、思はず、ひとりごとのやうに呟いた。

「おれの田に水を入れてくれる者があつたら、娘を嫁にやるばつてんなァ」

 その言葉が終るか終らぬかのうちに、不思議がおこつた。どこからかはげしく水の流れる音が聞えて來て、次第に近づくと、虎助の田に水がどんどん流れこみはじめた。白つぽく乾いて龜裂してゐた土はみるみる水の下になり、田は五枚とも、たつぷりと水を湛へた。しほれてゐた稻穗も息をふきかへし、いつせいに、蛙まで鳴きはじめた。

「やァ、水が入つたどう。田が生きもどつたどう」

 虎助はをどりあがつてよろこんだ。五枚の田の周圍を狂氣のやうに飛びまはり、萬歳を絶叫した。淚がぼろぼろほとばしり出た。

 百姓たらも集つて來て、虎助の田だけに急に水が入つたことを不思議がつた。他の田はどれもこれも干割れてゐて、虎助の田は沙漠の中のオアシスのやうに見えた。

「をかしなこともあるもんぢやなァ」

「この水、一體どこから來たんぢやろか」

 疑問は當然その點に落らる。虎助も加はつて水路を探してみると、虎助の田から一本太く、それは曲りくねりながらも枕川につづいてゐた。

「うい、枕川の水がひとりでに、虎助の田だけに上つて行つとるど。なんちゆう奇妙なことぢやろか」

 村民たちはいよいよ不思議がつた。

「ガラッパのしわざかも知れんど」

 と、一人の百姓がいつた。

 それを聞いて、虎助は靑くなつた。それは、いつか、彼が娘たらに話して聞かせた、九十九個の尻子玉を百個にするため、この船頭の尻子玉を披けといはれた、その船頭以上のおどろきであつたかも知れない。虎助は、さつき、田の畦で、田に水を入れてくれる者があつたら、娘を嫁にやる、と呟いたことを思ひだしたのである。虎助は恐しさでふるへだした。

 どこからか、なまぐさい一陣の風が吹いて來たと思ふと、虎助のすぐ前に、一匹の小柄な河童が姿をあらはした。

「虎助さん、あなたの田に水を入れてあげましたよ。さァ、約束どほり、娘さんを私の嫁に下さい」

 河童は慇懃(いんぎん)で、禮儀正しかつた。微笑さへ浮かべてゐた。三郎であつた。彼は虎助から自分が由緒ある四千坊の血筋を引く者であることを知らされてから、人間の女を嫁にする資格が充分あると自負してゐた。しかし、思ひあがることはいけないと考へ、仰天して口もきけないでゐる虎助に、

「三人の娘さんのうち、どなたでもよろしいです。一人を私に下さい」

 と、謙虛に、つけ加へた。

 

          五

 

 虎助の家では、沈痛な合議がはじまつた。母トヨ、娘ウメ、キク、アヤメ、自慢の幸福な家庭であつたのに、にはかに、暗澹とした空氣につつまれた。河童との約束は絶對に破ることは出來ない。河童の傳説に詳しい虎助は、河童がいたづら者の年面、すこぶる義理がたく、信義にあつい動物であることをよく知つてゐた。まして、村民たらの大勢見てゐる前で、河童と約束したのである。村人は虎助に同情するよりも、彼の田だけが潤つたことを嫉んでゐて、三人娘の一人くらゐは當然お禮として河童に進呈するのが人間の道だなどといふ始末だつた。虎助は絶對絶命である。やつと、河童に三日間の返事の猶豫(いうよ)をもらつた。無論、それは娘をやるやらぬの返事ではなく、三人のうち誰にするかを定めるためであつた。

 人ばかりよくて愚鈍な母トヨは、

「なんちゆう馬鹿な約束を、ガラッパなんかとしたもんぢやろか。阿呆たらしか。娘どもには三人とも、よか婿どんを見つけてやろて考へとつたとに、ガラッパの嫁にやるなんて、氣でも狂うたとか」

 と、泣きながら、やたらに恕つたり愚痴をいつたりするばかりで、なんの解決策も見いだすことは出來なかつた。虎助はほとほと當惑して、まづ姉の方から、口説いてみた。

「ウメ、お前、行つてくれるか?」

「お父ッあん、あたしは長女ばい。こン家を繼がにやならん責任がある。お父ッあんだつて、いつでもそぎやんいひよつたぢやなかか。あたしは養子ばもらはんならんけん、よそに嫁御に出ることはでけんたい」

「キク、お前は?」

「いやァなこと。ガラッパの嫁御なんて、考へただけでも身ぶるひがする。あぎやん化けもんの嫁になるくらゐなら、石の地藏さんと添うたがまし」

「さうか、お前たちにしちやア無理もあるまい。アヤメも同じ考へぢやろ。さう三人が三人ともいやがるなら、ガラッパに噓ば、ついたことになる。ガラッパはどぎやん仕返しをするか知れん。ガラッパの仕返しは恐しか。困つたなァ。そんなら、いつそ籤(くじ)にするか」

 それがよいと贊成する者はなかつた。籤の結果を考へると恐しいのである。すると、これまで默つてなにかを考へてゐた末娘のアヤメが、顏をあげて、

「お父ッあん、あたしがガラッパのところに、お嫁に行きませう」

 と、きつぱりした口調でいつた。

「ほんとかあァ」

 と、