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2017/08/31

北越奇談 巻之五 怪談 其四(埋蔵金伝説)

 

    其四

 

 「漆千杯・朱千盃・黄金(わうごん)千兩、朝日映夕日暉有梨樹下(あさひ、えいじ、ゆふひ、かがやく、りじゆのしたに、あり)」、如ㇾ此(かくのごとき)古碑、他邦は知らず、が國、已に三ケ所あり。

 其一 長岡東山下、釜ケ島村(かまがしまむら)、觀音。

 其二 新發田(しばた)より南、牧山藥師(まきやまやくし)。

 其三 村上關谷(せきたに)、桂村なり。

 其里俗、頻りに此古碑をつのりて、

「昔、長者某(それがし)、黄金等(とう)を土中(どちう)に埋(うづ)め、此碑を立(たつ)。」

と。

「今、其所在を失(しつ)して、尋ね求(もとむ)るに由なし。」

と云へり。

 是を見聞(みきく)人、羨み思はざるはあらじ。

 按ずるに、中古、如何なる好事の人か、如ㇾ此(かくのごとき)戲作(ぎさく)をなして、衆人の惑(まど)ひを起さしめけん。是、必ず、禪家の僧のなす所なるべし。只、三ケ所の中(うち)、其一所は碑を建(たて)たること、實(じつ)にして、其余(そのよ)は、下愚の人、羨み思ふが故に、

「此事、我郷にもありし。」

なんど云ひ觸らしたるを、誤まり傳(つたふ)るなるべし。

 密(ひそか)に此句を考(かんがふ)るに、漆は黑(くろき)が故に北となし、朱は赤を以つて南となし、金(かね)は黄(き)なるを以(もつて)中央とし、朝日は東にして、夕日は西なり、梨樹は和訓して「なし」と云ふ。是、即(すなはち)、「東西南北中央ともに一物(いちもつ)無し」と云ふ。義なるべし。誠に可一笑(いつせうすべし)。これを以つて是を見れば、黄金は實(じつ)に得難きものか。

 凡(およそ)此三話、怪事にもあらざれど、が國民間(かん)、下愚の輩(ともがら)、他邦の人に對して、是等の話を以つて我國を誇(ほこら)んとす。深く恥べきの至(いたり)なり。只、他邦の人も下愚は信ずべし。中智は謗(そし)るべし。上智は心裡(しんり)に笑(わらひ)て罷(やま)ん。

 

[やぶちゃん注:これは要するに、全国各地に伝わるところの怪しげな埋蔵金伝説の一つであり、似たような符牒はゴロゴロある(漆や朱(辰砂(しんしゃ):硫化水銀。古えより高貴な赤色顔料や漢方薬原料として珍重されてきた)は実際のそれではなく、この「漆千杯・朱千盃」で高価な財宝の譬えである)。例えば、群馬の桐生氏の埋蔵金伝説では「朝日さす夕日耀く雀のみよとりのところ黄金千杯朱千杯あり」(に従う)、石川県の春日野のそれでは元旦に鶏が「漆千杯、塩千杯、黄金の鶏が七番」と鳴くのだと言い(に従う。ここの頭には新潟県の埋蔵金伝承地が列挙されてある。但し、新潟県に関わるこの暗号歌は確認出来なかった)、長野県竹山砦のそれは「朝日さす夕日輝くその下に黄金千両朱千杯」(同前)とあり、静岡県旧金山繩地のそれは「朝日さし夕日輝くゆずり葉の下に黄金千杯数千杯」(同前)、東北地方もゴマンとある()。崑崙ではないが、私はこの手の話に全く興味がないので食指が動かないので、これ以上は注さない。悪しからず。ともかくも、崑崙先生、越後ばかりじゃござんせんよ、ニッポン全国そこたらじゅうにござんすぜ!

「長岡東山下、釜ケ島村(かまがしまむら)、觀音」現在の新潟県長岡市釜ケ島か。(グーグル・マップ・データ)。「觀音」とする場所或いは寺は不詳。

「新發田(しばた)より南、牧山藥師(まきやまやくし)」不詳。因みに、現在の新発田市街の南に「真木山」という山ならばある。(グーグル・マップ・データ)。

「村上關谷(せきたに)、桂村」これは現在の新潟県岩船郡関川村桂である。(グーグル・マップ・データ)。

「つのりて」調子に乗って言いつのって。

「禪家の僧のなす所なるべし」後の崑崙の解読からは確かに「無一物無尽蔵」のそれっぽい感じはするね。

「三ケ所の中(うち)、其一所は碑を建(たて)たること、實(じつ)にして」三箇所のどこかぐらい、崑崙先生、一言、書いといて下さいよ! そうすりゃ、もうすこしディグできるのに!

「此事、我郷にもありし」直接体験過去の「き」であることに注意。確かにあったのを私は知っているが、惜しいかな、今は失われてしまった、とうそぶいているのである。

「漆は黑(くろき)が故に北となし……」以下は陰陽五行説の色と方位の組み合わせに基づく。

「此三話」これは「其二」からこの埋蔵金伝説までの三話としか読めない。即ち、「其二」のお化け井守も巨大泥鰌も、「其三」の光り蚯蚓も、蚯蚓が鳴くのも、田螺が鳴くのも、妖魚「河鹿」の話も、皆、調べて見れば、他愛もない普通の生き物を大袈裟に言ったり、誤認したりした馬鹿話に過ぎず、この埋蔵金話も採るに足らないガセ話だと一笑一蹴しているわけである。既に「怪談」は二巻目に入ってはいるものの、実は鬼神は信じるが、崑崙先生、なかなか、伝聞の怪談には眉に唾つけるタイプである。都市伝説(アーバン・レジェンド)にはそうそう騙されない人物と見た。だから、好き!!!]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 斯螽(はたおり)

Hataori

はたおり  斯螽 蚣蝑

螽斯

      【波太於里】

 

本綱似草螽而大者曰螽斯似螽斯而細長者曰蟿螽

△按螽斯長二寸許青色尖首長脚有毛露眼其間甚狹

 而眼側有二硬髭小兒戯捕兩足曰汝織機當放去則

 屈股俯仰狀似織機故名之詩經曰五月斯螽動股者

 是也其老者灰赤色黒點善跳作聲如曰吉吉

 

 

はたおり  斯螽〔(ししゆう)〕 蚣蝑〔(しようせい)〕

螽斯

      【「波太於里」。】

 

「本綱」、草螽(いなご)に似て大なる者を螽斯〔(しゆうし)〕と曰ふ。螽斯に似て細長き者、蟿螽(はたはた)と曰ふ。

△按ずるに、螽斯は、長さ二寸許り、青色、尖りたる首、長き脚に、毛、有り。露(あらは)なる眼、其の間、甚だ狹く、眼の側〔(そば)〕に二つの硬き髭〔(ひげ)〕、有り。小兒、戯れに兩足を捕へて曰く、「汝、機(はた)を織(を)れ。當〔(まさ)に〕放ち去るべし」といへば、則〔(すなはち)〕、股を屈(かが)めて、俯(うつふ)き仰(あをむ)く狀〔(かたち)〕、機を織るに似たり。故に之れを名づく。「詩經」に曰く、「五月 斯螽 股を動かす」いふは是れなり。其の老する者は、灰赤色、黒點〔あり〕。善〔(よ)〕く跳〔びて〕、聲を作〔(な〕して、「吉吉〔(きちきち)〕」と曰ふがごとし。

 

[やぶちゃん注:現在の本邦産種としては、直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属ニシキリギリス Gampsocleis buergeri(本州西部(近畿・中国)及び四国・九州に分布)とヒガシキリギリス Gampsocleis mikado(青森県から岡山県(淡路島を含む)に分布し、近畿地方ではニシキリギリスを取り巻くように分布)の二種を挙げておけばよかろう。参照したウィキの「キリギリス」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『成虫の頭〜翅端までの長さはヒガシキリギリスがオス二十五・五~三十六・〇ミリメートル、メス二十四・五~三十七・〇ミリメートル、ニシキリギリスがオス二十九・〇~三十七・〇ミリメートル、メス三十・〇~三十九・五ミリメートルで、メスの方がやや大きい傾向がある』。『緑色を基調とする緑色型と、褐色を基調とする褐色型がある』。『翅の長さも個体群によって長短の変異がある。一般にヒガシキリギリスでは翅が短く』て『側面に黒斑が多く、ニシキリギリスでは翅が長く』て『黒斑は一列程度か、あるいは全くない。ともに触角は長く、前脚には脚の直径より長い棘が列生する。オスは前翅に発音器をもち、メスは腹端に長い産卵器をもつ』。『成虫の頭から翅端までの長さはおよそ二十四~四十ミリメートルほどで、生育環境により』、『緑色の個体と褐色の個体が生じる。若齢幼虫は全身が緑色で頭部が大きい』。「バッタとの比較」の項によれば、バッタに較べると、『からだが短くて体高が高く、脚と触角が長い。成虫の翅の形は種類やオスメスでちがう』。キリギリスは『音の受容体(耳)が前脚の中ほどにある』のに対して『バッタは胸と腹の間にある』。キリギリスの『メスの尾部には刀のような産卵管が発達する』。キリギリスの前の二対の『脚にはたくさんのトゲがあり、雑食性である』。「生態」の項。『年一化で、成虫は夏に現れ、草むらなどに生息して他の昆虫などを捕えて食べる。鳴き声は「ギー!」と「チョン!」の組み合わせで、普通は「ギー!」の連続の合間に「チョン!」が入る』とある。

「本綱」以下は「蟲部 化生類」に「𧒂螽」(フウシュウ)として載る中の「集解」の一節。

「草螽(いなご)」ここでは直翅(バッタ)目バッタ亜目イナゴ科 Catantopidae のイナゴ類としておく。

「蟿螽(はたはた)」直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科ショウリョウバッタ亜科 Acridini 族ショウリョウバッタ属ショウリョウバッタ Acrida cinerea 或いはそのより有意に大型)。

「露(あらは)なる眼」目が飛び出ていることをいう。

「當〔(まさ)に〕放ち去るべし」この部分は原典に従わずに、私が勝手に訓じた。原典では「當放」の右に「イナソ」とカタカナのルビがあり、「去」には読みらしきものがなく、送り仮名もない。私には「當放去」の三字で「いなそ」(或いは「去(い)なそうぞ」で「放してやるぞ!」の意か?)と読んでもどうもピンとこなかったので従わなかった。かく読んだなら、「お前、機(はた)を織れ! 織ったならば解き放ってやるぞ!」という意味で自然に採れるからである。因みに、東洋文庫版も「お前、機(はた)を織れば放してやろう」と訳してある。大方の御叱正を俟つ。

『「詩經」に曰く、「五月 斯螽 股を動かす」』既出既注

『「吉吉〔(きちきち)〕」と曰ふがごとし』う~む、この鳴き声は、キチキチバッタでショウリョウバッタなんですけど。]

北越奇談 巻之五 怪談 其三(光る蚯蚓・蚯蚓鳴く・田螺鳴く・河鹿鳴く そして 水寇)

 

    其三

 

[やぶちゃん注:ここの条の改行は一箇所を除いて原典のママ。崑崙自作の七絶は整序して並べ、前後を一行空けた。]

 

 西川曾根といへる所、町裏(まちうら)、窪(くぼか)なる池に、塵芥(あくた)を捨て、數(す)十年、掃除も用ひざるに、一とせ、六月、淋雨(りんう)して盡(ことご)蒸し暑き夜、靑白(せいはく)の光あるもの、其邊(ほとり)に現はれ、這𢌞(はひまは)れり。人々、怪しみつゝ、大勢、挑灯(てうちん)[やぶちゃん注:「挑」はママ。]など照(てら)し、集まりて、是を見れば、長二尺ばかりなる蚯蚓(みゝず)なりし。是を以つて按(あんず)れば、西國(さいこく)大蚯蚓(だいきうゐん)の奇も真(しん)なるべきか。

 蚯蚓(きうゐん)の吟(ぎん)ずる事、唐山(もろこし)の書にも見へて、歌女(かじよ)の稱あり。夏日、淋雨、晴(はれ)んとする頃、庭際(ていさい)、溝溜(かうりう)などの畔(ほと)り、土中に吟じて、その声、清寥(せいりやう)たり。これを按ずるに、諸虫の吟ずるもの、皆、羽(は)あり。その羽を戰(ふる)ひ、其声を出すものなり。又、口、舌、有(ある)は、勿論なり。何ぞ蚯蚓(きうゐん)のみ、羽舌(うぜつ)なくして、此吟をなさんや。是、必(かならず)、螟螻(けら)の吟を誤まりて蚯蚓(みゝず)となすものならん。蚯(みゝず)、螻(けら)、もと、其居(お)る所、相同(あいおな)じ。依(よつ)て上古(しやうこ)、正愚(せいぐ)の者、土中に吟あるを探り得て、以(もつて)、螻の早く逃げ去(さり)たるを知らず、蚯蚓(みゝず)の跡に殘れるを見て、是(ぜ)となせるならん。或人の曰(いはく)、「蚯蚓(きうゐん)の吟と、螟螻(けら)の吟とは別音(べつをん)なり」と云へれど、是は妄説なること、明かなり。只、蚯蚓(きうゐん)、口無きにはあらず、頭の先を開(ひらき)て、よく、水垢(みづあか)・靑苔(あをごけ)などを吸(すふ)ものなり。

 又、「田螺鳴(たにしな)く」と云へること、俳諧季節などにも春の部出し發句(ほつく)もあり、且、農俗、よく是を云ふ。早春、雪消(ゆききえ)より、耘(くさかり)、耕(たがやす)の頃まで、田間(でんかん)、常に其声を聞くと雖も、心を用ひざれば、その何ものたるを知らず。過(すぎ)し春、頸城郡にありて、初めて、其(その)田螺なることを聞(きか)されど、心を用ひ、耳を傾(かたむ)くるに、「古呂(ころころ)加良(からから)」の声、寂寥と、かの長安の鼓吹(こすい)にも恥(はぢ)ざるべし。爰(こゝ)に一絶を新製(しんせい)す。

 

  田間水足事春耕

  風暖黄苗半寸生

  弦月朦朧含雨夕

  巡畴静聽蝸蠃鳴

 

 本草田螺・蝸蠃(くはら)ノ二品(にひん)に擧ぐ。蝸蠃は葢(ふた)なし。只、農俗云(いふ)、「田螺、蓋(ふた)なきもの、よく鳴く」と云へり。依(よつ)て此野調(やてう)を賦(ふ)して、以(もつて)、聊(いさゝ)か其(その)田家春夜(でんかしゆんや)の情(じよう)を述(のぶ)ると雖も、密(ひそか)に考(かんがふ)るに、田螺、よく此声をなすの謂(いは)れなし。即(すなはち)、田畦(たのあぜ)に出て、靜(しづか)に、獨り、其聲に付(つき)て探り求(もとむ)るに、田螺・蝸蠃、三ツ四ツを得、是を泥盤中(でいばんちう)に放ち、庭前に置きて、以(もつて)、試(こゝろむ)るに、終夜(よもすがら)、竟(つゐ)に不ㇾ鳴(なかず)。翌夜(よくや)、又、かの田畦(たのくろ)に至(いたつ)て聞(きけ)ば、即(すなはち)、声あり。重ねて尋ね求むれども、田螺、なし。頻りに杖を以て畦(くろ)を打(うて)ば、忽(たちまち)、土中(どちう)より白靑(しろあを)みたる小蛙(こがへる)一ツ、飛出(とびいで)たり。即、俗に「石蛙(いしかはづ)」と云ふものなり。是を取(とつ)て池中(ちちう)に放(はなつ)。其夜(よ)、忽ち、声、有(あり)て、田畴に異(こと)なること、なし。蚯蚓(きうゐん)の説、相同じ。以可一笑(もつていつせうすべし)。

 越國(ゑつこく)の俗諺(ぞくげん)に、「河鹿(かじか)、土中に鳴く時は、三年にして其堤(つゝみ)、崩(くづ)る」と云へり。河鹿、其形、鯰魚(なまず)に似て、小なるもの、一、二寸、大なるも、四、五寸に不ㇾ過(すぎず)。其声、鹿に似たれば、河鹿と云ふなるべし。是も又、前の二説に類して、かゝる小魚(しようぎよ)の鳴く理(り)なしと雖も、いまだ不ㇾ試(こゝろみず)。此魚(うを)、常に水上(すいしよう)に不ㇾ浮(うかばず)。砂石(しやせき)に著(つ)きて遊ぶ。或(あるひ)は水中(すいちう)土穴(つちあな)に住む。鬚(ひげ)あり。尾中、針(はり)ありて、人を刺す。然(しか)れば、堤の下など、自然に埋(う)みて、水を含み、空所有(ある)が故に、此魚、集まり住(すみ)て、其声をなせるか。[やぶちゃん注:ここは原典・野島出版版ともに文章は繋がっている。私が恣意的に改行した。明らかに崑崙の主張内容ががらりと様相を変えるからである。]

 が郷(きよう)、本(もと)より水國(すいこく)、常に洪水を防ぐの用をなす。殊に信川(しんせん)の淼流(ひようりゆう)、両岸(りやうがん)に付(つき)て、數百邑里(すひやくのゆうり)、年々(としとし)、水を愁(うれひ)、雨を苦(くるし)んで、是を防ぐの費(ついへ)、幾千万ぞや。然(しか)りと雖も、大河、一たび溢(あふ)る時は、千日の苦辛(くしん)、忽(たちまち)、あだとなり果てゝ、百尺(ひやくせき)の堤、只、一蟻穴(いちぎけつ)より破(やぶれ)、覆(くつがへ)り、其淼流が赴く所、林木(りんぼく)を拔き、村屋(そんおく)を傾(かたぶ)け、數十里(すじうり)の平田(へいでん)、只、泥海(でいかい)となりて、稻粱(いなくさ)の類ひは、云ふもさらなり、是がために、靑草一葉(せいさういちよう)の食(しよく)に當(あつ)べきもの、なし。故に、雨水(うすい)打ち續(つづく)年は、飢民(きみん)、寢席(しんせき)を暖(あたゝ)むること、能(あた)はざる也。目(ま)の當たり、是を見る人、誰(たれ)か愁(うれひ)となさゞることを得んや。或(ある)人の曰(いはく)、「今、猶、禹王(うわう)のあることを得ば、水國の下民(かみん)、此災(わざはひ)を免かるべし」と。笑(わらつ)て曰、「不ㇾ然(しからず)。上古(じようこ)の水(みづ)を愁(うれふ)る民は、分國の隔(へだ)てなく河(かは)溢(あふる)れども、今時(こんじ)のごとく、堤の防ぎもなく、其水の押し行く所、屋宇(おくう)漂ふことをなせども、正愚の民、是を補(おぎな)ふの術(じゆつ)なし。故に、禹王、その水脈を正(たゞ)し、地理のよろしきに隨(したがつ)て流(ながれ)を導くものなり。今の世は是を補ふの奇術ある人も、その南によろしきは、其北に障(さは)りあり。其西を宥(なだ)むれば、東、又、不ㇾ從(したがはず)。たまたま、四方(しほう)のよろしきを得る人ありとも、今時(こんじ)の人情、只、己(おのれ)に勝(まさ)れるを憎み、其下風(かふう)にたゝんことを恥(はづ)る。故に相爭(あいあらそふ)て止まず。たとへ、禹王、在(います)とも、何ぞ、其術を盡(つく)すことを得ん。が國、此水寇(すいこう)を免(まぬか)るゝことを得ば、方(まさ)に是(これ)、富饒(ふじよう)の地なるべし。」。

 

[やぶちゃん注:前半は生物奇談であるが、後半は俄然、崑崙が越後の治水の如何に困難であるかを語る、憂国の士としての厳しい事実の提示となっている。いつの世も怖いのは奇怪な生物なんぞではなく、自然災害であり、もっと忌まわしいのは人間のエゴだと崑崙は言うのだ。凄い!!!

「西川曾根」現在の新潟県新潟市西蒲区曽根。地区の西端を西川が北流する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「淋雨(りんう)」雨が絶え間なく降る雨。長雨。

「靑白(せいはく)の光ある」「蚯蚓(みゝず)」実は、現在の本邦には〈光るミミズ〉が棲息する。環形動物門貧毛綱ナガミミズ目ムカシフトミミズ科 Microscolex属ホタルミミズ Microscolex phosphoreus である。ウィキの「ホタルミミズ」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、小型のミミズの一種で、『生物発光することで知られている。日本でも各地に産する』。『体長四十 ミリメートル程度、体幅一~一・五ミリメートル程度の小型種である。体節数は七十四ないし七十六個で、ほぼ全体が淡黄白色を呈し、環帯以外の部分は半透明である。環帯は十三節目から二十七節目までを占め、環状に全面を覆う。剛毛は各体節に四対あり、ほとんどの関節では』、互いに『離れた位置にある。背孔はない。受精嚢は第八節と第九節の間で体表に開口し、雄性孔は一対のみで第十七節にあり、また』、『産卵孔は一対で第十四節に存在する』(老婆心乍ら、多くのミミズ類は雌雄同体である)。『日本においては、寒い時期の降雨中(あるいは降雨の直後)における目撃例が多い。夏期に見出されることはきわめて少なく、温暖な時期は卵の状態で越すか、あるいは異なった場所に移動して過ごす可能性が考えられている。地表に排出した糞塊(earthworm cast)は粉質で粒径が小さく、同様の場所に生息する他のミミズのそれと異なるために、比較的容易に生息場所が特定できるが、この糞塊も、晩秋から冬(特に十一月末から十二月末ぐらいまでの期間)にかけて多く見られ、夏場はほとんど見出されないという』。『主に有機物に富んだ黒ボク土や、花崗岩が風化してできた真砂土のようなシルト質の土壌を好み,畑や山林などさまざまな場所で確認されている。乾燥しすぎた場所や、逆に土壌含水率が過剰な場所には生息していない。当初は珍しい種であると考えられていたが、現在では公園や校庭などで見られる普通種であるとされる』。『名古屋大学キャンパス内での調査によれば、発見された場所は建物の北側などで地面が湿っており、地表にコケが生え、草本は少なくて表土が露出していて、あまり人が歩き回らない場所であった。緑地環境が保護された場所では全く発見されなかったという』。『生活史などの詳細は不明であるが、単為生殖で繁殖するのではないかと推定されている』。『北半球の温帯地域(ヨーロッパ・南北アメリカおよび日本)に広く分布する』。『日本では、神奈川県(大磯市)および鹿児島県において』昭和九(一九三四)年に『初めて発見され、さらに下って一九七二年の段階では福島・埼玉・神奈川・静岡・香川・福岡・鹿児島の各県から知られていた。二〇〇五年には鳥取県下で発見され、二〇〇三年および二〇一〇年には茨城県でも採集された。また、二〇〇四年から二〇〇九年にかけての奈良県下での調査で見出されたほか、二〇一二年には富山県下からも採集され、現在では東北から九州まで分布が知られている』。『なお、本種について、日本の在来種ではなく帰化したものではないかとする推測がある』。『発光能力があることで知られるが、特別に分化した発光器は持たず、外界からの刺激(ピンセットや針などによる機械的な刺激やクロロホルムなどの化学的刺激、電気的刺激を受けて、口や肛門または皮膚表面から体外に滲出した体腔液が光を発する。体腔液が発する光を分光器測定した結果では』、その波長は五百三十八ナノメートルで黄色みがかった緑色『であったという』。『本種が生息する地域を夜間に歩くと、地表面に点々とホタルのそれを思わせる光が観察される。ピンセットによって機械的刺激を与えた例では、体の末端から体液が出て、約一分間にわたりぼんやりとした光を発したという。富山県魚津市内での発見例でも、発光部位は体の後端であると報告されている』。『発光の意義については確実な説明がなされていないが、ケラなどの外敵が、発光しているホタルミミズに対して忌避を示して摂餌しない例が観察されていることから、外敵に対する威嚇ではないかとする説がある』。『日本産の陸生環形動物のうち、発光能力を有する種としては、他にイソミミズ(Pontodrilus litoralis:かつてはP. matsushimensis の学名があてられていたが、この名は現在では異名とされている)が知られる。本種より大型(体長三十二~百二十ミリメートル、体幅二~四ミリメートル程度)で、海岸付近の砂浜に生息する。軽微な機械的刺激では発光は観察されず、イソミミズの虫体を激しく傷つけたりすりつぶしたりすることで得られる体液から発光が認められるという』とある。しかし、ホタルミミズの発見はごく現代で、近代以降の帰化生物の可能性が高く、発光時期が本ロケーションと符合しない。後のイソミミズにしても、棲息域の問題と発光機序に何らかに強い刺激や粉砕が必要である点が厳しい。しかも孰れの種も大きさが小さ過ぎて、これらを同定候補するにはあまりにも無理がある。考え得る一つはイソミミズを捕食した鳥が運んで落した可能性である(イソミミズは現在のところは宮城県松島が北限であるが、本州の日本海側では発見例がない模様である。「日本産ミミズ大図鑑」のこちらを参照されたい)。

「二尺」六十一センチ弱。

「西國(さいこく)大蚯蚓(だいきうゐん)」石川県から滋賀県にかけてのみ分布するハッタミミズ(貧毛綱ジュズイミミズ目ジュズイミミズ科ジュズイミミズ属ハッタジュズイミミズ Drawida hattamimizu)は最大長六十センチメートルから一メートルにも達し(但し、これは伸縮度が大きいせいもある)。中部日本以西に棲息するシーボルトミミズ(ナガミミズ目フトミミズ科フトミミズ属シーボルトミミズ Pheretima sieboldi)は最大で四十五センチメートルにもなるから、実在するこれらのことを指していると見てよかろう。

「蚯蚓(きうゐん)の吟(ぎん)ずる事」大陸伝来の誤認で、本邦でも近代に至るまでミミズは鳴くものと考えられてきた(鹿児島大隅半島の山の中に暮らしていた私の母方の祖母もよくそう言っていた)が、発声器官を持たない彼らは当然、鳴かない。これは直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科グリルロタルパ(ケラ)属ケラ Gryllotalpa orientalis である。詳しくは、私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 螻蛄(ケラ)」の注を参照されたい。崑崙の以下の「螟螻(けら)の吟を誤まりて蚯蚓(みゝず)となすものならん。蚯(みゝず)、螻(けら)、もと、其居(お)る所、相同(あいおな)じ」といった否定見解はすこぶる鋭く科学的且つ実証的である。

「唐山(もろこし)の書」野島出版脚注には『抱朴子。博喩。』酉『陽雜俎。などの中国の書物』とする。

「歌女(かじよ)」野島出版脚注に『蚯蚓はよく地中に長吟す。江東(揚子江の東方)』にては『これを歌女と云う。又』『鳴砌』(「メイサイ」或いは「メイセツ」)『ともいう(古今注)』とある。「古今注」は西晋(二六五年~三一六年)の崔豹(さいひょう)の撰とされる名物考証書であるが、実際には原本は失われており、現行本は五代(九〇七年~九六〇年)の馬縞(ばこう)の「中華古今注」三巻に基づいて編せられたもので、しかもこれの自体も唐の蘇鶚(そがく)の「蘇氏演義」二巻に依っていることが明らかになっている。

「庭際(ていさい)」庭の端。

「溝溜(かうりう)」「どぶだめ」。排水用の溝及び雨で出来た水溜まり。

「清寥(せいりやう)」清らかで静かなさま。私は螻蛄の鳴き声をそのようなものとして確かに感ずる。

「正愚(せいぐ)の者」先行使用例を見ても崑崙は「正愚」という言葉を全くの無知の輩への全否定的ニュアンスでは用いていない。寧ろ、知力に欠けはするものの、素朴な質の連中といった感じである。

「只、蚯蚓(きうゐん)、口無きにはあらず、頭の先を開(ひらき)て、よく、水垢(みづあか)・靑苔(あをごけ)などを吸(すふ)ものなり」崑崙の附け加えであるが、実に正確な観察である。ミミズの口は頭部尖端に開いており、落ち葉などの形成した腐植土などを摂餌している。

「田螺鳴(たにしな)く」崑崙が述べている通り、江戸の歳時記で既に三春の季語であった。実際に今でも田螺(腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae のタニシ類)が鳴くと思っている人はいるようだが、無論、鳴かない。これは崑崙が検証している通り、蛙の鳴き声の誤認で、特に現代では両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri の鳴き声に特定されている。この蛙の鳴き声は近代以前には非常に好まれ、季節の贈答品として生きたまま贈られたりさえした。私の「谷の響 四の卷 一 蛙 かじか」なども参照されたい。但し、崑崙が実験のために捕捉したそれはそれらしくない。カジカガエルはアオガエル科 Rhacophoridae ながら、体色は灰褐色で、「白靑(しろあを)みたる小蛙(こがへる)」というのは同種とは思われない。しかし崑崙の音写するその鳴き声「古呂々々(ころころ)加良々々(からから)」はまさにカジカガエルの音写と読める。後に出る俗名「石蛙(いしかはづ)」は確認出来ない(カジカガエルとしてもそれ以外の蛙の異名としても、である)。因みに、同季語の発句を例示しておく。

 

 菜の花の盛に一夜啼(なく)田螺 河合曽良

 田螺鳴く畝のたんぽぽ打ちほけぬ 加藤曉臺

 鳴く田螺鍋の中ともしらざるや  小林一茶

 

寧ろ、「田螺鳴(たにしな)く」という諧謔味を好んだのは近代俳人で、鳴かないことを知っていて確信犯で季語として使用したものが異様に多い。今も信じている方々のその根っこにはこの罪深い連中の駄句があるように思われる。

 

 にぎやかに田螺鳴く夜や一軒家  正岡子規

 賣られてや京の眞中に鳴く田螺  正岡子規

 御佛に棚田棚田の田螺鳴く    高野素十

 水入れて近江も田螺鳴くころぞ  森 澄雄

 

ただ、子規の「賣られてや」の句などは、タニシが身を縮めて蓋をして閉じこもる際の出る小さな「チュ~ッ」という音とすれば、許せるところではある(タニシは足の後部背面に褐色のキチン質の蓋があり、殻口をぴったり塞ぐことが出来る。蓋は殻口と同形の滴状を呈したもので、核は中央付近にあって蓋は同心円状に成長する。蓋を閉める際、殻内の空気が隙間から漏れ出して音がすることが実際にある。ここはウィキの「タニシ」に拠った)。因みに、他に鳴かないのに鳴くとされて季語になっているものには「亀鳴く」(春)と、先の「蚯蚓鳴く」(秋)が著名。

「長安の鼓吹(こすい)」鼓(つづみ)と笛で、ほぼ打楽器と管楽器と構成されている楽曲。ここは唐の都長安の宮殿で催された祝宴用の音楽を漠然と想起したものであろう。

「田間水足事春耕 風暖黄苗半寸生 弦月朦朧含雨夕 巡畴静聽蝸蠃鳴」漢字を正字にして野島出版脚注にあるそれを参考に訓読する。

 

 田間(でんかん) 水 足(た)りて 春耕を事とす

 風 暖かにして 黃苗(くわうべう) 半寸(はんすん) 生(しやう)ず

 弦月 朦朧として 雨を含む夕(ゆふべ)

 疇(ちう)を巡りて 靜かに聽く 蝸蠃(くわら)の鳴くを

 

結句の「疇」は田の畦のこと。「蝸蠃」は本草書では有肺類 Pulmonataの蝸牛(かたつむり)のことだが、「蝸」も「蠃」も広く巻貝一般を指す語としても用いられる。ここは田螺である。

「本草」明の李時珍の「本草綱目」。

「蝸蠃は葢(ふた)なし」こんなことは「本草綱目」には書かれていない。思うに、カタツムリ類は多くが蓋を持たない(但し、貝殻亜門腹足綱ヤマタニシ上科ヤマタニシ科 Cyclophoridae:陸生貝類でカタツムリの一種。真正のタニシと全く無縁なので注意)などでは蓋があり、ヤマタニシ科ヤマクルマガイ属ヤマクルマガイ Spirostoma japonicumでは蓋が円錐形に盛り上がるのが特徴になっている。ここはウィキの「カタツムリ」を参考にした)。

「田螺、蓋(ふた)なきもの」蓋のないタニシは本邦産ではいないと思われる。蓋がないのは老成して衰弱した死にかけた個体か、外敵によって食いつかれ剝がれたものと私は推測する。

「野調(やてう)」野趣。

「賦(ふ)」ここは広義の漢詩(韻文)の意。

「河鹿、其形、鯰魚(なまず)に似て」これはどうもカジカガエルではない。以下を一読して、ピンときたのは、条鰭綱ナマズ目ギギ科ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps である。ただ、「小なるもの、一、二寸、大なるも、四、五寸に不ㇾ過(すぎず)」というのはちと小さいが、成長過程の若魚とすれば問題ない。実際に音を発する川魚であり、棘を持ち、刺されると痛む(但し、尾鰭ではない)ウィキの「ギギ」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『全長は三十センチメートルにもなるなど、ギギ科のなかで最も大きくなる。同じギギ科のギバチに似ているが、ギギは尾びれが二叉になっているので区別できる。背びれに一棘七軟条、尻びれに二十軟条、腹びれに六軟条、触鬚が四対。上顎に二対、下顎に二対、合計八本の口ひげがある。昼間は岩陰に潜み、夜間に出て底生動物や小魚などを食べる。腹びれの棘と基底の骨をすり合わせ、「ギーギー」と低い音を出す。背びれ・胸びれの棘は鋭く、刺さると痛い』(「其声、鹿に似」ているかどうかは知らぬ)。『直径約二ミリメートルの強い粘着性のある黄褐色の卵は、千二百粒から二千百粒ほど産卵された後に約七十時間で孵化し、体長五ミリメートル程度の稚魚となる。稚魚は一週間で卵黄を吸収し、九ミリメートル程度まで成長すると、摂食を開始する』。本種は『新潟県阿賀野川より以南、九州東部まで分布』から、分布域もクリアー出来る。但し、ギギを異名で「河鹿」と称するというのは聞かない。

「用」必要。

「信川(しんせん)」信濃川。

「淼流(ひようりゆう)」淼(正しくは「ビヨウ(ビョウ)」)は「水が果てしなく存在するさま」を意味する。厖大な水流。

「両岸(りやうがん)に付(つき)て」川の両岸にとりついて浸食し。

「數百邑里(すひやくのゆうり)」数多くの村里。

「苦辛(くしん)」苦しく辛(つら)い農作業や治水の仕儀。

「あだ」ここは「徒」で、「甲斐のないさま・無駄」「役に立たなくなること・つまらないもの」の意。

「百尺(ひやくせき)の堤」百尺(ひゃくしゃく)は約三十メートル強であるが、ここは築かれた長い堤の意。これは次の「韓非子」のそれの記憶違いで千とすべきところであろう。

「一蟻穴(いちぎけつ)」たった一つのちっぽけな蟻の巣の穴のようなもの。「韓非子」の「喩老」に、「千丈之隄、以螻蟻之穴潰、百尺之室、以突隙之煙焚」(千丈の隄(つつみ)も螻蟻(らろうぎ)の穴を以つて潰(つひ)へ、百尺の室も突隙(とつげき)の煙(けむり)を以つて焚(や)く)「螻蟻」は螻蛄(けら)と蟻。後半は「百尺もある大きな部屋も煙突の隙間の煙から灰燼に帰す」で、何事も早急に対処することが肝要であることの譬えである。

「稻粱(いなくさ)」野島出版版は本文を「稲梁」とし、ルビを『いなさく』とする。確かに原典は「稻梁」としか読めないのであるが、それでは意味が通らない(或いは、野島出版版の校訂者は稲を架ける「はさ」(稲架)を想起したのかも知れないが、「はさ」は「挟む」が原義であり、「梁」にはそのような意味はないから、私は採れない。しかも原典のルビは明らかに「いなくさ」である。そこで私は二字目を粟(あわ)の意の「粱」の誤字と採り、農民が育てる稲や粟などの穀類の「草」の意で、かく、した。大方の御叱正を俟つ。

「靑草一葉(せいさういちよう)」たった一枚の青菜、菜っ葉。

「寢席(しんせき)」寝床。

「禹王(うわう)」中国古代の伝説の聖王。特に黄河の治水に功績があって、聖王舜(しゅん)から禅譲によって帝位を受け継ぎ、夏王朝を建てたとする。

「水寇(すいこう)」水の侵攻。大規模で甚大な水害。]

2017/08/30

「北越奇談」の作者が棲んだという「池端」の考証情報を拝受

「北越奇談」で橘崑崙茂世が壮年期に澄んでいた「池端(ちたん)」は固有名詞で、それは新潟県新発田市池ノ端(ここは寄合旗本溝口家越後池端五千石の陣屋があった)ではないかという、詳細な検証を添えたメールを未知の方より、つい先ほど、拝受した。
 
それは地理的な位置からも崑崙の叙述から、すこぶる納得の出来る地理条件にあることが判り、これは幾つかの複数の注を大幅に変更する必要が生じた。
 
私事上、それらを直ぐに訂正する余裕がないので、ここに、その新たな御教授を受けた事実を示しおいて、向後、幾つかの注を大きく変更することになることを先に申し述べておきたい。これは先に同定してこれだと述べた場所や寺なども、全く違ったものとなることになる(既に幾つか誤りであることが、ほぼ判明した)。
 
因みに、そこで最後にその方は、作者崑崙橘茂世は実は、『池端陣屋に関係する現地雇用の手代、手先のような者ではなかったでしょうか?』 『鬪龍の条の竜巻発生状況、被害が詳しく、飛脚便の書類を目にできる立場にあるような気がしました』と述べておられ、思わず、「そうか!」と独りごちてしまったほどである。
 
また、未知の方に導かれた。

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)


Koorogi

こほろぎ  蛬  蛩【同】

      促織   蜻蛚

      趨纖

蟋蟀

      【古保呂木】

ころろん

 

三才圖會云似蝗而小正黒而有光澤如漆有翅及角善

跳以夏生立秋後夜鳴好吟於土石磚甓之下尤好闘勝

輒衿鳴其聲如急織故謂促織亦曰趨織【本草綱目所言亦同之】

五雜組云呉國有闘促織之戯决賭其雌者有文采能鳴

健闘雄者反是以立秋後取之飼以黃豆糜至白露則夜

鳴求偶然以雄者進不當意輙咋殺之次日又以二雄進

又皆咋殺之則爲將軍咋殺三雄則爲大將軍闘之以股

之遠去尺計無不糜爛乃以厚價售

△按蟋蟀有二種扁脊者善鳴其聲如曰古呂呂牟古呂

 呂牟清美亞于松蟲 窄脊者尻有劍刺不鳴

 古今注云蟋蟀秋初生得寒則鳴俚語有言趨織鳴嬾

 婦驚蓋蟋蟀莎雞斯螽等和漢共不得辨今畧解于左

詩豳風曰五月斯螽動股六月莎雞振羽七月在野八月

在宇九月在戸十月蟋蟀入我牀下

 朱子註曰斯螽莎雞蟋蟀一物隨時變化而異其名儆

 玄衍義曰斯螽蝗也莎雞促織也蟋蟀蛩也自是三物

 安得謂之隨時變化而異其名朱註此一處可改之

 按儆之説是也然莎雞以爲促織者非也

順和名抄云絡緯一名促織【和名汝太於里女】蜻蛚【和名古保呂木】螽

一名蚣蝑一名蠜螽一名春黍【以禰豆木古萬呂】蟋蟀一名蛬【和名

木里木里須】

 按是皆混雜異名和名共齟齬也後人據之相謬乎今

 曲辨之見于各條

 

 

こほろぎ  蛬〔(きよう)〕    蛩〔(きよう)〕【同じ。】

      促織〔(そくしよく)〕 蜻蛚〔(せいれつ)〕

      趨纖〔(そくしよく)〕

蟋蟀

      【「古保呂木」。】

ころろん 

 

「三才圖會」に云、蝗〔(いなご)〕に似て小さく、正黒にして光澤有りて漆のごとく、翅及び角、有り。善く跳(と)ぶ。夏を以つて生まれ、立秋後に、夜、鳴く。好んで土石・磚甓(いしだゝみ)の下に吟ず。尤も、闘〔ひ〕を好み、勝つときは、輒〔(すなはち)〕、衿(ほこ)りて鳴く。其の聲、急に織〔(はたお)〕るがごとし。故に促織と謂ふ。亦、趨織と曰ふ【「本草綱目」に言ふ所も亦、之れに同じ。】。

「五雜組」に云、呉國に促織を闘はしむるの戯、有り。賭(かけもの)を决す。其の雌は、文采〔(もんさい)〕有り、能く鳴きて健〔(すこや)〕かに闘〔(たた)〕かふ。雄は是れに反す。立秋の後を以つて之れを取る。飼〔ふに〕黃豆(まめ)の糜(かゆ)を以つてす。白露〔(はくろ)〕に至るときは、則ち、夜、鳴きて、偶(とも)を求む。然るに雄なる者を以つて進むるに、意に當てざれば、輙〔(すなはち)〕、之れを咋(か)み殺す。次の日、又、二雄を以つて進む。又、皆、之れを咋み殺すを、則ち、「將軍」と爲す。三雄を咋み殺すを則ち、「大將軍」と爲す。之れ、闘ふに、股を以つて、一たび、之れを(け)るに、遠く去ること、尺計りにして、糜爛〔(びらん)〕せずといふこと無し。乃〔(すなはち)〕、厚價を以つて售(う)る。

△按ずるに、蟋蟀、二種、有り。扁(ひらた)き脊(せなか)なる者、善く鳴く。其の聲、「古呂呂牟(ころろむ)、古呂呂牟」と曰ふがごとし。清美にして、松蟲に亞〔(つ)〕ぐ。窄(すぼ)き脊〔(せなか)〕なる者は、尻に劍刺〔(けんし)〕有り、鳴かず。

「古今注」に云、『蟋蟀(こほろぎ)、秋の初めに生まれて、寒を得れば、則、鳴く』と。俚語〔(りご)〕に『趨織(こほろぎ)鳴けば、嬾婦〔(らんぷ〕驚く』と言へること、有り。蓋し、蟋蟀(こほろぎ)・莎雞(きりぎりす)・斯螽(いなご)等、和漢共に辨ずるを得ず。今、畧(あらあら)、左に解す。

「詩」の「豳風〔(ひんぷう)〕」に曰、『五月 斯螽(〔(ししう)〕/はたをり) 股〔(こ)〕を動かす 六月 莎雞(〔さけい〕/きりぎりす) 羽を振ふ 七月 野〔(や)〕に在り 八月 宇〔(う)〕に在り 九月 戸〔(こ)〕に在り 十月 蟋蟀(〔(しつしゆ〕/こうろぎ) 我が牀〔(しやう)〕の下〔(もと)〕に入る』〔と〕。[やぶちゃん注:読みの『/』以下は左ルビ。前のそれは私が附した音読み。「こうろぎ」はママ。]

朱子の註に曰、『斯螽・莎雞・蟋蟀は一物〔(いちもつ)〕にして、時に隨ひて變化して其名を異にす』といへり。儆玄〔(けいげん)〕が「衍義〔(えんぎ)〕」に曰、『斯螽は蝗なり。莎雞は促織なり。蟋蟀は蛩〔(きよう)〕なり。自(をのづから)是れ、三つの物〔なり〕。安く〔んぞ〕之れを時に隨ひて變化して其の名を異にすと謂ふを得ん。朱の註、此一處、之れを改むべし』といへり。按ずるに、儆が説、是〔(ぜ)〕なり。然れども、莎雞を以つて促織と爲〔(せ)〕るは、非なり。

順〔(したがふ)〕〔が〕「和名抄」に云、『絡緯〔(らくゐ)〕、一名、促織【和名、「汝太於里女〔(はたをりめ)〕」。】。蜻蛚〔(せいれつ)〕【和名、「古保呂木(こほろぎ)」。】。螽〔(しゆうし)〕、一名、蚣蝑〔(しようしよ)〕、一名、蠜螽〔(はんしゆう)〕、一名、春黍〔(しゆんしよ)〕【以禰豆木古萬呂〔(いねつきこまろ)〕】。蟋蟀、一名、蛬〔(きよう)〕【和名、「木里木里須(きりぎりす)」。】。

〔△〕按ずるに、是れ、皆、混雜して異名・和名共に齟齬(くいちが[やぶちゃん注:「い」はママ。])ふなり。後人、之れに據つて相ひ謬〔(あやま)〕るか。今、曲(ひとつひとつ)、之れを辨じて、各條に見〔(みあ)〕はす。

 

[やぶちゃん注:巨視的には直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科 Grylloidea に属するものの総称とするが(ウィキの「コオロギ」等)、同上科には、

ケラ(螻蛄)(ケラ科グリルロタルパ(ケラ)属ケラ Gryllotalpa orientalis

や、

カネタタキ科 Ornebius 属カネタタキ Ornebius kanetataki

等が含まれ、私は到底、従えない。同上科の中でもコオロギ科 Gryllidae に絞っても、

 Homoeogryllus 属スズムシ Homoeogryllus japonicusXenogryllus 属マツムシ Xenogryllus marmoratus・カンタン亜科カンタン属カンタン Oecanthus longicauda

等の明らかに素人の私でも鳴き声で区別し、コオロギとは呼ばない、体型も色も異なるような種が含まれる。寧ろ、私は主にコオロギ亜科 Gryllinae に属する種群を狭義に指すとする方が、より正しいと考えている。実際、コオロギ亜科に属する種には、

フタホシコオロギ族エンマコオロギ属エンマコオロギ Teleogryllus emma

オカメコオロギ属ハラオカメコオロギ Loxoblemmus campestris

オカメコオロギ属ミツカドコオロギ Loxoblemmus doenitzi

ツヅレサセコオロギ属ツヅレサセコオロギ Velarifictorus micado

といった本邦の「コオロギ」の呼称で知られるオール・スター・キャストが含まれているからである。なお、白っぽい小型種で♂♀ともに翅を欠いていて鳴かない(求愛行動はフェロモン誘導と振動ディスプレイによるものと推測されている)、

茅蟋蟀(コオロギ科 Gryllidae Euscyrtinae 属カヤコオロギ Euscyrtus japonicus

がいるが、これは鳴かない点、見た目が今一つコオロギらしくない点、上記のコオロギ亜科の種群に比べると一般人の認知レベルが低い点などから、「コオロギ」を名に持ちながらも、この範疇から漏れるとしても致し方ないように私は思う

 さらにここで今一つ注目すべきは、しばしば、したり顔で国語教師が言うところの(かつての私もそうであった)古文に於ける〈松虫と鈴虫の逆転現象〉と同列で〈蟋蟀と螽斯(きりぎりす)の逆転現象〉を言うのは、ここで良安が添えた挿絵及びその鳴き声「古呂呂牟(ころろむ)、古呂呂牟」のオノマトペイアからも無効であること、則ち、コオロギはコオロギであり、キリギリスはキリギリスとして正しく認識されており、誤ってなどいないという点である。

 「蟋蟀」という語は使い勝手がよく、秋の鳴く虫の総称として「こおろぎ」と訓じられ、歌語として「万葉集」以来用いられてきた広義の用法は確かにあったと考えてよいと思われるが、だからと言って、近世以前の人間が「コオロギをキリギリス、キリギリスをコオロギと呼んでいた」などという説(これを定説とまことしやかに言う文学者は有意にいる)は私にはこの本「和漢三才圖會」の正しい記載から見ても全く支持出来ない

 いや、この誤認伝承は寧ろ、近代作家の小説での確信犯的使用によるものの方が、罪がより重いとさえ考えているのである。

 その最大の現況は、ほぼ誰もが高校一年で読まされてしまう、かの芥川龍之介の「羅生門」である。あの有名な作品の冒頭の第四文(第二段落内)は、

   *

唯、所々丹塗(にぬり)の剝げた、大きな圓柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまつてゐる。

   *

であり、羅生門下の第一シークエンスの終り(第八段落末尾。次の段落で楼上へと通ずる梯子を見出す)では、

   *

丹塗の柱にとまつてゐた蟋蟀(きりぎりす)も、もうどこかへ行つてしまつた。

   *

と描写される。私はかつて「羅生門」の好きなシーンを絵コンテにさせる作業をさせたことがあるが、何人もの生徒がこの冒頭シーンを好んで絵にした。ところが、その時に使用していた教科書には、余計なお世話の例のしたり顔で以って「蟋蟀(きりぎりす)」に注が附されてあって、「今のコオロギの古名」なんどとやらかしてあったのである。「蟋蟀」が「こおろぎ」であり、その真正のコオロギ、恐らくは最大種の

エンマコオロギ Teleogryllus emma

を描いた生徒もいるにはいたが、その円柱に貼りついたコオロギはゴキブリのように大きくて頽廃的ではなく生理的に気味が悪いのであった。多くはルビ通りの真正の「きりぎりす」、則ち、

直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス Gampsocleis

のキリギリスの類いが描かれていた。その丸柱にとまるキリギリスはすこぶる自然であった。私はそれを見た時に確信したのである。

「こりゃ、注にあるようなコオロギであるはずがない!」

 このシークエンス、そもそもが、

コオロギでは丸柱にはとまりにくかろう。いるなら、丸柱の根である。とまれるのはキリギリスである。

カメラが丸柱の下に寄ったとしてもエンマコオロギでは体色から絵にならない。絵になるのはモノクロームの画面に一点彩色のキリギリスに若(し)くはない。

柱にとまっているという描写、それがいなくなるという描写、というのは時間経過を示すための小道具であるが、それを認知出来るのは、聴覚的な虫の鳴き声よりも(それは無論あってもよい)、緑色の体色によって初めて際だって成功する。

翻って、大正時代の芥川龍之介が「蟋蟀」を「キリギリス」と読み、キリギリスとコオロギとを誤認していたはずは無論ないわけで、ここは平安末期の雰囲気を出すために中古に一部で実際に混同が行われていたそれを敢えて出したのだとも言えようが(それを龍之介の衒学趣味とする評言もある。しかし、だとすれば、これはやはりコオロギということになるのだが、本当にそれで心内映像が撮れるとは私は思わない)、或いは、芥川龍之介はキリギリスを示す漢語「螽斯」を使いたくなかったのではないか? と私は思うのである。実は私は「こおろぎ」を示す時に「蟋蟀」という漢字は好んで書くが、「きりぎりす」を示すのに「螽斯」という熟語を書くのは、躊躇する。前者は発音もスタイルもスマートであるのに対し、後者は二字を並べると妙にぼってりとしてバランスも悪いからである。私は生理的に「螽斯」という漢字は嫌いなのである。私は芥川龍之介を愛すること、人後に落ちない。幾多の電子化注をしてきた中で、彼の文字への好悪感覚も普通の人よりは相当に認識しているつもりである。芥川龍之介もきっとこの「螽斯」という表記は嫌いだったと私は思うのである。大方の御叱正を俟つ。

「趨纖〔(そくしよく)〕」後で「趨織(こほろぎ)」とも出るが、「趨」は「速く・速やか」の意があるから、素早く機織りをするさまに譬えた異名であろう。

『「本草綱目」に言ふ所も亦、之れに同じ』恐らく、ここまでこの「蟲類」の電子化注にお付き合い下さった奇特な方は、何故、本項が他と違って「本草綱目」を引かないのかと、疑問に思われるであろう。実は、引きようがないのである。実は「蟋蟀」の叙述は「蟲部 化生類」の「竈馬」(かまどうま:既出)の附録で僅かに出るだけだからである。以下にその原文を示してみる。今回は中文サイトの引用ではなく、国立国会図書館デジタルコレクションの原典の当該条の画像を視認して厳密にオリジナルに電子化した。

   *

竈馬【「綱目」。】

(釋名)竈雞【俗。】。

(集解)【時珍曰、竈馬處處有之、穴竈而居。按、「酉陽雜俎」云、竈馬狀如促織、稍大長、好穴。竈旁俗言、竈有馬、足食之兆。】。

(附錄)促織【時珍曰、促織、蟋蟀也。一名蛬、一名蜻蛚。陸璣「詩義疏」云、似蝗而小、正黑有光澤如漆、有翅及角、善跳好斗、立秋後則夜鳴。「豳風」云、七月在野、八月在宇、九月在戸、十月蟋蟀入我牀下是矣。古方未用、附此以俟。】。

(氣味)【缺。】(主治)竹刺入肉、取一枚搗傅【時珍。】。

   *

『「五雜組」に云』以下はこの下り。中文サイトより、ベタで出す。一部の字を本良安の訳に沿って変えた。

   *

一呉有開促織之戲然極無謂閏之有場盛之有器必大小相配兩家審視數四然後登楊央龐左右袒者各從其耦其睹在高架之上只篇首一人得見勝貴其篇耦者仰望而巴禾得寓目而輪直至於千百不悔甚可笑也促織惟雌者有文采能鳴復開雄者及是以立秋後取之飼以黃豆麋至白露則夜鳴求偶然後以雄者進不當意輒昨殺之次日又以兵雄遣又皆昨殺之則爲將軍矣昨殺一雄則爲大將軍持以央闢所向州前又某家有大將軍則衆相戒莫敢與闢乃以厚價潛售宅邑入其大將軍開止以股賜之遠去尺許山不糜爛或富腰斐斷不須間也大將軍死以金棺盛之將軍以銀瘞於原得之所則次年復有此種爪前川洲矣

   *

ここで語られているのは「闘蟋」(トウシツ)と呼ばれるコオロギのここにあるようなではないので注意!)を戦わせる賭博である。これは荒俣宏氏の「世界博物大図鑑 第一巻 蟲類」(一九九一年平凡社刊)の「コオロギ」の項の「コオロギ合戦」の条に詳しいので引用させて戴く。コンマ・ピリオドを句読点に代えさせて貰った。

   《引用開始》

【コオロギ合戦】中国におけるコオロギ文化の精華は〈コオロギ合戦〉であろう。コオロギの戦闘的な性質は、中国でも古くから知られ、三才図会にも〈大へん闘いを好み、 勝っと衿(ほこ)って鳴く〉とあるほどであった。

 この賭博を秋興(チウシン)という。コオロギの雄どうしを闘わせる動物賭博の一種で、 一説に唐代の8世紀前半に成立したとされる。明・清代には階層の上下を問わず大流行、 明の宣徳帝は強いコオロギを献上させ,賭博用に特製の容器で飼育したという。勝負は重量別に土鉢の中で行なわれ、一勝負が数ラウンド、各ラウンドとも一方がうずくまると終わりとなる。2匹に勝ったコオロギは〈将軍〉、3匹に勝つと〈大将軍〉とよばれ、死体を小さな金製の箱に入れて手厚くとむらう風習もあった。飼育法の指南書も数かず著され,たとえば17世紀の書、劉個促織志には、餌としてウナギ、サケ、蒸し粟、粟めしなどを与えるとよい、と記されている。また傷ついたものには子どもの尿を2倍に薄めて飲ませると治る、ともいわれた。なお競技には、東部や北部ではツヅレサセコオロギやエンマコオロギの類が,南部ではブタホシコオロギやシナコオロギが使われたらしい。

 明の宣徳年代(1430年代ころ)、上記のようにコオロギ合わせがさかんに行なわれ、 優秀なコオロギを民間から取り立てる風習も慣例化した。だが聊斎志異の一篇〈促織〉をみると、そのために風紀がいかに乱れたかがよくわかる。街のチンピラは強いコオロギを手に入れると、値をつり上げてぼろもうけ。地方の役人は高いコオロギを中央に献納するという口実で重税を取り立てる。あげくコオロギを1匹たてまつるごとに、数戸の家が傾いた。〈促織〉では幸い主人公の部落長が、天の功徳か、とてつもなく強いコオロギを偶然手に入れる。おかげで彼は大金持ちになった。ちなみにこの話のコオロギは、小さくて赤黒、頭は四角で脛孟が長く、土狗(どこう)(ケラ)に似ていた、とある。強さもさることながら、琴瑟(きんしつ)の音に合わせて踊る芸もあったため、たいそう喜ばれたそうだ。

 〈秋興〉は、新中国になって賭博が禁止されたため、完全にすたれたといわれていた。しかし最近またさかんになりつつあり、天津などでは秋に大会も開かれるという。

 小西正泰虫の文化誌によると、コオロギを闘わせて賭をする習俗は現在でも台湾やタイやジャワ島、バリ島などアジア各地に見られる。台湾でも子どもたちがコオロギを採集し、竹筒の中で闘わせて楽しむという(田中梓昆虫の手帖)。

   《引用終了》

私の好きなサイト、カラパイアの『コオロギを闘わせ最強の虫王を決める中国伝統の昆虫バトル「闘蟋(とうしつ)」』も必見! なお、コオロギは充分な摂餌が出来ない場合には、弱いコオロギが強いコオロギに食べられてしまうことがあり、また、産卵期のを食べてしまうこともあるという。闘蟋のために飼育している際に、そうした共食いを目撃し、それをかく剛い者と見たものでもあろう。

「文采〔(もんさい)〕」模様。これはコオロギのであろう。は後ろ足のギザギザの部分とこすり合わせて鳴き声を出すため、羽に指紋のような模様が見える。

「白露〔(はくろ)〕」二十四節気の第十五の八月節(旧暦では七月後半から八月前半)。現在の陽暦にすると九月八日頃に当たる。

「偶(とも)」配偶者。

「意に當てざれば」意に添わなければ。

「二雄」直後に「又、皆」とあるからには二匹目のではなく、二匹のである。

「三雄」良安の前の叙述からすれば、またその翌日に今度は三匹のを宛がってみて、その三匹全部をまたしても悉く噛み殺したものを「大將軍」と呼ぶということになる。大将軍になるためには六匹を噛み殺すというわけであるが、先に示した原典から見ると、一日一匹で三日間で三匹のように読める

「糜爛」蹴られただけで、爛れ崩れるというのは尋常ではない。彼らが何かそうさせる強い気を放つとでも思ったものか。

「厚價」高い値。

「售(う)る」売る。

「扁(ひらた)き脊(せなか)なる者、善く鳴く」である。

「古呂呂牟(ころろむ)、古呂呂牟」このオノマトペイアはエンマコオロギの「コロコロコロ、コロ、コロ、コロ」と一致する。他のコオロギ(私の言う狭義の)は有意に鳴き方が異なり、ハラオカメコオロギやミツカドコオロギでは「リッリッリッ、リッリッリッリッ」であり、ツヅレサセコオロギでは「リィリィリィリィ」と音写されることが多い。

「松蟲」マツムシは一般に「ピッ、ピリリッ」或いは「チッ、チリリッ」などと音写されることが多い。

「亞〔(つ)〕ぐ」次ぐ。良安はマツムシの声(ね)がお好きらしい。

「窄(すぼ)き脊〔(せなか)〕なる者は、尻に劍刺〔(けんし)〕有り、鳴かず」長く尖った産卵管を持つである。

「古今注」西晋(二六五年~三一六年)の崔豹(さいひょう)の撰とされる名物考証書であるが、実際には原本は失われており、現行本は五代(九〇七年~九六〇年)の馬縞(ばこう)の「中華古今注」三巻に基づいて編せられたもので、しかもこれの自体も唐の蘇鶚(そがく)の「蘇氏演義」二巻に依っていることが明らかになっている、と東洋文庫の書名注にある。

「趨織(こほろぎ)鳴けば、嬾婦〔(らんぷ〕驚く」「嬾婦」は「怠け女・不精な女性」の意で、女性の仕事とされた機織りを怠けている女がその声に、焦り驚くというのであろう。

「莎雞(きりぎりす)」既出既注。直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属 Gampsocleis のキリギリス類。「雞」は「鷄」、「沙鶏」とも書く。

「斯螽(いなご)」直翅(バッタ)目バッタ亜目イナゴ科 Catantopidae のイナゴ類。

「和漢共に辨ずるを得ず」和漢の孰れの本草書等に於いてもそれらを明確に弁別することが出来ていない。

「詩」「詩経」。以下は同書の「国風」の最後に配された「豳風〔(ひんぷう)〕」(豳は現在の陝西省にあった古地名で後に「邠(ひん)」となり、今は陝西省咸陽市彬(ひん)県附近を指す。西安市の北西百キロメートルほどの位置。ここ(グーグル・マップ・データ))の中の冒頭にある、「国風」の中で最長の、農民の生活を歌う「七月」の一節。「raccoon21jpのブログ」のこちらで全詩(原文・書き下し・訳)が読める。

「五月 斯螽(〔(ししう)〕/はたをり) 股〔(こ)〕を動かす 六月 莎雞(〔さけい〕/きりぎりす) 羽を振ふ 七月 野〔(や)〕に在り 八月 宇〔(う)〕に在り 九月 戸〔(こ)〕に在り 十月 蟋蟀(〔(しつしゆ〕/こうろぎ) 我が牀〔(しやう)〕の下〔(もと)〕に入る」「七月」以降の句は主語は「蟋蟀」である。

――五月になると、螽斯(はたおり)が脚を動かして出で来ては鳴き、六月には機織(きりぎりす)が羽根を振わせて鳴く。七月、蟋蟀(こおろぎ)まだ野にある。それが八月になると軒下にやって来て、九月には家の戸口まで近づいて、十月には私の床(とこ)の下へと入り込んでくる。

といった意味である。問題は「螽斯(はたおり)が脚を動かして出で来ては鳴き、六月には機織(きりぎりす)が羽根を振わせて鳴く」の部分であるが、昭和五〇(一九七五)年明治書院刊の乾一夫著「中国名詞観賞 1 〈詩経〉」では(乾先生に「詩経」を習ったが、本書はその教科書である。私は大学時代の数少ない「不可」の一つを先生から貰った。その顛末は「無門關 三十五 倩女離魂」の注に記してある。今、考えれば、ボイコットせずに受ければよかったなと思うておる)、『五月にはきりぎりすが足を動かし、六月にははたおりが羽根を振って鳴き』と訳されており、「斯螽」の語注には、『きりぎりす。「螽斯」』『に同じ』とされ、「動股」は『鳴き声を発するをいう。古は、きりぎりすは両股をもって、声を発するとした』(実際のキリギリスのは前翅にある発音器を用いて鳴く)とある。また、「莎雞」については『はたおり虫。「紡織娘」と呼ばれる』とある。ここで乾先生は「きりぎりす」と「はたおり虫」を別種として扱っておられる(一部では「はたおりむし」は「きりぎりす」の別名である)。しかし、これは乾先生が「はたおり虫」をキリギリスではない別な虫、恐らくは

キリギリス科 Mecopoda 属クツワムシ Mecopoda nipponensis

と認識しておられたからであると思われる。その証拠に、乾先生の「紡織娘」は現在、中国語で同じ Mecopoda 属の

タイワンクツワムシ Mecopoda elongata 

の漢名に当てられているからである。良安も問題にしている錯綜から言えば、先の「raccoon21jpのブログ」の訳で「斯螽」を『バッタ類』とし、「莎雞」を『くつわむし』と訳しておられるのも、これ、一案であろうとも思う。

「朱子の註」宋の朱熹の撰になる「詩経」の注釈書である「詩集伝」のこと。全八巻。

「斯螽・莎雞・蟋蟀は一物〔(いちもつ)〕にして、時に隨ひて變化して其名を異にす」三種を同一の虫であって、そのライフ・サイクルのそれぞれの変態ステージでかく別個な名を持っているだけだと言っているので、これはあまりにも乱暴でひど過ぎる。

『儆玄〔(けいげん)〕が「衍義〔(えんぎ)〕」』不詳。東洋文庫の書名注も不詳とする。

「斯螽は蝗なり。莎雞は促織なり。蟋蟀は蛩〔(きよう)〕なり」三種を別個な虫であるとしたのはよいが、これだと、「斯螽」(キリギリス)が「蝗」(イナゴ)で、「莎雞」(キリギリス)が「促織」(コオロギ)で、「蟋蟀」(コオロギ)に至ってはコオロギでない「蛩〔(きよう)〕」という虫だということになる。しかし「蛩」は既に良安が「コオロギ」の別称として挙げているので、ますます混乱が激しくなるばかりである。良安が三種は異なる虫であるから朱子の注は改められねばならないという点には賛同しながらも、「莎雞」を「促織」とするのは間違いだと否定する気持ちはよく判る。

「順〔(したがふ)〕」「和名類聚抄」の作者源順(みなもとのしたごう)。

「絡緯〔(らくゐ)〕、一名、促織【和名、「汝太於里女〔(はたをりめ)〕」。】」やはり錯綜。「絡緯」は現在はクツワムシに比定する向きが大半である。

「蜻蛚〔(せいれつ)〕【和名、「古保呂木(こほろぎ)」。】」これは良安の記載の中では問題がない。

「螽〔(しゆうし)〕、一名、蚣蝑〔(しようしよ)〕、一名、蠜螽〔(はんしゆう)〕、一名、春黍〔(しゆんしよ)〕【以禰豆木古萬呂〔(いねつきこまろ)〕】」これも錯綜。「蚣蝑」はキリギリスの別称でよいが、「蠜螽」は恐らくは,

直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科ショウリョウバッタ亜科 Acridini 族ショウリョウバッタ属ショウリョウバッタ Acrida cinerea より有意に大型

で(個人ページと思われる「ショウリョウバッタとおぼしき記述」を参照)、「以禰豆木古萬呂〔(いねつきこまろ)」というのはまさにショウリョウバッタの古名であるから、その直前に配された「春黍〔(しゆんしよ)〕」なるものも、同じく

ショウリョウバッタ(或いはその

である。次の次に「蠜螽(ねぎ)」が出るが、その異名は「春黍」であり、附図は正しくショウリョウバッタだから間違いない。

「蟋蟀、一名、蛬〔(きよう)〕【和名、「木里木里須(きりぎりす)」。】」これはまさに、

私が都市伝説レベルと断ずる「コオロギ」←→「キリギリス」説である!

「曲(ひとつひとつ)」「曲」には「細かな一つ一つの部分・隅々・詳しいこと」の意がある。あまり意識していないが熟語「委曲」で御理解頂けよう。

「之れを辨じて、各條に見〔(みあ)〕はす」それぞれを区別して、それぞれの条ではっきりと分別して分かるようにしたつもりである、の謂いであろう。この各条とは前後を指す。因みに次は「螽斯(はたおり)」[やぶちゃん注:「お」はママ。]である。]

2017/08/29

柴田宵曲 續妖異博物館 「猿の妖」

 

 猿の妖

 

「輟耕錄」にある「鬼」といふ話は猿の妖を書いたものである。陝西の老婆の家に道士が來て食を乞ふ。老婆は少しも厭な顏をせずに給してゐたが、一日道士は、お前の家は妖異のために苦しめられて居りはせぬかと問ひ、老婆が然りと答へるのを聞いて、それならわしが退治してやると云つて、囊の中から符を取り出して火の中に投じた。忽ち落雷のやうな響きがすると、道士は老婆を顧みて、妖は已に退治したが、一つだけ取り逃してしまつた、二十年ばかりたつて、この家に災難が來るだらう、その時はこれを焚くがいゝ、と告げ、鐡簡を與へて立ち去つた。老婆には娘が一人あり、長ずるに從つて非常な美人になつたが、或日大王なる者が大勢の供を連れて老婆の家に宿り、お前の家に異人から授かつた鐡簡があるさうな、それを見せろ、と云ふ。老婆はその前から鐡簡を見せろといふ人が屢屢あるので、ひそかに僞物を作つてこれを示し、眞物は肌身離さぬやうに持つてゐた。大王に見せたのも無論僞物の方であつたが、彼はそれを返さぬのみならず、娘に酒の酌をさせろなどと云ひ出して、いくら辭退しても承知しない。老婆は道士の云つたことを想ひ起し、勘定して見ればあれから丁度二十年になる。災難といふのはこれかも知れぬと氣が付いたので、腰に付けてゐた鐡簡を竈の下に抛り込んだ。いつかと同じ落雷のやうな響きと共に電光が閃き、家の中は煙で一杯になつた。その煙が薄れてから見ると、何十疋といふ猿が斃れて居り、その最も大きなのが大王と稱したやつで、道士が一つだけ逃したと云つた者に相違ない。彼等の携帶した金銀寶玉の類は、老婆からの訴へにより悉く官庫に沒收された。

[やぶちゃん注:「鬼」原典を見ると「鬼贓」で、これならば鬼の「贓品」(不正な手段で手に入れた品物)の意で腑に落ちる。

「鐡簡」鉄製の札。恐らくは呪力を封じた、或いは、そうした力を持った呪符や呪言(じゅごん)を記したものであろう。

 以上は「輟耕錄」の「卷六」の「鬼贓」。

   *

陝西某縣一老嫗者、住村莊間、日有道流乞食、與之、無吝色。忽問曰、「汝家得無爲妖異所苦乎。」。嫗曰、「然。」。曰、「我爲汝除之。」。卽命取火焚囊中符篆。頃之、聞他所有震霆聲。曰、「妖已誅殛。才遁其一、廿年後、汝家當有難。今以鐵簡授汝、至時、亟投諸火。」。言訖而去。自是久之、嫗之女長而且美、一日、有曰大王者、騎從甚都、借宿嫗家、遣左右謂曰、「聞嘗得異人鐵簡、可出示否。」。蓋嫗平日數爲他人借觀、因造一僞物、而以眞者懸腰間、不置也。遂用僞獻。還、謂曰、「可呼汝女行酒。」。以疾辭、大王怒、便欲爲姦意。嫗竊思道流之説、計算歳數又合、乃解所佩鐵簡投酒灶火内、既而電掣雷轟、煙火滿室。須臾、平息、擊死獼猴數十、其一最巨、疑卽向之逃者。所齎隨行器用、悉系金銀寶玉。赴告有司、籍入官庫。泰不華元帥爲西臺御史日、閲其案朱語、曰鬼髒云。餘親聞泰公説甚詳、且有鈔具案文、惜不隨卽記錄、今則忘邑裏姓名歳月矣。

   *

この話は岡本綺堂「中國怪奇小説集」に「鬼の贓品」として訳されてある。「青空文庫」のこちらで読める。]

 

 この話をそのまゝ日本の舞臺に持つて來たのが「御伽百物語」の「宮津の妖」である。道士といふのは工合が惡いから、順禮の僧とし、大王も「なま上達部(かんだちめ)の雜餉(ざつしやう)なりける男」と大分格下げになつてゐるが、全體の筋は同じ事で、最後に金銀の類を官家の貨殖に收めるところまで殆ど變りがない。それが「御伽空穗猿」の「猿官人に化て婦女を奪ひし事」になると、木曾の駒ガ嶽に話を持つて行つた。鐡札を與へた行脚の沙門は順禮の僧と大差ないが、こゝでは國主の使者に對し、先づ鐡札を香爐にかざして退散させ、愈々國主自ら乘り込んだといふ時、圍爐裏に投じて猿の一族を滅盡するといふ二段になつてゐる。たゞ最後の金銀寶玉の一條はこの話にはない。

[やぶちゃん注:「順禮」諸国巡礼。

「なま上達部(かんだちめ)」若い公卿。三位以上の公家の総称。参議は四位であるが、特例としてこれに準ぜられた。

「雜餉(ざつしやう)」貴族・武家に仕えて雑務に携わった者。

 「御伽百物語」の「宮津の妖(ばけもの)」は以下。活字本二種を持つが、今回は早稲田大学古典籍総合データベースの画像を視認して示す。読みは一部に限り、踊り字〱は正字化した。適宜、句読点や記号を打った。直接話法等は改行した。挿絵は画像が綺麗な所持する国書刊行会「江戸文庫」版を用いた。一部に注を附したが、二次創作でもあり、地名等のそれは省略した。【2018年3月3日追記:カテゴリ「怪奇談集」で「御伽百物語」全篇を電子化注であるが、本「宮津の妖」に辿り着いた。底本が異なり、注も一からやり直しているので、そちらも参照されたい。これはこれでこのまま残しておく。

   *

 

      宮津の妖

 

Otogihyakumiyadunoyou

 

 丹後の國、宮津といふ所に、須磨屋忠介といひけるは、常に絹をあきなふの家にて、精好(せいかう)の機(はた)をたて並べ、糸繰りの女、肩をつきしろひ[やぶちゃん注:互いに突(つつ)き合う。励ます意或いは居眠りを注意することであろう。]、日夜に家業おこたらず、富貴(ふうき)も年々にまさり、眷屬、あまた引きしたがへける中に、其ころ、年久しくつとめて、中老の數に入りたりける、源(げん)といひし糸繰(いとくり)は、成相(なりあひ)のわき在所、伊禰(いね)といふ村のものにてありしが、稚(おさな)き程に父にはなれ、母ひとりの介抱にて、三つ四つまでそだちける比(ころ)、此邊は、みな、網をひき、魚とりて、身すぎとする所なりければ、常に彼(かの)母、この源を抱(いだ)きおひて、濱に出で、鰯を干し、鯖を漬けなどして每日を過しけるが、其比(そのころ)しも、いづくともなく、順禮の僧と見えて、年五十四、五ばかりなるが、此さとに來たりて、家々に物を乞(こひ)、袖をひろげて身命(しんめい)をつなぎ、夜は此後家が方へたよりて、一夜(よ)をあかしけり。されども、内に入りてしたしく寢る事はなく、只、おもての庭にむしろを敷(しき)、門(かど)の敷居を枕として寢たりければ、日暮れては、さらに内より出づる事もかなはず。まして外(そと)より來たる人は、此寢たる僧にはゞかりて、得(え)入らず。その上、此坊主、ちかごろの朝寢し也。然れども、此孀(やもめ)、すこしもいとふ氣色なく、心よく、もてなしけるに、ある時、此僧、かたりていはく、

「誠に此とし比(ごろ)、こゝに起き臥しをゆるし、心よくもてなし給ふ御芳志のほど、忘れがたく、何をがなと思へど、世をいとひし身なれば、今さら報ずべき此世の覺えもしらず。さりながら此家のやうを見るに、度々、妖怪の事ありと思ふなり。」

といへば、あるじの女のいうやう、

「さればとよ、此家のみにあらず。惣じて此伊禰(いね)の村は、海にさし出でたる嶋さきなれば、むかふの沖に見えたる中の嶋より、あやしきもの、折々、渡り來て、里人をたぶらかし惱(なやま)す也。されば、我が妻(つま)[やぶちゃん注:夫。]の夭(わかじに)したまひしも、此物怪(もつけ)の故なり。」

とかたれば、僧のいふやう、

「さればこそ。其あやしみの兆(きざし)を見とめたるゆへぞかし。日ごろの御おんには、せめて、其難を救ひてまいらすべし。今は吾も故郷のなつかしうなりたれば、近き内におもひたちて、遙(はるか)なる旅にをもむく也。いでや、先づ、こよひの内に此家の難をしりぞけて參らせんずるぞ。」

と、火をあらだち[やぶちゃん注:ことさらに掻き立てて燃え上がらせ。]、水をあびなどして、何やらん、咒(まじなひ)の御札(おふだ)をしたゝめ、圍爐裏(いろり)にむかひて、彼(かの)札どもを燒(やき)あげたれば、しばらくありて、雨風の音はげしく、あつ松[やぶちゃん注:不詳。「向うの松」の謂いか? 或いは「壓松」で押し伏されたかのように低く這うように生えている松の意か?]のかたより、ふり來たるよ、と見えしが、伊禰の山もくづるゝばかり、大きなる神なり、いなづまのひかりひまなく、時ならぬ大(おほ)ゆだち[やぶちゃん注:激しい夕立。]して、中の嶋にわたると見えしが、あるじの女は氣もたましゐも身にそはで、ちゞまり居たる内、やうやう、雲、はれ、星のひかり、さはやかになりける比、かの僧のいひけるは、

「今は心やすかれ。長く、此家にあやしき物、來たるまじ。さりながら、口惜しき事は、今ひとつの惡鬼(あつき)を取りのこしたり。今より廿年を經て、此家に難あるべし。その折ふし、我がせしやうに、是れを火にくべ給へ。是れをさへ燒き給はゞ、永く、妖怪の根(ね)をたちて、子孫も繁昌すべきぞ。」

と、鐵(くろがね)の板に朱にて書きたる札を取りいだして、あるじにとらせ、僧はなくなく、その家を立ち出でしが、終(つひ)に、いづくにか去(いに)けん、二たび、歸らずなりぬ。これより久しうして、彼(かの)女のそだてつる娘が、やうやう、人となり、はや廿三、四になりけるが、田舍にはおしきまで、心ばへ、やさしく、容顏、いつくしく、他(た)に勝(すぐ)れるそだちゆへ、其ころの人のもてはやしにて、高き賤しきとなく、誰も心をかけ、戀ひわたりけれども、此母の親、心おごりして、尋常の人にあはせんとも思はず、かしづきわたりけるに、此ころ、都より、大内(おほうち)方の何がしとかやいふ、なま上達部(かんたちめ)の「雜餉(ざつしやう)なりける男、年五十ばかりなるが、城崎(きのさき)の湯に入りける歸り、此丹後に聞えたる切戸(きれと)[やぶちゃん注:京都府宮津市文珠字切戸にある臨済宗智恩寺。]・成相(なりあひ)[やぶちゃん注:丹後半島南東部の天橋立の北側にある真言宗成相山成相寺。境内から天橋立が一望される。]の寺々をもおがまばやとて、うち越え、かなたこなたと珍しき所々見めぐり、江尻より舟に乘りて、枯木(からき)、ぬなわの浦、水江(みづのえ)のさとなどを心がけてこぎ出でけるが、此いねの磯を通るとて、彼のむすめのありけるをかいまみしより、しづ心なく思ひみだれし體(てい)にて、暮れかゝるより此磯に舟をかけさせ、船人にとい聞き、浦の海士にたづねて、此やもめの家に幕(まく)うたせ、物の具とりはらはせなどして、宿をかりつゝ、夜ひとよ、歌をうたひ、舞をかなでゝ、酒をのみ、宿のあるじといふ女をも、ひたすらによび出だし、見にくき姿をもいとはず、そゞろに酒をしゐのませ[やぶちゃん注:「強い吞ませ」。]、扨、かのみそめつる娘の事を尋ねしに、此母、なを、心を高くもちて思ひけるは、

『都の人とこそいへ、大やけのまた者(もの)[やぶちゃん注:将軍・大名などに直属していない家来。又家来。陪臣。]なんどに我が娘をあはせては、かねがね、戀(こひ)わたりつる此あたりの人の心ばへも恥(はづ)かし。とても、都へとならば、いかなる卿相(けいしやう)の妾ともとこそ祈りつれ。』

とおもへば、なかなか、よそ事に聞きて返事もせず。彼(かの)都人、いよいよ、こひ佗(わび)て、ひたすらに母が機嫌をとりつゝ、けふ聞きおきし、何かの事を、ひとつ、我(われ)しりがほにいふ内、

「いつぞや、旅の僧のくれたりと聞く守り札は、今にありや。何やうのものぞ。見せよ。」

と望めば、彼の母、つねに此まもりを大事とおもふ心より、似せ札をこしらへて持ちたりけるを、さし出だす。都人、それを取りけるより、いよいよ手(て)つよく、

「彼のむすめを我にくれよ。」

と、乞ふ事、しきりなりしかども、母、また、なをなを、口こはくいひて、うけあはさりしかば、今は、都人も大(おほき)に怒り、はら立、

「所詮、こよひの内に下部はら、殘る隈なく家さがしして、理不盡に娘を奪ひとれ。都へとく具してゆくべし。」

と罵るほどに、母の親、いまはせんかたなく、非道の難にあふ事を歎きしが、ふと、おもひあはせけるまゝに、肌の守りより、例の札を取りいだし、茶がまの下の火に、さしつけて燒(やき)けるが、ふしぎや、俄(にはか)に、大かみなり、大雨、しきりにして、いなづまの、かげより、はたと落ちかゝるかみなり、あやまたず、此家(いゑ)のむかひなる磯に落ちしよ、と見えしが、雨、はれ、夜あけて見れば、彼の都人と見えしは、いづれも、年へたる古き猿どもの、衣服したるにてぞ、ありける。さて、彼(かの)家にて、とりちらしたる道具ども、大かた、此世の物にあらず。みな、金銀のたぐひなりしかば、悉く官家(くわんか)に申して、是れを成相(なりあひ)の寶藏(ほうざう)におさめけるとぞ。

   *

「御伽空穗猿」「おとぎうつぼざる」と読む。浮世草子怪談集。江戸中期の戯作者摩志田好話(ましだこうわ 生没年未詳。後に静観房好阿(じょうかんぼうこうあ)と名乗る)の作。「猿官人に化て婦女を奪ひし事」はその「卷之一」の二話目。所持するはずなのだが、見当たらない。活字本は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらから読め、原典は早稲田大学古典籍総合データベースのこちらの十四コマ以降で視認出来る。]

 

 

 猿はキツプリングの「ジャングル・ブック」あたりを見ても、常に同類群居し、團體行動を營んでゐる。「輟耕錄」の大王なる者は、どのくらゐの與黨を持つてゐたかわからぬが、衆を恃んでゐたことは慥かである。「今昔物語」の人身御供(ひとみごくう)の話にしても、大勢の眷屬を從へて居つた。「白猿傳」の如く單騎獨行する例は、極めて稀であるらしい。

[やぶちゃん注:『キツプリングの「ジャングル・ブック」』イギリス統治下のインドを舞台にした作品や児童文学で知られるボンベイ(ムンバイ)生まれのイギリス人小説家で詩人のジョゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling 一八六五年~一九三六年)が一八九四年に出版した短編小説集The Jungle Book。翌年には続編The Second Jungle Book)も出版されている)。赤ん坊の頃から狼に育てられた少年モウグリ(Mowgli:「蛙」の意)が主人公。参照したウィキの「ジャングル・ブック」及び同英語版によれば、猿の群れが登場するのは、Kaa's Hunting(カー、狩りをする)の章で、『前作で人間の世界に戻る前の物語。モウグリは猿の群「バンダー・ログ」』(Bandar-logs)『にさらわれ、ジャングルの中の、廃墟となった人間の元宮殿に送られる。「バンダー・ログ」はモウグリの賢さを利用し、自分たちのリーダーにしようとしていた』。クマのバルー(Baloo)と黒豹のバギーラ(Bagheera)は、トンビのチリ(Chil)や『巨大なニシキヘビのカーの助けをうけて、モウグリを助ける』とある。小学生の時に読んだ記憶だけはあるのだが、哀しいかな、皆、忘れて、思い出せない。

『「今昔物語」の話』先行する「人身御供」の注で電子化済み。

「白猿傳」先行する「白猿傳」を参照。]

 

 

「八犬傳」の中の庚申山に於ける山猫退治は、「剪燈新話」の「申陽洞記」に據つたものと云はれてゐる。隴西の李生なる者が騎射をよくし、膽勇を以て稱せられながら、未だ志を得ずにゐる時、錢翁といふ豪家の愛孃が忽然として行方不明になつた。もし女の所在を知る者あらば、家財の半分を與へる、女もその人に嫁せしむる、といふ懸賞條件まで發表されたが、少しも消息がわからぬ。一日獵に出た李生が麞(くじか)の走るを逐ひ、山深く入るほどに日が暮れてしまつた。たまたま山頂に古い廟のあるのを認め、そこまで辿り著いて見ると、全く荒れ果てて鳥獸の跡があるのみである。李生も氣味が惡かつたが、已むを得ずその軒下に一夜を明すことにした。ところが一睡もせぬのに、遙かに警蹕(けいしつ)の聲が聞える。こんな山中に深夜何者も來る筈がない、鬼神でなければ山賊であらう、と思つたので、廟の欄を攀ぢ上り、梁(はり)に身を隱し、樣子を窺つてゐると、やがて二つの紅燈を眞先に門のところまでやつて來た。首領らしい者は紅い冠をかぶり、淡黃色の袍(うわぎ)を著て、神座の前の案(つくゑ)に著坐し、武器を持つた者などが階下に居ならぶ。なかなかいかめしい樣子ではあるが、彼等の容貌は人間ではない、大猿である。李生が腰に帶びた矢を取り出し、首領を狙つて放つと、矢はあやまたず臂に中(あた)り、皆うろたへて散亂した。夜が明けて神座のほとりを見れば、點々たる鮮血の痕がある。その痕を尋ねて南へ五里ばかり行つたら、果して大きな穴があり、血の痕はその中に入つてゐる。李生は穴のほとりを徘徊してゐるうちに、足を滑らしてその穴に轉落してしまつた。

 穴は深かつたけれども幸ひに無事であつた。路らしいものがあるのを探り探り、眞暗な中を進むこと百步ばかりで、急に明るいところへ出た。そこに石室があつて、申陽洞といふ立札がしてある。門を守つてゐるのはいづれも昨夜見た妖怪であつたが、李の姿を見て驚いた。何者でどうしてこゝへ來たかと問はれたので、私は城中の醫者でございますが、山へ藥草を採りに參りまして、つい足を踏み外してこゝへ落ちました、どうか御勘所下さいまし、と丁寧に答へた。醫者だと聞くと、彼等は皆喜んだ樣子で、實は主君申陽侯が昨夜出遊の際、流れ矢に中つて病牀に居られる、お前が醫者なら幸ひだから治療して貰ひたい、と云ひ出した。李生は彼等に案内されて曲房深く入る。華麗な奧の間の石榻に橫はつてゐるのは一の老猿で、絶世の美人が三人、その傍に侍してゐる。李は子細らしくその疵を見て藥を與へ、群妖の請ひに任せてまた藥を與へた。その藥といふのは矢の先に塗つて猛獸猛禽を發すのに使ふ、恐るべき毒であつたから、群妖は立ちどころに昏倒した。壁にかゝつてゐた寶劍を執り、三十六の首を斬り、三人の美人も倂せて斬らうとしたが、彼女等は皆人で、その一人は例の錢翁の愛孃であることがわかつた。李は思ひがけず一擧に群妖を討滅し得たが、地底を脱出する方法がない。思案の途も盡きたところへ、虛星の精と名乘る老人が現れ、今まで妖怪の爲に屛息してゐた次第を語り、李及び三人の美女のこゝを脱する法を講じてくれた。老人の言に從つて、半時ほど目を閉ぢてゐる間、絶えず風雨の聲がしてゐたが、その聲が止んだので目を開いたら、大きな白鼠が直ぐ前に居り、鼠や豕の如き者が穴を穿ちつゝあつた。浮世に還つた李生は約束通り錢翁の壻となつたことは云ふまでもない。

 この話は多少「白猿傳」に似たところがある。人界より良家の美女を奪ひ去るあたり特に然りであるが、申陽洞はいさゝか賊寨じみてゐて、「白猿傳」の如き豪快味がない。妖は一ながら相距(さ)ること遠しである。

[やぶちゃん注:『「八犬傳」の中の庚申山に於ける山猫退治』瀧澤馬琴の「南總里見八犬傳」は妻の愛読書で、彼女は通して三度ほど読み返しているらしいが、私は部分的にしか読んだことがないので、ウィキの「南総里見八犬伝」の「庚申山の妖猫退治」より引く。『諸国を経て下野国を訪れた現八は、庚申山山中にて妖猫と対峙し、弓をもって妖猫の左目を射る。現八が山頂の岩窟で会った亡霊は赤岩一角を名乗り、自らを殺した妖猫が「赤岩一角」に成り代わっていることを告げる。山を降りた現八は、麓の返璧(たまがえし)の里に一角の実子・犬村角太郎の草庵を訪って語らう。角太郎の妻・雛衣の腹は身に覚えのない懐妊の模様を示しており、角太郎は不義とみなして雛衣を離縁、自らは返璧の庵に蟄居していた』。『偽赤岩一角(実は妖猫)は、後妻に納まっていた船虫とともに角太郎を訪れ、雛衣を復縁をさせたが、これは偽一角が目の治療のために孕み子の肝とその母の心臓とを要求するためのものであった。孝心に迫られて窮した角太郎を救い、みずからの潔白を明かすために割腹した雛衣の胎内からは、かつて誤飲した珠が飛び出して偽一角を撃った。角太郎は現八と共に、正体を現した妖猫を退治し、名を大角と改めて犬士の一人に加わる』とある。

『「剪燈新話」の「申陽洞記」』原文も訳本も所持しているが、長いので引かない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で、頭注のある訓点附きをここから視認出来る(明治三三(一九〇〇)年青木嵩山堂刊の「剪燈新話」)。また、「青空文庫」で岡本綺堂の「中国怪奇小説集」の「申陽洞記」及び田中貢太郎訳の「申陽洞記」がそれぞれ読める。また、本話は浅井了意の「伽婢子」で「隱里(かくれざと)」として翻案もされている。

「隴西の李生」名は徳逢(とくほう)。

「麞(くじか)」獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ属ノロジカ Capreolus capreolus。体長約一~一・三メートル小型のシカ。

「警蹕(けいしつ)」貴人の通行などの際に先払いの者が掛け声を掛けて人々をいましめたその声。

「臂」音「ヒ」であるが、ここは「ひじ」で訓読みしておく。但し、この語は肩から手首までの腕部分を広範囲に指す語である。

「五里」「剪燈新話」は明代の作品であるから、一里は五百六十メートル弱であるから、二キロ八百メートル程。

「石榻」「せきとう」で石製の寝台のこと。

「虛星の精」二十八宿の一つ虚宿(きょしゅく/とみてぼし)。北方玄武七宿の第四宿で実在する星として主体となる星官(星座)としての「虚」は「みずがめ座β」及び「こうま座α」の二つ。鼠はこの虚星の精であるとされた。]

 

 倂し猿の妖を説く以上、「廣異記」の一小話を閑却するわけには往くまい。戸部尚書韋虛已の子、晝間閣中に獨坐してゐると、軒に妙な物音がして、地獄の圖にある牛頭(ごづ)のやうな顏が、中を窺つてゐるのが見えた。韋の子が小さくなつてぢつとしてゐると、今度は階を上つて牀前に現れ、覗き込むやうにしてゐる。かういふことが二三度あつて、韋の子は恐ろしくてそこにゐられなくなつた。思ひきつて外へ出ようとし、枕を取つてそのものに投げ付けたけれど中らなかつた。門を開いて逃げ出したら、うしろから追駈けて來る。韋の子は恐怖の叫びを擧げながら、そこにある空井戸の周圍をぐるぐる𢌞るうちに、たうとうつかまりさうになつたので、井戸の中に飛び込んだ。底から仰ぎ見れば、井戸に據つて坐つてゐるのは一疋の猿であつた。叫び聲を耳にして家人が駈けて來た時は、猿は已にどこかへ行つてしまひ、井戸の傍には踏み荒した足跡が殘つてゐた。韋の子は直ぐに發見され、下げた綱に縋つて上つて來たが、茫然として何も云はず、三日ほどたつて漸く恐ろしかつた話をするやうになつた。倂し一月餘りで亡くなつたさうである。この話は小規模ではあるが、妖味は頗る多い。牛頭の如きものの内を窺ふあたり、特にさうである。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「畜獸十一」に載る「廣異記」を出典とする「韋虛己子」版である。

   *

戸部尚書韋虛己。其子常晝日獨坐閤中。忽聞簷際有聲、顧視乃牛頭人、眞地獄圖中所見者、據其所下窺之。韋伏不敢動、須臾登階。直詣牀前。面臨其上。如此再三、乃下去。韋子不勝其懼。復將出内、卽以枕擲之、不中、乃開其門、趨前逐之。韋子叫呼、但遶一空井而走。迫之轉急。遂投于井中。其物因據井而坐、韋仰觀之、乃變爲一猿。良久、家人至、猿卽不見。視井旁有足跡奔蹂之狀、怪之、窺井中、乃見韋在焉。懸縋出之、恍惚不能言、三日方能説。月餘乃卒。

   *]

北越奇談 巻之五 怪談 其二(巨大井守)

 

    其二

 

 蒲原郡旭村より五泉の方(かた)へ越(こゆ)る所、山中に三五郎池と云ふあり。此池に長(たけ)四尺ばかりなる蛤蚧(いもり)ありて、夏日、晴天、靜(しづか)なる時は必(かならず)、水上に浮び出ツ。

 又、論瀨村(ろんせむら)古阿賀(こあか)川に、五尺ばかりの蛤蚧あり。日中、田間(でんかん)、人無き頃、密(ひそか)に堤の陰に佇(たゝず)みて窺ひ見る時は、必ず、浮(うか)み出ツ。其背、鐵黑(てつこく)にして、頜(おとがゐ)の下、朱(しゆ)のごとし。里人(りじん)、はからず、是を見る時は、

「蝮蛇(うはばみ)なり。」

として驚き、病(やみ)ぬ。

 又、長峰村に泥鰌地(どぢやういけ)と云へるあり。同諏門嶽(すもんだけ)の中に泥鰌池と云ふありて、其棲(す)める所、泥鰌、二、三尺ばかり、一尺ばかりなるは、甚だ夛(おほ)し。然(しか)れども、池中(ちちう)、泥深くして、人至れば、皆、隱(かく)るゝ故に、取得(とりう)ること能(あた)はずと云へり。可ㇾ惜(おしむべし)一把(いつは)の葱白(そうはく)に和(わ)して是を煮て、以、三杯(ばい)を傾(かたふ)けざる事を。

 

[やぶちゃん注:「蒲原郡旭村より五泉の方(かた)へ越(こゆ)る所、山中に三五郎池」「蒲原郡旭村」は恐らく現在の新潟県五泉市旭町地区内で、(グーグル・マップ・データ))から、東北へ直線で二十キロメートル弱で五泉市街に至る。その間に北に延びる山地があり、そこには山越えのルートが複数認められ、その道筋には池や堤が現在も存在するからその中の一つと考えられる。

「四尺」一メートル二十一センチ。オオサンショウウオ(両生綱有尾目サンショウウオ亜目オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus)並みであるが、同種は新潟には元来、自然棲息しないから違う

「蛤蚧(いもり)」両生綱有尾目イモリ上科イモリ科Salamandridaeの総称であるが、本邦では通常はイモリと言えば、トウヨウイモリ属の日本固有種アカハライモリCynops pyrrhogaster を指す。ここでも後の論瀬村のケースが顎の下を朱色とすることから、それに同定してよかろう。但し、同種は十センチメートル前後で、以下に出るような巨大個体は存在しない。

「論瀨村(ろんせむら)古阿賀(こあか)川」新潟県五泉市論瀬(ろんぜ)。(グーグル・マップ・データ)。現在の同地区の北端を阿賀野川が流れるから、この名称は阿賀野川の旧流路を指すか。

「五尺」一メートル五十一センチ強。

ばかりの蛤蚧あり。日中、田間(でんかん)、人無き頃、密(ひそか)に堤の陰に佇(たゝず)みて窺ひ見る時は、必ず、浮(うか)み出ツ。其背、鐵黑(てつこく)にして、頜(おとがゐ)の下、朱(しゆ)のごとし。里人(りじん)、はからず、是を見る時は、

「蝮蛇(うはばみ)なり。」

「長峰村に泥鰌地(どぢやういけ)と云へるあり。同諏門嶽(すもんだけ)の中に泥鰌池と云ふあり」これは「泥鰌池」が同地区に二つあるというのではなく、「長峰村」の「諏門嶽」の山中に「泥鰌池」があるということであろう。諏門嶽は既出既注で、現在の新潟県魚沼市・三条市・長岡市に跨る守門岳(すもんだけ:標高千五百三十七・二メートル)のことで、同ピークの西北西四キロ強の位置、長岡市栃堀に「長峰」というピークを確認出来る。(グーグル・マップ・データ)。

「葱白(そうはく)」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ネギ Allium fistulosum。ここは特に東日本で好まれる、成長とともに土を盛上げて陽に当てないようにして育てた、風味が強くて太い根深葱(ねぶかねぎ:長葱・白葱)を指す。

「三杯(ばい)を傾(かたふ)けざる事を」崑崙は酒好きであったようだ。]

北越奇談 巻之五 怪談(スクモムシの怪)

 

北越奇談巻之五

 

        北越 崑崙橘茂世述

        東都 柳亭種彦挍合

 

    怪談

 

 葛塚(くづづか)は七十年前(ぜん)、沼草原(ぬまくさはら)、多かりしを開發して、今、屋並、數(す)百軒、田畑、甚だ廣濶なり。

 爰に辻番太郎と云ふ者、娘一人あるのみにして、家貧しく、昼は農事を營み、夜(よる)は町の番に出て曉まで不ㇾ歸(かへらず)。

 一日、畑に出(いで)て、草沼深く打返(うちかへ)したるに、忽(たちまち)、土中、穴ありて、何かは知らず、竦(すく)み居(ゐ)たるさまなり。猶、深く掘りて見れば、大小田原提灯(をだはらでうちん)の如(ごとく)なる蠐螬(すくもむし)一つ、轉(まろ)び出たり。かの男、鎌を以つて其頭(かしら)を打つに、金鐵(きんてつ)のごとし。依(よつ)て吸居(すひゐ)たる烟草の吹殼(ふきがら)を、かの虫の蟠(わだかま)りたる所に落とせば、虫、猶、縮寄(ちゞみよ)りて、丸くなるを、又、吹殼を數(す)十落したれば、終(つゐ)に燒死(やけし)す。

 其夜も、かの男は、辻の番に出(いで)て居らず、娘一人、茅屋に臥し居(ゐ)たるに、忽然と、犬のごときもの、枕の傍(かたは)らに蟠りありて、押し動かす。女、驚き起上(おきあが)り見れば、更に一物もあることなし。

 眠(ねふら)んとすれば、又、如ㇾ此(かくのごとし)。女家に居ること、能(あた)はず、即(すなはち)、番小屋に至(いたり)て、父に告ぐ。父、叱つて是を歸す。女、(おんな)、家に至れば、又、如ㇾ此。

 夜々、化物、來たり、驚かすこと、數(す)日、終に奇病を發す。

 依(よつ)て僧を請じ、法華(ほつけ)を讀誦して、此怪、止みぬ。怪しむべし、躶虫(くはちう)と雖も、數(す)百歳のもの、其(その)死氣(しき)、妖怪をなすこと如ㇾ此(かくのごとし)。

 

[やぶちゃん注:「葛塚(くづづか)」新潟県新潟市北区葛塚(くずつか)。現在は「つか」は濁らない。「巻之一 蝮蛇」で既に「葛塚は福湖の西涯」と出、現在も一部が残る福島潟(既出既注)の西北にいある現在の新潟県新潟市北区葛塚周辺。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の謂いから見ても、福島潟の一部或いは西岸の低湿地地帯だったものを干拓したものであることが分明。新潟市街区とは阿賀野川を挟んで東の端近い。北区公式サイト福島潟の干拓によると、『阿賀野川の松ヶ崎開削で、広大な開発可能な土地ができると、幕府は』宝暦四(一七五四)年、『福島潟周辺の』三十三箇村『を幕府領とし、潟の開発を頸城郡鉢崎村(現柏崎市)の山本丈右衛門に許可し』、『丈右衛門は潟に流れ込む水量を少なくするため加治川や新発田川の改修、新太田川の掘削などを行い、新鼻や太田地区など』八十九町歩(約八十九ヘクタール)を開発、明和七(一七七〇)年に病死したが、それは、その十九年後の寛政元(一七八九)年、『水原町市島徳次郎をはじめとする』十三『人衆に受け継がれ』る。『開発する場所を土手で囲み、中にマコモ』(単子葉植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Oryzeae 族マコモ属マコモ Zizania latifolia『を植えて土砂を沈殿させ、水を抜いて水田にする方法が行われ』、『また、潟に流入する河川の上流から土を流し、潟の底を高くする方法もとられ』た。『さらに、潟の全面開発を目指し、浜茄子新道(県道豊栄・天王線)、天王新道、山倉新道(主要地方道新潟・五泉・間瀬線)の堤防を築き、潟を分割しましたが、洪水で決壊し、不成功に終』わったものの、この十三『人衆の開発面積は潟の周囲全面に』及び、じつに四百五十二町歩を増やした、とある。

 

「七十年前(ぜん)」「北越奇談」の刊行は文化九(一八一二)年春であるから、一七六〇年代初頭となり、最短時間で宝暦末(宝暦九(一七五九)年~宝暦一二(一七六二)年)に相当する。

「辻番太郎」原典「つぢばんたらう」とルビするが、この呼称は「辻番」の愛称略称「番太」「番太郎」と完全に一致するから、私は全体が一語の通称とする(彼は「太郎」という名ではない)ととる。辻番は江戸時代の主に城下町の町村に召し抱えられた見張り番で、職務は町によっては四つ辻などにある番小屋に於ける木戸番(夜間の出入の監視)或いは火の番や夜警、村によっては山野水門の警備や火急の用件の使い走(ぱ)しりや浮浪者の取締りなどであった。地方のそれは非人身分の者が担当したことが多かったようである。

「竦(すく)み居(ゐ)たるさま」身体を見た目で小さくしようと殊更に縮んで固くしている様子。

「小田原提灯(をだはらでうちん)」直筒灯籠型(円筒形)で、不用な時には、畳んで袂又は懐中に入れて携帯の出来る提灯。天文年間(一五三二年~一五五五年)相模国小田原の甚左衛門が箱根越えの旅人のために考案して売ったものが起源とされる。懐(ふところ)提灯とも称し、大きさはここでは後で変化したと思われるものが「犬のごときもの」と出るから、六寸提灯(直径十八センチ・高さ六十五センチメートル)程度をイメージすればよかろう。

「蠐螬(すくもむし)」これは所謂、「地虫」、本邦では主に、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族コガネムシ属 Mimela に属するコガネムシ類の幼虫を指す。なお、和名「すくもむし」の「すくも」とは、古くから葦や萱(かや)などの枯れたものや、藻屑、葦の根などを指したようだが、語源は不明である。私の和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 目録 / 蠐螬 乳蟲を参照されたい。

「金鐵(きんてつ)」金属。

「押し動かす」「押し蠢く」、顫動する、の謂いと読む。

「法華(ほつけ)」鳩摩羅什(くまらじゅう)漢訳本「妙法蓮華經」。主人公は日蓮宗徒であろう。

「躶虫(くはちう)」「躶」は音「ラ」で「らちう」が正しい。「躶」は「裸」の異体字であるから「赤裸の・露出した・剝き出しの・赤裸々な」の意で、「裸虫」。これはもともと陰陽五行説に基づく生物分類で、身体の大部分を蔽う羽・鱗・毛などを持たずに生まれてくる動物を指す。通常は実は特に人間を意味するのであるが、ここは「蠐螬(すくもむし)」をそう捉えての呼称。見かけ上は納得出来る。]

2017/08/28

北越奇談 巻之四 怪談 其十四(大蝦蟇) / 巻之四~了

 

    其十四

 

Oogama

 

[やぶちゃん注:葛飾北斎の挿絵。左上に「岩と おもひて 怪物の 頭に 釣をたるゝ」というキャプションがある。大蝦蟇の肌のボカシが絶妙で、目蓋が動いて開閉するような錯覚をさえ覚えるではないか。]

 

 

 村松の諸士、河内谷(かはちだに)の溪流に釣を垂るゝこと、其(その)常(つね)なり。故にその坐すべき岩、憩ふべき木蔭(こかげ)、流(ながれ)の澱(よど)みなんどあれば、各(おのおの)坐を設(もふ)くる術(てだて)を成し居(お)れり。

 一日(いちじつ)、藤田某(それがし)、何時(いつ)も岩頭(がんとう)に至(いたつ)て釣(つり)すれども、昼過(すぐ)る頃まで、魚(うを)一ツも不ㇾ得(えず)。故に方便(てだて)を替(かへ)、川の淺瀨を渉り、遙(はるか)なる水上(みなかみ)に登りて、其(その)よろしき所をたづぬるに、山陰(やまかげ)深く、淵に臨(のぞん)で、滑らかに疣(いぼ)立(たち)たる岩、一ツあり。凡(およそ)疊三帖(じよう)ばかりも敷(しく)べし。即(すなはち)、其上に坐して釣を垂るゝに、又、一人の士、川向ひの岸に來りて釣を垂(た)る。

 やゝ久しくして、川向ひの士、急に釣竿を收(おさ)め、此方(こなた)の方(かた)に向ひ、密(ひそか)に手招きして、早く歸(かへら)んことを指差(ゆびさ)し教(おしへ)て、ものをも言(いは)ず、慌(あは)てふためき、川下へ迯去(にげさ)りぬ。

 藤田氏(うぢ)も、何か心淋しくなりて、岸に上がり、元の道を歸り、淺瀨(あさぜ)を渉り、其人に走り付(つき)て、

「何事の候や。」

と問(とふ)。

 彼(かの)士、大息(おほいき)つきて、

「扨(さて)、貴公は不ㇾ知哉(しらずや)、即(すなはち)、公の坐したる岩、忽(たちまち)、兩眼を開(ひらき)、大なる口、少し開けて、欠伸(あくび)するさまにて、又、眼(まなこ)を閉(とぢ)たり。其眼中(がんちう)、赤(あかき)事、火のごとく光(ひかり)て、恐しなど、言(いふ)ばかりなし。是(これ)、必ず、蝮蛇(うはばみ)ならんとて、迯歸りぬ。」

 其後(そのゝち)、朋友相伴(あいともなふ)て、其所(そのところ)に行(ゆき)て見しかども、かの岩と覺しきもの、なし、と云へり。

 是も、山中(さんちう)、大蝦蟇(おほがま)なるべきか。

北越奇談巻之四終

 

[やぶちゃん注:崑崙は先行条に合わせて蝦蟇怪とするが、朋友の言は蟒蛇(うわばみ)であり、或いは、それに合わせるために「疣(いぼ)立(たち)たる」という粉飾を施したとも思えなくもない。寧ろ、この形容がなければ、「大蝦蟇(おほがま)なるべきか」という結語は出ないとも言えるからである。

「村松」村松藩。越後国蒲原郡の中の村松・下田・七谷・見附地方を支配し、藩庁は村松城(現在の新潟県五泉市)に置かれた。藩主は一貫して堀氏。

「河内谷(かはちだに)」既出既注。新潟県五泉市川内。の附近(グーグル・マップ・データ)と私は推定する。]

2017/08/27

北越奇談 巻之四 怪談 其十三(蝦蟇怪)

 

    其十三

 

 新泻真浄寺は大精舎(おほいなるてら)なり。寺中(じちう)の僧某(それがし)、秋の夜(よ)、いたく更行(ふけゆき)、寺に歸るとて、独(ひとり)、小家(こいへ)の軒(のき)を通りたるが、忽(たちまち)、心淋しくなりて、身の毛よだち、あたりを顧(かへりみ)れば、藁葺の厠(かはや)の屋根に、南瓜(かぼちや)繁り、纏(まと)ふたる葉の間に、靑みたる人の頸(くび)、一ツありて、かの僧に向ひ莞尓(にこ)と笑ふ。

 僧、驚き、

ッ。」

聲を出し、持ちたる杖にて、かの頸をしたたかに打(うつ)。

 その声に近所の人々、目を覺(さま)し、

「誰(た)ぞ。」

と問ふ。僧の曰(いはく)、

「化物あり。起きよ、起き。」

と呼ぶほどに、近隣皆々、驚き出(いで)て、火を點(とも)し、是を見れば、南瓜に杖の打(うち)たる痕(あと)あり。人々、

「これは、人の頸にはあらず。『南瓜あたま』なりけり。」

と、笑ひけるに、僧も己(おのれ)が臆病を恥(はぢ)て、猶、其南瓜を打叩(うちたゝ)くに、

「グウグウ。」

と、声、あり。

 人々、怪(あやし)み、葉の蔭を探し求(もとむ)るに、忽(たちまち)、大(おほきさ)狗子(いのこ)のごとくなる、蟇(ひき)一ツ、葉の蔭に竦(すく)み居たり。

「扨は。此、くせものなり。」

とて、遂に打殺(うちころ)しぬ。

 「博物志」に蝦蟆(がま)の三奇を出(いだ)す。釋文(しやくもん)に、『蝦蟇、物を呑(のま)んとして口を開けば、其氣、物を引來(ひききた)りて、おのれと、口に入(いる)。故に「ひき」と言(いへ)、又、千里の外(ほか)に捨(すつ)れども、一夜(いちや)の中(うち)に歸り來(きた)る。故に「かへる」と和訓す』とあり。

 文化元甲子(きのえね)の夏六月、信州鬼無里(きなさ)山中(さんちう)、松巖禪寺(しようごんぜんじ)に停留し、障壁に画(ゑがく)こと数日(すじつ)、其寺の後園(こうゑん)に大蝦蟇(おほがま)数十(すじう)ありて、黃昏(たそがれ)より洞口(どうこう)を出(いで)、四方に亂飛(らんひ)して、食を求む。その聲、

「ガウガウ。」

と囂(かまびす)し。さなきだに、短夜(みじかよ)の眠(めふり)を妨ぐること、連夜なり。是(これ)に依(よつ)て、堂頭(どうてう)和尚(おせう)に謁し、此ことを以(もつて)、かの蟇(ひき)を他所に移さんことを請ふ。

 和尚の曰(いはく)、

「されば過(すぎ)し年、江湖(ごうこ)の僧ども、打寄(うちよ)りて、『此蝦蟇、禪定(ぜんじやう)を妨ぐ』とて、一夕(いつせき)、洞口より蚑出(はへいづ)るを、捕へ盡し、俵二ツに入(いれ)、門前の急流に捨てたりしが、翌朝、皆、歸り來りて、元のごとし。力(ちから)を勞して功なし。」

と。

 是を聞(きゝ)て、

「既に、蝦蟇の二奇を知る。今一奇なり。密室に封ずと雖も、一夜(いちや)にして出(いづ)ると云へり。吾、未(いまだ)是を試みず。」

と、語りけるに、若き僧達、その夕(ゆふべ)、竊(ひそか)に大蟇(おほひき)一ツを捕らへ、是を銅盥(かなだらゐ)に入(いれ)、石を以(もつて)、蓋(ふた)とし、其上に、猶、大石(たいせき)をのぼせ、我(わが)枕に近き障子の外に置きて、以(もつて)、その奇を試んとす。

 扨、終夜(よもすがら)、他の蝦蟇(がま)、

「ガウガウ。」

と鳴渡(なきわた)るに、かの銅盥中(かなだらゐのうち)、只、時々、

「グウグウ。」

と微声(びせい)ありて、も又、眠(ねふ)ること、能(あた)はず。

 丑の時頃より、寺僧、起出(おきいで)て、堂上(どうしやう)に讀經(どくきやう)の声、喧(かまびす)し。

 漸々(やうやう)明(あけ)七ツにもならんと思ふ時分、四方に散乱せる蝦蟇(がま)、忽(たちまち)、庭に聚來(あつまりきた)り、其鳴(なく)声、数百群(すひやくぐん)なりしが、忽、其声、止みて、肅然(しようぜん)と、物凄し。

 又、銅盥(かなだらゐの)中(うち)の声も不ㇾ聞(きこへず)なりぬ。

 怪しみながら臥居たるに、早(はや)、若き僧達二、三人、走來り、

「如何に。」

と問ふ。依(よつ)ても起上(おきあが)り、かの大石(たいせき)を除(の)け、板石(いたいし)を取りて、鋼盥(かなだらゐの)中(うち)を見るに、更に、一物(いちもつ)、なし。

 不思義と云ふも、猶、あまりあり。

 凡(およそ)、蝦蟇(がま)、烏(からす)を恐るゝのみ、犬猫と雖も、さらに省(かへりみ)ず、道を避けて行く。

 實(じつ)に蝦蟇(がま)、虫類の怪物なり。此一事、他邦の奇なれども因(ちなみ)に擧ぐ。

 

[やぶちゃん注:蝦蟇(漢字表記は他に「蟇」「蟆」「蟇蛙」「蟾蜍」等)「ひきがえる」「がま」「ひき」の怪で、しかも後半はまたしても崑崙の実体験物。この手の実録随筆で筆者の怪奇体験がかなり克明に記されるケースは寧ろ、特異的と言ってもよい。

 さて「ひき(がえる)」「がま(がえる)」は、一般には、大きな蛙を全般に指す語であるが、その実態はやはり、両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus と考えてよいと思われる。ヒキガエルは洋の東西を問わず、怪をなすものとして認識されているが(キリスト教ではしばしば悪魔や魔女の化身として現れる)、これは多分にヒキガエル科 Bufonidae の多くが持つ有毒物質が誇張拡大したものと考えてよい。知られるように、彼等は後頭部にある耳腺(ここから以下の毒液を分泌する際には激しい噴出を伴うケースがあり、これが本話でも言うところの、摂餌対象に「氣」を放って「引」くと言ったような、口から怪しい白気を吐く妖蟇(ようがま)のイメージと結びついたと私は推測している)及び背面部に散在する疣から牛乳様の粘液を分泌するが、これは強心ステロイドであるブフォトキシンなどの複数の成分や、発痛作用を持つセロトニン様の神経伝達物質等を含み(漢方では本成分の強心作用があるため、漢方では耳腺から採取したこれを乾燥したものを「蟾酥(せんそ)」と呼んで生薬とする)、ブフォトキシンの主成分であるアミン系のブフォニンは粘膜から吸収されて神経系に作用し、幻覚症状を起こし(これも妖蟇伝説の有力な原因であろう)、ステロイド系のブフォタリンは強い心機能亢進を起こす。誤って人が口経摂取した場合は、口腔内の激痛・嘔吐・下痢・腹痛・頻拍に襲われ、犬などの小動物等では心臓麻痺を起して死亡する。眼に入った場合は、処置が遅れると、失明の危険性もある。こうした複数の要素が「マガマガ」しい「ガマ」のイメージや妖異を生み出す元となったように思われるのである。因みに、筑波の「ガマの油売り」で知られる「四六のガマ」は、前足が四本指で後足が六本指のニホンヒキガエルで、超常能力を持った妖怪として、よく引き合いに出されるのであるが、これは奇形種ではない。ニホンヒキガエルは前足・後足ともに普通に五本指であるが、前足の第一指(親指)が痕跡的な骨だけで、見た目が四本に見え、後足では、逆に第一指の近くに内部に骨を持った瘤(実際に番外指と呼ばれる)が六本指に見えることに由来するものである。

 なお、ここに記されたような「がま」の怪異は非常に多くの怪奇談に古くから書かれてある。私の電子化訳注或いは注したものでは、例えば、「耳囊 卷之四 蝦蟇の怪の事 附怪をなす蝦蟇は別種成事」「耳囊 卷之五 怪蟲淡と變じて身を遁るゝ事」(これは本条の後半の崑崙の実体験の怪異と同じ密閉した空間から消えてなくなるそれである)、『柴田宵曲 妖異博物館 「古蝦蟇」』『「想山著聞奇集 卷の參」「蟇の怪虫なる事」』などが大いに参考になるはずである。

「新泻真浄寺」新潟市中央区西堀通に現存する浄土真宗ここ(グーグル・マップ・データ)。野島出版脚注に『院家にて赤沼と号す。開基明慶坊は常陸の人。初』め、『土屋五郎重行と云。源家の勇士なりしが』、『後、出家して求道持經修行の功績をみて、頸城郡四江邑に居住せしに、親鸞國府に謫流の時、行きて謁して教導を受け、信心了解して弟子となり、法名を明慶と改め、師の東行に従い、信州水内郡』(みのちごうり)『赤沼に至る時、師の云、汝此処に止まり、專修念仏の法を弘む可しと因て一宇を造立して眞淨寺と名づく。其の後、故ありて新潟に移る。寺宝家蔵多あり(越後野志)』とある。

「博物志」晋の政治家文人張華(二三二年~三〇〇年)が撰した博物書。現行本は全十巻。神仙や人間を含む奇怪な動植物についての記録を主とし、民間伝説などが混じっている。一説には本来は四百巻あったが、武帝から内容が疑わしいとして削除を命ぜられ、十巻になったともいうが、六朝から唐にかけての伝奇や諸本草書に「博物志」として引用された文章で、現行本には記載されていないものがしばしばあり、また、原典の記載自体、断片的なものが多い点から、原本は、一度、失われてしまい、現行本は後人が他書に引用されたものを蒐集して纏めたものに過ぎないと考えられる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。但し、現行の十巻及び「太平廣記」で「博物志」引用とする文章を縦覧してみたが、蝦蟇の三つの奇異の記載は見出せなかった。識者の御教授を乞うものである。

「釋文(しやくもん)」その「博物志」の蝦蟇の三奇の記載を注釈したものと読んでおく。

『蝦蟇、物を呑(のま)んとして口を開けば、其氣、物を引來(ひききた)りて、おのれと、口に入(いる)。故に「ひき」と言(いへ)、又、千里の外(ほか)に捨(すつ)れども、一夜(いちや)の中(うち)に歸り來(きた)る。故に「かへる」と和訓す』この引用元を知りたい。識者の御教授を切に乞うものである。非常に面白い語源説ではある。如何にも眉唾っぽい(特に「かへる」の方)が、大槻文彦の「言海」の「ひき」(蟇)の冒頭には確かに、『氣ヲ以テ子蟲ヲ引寄セテ食ヘバ名トスト云フ』とあり(但し、直後に読点して『イカガ』と疑問を呈してもいる)、「日本国語大辞典」も「ひき」と「かえる」の語源説にこれらを一説としてちゃんと掲げてある。生命力が強く死んだように見えても、生き「かえる」からという説もあるが(ある種の両生類や爬虫類はショックを与えると一時的な生理的仮死状態になるものがいる)、それはもう、これより私は苦しいと思う。因みに、ちょっと脱線するが、私が青春時代を過ごした富山(高岡市伏木。大伴家持所縁の地である)では蛙を「ぎゃわず」と称した。これは万葉以来の歌語としての「かはづ」と同源と考えてよい。しかし私はその「かは」を「川」とは採らない。これはまさに「ギャ」「グヮ」という彼らの鳴き声のオノマトペイアが「くは」「かは」と転訛したと採るのが私には自然であるように思われる。

「文化元甲子」一八〇四年。

「信州鬼無里(きなさ)」長野県長野市鬼無里(偶然であろうが、ここは旧上水内郡で先の真浄寺があったのも同じ郡内であった)。ここ(グーグル・マップ・データ)。天武天皇の信濃遷都伝承に基づく鬼殲滅や平維盛の鬼女「紅葉」退治の伝説(「鬼無里」の名はそれに由来)、木曾義仲に纏わる話で知られる地である。

「松巖禪寺(しようごんぜんじ)」鬼女「紅葉」の守護神を祀ると伝える曹洞宗の寺である旧鬼立山(きりゅうざん)地蔵院。少なくとも現在は松巖寺(しょうがんじ)と読む。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「障壁」野島出版脚注に『堡障』(外塁壁)『のことであろうが、ここでは壁画か対立』(「衝立(ついたて)のことであろう)『の意であろう』とある。崑崙は画人として相応の評価があったことが、ここの事実から判る(野島出版版解説によれば、彼はそれ以前に、医学の素養があり、漢詩人としても知られていたようである。但し、博覧強記乍ら、それぞれの師が誰であったのかも皆目分らないそうである)。

「後園(こうゑん)」裏庭。

「洞口(どうこう)」山の斜面にある巣穴。

「亂飛(らんひ)して」跳躍跳梁して。

食を求む。その聲、

「さなきだに」(副詞「さ」+形容詞「なし」の連体形+限定類推の副助詞「だに」)そうでなくてさえ。

「堂頭(どうてう)和尚(おせう)」堂頭(どうちょう)の和尚(おしょう)。「和尚」の歴史的仮名遣は「をしやう」が正しい。禅寺の住持を「堂頭」という。

に謁し、此ことを以(もつて)、かの蟇(ひき)を他所に移さんことを請ふ。

「江湖(ごうこ)の僧」修学参禅を行う学僧。昔、唐代の名禅僧馬祖道は現在の江西省で禅宗を広め、同時代の今一人の名禅僧石頭希遷は南岳衡山(湖南省)に住し、天下の禅僧はこの二師のもとを往来したという故事に基づく。

「禪定(ぜんじやう)」思念を静めて心を明らかにし、真正の理を悟るための修行法。精神を集中し、三昧 (さんまい) に入って寂静の心境に達する禅行。

「蚑出(はへいづ)る」這い出す。

「門前の急流」同寺の前を裾花川(すそばながわ)が東へ流れ下る。

に捨てたりしが、翌朝、皆、歸り來りて、元のごとし。力(ちから)を勞して功なし。」

と。

 是を聞(きゝ)て、

「蝦蟇の二奇」先の釈文にある「気を吐いてそれで餌を誘引して喰らう」奇と、「どんなに遠く離れた場所へ移しても必ずもといたところへ戻ってくる帰巣本能の奇。

「丑の時」午前二時前後。禅宗の修行では起床を「開静(かいじょう)」呼ぶが、現行では午前三時から四時であるが(季節によって異なる。永平寺の修行体験例では夏で午前三時十分、冬で四時十分、春明は三時四十分とする)は、暁前がその規程であるから、この話柄の夏ならば、午前三時には起きていなくてはならず、そのための準備を考えれば、御前二時過ぎは正しい。実際、良寛の記録などを見ると、午前三時に開静している(解定(かいちん:就寝)は今も午後九時)。

「明(あけ)七ツ」定時法なら午前四時であるが、不定時法(夏)では三時半過ぎ。

「数百群(すひやくぐん)なりしが」聴くだけで数百(五,六百匹)の群れと覚えたが。

「蕭然(しようぜん)」ごくひっそりとして物寂しい様子。蕭条。ピタ! っと止んで後は「更に、一物(いちもつ)、なし」なんともはや、蝦蟇一匹どころか、全く、何も、なく、空っぽである。

「蝦蟇(がま)、烏(からす)を恐るゝのみ」雑食性のカラスは蛙も食うが、このカラスのみを恐れるという部分には、民俗学的に古えより神の使いとされた八咫烏(やたがらす)のイメージが包含されているのかも知れぬ。

「他邦」崑崙の実体験ながら、このロケーションは越後国ではなく信濃国。]

北越奇談 巻之四 怪談 其十二(山の巨魁)

 

    其十二

 

 神田村(かんたむら)に鬼新左衞門(おにしんざゑもん)と云へる者あり。其性(せい)、暴悪にして、物の命をとること、草を苅るがごとし。里人(りじん)・親族と雖も、その強きを憎んで相厭(あいいと)ふ。

 爰(こゝ)に村を離るゝこと、十餘丁、山神(さんしん)の小社(ほこら)あり。其下、溪流湛(たゝ)へて、水鳥、甚(はなはだ)多しと雖も、里人(さとびと)、殺生を禁じて、是を獲らず。

 過(すぎ)し冬、新左衞門、雪中に獨り、其所(そのところ)に至り、黐繩(もちなは)を引流(ひきなが)して鳥を獲ること、夜每(よごと)に甚多く、ある夜、又、到りて、繩を引くに、宵より、鳥一ツも不ㇾ來(きたらず)、夜半にも、又、來たらず。

 已に曉方(あかつきがた)に及んで、山の上より、何(なに)とも知らず、氷(こほり)たる雪の上を、ものゝ步行來(あゆみく)る音す。新左衞門、小屋の中(うち)より竊(ひそか)に是を覗(うかが)ひ見れば、其長(たけ)一丈あまりなる男、髮(がみ)、目の上に覆ひたるが、出來(いできた)れり。

 新左ヱ門、恐れて、声も出(いで)ず、小屋の中(うち)に竦(すく)み居(ゐた)りしに、かの大男、近く步み來り、小屋の中へ、箕(み)のごとくなる手を差し入(いれ)、新左ヱ門を摑(つか)み出(いだ)し、遙かに投げ飛(とば)したりと覺へて、氣絶しぬ。

 さて、夜明(よあけ)、家(いへ)の女房、新左ヱ門が歸りの常より遲きを以(もつて)、訝(いぶか)しく、かの小屋に到り見れば、居らず。又、足跡もなし。

 女房、驚き、立歸(たちかへ)り、是を村長(むらおさ)に訟(うつた)ひ、人を出(いだ)し、山々谷々(やまやまたにたに)、不ㇾ殘(のこらず)尋ね求(もとむ)るに、北谷(きただに)二ツを越へて、新左左ヱ門、雪中(せつちう)に倒れ死す。

 人々、漸々(ようよう)に助け來りて家に入(いり)、藥を注(そゝ)ぎ、(あたゝめ)なんどしけるに、一時(いちじ)あまり過ぎて、人心(ひとごゝち)付(つき)ぬ。

 其後(そのゝち)、殺生は止(やめ)たれども、三年を不ㇾ待(またず)して卒(そつし)ぬ。

 深山の奇、はかり難し。

 

[やぶちゃん注:今までの山男の延長線上にある巨魁。この「小社(ほこら)」(二字へのルビ)に祭祀されているのは「山の神」で、自然、この男を同一視したくなるが、「山の神」は女神とされるから、これは連関を求めるとならば、その「山の神」の眷属と見るべきであろう。

「神田村(かんたむら)」一つの候補は旧中頸城郡神田村か。現在の新潟県上越市三和(さんわ)区神田(かんだ)。(グーグル・マップ・データ)。

「鬼新左衞門(おにしんざゑもん)」通称で、「鬼」は「悪太郎」「悪源太」などと同様、勇猛で力が強いことを示す添え辞であって、本来は禍々しい蔑称ではない。

「十餘丁」十三町ほどとして、一キロ半弱か。

「黐繩(もちなは)」鳥黐(バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属モチノキ Ilex integraやマンサク亜綱ヤマグルマ目ヤマグルマ科ヤマグルマ属ヤマグルマ Trochodendron aralioidesなどの樹皮から抽出した粘着性物質。前者から得たものは白いので「シロモチ」或いは「ホンモチ」、後者からのそれはは赤いので「アカモチ」と呼称する)を塗った縄を水面に張り巡らすことで水鳥を捕獲する(特に鴨猟)「流し黐猟」(但し、現在は鳥黐を用いた鳥猟は総て禁止)。ウィキの「流し黐猟によれば、『秋から冬、夜間、黐を塗り付けた縄を湖沼に流し、カモを捕獲する』。『長縄に黐を塗り付け、暗夜に湖沼や海面に流し、遊泳しているカモを捕獲する。各所で行なわれたが、千葉県で最も盛んであった。他に、京都、新潟、千葉、茨城、滋賀、岐阜、青森、福井、富山、島根、岡山、愛媛などで行なわれた。縄は、シュロ縄、藁縄、カヤツリグサ縄、フジ蔓、麻糸などで、これにキリ製の浮きを付ける。アシ、マコモの縄が最上とされた。千葉県では、秋分頃に刈り取ったアシを細く裂いて乾し、これを直径』三ミリメートル』『もどの縄にし』、一本の縄の長さは凡そ千五百メートル『とした。縄は小田巻という枠に巻き付けて』おき、『使用時には水中でも容易に鳥に付くように』(鳥黐は水に漬けると粘着性がなくなってしまう性質がある)、『これに種油を混ぜて煮た黐を塗り付ける』。『猟は小船で乗り出し』、一『人は棹を使い』、一『人は小田巻を扱い、水面に黐縄を放流しながら進む。千葉県手賀沼では、沼のほとりのアシのある所で鴨網を張り、同時に流し黐猟を行なった。水面の流し黐に驚いたカモの群れがアシ原に逃げてくると、鴨網にかかるから、再び水面に戻るというふうで、この』二『つの猟法を用いれば、多数のカモを捕獲することが出来たという。この猟法は、夜半に行ない、また燈火は用いず、静寂の中で行なわれた』とある。(下線太字はやぶちゃん)。以上は他にウィキの「鳥黐等も参考にした。

鳥を獲ること、夜每(よごと)に甚多く、ある夜、又、到りて、繩を引くに、宵より、鳥一ツも不ㇾ來(きたらず)、夜半にも、又、來たらず。

「一丈」三・〇三メートル。

「箕(み)」穀類を煽って篩(ふる)い、殻や塵(ごみ)を除く両手で支えるほどの大きさの農具。

「死す」仮死状態にあった。

(あたゝめ)」既出既注。温め。暖かくしてやり。「」は「冷えたものを温める」の意。

「一時(いちじ)」一時(いっとき)。約二時間。

「三年を不ㇾ待(またず)して卒(そつし)ぬ」先の焚」でもこの期間が示されてあった。或いは、新潟ではある種の妖異に遭った者はそうなるという広汎な民俗理解があったものかも知れない。]

2017/08/26

北越奇談 巻之四 怪談 其十一(山男その二)

 

    其十一

 

 高田大工又兵衞弟(おとゝ)某(それがし)、西山本に雇(やとは)れ、數日(すじつ)留(とま)りけるが、ある夜、急げる私用ありて、獨り、山路(やまぢ)を歸りしに、岨道(そはみち)の引囘(ひきまは)りたる所にて、不ㇾ慮(はからず)、大人(たいじん)に行逢(ゆきあふ)たり。其形、赤身(はだかみ)にして、長(たけ)八尺ばかり、髮、肩に垂れ、目の光(ひかり)、星のごとく、手に兎一ツを提(さげ)、靜かに步行來(あゆみきたる)。大工、驚(おどろき)て立止(たちとま)れば、かの大人も驚たるさまにて立止りしが、遂に物も言はず。路を横切(よこぎ)りて、山に登り、去りぬ、と云へり。

 是等も、かの山男なるべし。

 

[やぶちゃん注:山男の連投。

「現在の新潟県上越市の高田の西の上越市浦川原区に「山本」という地名を現認は出来る。(グーグル・マップ・データ)。高田へは直線で十一キロメートルほどあり、この地区自体は丘陵地にある。

「岨道」険しい山道。

「引囘(ひきまは)りたる所」大きくカーブして先が見えない箇所。

「八尺」二メートル四十二センチ。]

北越奇談 巻之四 怪談 其十(山男)

 

    其十

 

Yamaotoko

 

[やぶちゃん注:葛飾北斎の挿絵。右上に「山男 衆人に交て よく人語を解す」とある。今回も、見開きの絵を合成し、四方の枠を除去した。囲炉裏端の縁と板敷の目が合わないが、北斎独特の煙の曲線のみを整合させることを優先した。]

 

 妙髙山・黑姫山(くろひめざん)・燒山(やけやま)、皆、高山(かうざん)なり。それより、万山(ばんざん)相重(あいかさな)り、信州・戸隱・越中立山に至るまで、數(す)十里に連(つらな)り渡りて、その深遠(しんえん)、云ふべからず。髙田藩中、數千家(すせんか)の薪(たきゞ)、皆、此山中(さんちう)より伐出(きりいだ)すことなり。凡(およそ)、奉行より木挽・杣(そま)の輩(ともがら)に至るまで、各(おのおの)誓(ちかつ)て曰(いわく)、

「山小屋の在中、如何なる怪事ありとも、人に語るべからず。」

となり。

 一年(ひとゝせ)、升山(ますやま)某(それがし)、此(この)役に當たりて、數日(すじつ)、山小屋にありしが、夜々(よるよる)、人々、打寄(うちより)、火を焚くこと、不ㇾ絶(たへず)。これを圍(かこ)みて、炉にあたる。

 しかるに、山男(やまおとこ)と云ふもの、折節、來りて、焚火にあたり、一時(いちじ)ばかりにして、去(さる)。

 其(その)形、人倫に異なることなし。赤髮(せきはつ)、裸身(はだかのみ)、灰黑色(はいくろいろ)。長(たけ)八尺あまり。腰に草木(そうもく)の葉を着(つく)る。

 更に、物言(ものい)ふことなけれども、声を出(いだ)すこと、牛のごとし。又、よく、人の言語(ごんご)を聞(きゝ)別(わ)くる。相馴(あいなれ)て、知る人のごとし。

 一夕(いつせき)、升山氏(うじ)、是に謂(いひ)て曰(いはく)、

「汝(なんぢ)、木葉(このは)を纏(まと)ふは、其(その)恥(はづ)る所を、知る。火にあたるは、寒(さむさ)を恐(おそ)るゝ也。然(しから)ば、汝、夏冬となく、裸身(はだかみ)にして、寒暑、堪(たえ)たると云ふにもあらず。何ぞ、獸皮を獲(と)りて、暖身(あたゝか)に身を纏はざるや。」

と。

 山男、つくづく、是を聞(きゝ)て、去る。

 扨(さて)、翌夜(よくや)、忽(たちまち)、羚羊(しらしゝ)二疋を両(ふたつ)の手提(さ)げて來(きた)り、升山が前に置く。

 升山、其意(こゝろ)を悟り、短刀を拔き、その皮を取りて、山男に與ふ。

 山男、頻りに口を開き、打笑(うちわら)ひ、喜び、去(さる)。

 それより二夜(にや)過(すぎ)、又、小熊(こぐま)一、兎一を持來(もちきた)りて、是を小屋の中(うち)に投げ入(いれ)て去(さり)しが、已にして、又、來(きた)る。人々、是を見れば、先(さき)の皮、一枚は背を覆ひ、藤(ふぢ)を以つて繫(つな)ぎ合(あは)せ、一枚は腰を纏ふたれ共、生皮(なまかは)をそのまま着たる故、乾くに隨(したがつ)て縮み寄り、硬張(こはばり)たり。

 皆皆、打笑(うちわら)ひ、依ㇾ之(これによつて)、熊の皮を取り、十文字に刺す。竹を入れ、小屋の軒に下げて、その製(せい)し方(かた)を教へ、升山、又、是(これ)に山刀(やまがたな)【長一尺ばかり、白鞘(さや)なり。】一丁を與へて歸らしむ。

 其後(そののち)、數日(すじつ)、不ㇾ來(きたらず)と云へり。

 是を聞(きゝ)て按ずるに、凡(およそ)、山男・山女(やまおんな)と云へるは、鬼神(きしん)の術(じゆつ)あるがごとく言傳(いひつた)へたれど、全く左(さ)にはあらざるべし。卽(すなはち)、山中自然の人種にして、言語(げんぎよ)、習ふことなければ、言はず。服(ふく)、製することを知らざれば、裸なる者にして、只(たゞ)、夷地(いち)五十年前(ぜん)の風俗に同じく、愚(ぐ)の甚しき者なるべし。よく、是にも、人道のてだてを教(おしへ)ば、如何(いか)ならんと思ふのみ。

 文化甲子(きのえね)の夏、信州に遊び、虫倉山(むしくらやま)と言(いへ)る高山(こうざん)に登(のぼり)て、山女の住(すみ)たる洞(ほら)を見たり。凡(およそ)、三洞(さんどう)あり。古洞(こどう)は谷を隔(へだて)て古木(こぼく)林中(りんちう)にあり。山燕(やまつばめ)の巣、甚だ多し。今洞(こんどう)と云ヘるは、其上(そのうへ)、絶壁の中腹に在(あり)て、下より仰見(あふぎみ)ること、數(す)十丈、かの山女は見へざれども、洞(ほら)の口(くち)、草苔(くさこけ)の打ち生(はへ)るなく、甚だ奇麗(きれい)なり。如何にも住(すめ)る者、あるがごとし。雪中には、山の中(うち)、大なる足跡ありと云へり。

 

[やぶちゃん注:以上は以前に、「想山著聞奇集 卷の貮」の「𤢖(やまをとこ)が事」で電子化したものをブラシュ・アップし、注を新たに附した。上記リンク先も参照されたい。また、ブログ記事も本邦の山人(さんじん)・山男関連の記事をよく蒐集して纏めておられる。

「妙髙山」(めうこうさん)は現在の新潟県妙高市にある。標高二千四百五十四メートル。

「黑姫山(くろひめざん)」現在の長野県上水内(かみみのち)郡信濃町(まち)にある黒姫山(くろひめやま)。標高二千五十三メートル。妙高山頂上からは直線で南南東九キロ弱であるが、やや気になるのは、ここは高田藩領ではない点である。山入伐採権を持っていたものか? 高田藩は一時、幕府領となっていた時期があり、黒姫山は天領も多いから、その関係もあるのかも知れない。識者の御教授を乞うものである。

「燒山(やけやま)」新潟県糸魚川市大平焼山。妙高山の西北七・七キロメートル弱。この地図で三つの山を確認出来る(グーグル・マップ・データ)。

「髙田藩」福嶋藩(ふくしまはん)とも呼ばれ、藩庁は高田城(現在の新潟県上越市)にあった。

「木挽」伐り出された木を大鋸(おおが)で材木にする木挽き職人。

「杣(そま)」単に木を伐り出す木樵(きこ)りかと思ったが、野島出版脚注に『山に樹木を植え付けて生長させた山を杣山という。この杣山の木を伐る役目の人を杣といった』とある。

「升山(ますやま)某(それがし)」不詳。

「一時(いちじ)」一時(いつとき)で現在の二時間であろう。

ばかりにして、去(さる)。

「八尺」二メートル四十二センチ。

「羚羊(しらしゝ)」鯨偶蹄目反芻亜目 Pecora 下目ウシ科ヤギ亜科ヤギ族カモシカ属ニホンカモシカ Capricornis crispus のこと。

「文化甲子(きのえね)」文化元(一八〇四)年。

「虫倉山(むしくらやま)」現在の長野県長野市中条(なかじょう)御山里(みやまさ)にある虫倉山。ここ(グーグル・マップ・データ)。この中条地区には山姥伝説がある

「夷地(いち)」野島出版版は『いぞち』とあるが、原典画像では「ぞ」は痕跡も見えない。「蝦夷(えぞ)地」。]

北越奇談 巻之四 怪談 其九(生まれ変わり)

 

    其九

 

 關谷大島(せきたにおほしま)と云へる所の百姓某(それがし)、娘一人あり。養子聟(やうしむこ)を迎ひ、五年にして、娘、懷妊す。老親(ろうしん)・夫婦、甚だ喜び、勞(いたは)りけるに、其児(そのこ)、生(むまれ)て後(のち)、三日にして、死せり。老母いたく嘆き、その死(しゝ)たる児を抱(いだ)き上げ、

「汝、果報少(すくな)く、祖父祖母(ぢゝばゝ)の顏も見知らで、又、黄泉(くはうせん)に歸ることを。再び、生(むま)れかへりて來(きた)るべし。其印(そのしるし)、付(つけ)てやらん。」

とて、淚と共に、己(おのれ)が指三本に茶釜の下の炭(すみ)を付(つけ)、死たる児の腹を撫で、終(つゐ)に是を葬(ほうむり)ぬ。

 扨、一ととせあまりを歴(へ)て、娘、又、懷妊す。生(むま)るゝに及(およん)で、其児、即(すなはち)、腹の上に三ツ指の痕(あと)、黒くありて不ㇾ消(きえず)。十歳ばかりの頃までありしが、次第に消失(きえう)せぬ。不思義と云ふもあまりあり。

 然りと雖も、世上、中智の輩(ともがら)、必(かならず)、此説を聞(きい)て、万物(ばんもつ)の生死(せいし)、皆、如ㇾ此(かくのごとき)もの、とのみ思ふべからず。人智、各(おのおの)、差別あること、百人にして一人(ひとり)も同じきことを不ㇾ得(えず)。儒(じゆ)・仏(ぶつ)・神(しん)の道(みち)より、士農工商、今日(こんにち)世間の交(まじはり)に至るまで、何(いづ)れをか異(こと)なりとせん。今、仏を以(もつて)これを論ぜんに、煩悩即生死即涅槃(ぼんのうそくぼだいしやうしそくねはん)を見破(けんぱ)し、四大本(しだいほん)に皈(き)し、性(せい)、空(くう)に去(さつ)て苦樂ともに免(まぬ)かる。是を以(もつて)大悟と第一智となす。其下(そのしも)、數(す)十段にして不ㇾ可ㇾ盡(つくすべからず)。仏名(ぶつみよう)を稱し、別世界を願ふは、下愚(かぐ)の人に示方便にして、勧善懲悪の教(おしへ)、實(じつ)に治國平天下(ちこくへいてんか)の奇法となすべし。智にして愚を謗(そし)るは、明智(めいち)にあらず。只、此道(このみち)、上(かみ)は以(もつて)聖智なるべく、下(しも)は以(もつて)下愚なるべし。下をして必(かならず)、智ならしむべからず。上智はよく明らかなれども、得難く、中智は疑(うたがひ)、且(かつ)、侮(あなど)る。下愚は冥(くら)くして、よく信ず。故に是(これ)を云ふ。密(ひそか)に按ずるに、死後の性(せい)は今の性を曳(ひ)く所がありて、仏(ほとけ)とやならん、鳥獸(ていじゆう)とやならん、再び、此生(せい)を願ふ者、死して、又、其性の託(たく)する所を得て生(しやう)ずべし。仏(ほとけ)を念じ、別世界を願ふ者は、死後の性、かの西方十万億土外(がい)に至(いたつ)て、如何なる仏(ほとけ)となるやらん、予は是を知らず。かの十万億土外に尋ね當たることなくんば、又、其先、十万億土外に行行(ゆきゆ)かば、其性、遂に眞空に歸するなるべきか。今の僧俗、共に中智の輩(ともがら)、よく空(くう)を云へども、他(た)の空なることを知りて、其(その)己(おのれ)を空(くう)ずることを知らず。神(しん)の道を行ひども、六根淸淨(ろくこんせいじよう)ならしむること、不ㇾ能(あたはず)。聖教(せいきよう)を學んで行ふこと、不ㇾ能。仏(ぶつ)を信じて、其性を悟(さとる)事、不ㇾ能。煩惱、止(やむ)時なく、死に至る者、其性、凝塊(ぎくわい)して、不ㇾ散(さんぜず)。體(たい)なくして、苦愁(くしう)、隙(ひま)なきなり。是を地獄と云へ、生死(しようし)の間(あいだ)に託す。是を迷(まよひ)と云へ、喜怒愛樂[やぶちゃん注:ママ。]に心を不ㇾ滯(たいせず)。生死(しようし)二ツながら、念を斷(たつ)者、死して、其性、真空に皈す。是を大悟(だいご)の人と云ふ。凡(およそ)、後(のち)、生(せい)を願ふ者は、かの鍋炭(なべずみ)の説を喜ぶけれど、生は皆、迷(めい)にして、今の生、後の生を不ㇾ知(しらず)。是(これ)を以(もて)思へば、今、貧賤下愚(ひんせんかぐ)、即(すなはち)、死後、仮令(たと)へ、富貴上智(ふうきしやうち)の人に生(むま)るとも、今の我(われ)なることを知事(しること)なくんば、何ぞ、樂しとするに足らん。只今の生人(せいひと)の富貴上智を羨むがごとくなるべし。然(しから)ば、大悟(たいご)の人、生死(しやうし)を離れ、真空に皈することを得んには劣れるか。聖人の道も、仁義の性、正しく、孝貞忠臣の行ひ、不ㇾ違(たがはず)。今の生(せい)を守り得る時は、死もまた、安然として、迷ふ所なく、豈(あに)大悟の人に異(こと)ならんや。

 

[やぶちゃん注:これは生まれ変わりの奇談を枕とした崑崙独自独特の死生観である。但し、かなり、くだくだしく、部分的に意味をとりにくい箇所もある。さればここで、ここでの以下の注は、場合によっては私の勝手な解釈であることをお断りしておく。

「關谷大島(せきたにおほしま)」新潟市中央区の関屋を冠する地域のどこかか。この関屋分水路の右岸広域(グーグル・マップ・データ)。

「老親(ろうしん)」後で出る祖父母。

「夫婦」娘の父母。

「世上、中智の輩(ともがら)」巷間の中程度の「智」しか持たない連中。この発語からし「四大本(しだいほん)」仏教に於いては物質界は地・水・火・風の性質を本元とする元素、四大種によって構成されているとする。ここはそれに完全に還元されることを指す。

「其下(そのしも)」「性(せい)、空(くう)に去(さつ)て苦樂ともに免(まぬ)かる」ところの最上の「第一智」である「大悟」に至るまでの階梯。過程。

「數(す)十段にして不ㇾ可ㇾ盡(つくすべからず)」数十段の大きなレベルに分かれており(その一段階一段階がこれまた無数に区分けされていて)数え尽くすことは出来ない。

「故に是(これ)を云ふ」よく判らぬが、以下のようにとった。「仏名(ぶつみよう)を稱し、別世界を願ふは、下愚(かぐ)の人に示方便にして、勧善懲悪の教(おしへ)、實(じつ)に治國平天下(ちこくへいてんか)の奇法と」言うべきものであって、「智にして愚を謗(そし)るは、明智(めいち)にあらず。只、此道(このみち)、上(かみ)は以(もつて)聖智なるべく、下(しも)は以(もつて)下愚なるべし。下をして必(かならず)、智ならしむべからず。上智はよく明らかなれども、得難く、中智は疑(うたがひ)、且(かつ)、侮(あなど)る。下愚は冥(くら)くして、よく信ず」というのは、まさに「故」にこそ「これ」(「是」)が、その仏教に於ける凡愚の大衆に仏説を分かり易く説く際に用いられるところの、真実の教えに至る前段階として教化される側の能力に応じるように変形された教法としての真理ではない「方便」なのであり、儒教に於ける馬鹿にも判る「勧善懲悪」の辛気臭い教訓的理論であり、それは実に「大學」で語られてある「修身斉家(せいか)治國平天下」(天下を真にやすらかに治めるには、まず、各個人自身が自律的に行いを正しくし,次に家庭を円満に豊かにし、次にその中から生まれた優れた人格者である君子が、その家族の集合体としての国家を治め、そこで初めて天下を絶対の安静平和へと向かわせるという儒教の国家論のパラドキシャルな基本理念)という世にも稀な迂遠にしていたく巧妙なる政治的奇法である、と「言う」(「云ふ」)のであろう。

「死後の性(せい)は今の性を曳(ひ)く所がありて」人の死後の存在の属性は現在の個人としての人間の属性を残存させているところがあって。

「仏(ほとけ)を念じ、別世界を願ふ者は、死後の性、かの西方十万億土外(がい)に至(いたつ)て、如何なる仏(ほとけ)となるやらん、予は是を知らず。かの十万億土外に尋ね當たることなくんば、又、其先、十万億土外に行行(ゆきゆ)かば、其性、遂に眞空に歸するなるべきか。」野島出版版は下線太字で示した部分がすっぽり抜けてしまっている。恐らく、原典の三度繰り返される「十万億土外」の読み取りの際に、誤まって飛ばしてしまったものと思われる本文翻刻としては致命的なミスである。崑崙の仏教への実証主義的反論が面白い。言わずもがなであるが、極楽浄土は「西方十万億(佛國)土」の外にあることになっている。ある奇特な方の計算によれば、「一仏国土」(一人の仏が教化する面積単位)の広さは銀河系ぐらいで、その十万億倍は、約百六十億光年の先となるそうで、これは現代の宇宙物理学に於ける宇宙の直径と概ね一致するそうである

「今の僧俗、共に中智の輩(ともがら)、よく空(くう)を云へども、他の空なることを知りて、其(その)己(おのれ)を空(くう)ずることを知らず」現代の僧や俗人の中でも、中程度の智しか持っていない輩(やから)に限って、盛んにこの仏教の「空(くう)」の認識に大切さを口角泡を飛ばして述べ立てるけれども、他(ほか)の時空間に於ける「空」という存在の在り方(というよりも「非在」の在り方)を知っているくせに、それを偉そうに主張している自分自身の認識や存在を「空」に対峙させ、自身の心をば「空」にすると言う唯一の大事なことを全く知らない。これはなかなかに正鵠を射ている。こういう輩は今もゴマンといるではないか!

「神(しん)の道」神道(しんとう)。ここ以下は神道批判。

「六根淸淨(ろくこんせいじよう)」正しい発音と歴史的仮名遣は「ろくこんしやうじやう」。本来の「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」は仏教用語で、人間に具わった六根(眼根(視覚)・耳根(聴覚)・鼻根(嗅覚)・舌根(味覚)・身根(触覚)五感と、それに第六感たる意根(意識)を指す)を清らかにすることを指すから、どうにも場違いな謂いである。しかし、この修行(不浄な対象を見ない・聴かない・嗅がない・味わって迷わされて身の内に入れたりしない・触らない・感じないようにすることが求められる)のために、俗世との接触を絶つことが行なわれたが、神仏習合の江戸時代までは、非常に幅広い神仏に対する巡礼や古神道や山岳信仰・仏教(密教)のゴッタ煮の修験道などでは、この言葉が好んで用られたから、崑崙は、或いは「穢れ」を極度に忌避する神道の禁忌や神域結界などに対して、自分勝手にこの言葉を当て嵌めたのではないかと私には読める。このあたりを読むと、崑崙は少なくとも天皇を頂点とするような国家神道的なものはあまり信じていない感じがする。寧ろ、鬼神を強く信じていた辺り、アニマチズム的古神道信仰に近いようにも思われる。

「聖教(せいきよう)」「聖教」聖人の教え。孔子の教え。儒教。ここ以下は儒教批判。

「學んで行ふこと、不ㇾ能」「學んで」も現に「行ふこと」「能(あた)はず」。次も同じ。

「煩惱、止(やむ)時なく、死に至る者、其性、凝塊(ぎくわい)して、不ㇾ散(さんぜず)」「ぎくわい」の読みは原典のママ。凝り固まって。ここからが崑崙の独擅場。鬼神論である。

「體(たい)なくして、苦愁(くしう)、隙(ひま)なきなり」実体は存在しない(従って原則、目には見えない。前で凝り固まってしまって、しかも仏教で言うような四大素に還元されることもない。何でもいいが、崑崙のいう鬼神とは煩悩のような観念の実体物があるとして、それが徹底的に凝縮凝集して点のような存在になるというのだろうか?)状態で、しかしその苦しみや憂いはその時空間の中に隙間なくみっちりと詰っている。点でなければ、パラレル・ワールド、かの「餓鬼草紙」のようなものか?

「後(のち)、生(せい)を願ふ者」輪廻転生。

今、貧賤下愚(ひんせんかぐ)」最初の謂いと合わないし、致命的な論理矛盾をきたすから、見え見えの謙辞である。

「生人(せいひと)」現に生きているこの世界の人々。国名の後を「ひと」と読む漢文調の読みを洒落たものか。

「今の生(せい)を守り得る時は、死もまた、安然として、迷ふ所なく、豈(あに)大悟の人に異(こと)ならんや」この崑崙の言葉は実に清々しい。有象無象の宗教家の話より、百倍、身に沁みた。]

北越奇談 巻之四 怪談 其八(崑崙の実体験怪談)

 

    其八

 

 世に幽㚑の怪談、甚だ多しと雖も、諸國・古今(こゝん)、皆、相類(あいるい)するの話のみにして、いまだ真(しん)とすべきの説を撰(ゑら)ばず。

 壯年の頃、池端(ちたん)に居(きよ)ありし時、田間(でんかん)十余町を隔(へだて)て圓福寺(えんふくじ)といへる禪院あり。

 五月半(なかば)の頃ならん、終日、爰(こゝ)に遊び、夜(よ)いたく更けて歸り來(きた)るに、連日の梅雨(ばいう)、小川の水、增(ま)さり、橋、已に落(おち)て、如何ともすべきやうなし。依(よつ)て、寺の後(うしろ)に戾り、橋と成して渡るべき物やあるや、と尋(たづぬ)るに、杉の森深く、古墳累々と、只、數十(すじう)の卒都婆(そとば)あるのみ。其中(そのうち)、大なる卒都婆に對して独言(ひとりごと)して曰(いわく)、

「亡者(ぼうじや)、我、今、此卒都婆を借り、橋と成し、渡らんとす。明日(めいじつ)、必ず、洗い淸めて、返すべきぞ。」

と、云終(いへおはり)て、遂に其卒都婆を拔き持ちて、先(さき)の小川に至り、是を打渡(うちわた)して、家に歸りぬ。

 扨、明くる日、乙地松原(おとちまつばら)と云へる本道より、かの寺に至り、終日、又、遊び暮らして、遂に卒都婆を返すことを忘れ居(い)たり。

 さて、水も引きたれば、其夜、人、靜まり、獨(ひとり)、かの裏道より歸り、小川のもとに至りたれば、忽(たちまち)、其卒都婆を見て、亡者に約せしことを思ひ出し、終(つい)に卒都婆を水に洗ひ淸め、是をかたげて、寺の後(うしろ)、杉林の中(うち)、墓所に至る時、提灯(てうちん)、已に消へて、咫尺(しせき)もあやなき暗夜(あんや)なれば、何處(いづく)を元の墓所とも辨(わきま)へがたく、だんだん、手探りに石碑(せきとう)・地藏の頭(あたま)なんど、撫囘(なでまは)し撫囘し、かの卒都婆の拔けたる跡を探し求(もとむ)れど、數百(すひやく)立並(たちなら)びたる墳墓なれば、更に其所(そのところ)に尋ね當たらず。已に時移り、心、倦(うみ)て、忙然(ぼうぜん)と立居(たちゐ)しが、獨り言に戲(たはむ)て曰(いわく)、

「亡者、卒塔婆を返す。受取給へ。」

と、其言葉、いまだ終はらざるに、其間(そのあいだ)、六尺あまりも先ならん、墓のうちより、陰火(ゐんくは)、忽然と燃上(もえあが)りて、卒塔婆を拔きたる跡、明かに見へ渡りぬ。

 驚き、かの卒塔婆を元のごとく立(たて)、合掌一拜すれば、陰火、消え失せて、又、うば玉の暗(やみ)とはなりけり。

 誠に無鬼論の説はあれども、遊魂の怪、如ㇾ此(かくのごとし)。

 

[やぶちゃん注:驚天動地! 筆者橘崑崙茂世自身の真正の怪異体験談である!

「池端(ちたん)に居(きよ)ありし時、田間(でんかん)十余町を隔(へだて)て圓福寺(えんふくじ)といへる禪院あり」遂に壮年期の彼の、池の端にあった家を地域限定出来る記載に辿り着いた。この寺は現在の新潟県長岡市寺泊上荒町一六一三に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)である。十三町は千四百十八メートルであるから、概ねこの寺の半径千五百メートル圏内に崑崙の寓居はあったと考えてよかろうこの寺は寺泊港の直近であるから、西北方向は海である。ここから一・五キロメートルの半円を描くと、東北方向は「寺泊磯町」、真東は地図上の「寺泊名子山」の地名の字の頭の位置、南西方向は「金山海水浴場」と「寺泊長峯」及び「寺泊金山」を頂点とした三角形の中央附近となる。この圏内には池塘と思しいものが地図上で現認出来るものだけでも十五以上存在する(なお、画面を航空写真に切り替えて現在の円福寺を拡大してみると(これ)、まさに寺の真後ろ(東北)が墓地となっていることが判る)。さて以上の条件に加えて、

①この寺から崑崙の池端の家に帰る際には、格好の近道があり、そのルートには卒塔婆を渡して渡れるぐらいの小川がある。

②近道をしないならば、その小川を通らずに(或いはその小川にしっかりした橋が架かっているのを渡って)円福寺に行ける行き来する「本道」ルートが存在する。

③その近道をしない「本道」ルートは当時、「乙地松原(おとちまつばら)」と呼ばれていた。

という事実を重ねれば、崑崙の住まいは限定出来る、と思ったのだが、そうは問屋(といや)は卸さなかった。まず、①がよく判らぬ。国土地理院の地図を見ると、円福寺の墓の北近くには川があることが判る(ここ)が、これと限定は出来ない。後で述べる寺泊松沢町で国道に合流する県道二二号の合流点の少し手前(円福寺方向)にも小川があるからである(ここ)。②・③の「乙地松原(おとちまつばら)」という「本道」ルートが、これまた分らぬ。現在の海岸線を走る北陸道(国道四〇二号)か、それに並行して内陸を走る街路がまず「松原」という名称から想起されるのであるが、寺泊松沢町で国道に合流する県道二二号も排除し難いからである。但し、これらを並べて考えてみると、崑崙の寓居は円福寺の東の県道二二号方向ではないのではないかという推理は出来る。何故なら、このルートでは現行の地図を見る限りでは、本道も近道なるものも、円福寺に向かっては、まず、距離に有意な差を認め得ないからである。そうして、改めて池を考えてみる。すると、俄然、南西方向よりも北東方向に目が行く。私は彼が近道としているのは、円福寺の裏手の東側の峰の下を東へ回り込むルートではないかと推理した。そうして崑崙の家は現在の寺泊上田町の東の内陸にある池(グーグル・マップ・データでは大きな二つと小さな一つの計三つがある。ここの近くではないか? という候補を立てたいのである。実はここは崑崙が本書でしばしば言及して来た旧「円上寺潟」の南西の比較的近くにも当たるからでもある。更に言い添えておくと、試みに実測してみると、この三つの池へ北陸道辺りを北上して東に折れるとなると二キロメートル強、私の考える近道を通ると、一・五キロメートルほどで着けそうだ。たいした近道ではないにしても、夜の夜中にはなるべく早く帰りたいことを考えれば、五百メートルは立派な「近道」である。大方の御叱正を俟つ。なお、この寺について、野島出版脚注には、『一寺泊に在り。医王山と号す。往昔天宗にて、今は曹洞宗なり。佐藤荘司が妻其の子兄弟の別を悲しみ、此の寺に來り、二子の石塔を立つ。老尼及兄弟の牌あり。老尼の戒名、宝鏡院玉泉栄妙照。嗣信の戒名、忠叟道信。元暦元年甲辰三月十一日。忠信の戒名、正応常信。文治二年丙午二月六日(越後野志)』とある【2017年8月31日追記】が、これは誤認である後述する新潟県新発田市下中ノ目の曹洞宗円福寺が正しい)。因みに、この「佐藤荘司」は佐藤基治(永久元(一一一三)年?/永久三(一一一五)年?~文治五(一一八九)年?)のこと。奥州信夫郡(現在の福島県福島市飯坂地区)に勢力を持った武将で、源義経の従者として凄絶な死を遂げた佐藤継信(屋島の戦いで戦死)・忠信(潜伏していた京の中御門東洞院で自害。「狐忠信」のモデルとして知られる)兄弟の父。ウィキの「佐藤基治」によれば、『歴史学者の角田文衛によると、当時としては珍しい佐藤一族の義経に対する熾烈とも見える忠節は、君臣の関係だけでは説明がつきにくく、義経が平泉時代に迎えた妻は、佐藤基治の娘であったのではないかとする説を唱えている』。新潟県公式観光情報サイト「にいがた観光ナビ」の同寺の解説には、曹洞宗で延長六(九二八)年『開創、開基は観辨。境内には、源義経に伴い』、『平家討伐に従軍したわが子を慕って寺泊まで訪れてきた音羽の御前が、わが子の冥福を祈るため建てられた石塔』二『基がある。この時、埋葬した鏡、数珠、懐剣、外器は、町文化財に指定されており、同寺が所蔵している』。この「音羽の御前」は「乙和子姫」で、基治の継室(奥州藤原氏初代当主藤原清衡の四男で第二代当主藤原基衡の弟である藤原清綱の娘とされる)で継信・忠信兄弟の実母。【2017年8月31日追記】前の「巻之一 鬪龍」の「池端」の注追記で示した通り、H・T氏の考証により、私の位置認識が全く以って誤っており、これは新潟県新発田(しばた)市池ノ端(いけのはた)ここ(グーグル・マップ・データ))であることが判明した。H・T氏はさらにここでの私の見当違いについて、この「圓福寺(えんふくじ)」は寺泊のそれではなく、新潟県新発田市下中ノ目にある曹洞宗円福寺(ここ(グーグル・マップ・データ))であり、ここは、かの池之端陣屋のある池端から南西方向に一キロメートル程度である旨を御教授戴いた。

 そこで改めて、ここの地図上で①②③を検証してみることにした。まず、③の「本道」ルートが当時は「乙地松原(おとちまつばら)」と呼ばれていた事実に基づき、地図を調べてみると、俄然、目が止まった。

円福寺を実測八百メートルほど南に下ると、現在の国道四六〇号にぶつかるが、その交差点の名は「乙次」である。この交差点の南西を除く一帯は現在の新潟県新発田市乙次(おとじ)である。「乙地(おとち)」と似ている。

ここは現在の新潟県新発田市と同県柏崎市とを結ぶ道で、羽越本線とも並走しているから、当時のしっかりした地方街道と見て問題はなく、とすれば「松原」という名もしっくりくる

さて、池端のどこに崑崙の寓居があったかは定かでないが、仮に池之端陣屋があったと思われるこの中央附近(ヤフー地図)をそこに仮定するならば、現在の国道四六〇号の「池ノ端交差点」を経て円福寺に行くとなると、東南に下った後、現在の「池ノ端交差点」付近から大きく南西に下って、そこからさらに大きく北上せねばならない。その距離は凡そ三キロメートル弱にもなる。

しかし、円福寺から東北にそのまま直進すると、地図上では、この附近までは約一キロメートルである。この陣屋に崑崙の住居があったとするなら、当然、この近道を使いたくなるはずで、これは①に合致する。崑崙は寓居と円福寺の距離を「十余町」としている訳だが、これを「十町ほど」の意味でとるなら、一キロ九十メートルほどとなり、やはり一致するとも言える。しかもこの近道は現在の航空写真を見ても、まさに「田間」なのである(これ(グーグル・マップ・データ))。なお、現在の円福寺は裏手と横(東)に墓地がある(但し、裏手のそれは山を切り崩して新墓地として造成したようにも見えるが、或いは旧方丈の位置は異なっていて、現在の横手が裏であったのかも知れない)。

但し、その間には現行でも二本の小さな川が存在する(街道にも二本の川(一本は同じで、今一本はその二本の川の一つが合流した、より大きなもの)のがあるが、この二箇所は街道なら橋があったと想定してよいであろうから、②に合致すると言える)。

 以上、情報をお寄せ下さったH・T氏に改めて謝意を表するものである。]

北越奇談 巻之四 怪談 其七(舟幽霊)

 

    其七

 

Hunayuurei

 

[やぶちゃん注:葛飾北斎の舟幽霊(ふなゆうれい)の挿絵。右上に白抜きで、「船頭孫助 洋中にたゞよひて 幽霊舩を見る」とキャプションがつく(原画はもっとはっきり見え、引用元の野島出版版でもよく抜けているのであるが、これを画像ソフトでよく見えるようにすると、全体の白のエッジが荒くなるのでやめた)。この絵は原典では(リンク先は例の早稲田大学の画像)見開きで左右二枚なのであるが、この絵は私の大のお気に入りの一枚で、なんとか合成を試みてみた。但し、私のちゃちなソフトは斜度を微妙に調整することが出来ず、右画像の傾きをどうしても補正しきれなかったため、絵自体を切り取ることなく、不自然な部分を隠すために、一部の箇所を黒で塗り潰したり、白で抹消してある。御寛恕願いたい。原画を見て戴くと判るが、北斎のダイナミックな筆致は私の合成の方が遙かに伝わってくると思う。]

 

 海上(かいしよう)の奇は、はかり難し。その中(うち)、幽㚑舟(ゆうれいぶね)と云へる事、常に人の物語る所なれども、去(さる)宝暦(ほうりやく)の秋、五ケ濱、船頭孫助と云へる者、水主(かこ)共に七人乗(のり)、順風に帆を張りて、松前を出(いで)、三日と云へるに、佐州の沖、越後新泻を巽(たつみ)の方(かた)に見なしたる頃、俄(にはか)に、逆風、落(おち)來たり、裏帆(うらぼ)、引絞(ひきしぼ)りて、舩(ふね)、已に、覆(くつがへ)らんとす。舟子(ふなこ)、慌(あは)て、立騷(たちさは)ぎ、

「荷物を打(うて)。帆柱、伐(き)らばや。」

なんど、狼狽𢌞(うろたへまは)るに、ほどなく、怒浪(どらう)、山のごとく、打重(うちかさ)なりて、頂(いたゞき)の上に崩れかゝり、忽(たちまち)、艫(とも)、裂け、舳(へ)、碎けて、六人の者共(ものども)、海底の魚腹(ぎよふく)に葬らるゝこととは、なりぬ。

 しかるに、船頭孫助一人、波上(はしよう)に浮出(うかみいで)たる折節、舟の破(やぶ)れ裂けたる板一枚、長(たけ)二尺ばかりなるが、手に觸(さは)りたり。孫助、嬉しく、浮木(うきゞ)の亀(かめ)と、これに取附(とりつ)き、一息つきて、

「助け舟やある。」

と見圍(みまはせ)ども、日は巳に暮果てたり。

 風雨、目口を開き難く、鯨浪(おほなみ)、千尋(ちひろ)の底より湧き返りて、咫尺(しせき)も分かたぬ暗夜(あんや)成(なれ)ば、何(いづ)れを佐州、何れを越後の方(かた)とも知らざれば、志(こゝろざ)して泳ぎ寄るべき便(たよ)りもなし。然れども、

「もしや、命(いのち)の助かることもや。」

と、心中に金毘羅宮を念じ、伊夜日子(いやひこ)に立願(りうぐはん)して、只、一片の薄板(うすいた)を力に、何處(いづ)くともなく漂居(たゞよへゐ)しが、大波、頻りに打ち疊(たゝ)みて、水底(みなそこ)に沈むと思へば、又、浮(うか)み、心も共に、消へ果てぬべく見へし折りしも、忽(たちまち)、沖の方(かた)より、大勢の立騷(たちさは)ぐ音して、手(て)ん手(で)に、

「……柱……伐れ……荷を……打て……楫(かぢ)……直(なほ)せ……」

なんど、呼(よば)はり呼はり、其船、已に程近く來たりたれば、孫助、嬉しく、

「何卒(なにとぞ)して、此舟に助け乘せ給らばや。」

と、波間より、顏、差し出だして、これを見れば、其舟、既に、半(なかば)、裂け碎けたるがごとく、十人ばかりの舟子(ふなこ)、左右に立騷(たちさは)ぐ有樣(ありさま)、さらに生(いけ)る人とも、覺へず。

 面(おもて)、靑褪(あをざ)め、瘦衰(やせおとろ)へたる姿、文目(あやめ)も知らぬ闇なれども、影のごとく、仄(ほの)見へて、右の方(かた)を漕(こぎ)通り、瞬(またゝき)の間(ま)に、數十丁(すじつてう)、行過(ゆきす)ぎたりしが、忽、一同に、

「……ッ……」

泣叫(なきさけ)ぶ声して、其舟、ぐはらぐはら、と、打碎(うちくだ)け、書消(かきけす)ごとく、形(なり)失せて、荒波、どうどうと、鳴渡(なりわた)る声のみなり。

「扨は、幽㚑のものなるべし。」

とて、心に佛神を念じ、漂(たゞよ)へ居(ゐ)るうちに、又、初めのごとく、立騷ぐ音して、声々(こへごへ)に呼はり呼はり、其舟の碎けたる所に至りては、忽、泣叫びて消失(きへう)せぬ。如ㇾ此(かくのごとく)なること、幾度(いくたび)と云ふことを知らず。

 見るに、魂(たましゐ)、飛び、心、消ゆるがごとし。

 已にして夜も明渡(あけわた)れば、雨風、少し止みたれども、助かるべき舟も、あらず。

 何(いづ)れを目當(めあて)の山本(やまもと)とも、更に見へ分(わ)くことなければ、次(しだい)に波に揉まれ、潮に引かれて、淼渺(びやうびやう)たる蒼海(さうかい)に漂へ居(ゐ)ること、二日二夜(よ)なり。

 漸々(やうやう)、波風、鎭(しづ)まり、空、少し晴(はれ)たれども、身力(しんりよく)疲れ、目も眩(くら)みて、何(いづ)く共、浦・山を辨(わきま)へ難く、又、餓渴(うへかは)きたれども、口に味(あぢは)ふべき物もなく、已に命も絶入(たへいり)ぬべき所に、何(なに)とも知らぬ藁苞(わらづと)一ツ、波に搖れて流れ來(きた)れり。

 孫助、漸々(やうやう)に是を取り、開きて見るに、赤き蕃椒(とうがらし)二蔓(つる)あり。即(すなはち)、是を食するに、さらに辛(からき)とも覺へず。腹の空(すき)たるまゝに十ばかりを食しければ、忽、餓(うへ)を凌(しの)ぎ、心力(しんりよく)、爽(さは)やかなることを覺へて、其餘(そのあまり)を首に掛け、餓へる時は、一ツ二ツを食し、遂に三日に及びける。

 朝(あさ)、佐州の方(かた)より、船一艘、帆を張りて來(きた)れるあり。あまりに嬉しく、舟の向(むか)ふ方(かた)を心掛(か)けて、身力を盡して游(およげ)ども、渺(びやう)たる海上、只、一ツ所に居(ゐ)るがごとし。

 漸く、船近くなるほどに、頻りに声を立(たつ)れども、音、嗄(か)れて、不出(いでず)。

「如何(いかゞ)はせん。」

と、悶(もだ)へ苦しみたりしが、忽、一計を思ひ出(いだ)し、かの藁苞を手に差し上げて、舟の方(かた)を招きければ、かの舟の親父、是を見付(みつけ)、

「何樣(なにさま)、人のわざならん。」

と帆を下げ、櫓を押して漕ぎ來り、竟(つゐ)に孫助を引上(ひきあ)げ、樣々(さまざま)に介抱し、身を(あたゝめ)、粥(かゆ)など勸(すゝ)め、勞(いたは)りければ、漸(やうや)く、言語(げんぎよ)分かり、始(はじめ)よりの艱難(かんなん)を物語るに、舟の者ども、大に驚き、

「まことに命(いのち)強き人かな。」

とて、終(つゐ)に、是を送りて新泻に到りぬ。

 寛政丑(うし)の春、かの地に至りて、數日(すじつ)、逗留せしに、ある日、七十ばかりの老人來りて相見(あいまみ)ゆ。宿の主(あるじ)、此老人を指(ゆび)さして、

「此翁こそ、かの命強(いのちづよ)き人なり。」

とて笑ひぬ。其實(じつ)を問(とふ)に、かの老人の曰(いはく)、

「咄(はな)し候は、いと安く侍れども、其艱難を話す每(ごと)に、身の毛、よだち候。まゝ、身(み)の毒と存じ、其後(そのゝち)は不語(かたらず)。」

と云へり。

 今(このとし)、已に七十三歳とぞ。

 誠に命(めい)は天にあるものか。

 

[やぶちゃん注:舟幽霊の台詞を生者と区別するため、鍵括弧内に「……」を挿入して示した。

「宝暦(ほうりやく)」一七五一年から一七六四年。本書の刊行は文化九(一八一二)年春であるから、そこからなら、四十八年前から六十一年前であるが、最後で、崑崙はこの主人公孫助に直接会ったのを「寛政丑(うし)の春」としており、これは寛政五年癸丑(みずのとうし)であるから、一七九三年で、そこからだと、二十九年前から四十二年前となる。また、その時、孫助は数え「七十三歳」であったとあるから、この孫助は享保六(一七二一)年生まれであることが分かり、事件当時は満で、三十歳から四十三歳の間であったことになる。

「五ケ濱」現在の新潟県新潟市西蒲区大字五ケ浜(ごかはま)。ここ(グーグル・マップ・データ)。佐渡島を望む陸の孤島とも称された地で、かつては漁業や入浜式塩田で栄えたらしい。後に北海道(後注参照)への移住者いることが、個人ブログ「ペタンク爺さん」のこちらで判り、そこに地名について、日蓮の佐渡流罪の際、『彼を護送して佐渡に渡った中に、遠藤左衛門尉藤原正遠』がおり、その子孫は十一代まで佐渡に在住し、十二代の『遠藤冶部左衛門定通の時に五ヶ浜に移住して、代々庄屋を勤め』たとする。移住当時、この地には五ヶ所に村があって、それらの総家数は六十軒ほどであったが、この定通が、その五ヶ村を一村に纏めて、『「五ヶ村」と名づけて村方取立てを申し出たものと伝えられて』い』るとある。この「命強き」「孫助」も「遠藤」姓だったら面白い。

「船頭」ここは、和船で船に乗り組み、指揮をとる船長(ふなおさ)のこと。

「水主(かこ)」下級船員のこと。後の「船子」も同じ。

「松前」北海道渡島(おしま)半島南端にある町。十五世紀半ばに武田信広が、この地を平定して第五代慶広が福山城を築いて、松前氏を称して城下町とした。江戸時代は蝦夷(えぞ)地経営の中心地となった。

「佐州」佐渡国。佐渡島。

「巽(たつみ)」東南。この時の孫助の舟の位置はここ(グーグル・マップ・データ)の中央付近と思われる。

「俄(にはか)に逆風落(おち)來たり、裏帆(うらぼ)、引絞(ひきしぼ)りて、舩(ふね)、已に、覆(くつがへ)らんとす」野島出版版は「來たり」で句点とするが、ここは急に落ち来たった強烈な逆風(この場合は南西の風と読める)が、帆を裏側にしてすっかり引き絞ってしまって(巻き上がってしまって)、帆走不能となり、バランスを崩して船が沈みかけたというのであるから、ここは読点とすべきである。なお、この船は西廻廻船で、船の種類は所謂、「弁才船(べぜざいせん)」である。これは和船の一つで、江戸時代の海運の隆盛に対応して全国的に活躍し、俗に「千石船」とも呼ばれた典型的な和船である。船首の形状や垣立(かきたつ:和船の左右の舟べりに垣根のように立てた囲い。かきたて)に特徴があり、一本の帆柱に横帆一枚をつけるだけながら、帆走性能や経済性に優れた。菱垣(ひがき)廻船・樽(たる)廻船・北前船なども、総て、この形式を用いた。

「荷物を打(うて)」「荷物を海に投げ捨てよ!」。バランスを崩した上に、船内の荷が一方に片寄れば、転覆を早めるからである。

「帆柱、伐(き)らばや」船主である孫助に水主(たちが)「帆柱を伐っておくんなせえ!」と懇願しているのである。山田淳一氏の論文「弁才船の漂流――なぜ帆柱を切ったのか――」(PDF)によれば、弁才船は帆柱の横揺れによって致命的に破損する構造であったからであるとある。この論文、実に素晴らしい(特に冒頭の部分の、何故、帆柱を伐ったかについての他の諸説もそれぞれに納得が出来た。特に、伐らないと、荷を故意に捨てたと疑われた、というのは意外な事実可能性の一つであった)必見にして必読!

「浮木(うきゞ)の亀(かめ)」「盲亀(まうき(もうき))の浮木(ふぼく)」と同じい。大海中に住んでいて百年に一度だけ水面に浮かび出てくるという目の見えない亀が、たまたまそこに浮き漂っていた流木に遭遇し、しかもそこに開いた小さな穴からたまたま頭を出す、という「涅槃経」にある「人として生まれて真の仏説に出会うことが非常に稀れなことあること」の譬え話に基づき、「滅多に会えないこと」を言う。

「咫尺(しせき)も分かたぬ」「咫尺」は「史記」の「蘇秦傳」に拠る語で(「セキ」は漢音)、「咫」は周尺の八寸(十八センチメートル)、「尺」は一尺(二十二・五センチメートル)であって、相対距離が非常に短いこと、対象との距離が極めて近いことであるから、眼と鼻の先にな何かあっても全く見えない、判らないの意。

「金毘羅宮」香川県仲多度郡琴平町にある金刀比羅宮(ことひらぐう)。当時は真言宗象頭山松尾寺金光院で「象頭山金毘羅大権現」と呼ばれたが、悪名高き明治の廃仏毀釈によって現在の神社となった。古くから海上交通の守り神として全国的に信仰されており、今も漁業や船員などの海事関係者の崇敬を集めている

「伊夜日子(いやひこ)」多数回既出既注の新潟県西蒲原郡弥彦(やひこ)村弥彦にある彌彦(いやひこ)神社。祭神の天香山命(あめのかごやまのみこと)は社伝によれば、越後国開拓の詔によって越後国の野積の浜(現在の長岡市)に上陸して地元民に漁撈・製塩・稲作・養蚕などの産業を教えたとされる。このため、越後国を造った国造りの神として弥彦山に祀られ、「伊夜比古神」として崇敬された。「越後国一の宮」とも呼ばれる。神社の後背地である弥彦山(やひこやま)は標高六百三十四メートルであるが、海岸線に近く、漁師の海上での目安ともなるランドマークでもある。

「數十丁(すじつてう)」十町は約千九十一メートル。私は不定数を示す「数」は必ず六掛けを基本としているので、遠過ぎる。ここはせめて「十數町」とすべきところである。

「淼渺(びやうびやう)」既出既注。水が広く限りのないさま。

(あたゝめ)」温め。暖かくしてやり。野島出版脚注では、『アテ字であろう』としているが、この字は正しく「冷えたものを温める」の意である。

「言語(げんぎよ)」読みは原典のママ。]

2017/08/25

北越奇談 巻之四 怪談 其六(夜釜焚)

 

    其六

 

 夜釜焚(よがまたき)と云へること、小児(しように)の御伽話とのみ心得たるに、近來(きんらい)、猶、此怪あり。頸城郡高津村塩坪(しほつぼ)、某(それがし)が家來、夏の夜、遠く遊びて、子(ね)の時過ぐる頃、獨り歸り來(きた)るに、村の端(はし)四ツ辻の邊(ほと)りに、靑き火、忽(たちまち)、燃へて、又、消ゆる。如ㇾ此(かくのごとく)なること、數度(すど)。彼(かの)男、思ひらく、

「朋友、未(いま)だ凉み居(ゐ)るならん。」

と。却(かへつ)て、是を戲(たはむ)れ驚(おどろか)さんがために、拔き足して、密(ひそか)に窺(うかゞ)ひ見れば、隣家某(それがし)の二男(じなん)なり。

 両の脚を組み、手を以(もつて)膝を抱(かゝ)へて、俯(うつふ)き、地上に坐(ざ)し、その両足の間より、とろとろと、靑き火、燃出(もえいづ)ること、一尺ばかり。面色(めんしよく)、甚だ靑ざめ、皮肉、瘦せ衰へたり。

 かの男、あまりに驚き、

ッ。」

声を出(いだ)せば、化物、顏を擧げ、彼(かの)男を見て、莞爾(につこと)笑ひ、忽(たちまち)、消え失せて、見へず。

 かの男、慌(あは)て、走り歸りて臥しぬ。

 扨、翌朝(よくてう)、未だ漸々(やうやう)明白(あけしら)みたる頃、主人、是(これ)に命じて、馬(むま)の草を苅(から)しむ。

 かの男、起出(おきいで)て、鎌など携へ、山岨(やまそは)の草野に至り見れば、細川(ほそがは)を隔(へだ)て、早く來り、草を苅る者あり。

 彼(かの)男、細川を一飛(ひととび)にして、

「誰(たれ)ぞ。」

と聲をかく。

 其人、後(あと)へ振り向きたる顏を見れば、昨夜の辻に火を焚(たき)たる男なり。

 あまりに打驚(うちおどろ)きて、ものも云はず立(たち)たれば、其者の云へるは、

「必(かならず)、昨夜のこと、人に談(かた)りてたもるな。」

と。

 此(この)一言(いちごん)に、再び、心、驚きて、逃げ歸りけるが、それより、病(やまひ)に臥し、不ㇾ起(たゝざる)こと、十日餘り、遂に其村に居(お)ること、不ㇾ能(あたはず)、主人に暇(いとま)を乞ふて、己(おのれ)が里に歸りぬ。

 同(おなじく)、大光寺村(たいくはうじむら)、鍛冶(かぢ)、某(それがし)の母、近來(きんらい)、此怪、ある事、まゝ見當たりたる人、夛(おほ)し。

 凡(およそ)、此怪ある人は、三年ならずして、必(かならず)、神氣(しんき)衰(おとろ)へて、死す。

 總て、此邊(このへん)、南山(なんざん)に續き、畑(はた)の土に交(まじは)り、石鏃(やのねいし)・雷斧(らいふ)。石鐱(せきけん)等(とう)を出(いだ)すこと、夛し。去年の去年(こぞ)の春、此地に到り、見るに、昔、兵火(ひやうくは)のために燒(やか)れたる戰塲(せんじやう)と覺へて、燒石(やけいし)・瓦・土器物(どきぶつ)など多し。然(しか)れば、是を按ずるに、此怪も「傳尸勞(でんしろう)」の類(たぐひ)にして、苦愁(くしう)の㚑鬼(れいき)、緣(えん)に乗(じよう)じ、人に付(つい)て、此(この)怪崇(くはいそう)を成すか。不思義なりし一奇なり。

 

[やぶちゃん注:「夜釜焚(よがまたき)」新潟県で伝承される妖怪とされ、夜道に胡坐(あぐら)をかいて座っている化け物で、その組んだ足の間から青白い火が立ち上るとされる、と「大辞泉」にはあるのだが、「日本国語大辞典」には載らないし、私の所持する複数の妖怪関連の学術的民俗学書にも出ない。不思議。この事実自体が、奇怪だ!

「頸城郡高津村塩坪(しほつぼ)」不詳。新潟県上越市高津附近か?(グーグル・マップ・データ)。

「子(ね)の時」午前零時。

「山岨(やまそは)」現代仮名遣「やまそわ」。山の険しい所。切り立った崖。

「大光寺村(たいくはうじむら)」「巻之二 俗説十有七奇 (パート1 其一「神樂嶽の神樂」 其二「箭ノ根石」(Ⅰ))」で既出既注。旧中頸城郡内。現在位置不詳。識者の御教授を乞う。但し、一つ言えることは、後で実地調査をした崑崙が、「此邊(このへん)、南山(なんざん)に續き」(この「南山」は越後の南の山地・山脈の意であって固有名詞ではあるまい)とあることで、この「此邊」とは主な話柄の舞台である頸城郡高津村塩坪と、この大光寺村が近いことを意味していると考えられることである。推定比定した高津の南東は山岳地帯であるからである。

「鍛冶(かぢ)、某(それがし)の母、近來(きんらい)、此怪、ある事、まゝ見當たりたる人、夛(おほ)し」「凡(およそ)、此怪ある人は、三年ならずして、必(かならず)、神氣(しんき)衰(おとろ)へて、死す」前の部分はその妖怪を鍛冶屋の母なる人がやはり目撃したという謂いとしか読めないのであるが、問題は後の部分で、これはその「夜釜焚」を見た人ではなく、それになった人物(本話では隣家の次男)が三年経たぬうちに死ぬ、という意味にしか採れない見た人がそうなってしまうというのなら、かの家来なる男は郷里に帰って三年の内に死んだと記さねばならぬのに、それがなく、大光寺の刀自も死んだとは書いてない。二人とも見たのがこの記載よりも三年未満の前だからだなどと屁理屈を言うなら、これはこいつらも近いうちに死んじまう、というとんでもない不謹慎な怪談になってしまう。崑崙がそんなことを書くはずはない。隣家の次男は実際に三年絶たずして死んだのだろうが、それは過去の事実としてであるのならば、許せるのである。私は昨今の都市伝説の中の「この話を聴いた人間はその霊に遭う」とか「見聞きするだけでとり殺される」的話柄や、心霊写真や動画に於ける「非常に霊障」などという謂いを苦々しく思っている人種である。読んだら、見たら、聴いたら、死ぬかもしれないと恐れさせる怪談は下劣の極みであると断ずる。怪談にも最低の節操が必要であると私は思うのである。

「石鏃(やのねいし)・雷斧(らいふ)。石鐱(せきけん)等(とう)」先に示した「巻之二 俗説十有七奇 (パート1 其一「神樂嶽の神樂」 其二「箭ノ根石」(Ⅰ))」を参照されたい。

「傳尸勞(でんしろう)」漢方で伝染性の慢性的な全身性消耗疾患を指すようである。所謂、「勞咳」=肺結核に類したものを想起してよかろう。隣家の次男の容貌はまさにそれを想起させるではないか。人を含む動物の死骸の中に「」(「虫」或いは悪しき「気」か)なるもの(今の微生物・細菌・ウィルス)がおり、それが人に「傳」染することによって、慢性的な激しい体力疲「」(消耗)を生じさせる死に至る病い、という意味と私はとる。野島出版脚注にも『病名。肺病を云う。死尸の労虫(微生物)によって伝染する病気』とある。

「苦愁(くしう)の㚑鬼(れいき)、緣(えん)に乗(じよう)じ」苦しみ迷っている霊魂或いはそれが変じた鬼神(「石鏃」のところで既に見た通り、崑崙は鬼神の存在を信じている)が、ある不可思議な人智によっては解明出来ない機縁に乗じて。

「付(つい)て」憑依して。

「怪崇(くはいそう)」「崇」はママ(読みがおかしく、歴史的仮名遣なら「くわいすう」である)。「怪祟」(クワイスイ)の誤りであろう。妖しい邪(よこしま)なる現象。]

北越奇談 巻之四 怪談 其五(飯を食われる怪)

 

    其五

 

 地藏堂の西、圓淨湖の邊(ほとり)、七ケ村(しちかむら)と云へる所あり。農夫某(それがし)なる者、秋の半(なかば)過(すぐ)る頃ならん、ある夜(よ)、家人(けにん)、皆、寢(いね)て、獨り、燈(ともしび)の下(もと)に繩を糾(あざ)なへ居(ゐ)けるが、夜、いたく更(ふけ)て、窓にばらばらと雨の一しきりかゝる音を聞く。其後(そのあと)、寂寥(せきりやう)と物凄くなり、終(つゐ)に繩を捨て置き、閨(ねや)に入(いり)て臥しけるが、翌日(あくるひ)早く起出(おきいで)て見るに、その邊(あた)りに、見も馴れざる木(こ)の葉、靑黄(しようわう)、打混(うちま)じりて一箕(み)ばかり有(あり)。如何なるわざとも知ることなし。

 時に其(その)婦(ふ)、飯(いゐ)を炊(かし)ぎ終はりて、家内(かない)打寄(うちより)、食(くらは)んとするに、釜中(ふちう)、飯(はん)、巳に、空(むな)し。家人、驚け共(ども)、其(その)食(しよく)したる者を知らず。

 それよりして、飯(めし)を炊(た)きて、如何にもよく匿(かく)し覆ふと雖も、忽(たちまち)、喰(くら)ひ盡くして、無し。

 如何なるものの成すわざとも目に見ることなければ、力、不ㇾ及(およばず)。

 如ㇾ此(かくのごとく)なること、數日(すじつ)、家にありて食すること、不ㇾ能(あたはず)。

 依之(これによつて)、家内(やうち)、皆、外(ほか)に移り、空屋(あきや)にして、歸らざること、一月餘り。後(のち)、立歸(たちかへ)りて、飯(いゐ)を炊(かし)ぐに、其怪、巳に去りて、元のごとし。如何なるものか、木葉(このは)に駕(か)し來りて、人の食を貪りけん。不思義と云ふも、猶、餘りあり。

 

[やぶちゃん注:前夜の雰囲気と状況証拠から天狗の仕業と思われるから、やはり先行する条々との親和性が窺える。

「地藏堂の西、圓淨湖の邊(ほとり)、七ケ村(しちかむら)」現在は円上寺と書き、その「円上潟」は大方が埋め立てられて現存しないが、附近(グーグル・マップ・データ)。この一帯は、現在、西北の新潟県長岡市寺泊円上寺を始めとした長岡市の寺泊地区、及び、中央付近が新潟県燕市真木山になるのであるが、野島出版脚注に「七ケ村」は『蛇塚村・中曾根村・北曾根村・川崎村・東山村・辯才天村・京ケ入村を云う。明治前は村上領』とあり、地図をよく見ると、「寺泊蛇塚」・「寺泊中曾根」・「寺泊川崎」・「寺泊弁才天」・「寺泊京ケ入」といった地名を現認出来る。「地藏堂」は地名で、大河津分水路の対岸の、現在の新潟県燕市中央地蔵堂である((グーグル・マップ・データ))。に南東を除いて丘陵に囲まれた盆地があり、この話柄のロケーションとしてはしっくりくる。

「寂寥(せきりやう)と」何とも言えず、もの淋しくて。

「見も馴れざる木(こ)の葉、靑黄(しようわう)」今まで見たこともない形の、青葉や黄葉した木の葉。う~む! 如何にも天狗の来訪じゃて!

「一箕(み)」穀類を煽って篩(ふる)い、殻や塵(ごみ)を除く箕一盛り分。

ばかり有(あり)。如何なるわざとも知ることなし。

「不思義」原典のママ。]

北越奇談 巻之四 怪談 其四(初夢怪)

 

    其四

 

 安永の頃、坂屋村貧民某(それがし)の女(むすめ)、同郷、酒造の家に奉公せしが、正月二日の朝、傍輩(ほうばい)に談(かたつ)て云ふ。

「今曉(こんきやう)、夢に、大船(たいせん)、帆を張りて我(わが)閨(ねや)の窓の下に着き、其帆柱の上、白き鷹一ツ、止(とま)りてありしが、飛(とん)で懷(ふところ)の内(うち)へ入(いり)たり。」

と云へり。

 皆々、聞(きゝ)て、其夢の吉(きつ)ならんことを祝す。

 かの女(むすめ)、喜んで笑(ゑみ)を含み、火箸にて、炉(ろ)の灰を搔き均(なら)すに、忽(たちまち)、錢(ぜに)二百文あり。

 主人、怪みて、

「かの女(むすめ)の盜み匿(かく)せるならん。」

とす。

 巳にして、又、二百文を灰の中(うち)より出(いだ)す。

 家人(けにん)、大きに怪しみ、皆々、炉中(ろちう)に求(もとむ)れども一ツもあることなし。

 かの女(むすめ)、火箸を執れば、忽然として、錢あり。

 それより、女(むすめ)、袂(たもと)を探(さぐ)れば、錢あり。懷を開けば、即(すなはち)、錢あり。至る所、皆、自然に錢ありて不ㇾ絶(たへず)と。

 主人、その怪を憎み、親の元に歸す。

 女(むすめ)、家に至る時、已に錢十五貫文を得(う)。

 人、皆、怪しみて抱(かゝ)へず。

 依(よつ)て、新潟他門(たもん)、舟問屋(ふなとひや)某(それがし)の家に奉公す。

 一日、塵(ちり)を川岸に捨(すつ)るに、忽(たちまち)、紙に包みたる物あり。取上(とりあ)げて、これを見れば、遺金(いきん)三十五両なり。

 終(つゐ)に捨(すて)たる主(ぬし)なし。

 是(これ)を以(もつて)、他の家(いへ)に嫁(か)して、今、猶、富(とめり)。

 是等(これら)は誠に奇怪はかりがたき事どもなり。

 

[やぶちゃん注:初夢の吉夢に始まる奇談。ウィキの「初夢によれば、文献上の「初夢」の初出は西行の「山家集」とし、室町時代頃からは吉夢を見るために『七福神の乗っている』宝船の絵に「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな(長き夜の 遠の眠りの 皆目覺め 波乘り船の 音の良きかな)」『という回文の歌を書いたものを枕の下に入れて眠ると良いとされ』、それでも『悪い夢を見』てしまった場合は、翌朝、その『宝船の絵を川に流して縁起直しを』したという。知られた吉夢のアイテムに江戸初期には既に形成されていたと思われる「一富士二三茄子」があるが、『それぞれの起源は次のような諸説がある』。

   《引用開始》

徳川家縁の地である駿河国での高いものの順。富士山、愛鷹山、初物のなすの値段

富士山、鷹狩り、初物のなすを徳川家康が好んだことから

富士は日本一の山、鷹は賢くて強い鳥、なすは事を「成す」

富士は「無事」、鷹は「高い」、なすは事を「成す」という掛け言葉

富士は曾我兄弟の仇討ち(富士山の裾野)、鷹は忠臣蔵(主君浅野家の紋所が鷹の羽)、茄子は鍵屋の辻の決闘(伊賀の名産品が茄子)

   《引用終了》

とあり、実は四番目以降も存在し、『四扇(しおうぎ、よんせん)、五煙草(多波姑)(ごたばこ)、六座頭(ろくざとう)』で、これは「俚言集覧」に記載があり、こちらは『一説として、一富士二鷹三茄子と四扇五煙草六座頭はそれぞれ対応しており、富士と扇は末広がりで子孫や商売などの繁栄を、鷹と煙草の煙は上昇するので運気上昇を、茄子と座頭』『は毛がないので「怪我ない」と洒落て家内安全を願うという』。他にも、この四又は五を「葬式・葬礼」「雪隠・糞」「火事」とするものがあるとする(不吉な葬儀や火事及び不浄の便所や排泄物は逆夢という解釈であろう)。本話柄も、先に述べた通り、心理学的には主人公が思春期の少女である点と最近起ったとされる都市伝説(アーバン・レジェンド)という点で先行する条々と極めて強い親和性を持ち(そうした主人公の「少女たち」の存在を崑崙は明らかに強く意識して書いている)、主人がそれを忌まわしいこととして憎んで追い出してしまうところには、背後に実際に実は金銭が消えていた(主人のへそくりであるとかして事実は言えない)、或いは、この少女に好色の主人や馬鹿息子が懸想して与えた金だったりする……という現実的解釈は、これ、無粋なのでこれで止めておこう。

「安永」一七七二年から一七八一年。

「坂屋村」不詳。新潟県新潟市江南区に酒屋町なら現存する。(グーグル・マップ・データ)。

「錢十五貫文」既に述べたが、一貫は正規には銭千文を指すが、江戸時代は実際には九百六十文が一貫とされた。しかし、としても、一万四千四百文で、江戸後期の一両は十貫文であるから、十五貫文で一両半、当時の平均的物価からは現在の七万五千円ほどにはなろうか。火鉢の灰の中からこれだけ出てくるというのは、まさに「奇怪」である。だからこそ、私は背後に男女の饐えた体臭を嗅ぎつけるのである。

「新潟他門(たもん)」新潟県新潟市北区葛塚上他門があり、これは新井郷川(にいごうがわ)の右岸地区であり、同じ川の少し下流の左岸にはバス停で「他門大橋」を認めるから、「舟問屋(ふなとひや)」とは親和性がある。(グーグル・マップ・データ。右上中央に「上他門」)。

「遺金(いきん)」お金の落し物。

「三十五両」これはもう尋常な金額ではない。先の換算(一両=五万円換算)で百七十五万円!]

仙人芝居夢

僕は最初に勤めた柏陽高校の夜の校舎内で、懐かしい女生徒たちと演劇の稽古をしている。

[やぶちゃん注:僕は実際、二十九の頃、私が教えた同校の演劇部OBたちの作った「蒼鷗舎」に参加し、新宿で清水邦夫の妖しい芝居を演じたことがある。驚天動地、それは素人劇団の旗揚げ公演であったが、何と、黒字であった。]

それは妖しい仙人の芝居であった。

主人公は「呂洞賓(りょどうひん)」で、副主人公は「李鉄拐(りてっかい)」(二人とも男であるが、演じているのは女生徒である)私はそれに絡む三人目の「費長房(ひちょうぼう)」役である。

しかし、困ったのだ!
僕は、演技や台詞回しには絶大な自信があるのだが、台詞を覚えていないのである!
明日が公演初日だというのに!
呂洞賓と李鉄拐役の女生徒が呆れ顔で黙って僕を睨んでいる……

[やぶちゃん注:「呂洞賓」は唐末宋初の道士。中国の著名な仙人の名数八仙の一人として知られる。「天遁(てんとん)剣法」と「金丹(きんたん)秘法」を駆使して、民衆の苦しみを救ったとされる人気の高い仙人である。因みに私は仙人フリークである。
「李鉄拐」も八仙の一人で私の好きな仙人。知られたエピソードとしては、『太上老君に崋山で逢うことになり、魂を遊離させ、逢いに行くことにした。そこで、彼が帰ってくるまでの七日間の間、魂の抜けた身体を見守るよう弟子に言いつけ、もし七日経っても帰ってこなければ身体を焼くように言った。しかし、六日目に弟子の母が危篤との知らせを受けて、弟子は鉄拐の身体を焼き、母の元に行ってしまった。鉄拐が戻ってきてみると、自分の身体は既に焼かれていた。彼は近くに足の不自由な物乞いの死体を見つけ、その身体を借りて蘇った』という「借屍還魂(しゃくしかんこん:屍を借りて魂を還す)」で知られる(引用はウィキの「李鉄拐」)。因みに、この「借屍還魂」は後に兵法三十六計の第十四計の戦術名となり、『亡国の復興などすでに「死んでいるもの」を持ち出して大義名分にする計略。または、他人の大義名分に便乗して自らの目的を達成する計略。さらに、敵を滅ぼして我が物としたものを大いに活用してゆく計略も指す』(引用はウィキの「借屍還魂」)。
「費長房」私の大好きな妖しい後漢の方士。ウィキの「費長房 (後漢)」より引く。『当初はとある市場の監視役人を務めていたが、市場の監視楼上から市中で売薬店を構える謫仙の壺公(ここう)』『が日没時に店先に吊した壺に跳び入る姿を目撃した事から壺公の許を訪れたところ、自分の秘密を目にし得た費に感心した壺公に連れられて壺中に入り、そこに建つ荘厳な御殿で美酒佳肴の饗応を受ける。その後、壺公から流謫も終わって人間界を去る事を聞かされると、自分も仙道を学びたいと思い、壺公の教唆に依って青竹を自身の身代わりに仕立て、縊死を装う事で家族の許を去り』、『壺公に就いて深山に入り修行する。修行は初め虎の群中に留め置かれ、次いで今にも千切れんとする縄に吊された大石の下に身を横たえるといった内容で、共に成果を修めるも最後に3匹の虫』『が蠢く臭穢な糞』『を食すよう求められて遂に上仙を断念し、壺公から地上の鬼神を支配出来る』一『巻の護符を授かって帰郷する』。『なお、山中での修行は僅か』に十日ほど『であったが、地上での実歳月は』十『年以上を経るものであった』とする。『帰郷後は治病に従事したり』、『壺公から授かった護符を使って東海地方(現山東省東南の海岸部)の水神である東海君や、人間に化けた鼈や狸を懲らしめる等、社公(地示)やあらゆる鬼神を使役懲罰し、また地脈の伸縮を自在に操る能力を有して』、『瞬時に宛(えん。現河南省南陽市)に赴いて鮓(さ。魚類の糟漬け)を買ったり』、一『日の中で数千里』(当時の中国の一里は約四百四十メートル。リンク先は五百五十メートルとするが、これは中国のいかなる時代の一里とも符合しないので採れない)を隔てた複数の場所を『往来したりしたが、後に護符を失った為に鬼神に殺された。晋代の葛洪は竹を自身の屍体に見せかけた費を尸解仙の例に挙げている』。この「尸解仙」とは、 一旦、死んだ後に生返って他の離れた地で仙人となることを指す。これはオーソドックスな羽化登仙する「天仙」や名山で霞を食して鶴に乗って行く「地仙」などの高級な仙人に対して、不死でなければならない仙人が仮にとは言え、死の形をとることから、最下級の仙化とされる。だからこそ僕は好き!

僕は実際、表現読みの朗読や台詞回しには誰にも負けないという自信がある(これは今もある)のだが、昔から(高校時代の僕は演劇部で将来は役者になろうかとも真面目に思っていた。諦めた最大理由は体力が続かないからであった)、長台詞は苦手だった。因みに、先の「蒼鷗舎」の公演の際には、僕は主演を頼まれた。しかし、まさに台詞を覚えられないという一点に於いて仕事の忙しさを言い訳として辞退し、台詞が三つぐらいしかない端役を演じたのであった。懐かしい思い出である。

僕はしばしば芝居を演じている夢を見る。しかも必ず、その夢の中の僕は肝心のその夢の中の役の台詞をまるっきし覚えておらず、いつも絶望的に絶体絶命なのである。]

2017/08/24

北越奇談 巻之四 怪談 其三(少女絡みのポルターガイスト二例)

 

    其三

 

 寬政年中(ねんぢう)、蒲原郡(かんばらごほり)太田村、百姓某(それがし)の少女、十二、三なるべし、燕(つばめ)の町、祭禮見物に出(いで)て、連(つれ)に遲れ、獨り、群衆の内を訊ね求むるに、面(おもて)の赤き僧一人來り、相伴(あひともなふ)て見物す。少女、心に食(しよく)を思ふ。異僧、卽(すなはち)、是を知り、茶店(さてん)に入(い)り、其好むところを食さしむ。又、町に出(いで)て、小女、心に欲する所、櫛・笄(かんざし)となく、食物(しよくもつ)となく、何にても、皆、是(これ)に與(あた)ふ。更に錢(ぜに)を償(つくの)はざれども、賣人(うりひと)、また、咎めず。終(つゐ)に家に歸る。

 其日より、少女、心に求(もとむ)る所、ならずといふことなし。坐(ざ)しながら、遙かの物を取らんと欲(ほつす)れば、卽、飛來(とびきた)りて、前にあり。家人、是を怪しみ、少女を責むれば、忽(たちまち)、鳴動し、諸器物、おのれと飛(とん)で、人力(じんりき)を以つて制し難し。

 或は食せんとする時、鍋・釜なんど、忽、飛(とん)で梁上(りやうしよう)に上がる。小女を勞(いたは)り、詫(わぶ)る時は、卽、飛下(とびくだ)りて本(もと)のごとし。

 如ㇾ此(かくのごとき)事、數日(すじつ)、近村、競ひ來たりて、これを見る。

 もし、誤(あやまり)て怪を謗(そし)る時は、鍬・鎌・棒の類(るい)、獨り手(で)に飛來(とびき)て、その人を打(うつ)。甚だしきの怪なりしが、一月餘りにして、何時(いつ)となく、此事、止(やみ)ぬ。

 

○同年の秋、村松山(むらまつやまの)北、河谷村(きたかはやむら)、百姓某(それがし)、近村より、子守の小女を抱(かゝ)へたるに、一日(いちにち)、連(つれ)の童女(どうによ)相伴(あいともなふ)て、村端(むらはし)の茶屋に至り、各(おのおの)、柿を求め食(くら)ふ。かの小女、錢(ぜに)無くして、買求(かひもとめ)ること、能(あた)はず、獨り、是を羨む。忽、面(おもて)赤く、老猿(おひざる)のごとき僧の、白衣(はくい)なるが來りて、

「汝、柿を與へんか。」

と問ふ。小女、喜ぶ。

 卽、店の柿、四ツ五ツ、おのれと飛來(とびきた)り、小女が袂(たもと)に入(いる)。

 他の童女、さらに見ることなし。

 それより、家に歸(かへり)て、何によらず、得んと思ふもの、皆、飛來りて、懷(ふところ)に入(いる)。

 主人、これを怪しみ、親の家に返さんとすれば、忽、家財道具、おのれと飛び𢌞(めぐ)りて、家の内に居(をる)事、不ㇾ能(あたはず)。小女を勞(いたは)り、上坐(かみざ)に請(しやう)ずる時は、卽、止(や)む。

 村長(むらおさ)、是を聞(きゝ)、其家に來り、小女が上坐にあるを叱り、且(かつ)、怪(くはい)を罵(のゝしる)所に、忽、其庭に掛け置きたる鍬一丁、飛來(とびきたり)て、面(おもて)を打たんとす。村長、驚き逃出(にげいづ)れば、又、盥(たらひ)一ツ、飛來(とびきたり)て頭(かしら)に覆(おほ)ふ。

 是によつて、村中(むらぢう)、以(もつて)の外、騷動し、見物、市(いち)を成せり。

 扨、卽日、其怪事を領主に訟(うつた)ふ。即、足輕二人をして、其實否(じつふ)を見屆けしめんとす。于ㇾ時(ときに)、足輕、その家に到り、上坐について、小女を責め問へば、忽、勝手口より、斧一丁、飛來(とびきたり)て、足輕の鼻頭(はながしら)を擦りて落(おつ)。是(これ)によりて、衆人、如何ともすることなし。數日(すじつ)にして、何時(いつ)となく止(やみ)ぬ。如何なるものゝ怪異とも知らず。

 是等も、皆、天狗の成す業(わざ)ならんか。 

 

Poltergeist

[やぶちゃん注:葛飾北斎の挿絵。左上角に「怪物小女について怪異をなす」とある。]

[やぶちゃん注:天狗らしい怪人の出現によって少女が怪能力を有する点で連関するが、この天狗を除去すると、実はこれは現代のまで生きているボルタ―ガイスト現象(ドイツ語:Poltergeist/騒霊/天狗の石礫等々)に酷似するものである。その酷似する点は、成人前の少女がその超常現象の主役であったり、必ずその家内にいるという点でも属性が一致している。私は基本的に、これらは霊感を持っているということで他者とは違うという特別な存在という意識を持つことを志向する思春期の少女らによる似非怪奇現象と捉えており、近代以降の無意識的或いは意識的詐欺師としての霊媒師の存在と全く同じものであると考えている。これはまた、「池袋の女」「池尻村の女」などが古くから知られており、そこには信仰上の理由附けがなされていたり、民俗学的アプローチも行われている。それは私の「耳囊 之二 池尻村の女召使ふ間敷事など注を是非、参照されたい。なお、後半の「○」以降の話は原典も野島出版版も改行せずに、前に繋がっているが、これは私は改行をする方がよいと判断して、かく、した

「寬政」一七八九年から一八〇一年。

「蒲原郡(かんばらごほり)太田村」よく判らぬが、現在の新潟県燕市には東太田の地名がある。ただ、ここは燕市街で「燕(つばめ)の町、祭禮見物に出(いで)て」という表現からは近過ぎるか?

「おのれと」自然と。古文ではしばしば「自分と」などと漢字表記するのを見かける。

「村松山(むらまつやまの)北、河谷村(きたかはやむら)」不詳。識者の御教授を乞う。

「他の童女、さらに見ることなし」この一文、私は躓く。前とどう続くのか私には意味不明である。何方か、お教え願いたい。]

北越奇談 巻之四 怪談 其二(天狗その二)

 

    其二

 

 享和三亥年(ゐどし)、奧州の士(さむらひ)某(それがし)、越(ゑつ)の柏崎に赴く途中、石地(いちぢ)の駅に馬を繼ぎて、即(すなはち)、その士、馬(むま)に先立事(さきだつこと)、半丁ばかりにして、駅の町端(まちはし)に出(いづ)ると見へしが、忽(たちまち)、行末(ゆくゑ)を知らず。

 馬方(むまかた)、その跡を尋ねて、先の駅、椎谷(しゐや)に到り、問屋(とひや)に達す。問屋、其荷物、旦那の不ㇾ來(きたらざる)が故に不ㇾ受(うけず)。馬方、是非なく歸り來りて、石地の問屋へ申す。

 町役、即、柏崎の陳屋(ぢんや)に訟(うつた)ふ。是に依(よつ)て、人を出(いだ)し、四方を尋ね求(もとむ)れども、不ㇾ得(えず)。終(つゐ)に「死せり」として、其荷物を本國に返す。

 扨、かの士(さむらひ)、半年(はんねん)ばかりを過ぎて、古郷に歸り、夜(よる)、密(ひそか)に己(おのれ)が家を叩けば、人々、驚き、其故を問(とふ)に、

――初め、石地の町端を出(いづ)る時、山伏一人、出來(いできた)り。道すがら、相咄(あいはな)して行(ゆく)ほどに、何處(いづく)とも、其(その)至る所を知らず。

――疊嶺絶壁(でうれいぜつへき)、路(みち)なきの幽谷(ゆうこく)を行くこと、鳥の空に飛(とぶ)がごとし。

――一日(いちじつ)、忽(たちまち)、金閣玉樓、峨々たるを見る。

――依(よつ)て、其(その)地名を問(とふ)。

――かの山伏の云(いはく)、「日光山なり」と。

――士(さむらひ)、驚き、是(これ)を拜せんとすれば、忽、夢の醒めたるがごとく、平地(へいち)出(いづ)。

――よく見れば、古郷なりし。

と、なり。

[やぶちゃん注:天狗による遠隔地へのテレポーテション(及び時間感覚喪失)で前話と直連関。最後の武士の語りの部分は、途中で「士(さむらひ)」という三人称表記になってしまうため、直接話法には出来ないので、かくダッシュでやってみた。

「享和三亥年(ゐどし)」一八〇三年。本書刊行は文化九(一八一二)年春であるから、所謂、当時の都市伝説――比較的最近起ったとされる事実らしい噂話――の体裁を備えていると言える。

「石地(いちぢ)」現在の新潟県柏崎市西山町石地。(グーグル・マップ・データ)。直線で柏崎の北東十九キロメートル。

「半丁」五十四、五メートル。

「椎谷(しゐや)」新潟県柏崎市椎谷。(グーグル・マップ・データ)。石地からは直線で四・五キロメートルほど。

「問屋(とひや)」狭義には、江戸時代、領主と住人の仲介者として宿場町の自治行政を行うとともに問屋場(といやば:街道の宿場で人馬の継立・助郷賦課(すけごうふか:宿場保護や人足・馬の補充を目的として宿場周辺の村落に課した夫役)などの業務を行った運送業者)を管理した町役人(宿場役人)の長で、多くは本陣を経営した者を指すが、ここは、その者(後で出る「町役」)が元締めとして支配した、そうした問屋場(運送業者)の一つであろう。

「陳屋(ぢんや)」陣屋。郡代・代官及び旗本などが任地或いは知行地に所有した役所。]

北越奇談 巻之四 怪談

 

北越奇談巻之四

 

        北越 崑崙橘茂世述

        東都 柳亭種彦挍合

 

    怪談

 

 蒲原郡(かんばらごほり)瀧谷村(たきやぬら)、慈光寺(じくはうじ)と云へるは、村落(むらざと)と離れ、山林に入る事、一里、松・杉、千年の古木、鬱々として、誠に世外(せぐはい)の幽境なり。

 元弘の頃、楠正五郎(くすのきまさごらう)、入道して、此寺に寂す。今に正成の鎧、直筆の書簡などありて什藏(じうざう)とす。

 又、時ありて、佛法僧、鳥慈悲心鳥(てうじひしんてう)の啼けるを聞く事、山僧・樵夫、常となせるのみ。

 此山、殊に、天狗、甚(はなはだ)、多し。他方の者、寄宿する時は樣々(さまざま)の怪異をなして、人を驚かす。

 一年(ひとゝせ)、六月の半ばなりし。寺僧、皆、出(いで)て、僕童一人、留守を守り、徒然なる折りしも、髮長く生(はへ)たる旅僧(りよそう)一人來り、暫く休居(やすみゐ)て僕に向(むかつ)て云へるは、

「今日、祇園の祭事なり。汝、見んことを欲(ほつす)や否(いなや)。」

と。僕の曰(いはく)、

「願(ねがは)くは、見んことを思ひども、不ㇾ能(あたはず)。」

 旅僧、即(すなはち)、僕を伴ふて去る。

 忽(たちまち)、數千(すせん)の群衆、陌(ちまた)に滿ち、金鼓(きんこ)、耳に喧(かまびす)しく、錦繡(きんしう)、目に燦然として、終日、不ㇾ厭(いとはず)。暮に及んで、旅僧、伴ひ歸らんとす。即、一ツの菓子屋に至り、干葉(かんくは)一箱を求め、瞬(またゝき)のうちに寺に歸ると見へしが、旅僧、忽、不ㇾ見(みへず)。

 人々怪しみ、是を見るに、京二條通菓子屋某(それがし)の印(しるし)あり。

 又、大工・木挽(こびき)なんど、偶(たまたま)天狗の噂事(うはさごと)云へる時は、忽、其人の衣服なんど持ち去りて、高き杉の梢に掛く。これを如何ともすることなし。即、堂頭に詫(わ)び、給はんことを請ふ。

 爰(こゝ)に和尚、袈裟を掛け、其杉の下(もと)に到り、空に向かつて曰(いはく)、

「又、惡戲事(いたづらごと)を成せるものかな。早く、衣服を主(ぬし)に返さるべし。」

と。

 即、其衣服、風に隨(したがつ)て地に落(おつ)。

 如ㇾ此(かくのごとき)怪戲(くはいけ)、日々(ひゞ)にして、一々(いちいち)擧げて云ふべからず。

 

[やぶちゃん注:遂に「怪談」パートに入る。読み易さを考えて、以下、改行を自在に施すこととする。

「蒲原郡(かんばらごほり)瀧谷村(たきやぬら)、慈光寺(じくはうじ)」現在の新潟県五泉市蛭野にある曹洞宗明白山慈光寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。同寺公式サイトのこちらによれば、時の守護職『神戸太郎最重が室町時代初期』の応永一〇(一四〇三)年頃に、現在の村上市門前にある『耕雲寺の傑堂能勝禅師の道風を慕い、師を勧請して中興の祖となし、爾来、禅刹として再興』されたとあり、この開山『傑堂能勝禅師は、南北朝時代、後醍醐天皇を支えた楠木正成の直孫と伝えられる。早くから祖父・正成の意志を継いで、南朝の再興を願い、一族と共に良く奮戦』したが、二十五『歳の時、相手方の弓矢により足を痛め』、その『治療の折、仏典を読』んで、『戦国乱世の虚しさを感じ、諸方に多くの禅匠を参じた後、越前・龍沢寺の梅山聞本禅師の会下に投じ、禅の奥義を究めたといわれている』。後、数次の火災を受け、また、天文年間(一五三二年~一五五四年)に『於ける国内騒乱は、寺領の大半を武人によって侵掠され、伽藍も荒廃に委せ』『法運の衰微、はなはなだしく悲境に陥る。その後、村上藩主・堀丹後守直嵜公が中興開基として寺門を再興、また村松歴代藩主の帰崇、さらに曹洞宗中興の祖といわれる小浜・空印寺面山瑞芳禅師の上足・衡田租量禅師の晋住により法筵、再び繁栄』し、『多くの修行僧が各地より集まり、面目を一新す。その後、奥義を得た修行僧は各地に於いてめざましい活躍を』した、とある。

「楠正五郎(くすのきまさごらう)」楠木正成の嫡男正行(まさつら)の実子とされ、出家し、それが先の注の傑堂能勝と同一人物とされる。野島出版脚注に『楠正行の妻は内藤宮内の娘であった。宮内は後に高師直の方に随ったので、正行は妻をを離別した』が、当時、『懐妊していた娘が男子を生んだので、池田兵庫助が之を養子とし、後』、『仙見村五剣谷萩城主神戸備中守の聟となって神戸太郎原茂と改名した。これが楠正五郎である。正五郎は、後に出家して傑堂と云った』とある。

「正成の鎧」公式サイトには記載がないが、こちらには現在も同寺に『楠正成の所用という鎧が所蔵されている』とある。

「直筆の書簡」野島出版脚注に『伝えられる文面は次の如くである』として載るものを、以下に正字化して示す。字空けはママ。

   *

猶々此卷衣 從ㇾ君拜受 具足從祖父我等迄 著古候得共 長代之送形見候以上 此度 隼人 差越事非別儀 我等最後近々覺候 貴殿 成長の器量 見屆度候得共 義重處更難ㇾ遁 勤學無ㇾ怠 成長之後 我等心中 可ㇾ被ㇾ察候 謹言

 建武三年正月二十日 兵衞正成

   楠正五郎殿

   *

注には続けて『「吉野拾遺」巻三には、これと大同小異の文面があり、日付が建武二年五月となっている』とある。「建武三年正月二十日」は一三三六年三月十一日。因みに、楠木正成が湊川の戦いで自害したは延元元/建武三年五月二十五日である。この書簡が同寺に現存するかどうかは不明であるが、昭和七(一九三二)年発行の「新潟県史跡名勝天然記念物調査報告」(国立国会図書館デジタルコレクションの画像でから四コマで視認出来る)によれば、この書状はあると記されている。但し、偽物と断じている。

「什藏(じうざう)」この「什」は元の「器」の意ではなく、「什物」(じゅうもつ)で「代々伝わっている秘蔵の宝・什宝」の意。

「佛法僧」この場合は〈声のブッポウソウ〉でフクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus scops(本邦では北海道・本州北部では夏鳥であるが、本州南部では留鳥である)。本邦では永く、渡り鳥で夏鳥のブッポウソウ目ブッポウソウ科 Eurystomus 属ブッポウソウ Eurystomus orientalis の鳴き声と誤認され続けてきたので、この場合も崑崙のイメージする姿はそちらウィキの「ブッポウソウ」(非常に美しい色と姿をしておりその画像もリンク先に有る。なお、哲人のようなコノハズクの方はウィキの「コノハズク」でその姿を確認されたい)によれば、この誤認が解消されるのは実に昭和一〇(一九三五)年のことで、『森の中で夜間「ブッ・ポウ・ソウ」と聞こえ、仏・法・僧の三宝を象徴するとされた鳥の鳴き声がこの鳥の声であると信じられてきたため、この名が付けられた。しかし、実際のブッポウソウをよく観察しても「ゲッゲッゲッ」といった汚く濁った音の鳴き声』しか発せず、件(くだん)『の鳴き声を直接発することが確認できないため、声のブッポウソウの正体は長く謎とされた』。『結局のところ、この鳴き声の主はフクロウ目のコノハズクであり、このことが明らかになったのはラジオ放送が契機となった』。昭和十年六月七日、『日本放送協会名古屋中央放送局(現在のNHK名古屋放送局)は愛知県南設楽郡鳳来寺村(現在の新城市)の鳳来寺山で「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴く鳥の鳴き声の実況中継を全国放送で行った』が、『その放送を聞き、鳴き声の主を探した者が』、同年六月十二日に『山梨県神座山で、「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴く鳥を撃ち落とした』。その結果、その『声の主がコノハズクであることが分かった』。『時を同じくし』て、『放送を聴いていた人の中から「うちの飼っている鳥と同じ鳴き声をする」という人がでてきた』。放送から僅か三日後の六月十日、『その飼っている鳥を鳥類学者黒田長禮が借り受け見せてもらうと』、『その鳥はコノハズクであり、山梨県神座山で撃ち落とされたのと同日である』六月十二日の『早朝に、この鳥が「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴くところを確認した』。『そのコノハズクは東京・浅草の傘店で飼われていたもので、生放送中、ラジオから聴こえてきた鳴き声に誘われて同じように鳴き出したという』。『この二つの事柄が』、『その後に行われた日本鳥学会で発表され、長年の謎だった鳴き声「ブッ・ポウ・ソウ」の主はコノハズクだということが初めて判明した』という驚きの事実が記されてある。真正のブッポウソウの鳴き声はで、コノハズクの「仏法僧」という鳴き声はで聴ける(孰れも「You Tube」へのリンク)。

「鳥慈悲心鳥(てうじひしんてう)」カッコウ目カッコウ科カッコウ属ジュウイチ Cuculus fugax の鳴き声からの異名。画像はウィキの「ジュウイチで。鳴き声はこちら(これも「You Tube」へのリンク)。渡り鳥で夏鳥。

「祇園の祭事」京の八坂神社(祇園社)の祭礼である祇園祭(明治までは「祇園御霊会(御霊会)」と呼ばれた)。旧暦六月に行われていた。なお、こうした僻村の者が天狗に誘われて祇園祭や都の法会を見るという伝承や怪談は枚挙に遑がない。

「陌(ちまた)」巷。巷間。市井。「陌」には「街路・町」の意がある。

「金鼓(きんこ)」摺り鉦や太鼓。摺り鉦は「コンチキチン」で知られる、祇園囃子で一番大きな特徴を作る楽器。

「錦繡(きんしう)」祇園祭の山鉾を飾る錦の織物のことを指していよう。

「不ㇾ厭(いとはず)」飽きない。

「高き杉」個人サイト「全国巨樹探訪記」のに新潟県指定天然記念物の慈光寺の杉が載る。そのデータによれば、樹高四十メートルで目通り幹囲十・九メートル。推定樹齢三百年以上とある。]

岩波文庫ニ我ガ名ト此ノぶろぐノ名ノ記サレシ語(コト)

先週、近代文学研究家の山田俊治氏(現・横浜市立大学名誉教授)より、自筆の御葉書を戴いた。

山田氏の名は芥川龍之介新全集の諸注解で存じていた。最近では特に、ブログでの「侏儒の言葉」のオリジナル注企画で頻繁に引用させて戴いたが、無論、終生、巷間の野人たる小生は面識もない。何か誤ったことでも私がブログで書いているのを注意されでもしたものかと思うて読んでみたところが、そこには、

『この度 芥川龍之介の紀行文集を岩波文庫から出版することになり、注解にあたっては、ブログを拝見して、大いに刺激されるとともに、一般書のため、逐次 注にできませんでしたが、大変 参考にさせていただきました。そこで、一部献本させていただきますので、御受納いただければ幸いです』

とあって、驚いた。

昨日、それが届いた。

2017年8月18日発行・山田俊治編「芥川竜之介紀行文集」(850円)
 

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である。中国特派の際の五本は「Ⅱ」として纏められてあるが、それ以外の「松江印象記」(リンク先は私の初出形)に始まる九本の選択も非常に面白い。注を縦覧したが、語句や表現要所が非常によく押さえられており、「Ⅱ」パートでは地図なども附されてあってお薦めである(数年前に他社の文庫でもこれらは出ていたが、本屋で立ち読みしただけで、その注のお粗末さに呆れた果てたのを覚えている)。
特に、あの時代にあって稀有のジャーナリストたらんとして――芥川龍之介は自らを「ジヤアナリスト兼詩人」(「文藝的な、餘りに文藝的な」(リンク先は私の恣意的時系列補正完全版)の「十 厭世主義」)と称し、遺稿の「西方の人」(リンク先は私の正・続完全版)ではキリストを「古い炎に新しい薪を加へるジヤアナリスト」と評している――書かれた中国特派のそれらは、もっと読まれるべきものであると私は強く感じている(芥川龍之介の「上海游記」「江南游記」「長江游記」「北京日記抄」はそれぞれブログ分割版(全)があり、それらの一括版及び「雜信一束」はHTML横書版で「心朽窩旧館 やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「芥川龍之介」パート内の「§ 芥川龍之介中国紀行関連作品 §」に収めてある)。

さて。山田氏の解説の最後を読んで、さらに驚いた。
 

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何と! その末尾、参照先行文献の一覧の最後の最後には、天下の岩波版「芥川龍之介全集」(新全集)がずうっと並んだその終りに……『および、藪野直史「Blog鬼火~日々の迷走」』とあるではないか!?!

私のような凡愚の野人の仕儀が、誰かの役に立つとならば、逆に、恩幸、これに過ぎたるはないと言うべきで、ここに山田俊治先生に深く謝意を表したい。
 
 

2017/08/23

北越奇談 巻之三 玉石 其二十三(廬山石) / 巻之三~了

 

    其二十三

 

 与板(よいた)、三輪(みわ)氏(うじ)、富士石(ふじせき)を藏(ざう)す。甚だ絶品。真黑色(しんこくしよく)、半腹(はんふく)に白雲(はくうん)の形あり。床頭(しやうとう)の弄玩、可ㇾ知(しんぬべし)。長岡、原(はら)氏、陰陽(ゐんやう)二石(じせき)を藏す。男女根形(なんによこんぎやう)、誠に古今(こゝん)の絶品なり。水原(すいばら)の東(ひがし)、北高田村(きたたかたむら)に珠山(しゆざん)と云へる書画風流の人ありし。其家に亀石(きせき)を藏す。一塊(いつくはい)の石上(せきしやう)、自然に小龜(しようき)の形ありて、工(たくみ)が成せるがごとし。長岡、中村氏、烏帽子石(ゑぼしせき)を藏(おさ)む。黑石(こくせき)に白石(はくせき)の緣(へり)、甚だ奇なりしが、今は栃尾(とちを)某(それが)しの家に贈ると云へり。堀の内某(それがし)の家、一(いつ)奇石(きせき)を藏む。形、上下六面、皆、表(おもて)にして、床頭の弄玩、妙なりと雖も、今、其家の姓名を忘(わす)る。一年(ひとゝせ)駒ケ嶽に遊びて、深谷(しんこく)の間(あいだ)に一奇石を得(う)。真黑(しんこく)、光沢、形似廬山(ろさんににて)、大瀑布(だいばくふ)の勢(いきほひ)あり。故廬山石(ろさんせき)と名づく。左に図を表はす。

 

Rozanseki

 

[やぶちゃん注:「与板」既出既注。新潟県三島郡与板町(よいたまち)附近。現在の新潟県のほぼ中心に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「富士石」ご丁寧に中腹には白雲がかかったように見えるところの、富士山にそっくりなミニチュアの自然石。

「床頭(しやうとう)の弄玩、可ㇾ知(しんぬべし)」寝ようとしてその枕元(「床頭」(しょうとう))に置いてまでも賞玩するほどのものである。そのシミュラクラを推して知るべし、といった意味であろう。

「陰陽(ゐんやう)二石(じせき)」「男女根形(なんによこんぎやう)」、即ち、男女の陰部に似た形の石。男性の陰部に似るものを「陽石」、女性のそれを「陰石」とし、セットで祀ることも多い。豊饒神である。グーグル画像検索「陰陽石をリンクさせておく。

「水原(すいばら)の東(ひがし)、北高田村(きたたかたむら)」「水原」はその読みからも新潟県阿賀野市水原であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。「北高田」は見当たらないが、水原の東北に「高田」地区はある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「珠山(しゆざん)」不詳。

「亀石(きせき)」これは亀の化石ではなく、シミュラクラであろう。但し、「北越雪譜」の「二編二之卷」には「龜の化石」の条があり、その記述や附された図を見るに、これは真正の化石のようには見える。

「烏帽子石(ゑぼしせき)」烏帽子(恐らくは立(たち)烏帽子なら丈の低いもの、揉(もみ)烏帽子風のものかも知れぬ)に似た石。

「上下六面、皆、表(おもて)にして」「皆、表(おもて)にして」というのが今一つ分らないが、これは裏表がない、即ち、上下ともに全く同一形状の極めてシンメトリックな六角錐であることを言っているのであろう。六方晶系の結晶だとすると、これはアメジスト(amethyst)のような紫色の水晶ということになるが(但し、上下がかく成るには人為的な加工が疑われる)、叙述が不足していて、それと断定は出来ぬ。寧ろ、アメジストならその色と透明性をまず言い立てるはずだから、寧ろ、アメジストではないと考えた方がよいか。

「駒ケ嶽」既出既注。越後駒ヶ岳。新潟県南魚沼市と魚沼市に跨る。標高二千三メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「廬山」中国江西省九江県の南方の廬山(ろざん)。仏教霊場であったと同時に、幽邃な景勝地として今も名高い。

大瀑布」廬山のそれは李白の詩がよく知られる。

 

 望廬山瀑布

日照香爐生紫煙

遙看瀑布挂前川

飛流直下三千尺

疑是銀河落九天

 

  廬山の瀑布を望む

日は香爐を照らし 紫煙生ず

遙かに看る 瀑布の前川に挂(か)くるを

飛流 直下 三千尺

疑ふらくは是れ 銀河の九天より落つるかと

 

 以下、上に示した「廬山石」の図が載るが、その石の図の右上から左上にかけて、以下の長いキャプションが小さな字で記されてある。それを、図の後に示す。野島出版版では、この部分が今までの条々と同じく、柱の「」(野島出版版が独自に附したもので、原典にはない)をつけて、恰も本文の続きであるかのように活字化されているのは、私には承服出来ないのである。これはあくまで〈「廬山石」のキャプション〉であるからして、私はキャプション扱いとして基本、原典画像通りに電子化した(但し、ベタで続け、一部の読みは省略したので、以下の早稲田大学の画像で確認されたい)。従って野島出版版のような頭の一字下げを行っていない。また、実はこの挿絵は何時もの通り、野島出版版のそれを用いたのであるが、早稲田大学古典データベースのこちらの画像で判るように、実はこの廬山石の挿絵は原典では見開きであって、石の中央やや左寄りで左右に分断されてしまっている。この野島出版版はそれを実に上手く合成させた図なのである。但し、白く抜けた箇所が甚だ哀れなので、一部を原典画像を見ながら、恣意的に黒く塗り潰した(その結果として立体感が損なわれたかもしれぬ)。まずは、上のリンク先の画像をご覧あれかし。野島出版版では殆んど消えてしまっている瀑布以外の白い筋が確認出来る。]

 

 廬山石

 

駒ヶ嶽は魚沼郡(うほぬまこほり)にあり、即(すなはち)、大湯栃尾俣の温泉は、嶽(たけ)の麓也。一年秋八月、此温泉に浴して、日々、溪流下り、奇石をさぐり求む。其意(こゝろ)に適するものを得ざること、十日、巳に歸らんとするに臨(のぞん)で、深谷の間(あいだ)にして、一(いつ)樵夫にあふ。夫の曰、「此路(このみち)可ㇾ迷(まよふべし)、とをく行べからず。君、何に依(よつ)てか爰(こゝ)に至る」と。曰、「奇石を求(もとめ)んと欲す」。樵夫云、「我、前日、黑石(こくせき)一塊(いつくわい)を得て、是を庚申塚(かうしんづか)のうしろにかくす。君(きみ)、意(こゝろ)あらば、得て去(さる)べし」と。玆(こゝ)に相伴(あいともな)つて其所(そのところ)に至り見るに、奇玩、如此。よつて、樵夫に錢(せん)を贈(おくつ)てかへる。

 

[やぶちゃん注:地名はさんざん注したので略す。

「とをく行べからず」「とほく」(遠く)が正しい。山中、遠くへは足を踏み入れてはいけない。

「庚申塚(かうしんづか)」先の「玉石 其七(光る石)」に既出既注。

「うしろにかくす」「後ろに隱す」。

「君(きみ)、意(こゝろ)あらば得て去(さる)べし」あなたにそうした切なる奇石への思いがあるとならば、それを拾って持ち帰られるがよい。

「如此」「かくのごとし」。

 以下、早稲田大学の画像で判る通り、この廬山石に添えた橘崑崙茂世の入手当時と推定される讃としての五律の漢詩が続く。原典は白文で連続しているが、かく改行した。]

 

 

 

山翁石賜

未得所名宜

三寸自然操

尺圍天質碕

虎溪無送客

鹿洞月來遲

凡上生平玩

心遊亦可奇

     崑崙茂世

 

[やぶちゃん注:野島出版版では、これに続いてオリジナルの訓読文がある。それを参考にしながらも、私も全く独自に訓読をしておく

 

山翁(さんをう) 石(いせき)を賜ふも

未だ名(な)の宜(よろ)しとする所を得ず

三寸(さんずん) 自然の瀑(ばく)

尺圍(せきゐ)  天質の碕(き)

虎溪(こけい)  客(かく)を送ること 無く

鹿洞(ろくどう) 月 來(きた)ること 遲し

几上(きじやう) 生平(せいへい)の玩(ぐわん)

心遊(しんいう) 亦 奇とすべし

 

 以下、我流の訓読に従って注を附す。

石」」は原典では「玉」ではなく「王」であるが、これは通字形であるから、「」とした野島出版版では本文で一気にこれを『醫』としてしまっている。従えない。しかも同脚注によれば、こんな字(「」の「玉」を「王」とした字)は『字典にはない』と断言し、『医は醫と同じであるが、医石では意味が不明である。医石瑩石の誤記であろう』(この『医石』及び『瑩石』には「」の傍点が附されてあるのを太字で示した。「瑩」は音「エイ」で「明らか・鮮やか・艶やか」で「玉石の美しい色」を指す語)とされるのであるが、私は野島出版の注釈者の安易なこの「瑩石」誤字見解には全く従えない」の字はあるのである。しかも」(中国音「イー」)には中文サイトの漢字辞典に「黑色的美石」・「黑玉」・「黑色的琥珀」の意であるとあるのである(引用はこちら)。これは黒い光沢を持った黒玉石(こくぎょくせき)の意である。

「三寸」凡そ九センチ一ミリ。

「尺圍(せきゐ)」野島出版版は『せきえ』とルビする。従えない。石全体の周囲の長さが一尺。であることを言う。三十センチ三ミリ。

「天質の碕(き)」野島出版版は『天質碕(き)なり』とする。前句と対句であるから私はかく訓じた。「碕」は「崎」の異体字で、河海の曲がった岸を指す。野島出版脚注には『石の白い線がまがって瀑』(たき)『の如くなっていることをいう』とある。挿絵と合わせて(まさにこの脚注の直上に「廬山石」の右手の「瀑布」が落ちているのである)言い得て妙の注である。

「虎溪(こけい)」廬山にある東林寺の前の渓谷。画題として好まれた「虎渓三笑」の故事で知られる。六朝東晋の時、この寺に慧遠(えおん 三三四年~四一六年)という学僧がおり、白蓮社(四〇二年に自らから創建した東林寺に於いて僧や知識人らからなる同志百二十三人とともに阿弥陀浄土への往生を誓願した念仏結社。名は寺の傍らの池に白い蓮を植えたことに由来する。彼の念仏行とは後世の「浄土三部経」に基づく称名念仏とは異なるもので、浄土教典の先駆的作品とされる「般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう)」に基づいた禅観の修法であった)を結成、西方往生を期して三十年もの間、山を一歩も出なかった。ところが、ある日、陶淵明(三六五年~四二七年)と陸修静(四〇六年~四七七年 道士で道教教学の優れた学者であった)の両人が彼を訪ねて清談し、両人が帰る際して、慧遠は送りに出たが、それでも話が尽きず、いつもは結界として出なかった虎渓に架かる石橋を渡ってしまい、気づいた時には、虎渓を数百歩も過ぎていた。そこで三人ともに手を打って破顔大笑したという禅味に富んだ話である。しかし、淵明はいいとしても、陸修静は生年から無理がある。

「鹿洞(ろくどう)」廬山の麓にある中国四大書院の一つで宋代の学校であった白鹿洞書院のこと。五代十国(九〇七年~九六〇年)に正式な学校として建てられ,これを廬山国学(白鹿国学)と称した。一時衰退したが、南宋の一一七九年に朱熹が再興、明代には王陽明ら代表的な儒家学者がここで講学した。景勝地でもあったらしい。

「几上(きじやう)」机上。

「生平(せいへい)」「平生(へいぜい)」に同じい。

「心遊(しんいう)」野島出版脚注に『心の楽しみ』とある。

 以下、今度は漢詩人柏木如亭(かしわぎじょてい:後注する)の七絶が載る。原典は白文で連続しているが、かく改行した。]

 

 

 

 廬山石

 

崑崙隱士身邊石

几席寒生玉一堆

若不巫山々上得

會從星宿海中來

 

  如亭題 落款1 落款2

 

[やぶちゃん注:先と同様に野島出版の訓読を参考にしつつ、オリジナルに訓読する。

 

 廬山石(ろざんせき)

 

崑崙隱士 身邊(しんぺん)の石(せき)

几席(きせき) 寒(かん)生(しやう)ず 玉(ぎよく)一堆(いつたい)

若(も)し 巫山(ふざん)が山上に得ずんば

會(かなら)ず 星宿の海中より來らんを

 

  如亭 題す 落款1 落款2

 

 落款1は「昶印」。落款2は「永日印」か?

 作者柏木如亭(宝暦一三(一七六三)年~文政二(一八一九)年)は漢詩人。ウィキの「柏木如亭」によれば、初め、『名は謙、字は益夫、通称は門作といった。のち、名は昶、字は永日とあらためる。号は』当初、『舒亭と名乗り、後に如亭とする』。江戸生まれで、『家は幕府小普請方の大工の棟梁であった。市河寛斎の江湖詩社に参加し』、寛政五(一七九三)年に最初の詩集「木工集」を刊行して『新進詩人として知られるようになった。翌年、家督を一族のものに譲り、棟梁職を辞し、専業詩人として生きることになった』。『遊歴の詩人として生き』んと決した『如亭は、まず』、『信州中野(長野県中野市)に居を定め』、『晩晴堂と名づけ、晩晴吟社を』開いて近隣の人々とともに『詩作に励んだ。この間、越後を遊歴もしていた』(恐らくはこの時に崑崙(生年から見て彼は崑崙と同世代である)を訪ね、この七律をものしたものと思われる)。享和元(一八〇一)年に、江戸に戻って芝に住んだ。その後、文化四(一八〇七)年には今度は西に向かって遊歴し、京都を主として『備中庭瀬(岡山市)に滞在もした。京都では頼山陽や浦上春琴、小石元瑞らとの交友があり、また豊後竹田の田能村竹田とも交わった』。文化一一(一八一四)年に、再び、江戸に戻って『大窪詩仏のところに寄寓する。しかし、江戸の詩風は如亭に』合わず、再び『遊歴の旅に出ることになる。信越各地を』廻って、文化一五(一八一八)年に『京都に帰ってきたのであった。東山黒谷に紫雲山居を構え、いちおうの根拠地としたが、生活のためには、各地を巡歴し、潤筆料をかせぐこととなった。その間、年少の梁川星巌と交流をし、みずからの死後には遺稿の出版も頼んでいる』。『持病の水腫が悪化し』て『京都で没した』。死後に梁川の手で刊行された「詩本草」は私も所持するが、美食と旅と漢詩に生きた彼の優れた随筆である。

「几席(きせき)」野島出版脚注に『机のおいてある部屋』とある。

「寒(かん)生(しやう)ず」野島出版版では『寒は生(しよう)ず』と訓じている。脚注には『石がかたいので、見るからにさむざむとしている』と訳してある。確かにそう読みたくは確かになる。しかし、どうもに私は係助詞の「は」はしっくりこないので、かく訓じた。なお、「寒生(かんせい)」で「貧しい書生」の意から「自己の謙称」の意もあるが、それでは一句が名詞の連続となって固まった絵になってしまい、漢詩としては死んでしまうし、この幽玄に触れた冷感(霊感)によって引き出される転・結句も生きてこない。

「一堆(いつたい)」一塊(ひとかたま)り。

「巫山(ふざん)」重慶市巫山県と湖北省の境にある名山。ウィキの「巫山によれば、『長江が山中を貫流して、巫峡を形成する。山は重畳して天日を隠蔽するという。巫山十二峰と言われ、その中で代表的なものに神女峰がある』。『巫山は四川盆地の東半部に多数平行して走る褶曲山脈の中でも最も大きく最も東にある山脈で、四川盆地の北東の境界に北西から南東へ走る褶曲山脈の大巴山脈へと合わさってゆく。長さは』四十キロメートル余りにも及び、主峰の烏雲頂は海抜二千四百メートルにも達する。楚の宋玉『の「高唐賦」(『文選』所収)序に、楚の懐王が高唐(楚の雲夢沢』『にあった台館)に遊んだ際、疲れて昼寝していると、夢の中に「巫山の女(むすめ)」と名乗る女が現れて王の寵愛を受けた、という記述がある。彼女は立ち去る際、王に「私は巫山の南の、険しい峰の頂に住んでおります。朝は雲となり、夕べは雨となり(旦為朝雲、暮為行雨)、朝な夕な、この楼台のもとに参るでしょう」』『と告げた』。『この故事から、「巫山の雲雨」あるいは「朝雲暮雨」は、男女が夢の中で契りを結ぶこと、あるいは男女の情交を意味する故事成語として用いられるようになった』。『神女の素性について、『文選』所収の「高唐賦」では自ら単に「巫山之女」と名乗るだけであるが、『文選』所収の江淹「別賦」李善注に引く「高唐賦」、および江淹「雑体詩」李善注に引く『宋玉集』では、帝の季女(末娘)で、名を瑤姫といい、未婚のまま死去して巫山に祀られたと説明されている』。『また、李善の引用する『襄陽耆旧伝』では、瑤姫は赤帝(炎帝神農)』『の末娘とされている』。『後代の伝承であるが、後蜀の杜光庭の『墉城集仙録』では、雲華夫人こと』、『瑤姫は西王母の第』二十三『女で、禹の后となったとされる』。『中華民国の学者・聞一多は、この伝承を詳細に分析し、高唐神女は本来は楚の始祖女神であって、高唐神女、夏の始祖・女媧、禹の后・塗山氏』、『殷の始祖・簡狄は、もともと同一の伝承から分化したものではないか、と推測している』とある。

「星宿の海中」野島出版脚注に『星空の広い形容』とあり、この詩について、『珍しく立派な石なので、巫山の山中から出て来たものか、星空から降って来たものかと賞讃しているのである』としている。

 以下、儒者・経世家(政治経済学者)であった海保青陵(かいほせいりょう:後述)の識文「廬山石記」が載る。非常に長い白文である。原典の字はかなりクセのあるもので、やや判読に苦しむ字もあった。そこは野島出版版を参考にさせて戴いた。]

 

 

 

  廬山石記

 

長短相形高下相傾老君之言大矣哉物誠無定於髙下而人誠無分於長短從心目之所置留而變焉已故我置我心於萬丈之人而後五嶽小於指矣留我目於蠢尓之蟲貝臂毳巨於櫟社矣是之謂心遊也樂莫殷焉余遊越与崑崙橘君善矣君善畫最名干山水乃其閑則東逍西遙不名所之焉諮遠近於我眸詢當否於我脛曰是我爲厭足之道也帰則峙石繚沙以象其嶄淸冽曰是我救飢渇之術也其所最愛之曰廬山長六寸高半於長猶餘九分廣如髙而減四分重十二斤漆黒形類踞牛唯皦白纎絛自脊嶺出紆行囘流斜至膝巒岐爲二絛偃蹇拄頤欹臥望之宛然見廬瀑吹烟爲濃雲太息爲飄風當此時君意甚適其亦焉知我万丈之人乎將蠢尓之蟲乎貝亦焉論此石眞廬山乎將十二斤石乎貝亦焉辨今日文化之年乎將葛天無懷之世乎宜矣哉君之樂之不已

 乙丑之初夏武州府下之

 隱者靑陵道人鶴記  落款1 落款2

 

 

北越奇談卷之三終

[やぶちゃん注:前例に倣って、訓読して見るが、今回は野島出版版の訓読を大々的に参考にさせて戴いた(但し、歴史的仮名遣の誤りが多い)。但し、逆に従えない部分も幾つかありそこはオリジナルに変えてある。ここでは略字や異体字は正字に直した。

 

  廬山石記(ろざんせきき)

 

 長短、相(あひ)形づくり、高下(かうげ)、相傾(かたぶ)くと、老君の言(げん)、大(だい)なるか。物(もの)、誠に高下に定まること無く、人、誠に長短に分(わか)るること無く、心目(しんもく)の置留(ちりう)する所に從つて變ずるのみ。故に、我れ、我が心を萬丈の人に置きて、而して後、五嶽は指よりも小とす。我が目を蠢爾(しゆんじ)の蟲貝臂毳(ちうばいひせつ)に留(とど)めて、櫟社(れきしや)より巨(おほい)なりとす。是れを之れ、「心遊(しんいう)」と謂ふ。樂しみ、焉(これ)より殷(さかん)なるは莫(な)し。余、越に遊び、崑崙橘君と善(よ)くす。君(きみ)は畫(ぐわ)を善くし、最も山水に名(な)あり。乃ち、其れ、閑(かん)なれば、則ち、東逍西遙(とうしようせいよう)、之(ゆ)く所を名(い)はず。遠近を我が眸(ひとみ)に諮(はか)り、當否(たうひ)を我が脛(すね)に詢(と)ひて曰く、「是れ、我が厭足(えんそく)の道たるなり」と。歸れば、則ち、石を峙(そばだ)てて砂を繚(めぐ)らし、以つて、其の嶄(ざんしよう)淸冽(せいれつ)を象(つかさど)る。曰く、「是れ、我が飢渇(きかつ)を救ふの術なり」と。其の最も愛する所の石を廬山と曰(い)ふ。長さ六寸、高さは長さに半(なかば)にして、猶、九分(くぶ)を餘(あま)す。廣さは高さのごとくにして、四分(しぶ)を減(げん)ず。重さは十二斤(きん)にして漆黑。形、踞牛(きよぎゆう)に類(るい)す。唯、皦白(きようはく)の纎絛(せんたう)、自(おのづか)ら嶺(みね)を脊(せ)にして出で、紆行囘流(うかうくわいりゆう)、斜めに膝(ひざ)に至る。巒岐(らんき)、二絛(にたう)を爲(な)し、偃蹇(えんけん)、頤(おとがひ)を拄(ささ)へ、欹臥(きぐわ)して之れを望めば、宛然として廬瀑(ろばく)を見る。烟(けぶり)を吹きて濃雲(のううん)を爲(な)し、太息(たいそく)して飄風(へうふう)を爲(な)す。此の時に當たり、君が意、甚だ適(かな)ふ。其れ、亦、焉(いづく)んぞ、我が萬丈の人たるを知らんや。將(は)た、蠢爾(しゆんじ)の蟲(むし)たるか、貝(かひ)たるか、亦、焉んぞ、此の石、眞(まこと)の廬山たるかを論ぜんや。將(は)た十二斤の石たるか、貝たるか、亦、焉(いづく)んぞ辨ぜんや。今日、文化の年か、將(は)た葛天無壞(かつてむくわい)の世なるか。宜(うべ)なるかな、君(きみ)の之れを樂みて已まざること。

 乙丑(おつちゆう)の初夏 武州府下の隱者

 靑陵道人 鶴 記 落款1 落款2

 

 落款1は「皐之印」。落款2は私には判読出来ない。

 筆者儒者で経世家であった海保青陵(宝暦五(一七五五)年~文化一四(一八一七)年)についてはウィキの「海保青陵」を引く。『通称儀平(儀兵衛)または弘助、字は萬和。青陵は号である』。『別号に皐鶴。自著では「鶴」と称している』。『人生の過半を遊歴に費やし、各地で『論語』などの中国古典や漢文作成の文法を教えながら、一方で経済上の様々な相談や指導を行って家計や経営の立て直しに手腕を振い、現在の経営コンサルタントの先駆けとも評される』『人物である』。『丹後宮津藩青山家の家老・角田市左衛門(号・青渓、家禄は』五百『石)の長子として江戸で生まれる。青渓は荻生徂徠の系統を引く経世家でもあり、青陵の父と当時の藩主青山幸道は従兄弟に当たっていたため、父は藩の勝手掛という重職に就き藩財政の立て直しに努力していた。しかし、藩に内紛が起こったことで隠居せざるをえなくなり』、宝暦六(一七五六)年、未だ数え年二歳であった『にも拘わらず青陵が家督を相続する』。二年後、四歳『の時、藩主が美濃郡上藩に移封になると、一家は暇願いを出し浪人の身になる』。但し、『青陵の父は、彼が生きている限り』は『青山家から』二十人扶持で金百両ずつ、毎年、『送られることになっていたので、一家が困窮することはなかった。こうした幼いころの体験が、青陵が権力により果たすべき政策に大きな関心を持ちつつも、権力の中枢にたってそれを行使する気をもてなかった原因だろう』。『幼少時は父から、次いで』十『歳で父の師であった宇佐美灊水』(しんすい)『から儒学を学ぶ。灊水は荻生徂徠晩年の高弟で、徂徠学の公的な側面を受け継いだひとりである』。十六、七歳の頃、『蘭学医桂川甫三に住み込みで学び、ここから灊水の塾に通った。その子で父青渓の門人でもあった桂川甫周』(オランダの医学書「ターヘル・アナトミア」の翻訳「解体新書」に参加したことでとみに知られる外科医で蘭学者)『と兄弟同然に暮らした。青陵は秀才甫周を生涯』、『尊敬し、彼から西洋的な合理主義の思想を学んだという』。明和八(一七七一)年に『父青渓が尾張藩に出仕すると、青陵も後留書役に召され』たが、『学問中として辞して就かず』、安永五(一七七六)年には『弟を嫡子として角田家の家督を譲り』、『尾張藩に仕えさせ、自身は祖父の父の海保姓を名乗り、宮津藩青山公の儒者として家禄』百五十『石で奉公する。また、同年』、『日本橋檜物町に学塾を開く。このころから経世の問題に目を向ける様になった』。安永八(一七七九)年、禄を返上、さらに天明四(一七八四)年には青山家を脱藩、寛政元(一七八九)年、『経世家として身を立てるために上洛、江戸と京都を中心(しばしば木村兼葭堂を訪ねている)に大半を旅行に費やし、各地を遊学しつつ財政難に陥る大藩の高級武士や商人に経世策を説く一方、各地の産業や経済を身をもって見聞し、青陵自身の思想を深めていった』。一年間『逗留した武州川越で絹織物や煙草など産業改革案を進言したのは有名である』。享和元(一八〇一)年、『尾張藩の儒学者細井平洲が死去し』、『月並の講書が不足したため、青陵は再び尾張藩の藩儒とな』ったが、享和四(一八〇四)年には『大病を理由に辞』す。その後、金沢に二年弱逗留した(本記のクレジットは「文化乙丑」(きのとうし)でこれは文化二(一八〇五)年であるから、この金沢逗留時に越後に赴き、崑崙と逢ったものか?)後、文化三(一八〇六)年に『京都を終生の場と定め塾を開き、今までの旅でえた豊かな経験を元に『稽古談』『洪範談』『前識談』など数多くの著作に結晶させた。また、当時の文人のならいで』、『青陵は専門絵師の作品にしばしば着賛しているが、青陵自ら絵と賛をしたためた作品も残っている』。文化一四(一八一七)年に六十三歳で『京都に没す。法名は随応専順居士。生前の青陵は常々弟子たちに「私には親族はいないから、死んだら火葬し』、『骨を粉にして、大風の吹くにまかせよ」と語っていた』『が、実際には金戒光明寺の塔頭・西雲院に葬られ、「海保青陵先生之墓」が現存している』。『江戸時代後期における商業社会の拡大において、従来の封建的道徳観を否定し、智謀と打算によって富を得ようとすることを奨励した。青陵において旧来の道徳観念は活発な経済活動を抑圧する桎梏としてとらえられ、より感性的、道徳的に自由な経済観念を奨める。従来の儒者の奨める小仁(目先の上下関係に縛られ、大枠の合理性を見落としたもの)として批判し、よりマクロな視点での大仁を基に行動規範を模索した。この大仁とは、ある善行において翻って必ず悪行が付随するということを前提としたものである。経済的競争によって一方が得をし、他方が損をするという図式が、大枠においては全体的な福祉を増進するという考え方は近代的経済学との共通点を見せるとも言える。しかし一方で、旧世的な愚民観を脱却しきれず、一方的なエリート論に終始する点も見られた。こうした伝統的儒学を乗り越えようとする姿勢は、桂川甫山らの蘭学者の影響と考える者もいる。重商主義的考えに基づき藩を経営し』、『富国策を採用するよう勧めている』とある。生年から見て、崑崙より五つ六つ上であったかとも思われる。この記の書き方も親しい友とは言え、年上の相手に寄せたものではない

「長短、相(あひ)形づくり、高下(かうげ)、相傾(かたぶ)くと、老君の言(げん)、大(だい)なるか。物(もの)、誠に高下に定まること無く、人、誠に長短に分(わか)るること無く、心目(しんもく)の置留(ちりう)する所に從つて變ずるのみ」「老子」の「養身第二」に出る一節(下線太字部分)。

   *

天下皆知美之爲美。斯惡已。皆知善之爲善。斯不善已。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、前後相隨。是以聖人、處無爲之事、行不言之教。萬物作焉而不辭、生而不有、爲而不恃、功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。

(天下、皆、美の美たるを知る。斯(こ)れ、惡(あく)なるのみ。皆、善の善たるを知る。斯れ、不善なるのみ。故(まこと)に、有無、相ひ生じ、難易(なんい)、相ひ成し、長短、相ひ形(あら)はし、高下(かうげ)、相ひ傾(かたぶ)け、音聲(おんじやう)相ひ和し、前後、相ひ隨ふ。是(ここ)を以つて、聖人は、無爲の事に處(を)り、不言(ふげん)の教へを行なふ。萬物(ばんぶつ)作(つか)はれて、而(しか)も、辭せず、生(しやう)じて有(いう)せず、爲して、而も、恃(たの)まず、功、成つて、而も、居(を)らず。夫(そ)れ唯(ただ)、居らず、是(ここ)を以つて去らず。)

   *

これは冒頭で世の人間が「美」や「善」の認識を持つことによって、逆の「醜」や「悪」の概念が生まれてくるという相対観念を述べている。以下、個別の対立概念を挙げる中で出るのが、「長いものと短いものはそれぞれが互い互いを明らかにし合うものであり、高いものと低いものも互いに互いに勾配を持つことで限定し合って」最終的には調和している、というのが、この部分である。「老子」の以下は、だから聖人は徹底的に行動しないことことに拠り、無言を以って教えを伝える。だから、万物は、彼に使われて働かされても、労苦を厭わないし、彼が対象を育ててもそれを自分のものとはしないし、それを頼りとすることもせず、行為を成し遂げても、それへの敬意を求めもしない。ことさらに自分のしたことに敬意を求めないからこそ、彼はその到達した境地から追い払われることも永遠にないのである、と続いている。

「萬丈の人」野島出版補註に『心の広く大きい人』とある。

「五嶽」道教の聖地である五つの山の総称。陰陽五行説に基づき、木行(東)・火行(南)、土行(中央)・金行(西)・水行(北)の各方位に位置する五つの山が聖山とされ、東岳泰山(現在の山東省泰安市泰山区内)・南岳衡山(湖南省衡陽市南嶽区内)・中岳嵩山(河南省鄭州市登封市内)・西岳華山(陝西省渭南市華陰市内)・北岳恒山(山西省大同市渾源県内)がそれに当たる。中国神話では万物の元となった「盤古」が死んだ後に、その五体が分裂して五岳となったと伝えている。

「蠢爾(しゆんじ)」野島出版補註に『虫のうごめく形容』とある。

「蟲貝臂毳(ちうばいひせつ)」野島出版補註に『虫や貝や、やわらかい毛のある虫』とある。

「櫟社(れきしや)」野島出版補註に『櫟はくぬぎ、山野に自生する。櫟を神として祭った社。其の神木を』「轢社(れきしゃ)の樹(じゅ)」『という。荘子の人間世に出』る、とある。

「心遊(しんいう)」前の崑崙の詩の最後にもあった。心の楽しみ。

「殷(さかん)」「殷賑(いんしん)を極める」のそれ。活気があって賑やかなこと。繁華。

「善(よ)くす」親しく交友した。

「之(ゆ)く所を名(い)はず」行く所を選ばない。どこへなりとも自由自在に行く。目的地を遠近や難易などで好き嫌いで選ぶことをしないということであろう。

「遠近を我が眸(ひとみ)に諮(はか)り、當否(たうひ)を我が脛(すね)に詢(と)ひて」崑崙が、現場での実地検証と実見観察に基づいて、その当否を問うという、厳格な現実主義者であったことを指す。確かにその通り!!! 「詢」(慣用音「ジュン」)は「問う・諮(はか)る・問い訊ねる・相談する」の意。

「厭足(えんそく)」飽きて厭(いや)になるほどまで満ち足りること。即ち、ここは「満足」に同じい。

「石を峙(そばだ)てて砂を繚(めぐ)らし、以つて、其の嶄(ざんしよう)淸冽(せいれつ)を象(つかさど)る」「嶄」は山が嶮しく高く聳えたつことで、「淸冽」は深山の溪谷が冷たく澄み渡っていることを指し、現地調査でそうした峨々たる深山や谷川から自宅に戻ってくると、その実地調査をした場所を盆景の如くに縮小再現して、記録する際の視覚的参考に供したというのであろう。

「飢渇(きかつ)」ここは知的な意味での必然的要求を指す。

「長さ六寸、高さは長さに半(なかば)にして、猶、九分(くぶ)を餘(あま)す」「廬山石は」最大長軸で十八センチメートル、高さはその半分に「九分」(二・七センチメートル)を足したもので十二センチメートル弱。

「廣さは高さのごとくにして、四分(しぶ)を減(げん)ず」短軸を幅と見て「廣さ」と言っているか。「四分」(一・二センチメートル)を引くのだから、十センチ七ミリほどか。

「重さは十二斤(きん)」七キロ二百グラム。

「踞牛(きよぎゆう)」野島出版補註に『ひざをついてうずくまっている牛』とある。

「類(るい)す」シミュラクラであるが、言い得て妙。後の瀑布のような白い筋目が「斜めに膝(ひざ)に至る」「頤(おとがひ)を拄(ささ)へ」という「膝」「頤」(顎)がここに響いて非常に利いている。挿絵ともよく合致する。老婆心乍ら、挿絵の「廬山石」の正面手前を牛の蹲った頭部に見立てるのである。

「皦白(きようはく)」野島出版補註に『玉石の白色をいう』とある。

「纎絛(せんたう)」野島出版補註に『細い平うちの紐』とある。

「紆行囘流(うかうくわいりゆう)」野島出版補註に『まがって行き、わになって流れる』とある。

「巒岐(らんき)」野島出版補註に『山の峰のわかれている処』とある。

「偃蹇(えんけん)」野島出版版『いんけん』とルビするが、不審。物が延び広がったり、高く聳えたりしていること。

「欹臥(きぐわ)」寝転がって。石の平面位置まで視線を下げて、近づくことで遠近感を逆転させる幻視である。

「宛然として」まさにその通りに。さながら。

「廬瀑(ろばく)」廬山の瀑布。

「烟(けぶり)」瀧の落ちた水煙である。

「太息(たいそく)」これは私は観察者の溜息なんぞではなく、ミニチュアの廬山の大地の「大いなる気」が起こり、それが廬山の谷々を急に激しく吹く疾風(はやて)(「飄風(へうふう)」)となって吹き抜けるのを感じる、という比喩と読む。そうでないと、前の「烟(けぶり)を吹きて濃雲(のううん)を爲(な)し」と美しい対句にならぬからである。

「此の時に當たり、君が意、甚だ適(かな)ふ」この瞬間、君(橘崑崙)の幻想は美事に完成し、心が十全に満たされる。

「其れ、亦、焉(いづく)んぞ、我が萬丈の人たるを知らんや」年上の青陵にして、崑崙への最大の賛辞である。崑崙君は、まさに私にとっての拠り所とすべき、心の広く大きな人なのである、というのである。

「將(は)た、蠢爾(しゆんじ)の蟲(むし)たるか、貝(かひ)たるか、亦、焉んぞ、此の石、眞(まこと)の廬山たるかを論ぜんや。將(は)た十二斤の石たるか、貝たるか、亦、焉(いづく)んぞ辨ぜんや」この部分、野島出版版は訓読文が混乱してしまっていて参考にならない(意味自体が採れない)。しかし私の以上の読みも実は自信がない。識者の御教授を切に乞うものである。

「葛天無壞(かつてむくわい)」野島出版補註に『葛天は中国太古の帝王。無壊はくずるることのない時世。葛天の時代には無為にして化したという』とある。伝説上の帝王葛天氏(かってんし)。伏羲(ふっき)の号を継いで、その治世は治めずして治まったとされる。その名は葛(くず)の茎を煮て繊維を採り出し、三つの束を撚り合わせて糸や繩を創造したとされ、最初の衣服の創造神ともされる。

「武州府下の隱者」先の注の青陵の事蹟中で、私は、彼が金沢に二年弱逗留していた折りに越後に赴き、崑崙と逢ったのではないかと推理した(引用は省いたが、彼が越中高岡に訪ねたことはウィキの『名字「海保」の読み』の叙述から判明している)が、この時、彼はを見ると、尾張藩の藩儒を辞任しているから、一種の浪人であり、「武州府下の隱者」と限定した理由がやや解せない。或いは、これ以前、一年間ではあったが、武蔵国川越に滞在して絹織物や煙草など産業改革案を進言したと事蹟にあったから、或いは、この時の思い出が懐かしく蘇って、流浪の文化二(一八〇五)年の自分を、敢えてかく名指したのかも知れない。私には何となくそんな彼の気持ちが判るような気がするのである。]

 

北越奇談 巻之三 玉石 其二十二(化石溪・海石)

 

    其二十二

 

 大湯村【前に出す。】より、會津に越(こす)所、駒ヶ嶽(こまがたけ)の深谷(しんこく)に入る事、三里にして、化石溪(くはせきけい)と名づくる所あり。艸木(さうもく)となく、虫羽(ちうう)の類(たぐひ)となく、此流(ながれ)に落入(おちいる)時は一周年を歴(へ)て、皆、化石となる。其水、夏日と雖も、悉(ことごとく)苦寒(くかん)にして、渉(わた)るべからず。又、蘇門山(そもんざん)の北、下田郷(したゞごう)の深谷に化石する所ありと云へ傳ふ。いまだ、其地に至らず。凡(およそ)北越、奇石を出(いだ)す事、所々(しよしよ)に夛(おほ)しと雖も、河内谷幷ニ大湯村・佐奈志川の邊(へん)、尤(もつとも)多し。頸城(くびき)鍋浦(なべうら)、又、海石(かいせき)の奇を出(いだ)す。以(もつて)、好事の人、尋ね求(もとむ)るに、便りするものなり。

 

[やぶちゃん注:「大湯村」複数回既出既注。新潟県魚沼市大湯温泉。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「駒ヶ嶽」既出既注。越後駒ヶ岳。新潟県南魚沼市と魚沼市に跨る。標高二千三メートル。(グーグル・マップ・データ)。相当な山越えルートとなるが、大湯からこの山の南を回って(現在の国道三五二号相当)東北に向かうと、現在の福島県の「會津」地方に向かう。

「化石溪(くはせきけい)」不詳。後のかの鈴木牧之の名著「北越雪譜」の「二編二之卷」に「化石溪」が出るが、同じ野島出版の「校註 北越雪譜」(宮栄二監修/井上慶隆・高橋実校註/昭和四五(一九八〇)年初版刊。私が所持するのは平成五(一九九三)年刊の改訂版)の補註(三二〇頁)に、この「北越奇談」の『化石渓がどこであるか、はつきりしない。破間川』(あぶるまかわ:小出で羽根川と合流して魚野川に合流する川。佐梨川の北)『の上流あたりか、あるいは』『羽根川の誤聞かとも思われる』とある。先の北越奇談 巻之三 玉石 其四(木葉石)も参照されたい。

「艸木(さうもく)となく、虫羽(ちうう)の類(たぐひ)となく、此流(ながれ)に落入(おちいる)時は一周年を歴(へ)て、皆、化石となる」かく冷水によって固まり一年で化石化するとしたら、これは全く以って真正の怪談ということになるのであるが、これは形態を殆んど損していない美しい動植物の全形化石を、かく、伝承したものであろう。

「蘇門山(そもんざん)」既出既注。新潟県魚沼市・三条市・長岡市に跨る標高千五百三十七・二メートルの守門岳(すもんだけ)山のこと。(グーグル・マップ・データ)。

「下田郷(したゞごう)」旧南蒲原郡下田村、現在の新潟県三条市の地区(グーグル・マップ・データ)。

「河内谷」既出既注。新潟県五泉市川内。附近(グーグル・マップ・データ)と私は推定する。

「大湯村」既出既注。新潟県魚沼市大湯温泉。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「佐奈志川」既出既注。新潟県魚沼地方を流れる信濃川支流の魚野川のそのまた支流である佐梨川。駒ヶ岳を水源とし、全長約十八キロメートル。

「頸城(くびき)鍋浦(なべうら)」本書冒頭に出た「鍋が浦」現在の新潟県上越市大字鍋ケ浦。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「海石(かいせき)」石ではなく、既に冒頭の石」に出た珊瑚等の類。

「便りするもの」奇石収集の格好の採集(というよりも買い入れ)地とする場所。]

北越奇談 巻之三 玉石 其二十一(蒲萄石)

 

    其二十一

 

 糸魚川より、山中九里(くり)にして、蝋石山(ろうせきざん)あり。山の渡り、三里の間(あいだ)、頂(いたゞき)より谷に至りて、皆、蒲萄石(ぶどうせき)。色、少し柔らかなるが故に、印文(いんぶん)を成すに不ㇾ堪(たへず)と雖も、潤沢ありて可ㇾ愛(あいすべし)。此他の人、是を切取(きりとり)て温石(おんじやく)と成し、諸方に賣(うる)。亦、以(もつて)、香合(かうがう)・肉地(にくち)なんどを作るべし。いまだ此山に遊ばず。恨ら(うらむ)らくは、其(その)上品なる所に訪ね當たらざることを。

 

[やぶちゃん注:「蝋石山(ろうせきざん)」不詳。糸魚川市街地から三十五キロメートル強という謂いと、前の条で同じく「蝋石」(前条の私の注を参照)が出ていることから、前の条で推理した新潟県糸魚川市大平にある放山(ここ(グーグル・マップ・データ))の周辺域と考えてよいように私には思われる。識者の御教授を乞う。

「山の渡り」十二キロメートル弱というのだから、これは山の麓の直径ではなく(であったら、どでかい山で見つからぬはずがない)、山へのアプローチの実動距離のことであろう。

「蒲萄石(ぶどうせき)」葡萄石。古くはこうも書いた。但し、歴史的仮名遣は「ぶだうせき」である。層状珪酸塩鉱物の一つである「プレナイト」(prehnite)のこと。小学館「日本大百科全書」によれば、斜方短柱状、乃至、『菱餅(ひしもち)状の結晶形を示すが、多くは結晶面が湾曲し、さらにそれらが多数集合してブドウ状の球塊をつくる。また塊状、脈状をなす』。『変成した塩基性ないし中性火成岩中に』産する。空隙には、『しばしば淡緑色球状の結晶集合体がみられる。アメリカのニュー・ジャージー州パターソン産のものは世界的に有名』。『日本のおもな産地は島根県松江市美保関(みほのせき)町地区である。英名は、鉱物収集家でオランダの軍人プレーンHendrik von Prehn』(一七三三年~一七八五年)に由来し、和名はその外観に因る、とある。グーグル画像検索「prehniteをリンクさせておく。

「潤沢」しっとりとして艶(つや)や潤いがあること。

「印文(いんぶん)を成す」印材として文字を彫る。

「温石(おんじやく)」焼き石。焼いた石を綿や紙などで包んだもので、冬に体を暖めるのに使った。

「香合(かうがう)」歴史的仮名遣は「かうがふ」が正しく、「香盒」(現代仮名遣:こうごう)と同じい。香箱(こうばこ)。香を入れる蓋の附いた小さな容器。中・上流階級の持ち物。

「肉地(にくち)」普通は「肉池」だが、違和感はない。朱肉を入れる容器。肉入れ。印池(いんち)とも称する。]

2017/08/22

北越奇談 巻之三 玉石 其二十(瑪瑙らしき白石)

 

    其二十

 

 鉢伏山(はちぶせやま)の奥、高嶺(かうれい)、次第に重(かさな)り、深遠、云ふべからず。一日、樵夫、谷に入りて茯苓(ぶくりやう)を掘るに、大塊(たいくわい)の白石(はくせき)、其色、少し赤みて、重さ五貫目ばかりなるを得たり。樵夫、何(なに)と云ふことは知らざれども、其色の光沢(くはうたく)なるを以つて、是を擔(にな)ふて長岡の市(いち)に賣る。松屋何某(なにがし)なる者、是を買得(かいえ)て、弄玩するに、一日、浪華(らうくは)の商人(しやうじん)來りて強(しい)てこれを求む。其(その)名づくるに、「蝋石(ろうせき)」ならんことを以(もつて)す。終(つゐ)に是(これ)に贈る。按ずるに瑪瑙(めなう)なるべきか。可惜々々(おしむべし おしむべし)。

 

[やぶちゃん注:「鉢伏山(はちぶせやま)」幾つかの情報から推理すると、新潟県糸魚川市大平にある放山(ここ(グーグル・マップ・データ))の周囲の何れかのピーク(の名か或いは正規名ではない別称)ではないかと思われる。

「ぶくりやう(ぶくりょう)」は漢方薬に用いる生薬の一つ。既出既注であるが、再掲しておくと、茸の一種である松の根に寄生する松塊(まつほど:菌界担子菌門菌蕈(きんじん)綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensa)の菌核を乾燥させたもの。健胃・利尿・強心等の作用を持つ。

「五貫目」十八・七五キログラム。

「浪華(らうくは)」なにわ(漢字表記は他に「難波」「浪速」など)。大阪の古名。

「商人(しやうじん)」あきんど。

「蝋石(ろうせき)」普通に言う「蠟石(蝋石:ろうせき)」は緻密で塊状を成し、単一の鉱物ではなく、蠟のような感触を有する鉱物や岩石の総称。ウィキの「ろう石」によれば、葉蠟石(pyrophyllite:パイロフィライト:層状ケイ酸塩鉱物の一種で軟らかい。篆刻材などに用いる)などを含む蠟のような感じを持つも幾つかの鉱物の集合体の名称で、流紋岩やデイサイトなどが熱水作用を受けて生成したと考えられており、本邦では岡山県備前市三石や広島県庄原市勝光山などが産地で、『耐火煉瓦やガラス繊維などの原料として利用されている』とある。僕らの世代ぐらいまではお馴染みだった、舗装道路に落書きした、あの「ろう石」である。しかし、後で崑崙が言うように、これはそんな安物ではなく、確かに「瑪瑙」(めのう:縞状の玉髄の一種で、オパール(蛋白石)・石英などが火成岩或いは堆積岩の空洞中に層状に沈殿して出来た鉱物の変種で高級宝石)だったのであろう。]

北越奇談 巻之三 玉石 其十九(鍾乳石)

 

    其十九

 

Syounyuuseki

 

[やぶちゃん注:図をここに示す。既に右に半分出ている「音穰石」(おんじょうせき)は「北越奇談 巻之三 玉石 其十六(奇石数種)」合成画像を出した。左端のキャプションだけを電子化しておく。

 

白玉氷柱(白玉(はくぎよく)、氷柱(ひやうちう)のごとし)

  乳石の長ずる

  ものか 石髄か

 

「乳石」は図の上部の絵で見る通り、現在の鍾乳石(鍾乳石は狭義には垂れ下がるものをのみ指し、鍾乳石の下に出来るものは石筍(せきじゅん)・石柱として区別されるが、広義にはそれらを含む語としても使用されてはいる)である。左下の奇体なそれはよく判らない。鍾乳石が複数密集したものにしては、絡み方が普通でない。ある種の枝珊瑚の形骸のようにも見えなくはない。「石髄」は岩石学では「リソマージ」(lithomarge)と呼ばれる、長石に富む岩石が風化してできた緻密なカオリン(kaolin:白陶土。岩石中の長石の分解によって出来た残留粘土)を主とする土で、数種類の柔らかい粘土状の物質を指す。]

 

 妻有郷(つまありがう)十日町、山中絶壁の下(した)、乳石(にうせき)を出(いだ)す。甚だ、上品なれ共(ども)、常に採り得ること、難(かた)し。河内谷(かはちだに)より出(いづ)る所の石髓(せきずい)、岩下(がんか)に滴(したゞ)り、大塊(たいくわい)を成すもの、百蛇(ひやくだ)、相(あい)纏(まと)ふがごとく、奇怪の形、云ふべからず。此内、乳石を生ず。五泉(ごせん)、何某(なにがし)の藏(ぞう)する所、高サ四尺計(ばかり)、囘(めぐり)一圍半(いちゐはん)、左に圖す。堅實にして、刀刃(とうじん)の及ぶ所にあらず。其色光(しよくくはう)、白し。只し、水昌(すいせう)には劣れる物なり。

 

[やぶちゃん注:「妻有郷(つまありがう)十日町」越後妻有は新潟県十日町市及び新潟県中魚沼郡津南町(つなんまち)に及ぶ広域地名。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。ただ、この地区で現在、鍾乳石が採取出来るという情報はネット上には見当たらないようである。

「河内谷(かはちだに)」新潟県糸魚川市上路河内谷。(国土地理院地図)。この地区も現在、鍾乳石が採取出来るという情報はネット上には見当たらない。

より出(いづ)る所の石髄(せきずい)、岩下(がんか)に滴(したゞ)り、大塊(たいくわい)を成すもの、百蛇(ひやくだ)、相(あい)纏(まと)ふがごとく、奇怪の形、云ふべからず。「此内、乳石を生ず」は半可通。前の岩の下に滴ったものが、百匹もの蛇が絡み合ったものの如き奇怪な形の大きな塊りの中に、鍾乳石が生ずるという意味と採るしかないが、何だか、それも私には意味を成しているようには読めぬ。私が馬鹿なのか? どなたか、お教え願えると助かる。

「五泉(ごせん)」地名ととった。何故なら、現在の新潟県五泉市刈羽字大沢乙には「大沢鍾乳洞」が存在するからである((グーグル・マップ・データ))。五泉市の南、五泉市公式サイト解説によれば、『田上町との境をつなぐ大沢峠にあるめずらしい鍾乳洞で』、『大沢鍾乳洞は新生代新第三紀世』(二千四百万年から百八十万年前)『に砂が堆積してできたやわらかい砂岩の層が盛り上がり、陸となった後に形成され』たものとされる。『日本にある鍾乳洞の多くは数億年前の石灰岩という硬い岩石の』中に生じたものが殆んどで、『このように新しい地層の中にできた鍾乳洞は全国的にも珍し』いとする。現在の大沢鍾乳洞の総延長は百四十五・九メートル、高低差は十七メートルである。『もとはたくさんの鍾乳石や石筍があったといわれてい』る『が、今は天井、壁などにわずかしか見られ』ないとあるから、近代以前にその多くが採石されてしまったものと読める。

「囘(めぐり)一圍半(いちゐはん)」身体尺の両腕幅の「比呂」ならば二メートル二十七センチほどになる。高さが一・二メートルもあり、しかも図の左に描かれたように、ごちゃごちゃになったそれだから、その円周はこれくらいはありそうに見える。

「水昌(すいせう)」水晶のことであろう。]

北越奇談 卷之三 玉石 其十八(毒石=竜骨=スランガステイン)

 

    其十八

 

 長岡藩中、島(しま)氏(うぢ)の家に祕藏する所、毒石(どくせき)あり。大さ、如ㇾ卵(たまごのごとし)。色、靑黑(せいこく)。蝮蛇(ふくだ)の毒、及び、一切の毒を消(せう)す。其痛む所に石を押當(おしあつ)れば、卽(すなはち)、毒を吸盡(すひつく)して癒(いゆ)。其後(そのゝち)、石を以(もつて)、乳汁(にうじう)に浸(ひた)せば、皆、其毒を吐き盡(つく)せり。是、外國の產、その名を忘失(ぼうしつ)す。三島郡島崎(しまさき)村、加右ヱ門(かゑもん)と云へる者、數代(すだい)家に傳へる一塊(いつくわい)の小石(こいし)あり。その名を知らず。只、血を止(とめ)るに妙なり。諸血(しよけつ)、皆、治(ぢ)す。此石を疵口(きづくち)に附(つ)くれば、忽(たちまち)、血、止(とま)り、痛(いたみ)、去(さる)と云へり。

[やぶちゃん注:この石は恐らく「スランガステヰン」(オランダ語“slangensteen”(スランガステーン:「蛇の石」の意)である。江戸時代、オランダ人が伝えた薬石の名で、蛇の頭から採取するとされた、黒くて碁石に似た白黒の斑紋を持った石。腫れ物の膿を吸い、毒を消す力を持つとされ、「蛇頂石」「吸毒石」とも呼んだ。所謂、中国の「竜骨」(古代の象やその他何でもかんでも変わった化石は「竜骨」と称した)である。これは私の非常に得意な分野の一品で、既に私は「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「龍」の注でマニアックにしてフリーキーに追跡している。かなり長いが、是非、ご覧あれかし。ページ内検索に「須羅牟加湞天」(スランカステンと読む)を入れてお捜しあれ。捜すのが面倒な方は、私のブログの大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 龍骨」をどうぞ(同内容)。結論だけを言っておくと、この「毒石」の成分は、燐酸石灰と少量の炭酸石灰及び稀少の炭素との化合物で、それは即ち、動物の骨を焼いたもの、或いは、古代の動物の化石に他ならない。

「長岡藩」越後国の古志郡全域及び三島郡北東部・蒲原郡西部(現在の新潟県中越地方の北部から下越地方の西部)を治めた藩で、現在の新潟県長岡市・新潟市を支配領域に含む藩であった。藩主は初め、外様の堀氏(八万石)であったが、二年で越後村上に移され(元和四(一六一八)年)、譜代の牧野氏に交替した。

「島氏」不詳。非常に細かいウィキの「越後長岡藩の家臣団には載らない。

「蝮蛇(ふくだ)」言わずもがなであるが、蝮(まむし:有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii)のこと。

「三島郡島崎(しまさき)村」現在の新潟県長岡市島崎。(グーグル・マップ・データ)。]

北越奇談 巻之三 玉石 其十七(八ツ花形の古鏡)

 

    其十七

 

 三島蒲原の郡境(こほりざかひ)、五千石村、武久礼(たけくれ)の神社、今、荒果(あれは)てゝ小社(ほこら)なし。其神體、八ツ花形(やつはながた)の古鏡(こきやう)なり。何れの時か是を納めけん。近來(きんらい)、此神を以(もつて)、野中才と云へる寺に移すと云へり。

 

[やぶちゃん注:「武久礼神社のこと(野中才)」のページに以下のようにある。非常に貴重なので例外的に全文を引用させて戴いた問題があれば、除去する)。明らかな誤植と思われる箇所を訂し、また、一部、読み難い箇所に読点を追加した

   *

 野中才の神社の境内に武久礼神社が合祀されています。この武久礼さまについてすこしお話してみたいと思います。「北越奇談」という江戸時代の本によりますと、武久礼神社の古鏡と題して、「五千石に武久礼神社というのがあったが、荒れ果てて今はない、そして、その御神体は八ツ花の古鏡で、いつ納めたものであろうか、近来、この御神体を野中寺という寺にうつした」[やぶちゃん注:上記の通り、「野中寺」という記載は原典にはない。]とありますし、一方、野中才の村の明細張をみますと、「武呉さまは、弥彦大明神のみこ(御子)、天五田根命と申上げ、後に天急雲命と改名された神様であり、古書にも野中才のものだと書いてあるのに、五千石村開墾のときに囲いとられてしまった」と書いてあります。

 ともかく今は野中才にありますが、以前、この御神体が何者かにぬすまれてしまったことがあります。

 そのとき、専念寺の藤田了存師が夢知らせをうけて、御神体は巻の小道具屋にあるというので、小川原平ェ門が巻に行ったら、なるほど、夢の通りに古道具屋にあり、一分で買取ってきたと言うことです。四月五日(もとは四月四日)が祭りで、祭りの日には「おはぎ」を上げ申して、専念寺様が、阿弥陀経一巻を読んで下さる事になっているそうです。ために、疫病(特に痘瘡)は流行らず、村人は武久礼さまの御利益とばかりに喜んでおりました。尚、古鏡は横崎山から掘り出したものと伝えられていますが、残念ながら、今はありません、惜しむべき事ですね。

   *

「五千石村」現在の新潟県燕市五千石。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「武久礼(たけくれ)の神社」前の引用中に、『野中才の神社の境内に武久礼神社が合祀されてい』るとある。グーグル・マップ・データでは見当たらないので、国土地理院地図を用いて探してみた。名前はないが、現在の燕市野中才(のなかさい)にあるとすれば、この神社か? これはネット検索によって「諏訪神社」であることが判明した。因みに、野島出版脚注には、『西蒲原郡地藏堂駅[やぶちゃん注:現在の新潟県燕市分水桜町にある越後線の分水(ぶんすい)駅の旧称。ウィキの「分水駅」によれば、大正元(一九一二)年年末に新設されたもので、当時の駅名の「地蔵堂」は所在地の当時の町名であったとあり、昭和五八(一九八三)年に分水駅に改称したとある。野島出版版「北越奇談」の初版は昭和五三(一九七八)年で、その折りの注がそのまま残っているためにこうなっている。私の所持するのは平成二(一九九〇)年の第五版であるが、版を重ねている割には、残念ながら、細部が改訂されていないことが判ってしまう。本書の脚注が文章や表現にちょっと古い、しかも言い回しに妙な違和感があるのは、その古さのせいである。の西南方約一丁位に野中才と云う土地がある。この鎮守は今は諏訪宮であるが、こゝに武呉神社が併祀されている。この神社より西北一丁位に神明神社があって、この境内に大悲閣なる寺がある。この寺は神社の構造である。恐らくは薬師で石動神社でなかったかと思わるゝ。即ち神明、石動、諏訪の末社を有した武呉神社があったのが後に末社たる諏訪神社を主神としたものと思わるゝ(真島衞著伊夜日子神社祭神の研究上巻)』とある(下線やぶちゃん)。私が先に示した神社が、この下線部の「諏訪神社」で、そこから百九メートル西北に「神明神社があって、この境内に大悲閣なる寺がある」というのであるが、国土地理院地図でも寺も神社もない。野島出版版の注釈者はここが原「武久礼神社」であったと推定しているようである。郷土史研究家の方の御意見を伺いたいところである。

「野中才と云へる寺」「野中才」には原典ではルビ部分が真っ黒になっている。組み忘れか、後に削除して潰したものであろう。前の注を読まれれば判る通り、これは寺の名ではなく、地名(現在の五千石地区の北に接する)で、その地区に先の引用に出た浄土真宗専念寺があるここ(グーグル・マップ・データ)。

「八ツ花形(やつはながた)」辺縁に八つの稜を持つ古い形の鏡か。八ヶ岳原人氏のサイト内の「諏訪大社と諏訪神社」の中の『神宝「真澄の鏡」』に画像で出る「瑞花麟鳳八稜鏡」のようなものではなかろうか?]

 

北越奇談 巻之三 玉石 其十六(奇石数種)

 

    其十六

 

 頸城池舟(くびきいけふね)、上原(うえはら)氏(うぢ)、音穰石(おんじやうせき)と云へる物を藏(おさ)む。その形、河貝子(びんらうしかひ)のごとく、長八寸、又、貝の化石にもあらず。自然に孔(あな)ありて、是を吹(ふく)に、其聲、淸(すめ)る篳篥(ひちりき)のごとく高く鳴渡(なりわた)りて、數里(すうり)に聞(きこ)ゆ。以(もつて)、樂器となすに堪(たえ)たり。其石、皴文(しゆんもん)なく、形、麁(そ)にして雅なり。同(おなじく)、宮口村(みやぐちむら)、池田氏、胡瓜石(こくはせき)を、藏む。外(ほか)、堅實、麁皮(そひ)、黄赤色(くはうせきしよく)、これを兩片なせば、内、自然に肉白く、仁(にん)ありて、眞(しん)のごとし。同、深町(ふかまち)、田中氏、木賊石(せきぞくせき)なるを藏む。已に圖に表はす。同、梶村(かぢむら)、田中氏、大勾玉(おほまがだま)三品(ひん)を藏む。其圖、石鏃の部に出す。同、高田塩町(たかたしほまち)、大眼寺(だいがんじ)に牛額珠(ぎうがくしゆ)あり。丸くして、少し、平(ひら)みあり。灰色の毛、濃(こまやか)に包みたるものゝごとし。倉石氏(くらいしうぢ)は北越の奇石家にして、藏す所、數百品(すひやくひん)、一々(いちいち)擧ぐるに遑(いとま)あらず。只、予が國の産物追(おつ)て考(かんがへ)、後編に出(いだ)す。同(おなじく)、糸魚川(いとゐがは)上出村(かみでむら)神社、その神體、只、白玉一双、あり。誰人(たれびと)の納めたると云ふことを知らず。

 

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[やぶちゃん注:この最初の「音穰石」の図が、後(「其十三」の後)に出るが、二頁に亙っていて分断されてしまっているので合成した上、周囲の枠や続く鍾乳石(「其十九」で後述される)などをトリミングして本文の後に示した。私の仕儀の割には、かなり上手く合成出来た部類である。

「頸城池舟(くびきいけふね)」現在の新潟県上越市牧区池舟か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「上原(うえはら)氏」電話帳でも現在の池舟地区には上原姓の方が多い。或いは現在もこの石がこの上原姓のどなたかの家に伝わっているかも知れぬ。

「音穰石(おんじやうせき)」「穰」は「豊穣」のそれで、「穀物が豊かに稔る」・「豊か」の意であるから、音を共鳴させてよく響かせる石の謂いであろう。或いはこれは鍾乳石の一種か? 鍾乳石の成長したものには鍾乳管(ソーダ・ストローあるいは単にストロー)と呼ばれる中空状の部分(ここで言う孔)が生ずるからである。

「河貝子(びんらうしかひ)」腹足綱吸腔目カニモリガイ上科カワニナ科 Pleuroceridae に属するカワニナ(河螺)類(模式種はカワニナ属カワニナ Semisulcospira libertina)のこと。

「八寸」二十四・二四センチメートル。

「貝の化石にもあらず。自然に孔(あな)あり」かくも断言している以上、自然石らしい。

「皴文(しゆんもん)」「皴」は「皺」(しわ)に同じい。普通、多くの石の表面に生ずるはずの筋目・節理。

「麁(そ)」通常は「粗く雑な様子・大まかなこと」「賤しく粗末なこと」の意であるが、ここは「素朴なさま」ととっておく。

「宮口村(みやぐちむら)」上越市牧区宮口。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「池田氏」やはり現在の電話帳でも三氏を認める。

「胡瓜石(こくはせき)」胡瓜(ウリ目ウリ科キュウリ属キュウリ Cucumis sativus)そっくりな石らしい。

「麁皮(そひ)」粗い表面。

「これを兩片なせば」二つに折ってあって。

「仁(にん)」種(たね)。それが胡瓜と全く同じ位置に並んであるから、まさに本物の胡瓜が石となったように見える(「眞(しん)のごとし」)というのである。

「深町(ふかまち)」不詳。

「木賊石(せきぞくせき)なるを藏む。已に圖に表はす」本「巻之三 玉石」の冒頭これ。そこでは「とくさいし」と訓じている。私はウミトサカ(八放珊瑚)亜綱ヤギ(海楊)目角軸(全軸)亜目トクササンゴ科トクササンゴ属 Ceratoisis のトクササンゴ類に同定した。

「梶村(かぢむら)」新潟県上越市吉川区梶か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大勾玉(おほまがだま)三品(ひん)を藏む。其圖、石鏃の部に出す」「石鏃の部」は誤りで、「其九」(白玉環・勾玉・管玉)のこれである。

「高田塩町(たかたしほまち)」不詳。

「大眼寺(だいがんじ)」新潟県上越市寺町(通称で高田寺町。(グーグル・マップ・データ))に、現在、浄土宗五台山常住院大嚴寺(だいごんじ)、及び、曹洞宗高陽山太岩寺(たいがんじ)ならば存在する。

「牛額珠(ぎうがくしゆ)」不詳。形状も想起出来ない。識者の御教授を乞う。因みに、ナデシコ目タデ科タデ属ミゾソバ Polygonum thunbergii ィキの「ミゾソバによれば、『葉は互生し、形が牛の額にも見えることからウシノヒタイ(牛の額)と呼ばれることもある』とある。この葉の形(確かに牛の頭部に似ている)かと思ったが、「丸くして」とあるから違う。

「倉石氏(くらいしうぢ)は北越の奇石家」不詳。識者の御教授を乞う。

「後編」冒頭の注で述べたが、結局、この「北越奇談」後編なるものは出版されず、その草稿の有無も判明していない。まことに惜しい!

「糸魚川(いとゐがは)上出村(かみでむら)神社」現在の新潟県糸魚川市上出にある神明神社か。(グーグル・マップ・データ)。なお、一般には天照大神を祀る神社を神明神社と呼ぶが、太陽神である彼女を白玉で象徴することはおかしくはない。]

北越奇談 巻之三 玉石 其十五(石鯉)

 

    其十五

 

 松の山(やま)浦田口村(うらたぐちむら)、山(やま)氏(うじ)所藏の石鯉(せきり)、囲(めぐ)り、一尺余(よ)、頭(かしら)の方(かた)、半尺二寸ほどもあらんか。鱗鬚(りんしゆ)、全く備(そな)はり、金(きん)・黑色(こくしよく)交(まじは)る。一とせ、高山(かうざん)の峯、片缺(かたか)け落(おち)て、谷に入。一樵夫(いつしようふ)あり。その所に至(いたつ)て仰ぎみるに、缺け落ちたる所、數十丈上に金色(きんいろ)物、日に映じて見ゆ。樵夫、即(すなはち)、「黄金(わうごん)なり」として、獨り、是を得んことを欲(ほつす)れども、た易く取(とる)べからず。漸々(やうやう)にして、攀(よ)ぢ上り、其所(そのところ)に到れば、片足を踏み外(はづ)して、巳に落ちんとす。驚き慌(あは)て、力(ちから)を出(いだ)し、其物(そのもの)とりつきたれば、かの金色(きんしよく)なるが、さし出(いで)たる土際(つちぎは)より、折(おれ)て、是と共に谷に落(おち)たり。扨(さり)とて、得たる所の物を見れば、即、鯉(り)の頭(かしら)の方(かた)、半(なかば)より折(おれ)たるなり。其後(そのご)、好事の者、その尾の方を掘り得て、今、猶、他の家に藏(おさ)むと云へり。未(いまだ)、是を見ず。「金臺紀聞(きんたいきぶん)」云、『縣河灘上有乱石石魚長可二三寸天然鱗鬣或雙或隻不等』とあり。此類(たぐひ)なるべきか。

 

[やぶちゃん注:これは現在の新潟県十日町市松之山と推定される。ここ(グーグル・マップ・データ)。その根拠はイッシー氏のサイト内の「市町村の変遷」のこちらのページに、旧東頸城郡内に「浦田口村」という村が存在した事実、その村は明治時代に合併して「松之山村(まつのやま)」となっているが、その合併した村々の中には「松之山」という名はどこにもなく、これは或いは、この地区の古い広域地域呼称だったのではないかとも推測されること、明らかに山間地で、この話柄に合致すること、による。

「石鯉(せきり)」魚の(こい)鯉の形に酷似した石。鯉(条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科コイ属コイ Cyprinus carpio)の化石などではなく(化石の場合は骨格であることが多いが、ここの表現は明らかに生きた鯉の外面形態を保持しているとしか読めない)、素人ながら、私は黄銅鉱様の鉱石などを含んだ黒色粘板岩のシミュラクラではないかと私はまず推理した。或いはフェイク(人工的に石で彫り上げたもの)の可能性もあろう。

「半尺二寸」約三十六センチメートル。

「鱗鬚(りんしゆ)」鱗(うろこ)と鬚(ひげ)。「全く備(そな)はり」とあるからには、口元には二対の口髭があることになる。

「金臺紀聞(きんたいきぶん)」野島出版版脚注では不詳とするが、調べてみると、これは明の陸深の撰になる博物学的随筆である。中文古典テクスト・サイトの「中國哲學書電子化計劃」のここで原文が読め、そこに、

   *

郡縣河灘上有亂石、隨手碎之。中有石魚長可二三寸、天然、鱗鬣、或雙或只不等。雲藏衣笥中能闢蠹魚。又平陽府侯馬驛澮河兩岸仄土上、皆婦人手跡、或掌或拳、儼然若印、削去之其中複然。又大同山中有人骨、在山之腰、上下五六十丈皆石耳。惟中間一帶可四五尺、皆髑髏脛節齦齦然。關中之山數處亦爾。余聞之陝西舉人張守、後以訪之士大夫云果然。造化變幻。何所不有也。

   *

とある。思うに、こちらの叙述は魚化石のようにも読めぬことはない

「縣河灘上有乱石。石魚、長可二三寸。天然、鱗鬣、或雙、或隻、不等」「北越奇談」の原典は以下のような感じで訓じている。原典の略字を正字化し、歴史的仮名遣の誤りも訂して示す。更に〔 〕で私が必要と考えた送り仮名を添えた

   *

縣河(けんが)・灘上(たんしよう)に亂石(らんせき)有り。石魚(せきぎよ)〔は〕、長さ、二、三寸(ずん)〔あるべし〕。天然〔の〕鱗鬣(りんしゆ)〔あり〕、或いは雙(さう)、或いは隻(せき)〔にして〕不等(ふとう)〔たり〕。

   *

野島出版脚注には「縣河」は『傾斜が急で流れの早い川』とし、「灘上」『水浅く石多くして急に流れ、舟行の困難なる処』とある。「亂石」とはさまざまな形状を成した雑多な石塊の意味らしい。その中に「石魚」なるものがあると言うのであろう。「或いは雙、或いは隻にして不等たり」(最後は私は「等しからず」とは、鱗や「鬣」(これは「鬚(ひげ)」とも「鰭(ひれ)」ともとれる。両方でとっておく)の鱗(うろこ)や鰭(ひれ)や鬚(ひげ)は左右対称のものもあり、片方しかないものもあって、普通の魚のようなシンメトリーを成していない(「不等」)、の謂いと読んだ。]

2017/08/21

北越奇談 巻之三 玉石 其十四(古銭)

 

    其十四

 

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[やぶちゃん注:古銭の図。キャプションを電子化し、大きさを換算する。「其十三」の部分のキャプションの電子化注は既に示した

〈画像一枚目〉

○福井村古銭ノ内 珍銭数品(すひん)

徑八分[やぶちゃん注:「徑」は「わたり」で直径。二・四センチメートル。銭の左右に「半兩」。]

徑六分五厘[やぶちゃん注:二センチメートル弱。銭の左右に「三銖」銖は中国の重量単位で五百九十ミリグラム相当。本邦では江戸に貨幣単位として用いられ、一両の十六分の一、一歩(ぶ)の四分の一。「朱」に同じ。一銖(朱)は銀目(ぎんもく:銀貨相当)の約三匁七分五厘(十四グラム)に相当した。]

徑七分余[やぶちゃん注:「七分」は二・一二センチメートル。]

 文字かはり

     あり

[やぶちゃん注:「かはりあり」次とともに彫られた文字の手蹟が変わったものであるという謂いか? 右は「五」か? 左は先の「銖」。]

徑七分

 文字手かはり

      あり

[やぶちゃん注:左右に「布泉」。]

〈画像二枚目〉

二字  篆文

[やぶちゃん注:銭に「建炎元寳」(原典本文は「寶」の字を用いている(以下も同じ)。この銭の字は真書であるが、今一種、篆書体のものも鋳造したので、この「二字」はその二種の字のものが別に発掘品の中にあったことを示したものであろう。]

小銭

 徑六分[やぶちゃん注:二・四センチメートル。]

   余

[やぶちゃん注:銭に「紹興通寳」。]

二重輪

 徑八分

[やぶちゃん注:銭に「乾元重寳」。「二重輪」は「にじゆうのわ」で、銭の縁近くの二重になった輪のデザインのことを指していよう。]

中銭

 同一寸二分[やぶちゃん注:三・六センチメートル]

[やぶちゃん注:銭に「淳化元寳」。「中銭」本文にも出るが、不詳。野島出版脚注も『不詳』とする。]

中銭

 徑一寸

   二分

[やぶちゃん注:銭に「嘉熙通寳」。]

徑八分余(けんえんげんほう)

[やぶちゃん注:銭に「開運元寳」。]]

 

 古錢(こせん)を土中より掘り出(いだ)せること、所々(しよしよ)にありと雖も、皆、二、三百、乃至(なゐし)、一、二貫文に過ぎず。安永年中、蒲原郡(かんばらごほり)笈ヶ島(おいがしま)と云へる所にて、耕(たがや)して、泥中(でいちう)に古錢一壷(いつこ)を得(うる)。凡(およそ)十貫(じつくはん)ばかり、皆、永樂なり。文化三丙寅(ひのへとら)、頸城郡南新保村(みなみしんぼむら)、農夫某(それがし)、田を掘りて古錢五貫文を得(うる)。そのうち、古金(こきん)・銀錢(ぎんせん)混じりありしと云へ傳ふれども、其實(じつ)を知らず。銅錢(どうせん)は、皆、洪武・永樂・熙寧(きねい)等(とう)なり。偶(たまたま)、寛政四壬子(みづのへね)の春、伊夜日子(いやひこ)の梺(ふもと)、岩室(いわむろ)の温泉に浴し、數日(すじつ)逗留せしに、隣村(りんそん)、福井村某(なにがし)と云へる染屋、あり。藍の桶を埋(うづ)むとて古錢を掘る。大幅三尺、長六尺ばかりなる箱の形にして、只、一塊(いつくわい)に集まりたる也。その數(かず)、いかほどゝいふことを知らず。如ㇾ此(かくのごとき)もの二ツ相(あい)ならぶ。漸々(やうやう)にして、斧を持つて打碎(うちくだ)き、親子兄弟(けいてい)、夜々(やや)密(ひそか)に槌を以つて錆を落とし、分(わく)るに、百錢を得れば、二百錢は、皆、碎けて用ひがたし。其事、隣村なるが故に、早く聞傳(きゝつた)ひ侍れば、即(すなはち)、客亭(かくてい)の主(あるじ)を伴(ともな)ふて、其家に訪ね到(いた)り、かの古錢を賣(うら)んことを求む。家主(かしゆ)、即、これを許す。嚢中(のふちう)を探るに、只、金四兩あり。以(もつて)、古錢二十四貫文を得(う)。其後(そのご)、領主へ聞(きゝ)に達し、殘らず、差し上げたる由(よし)にて不ㇾ賣(うらず)。家に歸り、數日(すじつ)、これを弄玩するに、その錢(せん)、土(つち)に付(つ)きたる方は黑く麗(うるは)しけれども、錢錢(せんせん)相(あい)重なりたる所は綠錆(あをび)深く生じて文字も不分明(ふんめうならず)。漸(やうや)く磨きて、これを見る。尤(もつとも)一貫文のうちにして洪武・永樂、八、九百文あり。其余(そのよ)平錢(へいせん)數品(すひん)、珍錢、甚だ少(まれ)なり。凡(およそ)、品數(ひんすう)、百十一品(いつひん)、たまたま、中銭(ちうせん)混じりてあり。そのうち、珍と稱するもの、図のごとし。大半兩(だいはんりやう)【徑八分。】・小半兩【二。】・三朱【一。】・布泉(ふせん)【二。】・五朱【四。】・建炎元寶(けんえんげんほう)【二字、篆(てん)。】・紹興通寶【小形。一。】・中錢【八。】・乾重元寶(けんじうげんほう)【二重輪。一。】・開運元寶【一。】一・淳化元寶【大錢。一。】・嘉熙(かき)通寶【同。一。】嘉定(かてい)一(いちより)十六まで。其余(そのよ)、數品(すひん)擧ぐるに遑(いとま)あらず。皆、唐銭(とうせん)のみにして、和錢は一ツも、なし。永樂の渡り初めと見へて、鑢(やすり)目、明らかに分(わか)る。然(しか)れば、五百年前の乱を避け、他邦に走る者、これを埋(うづ)めたたりと覺ゆ。

 

[やぶちゃん注:「二、三百、乃至(なゐし)、一、二貫文」前者は「二百文か三百文」の謂い。 一貫は正規には銭千文を指すが、江戸時代は実際には九百六十文が一貫とされた。

「安永」概ね一七七二年から一七八一年まで。

「蒲原郡(かんばらごほり)笈ヶ島(おいがしま)」新潟県燕市笈ケ島。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「永樂」永楽通宝。明の第三代皇帝永楽帝の代の永楽九(一四一一)年から鋳造され始めた銅製銭貨。日本へも室町時代に日明貿易で大量に輸入されて江戸初頭まで永楽銭・永銭などと呼ばれて流通した。一文相当の銅銭一種のみ。

「文化三丙寅(ひのへとら)」一八〇六年。

「頸城郡南新保村(みなみしんぼむら)」現在の新潟県上越市南新保か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「洪武」永楽帝の父であった明の太祖第一代皇帝洪武帝が、即位した洪武元(一三六八)年から鋳造を始めた洪武通宝。一・二・三・五・十文の五種があった。

「熙寧(きねい)」熈寧元宝。熙寧北宋の第六代皇帝神宗が即位して熙寧(一〇六七年~一〇七七年)に改元、その年中に改鋳されたもの。

「寛政四壬子(みづのへね)」一七九二年。

「伊夜日子(いやひこ)の梺(ふもと)、岩室(いわむろ)の温泉」弥彦山の北方、現在の新潟県新潟市西蒲区岩室温泉。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「福井村」岩室温泉の北直近の現在の西蒲区福井。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「藍の桶」藍染用の藍汁を溜めた藍甕(あいがめ)。

「一塊(いつくわい)に集まりたる也」地中で徹底的に錆びついて、各個の銭が積み重なってくっ付いてしまって金属の塊りのようになってしまっていたのである。

「夜々(やや)密(ひそか)に」これもなるべく世間に知られぬように、毎夜、他の家が寝静まって後にまずはこっそりと加工してみたのである。

「百錢を得れば、二百錢は、皆、碎けて用ひがたし」まがりなりにも、原形をとどめた、ものになりそうな古銭百銭分を、その金属滓のようになった塊りから取り出すのに、倍の有に二百銭分を使用不能になるまで細かく粉砕せねば得られなかったというのである。

「客亭(かくてい)」旅館。

「四兩」以前に野島出版脚注では一両を今の二万円と換算していたから、それに従うなら、八万円。但し、江戸末期であるから、もう少し安く(一万円未満)見積もってもいいかもしれない。

「尤(もつとも)一貫文のうちにして洪武・永樂、八、九百文あり」この「尤」は「最も」で意味は「一貫文のうちにして」「最も」多かったのは「洪武・永樂」で「八、九百文」もあった、の謂いであろう。

「平錢(へいせん)」唐の開元以降の銭を指すらしいから、前の本文の叙述からみて、それ以降で宋代よりも前(北宋に入ると、鋳造の際の文字入れ等の面で飛躍的に技術が向上したらしい)までということになろうか。

「大半兩(だいはんりやう)」野島出版脚注に『漢の少帝恭の二年(前一八六年)八銖銭を行うとある。秦の始皇帝は制度を定め、一両を廿四銖とする』、秤で等量交換が出来る『貨幣を造』った。『秦の半両は大きく、径一寸二分程』、『重量二十四匁(重量が一両の半分)、即ち十二朱とな』るものであった。『漢の高祖は径を小さくして八朱半両を造』った。これは『三枚で一両となる。その後、六朱半両(四枚で一両)、四朱半両(六枚で一両)とだん』だん『小さくなる』とある。

「小半兩【二。】」以下の割注数字は枚数のことであろう。

「布泉(ふせん)」野島出版脚注に『中国古代の銭。後周書、武帝紀に、「保定元年、更に銭を鋳る。文仁布泉という。一布泉は五朱に当る、ともに行はる。」とある。二種ある。新羅の王寿が天鳳元年(一四年)に鋳造したものと、後周の武帝が保定元年(五六一年)に鋳造したものがある。前者は縣針書であり、後者は玉節篆である』とある。野島出版の注釈者は古銭に異様に詳しい。

「紹興通寶」「紹興」は南宋の初代皇帝高宗の治世の中後半で用いられた元号。一一三一年から一一六二年。

「乾重元寶(けんじうげんほう)」野島出版脚注に『唐の粛宗の乾元元年(七五八年)鋳造』とある。

「二重輪」野島出版版では『二乗輪』とある。誤判読であろう。

「開運元寶」「開運」は五代の第三の王朝である後晋に於いて石重貴の治世で用いられた年号。九四四年~九四六年。

「淳化元寶」野島出版脚注に『北宋の太宗、淳化元年(九九〇年)』以後の鋳造で、『鋳銭文は右廻り』で『輪読する。三文銭であろうと云う』とある。

「嘉熙(かき)通寶」野島出版脚注に「嘉熙」は『南宋理宗の代』の『嘉熙元年(一二三七年)』に鋳造されたもの、とある。

「嘉定(かてい)一(いちより)十六まで」「」は「より」の約物。野島出版脚注に『南宋の寧宗の代』の嘉定(一二〇八年から一二二四年)年間に鋳られた『嘉定通宝のことであると云う。この銭の背に一から十四までの数字が入って居て鋳造の年代をあらわしている。十六は誤』り、とある。

「永樂の渡り初め」野島出版脚注には、『徳川書府は慶長十三』(一六〇八)『年に永楽銭の通用を禁止した』とある。

「五百年前の乱」本書刊行(文化九(一八一二)年)の五百年前ならば、鎌倉幕府の滅亡(一三三三年)を指すか。しかし、永楽通宝は先に述べた通り、一四一一年から鋳造され始め、室町時代になってから渡来したのであるから、それはおかしい。さすれば、応仁の乱(応仁元(一四六七)年勃発)となるが、そうすると、四百年に満たない。不審な数字である。

北越奇談 巻之三 玉石 其十一・其十二・其十三(古金)

 

    其十一

 

 竹の町近村(きんそん)、搖上(ゆりあげ)と云へる所に、享保(きやうほ)の頃、農夫某(それがし)と云ふ者、一日、葱(ひともじ)を植ゆ。忽(たちまち)、鋤(すき)の物に當たる音あり。老夫、即(すははち)、金(かね)ならんことを思ふ。密(ひそか)に是を掘れば、一壷(いつこ)、重さ數十斤(すじつきん)なる物あり。土を拂(はらひ)て内を見れば、金光(きんくはう)、眼(まなこ)を射るがごとし。爰(こゝ)に、鶉衣(てゝら)を以つてこれを包み、家に歸りて深く藏(かく)し貯(たくは)ふと雖も、皆、異形(ゐぎやう)にして、用ゆべき所なし。偶(たまたま)、が父に二片と半を以つて、今の金(かね)交易(かえん)ことを求む。父、其金位(きんい)はかりがたきを以つて、是を新潟某(なにがし)に送る。其余(よ)、又、あることを知らず。老夫の云ふ、只、三片のみにして、殘す所なしと。其金(かね)、異形、左に圖す。

 

[やぶちゃん注:図は「其十三」の後に回した。

「搖上(ゆりあげ)」現在の新潟県新潟市西蒲区東汰上(ひがしよりあげ)周辺と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。河内一男氏の「越後の大津波伝説」によれば、この新潟市西蒲区東汰上及び同西汰上は江戸期には「ゆり上げ」と呼ばれていたとあり(以下、(アラビア数字を漢数字に代え、ピリオド・コンマは句読点に代え、一部に記号を補った)、以下のような文字通り、驚天動地の名称由来説が示されてある。

   《引用開始》

 現在は「よりあげ」と呼ばれ、標記のような漢字のあてられている両集落は、江戸期までは「揺り上げ」、または「ゆり上」と表記されていました。江戸時代の文献が二つあります。一つは「新潟県史資料編」(第八巻、付表一〇三三ページ)で、ここでは郷村帳とよばれる村々の一覧表の中にあります。もう一つは橘崑崙著の「北越奇談」巻の三、其の十一の本文中に確認できます。越後では「ゆ」が「よ」に転訛します。「ゆーさり」が「よーされ」、「ゆうべ」が「よんべ」です。両集落はかつては旧西蒲原郡巻町と西川町に所属し、西川をはさんで位置しています。現在の汰上は転訛したあとの当て字であることがわかります。

 この「ゆりあげ」の語源が名取市の閖上と同じとすれば[やぶちゃん注:宮城県名取市閖上(ゆりあげ)のリンク先の前の部分を参照されたい。]、いつの時かの大津波襲来時にここまで津波が遡った可能性があります。もっとも海陸の分布は今日と随分違っていたでしょうから、川を遡ったというより、近くまで海が入り込んでいた時期の津波だったのかもしれません。そうすると、壊滅的な被害を受けていた可能性があります。

   《引用終了》

「享保(きやうほ)」「きやうほう(きょうほう)」と二様に読む。概ね一七一六年から一七三六年。

「葱(ひともじ)」葱(ねぎ:単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ネギ Allium fistulosum)を指す女房詞(にょうぼうことば)の一つ。「ゆもじ」(浴衣:平仮名の頭語の「ゆ」に「もじ」を接尾)や「おくもじ」(奥様・頭語の「おく」に「もじ」を接尾)のように語尾に「もじ」(文字:単純に附加した「その文字」を指したり、「その文字の数」を指したりする一種の符牒)を附すタイプの一種(後は現在も普通に用いられている「おまる」(携帯便器)・「おかか」(削った鰹節)のように尊敬・丁寧の接頭語「御」由来の「お」「ごん」を語頭に附したものなどが主体。「おかちん」(餅)・「おだい」(飯)など。他に「こうこ」(沢庵)・「いしいし」(団子)・青物(野菜)・「なみのはな」(波の花/塩)・くのいち(女の忍びの者)等が挙げられる)。ウィキの「女房言葉」の総論部によれば、女房詞は『室町時代初期頃から宮中や院に仕える女房が使い始め、その一部は現在でも用いられる隠語的な言葉である。語頭に「お」を付けて丁寧さをあらわすものや、語の最後に「もじ」を付けて婉曲的に表現する文字詞(もじことば)などがある』。『省略形や擬態語・擬音語、比喩などの表現を用いる。優美で上品な言葉遣いとされ、主に衣食住に関する事物について用いられた。のちに将軍家に仕える女性・侍女に伝わり、武家や町家の女性へ、さらに男性へと広まった』とある。勘違いしてはいけないのは、「一文字」だからと言って「葱」の形状が「一文字」に似ているという意味ではない点である。葱は古くは「き」と呼ばれた。これは「気」や「息」の「き」と同語源と思われる、強い臭いを有するものを意味する文字である。それが「き」一文字であるから「一文字(ひともじ)」なのである。その証拠に「二文字(ふたもじ)」は同じネギ類である「韮」(ネギ属ニラ Allium tuberosum)を指すが、これは葱(ねぎ)を意味する「き」が「一文字」であるのに対し、「にら」が二文字であることに由来する。因みに「にもじ」(「に文字」)が別にあって、これもやはり、同属の「大蒜(にんにく)」(ネギ属ニンニク Allium sativum)を意味し、これは先と同じく頭語の「に」に「もじ」を接尾した語である。この三つは同じ接尾語「もじ」を介して、臭気の甚だしい同じような食物野菜という共通性で同類グループ語群を形成している点でも面白い。

「金(かね)」金物(かなもの)。

「密(ひそか)に」ここは文字通りで、あわよくば、何か金(かね)めになるような金物(かなもの)であって欲しい、そのためには人に気取られぬようにこっそりと、の謂い。

「數十斤(すじつきん)」一斤は百六十匁(一匁は三・七五グラム)に当たり六百グラム丁度、従って十斤は現在の六キログラム。六掛けで三十六キログラムであるが、男が独りで掘り出して(中身だけとしても)こっそり運び出すにはちょっと重過ぎるから、最低レベルの総重量二十キロ前後としておこう。

なる物あり。土を拂(はらひ)て内を見れば、金光(きんくはう)、眼(まなこ)を射るが「鶉衣(てゝら)」野島出版脚注に『振仮名「ててら」とあるのは「つづら」の転訛であろう。草木のつるで編んだ籠』とあるが、採らない。古語としての「鶉衣」(うづらごろも:歴史的仮名遣)」は鶉(キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica)の羽が斑(まだら)であるところから、継ぎ接(は)ぎのしてある着物。襤褸(ぼろ)な着物の意であり、「ててら」も古語で(「ててれ」とも言う)下着、肌「襦袢 (じゅばん)」や「褌(ふんどし)」の意であるからで、そもそもが後に「を以つてこれを包み」とある以上、籠などではなく、布地であることが明白であるからである。

「異形(ゐぎやう)」雰囲気から古銭ではあるらしいが、今まで全く見たことがない、異様に変わった形状と質を持っていたのである。

「用ゆべき所なし」とあるのは、金銀は含有しておらず、鉄や銅でも非常に粗悪な或いは強烈に錆びついて劣化したものででものあったか。

「二片と半」これは崑崙が後で「三片のみ」として図したものとは違うと読むべきであろう。

「今の金(かね)交易(かえん)ことを求む。父、其金位(きんい)はかりがたきを以つて、是を新潟某(なにがし)に送る」この農夫は、なにがしかの金に換金してもらおうと、崑崙の父(高井忠治郎。現在の新潟県長岡市寺泊当新田(とうしんでん)にある浄土真宗万福寺にある橘崑崙茂世の建立した墓碑に拠る。野島出版版の最後に附された解説に従った。茂世が生まれたのもこの寺(当時は薩埵山(さったさん)浄花庵と称した。この寺には良寛の師大森子陽の墓があり、大森は実に茂世とは同族の後裔である)と推定されている)に頼んだのであるが、父もそれを見てみるに、金めのものには到底見えなかったのであろう、しかしまあ、ともかくも古物としての価値もないとは言えぬと判断して、新潟のこの手の好事家或いは古物商に送って調べて貰ったというのであろう。その後の消息が全く記されていないから、まさに二束三文のものであったのであろう。それなりに古物的価値があったならば、即座に全部をこの農夫のところへ買い付けに来たであろうが、そんな記載もないから、そうした価値もなかったということであろう。

「其余(よ)、又、あることを知らず」掘り出された総重量から考えても、相当の量がなければならぬのに、それ以外のものが有意にあるかどうかは分らなかった。農夫は金めのものに交換出来ぬと知って、面白がって欲しがる周囲の連中などに分け与えてしまったのであろう。今回、改めてこの「北越奇談 巻之三 玉石」に記載するに当たり、崑崙が現地踏査に訪れた際には最早、「三片のみ」しか残っていなかったのである。

 

    其十二

 

 天明六丙午(ひのえうま)、苅羽郡(かりはこほり)五日市村の貧民某(それがし)、一男子(いちだんし)ありと雖も、家、貧なるが故に、奉公して東武にあること、巳に三年、只、老(おひたる)夫婦、家にありて、農事を努む。其子を迎(むかへ)んことを欲(ほつす)れども、不ㇾ能(あたはず)。茅屋(ぼうおく)の前に、只一大(おほいなる)[やぶちゃん注:このルビは「只一大」三字全部にかかっている。]梅樹(うめのき)あり。これを切(きつ)て薪(たきゞ)と成し、又、その根を掘るに、鋤、物に當たりて両断となる。取り上げて是を見るに、金光、燦然たり。凡(およそ)、十有五枚(じゆうゆうごまい)、老夫、その金(かね)なることを知らず、寺僧に示す。初めて其金なること知りて、終(つゐ)に領主に上す。領主、これに、通金(つうきん)數(す)百金を賜ふと云へり。其異形、左に図するごとし。

 

[やぶちゃん注:図は「其十三」の後に回した。

「天明六丙午」一七八六年。

「苅羽郡(かりはこほり)五日市村」現在の新潟県柏崎市西山町五日市か。ここ(グーグル・マップ・データ)。西直近に越後線の刈羽駅がある。

「東武」江戸。

「十有五枚」図のキャプション通りに忠実に数えてみると、厳密には計十八枚となる。

「通金(つうきん)數(す)百金」当時、現行で通用していた小判数百両。貧農の老夫婦、腰を抜かして立てずなったこと、これ、間違いない。]

 

    其十三

 

 明和年中(ぢう)、三島郡の内(うち)、金銀數(す)品を地中に掘得(ほりう)る者、在(あり)。その金銀、異形、是を見ると雖も、其人(ひと)、祕して不ㇾ顯(あらはさず)。其圖は左(さ)に記す。又、寛政四(し)壬子(みづのへね)、高田(たかた)關町(せきまち)と云へるにて、古銀(こぎん)一片を掘り出(いだ)す者あり。其形文(けいぶん)、左のごとし。【只此二図は友人某が図記して贈れるなり。】

 

[やぶちゃん注:「明和」概ね一七六四年から一七七二年まで。

「三島郡」「さんとうごほり」と読む。三島郡として現存するが、今は出雲崎町(いずもざきまち)一町のみ。近代以前は現在の長岡市の一部・新潟市西蒲区の一部・小千谷市の一部・燕市の一部を含む広域郡であった。

「寛政四(し)壬子(みづのへね)」一七九二年。

「高田(たかた)關町(せきまち)」現在の新潟県上越市南本町のことであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。高田城の南直近。

「此二図は友人某が図記して贈れるなり」後で見て戴くと判る通り、細部まで描写されていて、前二例のそれとは、雰囲気が有意に違う。友人が送付して呉れた細密に描かれたそれを崑崙が改めてここに転写したのである。]

 

Kokin


Kokin2

[やぶちゃん注:「其十一」「其十二」「其十三」の各条で語られた小古貨幣の崑崙による写し図。但し、原典では、後の「其十四」の途中に古銭の図とともに挟まって出る。キャプションを示し、度量衡の換算をしておく。で一分(ぶ)は三十八ミリグラムである。なお、私は古貨幣に全く興味がなく、これらを同定しようもない。悪しからず。その方面の識者の御教授があれば幸いではある。

 

〈見開き右頁〉

揺上村古金三片

三十二匁[やぶちゃん注:百二十グラム。]

同十六匁四分[やぶちゃん注:六十一・五グラム。]

同二十一匁七分[やぶちゃん注:三十一・三八グラム。]

 

五日市村古金十有五枚

長四寸 巾二寸余[やぶちゃん注:長さ十二・一二センチメートル。幅約六センチメートル強。]

三十七匁六分[やぶちゃん注:百四十一グラム。]

同三十一匁四分[やぶちゃん注:百十七・七五グラム。]

同二十四匁[やぶちゃん注:九十グラム。]

三十七匁一分[やぶちゃん注:百三十九・一三グラム。]

同十八匁六分[やぶちゃん注:六十九・七五グラム。]

〈見開き左頁〉[やぶちゃん注:「五日市村古金十有五枚」の続きなので続けた。]

重十八匁[やぶちゃん注:六十七・五グラム。]

同十八匁六分[やぶちゃん注:六十九・七五グラム。]

 無文金

 二十九匁四分[やぶちゃん注:百十・二五グラム。]

 十九匁四分[やぶちゃん注:七十二・七五グラム。]

 十三匁六分[やぶちゃん注:五十一グラム。]

 十二匁二分[やぶちゃん注:四十五・七五グラム。] 二枚

同二十一匁五分[やぶちゃん注:八十・六三グラム。]

 同形(どうぎやう)無文ノ金(きん)五枚

 只(たゞし)目かた おのおの相違あり

 

三島郡有得(ゆうとく)の者 高田小判(たかたこばん)といふ 共(ともに)三枚

〈最上部の表の図〉

表文[やぶちゃん注:「おもて」の「もん」(紋)。]

[やぶちゃん注:中に打たれてある文字は右が「越判」(推定)で、左が「高田」。]

〈中央の前の裏の図〉

背文[やぶちゃん注:「はいもん」。「○」の刻印と「田」の刻印(「高田」の「田」であろうか)、左上には楓の葉か鳥のようなデザインの刻印がある。]

厚サ三厘[やぶちゃん注:〇・九ミリメートルであるから、一ミリと見てよい。]

三匁九分五厘[やぶちゃん注:重量単位での「一厘」は一匁の百分の一だから三十七・五ミリグラムとなり、「五厘」は百八十七・五ミリグラムとなるから、「三匁九分五厘」は十四・八二グラム弱。]

 

〈最下段〉

上杉謙信 鋳ㇾ之(これをねる)

上杉謙信 鋳ㇾ之(これをねる)

[やぶちゃん注:貨幣の上部に謙信が特別に天皇家から下賜された「五七桐」の家紋が打たれてある。下部にあるのは、この左キャプションからは謙信の華押ということになるが、似てはいるが、かなり違う。或いは原画の筆者の誤りに加えて転写した崑崙のミスが重なったものかも知れぬ。

 

銀[やぶちゃん注:その下の貨幣の中の字は「價」か。]

御藏花降銀

 重二十匁[やぶちゃん注:七十五グラム。]

  形不定

新泻銀[やぶちゃん注:「泻」は「潟」の略字。]

柏崎

 村上銀

 此品 皆

  切てつかふ

[やぶちゃん注:最後は「切って使う」の意か? 集合体のものが連なっているのだろうか? 不詳。識者の御教授を乞う。]

銀小判

 

高田(たかた)関町古銀

重さ

二匁二分[やぶちゃん注:八・二五グラム。]

 

冒頭に述べた通り、以下は次の条で示す。]

2017/08/20

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 莎雞(きりぎりす)

 

Kirigirisu

 

きりきりす 絡緯 梭雞

      紡絲【爾雅翼】

莎雞

      【木利岐里須】

本綱【樗雞下云】莎雞居莎草間蟋蟀之類似蝗而斑有翅數重

下翅正赤六月飛振羽有聲人或畜之樊中

三才圖會云莎雞【又名梭雞】其狀頭小而羽大有青褐兩種率

以六月振羽作聲連夜札札不止其聲如紡絲之聲人家

養籠暖則數年居

△按莎雞青色者多褐色者少蓋褐【黃黒】色似麻油故俗名

 油莎雞【阿不良】聲最亮清爲珍養之樊中用甜瓜李或餳

 沙糖水冬亦能防寒則經數年其聲如言木里岐里須

 故名之一二聲而如鼓舌雌肥大善鳴

一種青色而尻有刺似帶劔者俗呼曰多知【大刀訓多知之謂乎】晝

不鳴夜鳴

    古今秋風にほころひぬらし藤はかまつゝりさせてふきりぎりす鳴

きりぎりす 絡緯〔(らくゐ)〕 梭雞〔(さけい)〕

      紡絲〔(ばうし)〕【「爾雅翼」。】

莎雞

      【「木利岐里須〔(きりぎりす)〕」。】

「本綱」【「樗雞」の下に云ふ。】、莎雞〔(きりぎりす)〕は莎草〔(はますげ)〕の間に居〔(を)り〕、蟋蟀の類〔なり〕。蝗〔(いなご)〕に似て、斑〔(ふ)あり〕、翅〔(つば)〕さ、數重〔(すうじゆう)〕有り。下の翅〔(つば)〕さ、正赤。六月、飛(とび)て羽を振(ふる)ひて、聲、有り。人、或いは之れを樊(かご)の中に畜(か)ふ。

「三才圖會」〔に〕云〔はく〕、莎雞【又、梭雞と名づく。】其の狀、頭、小にして、羽、大きく、青(あを)きと褐(きぐろいろ)の兩種有り。率(をほむ)ね、六月を以つて羽を振〔(ふる)〕はし、聲を作す。連夜(よもすがら)、「札札(ツアツア)」と止まず。其の聲、絲〔(いと)〕を紡(つむ)ぐ聲のごとし。人家、籠〔(かご)〕に養ひて、暖なれば、則ち、數年、居〔(を)〕る。

△按ずるに、莎雞は青色なる者、多し。褐色なる者、少なし。蓋し、褐【黃黒。】は、色、麻油に似たり。故に、俗、「油莎雞(あぶら)」と名づく【阿不良(あぶら)。】。聲、最〔も〕亮清〔(りやうせい)にして〕、珍と爲〔(な)〕し、之れを樊〔(かご)の〕中に養ふに、甜瓜(まくは〔うり〕)・李(すもゝ)或いは餳(しるあめ)・沙糖水を用〔ふ〕。冬も亦、能く寒を防げば、則ち、數年を經(ふ)。其の聲、「木里岐里須〔(きりぎりす)〕」と言ふがごとし、故に、之れを名とす。一、二聲で、舌〔(した)〕を鼓(う)つごとし。雌は肥大にして、善〔(よ)〕く鳴く。

一種、青色にして、尻に、刺〔(はり)〕、有り、劔を帶びたる者に似たり。俗、呼んで「多知」と曰〔(い)〕ふ【「大刀」を多知と訓ずの謂か。】。晝〔(ひ)る〕、鳴かず、夜、鳴く。

    「古今」秋風にほころびぬらし藤ばかまつゞりさせてふきりぎりす鳴く

[やぶちゃん注:現行では直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属 Gampsocleis で、青森県から岡山県に棲息するとするヒガシキリギリス Gampsocleis mikado 及び、近畿地方から九州地方を棲息域とするニシキリギリス Gampsocleis buergeri の二種に分ける考え方が一般的である。以下、ウィキの「キリギリス」から引いておく。成虫の頭部から『翅端までの長さはヒガシキリギリス』で♂は二十五・五から三十六ミリメートル、♀は二十四・五から三十七ミリメートル、ニシキリギリスで♂は二十九から三十七ミリメートル、♀で三十から三十九・五ミリメートルと、♀『の方がやや大きい傾向がある』。『緑色を基調とする緑色型と、褐色を基調とする褐色型がある』。『翅の長さも個体群によって長短の変異がある。一般にヒガシキリギリスでは翅が短く側面に黒斑が多く、ニシキリギリスでは翅が長く黒斑は』一『列程度か、あるいは全くない。ともに触角は長く、前脚には脚の直径より長い棘が列生する。オスは前翅に発音器をもち、メスは腹端に長い産卵器をもつ』。『生育環境により緑色の個体と褐色の個体が生じる。若齢幼虫は全身が緑色で頭部が大きい』。「バッタとの比較」の項。

・体型が短くて体高が高く、脚と触角が長いのがキリギリスの特徴。

・耳に相当する音の受容体は前脚の中ほどにある(バッタは胸と腹の間)。

・♀の尾部にはバッタに比して目立って長く伸びた、刀のような産卵管が発達する。

・前の二対の脚にある棘状突起がキリギリスでは目立つ。

本種の『成虫は夏に現れ、草むらなどに生息して他の昆虫などを捕えて食べる。鳴き声は「ギー!」と「チョン!」の組み合わせで、普通は「ギー!」の連続の合間に「チョン!」が入る』。『真夏の河原や草原で鳴いている昆虫としてよく知られるが、山間部にも生息している。縄張りを持つため、複数の個体が密集して生息することは無い』。『危険を感じると、擬死により落下して落葉の下に潜ろうとしたり、茂みの深い方へ深い方へ、下へ下へと素早く逃げ進んでいく性質を持つ。無闇に跳びはねて草上に姿を曝したりすることは少ない。とりわけ』、♀は鳴かないため、『居場所を特定できず、採集には労苦を伴う。体色も緑と茶のまだらもようで、鳴き声はすれども姿は見えずということが多い。こちらが近づくと足音を聞いて鳴くのをやめるので見つけるのはむずかしい。捕虫に成功しても後脚が折れたり切れたりしやすく、また鋭い大あごで手にかみついてくるので注意が必要。このように臆病であるため、飼育下でもその環境に慣れるまではケースの蓋の裏などの物陰にすぐに隠れてしまう』。卵は三~四月に『地中で孵化、地上に脱出した初齢幼虫は、草本上で生活を始める。初齢では体が小さいため、おもにイネ科草本植物の種子や花粉を食べて成長するが、成長するにつれ、鱗翅目の幼虫や小型の他の直翅目なども捕食するようになる。共食いもする。自らの陣取っている草本を中心とする縄張りを持ち、侵入してくる同種同性個体及び他種に対しては激しく攻撃を仕掛け、可能なら捕食する。肉食は不可欠であり、動物性タンパク質を摂らなければ』、『幼虫はうまく成長できず、またメスは産卵に支障を来す。飼育下でも、幼虫に植物性の餌だけを与えていると、元気に見えても』、ある日、突然、『死亡するというパターンがよく見られる。削り節やドッグフード等を与えるとガツガツとむさぼり、腹部がパンパンに膨れあがる様子が観察できる』。『春から初夏にかけて、林縁のハルジオン、ヒメジョオン、タンポポ等の花上に静止している幼虫をよく見かけるが、彼らは花粉を食べつつ、訪花してくる他の昆虫を待ちかまえている』。『前脚と中脚に生えているたくさんのトゲは、そういった獲物をとらえて逃がさないための適応である』。『脱皮及び羽化には困難が伴い、特に長い後ろ脚を抜くのには時間を要し、脱皮完了には』一『時間位を要する。この間』、『風に晒されて失敗することや、同種含む肉食性の外敵に喰われて死亡する個体もいる。このため比較的風の少ない、外敵の目に付きにくい夜間を選んで脱皮をすることが多く、特に明け方近くによく行われる。脱皮の姿勢は』六『本の脚で草の茎などにぶら下がり、頭をやや斜め下に向けた姿勢になって行う。バッタやコオロギなどでは水平面でも行われるが、キリギリスは長い脚が災いして脱皮の姿勢が限られてくるようである』。脱皮後、暫くは、体が固まるまで、『じっとしているが、動けるようになると』、まず、『自分の抜け殻を食べる。これは』『栄養補給のためだといわれるが』、『別に食べなくても正常に成長する』。『オスは前翅をこすり合わせて「チョン・ギーッ」と鳴く。活発に鳴くのは』、概ね、『日照量の豊富な快晴時に限られ、日が陰ったり、夕刻以降は原則として鳴かない。鳴いたとしても不規則で、次の声を発するまで時間を』空ける。♀は『尾端の長大な産卵管を地面に突き刺して産卵する。キリギリス亜科』Tettigoniinae『の孵化のメカニズムは不明な点が多く、適切な温度の上下が適切な回数加わらないと休眠プロセスが完了せず孵化しない。また、孵化が産卵の翌年のことも有れば、最大』四『年後になることもある。これらの点と激しい共食いによって多頭飼育が殆ど不可能なことから、日本で伝統的に親しまれてきた直翅目昆虫でありながら、スズムシと違って累代繁殖飼育方法が確立していない』。『野生下の成虫の寿命は生活環境にもよるが、平均』二『か月程度である。遅くとも』十一『月には全ての野生個体が死亡する。ただ、良好な飼育下では翌年初頭まで生存することもある。老化した成虫は付節が壊死して垂直面歩行能力が失われ、オスは鳴き声も弱々しくなる』。『繁殖の終わった成虫は冬を越すことなく死んでしまう。童話『アリとキリギリス』では歌ってばかりで冬への備えを忘れるなまけ者に描かれるが、それなりの生をまっとうするキリギリスにしてみれば失礼な話かもしれない』。『キリギリスは古くから日本人によって観賞用に飼育されてきた歴史を持つ。古典『虫愛づる姫君』にも登場する(今日のコオロギとしてではなく、「バッタ」によく似た緑色の虫として)』。『いわゆる「虫売り」という行商ビジネスは江戸時代中期に確立するが、キリギリスはスズムシ、マツムシと並ぶ彼ら「虫売り」の代表的商品の一つであった。当時、コオロギ科以外で唯一商品価値を持つ「鳴く虫」であったキリギリスは竹製のカゴ「ギスかご」に入れて販売されており、そのカゴが縁側や店先につるされてキリギリスが鳴き声を響かせるのは、江戸の夏の風物詩であった』。『これらは江戸時代の文化というより江戸文化であり、現在でも昆虫マニア的動機付けではなく伝統的娯楽としてキリギリスを飼う風習が伝播継承されている地域は関東一円がおもであるという。従って、「ギスかご」に入れられ飼われてきたキリギリスは、ヒガシキリギリスということになる』。『ただ、狭い「ギスかご」に入れてキュウリやナスだけ与えるという伝統的飼育手法は拙劣というべきで、それらの野菜に含まれる最低限の水分により短期間生存させておくに過ぎなかった。長期飼育技術において古くからより進歩していたのは』寧ろ、『中国であり、穀類や小昆虫といったタンパク源を与えて晩秋までコンスタントに生存させることができていた』。『現在の日本では飼育技術も大幅に進歩し、プラスチック水槽を飼育ケースとし、野菜よりも穀類、イネ科草本の穂、観賞魚用のペレット、ドッグフード等を豊富に与え、飲み水も別途用意することで、長期間』、『キリギリスを健康に生存させることが可能になっている。とりわけメスは延命効果が顕著で、飼育環境が良好であれば、正月を迎えることすらある』とある。

「梭雞〔(さけい)〕」「梭」は「杼」とも書き、「ひ」と読んで、機(はた)織りの際に横糸を巻いた管を入れて、縦糸の中を潜らせる、小さい舟形の道具を指す。キリギリスはその鳴き声から、古くから「機織虫(はたおりむし)」「機織女(はたおりめ)」といった異名を有してきたが、ここに並ぶそれらも多くがそうした由来を感じさせる。

『「本綱」【「樗雞」の下に云ふ。】』「本草綱目」では、「蟲之二」の「卵生類」の「樗雞」の条に載っている。

「爾雅翼」南宋の羅願(一一三六年~一一八四年)が撰した(一一七四年頃)動植物事典。草・木・鳥・獣・虫・魚に分類されている。

「莎草〔(はますげ)〕」単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科カヤツリグサ属ハマスゲ Cyperus rotundus。乾地に生える多年草雑草。「スゲ」と名がついているが、同じカヤツリグサ科 Cyperaceae に属するスゲ属 Carex ではない。海浜の砂浜にも植生し、「浜菅」の名もこれに由来するが、実際には庭や道端で見かけることの方が多く、繁殖力・生命力ともに旺盛。

の間に居〔(を)り〕、蟋蟀の類〔なり〕。

「蝗〔(いなご)〕」四項後の「𧒂螽」で出る。直翅(バッタ)目バッタ亜目イナゴ科 Catantopidae のイナゴ類。

「翅〔(つば)〕さ、數重〔(すうじゆう)〕有り」不審。言わずもがなであるが、昆虫綱の内の大部分を含む有翅亜綱 Pterygota の昆虫の翅は総て四枚である。キリギリスの大きな♀個体などが、そんな風な印象を持たせたものか?

「樊(かご)」「樊」(音「ハン」)には籠・鳥籠の意がある。

「札札(ツアツア)」知られた「古詩十九首」の「十」の冒頭はまさに、

 

迢迢牽牛星  迢迢(てうてう)たる牽牛星

皎皎河漢女  皎皎(かうかう)たる河漢の女(ぢよ)

纖纖擢素手  纖纖(せんせん)として素手(そしゆ)を擢(あ)げ

札札弄機杼  札札(さつさつ)として機杼(きぢよ)を弄す

 

である。「迢迢」は遥かに遠いさま。「河漢」は天の川。「札札」は先の「梭(ひ)」(ここでの「機杼」)を操る際に立つ音のオノマトペイア。現代中国音では「ヂァーヂァー」が近い。

「麻油」この場合は「褐色」であるわけであるから、胡麻油(現代中国語では「麻油」と言う)のことと考えてよいであろう。

「油莎雞(あぶら)」三字へのルビ。

「亮清〔(りやうせい)にして〕」東洋文庫版訳では『亮清(すきとおる)で』と意味訓的な変則ルビを附してある。

「甜瓜(まくは〔うり〕)」真桑瓜。双子葉植物綱スミレ目ウリ科キュウリ属メロン変種マクワウリ Cucumis melo var. makuwa

「李(すもゝ)」バラ目バラ科スモモ亜科スモモ属スモモ Prunus salicina

「餳(しるあめ)」汁飴。水飴のこと。

「沙糖水」砂糖水。

を用〔ふ〕。冬も亦、能く寒を防げば、則ち、數年を經(ふ)。其の聲、「木里岐里須〔(きりぎりす)〕」と言ふがごとし、故に、之れを名とす。一、二聲で、舌〔(した)〕を鼓(う)つごとし。雌は肥大にして、善〔(よ)〕く鳴く。

「刺〔(はり)〕」既に注した通り、♀の産卵管。なかなかに目立ち、確かに武士が大振りの太刀を佩いているかのように見える。

「秋風にほころびぬらし藤ばかまつゞりさせてふきりぎりす鳴く」「古今和歌集」の「卷第十九 雜體」の在原棟梁(むねやな ?~昌泰元(八九八)年:かの在原業平(天長二(八二五)年~元慶四(八八〇)年)の長男)の一首(一〇二〇番歌)、

   寛平御時(くわんぴゆあうのおほむとき)、后宮(きさいのみやの)歌合の歌

 秋風にほころびぬらし藤袴(ふぢばかま)つゞりさせてふきりぎりす鳴く

「寛平御時、后宮歌合」は宇多天皇の生母班子主催の歌合せで寛平元(八八九)年から五(八九三)年までに行われたもの。「ほころぶ」は秋風で藤袴(キク目キク科キク亜科ヒヨドリバナ属フジバカマ Eupatorium japonicum)の花の蕾が開いてしまうことに、織糸の結び目が解(ほど)けるの意を掛け、それを「きりぎりす」が「つづりさせ」(「ほころびを織り糸で刺し縫いなさい」)と鳴いているよ、と洒落たもの。但し、この「きりぎりす」は古典文学研究では本種キリギリスではなく、蟋蟀(コオロギ)とされる。]

北越奇談 巻之三 玉石 其十(古鏡)

 

Kokyou

 

[やぶちゃん注:原典はこの位置(柱「其十」の前で、見開きの左頁全部を使用。前の勾玉等の絵が右頁後半(前半は同本文)にある)に挿絵(崑崙自筆)が載る。以下、キャプション。直径は約二十四センチメートル、背紋に描かれた楽器は七孔の横笛(龍笛(りゅうてき)か)能管(のうかん)か篠笛(しのぶえ))・笙及び笙が湾曲したような楽器(竽(う)か?)及び鉦か鼓か(同心円状のもの)。四方(図の東西南北位置)に配されたものがよく判らないが、或いは対称図形化した箜篌(くご)か或いは琵琶のような弦楽器のそれようにも見える。間には雲形が挿入されて飛天による天界の楽の音をイメージするかのようにも見える。「綠錆」は後の「其十四」の古銭の条で本文に「あをさび」と訓じてある。所謂、緑青(ろくしょう)である。「宣估銅」の部分は「俗に宣(の)ぶる、估銅(こどう)と云へる物の如し」ではないか? 「估銅」は純粋な銅ではなく、鉛の上に銅をかぶせた物(中国ではこの熟語で銅銭でも粗悪な悪貨を言う)を指す語だからである。]

 

古鏡(こきやう)【徑(わたり)八寸】畧圖

 

 背文

  樂器

   図のごとし

 

 鏡面綠錆

 地が松の

     いろ

  俗に宣估銅と

    いへるものゝ

        ごとし

 

    其十

 

 伊夜日子(いやひこ)神社北一里、竹(たけ)の町(まち)村、此所(このところ)、菖(あやめ)の観音(くはんおん)と云へる在(あり)て、㚑驗(れいげん)著じるき古跡なり。四面、竹皇(ちくくはう)、欝然として、幽遠、量(はかり)なし。毎年、三、四月、此(この)竹を伐(きる)時は、必ず、雨、降る。其奥に禪院あり。院の後ろ、山の中段に菖蒲塚(あやめづか)と名付(なづく)るもの、方(ほう)五、六間、四面高一丈五尺、又、其の下に猪ノ隼人(ゐのはやと)の塚あり。方三、四間、高一丈ばかりなり。髙倉(たかくら)の乱に賴政戰死の後(のち)、臣(しん)隼人、菖蒲(あやめ)の前(まへ)を供奉(ぐぶ)して北越に落下(おちくだ)り、終(つゐ)に此地に葬(ほふむ)ると云へ傳ふ。過(すぎ)し頃、人ありて、密(ひそか)にかの塚を發(あば)くに、内、只、一(いつ)小缾(しようへい)・古鏡一面あり。遂に是を市(いち)に賣る。相傳(あいつたへ)て其古鏡は今が友、釈迦塚谷江(しやかづかたにゑ)氏(うぢ)の家(いへ)に藏(おさ)む。其鏡(かゞみ)、經(わたり)八寸、背文(はいもん)、樂器(がくき)、面(おもて)、地金(ぢがね)粗く、いまだ水銀を下(くださ)ざるがごとし。最(もつとも)唐鏡(とうきやう)也。小缾は、今、所在を失す。

[やぶちゃん注:野島出版版はこの条、異様に多くの注が附されてある。まず、本文の後には全体が三字下げで『「備考」』とあって、『昭和十三年三月十日、文部省より重要美術品の認定せられたるもの左の如し』という前振りの後、

   《引用開始》

一、陶製壺 二口 二、鋼製経簡 一口 三、銅製経簡残片 一口 四、銅製梅花双雀文鏡 一面 五、銅製菊花双雀文鏡 一面 六、銅製萩薄菊花双雀文鏡 一面 七、銅製草花僧雀文鏡一面 八、銅鏡残片 二ケ 九、青白磁小壺 一口 十、青白磁盒子 二口

   《引用終了》

とある。これらは後に注する菖蒲塚(あやめづか)古墳の出土品である。なお、「盒子」は「ごうし・ごうす」(「合子」とも書く)と読み、身と蓋(ふた)とを合わせる意で、蓋のある比較的小さな器の総称である。このリストに就いては後の「菖蒲塚(あやめづか)」の注を参照のこと。

「伊夜日子(いやひこ)神社」現在の新潟県西蒲原郡弥彦(やひこ)村弥彦(やひこ)にある彌彦(いやひこ)神社。この一帯は既出既注。

「竹(たけ)の町(まち)村」新潟県新潟市西蒲区竹野町。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、現在の竹野町地区は直線でも彌彦神社から北へ六キロメートル以上はある。

「菖(あやめ)の観音(くはんおん)」後の「禪院」は誤り。竹野町に現存する真言宗金仙寺。創建は治承四(一一八〇)年にここに出る源頼政の妻菖蒲の前が夫の菩提を弔うために小堂を建立して観音像(伝弘法大師作)を安置したのが始めとされ、菖蒲の逝去後、嘉禄二(一二二六)年に旧従者達が道弁和尚を招いて堂宇を建立、新たに開山としたという。江戸時代に入ると、三根山藩主牧野家の祈願所となり、寺領を寄進されるなどの庇護を受けた。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「菖蒲塚(あやめづか)」以下の話は伝承であって実際には前方後円墳。上記グーグル・マップ・データの金仙寺の西北直近にある。ウィキの「菖蒲塚古墳」(あやめづかこふん)を引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。角田山(かくだやま:既出既注。新潟県新潟市西蒲区。標高四百八十一・七メートル)『東麓の台地先端部にある。本古墳は金仙寺境内に所在し、その周辺は「越王」(こしわ)と通称されている所である。 全長五十三メートル、後円部径三十三メートル、同高さ三メートルで、前方部高さ二メートルと後円部より前方部が低い。 新潟県内では最大クラスである。日本海側で最北端に位置する柄鏡形の古式前方後円墳であり、一九三〇年(昭和五年)に国の史跡に指定された』。『内部主体は明らかでない。石室を有しない木棺直葬ではなかったかと推定されている。築造年代は五世紀前半と推定されている』。『当古墳の最も古い資料としては一八一二年(文化九年)刊行の「北越奇談」で、盗掘され、鏡が出土したことが記されている。その鏡と伝えられている鼉竜鏡(だりゅうきょう)が新潟県の有形文化財に指定されている。径二十二・七センチメートル、仿製鏡(ぼうせいきょう)』(リンク先の注に『中国鏡を摸して、国内で製作した鏡』とある)『で、古墳時代前期のものと推定されている。言い伝えにより、古墳の中には源頼政の妻菖蒲御前が葬られた墓とされている。また、隣接する隼人塚古墳には、家臣である猪隼太の墓とされた(古墳の造成時期は、当該古墳と同時期と考えられている。)』。『二〇〇二年・二〇〇三年に古墳の範囲の確認のために巻町教育委員会が調査を行い、その結果、緩やかな傾斜を持つ台地の上に全体の形を設計した後、周囲に溝を掘り、その際に出た土などで盛り上げて作られた墓であることが判明。その際、土質の異なる土を交互に盛るなどして強化する工夫がなされた』。『当古墳の墳丘上には、平安時代から室町時代にかけて経塚が営まれている。経塚から出土した銅製経筒、陶製壺、銅鏡等の遺物は「越後国菖蒲塚古墳経塚出土品」として一九六二年(昭和三十七年)に国の重要文化財(考古資料)に指定されている(金仙寺蔵)』。「出土品」の項。●『壺』:『溝から発見。古墳の上から転落したと考えられる。壺の特徴から、古墳時代前期の後半に作られたことが明らかになった』。●『銅鏡』:『江戸時代に出土しただ龍鏡。直径二十三・七センチメートルで新潟県内では最大の鏡である。新潟県の有形文化財に指定されている。個人蔵(東京国立博物館に寄託)』(紋様に基づく名称からお分かりと思うが、老婆心乍ら言っておくと、これはここで挿絵として崑崙が提示した鏡とは全く違うものである。新潟県立生涯学習推進センターの運営になる「ラ・ラ・ネット」内の鼉竜鏡がそれであるが、楽器紋様に記載は一切なく、画像が小さいが、拡大する限り、本図の鏡ではない)。●『勾玉・管玉』:『新潟市歴史博物館に保管されている。勾玉(長さ二・三センチメートル)はヒスイ製で一点、碧玉製管玉(長さ一・七~三・四センチメートル)は七点。古墳の後円部の埋葬室内に副葬品として納められていた』。以下の「文化財」にリストが載るが、それを見て戴くと、野島出版版の本文の『備考』が、本菖蒲塚古墳のリストであることがはっきりと判る。

「五、六間」九・一から十一メートル弱。「方」とあるが、円墳部の崩れたものであろう。

「一丈五尺」約四メートル五十四センチメートル。

「三、四間」五・五から七・三メートル弱。方墳部。

「一丈」約三メートル。

「髙倉(たかくら)の乱」は後白河天皇の第三皇子以仁王(仁平元(一一五一)年~治承四(一一八〇)年)の平家打倒の挙兵を指す。彼の邸宅が三条高倉にあったことから「高倉宮」と称された。事前に露見して、治承四年五月二十六日(一一八〇年六月二十日)に山城国宇治(現在の京都府宇治市)の宇治川での橘合戦を以って、以仁王は討ち死にし、ともに戦った源頼政(長治元(一一〇四)年~治承四(一一八〇)年)は同日、平等院の庭で自害した。

「賴政戰死の後(のち)、臣(しん)隼人、菖蒲(あやめ)の前(まへ)を供奉(ぐぶ)して北越に落下(おちくだ)り」野島出版脚注に『源三位頼政は、戦不利なるを見て「越後は自分の釆地』(さいち:領地)『であり』、『縁者も多いといい、供の武士に猪ノ早太守岡崎藤平義高、小國頼作頼忠等の供をつけて菖蒲の前を越後に下したと寺伝にある』(この家臣の名の文字列は読み難いが、推定では切れそうにないのでそのままとした。「猪ノ早太」(いのはやた)が先に出た「猪ノ隼人(ゐのはやと)」と読めはする)とある。

「菖蒲(あやめ)の前」(生没年未詳)源頼政の妻で、元は鳥羽院に仕えていた女官。講談社の「日本人名大辞典」によれば、以仁王の挙兵に先だって彼女自身の故郷であった伊豆長岡へと逃れ、頼政の死後に伊豆西浦の禅長寺に堂を建立、出家して名を西妙と改め、一説には建保三(一二一五)年に八十九歳で死去したという、とある。

「終(つゐ)に此地に葬(ほふむ)る」菖蒲の前のこと。

「小缾(しようへい)」「缾」は「瓶」に同じい。小さな瓶(かめ)。

「釈迦塚谷江(しやかづかたにゑ)」野島出版脚注に『南蒲原郡今町字釈迦塚谷江家』とある。ここは現在の新潟県見附市釈迦塚町である。(グーグル・マップ・データ)。菖蒲塚古墳からは南へ二十キロメートルも離れる。

「いまだ水銀を下(くださ)ざるがごとし」水銀アマルガムをガラスに付着させて鏡を作る方法は一三一七年(日本は鎌倉時代末期)にベニスのガラス工が発明したもので、そうしたガラス鏡は天正一八(一五四九)年にポルトガルの宣教師フランシスコ・ザビエルが贈り物として初めて日本に齎したと言われており、本邦で初めてガラス板が製造されたのは十八世紀後半の泉州(大阪府)佐野であったとされる(三重硝子工業株式会社」公式サイト内知識」に拠る)。

「最(もつとも)唐鏡(とうきやう)也」最も古い形の中国様式(中国製ではない)の鏡。野島出版脚注にも『崑崙は唐鏡といっているが、考古學者の研究によれば、中國鏡ではなくて、我國で鋳造した彷製鏡で、神獣鏡を模したものであろうという』とある。]

2017/08/19

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 竈馬(いとど)


Itodo

いとど  竈雞

いとじ

竈馬

     【古云 伊止止

      今云 伊止之】

ツアゥ マアヽ

 

本綱其狀如促織稍大脚長好穴竃旁俗言竈有竈馬足

食之兆也

△按竃雞似促織而小色亦淡身團而足長秋夜鳴聲似

 蚯蚓而細小最寂寥

 

 

いとど  竈雞〔(そうけい)〕

いとじ

竈馬

     【古へ、「伊止止〔(いとど)〕」と云ひ、今に「伊止之〔(いとじ)〕」と云ふ。】

ツアゥ マアヽ

 

「本綱」、其の狀〔(かたち)〕、促織〔(こほろぎ)〕のごとく、稍(やや)、大〔(おほき)〕に〔して〕、脚、長し。好〔(このみ)〕て竃〔(かまど)〕の旁〔(かたはら)〕に穴〔(あな)す〕。俗の言〔(いは)〕く、「竈に竈馬〔(いとじ)〕有れば、食を足(た)すの兆(きざし)なり」〔と〕。

△按ずるに、竃雞〔(いとじ)〕は促織(こうろぎ)に似て、而〔(しか)〕も小さく、色、亦、淡(うす)し。身、團〔(まろ)〕くして、足、長し。秋の夜、鳴〔く〕聲、蚯蚓(みゝづ)に似て而〔(しか)〕も細〔く〕小〔さく〕、最も寂寥(さび)し。

 

[やぶちゃん注:直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目カマドウマ上科カマドウマ科カマドウマ亜科カマドウマ属カマドウマ亜種カマドウマ Diestrammena apicalis 或いはその近縁種或いは亜種。ウィキの「カマドウマ」竈馬)によれば、形状的には同じ剣弁(キリギリス)亜目 Ensifera のキリギリス(次項)・コオロギ(次々項)・ウマオイ(キリギリス科ウマオイ属ハヤシノウマオイ Hexacentrus japonicus・ハタケノウマオイ Hexacentrus unicolor)にやや似た部分はあるものの、『成虫でも翅を』持たないために翅による飛翔は出来ず、専ら、『長い後脚で跳躍する。その跳躍力は非常に強く、飼育器の壁などに自ら激突死してしまうほどである。姿や体色、飛び跳ねるさまが馬を連想させ、古い日本家屋では竈の周辺などによく見られたことからこの名前が付いた。俗称として「便所コオロギ」などと呼ばれることがある。日本列島及び朝鮮半島の一部に分布するが、地域によっては体の色や交尾器の特徴などが微妙に変化しているため、いくつかの亜種に区別されている』。『カマドウマという和名は、厳密には北海道から九州の地域と韓国に分布する原名亜種(複数ある亜種のうち最初に学名が付けられた亜種)のみを指し、他の亜種には別の和名が付いている。しかし』、『カマドウマ科の昆虫は互いに似たものが多く、日本産のカマドウマ科だけでも』三亜科七十『種以上が知られ、専門家以外には正確な同定は難しい。したがって、明確な種別の認識なしにこれらカマドウマ科の昆虫を一まとめにカマドウマと言うこともある。この場合は「カマドウマ類」の意か、別種を混同しているかのどちらかである』原名亜種のカマドウマの体長はで約一・八~二・一センチメートル、で一・二~二・三センチメートルほどで、は『腹部後端に長い産卵管があり、この産卵管を含めると』二・一~三・三センチメートル『ほどになる。他のカマドウマ科の種と同様に、成虫でも翅をもたない。体はやや側扁し(左右に平たく)、横から見ると背中全体が高いアーチを描いた体型をしている。背面から側面にかけては栗色で、腹面や脚の付け根、脛節などは淡色となる。各部には多少の濃淡はあるが、目立つ斑紋はない。幼虫も小型である以外は成虫とほぼ同様の姿をしているが、胸部が光沢に乏しいことや、』第一跗節から第三跗節(ふせつ:節足動物の脚の最終節。脛節の下にあり、昆虫では通常は数節以内に分かれていて(脛節に近い方を第一跗節と呼び、最終跗節の先には小さな爪を有する)の『下面に多数の剛毛があることなどで成虫と区別できる』。『顔は前から見ると下方に細まった卵型で、口付近には』一『対の長い小顎鬚(こあごひげ)がある。体長の』三『倍以上ある触角で、暗所でも体の周囲全体を探れる。』三『対ある脚のうち後脚は特別に発達して跳躍に適した形になっており、腿節は体長とほぼ同じ長さがあり、脛節は体長よりも長い』。『主に身を隠せる閉所や狭所、暗所、あるいは湿度の高い場所などを好むため、木のウロ、根の間、洞穴などに生息し、しばしば人家その他の建物内にも入る。また時には海岸の岩の割れ目に生息することもある。古墳の石室内にも群生し、しばしば見学者を驚かせる。夜行性のため日中はこれらの隠蔽的な空所にいるが、夜間は広い場所を歩き回って餌を探す。夜に森林内を歩けば、この仲間がよく活動しているのを見ることができる(特に夏季)。また後述の通り樹液にも集まるため、カブトムシ等の採集のために設置したトラップに大量に集まるということも珍しくない』。『極めて広範な雑食性。野生下ではおもに小昆虫やその死骸、腐果、樹液、落ち葉などを食べている。飼育下ではおおよそ人間が口にする物なら何でも食べ、山岳部では好んで羊の生き血をすする』(これは知らなかった。驚き!)。『動物質、植物質、生き餌、死に餌を問わない。野外でも共食いがしばしば発生しているという』。『繁殖は不規則で、常に卵、成虫、様々な齢の幼虫が同時期に見られる』。『天敵はヤモリ』、『ネズミ、カエル、各種鳥類、寄生蜂、ゲジ、カマキリ、アシダカグモ等である』。『カマドウマ科にはよく似たものが多いため正確な同定はかなり難しく、単なる絵合わせによって正しく同定をすることは不可能で、脚の棘や交尾器の形態などの詳細で正確な観察に基づいて同定しなければならず、それほど簡単ではない。特に幼虫の場合は専門家でない限り正確な同定はほぼ不可能と考えてよい』。但し、『ただし家屋や納屋などに見られるカマドウマ科』Rhaphidophoridae『のうち、胴体や脚に濃淡の斑紋が明らかなものは少なくともカマドウマではなく、多くは』Tachycines属クラズミウママ Tachycines asynamorus)かカマドウマ属マダラカマドウマDiestrammena japonica『である。また一つの地域に生息する種は限られるので、産地や環境からある程度の種に絞り込むことも可能である』。『竈馬という風流な名』を持ち、『特に大きな害をなさないこの虫も、今日では』「便所蟋蟀(べんじょこおろぎ)」『というイメージの良くない名とともに不快害虫として忌み嫌われることも少なくない。かつての日本家屋は密閉度が低かったため、カマドウマが周辺の森林などから侵入し、多くの日陰や空隙と共に食料も提供してくれる土間の隅などに住み着くことも多かった。そのため家人にとっては馴染みの日常的な存在であったが、自然が住宅から遠ざかり家屋の構造や住環境も変化した結果、カマドウマ類が生息する家も少なくなった。更に殺虫剤の発達と相俟って、人間に発見されれば即座に殺傷駆逐の対象とされることも多くなり、駆除対象以外での日本人とのかかわりが少なくなっている』とある。そういえば、私も小さな頃は勝手口の風呂釜の横で何時も見かけたのに、気がついてみると、もう何十年も見ていない。ちょっぴり、淋しい気がした(但し、先にあるように私が少年の頃にしばしば出逢ったのはその色から、カマドウマではなく、クラズミウママかマダラカマドウマであったのだと気がついた)。私はあの頃、「えびばった」と呼んでいたのをふっと思い出した(その頃、芭蕉の「海士(あま)の屋は小海老にまじるいとどかな」の句は知らなかった)が、彼らは他に本文でも吉兆とするように、「カミノツカイ」「ダイコクノヒゲ」「イドカミサマ」「エビスノウマ」「フクコオロギ」や、よく跳ねることから兎に譬えて「ウサンコ」「ウサギムシ」「カベウサギ」、同じく猿で「オサルコオロギ」「サルッチ」、猫で「ネコギス」「ハネネコ」という別名もあるようである。

 

「竈雞〔(そうけい)〕」「雞」は「鷄」(にわとり)に同じい。よく飛び跳ねるところの比喩であろうが、カマドウマ類の中には脚部が先端にゆくに従って、有意に赤く見えるものがおり、これは私には鷄の鶏冠(とさか)の色を連想させるし、の腹部末端の尖って突き上がる産卵管も赤く、これは私にはやはり鶏の蹴爪(けづめ)のようにも見えることを言い添えておく。

「促織〔(こほろぎ)〕」直翅目剣弁亜目コオロギ上科 Grylloidea のコロオギ類。

「竈馬〔(いとじ)〕」「かまどむま」と読みを振りたくなったが、先の今の呼称に従った。後の「竃雞〔(いとじ)〕」も同前。

「食を足(た)すの兆(きざし)なり」食物に不足して困ることがないことの吉兆とする。先の異名の「神の使い」「大黒の髭」(長い触角を喩えたのであろう)「恵比寿様」(大黒も恵比寿も福の神である)「福蟋蟀」もそうした系列のものと読める。

「秋の夜、鳴〔く〕聲」無翅であるカマドウマ類は鳴くことは出来ないから、これは他のバッタ類の鳴き声の誤認である。以下で「蚯蚓(みゝづ)に似て而も細く小さく、最も寂寥(さび)し」とあるところからは、環形動物門貧毛綱 Oligochaeta のミミズ類の鳴き声と誤認された、直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae ケラ(螻蛄)類の鳴き声と限定して考えてもよいとも思われる。]

北越奇談 巻之三 玉石 其八・其九(白玉環・勾玉・管玉)

 

    其八

 

 柏崎の西南、海岸に臨みて、三十番神(ばんじん)の社(やしろ)あり。過(すぎ)し頃、此山の梺(ふもと)を掘りて一ツの壷を得る者あり。内、皆、赤土(せきど)。是を海潮(かいてう)に洗ひば、其内、白玉環(はくぎよくくはん)一双・勾玉(まがたま)・管玉(くだだま)等、數品(すひん)、有(あり)。皆、小児(しように)等(ら)に分かち與(あた)ふ。後(のち)、知れる者あり。漸々(やうやう)にして、その品(ひん)、五ツ六ツを得ると雖も、其余(そのよ)、所在を失(しつ)す。惜しむべきの甚(はなはだし)きなり。偶々(たまたま)、是を見るに、靑緑(せいりよく)・白色(はくしよく)、奇玩、絶品なり。密(ひそか)に按ずるに、昔より、帝都の乱を避けて、貴人(きにん)の北越に逃(のが)れ住める者、甚(はなはだ)多し。今、その系跡(けいせき)、定(さだ)かならずと雖も、是等も、其人を葬(ほうむ)れる地なるべきか。

 

[やぶちゃん注:現在の柏崎市番神二丁目に現存する「番神堂(ばんじんどう)」(柏崎市指定文化財・有形文化財・建造物に指定)。柏崎市公式サイト内のによれば、これは柏崎市西本町にある日蓮宗妙行寺(みょうぎょうじ)の境外仏堂で、文永一一(一二七四)年に日蓮が佐渡流罪から赦免された帰り、三十番神(後注参照)の霊を請じ迎えて祀ったものと伝えられているものとある。(グーグル・マップ・データ)。

「三十番神」国土を一ヶ月三十日(旧暦は大の月が三十日)の間、交替して守護するとされる三十の神。神仏習合に基づいた法華経守護の三十神(先の崎市公式サイト内の柏崎市ページに、その総ての神名とその祭日の一覧が載る)が著名。初め、天台宗で、後に日蓮宗で信仰された。

「白玉環」軟玉(なんぎょく:nephrite:ネフライト:翡翠のなかで硬度の低い、半透明で乳白色を呈したもの)で作った環状の装飾品。腕輪・指輪・耳輪などにするものの、特に中国では古えより男子が腰に帯び、それを狭義に「玉環」とも呼んだ。但し、ここはそれに限定する必要はない。

「勾玉」コンマ形に湾曲した弥生・古墳時代の装飾用の玉。丸い部分の貫通孔に紐を通して首飾りとした。瑪瑙・翡翠・水晶・琥珀・ガラスなどで作った。獣類の歯牙に孔(あな)をあけたものに起源をもつといわれ、縄文時代にも不整形のものがある(「大辞泉」の記載)。

「管玉(くだだま)」「くだたま」とも。ウィキの「によれば、『管状になっている宝飾装身具の部品、ビーズの一形態で、管に糸を通して腕飾り(ブレスレット)や首飾り(ネックレス)などとして』現代でも『用いられる。古代においてはガラスも含む希少な宝石(宝玉)から作られたので、漢字文化圏では別の形状である曲玉・とんぼ玉とともに「ビーズ」に代えて「玉」(ぎょく)名で分類する』。『日本では、縄文時代からみられ、今日と同じように腕飾りや首飾りなどとして用いられていたものとみられる。古墳時代にあっては、古墳の副葬品となることが多かった。遅くも奈良時代までに』、『宝飾部品としての製作は一旦』、『途絶している』以下は、『主に日本古代におけるものについて』の解説。『形状は、縄文時代のもの』は、その側面が、やや、『楕円形を呈するのに対し、弥生時代以降のものは正円筒形をなしている』。『素材は、ガラス・碧玉・滑石・凝灰岩などが多い。礫石を採取する場合と原石を採取する場合があり、管玉製作地』『は、原石産出地や原石の採取可能な海岸の比較的近くに立地することが多い』。『用途としては、首飾り、胸飾り、腕飾りなどの装身具としてであるが、縄文時代など時代をさかのぼるにつれ、美しく飾るというよりはむしろ呪術的な意味合いが強かったものと考えられる』。『装身具として利用するために紐を通すための孔(あな)をあける必要がある。そのための穿孔具としては、竹、鳥類の骨、極細の石製のドリル(石錐)や鉄製ドリルなどがあった。竹・鳥骨はじかに素材玉にあてて穿孔したが、ドリルの場合は細長い管の先に取り付けられて回転させることによって穿孔する』。『ドリルを用いた穿孔技術としては』、『管に錐(ドリル)をあてて直接両手でもみこむ揉錐(もみきり)技法』、『弓の弦に管を巻き付け、弓を左右に動かすことで錐(ドリル)を回転させる弓錐(ゆみきり)技法』、『管を弓の中央の孔に通し、弦を管に螺旋状に巻き付けて、弓を上下に動かすことによって錐(ドリル)を回転させる舞錐(まいきり)技法』『があった』と推定されている。『なお、これに際しては、木材でつくった固定板を用意し、中央に穴をあけて粘土を詰め、そのなかに素材の玉を埋め、さらに固定板を足で押さえるなど材料・工具をともに固定する手立てが講じられ、さらに、ドリルの回転の際には摩擦材として硬く微細な砂をまくなどの工夫が施された』『。仕上げ段階ではさらに全体に研磨が施されてひとつひとつの管玉が完成したものと考えられる』とある。

「昔より、帝都の乱を避けて、貴人(きにん)の北越に逃(のが)れ住める者、甚(はなはだ)多し。今、その系跡(けいせき)、定(さだ)かならずと雖も、是等も、其人を葬(ほうむ)れる地なるべきか」これが崑崙の歴史認識の限界を示している。これらは恐らく、古墳時代(三世紀中頃から七世紀頃)の地方豪族の古墳の副葬品と思われる。]

 

    其九(く)

 

 寺泊より東一里、竹森(たけもり)と云へる所、古き砦の跡ありて、角櫓(すみやぐら)と覺しき所、尤(もつとも)高く、方(ほう)なり。此村の中(うち)、路(みち)・堤(つゝみ)など、傷(いた)み損ずる時は、必ず、其櫓の土を採りて、是を補ふ。過ぎし頃、土中(どちう)深く掘り穿(うが)つに、白玉の勾玉(まがだま)一つ、出(いず)。甚だ、常に見るよりは、大なり。後、其(その)得たる者、東武に行(ゆき)て、これを失(しつ)す。

 

Magatamanado

 

[やぶちゃん注:原典はこの位置に挿絵(崑崙自筆)が載る。記載内容から、これらは総て、前者「其八」の出土品である。]

 

[やぶちゃん注:「寺泊より東一里、竹森(たけもり)と云へる所」現在の越後線寺泊駅のある新潟県長岡市寺泊竹森。(グーグル・マップ・データ)。現在の町域はまさに寺泊港から東南東に四キロ離れた位置にある。

「角櫓(すみやぐら)」城郭の隅に立てた櫓のことであるが、これは方墳か崩落した前方後円墳の一部を指しているのではあるまいか? 同地区には室町期の城塞跡もあるが、他にも古墳時代或いはそれ以前とされる竹森上向遺跡及び中向遺跡が存在する新潟県埋蔵文化財包蔵地一覧表(PDF)の四ページ目の右「遺跡台帳 長岡市(6)」の冒頭の遺跡番号「1073」番から「1198」番(連番ではないので注意)までの十五箇所が総て竹森地区内である。]

2017/08/18

ブログ990000アクセス突破記念 花嫁と瓢簞 火野葦平

 

[やぶちゃん注:本文では特異的に拗音が散見されるが、それならここも拗音となるべきであると思われる箇所がなっておらず、全体にそうした歴史的仮名遣的箇所の方が多い。それらは総てママとした。

 以下、簡単な注を附しておくが、ネタバレになる本話全体への私のある感懐は最後に回した

・本文で二箇所に出る「先登」はママ。先頭。

「カルカヤ」本邦では単子葉植物綱イネ目イネ科キビ亜科メガルカヤ属メガルカヤ Themeda triandra var. japonica(或いはThemeda triandra)を指す。高さ約一メートルで、長毛を有する。九月から十月にかけて稈頂に包葉がある仮円錐花序をつける。日当りのよい丘陵地や草地に生え、本州から九州に分布する。和名は「雌刈萱」で、オガルカヤ(雄刈萱:キビ亜科オガルカヤ属 Cymbopogon tortilis var. goeringii)に対し、それよりも小形であることに由来する。Katouの「三河植物観察」を参照されたい。

・「德の洲」は正確には「徳淵の津」である。この附近(グーグル・マップ・データ)で、マー君のブログ「生涯現役毎日勉強」の「徳淵の津と河童」に詳しく、画像も載るが、後者のリンク先は読後に見られんことをお勧めしておく

・本文で球磨川の支流として「白川」・「靑葉川」・「枕川」と順に出し、最後の枕川で本流の球磨川に接続したという記載が出るが、「白川」は阿蘇山の根子岳(ねこだけ)に発し、阿蘇カルデラの南部の南郷谷を西流し、南阿蘇村立野で、カルデラの北側の阿蘇谷を流れる支流の黒川と合流、急流の多い上中流域を抜けて、熊本市市街部を南北に分けて貫流した後に有明海に注ぐ川である(ここ(グーグル・マップ・データ))。「靑葉川」と「枕川」は不明で(国土地理院の地図も調べたが、当該河川名を発見出来なかった)、現在の河川状況からは、この白川から球磨川に支流河川を通って容易に行けるようには私には思われない。現在の白川の最も南の部分から直線でとっても球磨川は真南に約三十キロメートルも離れている。可能性としては平地である宇土を抜けて河川を行くルートか。あったとすれば、その付近に「靑葉川」及び「枕川」はあることになる。因みに、白川の南には「緑川」が流れており、これは「靑葉」という名とは親和性があるように思われはする。ただ、「枕川」が肝心要の作品の舞台及びその近くの川であるから、実在するならば、何とかして知りたい。識者の御教授を乞うものである。

 また、「松尾川」は熊本県熊本市西区を流れる現存河川で、西区松尾町上松尾附近を源流とし南流し、熊本市立松尾東小学校近くを通って、先の「白川」の北側を流れる坪井川に合流する川である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 虎助の台詞の「ええごとしてもろうて、よか」は「好きにしてもらって、いいぞ」の意であろう。

 「カマツカ」コイ目コイ科カマツカ亜科カマツカ Pseudogobio esocinusウィキの「カマツカ」によれば、体長十五~二十センチメートルほどの『細長い体と、長く下に尖った吻が特徴。吻の下には』一『対のヒゲがある』。『主に河川の中流・下流域や湖沼の砂底に生息し、水生昆虫などの底性の小動物や有機物を底砂ごと口から吸い込み、同時に砂だけを鰓蓋から吐き出しながら捕食する。繁殖期は春から初夏にかけてである』。『おとなしく臆病な性質で、驚いたり外敵が現れたりすると、底砂の中に潜り、目だけを出して身を隠す習性があることから「スナホリ」・「スナムグリ」・「スナモグリ」など、また生態が海水魚のキスに似ていることから「カワギス」など、また鰓蓋から勢いよく砂を吐き出す仕草から「スナフキ」という別名もある』。美味な淡水魚として知られ、塩焼きや天ぷら、甘露煮などにする、とある。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが990000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年8月18日 藪野直史】]

 

         一

 

 稻の穗の稔りのうへを秋風がすぎると、黃金色の波が美しい縞をつくりながら、はてしもなくかろがつて行く。風が強いときには鳴子(なるこ)が鳴り、ある田ではキラキラと銀紙が光つて、雀どもが一散に飛び立つ。案山子(かかし)のおどけた姿や顏にさわやかな太陽があたり、その光線は村のいたるところに、象牙細工のやうな柿の實を光らせてゐた。部落の藁屋根や瓦葺のうへには銀杏の葉が降りそそぎ、野や畦道(あぜみち)は、オミナエシ、キキョウ、ハギ、カルカヤ、キクなどの花盛りであつた。天には、悠々とトンビが舞つてゐる。平和で美しい村の風景である。

 しかし、今、この美しい村をさらに一段と美しく彩つて、通りすぎて行くのは花嫁の一行であつた。白い眞綿の帽子に角かくし、あでやかな衣裳をつけた花嫁は、馬の背に橫坐りになり、紅白だんだらの手綱を持つた馬子に引かれて行く。その前後には型どほりの行列が、村民たちの見物のなかを拔けて、靜々と、婚家先へ進んで行つた。眞晝間なのに、先登の男は定紋入りの提燈をぶらさげ、もう醉つぱらつてゐるのか、すこし千鳥足で、調子はづれの鼻唄をうたつてゐた。

 村人たらは、沿道は勿論、遠近(をちこち)の自分の豪から、田圃のなかから、丘のうへから、このあでやかな花嫁道中を眺めてゐた。

「おい、お前たらもそろそろぢやッど」

 百姓虎助は、自分の左右にゐる三人の娘たちを見まはして、意味ありげにいつた。

「まだ早かたい」

「なんの早かろか。大體がもう三人とも遲れちよるちゆうても、よかくらゐぢや。あげな晴れがましか花嫁衣裳ば、早よ着てみたうはなかッとかい?」

「そら着てみたかばつてん」

「今年のうちに、みんなよか婿ば取らんば。ウメは一番上ぢやけん、養子をせんにや仕樣なかばつてん、キクとアヤメはよかとこへ行けや。それで、お父ッあんもおッ母ァも安堵ばするけん」

 虎助は特別に慾張りでも因業でもなかつたが、やはり、三人姉妹の婿が金に困らぬ男で、氣立てがよく、よく働き、男ぶりも惡くないことを祈らずには居られなかつた。どういふものか男の子が出來ず、養子をしなければならぬことが殘念だけれども、揃ひも揃つて三人娘が器量よしなので、きつと自分を滿足させる婿が來るだらうと樂觀してゐた。虎助が娘たちを意味ありげな眸でながめたのは、さういふ思ひをこめてゐたからで、彼は自分の三人娘が自慢でたまらぬのだつた。

「虎助どんは幸福者ばい。三人ともこん村にならぶ者がなか別嬪ぢやで、寶物を持つとると同じたい。三國一の花婿が來らすぢやろ」村人も口を揃へて、それをいふ。そのたびに相好をくづして、

「トンビがタカば生んだッたい。へへへへ」

 と、やに下がるのが常だつた。

 河童たちも、この花嫁行列を見てゐた。この部落のはづれを流れてゐる枕川は、球磨川(くまがは)の支流で、さうたくさんはゐないが、二三十匹ほどの河童が棲んでゐた。彼等はいたづら好きで、ときどき村民に角力(すもう)を挑んだりするけれども、子供たちの尻子玉(しりこだま)を拔いたり、野菜畑を荒したりして、ひどい被害をあたへることはなかつた。たまに、犬や馬や牛を川へ引きこんでみたりする。しかし、それとて、それらの動物たちを殺したり、これを餌(えさ)にしたりすることが目的ではなく、自分たちの力をためしてみたい心からで、もう一つはこれらの動物たちが水中で必死にもがくさまが面白くてたまらぬからだつた。スポーツか見世物のつもりなのだ。もともと、四千坊頭目に率ゐられてゐたのは、九千坊一族が球磨川から筑後川へ大移住したとき、破門されて本流から支流へ追放された連中の末孫だから、まづ優秀の部類とはいへない。それでも村では恐れられてゐて、村民はなるべく河童に觸(さは)らないやう、河童と事をかまへないやうに極力注意してゐた。

 花嫁行列の絢爛(けんらん)さに、河童たちは感にたへてゐた。河童の仲間でも嫁入りのときには、花嫁は飾るけれども、たかが蓮の葉の帽子にありあはせの花をのせ、背の甲羅を水中の藻で飾るくらゐが關の山で、人間の花嫁の美しさとはくらべものにならない。河童たらは眼を瞠(みは)り、嘴を鳴らし、しきりに、巨大なためいきを吐きつづけてゐた。

 そのなかで、もつとも恍惚とした眼つきになり、惱ましげに、やるせなげにしてゐるのは三郎河童であつた。彼は羨望のあまり、河童に生まれて來たことを嘆くほどの感動にとらはれてゐた。出生の宿命はくつがへすべくもない。日ごろは自分の身分を下賤とは思はず、かへつて人間の愚劣さを輕蔑さへしてゐたこともあつたのに、この花嫁姿の美しさはほとんど三郎の人生觀をくつがへしてしまふほどのショックであつた。

 

          二

 

 花嫁の一行が村はづれに出て、枕川の岸邊にさしかかつたとき、椿事がおこつた。

 長い道中なので、堤防にある大きな榎や銀杏のかげに八つて、一行は休憩してゐたのだが、そのとき、花嫁が乘つてゐた馬が、河童のため、川へ引きづりこまれたのである。花嫁は降りて床几に腰かけてゐたので被害はなかつた。河童の方も花嫁を傷けようとは考へて居らず、いくらか燒き餅年分、花嫁の乘馬にいたづらしたのである。五六匹の河童が馬の尻尾や肢をつかみ、まつたく無造作に、川の中へつれて行つてしまつた。三尺足らずの小さい身體なのに、頭の皿に水が滿ちて居れば、トラックでも機關車でも引きこむくらゐ強力なのである。花嫁はこれを見て仰天し、氣をうしなつてたふれた。

「ガラッパの畜生奴」

「馬を返せ」

 混亂におちいつた伴(とも)の連中は、口々に叫んだ。しかし、ただ騷いでゐるばかりで、馬を助けに行かうとする者はない。行けば自分たちも引きこまれることは眼に見えてゐる。馬がゐなくなつても、花嫁を送りとどけることは出來るといふ計算もあつた。

 馬はあばれて抵抗した。狂つたやうにいなないた。水面がはげしく波立ち、魚やウナギやスッポンがはねあがつた。しかし、案ずるはどのことはなかつた。河童はいたづらしただけだから、まもなく、馬は川面に浮きあがつた。ぶるんぶるんと鬣(たてがみ)や身體の水を切りながら、鼻を鳴らして岸にかけあがつて來た。

 すると、枕川の水面がふいに渦をまいたやうに騷ぎはじめ、急速に水量が增して、堤防の緣すれすれまでにあがつて來た。これは川底で河童たらが大笑ひをしてゐるためにおこつた現象である。古老はこの傳説の掟を知つてゐた。河童をあまりひどくよろこばせたり、怒らせたり、悲しませたりしては危險なのであつた。そのたびに川の水量が增して洪水になる場合があるのである。二匹や二匹ではそんなことはないが、十匹を越えると增水の可能性が生まれるのだつた。

「まつたく困つたガラッパどもぢや」

 花嫁をとりまいて、村人たちは苦々しい顏をした。河童たちが笑ひやんだとみえて、水面は下がり、渦も消えた。

 このいたづら河童たちのなかには、三郎はゐなかつた。彼は、花嫁姿に對して、さういふチャチな鬱憤晴らしでは消えないほどの強烈な衝擊を受けてゐたので、仲間の方法をたわいないものに考へ、さういふ單純さのなかには進步はないし、理想追求の熱情も感じられないと思つた。三郎の眼には、不思議な淚が宿つてゐた。

 この騷動の噂はすぐに村中に傳はつた。そして、あらためて河童を恐れさせた。

「お父ッあん、ガラッパの征伐は出來んとぢやろか?」

 末の妹のアヤメが訊(き)く。

「コラコラ、そぎやんなことを大きな聲でいひばしするな。ガラッパが立ち聞いたら、どぎやん仕返しすァか知れんど」

 虎助はおびえた顏つきで、あたりを見まはした。アヤメは笑つて、

「こぎやんとこにガラッパが居るもんか。枕川とは三町も離れとる。聞えはせん。な、お父ッあん、ガラッパの語ば、して聞かせて」

「そぎやんいやァ、まさか、ここでの話し聲が枕川まで屆きはすまい。さうぢやなァ。今夜は閑(ひま)ぢやけん、お前たちにガラッパの話でもしてやろかい」

 熊本から鹿兒島地方にかけて、河童はガラッパと呼ばれてゐる。虎助は、三人の娘にとりまかれ、芋燒酎を引つかけながら、ガラッパの話をはじめた。

「大體、日本のガラッパはこの熊本縣が本家たい。お前たちも球磨川下りをしたことがあるけん、知つとるはずぢや。八代(やつしろ)の德の洲にやァ、河童上陸記念碑が立つとる。ガラッパはどこか遠いアジアの方から來たもんらしか。おれやァ學問のなか土百姓ぢやけん、詳しいこた知らんばつてん、なんでもアラビア地方から、九千坊ちゆう大頭目が何千何萬といふガラッパを引きつれて、東方に移動して來たちゆうんぢや。ジンギスカンてら、アレキサンダー大王てらいふ豪傑のまねしたかどうか知らんばつてん、インドのデカン高原の北、ヒマラヤ山脈の南にあるタクラマカン沙漠を通つて、蒙古、支部、朝鮮、それから海をわたつて、この熊本縣の德の洲から日本に上陸したらしか」

「大遠征ばいねえ」

「うん、途方もない大遠征ぢや。途中でだいぶん落伍したガラッパもあつたぢやらうが、ともかく、德の洲から日本に入つたガラッパが、今ぢやァ日本中に散らばつたとたい。枕川に居るとはその名殘りぢやよ」

「ガラッパにも、男と女とがあッと?」

「あたりまへのことよ。雄と雌とが居らんにやァ、子孫はふえんたい」

「ガラッパでも、惚れたり張れたりするぢやろか」

「するぢやろな」

「ああ、をかしか。ガラッパの戀か――ウフフフ、ガラッパの花嫁さんば、いつペん見たいもんぢやな」

「コヲコラ、ガラッパには近づかんにかぎる。ガラッパはやつばり化けもんぢやけんなァ」

 

          三

 

 虎助は自分は學問のない百姓だといつたが、河童についての傳説はよく知つてゐた。醉つて來るといよいよ雄辯になり、聲も大きくなつた。そして、熱心に聞き入る娘たちに、次のやうな語をした。

 ――昔、川に橋が少なく、渡船が交通機關であつたころ、或る日、渡船場で、一人の若者が船頭に一通の手紙と、一挺(いつちやう)の小さな樽とをことづけた。

「實はこれを持つて球磨川に行くはずでしたが、急に母が危篤といふものですから、ここから引きかへきなくてはならなくなりました。ついては、この手紙と樽とを球磨川の魚津といふところで、川に投げこんで下さいませんか。お禮は充分いたします」

 船頭ははじめ面倒くさいことに思つたが、若者が莫大な謝禮金をさしだすにおよんで、二つ返事で引きうけた。若者が去ると、船は川面に出、白川、靑葉川、枕川と、支流を經て、球磨の本流に入つて來た。

 ところが、乘客のうちで、その手紙と樽とはどうもをかしいといひだした者があつた。大體、品物を誰かに渡すのなら話はわかつてゐるが、川の中へ投げこめとは腑に落らない。若者は依賴したとき、この樽には大切なものが入つてゐるし、手紙も重要な祕密文書だから、どちらもけつして途中で見てくれるなと、くどいほど念を押した。見るなといはれれば見たくなるのが人情だし、まして、怪しいとすれば、眞相をたしかめたくなる。船頭ははじめ躊躇したけれども、乘客の輿論に押しきられて、遂に、樽の方から先に開けてみた。梅干に似た丸つこい物がいつぱい詰まつてゐる。なにかわからないが、蓋をとつた途端、嘔吐(おうと)をもよほす異臭がとびだして、乘客は一樣に鼻をつまんだ。

 次に手紙を讀んだ。奇妙なくづしかただつたが、やはり漢字まじりの日本文なので、どうにか判讀することが出來た。

「拜呈仕候。九千坊將軍閣下には愈御盛大大慶至極に存じ上候。きて、例年の尻子玉年貢百個、早々に差し出すべき筈の處、最近は人間共がすこぶる用心深くなり、なかなかに數を揃へ申す事が困難にて、延引の段お許し下され度候。然るに、更にお詫び申し上げたきは、百個の定の處、遂に〆切までに九十九個しか集らず、一個不足致し居る事にて候。その不足分は何卒この船の船頭の尻子玉を拔きて、數をお揃へ下され度、御配慮の程よろしく御願申上候。恐惶(きようくわう)謹言、三拜九拜。肥後の國、松尾川頭目、二百坊より」

 舷頭はまつ靑になつた。腰が拔けてしまひ、船底にへたばつた。乘客たちもおどろいたが、船頭にくらべるとものの數ではなかつた。船頭は癲癇(てんかん)にかかつたやうに泡をふいてゐる。

 球磨川の河童大頭目九千坊が、これによつて、所々の中小頭目から年貢を取りたててゐることがわかつた。所によつてちがふのであらうが、松尾川の二百坊は年間尻子玉百個を約めねばならぬらしい。それが一個足りないので、船頭ので埋めあはせてくれといふのだつた。

「手紙は燒いてしまび、樽だけをここで投りこめ」

 と、客が忠告した。船頭はそのとほりにした。小さい樽すぐに川底へ引きこまれた。船頭は無事だつた。

 しかし、この事件がきつかけになつて球磨川にはお家騷動がおこつた。年貢の取り立てなどは大頭目九千坊のあづかり知らぬことだつたからである。九千坊の威光を笠に、九千坊の名で税金を課し、苛斂誅求(かれんちゆうきゆう)を事としてゐたのは、家老職の四千坊であつた。四千坊が松尾川から來た尻子玉が九十九しかないことを詰(なじ)り、ただちに一個追加の嚴命を發したため、ひどい搾取(さくしゆ)に隱忍してゐた二百坊も、遂に堪忍袋の緒を切つて謀叛(むほん)をおこしたのである。なにも知らぬ九千坊は、はじめ、二百坊の謀叛を怒つて、追討軍をさしむけようとしたが、眞相を知るにおよんで、四千坊の方を懲罰に附した。一族を引きつれて、筑後川へ大移動することになつたとき、四千坊とその腹心を枕川に流刑したのである。

「それでなァ、いま、枕川に居るガラッパたちは、四千坊の子孫ちゆうわけなんぢやよ」

 語り終ると、虎助はおいしさうに、芋燒酎をまたぐいぐいと傾けた。[やぶちゃん注:「芋燒酎」は底本では「芋酎燒」。誤植と断じて特異的に訂した。]

 家の外にたたずんでゐた三郎河童は、急に自分の身體がふくらんで來るやうな氣がした。あんまり虎助の聲が高いし、ガラッパといふ言葉がいく度も聞えるので、枕川から出て來て立ち聞いてゐたのだが、虎助の語は三郎に大いなる期待をあたへた。三郎は立ちあがると、誇らしげに、呟いた。

「おれは、名門四千坊の末裔(まつえい)だ。下賤でもなければ、低級でもない。このあたりの土百姓どもにくらべれば、貴族といつてよい。今日から、胸を張つて生きるんだ」

 枕川の仲間たちは、自分たちの歷史や傳統をまるで知らない。四千坊が死んで後は、なんの記錄も殘つてゐないので、單に、配流の河童として無意味に生きてゐただけだつた。人間から教へられたことは皮肉だが、それはもうどうでもよかつた。三郎は新しい光明に向かつて進むやうに、せせこましい枕川を望んで步きだした。胸を張り、肩を怒らし、頭の皿をまつすぐにして、まるで、凱旋將軍でもあるかのやうに。

 

          四

 

 旱魃(かんばつ)といふほどではないが、雨が少く、水の切れる田が出來はじめた。稻はよく稔つてゐるけれども、いま田が涸れ、龜裂を生じたりすると、収穫に大影響する。虎助の五段ほどの田は山手に近く、それでなくてさへ水引きが惡いのに、日照りつづきで、どの田もからからに乾いた。勢のよかつた稻穗もげんなりとしほれ、色が變りはじめるのも出た。虎助はおどろき、狼狽し、躍起(やくき)になつて、每日、水揚げ車を踏んだ。しかし、枕川からも遠く、堤からの潅漑用水も制限されてゐて、田を蘇生させるには不充分だつた。

「畜生、これだけやつても駄目か。神も佛も居らんとか」

 絶望的になり、天を恨んだ。見あげる秋空には積亂雲がもりあがり、雨の氣配などどこにもなかつた。村では一週間も前から、鎭守社で雨乞ひ祈願がおこなはれてゐるけれども、一向に靈驗のあらはれる兆候はない。

 どこの田にも百姓たちが出て、必死に水あげに熱中してゐた。しかし、努力は報はれず、百姓たちは情なささうな顏を見あはせあひ、無言で、日に灼けこげた顏を打ちふつた。表情をまつたく變へないのはおどけた顏の案山子だけである。稻穗をわたる秋風も無情だつた。

 くたくたに疲れた虎助は、田の畦に腰をおろし、鉈豆煙管(なたまめぎせる)を腰から拔いて、一服吸つた。好きな煙草の味もしなかつた。死にかかつてゐる田を眺めると泣きたくなる。絶えまなく、ためいきが出て、思はず、ひとりごとのやうに呟いた。

「おれの田に水を入れてくれる者があつたら、娘を嫁にやるばつてんなァ」

 その言葉が終るか終らぬかのうちに、不思議がおこつた。どこからかはげしく水の流れる音が聞えて來て、次第に近づくと、虎助の田に水がどんどん流れこみはじめた。白つぽく乾いて龜裂してゐた土はみるみる水の下になり、田は五枚とも、たつぷりと水を湛へた。しほれてゐた稻穗も息をふきかへし、いつせいに、蛙まで鳴きはじめた。

「やァ、水が入つたどう。田が生きもどつたどう」

 虎助はをどりあがつてよろこんだ。五枚の田の周圍を狂氣のやうに飛びまはり、萬歳を絶叫した。淚がぼろぼろほとばしり出た。

 百姓たらも集つて來て、虎助の田だけに急に水が入つたことを不思議がつた。他の田はどれもこれも干割れてゐて、虎助の田は沙漠の中のオアシスのやうに見えた。

「をかしなこともあるもんぢやなァ」

「この水、一體どこから來たんぢやろか」

 疑問は當然その點に落らる。虎助も加はつて水路を探してみると、虎助の田から一本太く、それは曲りくねりながらも枕川につづいてゐた。

「うい、枕川の水がひとりでに、虎助の田だけに上つて行つとるど。なんちゆう奇妙なことぢやろか」

 村民たちはいよいよ不思議がつた。

「ガラッパのしわざかも知れんど」

 と、一人の百姓がいつた。

 それを聞いて、虎助は靑くなつた。それは、いつか、彼が娘たらに話して聞かせた、九十九個の尻子玉を百個にするため、この船頭の尻子玉を披けといはれた、その船頭以上のおどろきであつたかも知れない。虎助は、さつき、田の畦で、田に水を入れてくれる者があつたら、娘を嫁にやる、と呟いたことを思ひだしたのである。虎助は恐しさでふるへだした。

 どこからか、なまぐさい一陣の風が吹いて來たと思ふと、虎助のすぐ前に、一匹の小柄な河童が姿をあらはした。

「虎助さん、あなたの田に水を入れてあげましたよ。さァ、約束どほり、娘さんを私の嫁に下さい」

 河童は慇懃(いんぎん)で、禮儀正しかつた。微笑さへ浮かべてゐた。三郎であつた。彼は虎助から自分が由緒ある四千坊の血筋を引く者であることを知らされてから、人間の女を嫁にする資格が充分あると自負してゐた。しかし、思ひあがることはいけないと考へ、仰天して口もきけないでゐる虎助に、

「三人の娘さんのうち、どなたでもよろしいです。一人を私に下さい」

 と、謙虛に、つけ加へた。

 

          五

 

 虎助の家では、沈痛な合議がはじまつた。母トヨ、娘ウメ、キク、アヤメ、自慢の幸福な家庭であつたのに、にはかに、暗澹とした空氣につつまれた。河童との約束は絶對に破ることは出來ない。河童の傳説に詳しい虎助は、河童がいたづら者の年面、すこぶる義理がたく、信義にあつい動物であることをよく知つてゐた。まして、村民たらの大勢見てゐる前で、河童と約束したのである。村人は虎助に同情するよりも、彼の田だけが潤つたことを嫉んでゐて、三人娘の一人くらゐは當然お禮として河童に進呈するのが人間の道だなどといふ始末だつた。虎助は絶對絶命である。やつと、河童に三日間の返事の猶豫(いうよ)をもらつた。無論、それは娘をやるやらぬの返事ではなく、三人のうち誰にするかを定めるためであつた。

 人ばかりよくて愚鈍な母トヨは、

「なんちゆう馬鹿な約束を、ガラッパなんかとしたもんぢやろか。阿呆たらしか。娘どもには三人とも、よか婿どんを見つけてやろて考へとつたとに、ガラッパの嫁にやるなんて、氣でも狂うたとか」

 と、泣きながら、やたらに恕つたり愚痴をいつたりするばかりで、なんの解決策も見いだすことは出來なかつた。虎助はほとほと當惑して、まづ姉の方から、口説いてみた。

「ウメ、お前、行つてくれるか?」

「お父ッあん、あたしは長女ばい。こン家を繼がにやならん責任がある。お父ッあんだつて、いつでもそぎやんいひよつたぢやなかか。あたしは養子ばもらはんならんけん、よそに嫁御に出ることはでけんたい」

「キク、お前は?」

「いやァなこと。ガラッパの嫁御なんて、考へただけでも身ぶるひがする。あぎやん化けもんの嫁になるくらゐなら、石の地藏さんと添うたがまし」

「さうか、お前たちにしちやア無理もあるまい。アヤメも同じ考へぢやろ。さう三人が三人ともいやがるなら、ガラッパに噓ば、ついたことになる。ガラッパはどぎやん仕返しをするか知れん。ガラッパの仕返しは恐しか。困つたなァ。そんなら、いつそ籤(くじ)にするか」

 それがよいと贊成する者はなかつた。籤の結果を考へると恐しいのである。すると、これまで默つてなにかを考へてゐた末娘のアヤメが、顏をあげて、

「お父ッあん、あたしがガラッパのところに、お嫁に行きませう」

 と、きつぱりした口調でいつた。

「ほんとかあァ」

 と、虎助はとびあがつた。母と二人の姉もびつくりして、末娘を見た。

 アヤメは落ちついてゐて、

「三人のうち誰かが行かんことにやア、お父ツあんが噓つきになる。姉さんがたは、どぎやんしてもいやといはすけん、あたしが行かにや仕樣ンなか。行きます。お父ッあん、枕川に行つて、三郎といふガラッパにそのことを傳へて下さい」

「お前、本氣ぢやろな?」

「本氣ですとも」

 虎助が改めて本氣かとたしかめたのは、アヤメが村の龍吉といふ靑年と戀仲になつてゐることを知つてゐたからである。そして、それを虎助も許してゐた。なぜなら、龍吉はちよつとした物持の息子で、氣立てもよく、働きもあり、男ぶりも十人前、つまり、虎助が娘たちの婿にと考へてゐた條件にぴつたり合つてゐたからだ。それなのに、河童のところに嫁入りすると斷乎として宣言したので、虎助は面くらつたのである。アヤメが行けば自分は大助かりだが、娘の眞意がわからず、娘の犧牲的精神が大きすぎて、虎助の理解をはみだしてゐたのだつた。これを知つたら、龍吉だつて默つてゐるはずはない。ガラッパと三角關係が生じて、どんな面倒がおこるかわからない。龍吉と河童と決鬪でもするやうなことになつたら大變だ。虎助は頭がこんぐらかつて、眩暈(めまひ)さへおぼえた。

「アヤメ、お前、ガラッパの嫁御になッとかァ」

 といつて、母はおいおい泣きだした。

しかし、ともかく、家族合議は終つたのである。そして、不思議なことに、一家の愁嘆のなかで、當ののアヤメだけがけろりとしてゐた。彼女は悲しむどころか、不敵な微笑さへたたへて、家族の者の眼を瞠(みは)らせた。その夜も、アヤメ一人が熟睡した。

 

          六

 

「おうい、ガラッパの三郎どうん」

 虎助は、枕川の岸に立つて大聲でどなりながら、一本の胡瓜を川に投げこんだ。

 そこには千年を經たかと思はれる大榎があつて、太い幹に張りめぐらされた七五三繩(しめなは)の御幣(ごへい)が秋風にゆらめいてゐた。小さな祠(ほこら)が樹の洞(ほらあな)に安置されてある。ここが河童との連絡場所になつてゐた。胡瓜はその合圖である。

 いつたん沈んだ胡瓜は浮きあがると、くるくると獨樂(こま)のやうに𢌞轉しはじめた。その渦のなかから、ぽつかりと三郎河童の姿があらはれ、胡瓜をつかみとると、岸へ上がつて來た。濡れた靑苔色の身體が雫をたらし、背の甲羅や、頭の皿がきらきらとガラスのやうに秋の太陽を反射してゐた。三尺にも滿たぬ體格でひどく子供つぽく、これが結婚適齡期の靑年かと疑はれるほどである。水かきのある足がびちやびちやと音を立てる。

「これは、虎助さん、ようお出で下さいました。お待ちして居りました」

「約束の返事ば、しに來たんぢや」

「で、どなたを私に下さいますか」

「末娘のアヤメをやる」

「それはありがたうございます。誰でなければならんといふ贅澤は申しません。それで、アヤメさんは、龍吉さんの方はよろしいのでせうな?」

 虎助はあきれた。河童がそんなことまで知つてゐようとは意外だつた。

「勿論、あんたにアヤメをやる以上は、龍吉の方とはいざこざがないやう、話はつけてある」

「それなら結構です。三角關係はいやですからね」

「それでは、祝言(しうげん)についての打らあはせば、しておかう。これが大切ぢや」

「河童方式でやりませうか。人間方式でやりませうか」

「アヤメば、川の底のあんたの家につれて行つてからは、河童方式でやつてもよかばつてん、川に入るまでは人間方式でやりたか」

「承知しました。妥當の案と思ひます。それでは、水面を境界にしまして、地上は人間方式、水中は河童方式と定めます。それでは、アヤメさんを花嫁として水中へ送つて下さるまでの人間方式を教へて下さい」

「こぎやん風にしたか。人間方式では、花嫁には嫁入道具がつきものぢやけん、まづ、その嫁入道具を先にあんたの方に屆ける」

「ありがたうございます」

「その嫁入道具があんたの川底の家に納まつてから、花嫁ば送りだす。あんたは、ちやんと、嫁入道具を受けとつて、家に納めたちゆう報告をしてくれにやいかん」

「仰せのとほりにします」

「嫁入道具は濡れんやうに、入れ物に入れて川に投げこむけん、川底へ引きこんでおくれ」

「わかりました」

「嫁入道具ば、ちやんと家に納めきらんやうな婿には、嫁はやられんことになつとるけん、それも承知しといてや」

「なにからなにまでの指示、感激のいたりです。それでは、アヤメさんを受けとつてからの河童方式について、ちよつと御説明申しあげておきませう。われわれ河童の習慣としまして、……」

「いや、よかよか。嫁にやつてから先のことは、なんもかんもガラッパどんだちに委せる。ええごとしてもろうて、よか。それぢやあ、明後日が大安吉日ぢやけん、その日の朝ンうらに、嫁入道具ば屆けることにする」

「お待ちして居ります」

 河童がよろこんで淚さへためてゐるのを殘して、虎助は、一散に、わが家へ歸つた。外交交渉はうまく行つたやうである。河童は人間とはくらべものにならぬはど信義にあつい動物だから、後日のための七面倒な約定書、調印などはしなくてよかつた。虎助は、しかし、なほ、結婚式當日の成果に若干の不安があつたので、まだ、心から笑つたりすることは出來なかつた。

 

          七

 

 川底では、祝ひの準備に忙殺されてゐた。三郎の思ひもかけぬ幸運を、大部分の河童たらは手放しで祝福した。これまでの河童の歷史に嘗てなかつた破天荒(はてんくわう)の痛快事といつてよい。いつぞやは美しい花嫁姿をやつかんで、花嫁の乘馬を川へ引きずりこみ、わづかに溜飮を下げたのであつたが、今度はその人間の花嫁が河童の三郎のところへ來るといふのだ。これをよろこばずして、なにをよろこぶことがあらうか。河童たらは三郎を羨むよりも、自分たち全體の光榮を感じて、みんなが心から三郎の祝典のために、努力を惜しまなかつた。河童方式による結婚式の準備は着々と整へられた。川底の淵にある三郎の家は、蓮の花、水中藻、ヒヤシンス等の花で飾られ、鮎、鮭、鮒、スッポン、鰻、泥鰌、岩魚、カマツカなどの珍味が大量に揃へられた。苔から精製した特級酒も飮みきれぬほど用意された。[やぶちゃん注:底本の行末で改頁最終行でもある「スッポン」の後には読点がないが、特異的に誤植と断じて補った。]

「祝言の日は、底拔け騷ぎをやらかすぞ」

「三郎はおれたちのホープだ」

「人間を征服した英雄だ。死んだら、胴像を建ててやらう」

「おいおい、めでたい日に死ぬことなんて、いふなよ」

「とにかく、河童界はじまつて以來の慶事だ。枕川河童族萬歳」

 もう河童たちはその日の來ぬうちから有頂天で、前景氣は盛んだつた。

 しかし、今度の結婚に多少の不安を感じる者がなくもなかつた。それは主として老人組で、まつたく異つた人間と河童との國際結婚がはたして破綻(はたん)なく續くものかどうか、自信は持てないもののやうだつた。河童は河童同志がよいのではないか。しかし、三郎自身が得意と歡喜の絶頂にあり、仲間たちもよろこんでゐるのだから、強ひて異は立てず、やはり式典の準備を手傳つた。

 ここに、一人だけ、この祝言を悲しんでゐる者があつた。トエといふ名の女河童だつた。彼女ははげしく三郎に思慕してゐたので、仲間といつしよに祝福する氣にはなれなかつた。といつても、三郎と契つてゐたわけではなく、片思ひだつたのだから、三郎を裏切者と呼ぶわけにも行かない。ひとり小さい胸がつぶれるほどに嘆いてみるだけだ。トニは悲しかつた。しかし、淚をおさへて、祝言の手傳ひはした。そして、三郎に花嫁が來たら、どこか遠くへ行かうとせつない流離の思ひにとざされてゐた。三郎がそはそはと落らつかず、ときどき、にやにやと思ひだし笑ひをしてゐるのがはがゆく、そのアヤメとかいふ人間の花嫁が二目と見られぬ醜女(しこめ)で、根性がわるく、夫婦になつても喧嘩ばかり、すぐに別れてしまふやうになればいい、などと、いつか考へてゐて、嫉妬は女のアクセケリーとはいひながら、そんなはしたない考へを抱く自分を恥ぢた。すなほに愛する三郎の幸福を祈らなければならぬと思つた。

 いよいよ、結婚式の當日がおとづれた。すがすがしい秋晴れの朝だつた。

 三郎は頭の皿を洗つて新しい水を滿たし、髮をきれいになでつけて、苔のポマードをつけた。背の甲羅も一枚づつ叮嚀に磨き、嘴もぴかぴかと光らせた。彼は、あの、眞白な綿帽子、魅惑的な角かくし、裾模樣の衣裳をつけた美しい花嫁姿が、もう眼にちらついて、心臟ははげしく高鳴りつづけだつた。虎助の三人娘のうちアヤメがもつとも器量よしであることも滿足の一つである。彼女が來たら、いたはつて幸福な家庭を作らうと思ふ。三郎はその夢の設計が樂しかつた。

 トポンと、水面で音がした。底から見ると、ガラスの天井のやうに明るい水面が波紋でくづれ、その中心に、黑い新月のやうなものが見えた。胡瓜であつた。

「合圖があつたぞ。まず嫁入道具を受けとりに行け」

 祝言實行委員長の河童が叫んだ。

「よし來た」

 河童たちは、いつせいに、水面に顏をあらはした。三郎もつづいて出た。岸に、十人ほどの人間が立つてゐる。その先登に虎助がゐた。

「ガラッパの三郎どん、さァ、嫁入道具ば渡すけん、受けとつてくれ」

 虎助のその言葉で、枕川のうへに、大きな荷物が投げこまれた。それは互大な七つの瓢簞を一つの網のなかに包んだもので、嫁入道具は濡れないやうに、それらの瓢簞の中に入れてあるらしかつた。水しぶきを立てて落ちた瓢簞はぷかぷかと波に浮いてただよつた。

「そら、引つぱりこめ」

掛け聲勇しく、河童たちは瓢簞の荷物に手をかけて、水中へ引き入れようとした。頭の皿に水さへあれば、馬でも、牛でも、トラックでも、機關車でも、戰車でも、水中へ引きこむほど強力である河童にとつては、そんな輕い七つの瓢簞など問題ではなかつた。いや問題ではないと、誰もが思つたのだ。ところが、大當てはづれだつた。容易に水中に沈まないのである。力まかせに引けば、水中へいくらか入りはするが、力をゆるめると、すぐに水面に浮きあがつてしまふ。七つの瓢簞を一つにした浮力は大きかつた。河童たらにはその原理がわからない。そこで群がりついて、なんとかして沈めようと懸命になつた。

「みんな、賴む。この嫁入道具を家まで運んでしまはなければ、花嫁は來ないんだ。もつと力を出してしつかり引つぱつてくれ」

 三部は躍起(やくき)になつて、全身の力をこめた。仲間も負けてはゐない。ありたけの力をふりしぼつた。けれども、なんとしても瓢簞は表面から十尺とは沈まなかつた。どうかしたはずみに沈んでも、また、もとへかへつてしまふ。おまけに河童の方は次第に疲れて來たが、浮力の方はすこしも衰へないので、もはや勝敗は決定したといつてよかつた。

 

          八

 

 三郎は全身が解體して行くやうな疲勞を感じながらも、なほ、瓢簞をつつんだ網から手を放さなかつた。これこそ自分の命であるといふ執念が、すでに力は拔けてしまつた腕を網にしばりつけ、機械的に、引き下げる動作をさせた。それでも、なは、彼はまだ人間から欺かれたといふことには氣づかなかつた。

「ようい。早よ嫁入道具ば持つて行かんかァ。花嫁御がつれて來られんぢやなかか。なにを愚圖々々やつとるんぢや」

 虎助は、岸から、嘲笑的に、しきりにどなつた。半信半疑であつたのに、娘アヤメの作戰どほりになつて、愉快でたまらなかつた。すべてはアヤメの智惠である。アヤメは自分が嫁に行かうといひだしたときに、この戰術が胸にあつたのだ。虎助はすべて娘に智惠を授けられて、枕川の三郎河童に緣談の打ちあはせに行つたのであつた。えらい娘だと舌を卷かずには居られなかつた。河童たちが瓢簞を引きこまうとして狼狽してゐるさまが、滑稽で仕方がなかつた。これでアヤメを河童にやらずにすんだわけである。

 虎助の背後に、龍吉がゐた。三郎はそれを見た。アヤメの戀人がアヤメの祝言の手傳ひに來てゐるのを見れば、なにかの祕密、なにかの陰謀があることに氣づかねばならないのに、正直一途の三郎にはそんな陰慘な第六感は働かなかつた。三郎はただ自分たちの非力を悟り、それを嘆いただけであつた。

「なにやつとるか。そん嫁入道具を引つこみきらんやうな者には、娘はやられんど」

 いよいよ圖に乘つて、虎助は叫んだ。

「みんな」と、遂に、三郎は、協力してくれてゐる仲間に向かつて、力弱い聲でいつた。「ありがたう。もういい。とても駄目だ。この嫁入道具は、絶對に、川底まで引いて歸ることは出來んことがわかつた。もう、あきらめる」

「さうか」

 仲間は三部を哀れに思つたが、局面を打開する方途を誰も知らなかつた。河童たちは科學に太刀打ちする力は持たない。枕川の水を遠い田へ流れこませるやうな神通力は持つてゐても、科學には齒が立たなかつた。もはや、かうなると退却のほかはない。

 瓢簞から手を放したとき、三郎は絶望とともに深い孤獨に沈んだ。眞白い綿帽子と角かくし、美しい人間の花嫁姿は、ただ幻想となつて殘つたにすぎない。七つの瓢簞は河童たちを嘲笑するやうに、さざなみのうへに、踊るやうに浮いてゐた。その黑い影は雲のやうに川底までも暗くした。土堤の人間たちは大笑かしながら、勝利の萬歳を唱へた。河童たちがすて去つた七つの瓢簞を引きよせ、また、これをかついで歸つてしまつた。

 その後に、ただ一人、龍吉だけがたたずんで、複雜な表情で枕川の水面を凝視してゐた。顏の表情がいろいろに變る。それは心内でなにかの格鬪がおこなはれてゐる證左だつた。龍吉は立ちあがつた。唇を嚙んで呟いた。

「アヤメは智惠がありすぎる。すばらしい作戰で、まんまと河童を騙くらかしてしもうた。恐しい女ぢや。あんな女と夫婦になつたら、いつ、どんな目に合はされるかもわからんど」

 獨白しながら、龍吉はなにかを決心したやうに、ゆつくりした足どりで、虎助たちとは反對の方角に步み去つた。

 川底での祝言の準備はむだにはならなかつた。人間との國際結婚を危ぶんでゐた長老は、かへつてこの破談をよろこび、トニと三郎とを夫婦にする仲人を率直に買つて出た。傷心の三郎はすぐには氣分轉換が出來なかつたが、長老の、やつぱり河童は河童同志といふ意見と、トニが長い間自分を思つてゐたといふことに動かされた。仲間たちも全部が贊成したので、急に、三郎とトニとの結婚式に肩代りをすることになつた。もはや人間方式をまつたく交へぬ純粹河童方式になつたのである。祝言と披露の宴は底拔け騷ぎになつた。

 三郎もすこしづつ座の雰圍氣に卷きこまれ、笑顏を見せるやうになつた。仲間が奇妙奇手烈な歌や踊りをやると、腹をかかへて笑つた。人間の瓢簞に敗北した鬱憤が大爆發をした。三郎も隱し藝をやりだした。川底はげらげらと雷鳴のやうな笑ひ聲で滿たされた。すると、傳説の掟の示すとほり、枕川の水面はざわめき渦卷き、急速に水量がふえはじめた。たちまち、水は土堤を越えた。

「やァ、田に水が入つたどう」

 百姓たちはよろこんだ。からからに乾いてゐ水田は水に潤された。しかし、よろこんでゐるうちに、水量はぐんぐんと增す一方で、遂に大洪水となつた。稻田の全部の穗は水面から見えなくなり、またたく間に濁流の底に沒してしまつた。

 

[やぶちゃん注:私はこのエンディングに快哉を叫ぶ。この話の基本は世界的には三人の姉妹の末の妹だけが二人の姉と異なった運命或いは試練を与えられるという「シンデレラ」型を示し、またその型の日本の典型例である「猿の聟入(むこい)り」型の異類婚姻譚を踏襲しながら、それを結末を原話類とは異なった形で美事に変形してインスパイアしてあるからである。因みに、御存じない方のために小学館の「日本大百科全書」から「猿婿入(さるむこい)り」の項を引いておくと、『爺(じじ)が、田に水を引いてくれた者に娘を嫁にやるという。猿がそれを聞き、田に水を引き、娘をもらいにくる。上の』二『人は断り、末娘が承知する。里帰りのとき、川の上に見える花を取ってくれと娘が頼む。猿は、花を取ろうとして川に落ち、おぼれて死に、娘は無事に帰る。全国的に数多く分布する昔話の一つである』(私はこの「花摘み」の前に、末妹が非常に重い「臼」と「杵」と「米」を「嫁入り道具」として指定し、それを担いだ猿が桜の花を手折ろうとして橋から川に落ちて溺れ死ぬという話として本話を知っている。所持する岩波文庫の関敬吾編の「日本の昔ばなし(Ⅰ)」によれば、爺さんが嫁にやると約束して猿が手伝うのは「牛蒡掘り」(フロイト的には面白い)であり、しかもそれはまさにこのロケーションと近い「熊本県阿蘇郡」の採話なのである)『不特定の人に、一定の条件を果たしたら娘を嫁にやろうと約束するという発端の形式は、婿を異類とする婚姻譚の特色で、「犬婿入り」「蛇(へび)婿入り」などにもみられる日本の信仰で』(中略。ここを省略するのは、その解説者のここでの解説に私は微妙に違和感を感じるからである)、『蛇は水の霊の姿であるが、猿を水の霊として描いた伝説も少なくない。『古事記』に猿田毘古(さるたひこ)が海水におぼれたとあるのもその一例である。「猿婿入り」の猿も、水の霊の姿であろう。「蛇婿入り」には、ひさごを持って嫁に行き、ひさごを沈めることができたら嫁になろうといって蛇を試す例もある。「猿婿入り」の臼は、「蛇婿入り」のひさごに相当する。ひさごを沈めることができるかどうかで、水の神の霊力を試す話は、すでに『日本書紀』仁徳(にんとく)紀に』二『例もみえている。「猿婿入り」は、田に水を引く水の霊を、人間がひさごの力で征服し、水田経営を無事に進めるという宗教的な物語が昔話化したものであろう』とある(下線は私が引いた)。この「猿」=「蛇」=「水神」という説は、零落した「水神」としての「河童」にこそ相応しいと言えよう。

 ともかくも、私はこの「猿の聟入り」を幼少の頃に読んだ時、実は激しい生理的嫌悪感を抱いたのである。何も悪いことをしていない猿があまりに可哀想だったからである。私は私に子があったら、絶対にこの話は読ませない。智恵を以って誠意を以って対処した相手を殺害するこんな忌まわしい話は読ませたくない。大人になってから、岩波文庫で読んでも、不快感は幼少期にも増して増幅した。

 私は「猿の聟入り」の末の妹が激しく嫌いである!

 言いようもなく、恐ろしい女ではないか?!

 龍吉の最後の態度と「アヤメは智惠がありすぎる。すばらしい作戰で、まんまと河童を騙くらかしてしもうた。恐しい女ぢや。あんな女と夫婦になつたら、いつ、どんな目に合はされるかもわからんど」という台詞、そしてその土地を去って行く後ろ姿にこそ、私は激しく共感する。

北越奇談 巻之三 玉石 其七(光る石)

 

    其七(しち)

 

Ooyutotuomataonsen

 

[やぶちゃん注:崑崙の自筆画。しかし、どうもこの配置は理解し難い遠望する駒ヶ岳の位置から、グーグル・マップ・データのこの地域(ほぼ中央に大湯と栃尾又を配した)を南北逆様にした位置から南東向きで描いたとしか思えないのであるが、そうすると、大湯の位置と栃尾又の位置がどうも解せない(一つ考えた私の解釈があるが、それは後注を参照されたい)。「白蓋山」も現行の地図にはなく、駒ヶ岳の描き方の違いからは大湯の背後(東北)にあるピークと読めるから、これは現在の「津久しの岐山」かその奥の「鼓が倉山」であろうとは思われる。因みに「白蓋山」は恐らく「しろぶたやま」ではなく「びゃくがいさん」であろうと思われる。「白蓋」とは神道に於いて神殿の天井に寺院の天蓋のように配してその下に神降ろしをするための結界のような装置を言う。]

 

 新發田(しばた)より東北、加治(かぢ)、中条(ちうぢやう)の間、路(みち)の傍(かたはら)、田の中に、庚申塚あり。塚の上に、大尺五寸ばかりなる圓(まろ)き石を鎭(ちん)して是を祭る。此石、その先(さき)、農夫、屋後(おくご)の竹林(ちくりん)を掃除して、竹の根を穿(うが)つに、かの石一ツを得(う)。その色、青黑(せいこく)、甚だ滑らかなり。農夫、是を以つて藁を打(うつ)盤(ばん)となす。其夜、家婦(かふ)、庭に出(いづ)るに、光(ひかり)ありて燦然たり。婦人、魑魅(ちみ)なりとして驚き叫ぶ。家主(あるじ)、若者、三、五人を伴ひ來りて、光る物を打(うつ)に、石なり。皆、以(もつて)、怪なりとして其石を竹林に捨(すつ)。猶、その石、夜々(やゝ)光ありて、村中の老若(らうにやく)、恐れて、夜(よる)行(ゆく)者、なし。依(よつ)て是を庚申塚に祭り、上に泥を塗りて光を隱す。今、猶、苔蒸して荒埃(くはうあい)たり。其地に到り、村老に乞ふて、かの石を求(もとめ)んとすれども、其祟りあらんことを恐れて許さず。又、相似たる一奇あり。前に擧ぐる佐奈志(さなし)川と云へるは駒ヶ嶽の梺(ふもと)、大湯村(おほゆむら)と、栃尾俣村(とちをまたむら)の間(あいだ)にして、山間の淸流、數(す)十里を巡り、その源(みなもと)、尋ぬべからざるがごとし。栃尾俣の温泉は西岸にありて、村を離(はな)るゝこと、十町ばかり。深き林の中に湯小屋(ゆごやを)掛け、いかにも物凄きさまなれば、入浴(たうし)の人も今は稀れにして、只、大湯より合(あは)せ湯に通(かよ)ふばかりなるがごとし。大湯は村中(むらうち)にありて、百數(す)十人を浴(よく)すべし。是(これ)、熱(ねつ)の湯なり。又、川岸に瀧の湯あり。是は冷(ひへ)なり。熱は疝氣(せんき)・頭痛・打身・癪氣(しやくき)を治(ぢ)し、冷(ひへ)は疥癬濕瘡(ひぜんしつさう)を治す。即(すなはち)、農家に入浴(たうぢ)の人を宿(やど)し、さらに不自由なること、なし。繁花(はんくわ)と云ふにはあらざれども、閑淸(かんせい)にして、景色(けいしよく)、俗ならず。此川中(かはなか)に、一とせ、夏の渇水せし頃、水中(すいちう)、一点の光ありて、仄(ほの)かに見ゆ。初めは螢なんどの水上(すいしよう)に止(とゞま)るかと見へしが、數日(すじつ)にして、所を移さず。如ㇾ此(かくのごとき)こと、十余日。一日、夕立の雨に、洪水、俄(にはか)に至り、終(つゐ)に、その光を失(しつ)す。其後(そのゝち)、五、六丁、川下に、水中(すいちう)、又、一点の光ありて、朧々(ろうろう)と眞夜(しんや)の星のごとし。樵夫の輩(ともがら)、只、是を怪しむのみにして、又、尋ね求(もとむ)るの心、なし。惜むべし、其秋、又、洪水、俄に至り、遂に、其所在を失すと言(いへ)り。これらの事、皆、山中(さんちう)正愚(せいぐ)の輩(ともがら)、此話をなすが故に敢へて疑ふべきにもあらず。只、がごとき好事の客(かく)、いまだ如ㇾ此(かくのごとき)奇を見得(みえ)ざるに、誠(まこと)に無貪夜識金銀氣(むさぼることなく きんぎきを しる)と、是、わが輩(ともがら)の不幸と云ふべきのみ。

 

[やぶちゃん注:「新發田(しばた)より東北、加治(かぢ)、中条(ちうぢやう)の間」この附近ではないか?(グーグル・マップ・データ) ここは現在の「新発田」市内で、「新発田」市街地外の「東北」に当たり、中央に羽越本線「加治」駅があり、南位置にある郵便局などの施設名が「加治」を含む呼称であり、その南から北西に流れる川が加治川、その右岸の「加治」駅から真西の位置に「向中条」という地名を見出せるからである。

「庚申塚」私は若き日から好んで探索してきたもので旧知のものあるが(太字は私のオリジナルな補注である)、若い人のためにウィキの「庚申塔」を引いておく。『庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を』三年十八回『続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる』。『庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜』、『寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避けるためとして庚申の日の夜は夜通し眠らないで』、『天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習である』(伝播当初から仏教・神道及び豊饒と性神を祀る相対道祖神や塞(さえ)の神のような土着神や行路神との習合が急速に進み、江戸時代は他の有象無象の講中と同様、経済扶助意識の共有や親睦目的のための徹夜宴会が中心となり、庚申信仰のここに書かれてあるような本質はとうに失われていたと考えた方がよい)。『庚申塔の石形や彫られる仏像、神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。仏教では、庚申の本尊は青面金剛』(しょうめんこんごう:実際、彩色図などでは顔が青く塗られる。ここで「仏教では」と言っているが、実際にはこの庚申信仰の影響下で造形・形象された本邦の仏教思想の中で、「三尸の虫を押さえつける尊神」として拵えた夜叉神の一人に過ぎない。その形相や持ち物は明王像(特に軍荼利(ぐんだり)明王)に非常によく似ている)『とされるため、青面金剛が彫られることもある。神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。また、庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。さらに、塞神として建立されることもあり、村の境目に建立されることもあった』(本来の十干十二支は純粋な順列記号であって、「申」から「猿」は単なる連想による勝手な派生ハイブリッド習合(何でもかんでも現世利益となり、しかも自在に対応出来る人間にとって都合のよい神仏集合体)でしかない)。因みに、湘南地区で一見しておいてよいものは、江ノ島奥津宮手前の階段脇にある江戸中期に建立された三十六匹もの猿が浮き彫りにされた多彩な群猿奉賽像庚申塔である。未見の方は、是非、お勧めである。

「尺五寸」三十二センチメートル弱。

「鎭(ちん)して是を祭る」神霊を鎮めるように置き配してこれを祀っている。

「その先(さき)」その昔。

「魑魅(ちみ)」魑魅魍魎。訓ずると「すだま・こだま」で、元来はアニマチズム(animatism)的な崇拝・畏敬対象であった、山林・溪谷・木石・生物の精霊とされる「物の怪」の類いであるが、ここは「化け物」でよかろう。

「荒埃(くはうあい)」荒れ果てて埃まみれであること。

「前に擧ぐる」其四(木葉石)

「佐奈志(さなし)川」新潟県魚沼地方を流れる信濃川支流の魚野川のそのまた支流である佐梨川。駒ヶ岳を水源とし、全長約十八キロメートル。挿絵の注のグーグル・マップ・データ或いは以下のそれを参照。

「駒ヶ嶽」越後駒ヶ岳。新潟県南魚沼市と魚沼市に跨る。標高二千三メートル。

「大湯村(おほゆむら)」新潟県魚沼市大湯温泉。(グーグル・マップ・データ)。

「栃尾俣村」佐梨川の大湯温泉の、上流直近にある魚沼市大湯温泉栃尾又。栃尾又温泉がある。なお、正式な住所は大湯もここも魚沼市上折立のようである。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「栃尾俣の温泉は西岸にありて、村を離(はな)るゝこと、十町ばかり」「十町」は約九百八十二メートルで、現在の大湯温泉地区の南端と現在の栃尾又温泉との実測距離と完全に合致するところが、「栃尾俣の温泉は西岸」ではなく、佐梨川の東岸である。一つ考えたのは、挿絵の「栃尾俣の温泉」の位置の不審である。この挿絵の通りなら、確かに「栃尾俣の温泉」は佐梨川の西側にあると読めるからである。そこで一つの解釈であるが、「栃尾俣」の名称は川が分岐していることを指すとすれば、実は現在の栃尾又温泉のあるのは佐梨川から南東に分岐した「栃尾又沢」の奥だという点である。実はかつてはこの「栃尾俣の温泉」はこの佐梨川と栃尾又沢の分岐点付近にあったのではないか? それが佐梨川を渡渉した西岸の、現在の「大湯温泉カタクリ群生地」(グーグル・マップ・データ))の南の先、先の川の分岐点の少し南位置にあったとすると、実測値がやはり概ね「十町」と一致するのである。その痕跡でも少しここに残っていたらなぁ。大方の御叱正を俟つものではある。

「合(あは)せ湯」違った泉質の湯に合わせて浸かって湯治することであろう。現在の大湯温泉の泉質はナトリウム - 塩化物泉(同地区内で泉質の違うものがある)であるのに対し、栃尾又温泉は天然ラジウム温泉(含有量日本第二位)で異なる。

「川岸に瀧の湯あり」不詳。現在の大湯温泉には佐梨川に近い「荒瀬の湯」「川原の湯」とも)はあるが、孰れも熱いから違う(特に「荒瀬の湯」は源泉温度が五十三・八度と超弩級に高い)。

「疝氣(せんき)」「癪氣(しやくき)」は合わせて「疝積(せんしゃく)」とも呼び、近代以前の日本の病名で、当時の医学水準でははっきり診別出来ないままに、疼痛を伴う内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていたものの俗称の一つである。単に「疝」とも、また「あたはら」とも言い、平安期に成立した医書「医心方」には,『疝ハ痛ナリ、或ハ小腹痛ミテ大小便ヲ得ズ、或ハ手足厥冷(けつれい)シテ臍ヲ繞(めぐ)リテ痛ミテ白汗出デ、或ハ冷氣逆上シテ心腹ヲ槍(つ)キ、心痛又ハ撃急シテ腸痛セシム』とある(「厥冷」は冷感の意)。一方、津村淙庵の「譚海」(寛政七(一七九五)年自序)の「卷の十五」には、『大便の時、白き蟲うどんを延(のば)したるやうなる物、くだる事有。此蟲甚(はなはだ)ながきものなれば、氣短に引出すべからず、箸か竹などに卷付(まきつけ)て、しづかに卷付々々、くるくるとして引出し、内よりはいけみいだすやうにすれば出る也。必(かならず)氣をいらちて引切べからず、半時計(ばかり)にてやうやう出切る物也。この蟲出切(いできり)たらば、水にてよく洗(あらひ)て、黑燒にして貯置(ためおく)べし。せんきに用(もちゐ)て大妙藥也。此蟲せんきの蟲也。めつたにくだる事なし。ひよつとしてくだる人は、一生せんきの根をきり、二たびおこる事なし、長生のしるし也』と述べられており、これによるならば疝気には寄生虫病が含まれることになる(但し、これは「疝痛」と呼称される下腹部の疼痛の主因として、それを冤罪で特定したものであって、寄生虫病が疝痛の症状であるわけではない。ただ、江戸期の寄生虫の罹患率は極めて高く、多数の個体に寄生されていた者も多かったし、そうした顫動する虫を体内にあるのを見た当時の人はそれをある種の病態の主因と考えたのは自然である。中には「逆虫(さかむし)」と称して虫を嘔吐するケースもあった)。また、「せんき腰いたみ」という表現もよくあり、腰痛を示す内臓諸器官の多様な疾患も含まれていたことが分かる。従って疝気には今日の医学でいうところの疝痛を主症とする疾患、例えば腹部・下腹部の内臓諸器官の潰瘍や胆石症・ヘルニア・睾丸炎などの泌尿性器系疾患及び婦人病や先に掲げた寄生虫病などが含まれ、特にその疼痛は寒冷によって症状が悪化すると考えられていた(以上は概ね平凡社「世界大百科事典」の立川昭二氏の記載に拠ったが、「譚海」の全文引用と( )内の寄生虫病の注は私の全くのオリジナルである)。

「疥癬濕瘡(ひぜんしつさう)」所謂、疥癬(かいせん)のこと。節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱ダニ目無気門(コナダニ)亜目ヒゼンダニ科ヒゼンダニ属ヒゼンダニ変種ヒゼンダニ Sarcoptes scabiei var. hominis が寄生することによって起こる皮膚感染症。本種はヒトにのみ限定的に寄生し、ヒトの皮膚角層内にトンネル状の巣穴を掘って棲息する。主症状は激烈な痒みで、初期には指間部・手首及び肘の屈曲面・腋窩の襞・ベルトに沿ったウエストライン・殿部下方等に紅色の丘疹が現れる。この丘疹は体の如何なる部位にも拡大可能であるが、通常、成人では顔面に出現することはない。ヒゼンダニの形成するトンネルは微細な波状を成し、やや鱗状の屑を伴う細い線として認められ、その長さは数ミリメートルから一センチメートル程度で、一方の端にはしばしば小さな黒い点(ヒゼンダニ本体)を認め得る(病態については万有製薬の「メルクマニュアル」の「疥癬」の記載を参照した)。

「繁花(はんくわ)」繁華。繁盛。

「閑淸(かんせい)」閑静。清閑。

「五、六丁」五百四十六~六百五十四メートル。

「朧々(ろうろう)と」ぼんやりとしておぼろげなさま。

「眞夜(しんや)」野島出版版では『春(しゆん)夜』と判読するが、私は原典をかく判読「無貪夜識金銀氣(むさぼることなく きんぎんきを しる)」杜甫の七律「題張氏隱居」 (張氏の隱居に題す)」の五句目、「不貪夜識金銀氣」(貪(むさぼ)らずして 夜(よ) 金銀の氣を識(し)り)の引用。「不貪して」は全く心から無欲であるから(こそ逆に)。「金銀の氣を識り」土中に埋蔵されている金銀から立ち昇るその高雅なる気を自然に感じることが出来る。]

2017/08/17

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 行夜(へひりむし)


Heppirimusi

へひりむし  負盤 氣蠜

       ※盤蟲

行夜

       俗云※蟲

ヒン ヱヽ

[やぶちゃん注:「※」=「尸」の下の中に「氣」。]

 

本綱行夜蟲有短翅飛不遠好夜中行人觸之卽氣出此

與蜚蠊形狀相類但有廉薑氣味者爲蜚蠊觸之氣出者

爲氣蠜今小兒呼※盤蟲

△按行夜卽※蟲與蜚蠊不相類其頭黃背黒而有黃文

 尻扁大觸之則※有音有煙甚臭

 

 

へひりむし  負盤 氣蠜〔(きばん)〕

       ※盤蟲

行夜

       俗に「※蟲(へひりむし)」と云ふ。

ヒン ヱヽ

[やぶちゃん注:「※」=「尸」の下の中に「氣」。音は不詳なので読みは示せない。]

 

「本綱」、行夜蟲は、短翅有り、飛〔(とぶ)〕こと、遠からず。夜中を好みて、行く。人、之れに觸〔(ふる)〕るときには、卽ち、氣、出づ。此と蜚蠊(あぶらむし)と、形狀、相〔(あひ)〕類す。但し、廉薑〔(れんきやう)〕の氣味有る者を蜚蠊と爲〔(な)す〕。之れに觸れて、氣、出〔(いづ)〕る者、氣蠜と爲〔(な)す〕。小兒、今、「※盤蟲(へひり〔むし〕)」と呼ぶ。

△按ずるに、行夜は、卽ち、※蟲〔(へひりむし)〕。蜚蠊(あぶらむし)と相〔(あひ)〕類せず。其の頭、黃、背、黒くして黃文有り、尻、扁〔(ひらた)〕く大〔なり〕。之れに觸〔(ふる)〕れば、則ち、※(へひ)る音(をと)有り、煙〔(けぶり)〕有り、甚だ臭し。

 

[やぶちゃん注:一応、鞘翅(甲虫)目飽食(オサムシ)亜目オサムシ上科ホソクビゴミムシ科 Pheropsophus 属ミイデラゴミムシ Pheropsophus jessoensis 或いは、その近縁種としておく。ウィキの「ミイデラゴミムシ」によれば、所謂、屁放り虫(へっぴりむし)と呼ばれるものの代表格である。こうした悪臭物質を尾部から噴射するものは、他のゴミムシ類と呼ばれるオサムシ類(ゴミムシ(塵虫・芥虫)はオサムシ上科オサムシ科 Carabidae、或いはこれに近縁な科の類の中から、特に目立って独自呼称で呼ばれる種等を除いた雑多な種群の総称で、この総名称は彼らの摂餌対象となる小昆虫の多いごみ溜めで、これらの甲虫がよく見かけられるためと考えられている)の多くの種に見られるものの、このミイデラゴミムシのようなホソクビゴミムシ科 Brachinidae の種群は、多くが『音を発し、激しく吹き出すことで特に目を引く』(下線やぶちゃん。以下も同じ)とあり、また、附図の背部の斑紋及び良安の解説からみても、かく同定してよいかと思われる。以下、ウィキより引くと(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)、『成虫の体は黄色で褐色の斑紋があり、鞘翅に縦の筋が九条あるほとんどのゴミムシ類が黒を基調とする単色系の体色である中で、数少ない派手な色を持ち、また、比較的大柄(一・六センチメートルほど)であるため、かなり目立つ存在である。捕まえようとすると』、『腹部後端より派手な音を立てて刺激臭のあるガスを噴出する。日本列島内の分布は北海道から奄美大島まで。大陸では中国と朝鮮半島に分布する』。『湿潤な平地を好む。成虫は夜行性で、昼間は湿った石の下などで休息する。夜間に徘徊して他の小昆虫など様々な動物質を摂食する。死肉も食べ、水田周辺で腐肉トラップを仕掛けると採集されるが、腐敗の激しいものは好まず、誘引されない』。『これに対して、幼虫の食性は極めて偏っている。一齢幼虫は体長二・三~二・八ミリメートルと小型で』、『歩行能力に富み、ケラ』(直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ類。本邦のそれはGryllotalpa属ケラ Gryllotalpa orientalis。附言しておくと、本ミイデラゴミムシは以下に見る通り、ケラの卵塊を食べて成長するという限定的な寄生性のライフ・サイクルを持つ。従って、現在、ケラの減少とともに本種も減少している)『の巣穴の中に形成された土製の卵室の壁を破って進入し、そこで卵塊を摂食しながら成長する。卵塊をばらして一齢幼虫に与えても摂取せず、土中にある壊れていない卵室への侵入が成長には必須となる。絶食にも強く、何も食べずに二十三日程度は生存する。多くのオサムシ上科の昆虫と同様三齢が終齢幼虫であるが、二齢幼虫と三齢幼虫はこの寄生的な生活に適応し、足が短く退化したウジ状の姿であり、三齢幼虫で体長十五・五ミリメートルほどになる。産卵期は六月中旬から七月下旬にかけてで、他のゴミムシ類に比べるとかなり小さな卵をしばしば卵塊の形で産む』。『こうした他の昆虫の卵塊や蛹を捕食寄生的に摂取して幼虫が成長するのはホソクビゴミムシ科全体の特徴と見られ、北米ではミズスマシ』(オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae)『のような水生甲虫、ヨーロッパではマルガタゴミムシ類』(オサムシ上科オサムシ科マルガタゴミムシ亜科 Zabrinae)『のような他のゴミムシ類の蛹に捕食寄生して育つものが知られるが、日本産のホソクビゴミムシ科』の『昆虫で宿主が判明しているのはミイデラゴミムシのみである』。尤も、『普通種のオオホソクビゴミムシ』(オサムシ科 Brachinus属ホソクビゴミムシ亜科オオホソクビゴミムシ Brachinus scotomedes:本邦産種。ミイデラゴミムシ同様、強烈なガスを噴射する。本邦には同属の六種が棲息する)『ですら、実験室内の産卵にも成功していない』とあるから、実はそのライフ・サイクル自体が未だ解明されていないということらしい)。

以下、「ガスの噴出」の項。『他のホソクビゴミムシ科のゴミムシ類と同様、外敵からの攻撃を受けると、過酸化水素とヒドロキノン』(過酸化水素と同様に強力な漂白作用を持つフェノール)『の反応によって生成した、主として水蒸気とベンゾキノンから成る摂氏百度以上にも達する気体を爆発的に噴射する。この高温の気体は尾端の方向を変えることで様々な方向に噴射でき、攻撃を受けた方向に自在に吹きかけることができる。このガスは高温で外敵の、例えばカエルの口の内部に火傷を負わせるのみならず、キノン類はタンパク質と化学反応を起こし、これと結合する性質があるため、外敵の粘膜や皮膚の組織を化学的にも侵す。人間が指でつまんでこの高温のガスを皮膚に浴びせられると、火傷まではいかないが、皮膚の角質のタンパク質とベンゾキノンが反応して褐色の染みができ、悪臭が染み付く』。このように、『敵に対して悪臭のあるガスなどを吹きつけることと、ガスの噴出のときに鳴る「ぷっ」という音とから、ヘッピリムシ(屁放り虫)と呼ばれる』。以下、「反進化論」の項。『主に創造論者らによる反進化論の証拠として、この仲間の昆虫のもつガス噴出能力が取り上げられることがある。その論は、「このような高温のガスを噴出できる能力は、非常に特殊な噴出機構がなければ不可能であるし、そのような噴出機構は、このようなガスの製造能力がなければ無意味である。つまり、少なくとも二通りの進化が同時に起こらなければならず、このようなことは突然変異のような偶然に頼る既成の進化論では説明が不可能だ」というものである』。『それに対しての反論は以下の通りとなる』。『特殊な噴出機構がなくても単に「少し熱い」ガスでも十分に役に立つし、実際に北米大陸には非常に原始的な噴射装置と混合装置を』「ヘッピリムシ」の一種である『Metrius contractus (ホソクビゴミムシ科』Brachinidae。但し、『多くの北米の研究者らはオサムシ科に含める)が知られている。このような種の存在からも』、『漸進的な噴射装置と混合装置の進化は可能であることが推定でき、ホソクビゴミムシ類の噴射装置を反進化論の証拠とするのは適当ではない』。また、ヒゲブトオサムシ科 Paussidae『(アリのコロニーに寄生する種を多く含む群であり、これも北米の研究者らの多くはオサムシ科に含める』。本邦にも四種の棲息が確認されている『)にも同様に噴射装置を持つものがあるため、ホソクビゴミムシ類とヒゲブトオサムシ類が同じ系統に属すると考える研究者もいる。その場合噴射装置はこのグループの進化の途上でただ一度だけ獲得されたものであり、ホソクビゴミムシ類とヒゲブトオサムシ類共通の祖先から受け継がれたものであることになる。それに対し、ホソクビゴミムシ類とヒゲブトオサムシ類は多少なりとも縁遠く、その噴射能力はそれぞれの系統で別個に進化・獲得されたものだと考える研究者もいる。もし後者の論が正しければ、噴射能力の獲得は生物進化においてそれほどまれではない現象ということになる』とある。

 なお、「ミイデラゴミムシ」は「三井寺芥虫」であるが、この名の由来については、個人サイト「MatsumaRoom」の「ミイデラゴミムシは何故"ミイデラ"ゴミムシというの?」で説得力のある話が克明に記されている。詳しくはそちらを是非、参照されたいが、滋賀県立琵琶湖博物館の八尋克郎氏の仮説で、一つは滋賀県大津市の三井寺円満院にあった「放屁合戦」の鳥羽絵が由来とするもの、今一つは三井寺に伝わる伝承「弁慶の引き摺り鐘」のその響きを、この虫の「おなら」の音に重ね合わせたのではないか、とするものである。後者の「弁慶の引き摺り鐘」伝説は「三井寺」公式サイト内のこちらで解説されてある。それによれば、この鐘は現存し、『当寺初代の梵鐘で、奈良時代の作とされ』、承平年間(九三一年~九三八年)にかの『田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に 琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられ』るものであるが、『後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると』、その鐘の音が「いのー、いのー」『関西弁で帰りたい)と響いたので、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったとい』ういわくつきの鐘だとされ、『鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残ってい』るとある(リンク先には鐘の画像がある)。なかなか面白い考察である。

 最後に。その「悪臭」とはどんな臭さなのか? 肌に附着した場合、どうなるのか?

 私は体験したことがないので調べて見たところ、実験(!)した方の記載と画像・動画(!)まで揃ったものをサイト「デイリーポータルZ」で発見した! 平坂高温・有毒のオナラを浴びてきたがそれ!! 虫嫌いはもとより、皮膚変色の画像もあるのでくれぐれもクリックは自己責任で!!!! それによれば、臭気の方はというと、平坂氏はそのあまりの熱さなどの『インパクトの強い現象が多すぎて忘れていた』が、『あー、まあそれなりに臭いな』とされ、『変色した指先を鼻にあて』がって『思い切り嗅ぐと、確かに独特の臭気を感じる。ちょっと正露丸のそれに近いか』と記されておられる。クレオソートの臭いに近いらしい。好んで嗅ぎたくは、確かに、ないな。

 

後の「盤蟲(へひり〔むし〕)」とともに「屁(へ)ひり虫」で、「屁(へ)っぴり虫」のこと。

 

「飛〔(とぶ)〕こと、遠からず」遠くまで飛ぶことは出来ない。

「夜中を好みて、行く」先に注の引用にある通り、ミイデラゴミムシの成虫は夜行性である(下線部参照)。

「蜚蠊(あぶらむし)」昆虫綱網翅上目ゴキブリ目 Blattodea に属するもののうち、シロアリ科 Termitidae を除く、多様なゴキブリ類を指す。「蜚蠊の私の注を参照されたい。

「形狀、相〔(あひ)〕類す」いや。昆虫嫌いの私が見ても、これ、全然、似てないよ。ゴミにたかる点では似ているけどね。良安先生の「蜚蠊(あぶらむし)と相〔(あひ)〕類せず」と言うのには大いに同感。

「廉薑〔(れんきやう)〕」東洋文庫版訳の割注には『薑に似た香気の強い草』とある。「廉薑」は生姜(しょうが:単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ショウガ属ショウガ Zingiber officinale)のことであるが、どうもピンとこない。調べてみると、江戸後期の岩崎灌園(いわさきかんえん 天明六年(一七八六)年~天保一三(一八四二)年:小野蘭山の弟子)の著わした「本草圖譜」(文政一一(一八二八)年完成)の(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)に「廉薑」があり、そこには和名で「ガンゼキラン」とある。この和名が正確なら、

単子葉植物綱ラン目ラン科ガンゼキラン属ガンゼキラン Phaius flavus

である。「岩石蘭」で球茎がごつごつして堅く、長く残ることに由来する和名らしい。大きな黄色花をつけるというが、蘭の類は花は美しいものの、多くは芳香は放たない。岩崎の記載によれば、根は唐辛子のように辛いが食用になり、よい香りで山葵(わさび)に似ている、とあるから、それか? しかし、ゴキブリはそんな匂いは、せんぜ?

盤蟲(へひり〔むし〕)」屁(へ)ひり虫。

「之れに觸〔(ふる)〕れば、則ち、(へひ)る音(をと)有り、煙〔(けぶり)〕有り、甚だ臭し」良安は本当に自分で実験してみたのかな? 強烈な熱さを言ってないのは大いに不審である。実は単なる人聞きなのか、それともミイデラゴミムシでないからなのか?]

北越奇談 巻之三 玉石 其六(蛇崩れ海中の怪光石)

 

    其六

 

 出雲崎の南(みなみ)、勝海(かつみ)と云へる所、先年、海岸の絶壁、崩れ、蛟竜(こうりやう)出(いで)て、海に入(いる)。名付(なづけ)て「蛇崩(じやくづ)れ」と云ふ。其後(そののち)、村老(そんろう)五左衞門と云へる者、一夜(いちや)出(いで)て海上(かいしよう)を望み見るに、山のなだれ落(おち)たる所、水底(すいてい)に光(ひかり)ありて、波上(はしよう)に月影(げつえい)を見るがごとし。村老、怪(あやしみ)て、夜々(やゝ)、是を試(こゝろむ)るに、猶、燦然(さんぜん)たり。即(すなはち)、勇壯の若者に命じて舟を漕寄(こぎよせ)、光につきて水底を潛(くゞ)り、尋ね求むるに、一塊(いつくはい)の白石(はくせき)あり。是を得て、家に歸れば、即、水上(すいしよう)の光、不ㇾ見(みへず)。此石、夜々(よゝ)、猶、照ㇾ席(せきをてらす)。見る人、市(いち)を成す。縣令(けんれい)、これを聞(きゝ)て、下官(げくわん)に命じて借りて見んことを欲す。村老、辭すること能(あた)はず。終(つゐ)に是を獻じて、東武に至る。後(のち)三年にして反(かへす)。其玉(ぎよく)石、已に、光、失(しつ)して、なし。今、猶、其家(いへ)、是を藏(かく)すと雖も、不ㇾ堪弄玩(らうぐはんにたへず)、實(じつ)に惜(おし)むべし。

[やぶちゃん注:「勝海」現在の新潟県三島郡出雲崎町勝見。(グーグル・マップ・データ)。

「蛟竜(こうりやう)」登蛇(とうだ)に既出既注。かく記す以上、暗にこの石を龍に付属する霊石としての「龍の玉」だと言いたいわけである。

「蛇崩(じやくづ)れ」奇」の「其二 燃水(もゆるみづ)」に「上蛇崩(かみじやくづれ)」として既出既注であるが、再掲する。現在の勝見地区に「蛇崩丘(じやくずれおか)」という場所を見出せる。位置はマッピン・データのこちらで確認されたい。今回、グーグル・ストリートビューで見たが、遠望と推定される。それらしい山体(尾根)ではある。

「光につきて」海底の発光するその光の筋(方向)に従って、発行源に向けて。

「水上(すいしよう)の光、不ㇾ見(みへず)」海上に見えていた発光は見えなくなっていた。言わずもがなであるが、この石がその怪光現象の原因であったことの明示。

「照ㇾ席(せきをてらす)」「席」は会所で石を置いてある接待用(後で門前市を成すことから)の居間、大広間の意ととっておく。

「縣令(けんれい)」律令制に於いて国司の下にあって郡を統治した地方官である「郡司(ぐんじ)」の異称。ここは江戸時代の諸藩にあった天領(幕府直轄地)の行政に当たった代官のこと。江戸時代の出雲崎は佐渡からの金銀を荷揚げする港町であったことから天領であった。まさにこの蛇崩れ附近の東北のごく直近の出雲崎町尼瀬に代官所がある(グーグル・マップ・データ)。

「東武」江戸。

「藏(かく)す」所蔵する。

「不ㇾ堪弄玩(らうぐはんにたへず)」最早、不思議な光りを失ってしまっているため、観賞するに堪えるものではなくなってしまっている。]

今日の「青空文庫」の公開作である高見順の随筆「かなしみ」を読み易くしてみる

今日の「青空文庫」の公開作は高見順の随筆「かなしみ」であった。

私は高見淳が好きだが、これは初めて読んだ。しかし実に、佳品であった。最後の部分が自ずと、ジジーンと、きた。原文は改行なしの一段で読点が禁欲的でちょっと今時の若者には読み難いようだから、恣意的に改行と読点代わりに字空けを施して以下に示す。若い読者向けに私の注を入れた。読みは歴史的仮名遣で示した。

   *

 赤羽の方へ話をしに行つた日は 白つぽい春の埃が中空に舞ひ漂つてゐる日であつたが、その帰りに省線電車の長い席の いちばん端に 私が腰掛けて 向うの窓のそとの チカチカ光る空気に ぼんやり眼をやつてゐるといふと、上中里か田端だつたかで、幼な子を背負つた ひとりの若い女が入つてきて 手には更に 滅法ふくらんだ風呂敷をさげてをつた。

そこで 席を譲つた私であつたが、このごろ 幼な子となると この私としたことが、きまつて おのが細頸を捩ぢ曲げたり 或は長い頸をば 一層のばしたりしてまで その幼な子の顔をのぞいて さうして そのあどけなさをば、マア言つてみりや 蜂が騒々しく花の蜜を盗むみたいに なんとなく 心に吸ひ取り集めないでは ゐられないのであつたから、そのときも その幼な子に 遽しく[やぶちゃん注:「あはただしく」。]眼を向けたことは言ふまでも無いのだ。

どうやら 眼が見え出してから やつと一二月位にしかならないと察せられるその子は、眼と眼とのあひだの まだ隆起のはつきりしない鼻の上ンところに、インキのやうな 鮮やかな色合ひの青筋を見せてゐて、そのせゐもあるんだらうが、総じて脾弱な感じで 顔色も こつちの主観からだけでなく 病弱の蒼さと見られ、さういふ子には なほのこと 親ならぬ私ながら いとしさが唆られる[やぶちゃん注:「そそられる」。]のである。

ところが その親の若い女なんだが、これはまた どうして 骨太の おつとやそつとでは[やぶちゃん注:現在の「ちょっとやそっと」に同じい。] 死にさうもない体格の 牛みたいなやうな女で、そして さういふ女に有り勝ちの 眼暈[やぶちゃん注:ママ。「めまひ」(眩暈)と訓じていよう。]を催させるやうな色彩と柄の それにペカペカと安つぽく光るところの着物を着てゐる。

その背中で 小さな頼りない幼な子は キョトンとした青つぽい眼を あらぬ方に放つてゐたが、するうちに 何を見つけたか、弱さうな子でも やはりくびれは出来てゐる その頸を 精一杯うしろに曲げて、それは全く もやしの茎が ポキント 儚く[やぶちゃん注:「はかなく」。]折れるやうに 今にも折れはしないかと ハラハラする位に 無理に のけぞらせて、一心に何かを瞠め出したものだ。

何か横の 上の方にあるものに 幼な子は大変な興味を惹かれて了つたらしいのだ。

瞬きもせず瞠めてゐるのだつた、[やぶちゃん注:読点はママ。]

すぐその無理な恰好が苦しくなるのだらう、首を前に戻すのだが、その戻すのが戻すといつた式のものでなく ガクッと 首を前に倒す、いいえ、ぶつつけ ぶつ倒すのだ。

さうして 鼻をペチャンコに潰したまま 母親の襟に顔を埋め、しばらくは さうして フーフーと 息をついてゐる。

この幼な子にとつて 仰向いて瞠める[やぶちゃん注:「みつめる」。]のは それこそ 大変な労苦であることを それは ありありと語つてゐた。

と また 首を持ちあげ 頸を折るみたいにして 仰向く[やぶちゃん注:「あふむく」(あおむく)。]のであつた。

さうして再びガクッとやる。

はて 何が一体そんなにまで 幼な子の心を強く捕へたのか

と 私は心穏かでなく 幼な子の視線を辿るといふと、席の横に ひとりの背の低い青年が立つてゐて その男の顔を瞠めてゐることが分つた。

さりながら その顔は 至つてありきたりの雑作[やぶちゃん注:「ざふさく」(ぞうさく)。顔立ち。]であつて 別に不思議な顔といふのではなかつた。

けれど 如何にも不思議さうに 幼な子は見入つてゐる といふことを 青年は夙に[やぶちゃん注:「つとに」。とっくに。先(せん)から。]気づいてゐたらしく、青年らしい羞恥と困惑を押へ隠して さりげない風を敢へて装つてゐる表情であつたが、ここでまた 私の吟味的な視線を 面皰[やぶちゃん注:「にきび」。]の吹き出た頬に感じると、もはや我慢がならぬ といつた如くに 苦虫を噛み潰したやうな顔をした。

と その瞬間、私は ああさうだ と ひそかに合点をした。青年は セルロイド製の黒いふちの眼鏡を掛けてゐた。

たしかに その眼鏡に 幼な子は惹かれたのであるらしい。

軈て[やぶちゃん注:「やがて」。] 幼な子は小さな手まで上へ頼りなげに差しのべはじめたが、その手の動きも 私の推測の誤りでないらしいことを告げてゐると私はした。[やぶちゃん注:「した」はママ。「察した」の謂いか。]

幼な子の 春の芽のやうな 可愛い手は 然し[やぶちゃん注:「しかし」。] 充分にあがらず、空間を模索的に動かしてゐるうち 青年の洋服の袖をとらへた。

すると、この、幼児を身辺に持つたことのないらしい青年は すつかり照れて、冗談ぢやないよ といつた風に すげなく、だが さう あらはに 引つこめるのも大人気ない といつた様子で 静かに 手をひくと 同時に 幼な子は 例の ガクッと やる やり方で顔を伏せた。

丁度 そのとき 電車は駅に入り、青年は降りて了つた。

そして 又 電車が動き出すと その動揺に促された如くに 幼な子は やをら 首を挙げて 不思議な眼鏡を観察すべく 上を見たはいいが、さあ大変、大事な眼鏡は消え失せてゐる。

今まで ちやんと あつたものが あッといふ間に なくなるとは 信じ難い、さういつた眼を 幼な子は ムキになつて向けてゐたが、やがて なんとも いひやうのない哀しい顔付をしたとおもふと、それはすぐ無慙な歪んだ顔に成り、ヒーヒーと泣き出した。

その泣き声が、抗議的な爆発的な叫喚的なものならいいんだが、いかにも弱々しい低い 絶え入るやうな哀しいものであつたのも 私の心を ひとしほ 苦しめた。

若い母親は、ああ よしよし と言つて 背中をゆすぶり、その体躯にふさはしい 勇ましい振り方をするもので、幼な子はガクンガクンと首をがくつかせて そして 泣きつづける。

泣きつづけるので 母親は、ああよしよし、もうすぐだよ、上野に着いたらやるからネ と言って[#「言って」はママ][やぶちゃん注:この注は「青空文庫」の入力者によるもの。] 自分の人差指を 幼な子の口に突き込んだのであつたが、どうやら それは おしやぶり代りに当てがふ積りらしく、幼な子の泣き出した事情も 遣る瀬ないそのかなしみも 知らない母親は 一図に 幼な子が空腹から泣いたもの と解したのであらう。

幼な子は そんな汚いおしやぶりは拒否したけれど、荒いゆすぶりに脳震蕩気味に成つたのか 連続的に泣くのは控へて 時々泣く泣き方に移つて行つた。

その頃は私も さう ジロジロ見るのは悪いやうな気がして 心ならずも ソッポを向いてゐたのだが、やはり どうも 気になつて さりげなく横目でのぞくと、幼な子の顎の下にあるべき涎掛けが ずれてゐて 涎が母親の晴着の襟を汚してゐる。

これはいけないと 直してあげようとしかけたとき 女は隣りにゐる 草色のズボンをはいて 上はシャツだけの 若い男に話し掛け、その言葉は そのまだまるで若い男が[やぶちゃん注:「まだ」はママ。「そのまるで」(およそ父親とは見えない)「まだ」(未婚のような)「若い男」の謂いか。] どうも 幼な子の父親であるらしいことを 私に知らしめ、さうなるといふと 私のしようとすることなどは 当然 その若い父親のすべきことであり、それを 男を さておいて 私がすることは 何か恥をかかせることに成る恐れがある といふことを 私に知らしめた。

そこで 私はやめたのだが、然し、その若い父親は 泣きじやくる幼な子に てんで眼を呉れようとはしないだけでなく、うるさい幼な子の存在に腹を立ててさへゐるかのやうな顔を ツンと 横に向けてゐる。

さうして 襟は汚されるままで、言ひかへると 幼な子は そのかなしみを遂に察して貰へず、一向に顧られない[やぶちゃん注:「かへりみられない」。]ままで いつか 上野へ着いて、さて 私は これが最後だ と 別れの挨拶を 幼な子にかけようとするみたいな想ひで 改めて 眼をやるといふと、幼な子は 母親の濡れた襟に ぴたりと頬をくつつけて、何か 自分から諦めた そんな安らかさで 眼をつぶつて、そして 自分の下唇を 口のなかに食ひ込ませ 乳の出ないそんなものを チクチクと しきりに吸つてゐるのであつた。

幼な子のかなしみが、いや、かなしみとは 常に かういふものなのであらう、――かなしみが ジーンと 私の胸に来た。幼な子が車内から去つた ずつとあとも 私の心には 深いかなしみが残されてゐた。それは 幼な子へのあはれみ といふのでなく、いつか 私自身のかなしみ といふのに 成つてゐた。

   *

2017/08/16

北越奇談 巻之三 玉石 其五(靑石)

 

    其五

 

Kobunjisugi

 

[やぶちゃん注:橘崑崙茂世の自筆画。]

 

 蒲原郡(かんばらごほり)茨曽根村(いばらそねむら)、里見氏(さとみうぢ)の庭前(にてぜん)に、老(ふるき)杉十圍(かかへ)なるもの、あり。枝々(しゝ)、四隣(しりん)に茂り掩(おほ)ふて、庭中(ていちう)、常に陰(かげる)。主人、甚だ、是を憎む。一日、僕に命じて伐(きら)しむるに、中(うち)、少し朽ちて空(うつぼ)也。以(もつて)、板(いた)に挽分(ひきわく)るに、土際(つちぎは)八尺ほど上(あが)りて、鋸(のこぎり)の齒の缺損(かけそん)じ、切斷すること不ㇾ能(あたはざる)所、あり。終(つゐ)に斧(おの)を以つて打割(うちわ)り見たるに、大さ、鞠(まり)の如くなる靑石(あをいし)ありて、甚だ重し。僕の云(いふ)、

「是を火打石にせば、よからん。」

と。木挽(こびき)、即(すなはち)、大斧(たいふ)を以(もつて)是を碎(くだ)く。忽(たちまち)、金石(きんせき)の響きを成して兩斷となる。中(うち)、自然に丸(まる)く、空所ありて、清水、傾き出づ。人々、後悔すれども不ㇾ及(およばず)。

 可レ憐(あはれむべし)、卞和(べんわ)氏なきことを。是等のもの、良工に命じて琢磨せば、必(かならず)、明珠なるべきか。可惜(おしむべし)々々。

 今、はた、是に似たるものあり。言傳(いひつた)ふ、

「源平の昔、五十嵐小文治と云へる者、勇力(ゆうりき)の聞(きこ)へありて、即(すなはち)、三条五十嵐川の水上(みなかみ)、矢木峰(やぎがみね)、流(ながれ)に臨んで絶壁勝地あり。此流(ながれ)に續きて、五十嵐の神社、古木大杉(こぼくたいさん)、多し。一日、小文治、此所(このところ)に至り、『己(おのれ)が力量を試(こゝろみ)ん』と大石(たいせき)をもつて此杉に打付(うちつけ)たるが、石、即、杉の中腹に止(とゞま)りて、落ちず。今、猶、是を見るに、其杉、根本より一丈ばかり上にして、石の大、三尺(じやく)もあらんか、靑色(あをいろ)に長し。中々、人力(じんりき)の及ぶべきとは見へず。」トソ

 是、又、一奇と稱すべし。

[やぶちゃん注:トソ。」の部分は原典の「ず」の左下に小さく明らかに見える何かの文字のようなものをかく判じたものであって、野島出版版にはない。「とぞ」と読むと、きりがいいのである。或いは「ト云」(といふ)かも知れぬ。大方の御叱正を俟つ。

「蒲原郡(かんばらごほり)茨曽根村(いばらそねむら)」現在の新潟県新潟市南区茨曽根附近と考えてよい。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「十圍(かかへ)」身体尺の比呂(ひろ:両腕幅)であるとすれば、約十五メートルであるが、ちょっと太過ぎる。

「八尺」二メートル四十二センチ。

「卞和(べんわ)氏」春秋時代の楚(そ)の人。山中で得た宝玉の原石を楚の厲王(れいおう)に献じたが、信じて貰えず、逆に嘘をついたとして左足を切断される刑を受けた。次の武王のときにもやはり献じたが、ただの石だとされて、今度は右足を斬られてしまった。その後、文王が位に就いた折り、これを磨かせてみると、はたして確かに優れた宝玉であったことから、この玉を「和氏(かし)の璧(へき)」と称した。後に趙の恵文王がこの玉を得たが、秦の昭王が欲しがり、十五の城と交換したいと言ったので、「連城の璧」とも称された。こうした故事から名品の宝玉を広く「卞和(べんか)氏の璧(へき/たま)」と呼ぶようになった。

「五十嵐小文治」野島出版脚注に『鎌倉時代源頼朝の臣。名は扶昌』(「もとまさ」と読むか)『封十一万石、山形県南村山郡西郷村高松』(現在は上山(かみのやま)市内)の館跡はその『遺跡で、自然石の古墳は発龍沢山の麓にある』とあるのだが、この注、地名が現在のものと照応せず、場所がよく判らぬ。或いは最後のそれは現在の山形県上山市川口にある龍沢山(りゅうたくざん)川口寺(かわぐちじ)のことか?(ここ(グーグル・マップ・データ)) さらに同注は「吾妻鏡」に『小豊治となって居る。建保元』(一二一三)年五月二日に『和田義盛』が『挙兵』して、『北條義時を攻[やぶちゃん注:底本「改」。誤植と断じて訂した。]めた時、その軍』(北条軍)と激『戦して討ち死にしたという』とあるのであるが、まず、この注の中の「小豊治」は「小豊次」の誤りである。「吾妻鏡」の建暦三年(後の同年十二月六日に建保に改元)五月小二日の朝夷名(あさいな)三郎義秀の奮戦を語る条の頭に(前後を略す。太字下線は私が附した。人名の読みは所持する貴志正造氏の「全譯 吾妻鏡」第三巻(昭和五二(一九七七)年新人物往来社刊)に拠った)、

   *

就中義秀振猛威。彰壯力。既以如神。敵于彼之軍士等無免死。所謂、五十嵐小豐次。葛貫三郎盛重。新野左近將監景直。禮羽蓮乘以下數輩被害。

   *

就中(なかんづく)に義秀、猛威を振ひ、壯力を彰(あら)はすこと、既に以つて神のごとし。彼に敵するの軍士等(ら)、死を免(まぬか)るること、無し。所謂、五十嵐小豊次(いがらしこぶんじ)、葛貫(くずぬき)三郎盛重、新野左近將監景直、禮羽蓮乘、以下の數輩、害せらる。

   *

彼の名はここと、五月六日の戦後の味方の討たれた名簿の中に出るだけである。

ところが、である!

現地新潟では、この人物伝説上のかなりの有名人らしいのである!

 まず、個人ブログ「地域神話の風景とフィールド」の五十嵐小文治の伝説:新潟編①をご覧戴きたい。それによれば、『五十嵐小文治は現在の三条市にある旧下田村を中心に活躍したと伝えられる豪族で、文献においては、鎌倉時代から戦国時代にかけて五十嵐川流域に勢力を持った、一族と考えられてい』るとあり、『その五十嵐小文治の誕生にまつわる伝承が、この地域では、まだ語られてい』るとして、以下の伝説が記されてある。

   《引用開始》

「五十嵐川の上流のある村に美しい娘がいた。両親は一人娘のことで目に入れても足りない程大事に育てていた。だんだん娘も年頃になって来たので、よい聟でも探そうと思っていると、いつからともなく娘に忍び寄った若い立派な男があった。男は夜になると必ず娘の処へ来て、暁方に出て行った。それを知った母親は大変心配して、ある日娘に向かって「毎晩お前を訪ねて来る男は何処の何という者だ」と聞いた。しかし娘もその男が何処の誰だかを少しも知っていなかった。それで母親は娘に向かって、今夜尋ねて来たら男の着物の小褄にそっと糸を付けた針を差してやってみよと教えた。娘はその夜、教えられた通りにした。明朝になって娘が糸をたどって行くと、その糸はいんないの淵で尽きていた。娘が不思議に思いながら淵の端に立っていると水の中から、その男の姿が現れて「お前の腹には俺の子供が宿っているから、形見と思って大事に育ててくれ」といって消えた。大蛇は針の毒に当たって命を落としたのである。娘が生み落とした子供は腋の下に三枚のうろこが着いていた。大きくなって五十嵐小文治と名乗って、四十五人力といふ無双の豪傑となり、当時越後の国を荒し廻った黒島兵衛という怪賊を平らげて、勇名を馳せた。小文治が力試しに投げた石が今でも五十嵐神社の杉の大木に挟まっている(上写真)[やぶちゃん注:リンク先にまさにその画像あり!]」(文野白駒『加無波良夜譚』玄久社、1932162163頁より)。

   《引用終了》

『この大蛇と地域の女性との間に生まれた子供が、地域を開発し支配した豪族である、との伝承は、典型的な神話の語り口で』あるとされる。ブログ主は実際に当地を訪問探査されて、まず「いんないの淵」を探され、『五十嵐川の上流に「院内」という集落があって、その淵であることが』判明(やはりリンク先に写真有り)、その他にも調べるうち、「八木山下の淵」という伝承があることが判り、これも「八木鼻」(以下で私が発見した)という場所であることが判ったとあるのである。

 次に、しばしばお世話になっているサイト「龍学」内にも五十嵐小文治を発見した。そこではみずうみ書房『日本伝説大系3』からの引用で、『昔、笠堀の村の村長甚右衛門の娘のもとに、若い男が訪ねて来て褄重ねをする。男は夜毎通うが、名を名乗らず、所も告げぬ。ある夜、娘は男が帰る時に男の裾に針を刺し、夜明けにその糸をたよりに尋ねて行く』。『八木山下の川の淵に着くと中から苦しそうな声がする。覗いて見ると大蛇がいる。大蛇がいうには、毎晩通っていたのはこの俺だが、昨夜思わずも針を刺され、今は死ぬほかはない。お前の家は末長く守る、といい残して大浪を立てて姿を消す』。『その後、村長の家には腋の下に三枚の鱗が生えた男の子が生まれて当主になる。南北朝時代の勤王家五十嵐小文治が、その子孫だという。(『日本伝説集』)』となっている(こちらの小文治は時代が少し下っている。リンク先の考証はより深くこの「龍」伝承をディグしているので、是非、読まれたい)。

 また、「新潟小学校校長会」公式サイト内にある、三条飯田小学校署名ってい「五十嵐」姓発祥の地 五十嵐神社には、この「五十嵐」という姓はまさに、この新潟県三条市飯田(旧下田村)の「五十嵐神社」がルーツであるとあり(『これほどルーツがはっきりしている姓は珍しいそう』だともある)、この神社は第十一代垂仁天皇の第八皇子五十日帯日子命(いかたらしひこのみこと)を祭神とし、五十日帯日子命は四世紀中頃に越の国の開拓を任されて治水・農耕の技術を広め、『飯田宮沢の地で生涯を閉じ、舞鶴の丘に葬られたと』され、『この人物が、五十嵐一族の始祖』であると記す(神社本殿右手には五十日帯日子命の陵墓が建つとある)。以下、

   《引用開始》

 「五十嵐」とは、「伊賀多良志(いからし)」「伊賀良志(いがらし)」とも記され、農民の理想と希う「五風十雨(ごふうじゅうう)の天候の好順」を表す意と伝えられ、地域一帯を潤して流れる清流の五十嵐川の名称もこれに由来しています。 その後、「五十嵐・伊賀良志」神社が建立され、約700年後の大化の改新によってお墨付きを与えられ、五十嵐一族が宮司となります。さらに、約400年後、鎌倉幕府の御家人となって、五十嵐氏が地頭としてこの地を治めることになります。

五十嵐小文治伝説

 神社の鳥居から拝殿までの間にある大杉木(おおすぎぼく)の幹に石がめり込んでいます。これは、豪勇・五十嵐小文治吉辰が投げたものと言い伝えられています。五十嵐小文治吉辰は、鎌倉幕府将軍源頼朝の御家人でした。五十嵐館から大石を投げたら400メートルも飛んで、杉木に当たり、めり込んだという言い伝えです。真偽はともかくとして、この石の効果で五十嵐神社は、安産祈願の神社にもなっています。 大杉木の反対側には、五十嵐小文治吉辰の墓があります。歴代当主が小文治を名乗ったらしいので、いつの時代に建立したのかは不明です。山形県上山市にも領主開祖として、五十嵐小文治の碑があります。1201 年に越後から移ったという記録が残されていますが、たくさんの小文治がいるため人物を特定することはできません。

   《引用終了》

とある。

 さて極め付けは、『五十嵐姓の由来・歴史について考えるサイト』と名打つ「Igarashi's origin」の五十嵐神社を巡るである。我々はそこでガラス越しながら、食い込を見ることが出来、五十嵐文治も拝めるのである。

「五十嵐川」以下の「五十嵐の神社」のグーグル・マップ・データの南西に流れる。

「矢木峰(やぎがみね)」五十嵐神社からかなりの東南(七キロメートル強)であるが、五十嵐川上流に「八木鼻」という景勝地があり、その東の「院内」地区には「八木神社」を見出せた((グーグル・マップ・データ))。これだッツ!! グーグル・ストリートビュの「鼻」よ!!!

「五十嵐の神社」現在の新潟県三条市飯田に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「一丈」三メートル三センチ。

「三尺」約九十一センチ。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蜚蠊(あぶらむし)


Aburamusi

あぶらむし 石薑  虛

      茶婆蟲 滑蟲

蜚蠊

      香娘子 負盤

      【和名豆乃無之

フイレン  俗云油蟲】

 

本綱蜚蠊人家壁間竈下極多甚者聚至千百身似蠶蛾

腹背俱赤兩翅能飛喜燈火光其氣甚臭其屎尤甚又好

以清旦食稻花日出則散【蜚蠊行夜蟲此三蟲螽,並呼爲負盤同名而異類】

△按蜚蠊多生古竈間大五六分有翅不能飛但跛行也

 最進赤褐而其氣也色也如油故俗名油蟲夜竄晝出

 甚者數百爲群挾卵於尾行喜飯其所在遺黒屎以

 汚物與蠅同可憎者或有純白者共好着油紙故用古

 傘俟集於裏取棄也易死易活雖躙殺未損頭輙活

[やぶちゃん注:ここに上から下まで縱罫。]

五噐嚙【五木加布里】 是乃油蟲之老者而不甚多但造麹室

 中多有之大一二寸氣色共似油蟲而能飛毎在庖厨

 竄于飯噐中夜則出掠燈火竊食飯粥嚙損飯噐故名

避油蟲法 用青蒿莖葉挿于竃間則絶

 

 

あぶらむし 石薑〔(せつきやう)〕

      虛〔(きよひ)〕

      茶婆蟲〔(さばちゆう)〕

      滑蟲〔(かつちゆう)〕

蜚蠊

      香娘子〔(かうじやうし)〕

      負盤〔(ふばん)〕

フイレン  【和名、「豆乃無之〔(づのむし)〕」。俗に「油蟲」と云ふ。】

 

「本綱」、蜚蠊は人家壁の間、竈(かまど)の下に、極めて多し。甚だしきは、聚〔(あつまり)〕て千百に至る。身は蠶蛾〔(かひこが)〕に似、腹・背、俱に赤し。兩〔(ふた)〕つの翅〔(はね)〕ありて能く飛ぶ。燈火の光を喜び、其の氣(かざ)、甚だ臭〔(くさ)〕し。其の屎(くそ)、尤〔(もつとも)〕甚だし。又、好んで以〔つて〕清旦〔(せいたん)〕にして稻の花を食ふ。日、出るときは、則ち、散ず【「蜚蠊〔(ひれん)〕」・「行夜〔(かうや)〕」・「蟲螽〔(ちゆうしゆう)〕」、此の三蟲、並呼〔(へいこ)〕して「負盤」と爲〔(せ)るも〕、同名にして而〔(しか)も〕異類なり】。

△按ずるに、蜚蠊、多く古き竈の間に生ず。大いさ、五、六分〔(ぶ)〕、翅有りて、能く〔は〕飛ばず。但し、跛(は)ひ行くことや、最も進(はや)し。赤褐にして、其の氣(かざ)や、色や、油のごとし。故に俗に「油蟲」と名づく。夜は竄(かく)れて、晝(〔ひ〕る)、出〔づ〕。甚だしきは、數百、群を爲し、卵を尾に挾(はさ)み行(あり)き、喜して飯を〔(す)〕ふ。其の所在、黒〔き〕屎〔(くそ)〕を遺(の)こす〔を〕以〔つて〕物を汚(けが)す。蠅と同じく憎むべき者なり。或いは純白なる者、有り。共に好〔(よ)〕く油紙〔(あぶらがみ)〕に着〔(つ)〕く。故に古〔き〕傘〔(からかさ)〕を用ひて、裏〔(うち)〕に集まるを俟〔(ま)〕ちて、取り棄つなり。死に易〔(やす)〕く、活(いきかへ)り易し。躙(にじ)り殺すと雖も、未だ頭を損せ〔ずんば〕、輙〔(すなは)〕ち、活〔(いきかへ)れり〕。

[やぶちゃん注:ここに上から下まで縱罫。]

五噐嚙(ごきかぶり)【五木加布里。】 是れ、乃〔(すなは)〕ち油蟲の老する者にして甚だ〔は〕多からず。但し、造麹室(かうじむろ)の中に多く、之れ、有り。大いさ、一、二寸、氣〔(かざ)〕・色〔(いろ)〕共に油蟲に似て、能く飛ぶ。毎〔(つね)〕に庖厨〔(はうちゆう)〕に在りて、飯噐の中に竄(かく)る。夜は則ち出でて、燈火を掠(かす)め、飯〔(めし)〕・粥〔(かゆ)〕を竊(ぬす)み食ひ、飯噐〔(はんき)〕を嚙〔(かじ)り〕損〔(そん)〕す。故に名づく。

油蟲を避くる法 青蒿(せいかう)の莖〔の〕葉を用ひて、竃の間に挿(さ)すときは、則ち、絶ふ。

 

[やぶちゃん注:昆虫綱網翅上目ゴキブリ目 Blattodea に属するもののうち、シロアリ科 Termitidae を除く、多様なゴキブリ類を指す。但し、ウィキの「ゴキブリ」によれば、『カマキリ目と合わせて網翅目(Dictyoptera)を置き、Blattodeaをその下のゴキブリ亜目とする事があるが、その場合、ゴキブリは『シロアリ以外』の『ゴキブリ亜目』となる、とある。大きさこそ異なるが(化石種にはかなり大きものがまま見られる)、彼らは古生代石炭紀に出現し、今日まで実に三億年もの時間を、殆んど、その生理的器官的な構造や形状を変えずにドライヴしてきた、「生きている化石」と称してよい生物である。現生種は熱帯を中心として全世界に約四千種棲息するとされ、その内、本邦では南日本を中心に約五十種ほど(朝比奈(一九九一年)によれば五十二種七亜種)が知られる。世界中に棲息しているゴキブリの個体総数は一兆四千八百五十三億匹ともいわれており(二〇一六年現在の地球上のヒトの個体総数は七十三億人)、日本には二百三十六億匹が棲息するものと推定されている。本邦で一般によく見かける種は(解説は主にウィキの「ゴキブリ」に拠ったが、侵入年代は信頼出来る他の複数のネット記載(学術論文も含む)を検討して述べた)、

ゴキブリ亜目ゴキブリ科ゴキブリ亜科ゴキブリ属ヤマトゴキブリ Periplaneta japonica

日本在来種。本州東部で多く見られ、本来は棲息しなかった北海道にも、近年、南西部に人為的侵入が認められている。体長は二~三センチメートルほどで、はクロゴキブリ(後述)と似るが、は翅が短く、飛翔出来ない。主に森林帯に棲息するが、は人家内にも飛んで来る。寿命は成虫になって百五十日ほど。)

オオゴキブリ亜目チャバネゴキブリ科チャバネゴキブリ亜科チャバネゴキブリ属チャバネゴキブリ Blattella germanica

外来種。体長約一・五センチメートルの小型種。艶のある黄褐色を呈し、胸部に二本の太く黒い帯を有する。全世界の建造物内に広汎に分布するが、比較的、寒さに弱く、人家よりもビルなどの恒常的に温度の安定した場所を好む。飛翔することは出来ない。寿命はヤマトゴキブリと同じく成虫になってからは百五十日ほど。本邦への侵入時期は外来種のゴキブリ類では一番早く、ほぼ江戸中期頃と考えられている。歴史的には「江戸中期」とは概ね慶安四(一六五一)年(第三代将軍徳川家光が没して家綱の治世となった)から延享二(一七四五)年(同年九月二十五日に第八代将軍吉宗が将軍職を長男家重に譲った)を指す。本書「和漢三才圖會」の成立は正徳二(一七一二)年頃であるから、良安の身近にいたかどうかというとなかなか難しいものがある。ただ、良安の評言部の冒頭の記載のゴキブリの記載の体長及びうまく飛べないとするところは本種をやや臭わせるものとは言えるが、或いはそれは、飛翔出来ないヤマトゴキブリのを指しているとも読み取れる【2017年9月18日:追記】なお、誰もが知っている野口雨情作詞で中山晋平作曲の童謡「黄金虫」があるが、近年、この「コガネムシ」は実は真正の「コガネムシ」(鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科 Scarabaeidae の属するコガネムシ類の内で金属光沢を有する種群)ではなく、何と! この「チャバネゴキブリ」だという説が出ているが、私は与しない。では何かって? 「金龜子(こがねむし)」の冒頭注の終りをどうぞ!

ゴキブリ属クロゴキブリ Periplaneta fuliginosa

外来種。体長三センチメートルほどで、体は艶のある黒褐色を呈し、関東地方以南の西日本では前のチャバネゴキブリとともに、よく見かけられる種であるが、北日本では少ない。成虫になってからの寿命は約二百日ほど。本邦へは十八世紀前半に南西諸島に上陸したと考えられており、以後、島伝いに分布を北上させたと考えられている。本書「和漢三才圖會」の成立時期から考えて、良安の身近にはいなかったと考えてよい。)

ゴキブリ属ワモンゴキブリ Periplaneta americana

外来種。クロゴキブリに似るがさらに大型で、体長は四センチメートルを越える。全身に色が明るく、胸部に黄色い輪の模様を持つ。極めて活発でよく飛び、攻撃的である。沖縄でよく見られるが、九州以北でも温泉街などの暖かい所に侵入している例が認められている。成虫になってからの寿命は百日から五百日ほどで長生きする部類に属する。以上から、良安の身近にはいない。)

である。以上から考えると、少なくとも良安の叙述はヤマトゴキブリの及びその幼体・脱皮体(後述)及び大型個体と考えておいたほうが無難と思われる。

 良安の記載は、既に江戸時代にして忌み嫌われていた様子がありありと感じられるが、「本草綱目」の「蜚蠊」(蟲部・蟲之三・化生類)では、「氣味」で「鹹、寒、有毒」とし、「辛辣而臭」などと記すものの、「主治」には、

   *

瘀血症堅寒熱、破積聚、喉咽閉、寒無子【「本經」】。通利血脈【「別錄」】。

食之下氣【蘇恭】。

   *

と薬効を記し、「發明」の部にも、

   *

時珍曰、徐之才「藥對」云、「立夏之日、蜚蠊先生、爲人參、茯苓使、主腹中七節、保神守中。則西南夷食之亦有謂也。」。又、「呉普本草」載神農云、「主婦人症堅寒熱、尤爲有。」。

   *

と食用や効能について記してある。現在でも中国では漢方生薬として乾燥させたゴキブリ(主にゴキブリ科ゴキブリ亜科 Eupolyphaga 属シナゴキブリ Eupolyphaga sinensis、又はオオゴキブリ(ブラベルスゴキブリ)科マダラゴキブリ亜科サツマゴキブリ属サツマゴキブリ Opistoplatia orientalis の成虫全個体の乾燥品)を「䗪虫(しゃちゅう)」と呼んで用いている。

 シナゴキブリは中国全土に分布し、クチクラ層が厚く、一見、甲虫のように見え、現地ではスッポン(鼈)に似ているとして「地鼈虫」「土鼈虫」と呼ばれている。

 サツマゴキブリは本邦にも棲息し、ウィキの「ゴキブリ」によれば、四国地方・九州南部(宮崎県・鹿児島県及び熊本県の一部)・南西諸島と伊豆諸島南部(ここは人為分布)に分布するが、近年、本州南部からも発見例があり、分布拡大や定着の可能性がある。人家に侵入することはなく、朽ち木の中や落ち葉・空き地に置かれた古いベニヤ板や石の下を居住空間とする。体長は三センチメートル前後で、体は黒褐色だが、胸部が黄白色を呈し、腹部は赤褐色で縁取られている。翅が鱗状に退化しているため、『見た目は「三葉虫の出来損ない」といった感じであり、裏返した際に見える頭部によりゴキブリであることが分かる』とある。「漢方生薬辞典」のこちらによれば、中国ではごく普通に見られるゴキブリの一種で、まさに薬用として各地で飼育もされているという。先のシナゴキブリと同じように「金辺土鼈」とも呼ばれているという。

 以下、その「漢方生薬辞典」から引くと、『成分にはd-ガラクトサミンなどが含まれ、肝障害抑制作用などが報告されている。漢方では水蛭・虻虫と同様の強い駆瘀血薬のひとつで、活血・化瘀・消癥の効能があり、婦人の無月経や産後の腹痛、腹部腫瘤、打撲傷に用いる』。『産後の腹痛や瘀血による月経閉止には大黄・桃仁と配合する(下瘀血湯)。腹部の腫瘤や無月経、皮膚の甲錯には水蛭・虻虫などと配合する(大黄しゃ虫丸)。骨折や捻挫には骨砕補・続断などと配合する(接骨号方)。ただし、流産の恐れがあるので妊婦には使用しない』とある。他の漢方サイトを見ても、概ね、ここに書かれた効能と同じ内容が書かれてある。但し、本邦ではこれは処方として認められていない。後注「同名にして而〔(しか)も〕異類なり」も参照のこと。

「豆乃無之〔(づのむし)〕」「日本国語大辞典」によれば、「角虫」と漢字を当て、第一義にゴキブリの古名と記し、例として、「本草和名」から、

『蜚蠊〈略〉和名阿久多牟之 一名都乃牟之』

を引く。この「阿久多牟之」は「芥虫」で食べ残しなどを含んだ塵芥中にいる虫の謂いであろう。次に、「和名抄」(二十巻本)から、

『蜚蠊 本草云蜚蠊〈菲廉二音〉一名蠦蜰〈音肥 豆之無之〉』

とある。この「角虫」はゴキブリの長い触角を指しているように思われる

「蠶蛾〔(かひこが)〕」カイコガ科カイコガ亜科カイコガ属カイコガ Bombyx mori

「其の氣(かざ)、甚だ臭〔(くさ)〕し」ゴキブリ類は一般に臭いと言われるが、近年までその彼らが体表から分泌する臭い臭いの成分がなんであるかは知られていなかった。ところが、それは何と! 殺菌作用のあるフェノールやクレゾールであったのである! 衛生害虫として忌み嫌われて彼らは自分自身の身体を消毒して身を守ってきたのあった。だからこそ三億年を生き永らえて来たのだとも言えるのである。なお、序でに彼らの飢餓への生命力の強さも指摘しておくと、研究者の実験では、チャバネゴキブリのケースで、水さえあれば四十五日生きていたという記録があり、何も摂餌をしないでも二週間以上生きられるとされる。ワモンゴキブリのケースでは水のみで九十日間、水も摂餌物も与えなくても約四十日生きたという。これは体内に有する白い液状代謝物である「脂肪体」に窒素や栄養分を蓄えており、水や摂餌物が無くなっても、暫くの間は、その脂肪体を使って生き延びることが出来るのである。

「其の屎(くそ)、尤〔(もつとも)〕甚だし」実際にチャバネゴキブリの糞はかなり臭う。

「好んで以〔つて〕清旦〔(せいたん)〕にして稻の花を食ふ」「旦」は原典は「且」であるが、訓読不能なので、「本草綱目」原典に従って「旦」とした。東洋文庫版現代語訳では、『好んですがすがしい朝に稲の花を食べ』と訳す。しかし、どうもこの「稻の花を食ふ」というのはよく判らぬ。「本草綱目」では「集解」の終りの方に、

   *

羅願云、「此物好以淸旦食稻花、日出則散也。

   *

と出るのだが? 中国のゴキブリは稲の花を摂餌するんだろうか? 識者の御教授を乞う。

「行夜〔(かうや)〕」次項が「行夜」で、和訓を「へひりむし」とする。ここでは甲虫目オサムシ上科ホソクビゴミムシ科 Pheropsophus 属ミイデラゴミムシ Pheropsophus jessoensis に比定しておく。

「蟲螽〔(ちゆうしゆう)〕」東洋文庫訳では割注で『いなご』とする。この七項目後が「𧑉螽」と書いて「いなご」と和訓している。ここでは直翅(バッタ)目バッタ亜目イナゴ科 Catantopidae のイナゴ類としておく。

「此の三蟲、並呼〔(へいこ)〕して「負盤」と爲〔(せ)るも〕」この三種の昆虫を孰れも「負盤」と呼称しているけれども。本書の次項の「行夜」には異名として「負盤」を挙げている。後の「𧑉螽」では異名として「負盤」が挙がっている。次注参照。

「同名にして而〔(しか)も〕異類なり」「本草綱目」では『時珍曰、蜚蠊、行夜、螽三種、西南夷皆食之、混呼爲負盤』となっているから、𧑉螽も負盤と呼び、三種をこの一名で混称していたらしい。ゴキブリを食うというのを良安が出さなかったのは、心情的には理解出来る。ウィキの「ゴキブリ」の「食用・薬用」によれば(注記号を省略した)、『ほぼ全世界(日本、中華人民共和国、ベトナム、タイ王国、ナイジェリア、カメルーン、コンゴ、メキシコ、ブラジル、イギリス)の一部地域もしくは先住民族によって、広く食用として利用されてきた歴史がある。ただし、甲虫類やバッタ類、ハチ類などと比べれば、ゴキブリを食べる地域やその消費量は少ないといえる。清潔な環境下で育成すれば臭みも少なく、種類によっては可食部も大きい。卵鞘も揚げて食べたり酒に漬けたりできる。調理法は食人口の多さから極めて多岐に亘るが、東アジアでは油揚げが一般的である。ゴキブリの唐揚げを食べた人の話によれば、食味はシバエビに似ており、食べられない味ではないとのことだが、少なくとも日本では一般にゲテモノ料理の扱いとされる。またこれらの食べ方は食用種や野生種の話であり、一般家庭の台所などから見つかる個体は有害物質の生物濃縮が進んでいる危険性が高く、食用するのは不適切である。ゴキブリを口にした人間や犬猫は、ゴキブリを中間宿主とする条虫に寄生される場合も有る』。『民間療法では地域ごとに様々な効能が謳われているが、迷信が殆どである。「金匱要略(きんきようりゃく)」によればサツマゴキブリやシナゴキブリの雌は血行促進作用を持つものとして漢方薬の一つに扱われている。また、これらの薬効は日本の薬局方では認められていないが、シナゴキブリの乾燥品は漢方薬として入手が容易である』とある。ただ、この混称を考えると、この時珍の言う、「西南の夷、皆、之れを食ふ」とするのを「螽」(いなご)ととるならば、これはちっともおかしなことではない

「五、六分〔(ぶ)〕」一・五~一・八センチメートル。

「跛(は)ひ行くことや、最も進(はや)し」「這って動くことに関しては、これ、なんともはや! 非常に速い!」で、この「や」は詠嘆の間投助詞である。

「其の氣(かざ)や、色や、油のごとし」この「や」は単に事物を列挙する際に使う副助詞ともとれるが、前の間投助詞の用法が明らかに影響を与えており、「生き物のくせに、その臭いや、色やは、なんとまあ! 油にそっくりなのである!」というニュアンスが伝わってくる。

「竄(かく)れて」隠れて。

「卵を尾に挾(はさ)み行(あり)き」これは恐らく、孵化直前までが堅固な巾着のようなカプセル状の卵鞘(らんしょう)を尾端につけているチャバネゴキブリと思われる。クロゴキブリやヤマトゴキブリなどでは卵鞘ごと直ちに産み落とされるからである。

「喜して飯を〔(す)〕ふ」嬉々として飯を吸い食らう。

「或いは純白なる者、有り」当初、私はてっきりアルビノ(白化)個体のことであろうと思っていたのだが、実はゴキブリは成虫になるまでに七回ほど脱皮をし、しかも、脱皮直後のゴキブリの色は白く、約二十四時間後に変色して黒くなるとあった! 脱皮直後の個体は外敵に弱く、通常は物陰に隠れているためにそうした普通に存在する「白いゴキブリ」を見ることは滅多にないとあったゴキブリ駆除を主とした害虫駆除会社「クックローチ」の優れたゴキブリ解説サイトのこちらに拠った。リンク先には何と! ゴキブリの脱皮動画や白いゴキブリの画像もあるので、クリックはくれぐれも自己責任で!!! しかし、白いそれは確かにあんまり気持ち悪くないかも!?!)。

「油紙〔(あぶらがみ)〕」当時、防水用にひいたのは食用油でもあった荏油(えごまあぶら:シソ目シソ科シソ属エゴマ Perilla frutescens の種子から絞ったもの)や同じく食用の菜種油(アブラナ目アブラナ科アブラナ属ラパ変種アブラナ Brassica rapa var. nippo-oleifera であったから、その塗布した油の臭いを嗅ぎつけてゴキブリが嘗めにきた(或いは和紙ごと齧りにきた)には違いあるまい。

「裏〔(うち)〕」内側。

「俟〔(ま)〕ちて」待って。

「造麹室(かうじむろ)」三字へのルビ。酒・醤油・味醂などの醸造に用いるための麹(こうじ:「糀」とも書く。「醸立(かむたち)」の略である「かむち」の音変化したもの)を作る室(むろ:物を保存・育成するために外気を防ぐように作った部屋)。米・麦・大豆などを蒸して中で寝かせてコウジカビ(ここでは菌界子嚢菌門ユーロチウム菌綱ユーロチウム目マユハキタケ科コウジカビ属 Aspergillus に属する一群の内、ヒト病原性を持たない種群)の菌糸を繁殖生育させたものが「麹」である。

「一、二寸」三~六センチメートル。

「氣・色共に油蟲に似て、能く飛ぶ」有意に大きく、飛ぶ以上は、ヤマトゴキブリのと考えてよかろう。

「庖厨〔(はうちゆう)〕」台所。

「燈火を掠(かす)め」ゴキブリは基本的には負の走光性を持つから、ここの「掠め」は寧ろ、「灯火の光りの射さない暗い箇所を偸むように狙ってこつそりと侵入し」ととった方がしっくりくるように思われる。

「青蒿(せいかう)」キク目キク科キク亜科キク連ヨモギ属カワラニンジンArtemisia apiacea。別名ノニンジン。属名で判る通り、蓬(よもぎ:ヨモギ属変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii)の仲間である。現在、本邦にも分布する(西日本の河原の砂地や畑地に多い)が、これは恐らくは中国から薬用として渡来した生体が野生化したものと考えられている。根出葉は叢生し、細裂してニンジンの葉に似ている。茎の高さは一メートル内外に達し、全草に特異な臭いがある(「ブリタニカ国際大百科事典」他に拠る)とあるから、それをゴキブリが忌避する可能性は高い。実際にゴキブリを駆除するのに蓬(よもぎ)がよいとするネット記載が複数確認出来る。]

2017/08/15

柴田宵曲 續妖異博物館 「白猿傳」

  白猿傳 

 御伽草子は「五朝小説」の中の話をよく染め返したものといふ「文會雜記」の説は、どれほど實例が擧るか知らぬけれど、最も有名な話で成程と思はれるのは、大江山の酒呑童子(しゆてんどうじ)であらう。酒呑童子は丹波の大江山に住んで、近國他國よりみめよき女房を奪つて行く。それが源賴光の鬼退治になる動機は、池田の中納言の最愛の娘が、或日の暮れ方に行方不明になつたことに在つた。唐の「白猿傳」も、歐陽紇の妻が一夕陰風晦黑の裡に何者かに奪ひ去られるのにはじまる。その地に神あつて美女を盜むといふ警告は、前以て受けてゐたのだから、大江山の評判と似たやうなものである。賴光は四天王一人武者を倂せ一行六人に過ぎなかつたが、紇は壯士三十人を率ゐてゐる。賴光等が谷川に衣を洗ふ花園中納言の姫に逢つて、酒呑童子の樣子を尋ねたやうに、紇も怪物に囚はれた女達から討つべき手だてを聞いた。酒を飮ませて醉つたところを討つのは同じであるが、賴光等が山伏と稱して童子の面前に出たに反し、紇は一切を婦人のはからひに任せ、醉うて手足を縛せられたのを斃すのである。最も似てゐるのは、童子が晝は人の姿で夜になれば鬼形に變ずるといふことで、「白猿傳」の怪物も白衣を著けた美髯の丈夫と見えたのに、縛されたのは大白猿であつた。酒呑童子が多くの徒黨を擁し、白猿が飽くまで單騎獨行するやうな相違は無論あるけれど、子細に點檢するまでもなく、酒呑童子が「白猿傳」に負ふところの多いのは明瞭であると思はれる。

[やぶちゃん注:「御伽草子」ウィキの「御伽草子」から引く。『鎌倉時代末から江戸時代にかけて成立した、それまでにない新規な主題を取り上げた短編の絵入り物語、およびそれらの形式』を持った物語で、広義には『室町時代を中心とした中世小説全般を指すこともあり、室町物語とも呼ばれる』。『平安時代に始まる物語文学は、鎌倉時代の公家の衰微にともない衰えていったが、鎌倉時代末になると、その系譜に属しながら、題材・表現ともにそれまでの貴族の文学とは、全く異なる物語が登場する。それまで長編だったのが短編となり、場面を詳述するのではなく、事件や出来事を端的に伝える。テーマも貴族の恋愛が中心だったのが、口頭で伝わってきた昔話に近い民間説話が取り入れられ、名もない庶民が主人公になったり、それが神仏の化身や申し子であったり、動物を擬人化するなど、それまでにない多種多様なテーマが表れる』。御伽草子に含まれるものは、四百編を超えるものが存在するとされているが、その中でも人口に膾炙するそれは凡そ百編強とも言われる(現在は研究が進んで漸増している)。但し、『同名でも内容の違うものや、その逆のパターンなどがあり、正確なところはわからない。室町時代を中心に栄え、江戸時代初期には』「御伽物語」や「新おとぎ」といった『「御伽」の名が入った多くの草子が刊行された』が、「御伽草子」という名で呼ばれるようになったのは、十八世紀前期、凡そ享保年間(一七一六年~一七三六年)に『大坂の渋川清右衛門がこれらを集めて『御伽文庫』または『御伽草子』として以下の』二十三『編を刊行してからのことである』。但し、これも十七『世紀半ばに彩色方法が異なるだけで全く同型・同文の本が刊行されており、渋川版はこれを元にした後印本である』。元来、「御伽草紙」という『語は渋川版の商標のようなもので、当初はこの』二十三『種類のみを「御伽草紙」と言ったが、やがてこの』二十三『種に類する物語も指すようになった。現在では、「御伽草紙(子)」と言ったら』、この二十三『種の物語草紙を指し、物語草紙全体は「お伽草紙(子)」と表記するのが通例で』、その二十三の話とは、「文正草子」・「鉢かづき」・「小町草子」・「御曹司島わたり」・「唐糸草子」・「木幡(こはた)狐」・「七草草子」・「猿源氏草子」・「物ぐさ太郎」・「さざれ石」・「蛤の草子」・「小敦盛」・「二十四孝」・「梵天國(ぼんてんこく)」・「のせ猿草子」・「猫の草子」・「濱出(はまいで)草子」・「和泉式部」・「一寸法師」・「さいき」・「浦島太郎」・「酒呑童子」・「橫笛草子」を指す。

「五朝小説」明代に編纂された「魏晋小説」・「唐人百家小説」・「宋人百家小説」・「皇明百家小説」から成る志怪小説叢書。編者は桃源居士や馮夢龍(ふうむりゅう 一五七四年~一六四六年)とし、諸本があり、それらの内容は必ずしも一致しない。

「文會雜記」「常山紀談」で知られる江戸中期の岡山藩士で儒学者の湯浅常山(宝永五(一七〇八)年~安永一〇(一七八一)年)の書いた主に徂徠学派の言行を纏めたもの。その「卷之三上」に(以下は吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示した)、

   *

一 オトギ婢子(ハウコ)ハ至テ好書ナリ、ト君修ノ評ナリ。五朝小説ノ中ノ咄ヲヨク染メカヘシタルモノ也。ト君修ノ友人小説ヨク讀ム人ノ云ヘルトナリ。

   *

とある。この「オトギ婢子(ハウコ)」は別本では「オトギ册子」と表記され、以前は柴田宵曲が言うように先の「御伽草子」のことと解釈されるのが一般的であったようだが、これは思うに、浅井了意の「伽婢子」(その内容は確信犯で中国の志怪小説をインスパイアしていることは言を俟たない)と採るのが正しいように思われるから、この宵曲のそれはややピント外れであると私は考えている。しかもここでその説を述べているのは、常山自身ではなく、「君修」、則ち、常山が親しかった太宰春台門下の年下の篠山藩士で漢学者であった才人松崎観海(享保一〇(一七二五)年~安永四(一七七六)年:「君修」は彼の字(あざな))である点でも、宵曲の謂いは正確ではない

「酒呑童子」「御伽草子」中のそれは別名を「大江山絵詞(えことば)」とも呼び、名の表記も酒顛童子・酒天童子・朱点童子などとも書く。源頼光・碓井貞光・卜部季武・渡辺綱・坂田公時(金時)・藤原保昌が大江山の酒呑童子を退治する話。中世に流行した英雄伝説・怪物退治譚の代表作で、絵巻物としても流布し、江戸時代には浄瑠璃・青本・黒本で同名の影響作が多数ある。各地に伝わる伝承や同伝説をもとにした作品群の詳細はウィキの「酒呑童子」を参照されたい。

「池田の中納言」一条院に仕えた池田中納言国隆。

「白猿傳」作者不詳の唐代初期或いは中期に書かれた伝奇小説。正式書名は「補江總白猿傳(ほこうそうはくえんでん)」でこれは「江總」の書いた「白猿傳」を「補」筆したという意であるが、実在した人物としては実在する本作の主人公歐陽紇(おうようこつ:南朝最後の王朝陳の将軍)友人で大物文人官僚であった江総(五一九年~五九四年)がいるものの、彼が「白猿傳」という原作を書いた事実はない。「白猿傳」は、紇が南方遠征中に妻を猿の妖怪白猿神に攫われ、山中深く分け入って白猿を探し出して殺し、妻を取り返す。しかし、彼女は既に猿の子を妊娠しており、その生まれた子は後に成人して知られた文人書家となったという物語である(その前に紇は陳の武帝に誅殺されたと記す。但し、実在した紇を処刑したのは陳の高宗宣帝陳頊(ちんぎょく 在位五六八年~五八二年)である。なお、ここまでの事実事蹟は二〇〇五年明治書院刊中国古典小説選第四巻を参照した)。因みに、この生まれた子も、実在する、かの唐代の名書家欧陽詢(五五七年~六四一年)を明らかに指していると読める。本話は「大平廣」の「卷四百四十四 畜獸十一」に「歐陽紇」として載る(リンク先は中文ウィキの原文)。岡本綺堂の「中国怪奇小説集」の一篇として訳されてある(リンク先は「青空文庫版」)。

「花園中納言」不詳。]

 

「白猿傳」の話は早く林羅山が「怪談全書」の中に紹介してゐる。その後いはゆる奇談小説の時代になつて、「繁野話(しげしげやわ)」の中にある「白菊の方猿掛の岸に怪骨を射る話」なども、「白猿傳」の翻案であることは疑ひを容れぬ。場所は飛驒と信濃の境で狒々谷といふことになつてゐるが、三須守廉の妻が行方不明になるにはじまり、妖物が雷火に擊たれて死するに了る。その間には人を惑はす妖術があつたり、孔雀明王の法を修する道人が出たりして、複雜怪奇の度を加へてゐるものの、大體に於て「白猿傳」の筋書を離れず、酒呑童子を連想せしむるところは殆どない。この話の流れは更に後になつて、「蜑(あま)の下草」などの中にも面影をとゞめてゐる。場所は美濃の靑野ガ原、主人公は織田信長の郎黨で、怪しい老翁の規模も大分小さくなつた。この話だけ讀めばうつかり看過するかも知れぬが、「白猿傳」「繁野話」と竝べて見る時、その系統に屬するものであることは爭はれぬ。

[やぶちゃん注:『「白猿傳」の話は早く林羅山が「怪談全書」の中に紹介してゐる』同書の「卷之一」の「歐陽紇」。所持するが、長く、しかも概ね、原典の訳であるので省略する。

『「繁野話(しげしげやわ)」の中にある「白菊の方猿掛の岸に怪骨を射る話」』「繁野話」は江戸中期の医師で漢学者・読本作家でもあった都賀庭鐘(つがていしょう 享保三(一七一八)年~?:大坂の出身。他にも、当時、流行した中国の白話文学を翻案して「英草紙(はなぶさぞうし)」と本書と「莠句册(ひつじぐさ)」の三部作を書いて大いに売れ、読み本の祖とされた。学者としても優れ、安永九(一七八〇)年には「康煕字典」を校訂して出版している)の作で、明和三(一七六六)年刊で五巻六冊。中国の小説や日本の古典を翻案した奇談集。

「白菊の方猿掛の岸に怪骨を射る話」「しらぎくのかた、さるかけのきしに、くわいこつをいること」と読む。「繁野話」の「第三卷(だいさんのまき)」の「五」(第三巻総てが本話)。同書は所持するが、非常に長尺な話なので、国立国会図書館デジタルコレクションの松山米太郎校訂「雅文小説集」(大正一五(一九二六)年有朋堂書店刊)に載る同作をリンクさせておくに留める。「白菊の下」もあって、画像「126」コマから「143」コマまでが当該全話である。なお、本作は研究者によって明代の白話小説「陳從善梅嶺失渾家」及び「平妖傳」さらには「水滸伝」なども参照されていることが指摘されてある。「猿掛」は山の名で現在の岡山県倉敷市から矢掛町に跨る標高二百四十三メートルの猿掛山。ここ(グーグル・マップ・データ)。「狒々谷」「繁野話」原典では「ひゝたに」とルビする。本文では『後世其處さだかならず』と誤魔化してある。如何にもな名ではある。

「三須守廉」「繁野話」原典では「みすのもりかど」とルビする。彼は原典によれば、『備中の國窪屋(くぼのや)大領』(郡司)の弟で、『信濃掾(しなのゝぜう)とな』って妻女ととともに赴任する途中での出来事とする。

「孔雀明王の法」密教で孔雀明王(毒蛇を食う孔雀を神格化したもので、人間の三悪を呑食して衆生の業障罪悪や諸病の痛みを除くことを本願とする。金色の孔雀に乗る四臂(しひ)で、明王中では例外として忿怒相でなく慈悲相の菩薩の形相(けいそう)として示される)を本尊として息災・祈雨を修する秘法。

「蜑(あま)の下草」不詳。識者の御教授を乞う。

「美濃の靑野ガ原」現在の岐阜県大垣市とその西の不破郡垂井町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。] 

 

「繁野話」が雷火を持ち出したについて、思ひ浮ぶのが「閲微草堂筆記」の中の一話である。これは發端からして妖怪に奪はれることなどはなく、人に買はれて知らぬ土地に伴はれる。その女を買つた道士は、山に入るに當つて目を閉ぢよと云ふ。風の中を飛ぶやうに覺えて、やがて目を開いたら已に高峯の上に在つた。そこには立派な建物があり、婦女ばかり二十何人も居る。調度その他、王侯の如くである。彼女等はこゝを仙府と稱し、道士を祖師と崇めてゐたが、毎月一度祖師は金管を用ゐて、婦女の身體から血を吸ひ取る。このところ頗る靑野ガ原の老翁の乳を吸ふ話と相通ずる點がある。土地はよはど高いと見えて、雲も眼下を行き、雨も遙か下に降るのであつたが、一日俄かに黑雲が起り、恐ろしい風が吹き出した。目もくらむやうな稻光りにつれて、雷鳴がとどろき渡ると、道士は顏色を變へ、そこにゐる女達を全部呼び集めて、肉屛の如く自分を取り圍ませた。雷は愈々近く、閃々たる火光が幾度か室内に入ると思ふうちに、大きな龍の爪が空中に現れて、重圍の中に小さくなつてゐる道士を攫み去つた。同時に言語に絶する大きな雷鳴があつて、天地晦冥になる。女が氣が付いた時は、全然知らぬ里の路傍に倒れてゐた。

[やぶちゃん注:これは「閲微草堂筆記」の「第二十二卷 灤陽續錄四」にある以下。

   *

門人王廷紹言、忻州有以貧鬻婦者、去幾二載。忽自歸、云初被買時、引至一人家。旋有一道士至、攜之入山。意甚疑懼、然業已賣與、無如何。道士令閉目、卽聞兩耳風颼颼。俄令開目、已在一高峰上。室廬華潔、有婦女二十餘人、共來問訊、云此是仙府、無苦也。因問、「到此何事。」。曰、「更番侍祖師寢耳。此間金銀如山積、珠翠錦繡、嘉肴珍果、皆役使鬼神、隨呼立至。服食日用、皆比擬王侯。惟每月一囘小痛楚、亦不害耳。」。因指曰、「此處倉庫、此處庖廚、此我輩居處、此祖師居處。」。指最高處兩室曰、「此祖師拜月拜斗處、此祖師煉銀處。」。亦有給使之人、然無一男子也。自是每白晝則呼入薦枕席、至夜則祖師升壇禮拜、始各歸寢。惟月信落紅後、則淨盡褫外衣、以紅絨爲巨綆、縛大木上、手足不能絲毫動、並以綿丸窒口、喑不能聲。祖師持金管如箸、尋視脈穴、刺入兩臂兩股肉、吮吸其血、頗爲酷毒。吮吸後、以藥末糝創孔、卽不覺痛、頃刻結痂。次日、痂落如初矣。其地極高、俯視雲雨皆在下。忽一日、狂飈陡起、黑雲如墨壓山頂、雷電激射、勢極可怖。祖師惶遽、呼二十餘女、並裸露環抱其身、如肉屛風。火光入室者數次、皆一掣卽返。俄一龍爪大如箕、於人叢中攫祖師去。霹靂一聲、山谷震動、天地晦冥。覺昏瞀如睡夢、稍醒、則已臥道旁。詢問居人、知去家僅數百里。乃以臂釧易敝衣遮體、乞食得歸也。忻州人尚有及見此婦者、面色枯槁、不久患瘵而卒。蓋精血爲道士採盡矣。據其所言、蓋卽燒金御女之士。其術靈幻如是、尚不免於天誅、況不得其傳、徒受妄人之蠱惑、而冀得神仙、不亦傎哉。

   *

なかなか猟奇的で面白い話なので、小山裕之氏のサイト内のにある現代語訳を引用させて戴く。注記号と一部の句点を除去した。読み易さを考え、改行と記号を追加した。

   《引用開始》

 門人の王廷紹が言った。

――忻州に貧しいために妻を売った者がおり、去って二年に近かった。突然、ひとりで帰ってき、

「買われた当初、一人が家に引いていった。」

と言った。

 突然、一人の道士が来、引きつれて山に入った。心はたいへん疑い恐れていたが、売ってしまったので、どうしようもなかった。道士は目を閉ざさせ、すぐに両耳に風が颼颼[やぶちゃん注:「そうそう/しゅうしゅう」と読み、雨や風の音が幽かにあるさま。]とするのが聞こえた。にわかに目を開かせると、すでに高い峰の上にいた。居室は華麗清潔で、婦女二十余人がおり、ともに尋ねてき[やぶちゃん注:「訊ねて来」であろう。]、

「こちらは仙府だから、苦しむことはない。」

と言った。そこで尋ねた。

「こちらに来たのはどうしてだ。」

「交代で祖師さまの寝所に侍しているのでございます。こちらは金銀が山のように積まれ、珠翠錦繍、嘉肴珍果は、すべて鬼神を使役し、呼びますとたちまち来ます。服食日用は、みな王侯に肩を並べんばかりです。毎月一回の小さな痛みも、障りはございません。」

そこで指して言った。

「こちらは倉庫、こちらは厨房、こちらはわたしたちの居ります所、こちらは祖師さまのおわす所でございます。」

もっとも高い処にある二つの部屋を指して言った。

「こちらは祖師が月を拝し、北斗を拝する処で、こちらは祖師が煉銀[やぶちゃん注:錬金術の一種。]される処です。」

やはり給仕する人がいたが、一人の男子もいなかった。

 それから白昼になるたび呼び入れて枕席に進み、夜になり、祖師が祭壇に登って礼拝すると、はじめてそれぞれ帰って寝た。

 月信落紅(つきのもの)の後だけは、内外の衣をすべて剥ぎ、紅い絨いとを巨きな縄にし、大きい木に縛り、手足はすこしも動かせず、綿の丸で口を塞ぎ、黙って声を出せなかった。祖師は金管を箸のように持ち、脈穴を探し、両腕や両股の肉に刺し込み、その血を吸い、すこぶる残酷であった。吸った後、薬の粉末を創の孔に撒けば、すぐに痛みを覚えなくなり、まもなく痂[やぶちゃん注:「かさぶた」。]ができ、翌日になれば、痂は落ち、元通りになるのであった。

 その地はきわめて高く、俯いて見ると雲雨はすべて下にあった。

 とある日、狂飈[やぶちゃん注:「きょうひょう」と読み、吹き荒れる大風・暴風のこと。]はにわかに起きず[やぶちゃん注:「は」と「ず」は衍字か?]、黒い雲が墨のように山頂を圧し、雷電が閃き、勢はたいへん恐ろしかった。

 祖師は慌て恐れ、二十余の女を呼び、みな裸になってその身を抱きかかえたが、肉屏風のようであった。火光が部屋に入ること数回、いずれも一回伸びてすぐに帰った。

 にわかに一匹の龍、爪の大きさは箕のようなものが、人ごみの中から祖師を攫って去った。霹靂の音がし、山谷は震動し、天地は暗くなった。

 ぼんやりと眠って夢みているかのようであるのを覚え、やや醒めれば、すでに道端に臥していた。

 住民に尋ねると、家から数百里にすぎないことが分かった。

 そこで臂(釧うでわ)を敝衣(ぼろぎ)に換えて体を蔽い、乞食して帰ることができた。

 忻州の人にはなおこの妻を見られた者がいたが、面色は枯槁で、まもなく癆咳を患って亡くなった。

 そもそも精血を道士にとり尽くされていたのであった。

 かれの言うことに拠れば、そもそも焼金[やぶちゃん注:引用元の注に『方術の士が丹砂を鍛えて黄金にすること』とある。]して女と交わる士であった。

 かれの術がこのように霊妙でも、なお天誅を免れなかった。ましてその伝授を得ていないのに、いたずらにでたらめなものの蠱惑を受け、神仙となることを願うのは、まちがったことではないか。

   《引用終了》] 

 

「關微草堂筆記」はこの雷火を以て天誅と解してゐる。この話が「白猿傳」に似たところは、その居所が深山高峯に在ること、婦女ばかりで一人の男子も居らぬことであるが、白猿の類でない代りに、白日の下に雙劍を舞はすやうな、武術の心得はなかつたやうである。泉鏡花は嘗て「買はれた女」といふ題で、この話を女自身體驗を語るやうに書いてゐた。

[やぶちゃん注:最後の鏡花のそれは大正三(一九一四)年四月に発表された「みつ柏(がしは)」の二篇目。「青空文庫」ので読める。]

北越奇談 巻之三 玉石 其四(木葉石)

 

    其四(し)

 

 木葉石(ぼくやうせき)は栃尾(とちを)山谷(さんこく)の間、堀の内、十日町の山間、難波山(なんばやま)等(とう)に夛(おほ)く出ると雖も、皆、石性(せきせい)、和(やは)らかにして、灰白色、盆地(ぼんち)に入(いれ)、草木(さうもく)を植(うゆ)るに、よく水を上げて活(い)く。打碎(うちくだく)に、一片(いつへん)一片、諸木の葉、相重(あいかさな)り、皴紋(しゆんもん)、甚だ面白く、たまたま小魚(しようぎよ)・蜘蛛・蛙(かはづ)などの、葉の間にありて石と成れるものあり。只、魚沼郡(うほぬまごほり)上田郷(うへだごう)藪神(やぶかみ)の庄(せう)、大湯村(おほゆむら)【温泉の出る所。小出島より三里。】、同(おなじく)栃尾俣村(とちをまたむら)さなし川の奧、羽根(はね)川といへる溪流の岸岩(きしいは)の間より、掘出(ほりいだ)すもの、黑色(こくしよく)にして堅實(けんじつ)なり。以(もつて)碩(すゞり)となすに堪(たへ)たり。尤(もつとも)、得易(えやす)からず、少(まれ)にあり。得ㇾ之(これをうる)者は、以、珍玩とす。

 

[やぶちゃん注:地層面上に美しくリアルに印象保存(炭素粒で誇張されたもの)された木の葉(主に広葉樹)の化石。一ミリメートルから一センチメートル単位で葉理が発達している凝灰質頁岩(泥岩がさらに固結した粘板岩(スレート)との中間の岩石)。葉が炭化して残存する場合もあるが、殆どは木の葉の形の印象だけが残る。条件のよい場合は細かな葉脈なども観察され、種類の判別も可能である。栃木県塩原町に分布する洪積世(更新世)中期の湖沼堆積物中に含まれるブナ・カエデ・クリなどの広葉樹の葉が薄く割れやすい淡色の岩片に保存されていることから「木の葉石(このはいし)」と呼ばれたものが最も知られ、これは地質時代の木の葉が砂・粘土・火山灰などとともに静かな水底で堆積したものの化石化したもので、塩原化石植物群は約百三十種の、おもに広葉樹から成る。その組成から、当時の温帯北部に生育したものと考えられている(以上は平凡社「世界大百科事典」を主として他の辞書記載を合成した)。

「栃尾(とちを)」現在の栃尾(新潟県長岡市栃尾町)の東方部であろう。附近(グーグル・マップ・データ)。

「堀の内」新潟県魚沼市堀之内か。(グーグル・マップ・データ)。

「十日町」新潟県十日町市。(グーグル・マップ・データ)。

「難波山(なんばやま)」既出既注であるが再掲する。上越市の高田地区の南西方の山岳地帯に三つのピークがあり、北西から南東に順に「青田難波山」(あおたなんばさん)・「南葉山(なんばさん)」・「籠町南葉山(かごまちなんばさん)」と呼ばれる(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「盆地(ぼんち)」盆栽で鉢(盆栽鉢・盆器)に敷き入れる基底土。

「よく水を上げて活(い)く」凝灰質頁岩は吸水性がある。

「皴紋(しゆんもん)」「皴」は「皺」(しわ)に同じい。転写された葉脈紋様のこと。

「魚沼郡(うほぬまごほり)上田郷(うへだごう)藪神(やぶかみ)の庄」現在、新潟県魚沼市今泉に東日本旅客鉄道只見線の無人駅に「藪神駅」がある。附近(グーグル・マップ・データ)であろう。

「大湯村(おほゆむら)」新潟県魚沼市大湯温泉。(グーグル・マップ・データ)。先の藪神駅の南東約十一キロに当たる。

「小出島」新潟県魚沼市小出島。(グーグル・マップ・データ)。ここで魚野川に合流する東から流れている佐梨川の上流に大湯温泉がある。

「栃尾俣村(とちをまたむら)さなし川の奧、羽根(はね)川」佐梨川の大湯温泉の、上流直近にある魚沼市大湯温泉栃尾又のことであろう(栃尾又温泉がある。なお、正式な住所は大湯もここも魚沼市上折立らしい。)。(グーグル・マップ・データ)。恐らくは「藪神の庄」から以下は、ここを指し示すためのものである可能性が強いその奥にあるとする「羽根(はね)川」は佐梨川の北の尾根の向う側を並行して流れる川のこと。(グーグル・マップ・データ)。なお、後の「其七」でも大湯村温泉と栃尾又温泉は再述され、崑崙自筆の絵図が掲げられてある。

「以(もつて)碩(すゞり)となすに堪(たへ)たり。尤(もつとも)、得易からず、少(まれ)にあり。得ㇾ之(これをうる)者は、以、珍玩とす」現在、ここから硯石が産出されるという記載はネット上には見当たらない。]

2017/08/14

柴田宵曲 續妖異博物館 「牛になつた人」

 

 牛になつた人

 

 蕪村に「食うて寢て牛にならばや桃の花」といふ句がある。牛と桃とは周の武王の「馬を華山の陽に縱(はな)ち、牛を桃林の野に放つ」以來の因緣があるが、さういふむづかしい事を持ち出さないでも、のんびりした趣の上で調和を見出すことが出來る。飯を食つて直ぐ寢ると牛になるといふのはよく云ふことで、これものんびりした話には相違ない。

[やぶちゃん注:「食うて寢て牛にならばや桃の花」与謝蕪村(享保元(一七一六)年~天明三(一七八四)年)の明和年間(一七六四年から一七七二年)の句。「蕪村句集」所収。

『牛と桃とは周の武王の「馬を華山の陽に縱(はな)ち、牛を桃林の野に放つ」以來の因緣がある』「史記」の「周本紀」に、

   *

縱馬於華山之陽、放牛於桃林之。偃干戈、振兵釋旅、示天下不復用也。

(馬を崋山の陽(みなみ)に歸(かへ)し、牛を桃林の虛(きよ)に放ち、天下に復た用ゐざることを示す。)

   *

とある。「虛」はひっそりとした野原。これは、周の武王が暴虐の殷を滅ぼし、戦さに用いた兵馬を崋山の南へと帰してやり、武器などを運搬させた牛を城塞であった「桃林」(河南省内)の跡地に放牧して、最早、天下にそれらを二度と用いぬことを示したことから、特にその牛の方を擬人化し、「桃林處士」と異名するようになった。「處士」とは優れた能力を持ちながら在野の士であることを指す語である。]

 

「今昔物語」などを讀むと、牛になつた人間の話が出て來るが、これは前世の因果によつて畜生に墮在(だざい)するのだから、決してのんびりしてはゐない。その牛が父親だつたり母親だつたりするに至つては、のんびりどころの話ではないのである。

[やぶちゃん注:これは「今昔物語集」の「卷二十」の「延興寺僧惠勝依惡業受牛身語第二十」(延興寺(えんこうじ)の僧惠勝(ゑしよう)惡業に依りて牛に身を受くる語(こと)第二十)であろう。

   *

 今は昔、延興寺と云ふ寺、有り。其の寺に、惠勝と云ふ僧、住みけり。年來(としごろ)、此の寺に住む間(あひだ)に、寺の温室分(うんしつぶん)[やぶちゃん注:浴室用。]の薪(たきぎ)一束(そく)を取りて、人に與へたりけるに、其の後(のち)、償ふ事無くて、惠勝、死にけり。

 而る間、其の寺の邊(ほとり)に、本(もと)より牸(めうし)、有けり。一つの犢(こうし)を生みてけり。

 其の犢、長大して後、其の犢に車を懸けて、薪を積みて、寺の内に入る。

 其の時に、知らぬ僧、寺の門に出で來て、此の犢を見て云く、

「惠勝法師は生きたりし時、涅槃經を明け暮れ讀み奉りしかども、車引く事こそ、哀れなれ。」

と。犢、此れを聞きて、淚(なむだ)を流して、忽ちに倒れて死す。

 犢の主(あるじ)、此れを見て、大いに瞋(いか)りて、其の知らぬ僧を詈(の)りて、

「汝が此の牛をば咀(のろ)ひ殺しつる也(なり)。」

と云ひて、卽ち、僧を捕へて、公(おほや)けに將(い)て行きて、此の由を申す。

 公け、此れを聞(きこ)し食(め)して、其の故を問はしめ給はむとして、先(まづ)、僧を召して見給ふに、僧の形・有樣、端正にして、只人(ただびと)と思へず。然(しか)れば、驚き怪しび給ひて、忽ちに咎(とが)行はむ事を恐れて、淨(きよ)き所に僧を居(す)へて、止事無(やむごとな)き繪師共(ども)を召して、

「此の僧の形・有樣、世に似ず、端正(たんじよう)也。然(さ)れば、此の形を謬(あやま)たず、書きて奉るべし。」

と。

 繪師、宣旨を奉(うけたまは)りて、各々、筆を振るひて、書寫(しよしや)して持(も)て參りたる。

 公け、此れを見給ふに、本(もと)の僧には非ずして、皆、觀音の像也。

 其の時に、僧、搔き消(け)つ樣(やう)に失せぬ。

 然(しか)れば、公け、驚き恐れ給ふ事、限り無し。

 此れ、現(あらは)に知りぬ、觀音の惠勝が牛と成れる事を、人に知らしめむが爲(ため)、僧の形と成りて、示(しめ)し給ふ也けり。牛の主(ぬし)、此れを知らずして、僧に咎を行はむと爲(す)る事を悔ひ悲しみけり。

 人、此れを以て知るべし。一塵の物也と云ふとも、借用せし物をば、慥(たしか)に返すべき也。返さずして死ぬれば、必ず、畜生と成りて、此れを償ふ也、となむ語り傳へたるとや。

   *]

 

 田舍とばかりあつて、どこの話ともわからぬが、富裕な百姓がいゝ牛を飼つて居つた。飼料も潤澤に與へられるから、象のやうに肥え太つて、力も甚だ強い。人の牛と鬪はせて見るのに必ず勝つので、飼ひ主も面白くなつて、かういふ立札をした。何人たりとも牛を牽き來つて突き合されよ、此方の牛負けたらば料足百貫目を進ずべし、餘所の牛負けたらば料足は取らず、たゞその牛を取るべきなり、といふのである。この札を見て牛を牽き來り、百貫文取らうとした人は澤山あつたが、皆負けて牛を取られてしまふ。取つた牛は賣つて金に換へるので、飼ひ主は愈々分限になつた。

 

 その百姓の家から五六里離れたところに、斑牛を一頭飼つてゐる男があつた。左の肩から右の脇まで黃色、その外は皆黑い。瘦牛で弱いため、田を鋤(す)かせることもなく、重荷も負はせず、いたはつて使ふことが多年に及んだ。然るに或晩この牛が飼ひ主の夢に現れて、私は年久しくお養ひを受け、御憐愍にあづかりながら、かひがひしくお役に立つこともなく、徒らに飼料を費して居りますのは、まことに本意ない次第でございます、こゝから五六里南の方に、有福の百姓が牛を持つて居りまして、人の牛と突き合せて、自分の牛が負けたら百貫文出す、餘所の牛が負けたら錢でなしにその牛を取るといふことです、どうか私を連れて行つて突き合せて下さい、私が突き勝つて百貫文お取らせ申し、年頃の御恩報じを致します、と云ふかと思へば目が覺めた。

 

 倂し先方は音に聞えた大牛である。この瘦牛が勝つことは思ひもよらぬ。牛を取られに牽いて行つても仕方がない、と問題にせずにゐたところ、再び夢に現れて、何故牽いておいでなされませぬか、私は必ず勝ちます、お疑ひめされますな、と云ふ。それほどに云ふなら、或は百貫文取れるかも知れぬといふので、人を誘ひ合せて牽いて行つた。先方の在所に著くと、先づ傍の桃林に牛を繫ぎ、彼の家に行つて案内を乞うた。立札の表に任せ五六里先より參りました、と申し入れたところ、先方は大いによろこんで、その牛が見たいと云ふ。瘦牛を牽き出したのを見て大いにあざ笑ひ、例の大牛を牽いて來た。聞き及んだよりも大きな牛で、一同目を驚かすところへ、瘦牛は進んで大道の眞中に行く。大牛も近く寄つて立ち向つたが、何となく大牛の方が恐れる體である。頭を脇へ振つてそのまゝ逃げ去るのみならず、自分の家の門を入つて後庭に逃び込んだ。瘦牛はあとを追駈けて後庭に迫ひ詰めたから、大牛は逃げ場を失ひ、膝を折つてうなだれてしまつた。瘦牛が飛びかゝらうとするのを牛の主が引き止めて、私の牛が勝ちましたと云ふ。亭主も今は致し方なく百貫文を出して渡した。

[やぶちゃん注:「逃び込んだ」恐らくは「とびこんだ」と訓じている。]

 

 自分の牛のあまり腑甲斐ない有樣に、大いに腹を立ててゐると、今度は大牛が亭主の夢に現れた。お腹立ちは御尤もでございますが、これには深い子細のあることなのです、私の前生は山の上の禪寺の僧でございました、住持は瘦せた人でしたが、福分がありまして、皆がその錢を借ります、私も澤山借りて暮しながら、その借錢を九牛の一毛も返さずに死んでしまひました、この世では私が牛に生れてこの家に養はれますと、住持も山の下の檀越(だんをち)の家の牛に生れて居られます、あの左の肩から右の脇まで、毛色の黃なのは袈裟の色なのです、僧の時にも瘦せてゐましたから、牛になつても瘦せてゐますが、住持の德には田を鋤くこともなし、重荷を負はずにいたはられてゐるわけです、今日來たのをどこの牛とも知らず立ち向ひましたら、住持なのに弱りました、借錢のある身では逃げる外はありません、百貫文の御損をおかけ申したのは、まことに不本意でございますが、これが世間の評判になれば、愈々方々から牛を牽いて參りませう、それを思ふ存分に突き勝つて、牛が澤山お手に入るやうに致しましたら、百貫文の御損は間もなく取り返せます、御安心下さいまし――。この牛の話を聞いて亭主が滿足したと思つたら目が覺めた。

 

「奇異雜談集」にあるこの話も甚だ理詰めで、あまりのんびりしてゐない。大牛も瘦牛も共に夢枕に立つあたり、趣向としても窮した點がある。前世の借錢のために勝を讓らなければならぬなどは、牛になつても義理はきびしいものらしいが、どこかに滑稽の分子を含んでゐるのは、牛そのものの持ち味であらうか。

[やぶちゃん注:これは「奇異雜談集」の「卷第三」の「二 牛(うし)觖合(つきあひ)て勝負をいたし前生(ぜんしよう)を悟る事」である。早稲田大学古典総合データベースのの4から9までの画像で読める。挿絵もある。]

 

 ルーマニアに「奇牛の角」といふ話がある。これは右の角を握れば直ちに食物が得られるといふ不思議な牛であるが、この牛が黃金橋と白銀橋とで二度大牛を相手にして勝ちながら、最後に來た瘦牛と朱銅(あかがね)橋で鬪ふことになつた時は、はじめから元氣がなく、左の角を形見に殘して相手の牛と共に下の谷へ轉げ落ちてしまつた。前世に借銀をしたわけでもないらしいのに、瘦牛に勝ち得なかつたところを見ると、何かさういふ話の型があるのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:この民話は不詳。ネット検索でも掛かってこない。識者の御教授を乞う。

「黃金橋と白銀橋」あとが「あかがね」と訓じているのであるから、「こがねばし」と「しろがねばし」と読んでおく。]

 

 その後「太平廣記」を讀んだら、前世に借錢を償はなかつた爲に、牛に生れ替る語が二つあつた。いづれも何等かの證迹を毛色にとゞめてゐるが、路伯達とか崔某とかいふ人の生れ替つた犢(こうし)は、額上にその姓名が白く讀まれたさうである。黃金の犢に黑で笏の形が現れたなどといふ話もある。借金のために鬪牛の場で勝を讓るといふほど、義理に絡んだのはないやうだが、袈裟の形が黃色に現れるなどといふ話にも、自ら由つて來るところがありさうな氣がする。

[やぶちゃん注:「自ら由つて來る」「おのづからよつてきたる」。暗に宵曲は前の「奇異雜談集」の一部はこれらがヒントではなかろうかと言っているようである。

 これらは、一つは「太平廣記」の「畜獸一」の「路伯達」で、「法苑珠林」を出典とする以下。

   *

永徽中、汾州義縣人路伯達、負同縣人錢一千文。後共錢主佛前爲誓曰。我若未還公、吾死後、與公家作牛畜。話訖、逾年而卒。錢主家牸牛生一犢子、額上生白毛、成路伯達三字。其子姪耻之、將錢五千文求贖、主不肯與。乃施與濕成。縣啓福寺僧眞如、助造十五級浮圖。人有見者、發心止惡、競投錢物、以布施焉。

   *

もう一つは同じ「畜獸一」の「路伯達」の次の次に載る、「宣室志」を出典とする「河内崔守」であろう。

   *

有崔君者、貞元中爲河内守、崔君貪而刻、河内人苦之、常於佛寺中假佛像金、凡數鎰。而竟不酧直。僧以太守、竟不敢言。未幾、崔君卒於郡。是日、寺有牛産一犢。其犢頂上有白毛、若縷出文字曰崔某者。寺僧相與觀之、且嘆曰。、崔君常假此寺中佛像金、而竟不還。今日事、果何如哉。崔君家聞之、卽以他牛易其犢。既至、命剪去文字、已而便生。及至其家、雖豢以芻粟、卒不食。崔氏且以爲異、竟歸其寺焉。]

 

北越奇談 巻之三 玉石 其三(貝石)

 

    其三

 

 高田より、東三里、山に入(いる)事、二十余丁、横澄(よこすみ)川と云へる溪流在(あり)。此内、貝石(ばいせき)を出(いだ)すこと、甚(はなはだ)、夛(おほ)し。螄螺(にしほら)・螺蚶(あかゞひ)・蜆(しゞみ)・蛤(はまぐり)・蜊(あさり)の數品(すひん)、皆、自然に形文(けいぶん)麗(うるは)しく、弄玩(ろうぐはん)、愛すべし。是を碎くに、内(うち)、實(じつ)し、玉石のごとく透き通り、潤沢なるもあり。又、其大なるもの、是を打ち碎き見るに、内に小貝石(こばいせき)を含むこと、或は一、或は二、三。蛤石(がうせき)の螺(ら)石を含むあり。大螺(たいら)石・小蛤(しようごう)を含(ふくむ)もあり。皆、内(うち)、實(じつ)して、更に空所なし。たまたま、此貝石、自然に水を含むものを見る。是等の貝石、甚だ奇なり。密(ひそか)に按ずるに一ツとして口を開(ひらき)たるなし。皆よく合(がつ)す。然(しか)れば、生(いける)貝、土中に落入(おちいり)て、數(す)十年を歴(ふ)るに及んで石と成るもの、其肉も共に化(くは)して、石とならば、中(うち)、盡(ことごと)く實(じつ)するいはれ、なし。又、土を含んで、内(うち)、實(じつ)すると云はゞ、口、よく合(がつ)する理(り)なし。又、螺(ほら)の螺を含み、蛤(はまぐり)の蛤を含(ふくむ)ものは其(その)貝子(ばいし)共(とも)云(いふ)べし。他(た)の小貝(こがひ)を含むものは、是、又、不審なり。凡(およそ)北海所々(しよしよ)、山中に此類ありと雖も、其夛く出す所、横澄川に若(し)かず。古志郡(こしごほり)三宅村赤壁(せきへき)の岸(きし)、此砂土(しやど)一へん一へんにして海磯(かいぎ)のごとく、此一へんの間(あいだ)、貝石、數萬(すまん)を敷(しけ)り。香川啓益(かゞはけいゑき)は、『造化の然(しか)る所、此類(るい)多し』と云へ、が國、寺泊駅、丸山氏、「越後名寄(えちごなよせ)」に、『是は、只、山中自然の物なるべし。海中の貝殼、風雨に晒(さら)す時は、皆、化(け)して不ㇾ見(みえず)。然(しか)れば、石となる理(り)なし』と云へれど、其説、不明(あきらかなならざる)也。今、新に、海底の枯貝(こばい)、壳(こく)を以(もて)日に晒し、雨に濕(うるほ)さば、消(せう)するも理(ことわり)なり。山中(さんちう)にある所は、上古、土中(どちう)に落入(おちいり)たる貝壳(かいがら)なれば、風雨に晒すとは、格別なり。又、貝原(かひばら)先生、「大和本艸」に『混沌未分前世界のもの。可ㇾ見(みつべし)』と云へり。是、又、篤信(とくしん)の博識には方便に近き説と云ふべし。世界の變化、一へんして、子(ね)に、天、成り、丑(うし)に、地、成り、寅(とら)に人の生ずる、なんどは、其始(はじめ)を明らかにするの假説にして、何ぞ前世界と云ふの理(り)あらん。只、天地の變化は、此所(このところ)、山と成れば、彼所、落入て海と成り、何處(いづく)と云ふに定(さだめ)はなけれど、例へば、川の渕と成り、瀨と成るがごとし。只、上古、人智、明かなることなきが故に、歴代を不ㇾ記(きせず)。後人(こうじん)、その源(みなもと)を明らかにせんがために、天皇氏(てんくはうし)・地皇氏(ちくはうし)・天神(てんじん)・地神(ちしん)など、假(かり)に設(もふ)けたることなれば、只、上古は、人形(じんけい)にして鳥獸の意(い)に異(こと)なることなきものと覺(おぼ)ゆ。されば、三皇氏(さんくわうし)と雖も、又、久しきとするに足らず。一たび、人智、闢(ひらけ)しより此後(こののち)數千年に至るとも、何ぞ上古人(じようこのひと)に同じからん。天地の変は、只、何時(いつ)となく事替(ことかは)り、日(ひゞ)に新にして二十年を歴(ふ)れば、山川(さんせん)・道路に至るまで、盡(ことごと)く變はるものなり。ましてや、古代、名高き勝地旧跡、今、只、尋(たづぬ)る所なきがごとし。されば、是より後(のち)もまた、天地、長久無量なるべし。「桂海虞衡志(けいかいぐかうし)」に、『石蝦(せきか)・石蠶(せきさん)・石鼈(べつ)』を擧(あ)ぐ。此類(たぐひ)か。只し、が國の貝石は、皆、上古、海磯(かいぎ)の変ずる所と思ふのみ。大螺(たいら)の小蛤(しようがう)を含(ふくむ)の類(たぐひ)は、我が知らざる所也。

 

[やぶちゃん注:「貝石(ばいせき)」は「かいいし」とも読み、ここでの用法は海岸ではなく、陸地から出土する、古代の貝殻の化石となったものを指している。

「二十余丁」二十町は二キロ百八十二メートル。「余」を三町程ととると、二キロ半、前の「三里」を加えると、当時の高田市街からは十四キロメートル強となる。

「横澄(よこすみ)川」不詳。但し、現在の高田市街からほぼ東へ直線で二十キロほどの山間の地区に新潟県上越市安塚区須川という地域があり、新潟県土木部砂防課の公文書を読むと、この地区の中には澄川という地域が存在する。ここは須川川を挟んだ山間渓流添いの一帯であるから、まずはここ(リンク先は国土地理院地図。他の操作をせずに左端の拡大ボタンをひたすら押されたい)を比定の第一候補としたい。但し、「三里」が短か過ぎる気はする。これ以外に気になるのは、新潟県上越市三和区大という地区にある石山という名のピークである。この山は高田市街から真東に直線で十キロで、麓に渓流がある。この立地条件と距離と山名から最初に気にはなったので、ここ(グーグル・マップ・データ)を比定の第二候補としておく。但し、「横澄川」という名称との連関性は全く見出し得なかった。但し、ここに出る貝化石は、その形状や種(推定)や日本列島の形成過程から見て、中生代(約二億五千二百十七万年前から約六千六百万年前)以降、新生代(約六千五百万年前から始まり、現代もそこに含まれる)のものであろう。

「螄螺(にしほら)」「螄」も「螺」と同じく腹足類「にな」を意味するから、これは特定種ではなく、螺高の高い巻貝類(軟体動物門腹足綱 Gastropoda)を広汎に指していると考えてよかろう。以下、古代のそれらであることに注意されたい。現生種にそっくりであっても全くの別種の可能性もあるからである。以下、くだくだしいが、それを考えて注してある。

「螺蚶(あかゞひ)」狭義には斧足(二枚貝)綱翼形亜綱フネガイ目フネガイ科アカガイ属アカガイ Anadara broughtonii を指すが、有意な肋を持って良く似るフネガイ科リュウキュウサルボウ亜科サルボウガイ属サルボウガイ Scapharca kagoshimensis 及び同形状を示すフネガイ科 Arcidae の広汎な種を含むと考えてよい。

「蜆(しゞみ)」斧足綱異歯亜綱シジミ上科シジミ科 Cyrenidae のシジミ類或いはシジミ上科 Cyrenoidea に属する種群や形状の似た別種。

「蛤(はまぐり)」異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ属ハマグリ Meretrix lusoria 及び近縁種或いは形状の似た広汎なマルスダレガイ科 Veneridae 等の別種。

「蜊(あさり)」マルスダレガイ科アサリ亜科アサリ属アサリ Ruditapes philippinarum及び近縁種或いは形状の似た広汎なマルスダレガイ科 Veneridae 等の別種。

「形文(けいぶん)」貝殻の外側の肋や紋様。

「内(うち)、實(じつ)し」殻の内部が完全に土砂や石礫で満ちていることを指す。

「玉石のごとく透き通り、潤沢なるもあり」私は幼少の頃、現在の家の近くの切通しで、こうした貝化石を多数採取するのが趣味の孤独な化石少年であった(現在でも造成地の土中に多く現認出来る)が、殻の内部全体がこのように変質したものはついぞ見たことはなかったこうしたものに変性するのは非常に古い中生代の化石類である。

「其大なるもの、是を打ち碎き見るに、内に小貝石(こばいせき)を含むこと、或は一、或は二、三。蛤石(がうせき)の螺(ら)石を含むあり。大螺(たいら)石・小蛤(しようごう)を含(ふくむ)もあり」これは単に貝化石群が造山運動の圧力によって圧縮され、多量の貝化石層を成しているのを一個の貝の内部に多数の貝が含まれていると誤認したものではなかろうか?

「たまたま、此貝石、自然に水を含むものを見る」これも山上の雨水や地下水が浸出した地層から出土した貝化石を太古から水を含んでいたものと誤認したに過ぎまい。

「一ツとして口を開(ひらき)たるなし。皆よく合(がつ)す」これも誤認で、そんなことはない。貝化石地層では粉砕した片々のそれをよく見かける。ただ、完品以外の片々は重なっていると圧による粉砕が早く、特に崖に露出していると、即座に風化されてしまうから、崑崙はそれらの粉砕された殼片を殻と見做さなかっただけであろう。

「數(す)十年」崑崙先生、それはないでしょ? 後の人為的な貝塚を形成した縄文人の時代でさえ約一万五千年も前ですぜ!

「其肉も共に化(くは)して、石とならば、中(うち)、盡(ことごと)く實(じつ)するいはれ、なし。又、土を含んで、内(うち)、實(じつ)すると云はゞ、口、よく合(がつ)する理(り)なし」言わずもがな乍ら、死貝が海底に沈み、内臓は速やかに腐敗し、それが海底の砂泥中に埋没すれば、隙間から砂泥が侵入し、それが海水の圧力をかけられるから、二枚貝が殻を合わせた形で、内部に土を含んで化石化することは何ら不思議ではありません。崑崙先生。

「螺(ほら)の螺を含み、蛤(はまぐり)の蛤を含(ふくむ)ものは其(その)貝子(ばいし)共(とも)云(いふ)べし」「貝子」とは貝の稚貝ということであろうが、通常の貝類はそのような生殖法を持たない。但し、淡水産の腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae のタニシ類は卵胎生で母体(雌雄異体)が稚貝を産む。しかし、これがタニシのそれであるとは私には思われない。やはり、貝化石層の圧縮されたそれを誤認したものであろう。いや、この後の「他(た)の小貝(こがひ)を含むもの」があるというのは、まさしくそうした誤認であることを図らずも証明しているものと言える(他の貝を捕食する肉食性の貝類はいるが、貝を貝そのままに摂餌してしかもその死貝を体内に保存するものなどは存在しない)。

「古志郡(こしごほり)三宅村赤壁(せきへき)」不詳。旧古志郡は現在の長岡市の一部・小千谷市の一部・見附市の一部に当たる。識者の御教授を乞う。

「此砂土(しやど)一へん一へんにして海磯(かいぎ)のごとく」非常にくっきりとした地層が有意に凹凸を以って積み重なって岩礁性海岸の海食崖の露頭地層のようになっているというのであろう。

「香川啓益(かゞはけいゑき)」これは江戸中期の医師で字(あざな)を「啓益」と称した香月牛山(かつきぎゅうざん 元文五(一七四〇)年~明暦二(一六五六)年)の誤りではなかろうか? 「朝日日本歴史人物事典」によれば、彼は豊前国出身で、後に筑前に移って貝原益軒に儒学を、鶴原玄益に医学を学んだ。中津藩(豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)周辺を領有した)の医官として仕えたが、その後、辞して京都に出、二条で開業医となった。著書に「老人必要養草」「薬籠本草」「婦人寿草」「巻懐食鏡」などがある。ここの「造化の然(しか)る所、此類(るい)多し」(「貝のまるのままの化石というのは天然自然の造化の及ぼすところであって、こうした現象は多く見られる」という意味か)の出典は不明。識者の御教授を乞う。

『丸山氏』野島出版脚注に『「越後名寄」の著者。三島郡寺泊の人。元純』、また、『良陳と称す。其の祖某、長左ヱ門と称し、医を以て長岡牧野氏に仕へ、秩』(ちつ:俸禄。)『八十石を食んだ。其の子杢左ヱ門格勤能く其の職を奉じたが藩侯を諌めて其の怒に触れ、浪人となりて与板に移り、児童に教えて余生を送った。寺泊は諸国行旅の輻輳する所であるのみならず、国人の來往も頻繁であった土地なので』旧『記も多かった』ことから、『元純は書史を討究し或は歴訪捜索すること二十余年にして「越後名寄」三十巻』(三十一巻が正しい)『を著わした。宝暦八年』(一七五八年)、『七十二才で歿した』とある。なお、この人物の末裔が作家の丸山健二であるらしい(個人サイトのこちらに拠る)。「越後名寄」は越後の史料・口碑を蒐集した一種の百科全書。早稲田大学古典データベースのこちらで画像で全巻が読めるが、流石に厖大で捜す気になれない。悪しからず。見つかったら、どうかお教え下さい。お名前とともにリンクを張りたく存じます。

「山中自然の物なるべし」これは、「山中に自然に存在した陸生貝類であろう」と言っているようだ。有肺類の蝸牛の例はありますがね、ちょっとムリでっしょう、丸山先生!?!

「壳(こく)」原典は「売」の字であるが、かく、した。野島出版版は『殻』。意味は確かにそれである。

「貝原(かひばら)先生」江戸前・中期の儒者で本草家の貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)。名は篤信。筑前福岡藩主黒田光之に仕え、後に京に遊学して寛文四(一六六四)年に帰藩した。陽明学から朱子学に転じたが、晩年には朱子学への疑問を纏めた「大疑錄」も著している。教育や医学の分野でも有意な業績を残している著書は以下の「大和本草」の他、「養生訓」「和俗童子訓」など、生涯、実に六十部二百七十余巻に及ぶ。

「大和本艸」益軒が編纂した本草書で宝永七(一七〇九)年刊。本編十六巻・付録二巻・図譜三巻で計二十一巻からなる大著。明治になって西洋の生物学・農学の教本が輸入されるまで、日本史上最高峰の生物学書・農学書であった。李時珍の「本草綱目」の分類法を基にしつつ、独自の分類を考案・編纂したもので、収載された品目は千三百六十二種に及ぶ。参照したウィキの「大和本草」によれば、『薬用植物(動物、鉱物も含)以外にも、農産物や無用の雑草も収載されている。また「大和本草」は古典に記載された物の実体を確定する名物学的側面も持っている。本来の本草学とは薬用植物を扱う学問であるが、この大和本草に於いて日本の本草学は博物学に拡大された。これらは益軒が本草学にとどまらず農学、儒学、和漢の古典など多数の学問に通じていたからこそ出来たことでもある』。『漢名の無い品目も多数収載されている。益軒以前の日本の本草学は「本草綱目」を分析する文献学であった。他の学者は漢名のない日本独自の物は無視して取り上げない、あるいは無理に当てはめるというようなことをしたが』、『益軒はそれをしなかった。また、図版を多く用いることで理解を助ける、仮名が多く使われていることも当時の学問書としては異例のことである。これは益軒が学問を真に世の人の役に立つものにしたいという思いの現れである』。『益軒は自ら観察・検証することを基本とした。この後日本の本草学は文献学から脱皮し、自らの足で歩き植物を発見・採取する本草学者が現れるようになった』とある。この「混沌未分前世界のもの。可ㇾ見(みつべし)」(天地開闢以前のあらゆる物質がカオス(混沌)状態未分化の太古の世界に存在したものの遺物である。よく観察するがよい)は同書のどこに出るのかは不詳。同書の「金玉土石」の部を縦覧したが、見当たらない。「介」部にはないと思う。発見し次第、追記する。因みに私は『貝原益軒「大和本草」より水族の部』の電子化訳注も手掛けている

「篤信(とくしん)」先の注で述べた通り、貝原益軒の字(あざな)。

「博識には方便に近き説」博覧強記の益軒先生にしては、ちょっといなしただけの不十分極まりない説だというのである。崑崙、実に他の学者に対しては相当に辛口である。

「一へん」「一變」であろう。

「子(ね)に、天、成り、丑(うし)に、地、成り、寅(とら)に人の生ずる」十二支を宇宙の生成と消滅を、始め(子)と途中(丑・寅)及び終り(亥)に割り振ったもの。

「何ぞ前世界と云ふの理(り)あらん」宇宙の起源のカオスの世界など論理的にあろうはずがないと崑崙はいうのであるが、これは現在のビッグ・バン理論からすれば、益軒に軍配が挙がる。そもそも崑崙は自分の宇宙生成論をここで提示していないから、ダメである。しかしどうも、崑崙は鬼神を信じたが、私は実は「古事記」にあるかの神々による天地開闢神話は、これを、あまり信じていなかったようにも思われるのである何故か? だってそうでしょ? 「古事記」の冒頭の「くらげなすただよへる」時というそれは、文字通り、「混沌」(カオス)の「海」であり、この山の中の「貝」の化石が、まさにその原型(プロトタイプ)の大「海」に棲息していた貝であっても、これ、よいことになるだろうに、と私は考えるからである

「只、上古、人智、明かなることなきが故に、歴代を不ㇾ記(きせず)」上古、人間の智は十全なものでなかったがために、その歴史的事実を記すことが出来なかった。

「天皇氏(てんくはうし)・地皇氏(ちくはうし)中国の天地開闢神話の中に登場する伝説上の帝王の名の一つ(複数あるものの中の一説)で、通常は「三皇」と称し、「天皇」・「地皇」・「泰皇」(「人皇」とも)を挙げる。ウィキの「天皇」によれば、天皇は『天地創造の神である元始天王が太元聖母と気を通じることによって生まれたとされ』、「三才圖會」の想像図では、外観上、『ほぼ人間と同じ(髭を生やした顔)であるが、体は鱗で覆われており(首と手首にはない)』、「地皇」が『部分的に鳥の肉体を有し』、「人皇」に至っては、ほぼ、『蛇として描かれていることからも』、「天皇」は『三皇の中で最も人に近い姿として描かれている』とある。一方、ウィキの「地皇」によれば、地皇は『天皇から生まれ、地皇は人皇を生んだとされ』、同じく「三才圖會」では『顔は人だが』、『頭頂部にとさかを有し(左右には髪が生えている)、肩から胸にかけて羽毛を生やし、両腕は鳥類の脚となっており、人と鳥を掛け合わせた「鳥人」のような姿で描かれている』とある。西晉の皇甫謐の著になる、三皇から漢魏にいたる帝王の事蹟を記録した「帝王世紀」(散逸したため、諸書の引用から復元されたもの)に『「春秋緯」云、天皇・地皇・人皇、兄弟九人、分九州、長天下也』と出る。

「天神(てんじん)」ここは前に「天皇」「地皇」を並べる以上は中国古代思想に於ける天の神を指すととる。万物を創造し主宰するところの最高神としての天帝。道教では地上の人々の行為を監視し、その善悪の裁きを下す神とされ、或いは老子を神格化した「老君」とも同一視される。

「地神(ちしん)」前と同じようにとり、ここは中国古代思想の大地の神或いは有象無象の土地神としておく。

「假(かり)に設(もふ)けたることなれば、只、上古は、人形(じんけい)にして鳥獸の意(い)に異(こと)なることなきものと覺(おぼ)ゆ」これはまことに唯物的な主張である。私が崑崙は日本神話を信じていなかったとするのは、まさにこの断定に近い言辞によるのである。彼にとっては中国の神仏も日本の神仏も、辻褄合わせのために仮にでっち上げた児戯に等しい噴飯物でしかないとさえ思っているのではあるまいか? しかし、そうした立ち位置に居ながら「鬼神」の実在は疑いないとする、この男、いやはや、タダモノでは、やっぱり、ないわいな!

「人智、闢(ひらけ)しより此後(こののち)數千年に至る」この数字は正しいね。

「何ぞ上古人(じようこのひと)に同じからん」反語。

「されば、是より後(のち)もまた、天地、長久無量なるべし」この順接の接続詞「されば」は判り難い。寧ろ、逆接で繋げるべきであろう。「天地の変は、只、何時(いつ)となく事替(ことかは)り、日(ひゞ)に新にして二十年を歴(ふ)れば、山川(さんせん)・道路に至るまで、盡(ことごと)く變はるものなり。ましてや、古代、名高き勝地旧跡、今、只、尋(たづぬ)る所なきがごとし」というわけで、宇宙は千変万化にして無常迅速、桑田変じて滄海となるというわけだ「けれども」、大いなる自然としての「天地」は「長久無量」なのだと言ってよい、として初めて私はしっくりくるからである。

「桂海虞衡志(けいかいぐかうし)」南宋の范成大の著になる嶺南の山川・物産を記した地誌で、「巖洞」・「金石」・「香」・「酒」・「器」・「禽」・「獸」・「蟲魚」・「花」・「果」・「草木」(ここまで部の頭には「志」が附される)及び「雜志」と「蠻」に分類して記す。中文ウィキソースのこちらで全文が読める。

「石蝦(せきか)」同書の「志蟲魚」に『石蟹、生海南、形真似蟹。云是海所化、理不可詰。又有石蝦、亦其類』とある。これは甲の堅い蝦(えび)ともとれなくもないが、「石蟹」はどうも、蟹に酷似した石・蟹の化石のようにも読める。実は先の益軒の「大和本草」の「金玉土石」の部には明らかに蟹の化石と読めそうなものが項立てされてある。

「石蠶(せきさん)」同書には「石蠶」では載らない。「志果」に『地蠶、生土中、如小蠶、又似甘露子』となら、ある。因みに、やはり「大和本草」のまさに「石蟹」の次に「石蠶」が載り、そこには、

   *

石蠶 海濱ニアリヨク蠶ニ似タリ一ヅヽハナレテアリコレハ蠶ノ化シタルニハ非ス天然ニ生成セルナリ又石蠶ト云蟲アリ別ニ水蟲門ニノセタリ異類同名也

   *

とある。益軒の最後に言っているそれは、幸いにして既に「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 石蠶」として電子化訳注済である。そちらについて、私は「石蠶」昆虫綱毛翅上目トビケラ目 Trichoptera に属する昆虫類の幼虫(及びその砂礫を繫げた棲管)に同定している。ただ、ここで益軒の言っている海産の「石蠶」はよく判らぬ。当初、ナマコのアルビノ(白化個体)かとも考えたが、益軒は別に「海鼠」の項を設けており、そもそもぐにゃぐにゃのそれを石と取り違えることあり得ない。この益軒の言い方は「天然ニ生成セルナリ」とあって、「金玉土石」の部に入れる以上、益軒は石だと思ったほどに堅いことを意味している。とすると、可能性は二つと思う。軟体動物門腹足綱前鰓亜綱盤足目ムカデガイ科Serpulorbis属オオヘビガイSerpulorbis imbricatu か、或いは、死んだ珊瑚の骨格片である。しかし、彼が福岡藩士とは言え、福岡の海岸線にいつも珊瑚の骨格片がごろころ転がっていたとも思えない。取り敢えずはオオヘビガイとしておく

「石鼈(べつ)」同書には「石鼈」は載らない。不審。或いは先に示した「石蟹」の誤読ではあるまいか? 「鼈」は狭義にはスッポンを指すが、ここは亀の化石ととってよい。

「大螺(たいら)の小蛤(しようがう)を含(ふくむ)の類(たぐひ)」これは判るぞ。腹足類でも開口部の大きな大型の巻貝類なら、死貝のそこに、小型の二枚貝類の死貝群が多量に入り込んだ状態で化石化したに過ぎまい。どうってことないよ、崑崙先生。]

2017/08/13

北越奇談 巻之三 玉石 其二(水昌石)

 

    其二

 

 蒲原郡(かんばらごほり)河内谷(かはちだに)の奧、陽國寺(やうこくじ)より東南一里、山谷(さんこく)の間(あいだ)、流(ながれ)にしたがつて尋ね求(もとむ)るに、水昌石(すいせうせき)、甚(はなはだ)、夛(おほ)し。紫瑛石(しえいせき)・白(はく)瑛石、また、夛(おほ)し。此谷より、樵夫、日々、薪(たきゞ)を負(おふ)て五泉(ごせん)の市に賣(うる)。寛政の頃ならん、一日、樵夫、滑らかなる石の、大斗(と)のごとくなるを擔(にな)ひ來りて、市(いち)に賣(うら)んことを請ふ。一商家(いつしようか)某(それがし)なる者、其石の靑白色(せいはくしよく)に透き通り、しかも、水を包めるがごとくなるを以(もつて)、遂に樵夫に米五斗(と)を與へて求ㇾ之(これをもとむ)。曽(かつ)て、其奇石(きせき)なることを知ると雖も、又、如何(いかん)ともすること、なし。試に鐵槌を以つて、石頭(せきとう)を打(うつ)て是に穴を穿(うがた)んとするに、誤(あやまつ)て両断となす。忽(たちまち)、石中(せきちう)より淸水(せいすい)、傾出(かたむけいで)たり。これを見るに、中(うち)、自然に空所ありて、皆、水昌(すいせう)なり。其奇觀、絶品、云ふべからず。即(すなはち)、商人(しやうじん)、これを擔ふて東武賣る。見る人、惜しまずと云ふことなし。一日、雅客(がかく)來りて、是を十五金に求む。即(すなはち)、客(かく)の曰(いはく)、

「此石、兩斷とならずんば、正(まさ)に直(あたひ)千金なるべし。」

と云へり。

 

[やぶちゃん注:話の中心となる石は高級装飾宝石としてしばしば見る、所謂、「晶洞(しょうどう)」を持った石で、内部の結晶体だけでなく、その外側も半透明の美しいものである。晶洞とは堆積岩や火成岩玄武岩の内部に形成された空洞を指し、鉱山などでは俗称で「がま」などとも称される。ギリシア語で「大地に似た」を意味する「ジオード」が海外での一般的な呼び名で、内部には熱水や地下水のミネラル分によって自形結晶が形成される(以上はウィキの「晶洞」に拠った)が、外見は汚いごつごつした岩の塊りであることも多い。この場合は、その中の空洞に古代水を封入したレア物であったわけである。この水に魚が生きて住んでいる(無論、そんなことはまずあり得ないのであるが)ものは「魚石」などと称し、愛石家の幻の奇石とされる。この話はそこまでぶっ飛んではいないから、事実であったと考えて何ら、問題はない。

「蒲原郡(かんばらごほり)河内谷(かはちだに)の奧、陽國寺(やうこくじ)」これも先の「無縫塔」で注した現在の新潟県五泉市川内(かわち)にある曹洞宗雲栄山永谷寺(ようこくじ)の誤りである。ここ(グーグル・マップ・データ)。崑崙はどうも固有名詞の表記に注意力を欠くきらいが有意にある。

「水昌石(すいせうせき)」ここは水晶というより、結晶体を形成する広汎な鉱石・玉石類の総称と考えてよい。

「紫瑛石(しえいせき)」「瑛」は「玉の光・水晶などの透明な美石」の意であるから、これは「紫水晶(アメジスト:amethyst)か。現在の本邦では宮城県白石市の雨塚山や鳥取県で産出されるという。因みに、私の三女アリスの血統書上の本当の名は「Amethyst」である(先代の次女のアリスは正真正銘「Alice」であった。)。

「白(はく)瑛石」二酸化ケイ素SiOが結晶した石英(quartz:クォーツ)。六角柱状の美しい結晶を成すことが多いが、その中でも特に無色透明なものを水晶(rock crystal:ロック・クリスタル)と呼び、古くから「玻璃(はり)」と称されて珍重されてきた。

「五泉(ごせん)の市」「市」は後でルビが振られるように「いち」。五泉の市街は永谷寺の西北三キロ強。

「寛政」一七八九年から一八〇一年。

「東武」江戸の異称。

「雅客(がかく)」風流人。

「十五金」野島出版脚注では、『金十五両、一両を今の二万円とすれば三十万円に相当する』とするが、江戸末期であるから、もう少し安く(一万円未満)見積もってもいいかもしれぬ。

「千金」江戸末期の一両を最低額で現在の三千円とする換算でも三百万円、前の野島出版脚注の換算値を採用すると、二千万円相当にもなる。]

北越奇談 巻之三 玉石 (「博物学古記録翻刻訳注 ■17 橘崑崙「北越奇談」の「卷之三」に現われたる珊瑚及び擬珊瑚状生物」リニューアル終了)

 

北越奇談 巻之三

 
        北越 崑崙橘茂世述
 
        東都 柳亭種彦挍合
 
 
    玉石(ぎよくせき)
 

[やぶちゃん注:これは実は昨年の丁度今頃(2016年8月8日)、前頭葉挫滅一周年記念として、

「博物学古記録翻刻訳注 ■17 橘崑崙「北越奇談」の「卷之三」に現われたる珊瑚及び擬珊瑚状生物」

としてオリジナル現代語訳附きで電子化注している。今回、たまたまほぼ一年にしてここに辿り着いたので、本文を今回の原典に則って、再校合を行い、さらに注も総てに目を通して、ブラッシュ・アップした。画像もあり、容量が重いので、ここでダブってのせることはせず、以上の通り、リンクとして処理するものである。しかし、画像はどれも素晴らしい。是非、再度、ご覧あれかし。]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート13 其十五 「蓑虫の火」 其十六{土用淸水」 其十七「白螺」 + 「新撰七奇」) / 巻之二~了

 

其十五 「蓑虫の火(ひ)」【虫の部にあらず。】何れの所にも限らず、細雨蕭條(しやうじやう)たる夜(よ)、蓑笠に、獨り、路過(みちすぐ)る者あれば、忽然として、蓑の毛(け)に蛍火(けいくは)のごとく光るもの付(つき)、是を拂ひば、忽(たちまち)、蓑毛一面に火移つつて、笠の雫(しづく)手足の濡れたる所まで、盡(ことごと)く光(ひかり)燐然たり。落(おつ)る雨(う)、皆、火をなすことなり。心を靜め、身を動ぜず、過(すぐ)る時は、又、自然に消ゆる。蓑にも限らず、傘(からかさ)・衣類等(とう)、相同じ。又、船中・湖水の中(うち)にもあり。狐狸の怪ならんと云ふ説あれども、左(さ)にあらず。是、鬼火(きくは)なり。「老學庵筆記」『田野(でんや)、麥苗(ばくみよう)・稻穗、雨夜(うや)、忽(たちまち)、火の起(おこ)るを見る。是、古戰場の燐火也』と記(しる)せり。相同じ。

[やぶちゃん注:この崑崙得意の鬼神鬼火原因説を採る発光現象の真相は不詳。当該の発光生物もこの条件ではピンとこない(しかも崑崙は蛍などの昆虫類などの発光説を否定している)。静電気でここまではっきりとは光らんだろうし、球電とか、大槻教授のプラズマ説なら、六十年も生きた私が今までに一回ぐらい見てもおかしくないだろうに、一向、見たこと、ない。識者の御教授を乞う。

「虫の部にあらず」所謂、この名称は、真正の生物としての「虫類(ちゅうるい)」(江戸以前の「虫類」は昆虫だけでなくて爬虫類や広汎な無脊椎動物及び創造生物まで含むので注意されたい)とは全く違う対象及び原因を指しているので注意されたい、という意味の割注である。

「是を拂ひば」ママ。こうした一見すると誤文法にしか見えないものは、今までにもしばしば見かけたが、これだけ多いと、或いは、当時の北越の方言なのかもしれぬ、という気もしてきた。

「老學庵筆記」南宋の政治家で詩人として知られる陸游(一一二五年~一二一〇年)の随筆集。全十巻。野島出版脚注によれば、凡そ『五百八十の項目で雑事を記す』とある。

是、古戰場の燐火也」先の「石鏃」の中の崑崙の鬼神説、「上古、戰場の死氣、凝結して不ㇾ散(さんぜず)。一念、只、鏃を磨(みがき)て敵(てき)に對(たい)せんとす」と相響き合う。]

 

其十六 「土用淸水(どようしみづ)」は古志郡(こしごほり)長岡、蒼紫明神(あをしみやうじん)の山下(さんか)、中沢(なかざは)村【一谷内村と云ふ。】田間(でんかん)小高き所より淸水出る。年々(としどし)、六月土用入前(いるまへ)より、水少しづゝ出(いで)、土用中(ちう)には、淸水、溢(あふ)るゝがごとし。十八日を歴(へ)て、次第に、水、減じて、なし。一説、小松内大臣平(たいらの)重盛の舍弟池中納言賴盛、攝津一谷落城の後(のち)、此國へ來り、蒲原郡(かんばらごほり)三条の城に入る。此頃、中沢村に至り、水を求るに、時、六月の炎暑當たり、無ㇾ得ㇾ水(みづをうることなし)。即(すなはち)、以ㇾ杖(つえをもつて)、地を刺して得ㇾ之(これをう)、と。此説、伏波(ふくは)將軍、源賴義の傳に似て信じがたけれど、何(いづ)れ、此泉(いづみ)の奇賞すべし。

[やぶちゃん注:この清水の流出と停水は特定時期の自然現象という部分では説明し難い。或いは、この山上の明神で同時期に行われた(行われる)特殊な祭事や作業、周辺の農作業等の水路調節或いはその変更時期とリンクしているのかも知れない。以下のグーグル・マップ・データを見ると、当該地の東南直近にはかなり大きな池沼群を現認出来るから、これと何らかの関係がありそうにも思われる

「土用」五行に由来する暦の雑節で、広義には一年の内の不連続な四回のの期間、具体的には「四立(しりゅう)」(立夏・立秋・立冬・立春)の直前の約十八日間に相当する時期を指す。現行では専ら、「夏の土用」即ち、立秋の直前のみが取り沙汰されて鰻食を勧めるばかりに成り下がった。ここで述べているのも旧暦「六月土用」であるから、その時期である。

「長岡、蒼紫明神(あをしみやうじん)の山下(さんか)、中沢(なかざは)村蒼柴神社(あおしじんじゃ)」「蒼紫明神(あをしみやうじん)」は現在の新潟県長岡市にある悠久山山内にある蒼紫神社(新潟県長岡市悠久町)。ウィキの「蒼紫神社」によれば、当初は祭神である越後長岡藩三代目藩主牧野忠辰(ただとき)の『尊号の蒼柴大明神と呼称されたが、神仏分離令により現在の名称となる。創建当初は長岡城内にあったが、後に悠久山に移り、北越戦争で長岡城が落城すると一時期、栃尾に遷座するが終戦後に現在地に安置』。享保七(一七二二)年に既に隠居していた牧野忠辰が死去したが、『これを通達された京都の神祇道管領の吉田家より、故人忠辰に蒼柴霊神の神号が贈られる。このために養嗣子で当時の藩主牧野忠寿が長岡城東隅に社殿を造営して忠辰の霊璽を奉安したのが始まり』とする。明和三(一七六六)年に牧野忠精(ただきよ)が第九第藩主藩主となると、『社殿の城内からの移転が計画され』、最終的に天明元(一七八一)年八月八日に『遷宮式が行われて現在地に移転』したとある。本書刊行は文化九(一八一二)年であるから、この社殿は現在地と考えてよいここ(グーグル・マップ・データ)。

「小松内大臣平(たいらの)重盛の舍弟池ノ中納言賴盛」トンデモ誤り「小松内大臣平(たいらの)重盛」(保延四(一一三八)年~治承三(一一七九)年)は平清盛の長男であり、「池ノ中納言賴盛」は清盛の異母弟平頼盛(長承二(一一三三)年~文治二(一一八六)年)のことである。頼盛は清盛の男兄弟の中で壇ノ浦の戦い後も、唯一、生き残った人物として知られるが、頼盛は後白河院の命を受ける形で実は秘かに源頼朝と通じていたと考えられ、源平の最終合戦前後も一貫して頼朝から厚遇されている。彼は源平合戦開始後も京に残留し、木曾義仲の京都制圧(寿永二(一一八三)年七月末)から数ヶ月後、鎌倉に亡命(鎌倉到着は閏十月頃か)しており、その後、翌年には京に戻って朝廷に出仕している。元暦二(一一八五)年三月、平氏一門は壇ノ浦の戦いで滅亡するが、それから程なく頼朝に出家の素懐を申し送って了承を得、五月二十九日に東大寺で出家し、法名を重蓮と改め、翌年、享年五十四で病没(推定)している。晩年の彼は京では全くの「過去の人」であった。無論、彼が越後に行ったという事実は全くない。行く必要もない但し、越後には「越後池氏」という平頼盛の後裔を名乗る一族がおり、また、新潟県には平頼盛の伝説を伝える地が多く存在することも事実ではある。ウィキの「池氏によれば、『出自については、実は平氏ではなく高志池君(垂仁天皇の末裔を称する皇別氏族)の子孫であったとする説もある』とあり、親不知に伝わる伝承では、『壇ノ浦の戦い後に助命された頼盛は越後国蒲原郡五百刈村(現在の新潟県長岡市)で落人として暮らしていたとされ、現在でも』「池」姓は『新潟県中越地方に多い苗字である』とある(下線やぶちゃん)。ここにも出る『三条、蒲原郡周辺には越後池氏の伝承が多く伝えられているが、確実な史料での初見は池宮内大夫頼章、頼定兄弟相論への幕府による裁許の』弘安一一(一二八八)年の関東下知状で、この当時、『池氏は下総大夫盛氏を惣領地頭とする福雄荘(新潟県燕市)の一分地頭であり、弥彦神社の神官も務めていた』。元応二(一三二〇)年のクレジットを持つ『池新大夫為定が関東御公事の勤めをはたすことができないとの理由で所領を譲り渡している史料』『から、池一族は吉河荘(長岡市)にも所領を領有していたことがわかる。越後池氏に関しては、出自を含め不明なことが多いとされるが、近年、福雄庄や吉河庄が関東御領の可能性があると考えられること、「池大納言所領相伝系図」』『では、池大納言家保業流の維度、宗度は河内大夫と通称しており、越後池氏の一族も「大夫」を通称としていることなどから、関東祗候の家であった保業流の一族が越後に入部した説も唱えられている』元弘三(一三三三)年。鎌倉幕府滅亡の際、『討幕軍に参加した越後勢として池七郎成清』『の名が認められる』。『鎌倉後期には関東御領の多くが北条氏領とされているが、前述の池兄弟相論の地は最終的には北条氏の護持僧の所領とされており、北条氏に圧迫され』て『所領を奪われていったことが、池氏が討幕軍に参加した理由ではないかと推論されている』。『南北朝時代には南朝方として三条周辺や山古志に勢力を持ち、北朝方の中条氏らと争った記録がみられる。のちに北朝方となり足利尊氏に従った』とあるので、この話、この「池」一族が頼盛の末裔を僭称するために捏造した話として読み換えるなら、腑に落ちる

「攝津一ノ谷落城」「鵯越の逆落とし」で知られる「一ノ谷の戦い」は寿永三/治承八年二月七日(一一八四年三月二十日)、摂津国一ノ谷(現在の神戸市須磨区内)で行われ、搦手の大将源義経が丹波城(三草山)を、次いで、一ノ谷を落した。平氏は屋島へと敗走して鎌倉方の完全勝利に終わった。

「蒲原郡(かんばらごほり)三条の城」既出既注。既に本書の頃は廃城(寛永一九(一六四二)年の幕命による)となっており、往時の城は現在の新潟県三条市上須頃(かみすごろ)の附近(グーグル・マップ・データ)にあったと推定されているようである。

「中沢村」現在の新潟県三条市中沢であろう。三条城跡から南東に九キロメートルほどの山中。

「以ㇾ杖(つえをもつて)、地を刺して得ㇾ之(これをう)」これは弘法大師お得意の奇瑞。

「伏波(ふくは)將軍」新末期から後漢初期の武将馬援(紀元前一四年~四九年)のこと。後漢王朝の初代皇帝光武帝の強い信頼を受け、多くの反乱を征討した。四〇年に交州(現在のベトナム北部附近)で徴姉妹が反乱を起こしたが、翌年に伏波将軍に任ぜられてこれを鎮圧している。「杖刺し水湧く」に類する彼の故事は知らぬ。識者の御教授を乞う。

「源賴義」源家のチャンピオン源義家の、彼とともに前九年の役で安倍貞任を討ち、安倍氏を滅亡ささせたことで知られる義家の父源頼義(永延二(九八八)年~承保二(一〇七五)年)。同じく「杖刺し水湧く」に類する彼の故事は知らぬ。識者の御教授を乞う。]

 

其十七 「白螺(しろたにし)」。前に記(き)する古志郡(こしごほり)諏門山(すもんさん)芦ケ平村(あしがひらむら)馬追ケ池(むまおひがいけ)にあり。他邦の人、至(いたつ)て是を見んことを求むれども、村老(そんらう)、敢て、許さず、「今は、なし」と答ふ。是、地神(ちじん)の惜しむ所にして、山、大に荒(ある)る故なり。六月、雪を下(くだ)し、風雨・洪水あり。故に、恐れて、樵夫(しようふ)も、猶、至らず。今は他邦の人に池を見することだに、許さずと云へり。弱冠の頃、四月廿四日、此所(このところ)に至(いたり)て、路を失(しつ)し、黄昏(たそがれ)に吉ヶ平(よしがひら)に出(いで)、宿を求む。翌日より、風雨激しく、六日まで留宿(りうしゆく)せしが、其中(そのうち)、村老に請(こふ)て、山中七池水(ちすい)、盡(ことごと)く見物せり。

白螺(しろたにし)は田螺(たにし)の白きものなり。

[やぶちゃん注:「白螺(しろたにし)」既出既注であるが再掲しておく。腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae の殻色は白っぽい感じから淡褐色であって、大型個体になると、殻の表面が剥げてそこが有意に白っぽく見える個体も多い。但し、私は、ここで村民が殊更に隠すというのは、実はタニシの生体個体ではなく、鮮やかに白くなった山上の地層や池塘の底から出土する化石化したタニシではないかという疑惑を持っている。孰れにせよ、奇ではない。

「古志郡(こしごほり)諏門山(すもんさん)芦ケ平村(あしがひらむら)馬追ケ池(むまおひがいけ)」よく判らんが、この「諏門山」というのは現在の新潟県魚沼市・三条市・長岡市に跨る守門岳(すもんだけ:標高千五百三十七・二メートル)のことではないか? ここ(グーグル・マップ・データ)。山岳家の個人サイトを縦覧して見ると、三条市になるこの守門岳から北に連なる尾根を行った直線で五キロほどの位置にある番屋山の北側の登りの沢の名を「馬追沢」と呼んでいることが判った。しかも、さらに地図を精査してみたところが、この番屋山から北東一帯は新潟県三条市「吉ケ平(よしがひら)」ここ(グーグル・マップ・データ))なんである! これこそ「芦ケ平(あしがひら)」「吉ヶ平(よしがひら)」と考えてよかろう!! そうして! 遂に! この吉ヶ平の北地区にある「雨生ヶ池」は「まごいがいけ」と読むことを突き止めた!! 「まごいがいけ」は「むまおひがいけ」だろッツ!! こういう発見は地図好きには、何とも! こたえられない快感なんである!!!

「地神(ちじん)」(「ちがみ・ぢがみ」とも)「ブリタニカ国際大百科事典」から引く(コンマを読点に変更し、アラビア数字を漢数字に代えた)。『日本の農村で特定の集団と関係する縁起をもち、特定の土地に祀られる機能神の総称。祖先信仰を基盤に、歴史的地域的に多様な信仰と結びついて発展を』遂げた『全国的規模の信仰であるが、呼称は地方によって異なる。信仰内容から次の三種に類別することができる。(一)一村または一集落単位の地縁集団が、土地の守護、農耕の神として祀る。包括神的性格を』持ち、『村の辻や神社の境内などに祀り、春秋の彼岸を祭日とする。地神講と称する講を組織する地方もあり、順番に宿をして祭りを行うこともある。(二)特定の家の田畑などに祀り、その田や畑を開拓した人を地神とするもの。田畑の守護神であると同時に、その家の開拓先祖として信仰されることが多く、祭場を屋敷内に』置いて、『屋敷神としての機能をもつことがある。(三)家人が死んで三十三年を経過すると、地神と呼ぶ祖先神になるというもの。多くは屋敷の一隅に常設の祠(ほこら)や』藁で作った『仮屋に祀る』。

「山中七池水」現在の三条市吉ケ平にも「雨生ヶ池」の他に「大池」を現認出来、さらに国土地理院の地図を精査すると、この二つの池の間を流れる守門川の両岸には二つの小さな池塘も認められた。最後に! 「まこと&かよこの山記録」という個人サイト内で吉ヶ平歴史散策ツアーというページを発見! 多分、私は実際に行くことはないこの「雨生ヶ池」の写真を見ることが出来た!!! 感無量!!! 因みに、その解説に『番屋山の下の文字に馬追沢とある』。『この池は馬が追われて池に落ちたとの説もあり』、『池の源流は馬追沢という名になっているとの事』(下線やぶちゃん)とある。

 なお、以下の最後の総括附言は、原典では全体が二字半下げになっている。この附記は崑崙の智に対する非常な厳密さと謙虚さを如実に示している。崑崙先生! わて、好きやねん!!!]

 

今の七奇を撰(ゑら)ばんとするに、古(いにしへ)の七奇の内(うち)、捨(すつ)べからざるもの、あり。新に加(くはへ)んと欲する物、あり。然(しか)れば、假令(たと)へ、今、他邦に同(おなじ)奇(き)を出(いだ)すと雖も、奇なるものは、即(すなはち)、奇なり。又、後(のち)の人、時の重きに從つて、後の七奇を撰述(せんじゆつ)し給ふべし。

 

 

 

    新撰七奇

 

「石鏃(せきぞく)」

「鎌鼬(かまいたち)」

  此二奇、古の「海鴨」・「白兎」に易る。

  新撰、「海鳴」は常に聞くべからず、

  「白兎」は近國、余類、甚だ多き故、

  除ㇾ之。

「火井(くはせゐ)」

「燃土(もゆるつち)」

「燃水(みづ)」

「胴鳴(ほらなり)」

「無縫塔(むはうとう)」

  此五奇は古より賞称するところをあらためず。

 

    右

 

北越奇談巻之二終

 

[やぶちゃん注:底本は解説部分全体が二字下げであるので、以上のような改行を施して原典の雰囲気を出した。無論、鍵括弧は原典にはなくて単に字空けで繋がっている。野島出版版では字空けなしで中黒が名数の間に打たれてある。最後なので贅沢にそれぞれ改行して並べ、ポイントも大きくし太字とした。

「易る」「かへる」。

「新撰」今回の私の提示する「新撰七奇」では、の意で、以下、「海鳴」は最近ではもう殆んど全く聴くことがなくなってしまった故、また「白兎」は越後の近国でも同様の毛の季節変化を示す兎が非常に多く見られることから越後固有の「奇」とは認められぬから、「除ㇾ之」(これをのぞく)と述べているのである。

「燃水(みづ)」「もゆるみづ」。

「古」「いにしへ」。]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート13 其十四 「風穴」)

 

其十四 「風穴(かざあな)」【「風洞」。】。三島郡雲上山(うんじようざん)國上寺(こくじようじ)弥陀堂の後(うしろ)、絶壁の下(した)に、經(わたり)、尺ばかりなる岩穴(いわあな)ありて、風を出(いだ)すこと、扇風(せんふう)の力(ちから)に比(ひ)すべし。俗説に、角田濱の洞口(とうこう)に相通じて此奇をなす、と云へり。其間(あいだ)、凡(およそ)、伊夜日子山(いやひこやま)を隔(へだて)て三里餘りなり。此説は、とるに足らざれども、又、外(ほか)に風の通ふべきと思ふ所だに、なし。即(すなはち)、地中深く大空所(だいくうしよ)ありて、自然に氣を發するものか。又、地中泉脉(せんみやく)の通ずる所か。只し、大山(たいさん)を穿(うがち)て溪間(けいかん)に通じたるか。又、頸城(くびき)難波(なんば)山にも風洞(ふうとう)ありと。未ㇾ見(いまだみず)。「水經(すいけい)」河水南逕北屈縣西十里風山、山上有ㇾ穴如ㇾ輪風氣蕭瑟たり、と。即(すなはち)、雲上山の風穴(ふうけつ)、これ劣らず。

[やぶちゃん注:後に注する角田浜の直近にある「角田山妙光寺」の公式サイト内の、小川英爾聖なる山と妙光寺の中の『妙光寺の裏手に〝岩屋″と呼ぶ大きな洞窟があ』り、『この岩屋の奥は国上山にある真言宗国上寺の本堂裏手に今も開いている風穴に通じ、岩屋の焚き火の煙が出てきたとか、追い込んだ犬が出てきたという伝説が双方に残っている。この国上寺は越後一の古刹としてかつて修験道の中心道場であり、弥彦神社とも深い繋がりがあった』(下線やぶちゃん)とあることから、この弥陀堂(本堂)の裏手には今もこの風穴があることが判った。なお、ウィキの「風穴によれば、『風穴は洞窟の内外で生じる気温差や気圧差により風の流れが生じ、洞口(洞窟の開口部、出入り口)を通じて体感的に速い大気循環がある洞窟の一形態で』、『比較的新しい時代の火山岩(溶岩台地、等)や石灰岩(カルスト地形』『等)が広がる地域や、海食崖が連なる海岸付近では特徴的に見られる』。『地中の空洞が、高低差のある複数の開口部で地表と結ばれている場合に風穴現象が起きやすい。冬場、空洞内で比重が軽い温かく空気が上方の温風穴から吹き出し、その分、冷たい外気が下方の冷風穴から吸い込まれる。日光が射さない空洞内の空気と岩盤は温度が上がりにくいため、夏になっても冷気が漏れ出る仕組みである』とあり、現象としては奇とするに足らぬ。

「三島郡雲上山(うんじようざん)國上寺(こくじようじ)」現在の新潟県燕市国上(くがみ)にある、和銅二(七〇九)年、越後一の宮弥彦大神の託宣によって建立されたとされる、越後最古の古刹とする真言宗雲高山(うんこうざん)国上寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。山号は誤り(同寺北のピークである山は寺名と同じ国上山)。詳しい沿革は同寺の公式サイト内のこちらが詳しいが、慈覚大師円仁・源義経・上杉謙信及び良寛(晩年の三十年間、ここの五合庵に住み、最晩年はこの麓の乙子神社境内社務所へ、最後は島崎村(現在の長岡市)木村元右エ門の邸内に移った)所縁の寺でもある。さらに調べてみると、面白いことが判った。何と、この寺は、かの酒呑童子(のモデルというべきか)が少年の頃、この寺で過ごし、修行をしたというのである。地元の民草は彼を鬼と見做し、彼らが棲む「穴」を「鬼穴」と称したという伝承がkeiko氏のブログ「自分に還る。」の『酒呑童子~越後から大江山へ●国上寺「酒呑童子絵巻」から』に載っている。この題名にもある通り、国上寺には「大江山酒呑童子繪卷」とともに寺の縁起が残されており、そこには酒呑童子の生い立ちがくわしく記されているという。「能面ホームページ」のによれば、『恒武天皇の皇子桃園親王が、流罪となってこの地へ来たとき、従者としてやってきた砂子塚の城主石瀬俊網が、妻と共にこの地にきて、子がなかったので信濃戸隠山に参拝祈願したところ懐妊し、三年間母の胎内にあってようやく生まれた。幼名は外道丸、手のつけられない乱暴者だったので、国上寺へ稚児としてあずけられ』た。『外道丸は美貌の持ち主で、それゆえに多くの女性たちに恋慕された』が、『外道丸に恋した娘たちが、次々と死ぬという噂が立ち、外道丸がこれまでにもらった恋文を焼きすてようとしたところ、煙がたちこめ』、『煙にまかれて気を失』ってしまう。『しばらくして気がついたとき、外道丸の姿は見るも無惨な鬼にかわってしま』っており、遂に『外道丸は身をおどらせ』、『戸隠山の方へ姿を』消し、後に『丹波の大江山に移り』住んだとあるという。さても! このどこに繋がっているか判らぬ妖しい国上の「風穴」こそは、まさにその「鬼穴」そのものではなかろうか?!

「角田濱」既出既注。新潟県新潟市西蒲(にしかん)区角田浜(かくだはま)。佐渡を正面に据えたここ(グーグル・マップ・データ)。国上寺からほぼ真北へ十二キロメートル離れている。

「伊夜日子山(いやひこやま)」既出既注の弥彦山。国上寺寄りにある。

「只し」ここは条件や例外を附すそれではなく、副詞「ただ」を強めただけの「もしかしたら」という仮定用法。

「難波(なんば)山」既出既注。上越市の高田地区の南西方の山岳地帯に三つのピークがあり、北西から南東に順に「青田難波山」(あおたなんばさん)・「南葉山(なんばさん)」・「籠町南葉山(かごまちなんばさん)」と呼ばれる(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「水經(すいけい)」中国の河川について簡略に記した地理書。撰者は前漢の桑欽とも晋の郭璞とも伝えるが、未詳。三国時代頃の成立かと思われる。一般には、北魏時代に官僚で文人であった酈(れき)道元がそれに注を施した「水經注」(推定で五一五年成立)で知られる以下の崑崙の引用も、その「水經注」の「河水四」にある一節である。

河水南逕北屈縣西十里風山、山上有ㇾ穴如ㇾ輪風氣蕭瑟たり」「河水の南(みなみ)、北屈縣(ほつくつけん)の西十里を逕(へ)て風山(ふうざん)有り、山上(さんしよう)、穴有り、輪(りん)のごとし、風氣(ふうき)、蕭瑟(しようしつ)たり」。中文サイトで見ると、原文は「屈縣故城西、西四十里有風山上、有穴如輪、風氣蕭瑟、習常不止。當其衝飄也、略無生草、蓋常不定、故風之門故也」と続きがある。「輪」は馬車の車輪の大きさほどの謂いか。「蕭瑟」(発音は確かに「しょうしつ」であるが、歴史的仮名遣では「せうしつ」が正しい)は秋風が寂しく吹く形容。]

2017/08/12

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート12 其十三 「八房梅」)

 

Yatuhusanoume

 

[やぶちゃん注:落款「茂」「世」で橘崑崙自筆の絵であることが判る。左にあるキャプションは、

 

親鸞上人の

 旧跡八ツ房の

  梅の図

 

である。]

 

其十三 「八房梅(やつぶさのむめ)」。蒲原郡(かんばらごほり)小島村にあり。即(すなはち)、親鸞上人の旧跡【一坐論梅なり。】。今、猶、所々にあり。例へば、いづれの説にもせよ、誠に五百年來の古木にして、老根、如ㇾ虎(とらのごとく)屈し、枝々(しし)、如ㇾ龍(りやうのごとく)蟠(わだかま)りて、一根、八木(はちぼく)に分(わか)れ、天を指し、地を掃(はらつ)て、雅致(がち)、云ふべからず。其花、淡紅(たんこう)八重の大輪(たいりん)、枝々(しし)、坐(ざ)を爭(あらそ)ふて開き、其(その)淸香(せいかう)、芬然(ふんぜん)として數里(すり)に匂(にほ)ふ。遍(あまね)く諸國の老梅(らうばい)を見ると雖も、其奇勢(きせい)、是に對するもの、なし。其實(み)、塩(しほ)の氣(き)を帶(おぶ)るなど云へるは、敢て論に及ばず。

[やぶちゃん注:親鸞絡みの「越後七不思議」の一つ。現在の阿賀野市小島にある浄土真宗梅護寺((グーグル・マップ・データ))に現存する梅。天然記念物。親鸞が梅干の種を庭に植えて歌を詠んだところが、翌年、芽が出て、枝葉が茂り、薄紅の八重の花が咲き、一つの花に実が八つずつ実るようになったと伝える。これは梅の一品種で、花は白く、八重咲き。雌蕊(めしべ)が数本(十本という記載もある)あって、事実、一つの花に四個から七個(最初期には十個)の実を結ぶ(但し、ネットで調べてみると、成長途中で落果し、重量の関係からも最終的には概ね一つか二つになることが多いようである)。本文にもあるように、別名を「座論梅(ざろんうめ/ざろんばい」とも呼び、花の見頃は四月中旬、結実の見頃は五月から六月上旬とある。

「今、猶、所々にあり」これは同品種の梅が崑崙の時代に既に、この梅護寺以外に各所に植わっており、それぞれに伝承が付随していたらしいことが、これによって判る。

「五百年來の古木」親鸞が赦免されるのは配流から五年後の建暦元(一二一一)年十一月十七日で、その三年後の建保二(一二一四)年に東国布教のために家族や性信などの門弟とともに越後を出発、信濃の善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸国に向かっている。本「北越奇談」の刊行は文化九(一八一二)年であるから、最短でも「五百年」どころか「五百九十八年」で、ここは「六百年來」とするのが正しい

「芬然(ふんぜん)」はっきりとよい香りの立つさま。香しい匂いがしきりに漂うさま。

「其實(み)、塩(しほ)の氣(き)を帶(おぶ)るなど云へる」元が芽生えるの筈がない塩漬けの梅干しのその「種」であったからというのであろう。崑崙の言う通り、こげなことは「敢て論に及ばず」じゃて!]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート11 其十二 「七ツ法師」)

 

其十二 「七ツ法師」。八ツ滝(だき)、頸城郡高田の南、難波山にあり。未(や)ツの時、日、西に旋(めぐる)頃、はじめて、滝、白く見え渡り、申(七ツ[やぶちゃん注:ルビ])の時に至れば、即(すなはち)、滝の中央、黑く、法師の形、現はれ出(いづ)ツ。其邊(ほとり)、さらに此(この)影(かげ)を成す。岩だになし、と云へれど、西國、影向(えうがう)の瀧に不動尊の形、現はるゝと云ふがごとく、遠近(ゑんきん)の岑(みね)・高樹の陰など、相(あひ)映じて其形を成すなるべし。今町八幡(いままちはちまん)にて、是を見る。奇とするには足らざれども、景色(けいしよく)、甚だ、よし。又、糸魚川(いとゐがは)の邊(ほとり)に「牛形(うしなり)」とて、奇とす。雪解(ゆきどけ)の頃、黑く山畔(やまのくろ)に見ゆる。即(すなはち)、大石(たいせき)ありて、殘雪の中に先(まづ)ツ顯(あらは)るゝならん。

[やぶちゃん注:「八ツ滝(だき)、頸城郡高田の南、難波山にあり」上越市の高田地区の南西方の山岳地帯に三つのピークがあり、北西から南東に順に「青田難波山」(あおたなんばさん)・「南葉山(なんばさん)」・「籠町南葉山(かごまちなんばさん)」と呼ばれる(ここ(グーグル・マップ・データ))。この滝がそれらのどこにあるかは不詳だが、蓑上誠一氏のサイト「峠と旅」の「南葉山峠(仮称)」というのはこの近くのロケーションと思われ、そこに「よもしろうの滝」というのが写真入りで出る。ここは一つ、候補としてよかろう。他にここだというところを知っておられる方は、是非、御教授願いたい。

「未(や)ツの時」未(ひつじ)の刻で午後二時前後。

「申(七ツ)の時」申(さる)の刻で午後四時前後。

「岩だになし」そのような翳をそこに落し得るようなちょっとした岩さえも全くない。

「西國、影向(えうがう)の瀧に不動尊の形、現はるゝ」不詳。一つの候補として現在の京都府京丹後市大宮町谷内にある三つ(現在は一つが崩壊して二つ)からなる竜洞滝の内の落差六メートルの「影向滝」(別名「昇竜の滝」)を上げておく。現在、滝脇に不動尊像を祀る。ホージローサイト「全国滝」を参照した。

「今町八幡(いままちはちまん)」現在の新潟県見附市今町か。(グーグル・マップ・データ)。但し、同地区には現在、八幡社はない。識者の御教授を乞う。

『糸魚川(いとゐがは)の邊(ほとり)に「牛形(うしなり)」とて、奇とす』糸魚川((グーグル・マップ・データ))の南東に妙高山(みょうこうさん:所属は新潟県妙高市で標高二千四百五十四メートル)があるが、これは以下で「雪解(ゆきどけ)の頃、黑く山畔(やまのくろ)に見ゆる。即(すなはち)、大石(たいせき)ありて、殘雪の中に先(まづ)ツ顯(あらは)るゝならん」と崑崙が述べているように(但し、必ずしも大石があるわけではない)、雪が部分的に溶けて、地肌が牛の形(或いは馬)に見えるシミュラクラ現象で、雪国ではこの雪形を以って種蒔きや春耕開始の目安とするという呪的な意味があった。「上越タウンジャーナル」の妙高山の雪形「跳ね馬」の横に「牛形」現れるをご覧あれかし! 「牛形」の写真有り!! 下方の過去記事でも同様の過去の現象が見られるよ!!!]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート10 其十一 「即身仏」)

 

其十一 「即身仏」。三島郡野積濱(のづみのはま)最上(さいしよう)寺、弘智(こうち)法印の肉骨(にくこつ)也。又、津川駅(つがはのえき)玉泉寺、淳海(じゆんかい)上人、の入寂(にふじやく)の相(さう)、今に不ㇾ朽(くちず)、現然たり。赤水子(せきすいし)、是を説(せつ)す。其(その)戲言(げげん)、一笑に堪(たえ)たり。佛(ぶつ)を學(まなば)ん人、此(この)言下(ごんか)を味ふべし。是等の事を以つて七奇に加(くはへ)たるは、民間の俗、七奇を不ㇾ知(しらず)、卒時(そつじに)、他邦の客(かく)に問訊(もんじん)せられて、是非なく、思ひ出るに任せ、即答に備(そな)ひたるものと覺ゆ。

[やぶちゃん注:「三島郡野積濱(のづみのはま)最上(さいしよう)寺」現在の新潟県長岡市寺泊野積(ここ(グーグル・マップ・データ))にある真言宗智積院西生寺(さいしょうじ)の誤り。

「弘智(こうち)法印」野島出版脚注に、現在の千葉県匝瑳(そうさ)市大浦に当たる『匝瑳村鈴木五郎左ヱ門の二男』として生まれたが(円生寺公式サイトの記載によれば鎌倉時代(西暦一二九〇年代)、『出家して各寺院の住職』となった『後、行雲流水の修行に出て、最後は』先の野積の『西生寺の奧の院不動ヶ滝で、佛教の不二の法門を求め、貞治二年十月二日(一三六三年)に入定』した、とある。詳細事蹟は円生寺公式に詳しい。

 

「津川駅(つがはのえき)玉泉寺」場所を探すのに往生した。グーグル・マップ・データに載らないからである。「BSNホームテレビの「新潟名刹紀行の「番組ブログでやっと発見(地図有り)。それによれば「東蒲原郡阿賀町津川三二四五」が現住所である。

「淳海(じゆんかい)上人、の入寂(にふじやく)の相(さう)、今に不ㇾ朽(くちず)、現然たり」即身仏の個人サイト「とりねこ」のによれば、寛永一三(一六三六)年の入定(七十八歳)であるが、残念なことにこの即身仏は明治一三(一八八〇)年に発生した津川大火の際に消失してしまっており、『現在は遺骨だけが安置されている』という。皮肉なことに淳海上人の即身仏は『火除けにご利益があるとされて信仰されていた』という。淳海上人の細かな事蹟は不詳であるが、その即身仏の『特徴として、土中入定をしていない点と堂に安置されたという点があげられる。これらの特徴は平安時代の初期即身仏や高野山系即身仏と共通するものである。淳海上人の安置される寺の親戚筋の寺院のすぐ近くに』崑崙が先に掲げた『弘智法院の西生寺があること、高野山と湯殿山両方で修行したことなどから、淳海上人が近畿から東北へと即身仏信仰を伝播させた役割を果たしたものとみられる』ともある。

「赤水子」水戸藩の学者長久保赤水。複数回、既出既注。

「其(その)戲言(げげん)、一笑に堪(たえ)たり。佛(ぶつ)を學(まなば)ん人、此(この)言下(ごんか)を味ふべし」赤水の原文が何なのかも不明で、当たることが出来ないから、はっきりしたことは言えないが、この「戲言(げげん)」「一笑に堪(たえ)たり」「佛(ぶつ)を學(まなば)ん人」は読んだら、さぞかし、ためになるだろうよ、といった所謂、強烈な侮蔑に満ちた言い方から見て、恐らくは水戸学の赤水にして、この淳海上人の入定と即身仏を例外的に、好意的に褒め讃えているのであろうと私は読む。崑崙、一筋繩ではいかぬ人間である。

「是等の事」指示内容の範囲が不明。一応、前の親鸞絡みの「逆竹」と、この「即身仏」以下、次の「七ツ法師(ほうし)」や、やはり親鸞絡みの「八房の梅」といったキテレツ系仏教の条々と限定しておく。胡散臭い仏教系のそれらなど「奇」とするに足らぬ、凡愚の俗人は、すぐ坊主の話をありがたいと思い込むから手におえない、という崑崙の依怙地な節(せつ)が伝わってくる附言である。]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート9 其十 「逆竹」)

 

其十 「逆竹(さかさたけ)」。新潟の上鳥屋(かみとや)村にあり。是、鸞(らん)上人の旧説にして、今なを竹篁(ちくこう)幽遠(ゆうゑん)たり。昔は逆生(ぎやくせい)の竹もありしと云へり。今は絶てなし、と。七奇にはあらず。

[やぶちゃん注:先に注した総てが親鸞聖人絡みの動植物奇瑞七不思議の一つ。ウィキの「越後七不思議によれば、『新潟市中央区鳥屋野』附近((グーグル・マップ・データ))に植生する『国指定の天然記念物』とされている(大正一一(一九二二)年指定。指定名称は「鳥屋野逆(とやのさかさ)ダケの藪」)『枝が下向きに生える』ハチク(単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科マダケ属クロチク変種ハチク Phyllostachys nigra var. henonis)の変異(奇形)種。『親鸞が竹杖を逆さに土に挿したものに根が生えたと伝える』。『竹の枝垂れは他にほとんど例がなく、極めて珍しい奇形であることから』天然記念物指定となったものである。『竹が枝垂れる原因については、長期間にわたって狭い範囲に密生して生育することによる影響や、豪雪による積雪量の多い期間が長いことによる中空の竹枝の耐久性などの因果関係が議論されてきたが、未だに確定的なものはない』『近隣に所在するゆかりの寺である』浄土真宗西方寺(先のリンクの先の地図の原「西方寺跡」の西南西約三百メートルにある)『には、標本』(引用元に画像)『が保存されている』とある。実地に行き、天園記念物の生体のそれを確認されたい方はジオテクサービス株式会社公式サイト内の「鳥屋野の逆さ竹が現地の詳細地図や生態の附図など、異様に詳しい。これ、読んでいると、私も気儘な身なら行ってみたく思うほどマニアック!

「竹篁」「篁」は「たかむら」で「竹叢」、竹藪のことであるから、竹が群がって生えている竹林のこと。

「幽遠」奥深い雰囲気を持っていること。ここは親鸞の奇瑞ということを多少は好意的に意識して語ったものであろう。前にも指摘した通り、崑崙は本章の中で親鸞絡みの七不思議の中の「三度栗」と「逆さ竹」と「八房(やつふさ)の梅」を採用しており、特に最後の「八房の梅」は自筆の絵も添えている。弘法大師や日蓮に対する超辛口の口舌に比すと、親鸞に対してはそうした棘は感じさせない。崑崙は或いは私のように、浄土真宗は信仰しないものの、親鸞個人に対しては親しみを感じていたのかも知れぬ。]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート8 其九 「塩井」)

 

其九 「塩井(えんせゐ)」。三島郡与板(よいた)より西南、山の中、塩(しほ)の入坂(いりさか)、澤中(たくちう)出ず。又、栃尾(とちを)の東、山の間(あひだ)、塩中村(しほなかむら)溪流の中(うち)に井(ゐ)あり。其村には是を汲(くん)で食用に當(あつ)。其井水(せゐすい)を味ひみしに、甚だ、鹹(しほはや)し。俗、是を弘法大師の舊跡と云へり。水戸赤水子(みとせきすいし)、前の火井(くはせゐ)を賞して曰(いはく)、「此奇、獨り浮屠子(ふどし)の眼(まなこ)に觸れざるこそ、幸ひなれ」と、かゝる俗説を破る。好語(こうご)と稱すべし。又、享保十三戊申二月に、魚沼郡新保村(うほぬまごひりしんぼむら)庄屋半左衞門、庭隅(にはのすみ)の石の下より白塩(しろきしほ)を吹出(ふきいだ)して、日々に數升なりしが、一ヶ月ばかりにして自然に減じ、止みぬ。是等(これら)も地塩(ちゑん)の凝結せるものか。「代醉編(たいすいへん)」に木塩(ぼくしほ)等(とう)の説を擧ぐ。他邦にも塩井(ゑんせゐ)の奇は夛しと云へり。然(しか)れども、其中(うち)、石塩(せきゑん)は最(もつとも)奇なり。

[やぶちゃん注:以下に見る通り、ここは内陸部である(海岸線から七キロメートルは離れており、間には三つの丘陵や山地があってその内陸の三番目の東側の山麓に当たるから、海水が浸入した井戸とはちょっと思われない。寧ろ、先の「湧壷」の注で私が示した地下の帯水層中に液体のままの昔の海水が貯留している(化石海水)ものが湧き出しているか、その滞留部分を掠めた形の地下水脈があって、それにその化石海水が少しずつ混入していると考えた方が自然な気はする。無論、既に化石海水の水分が無くなって塩化したものを掠めて水脈があるとしてもよい(但し、後注で示すように、日本には大規模な「岩塩層」は存在しないので注意されたい)

「三島郡与板(よいた)より西南、山の中、塩(しほ)の入坂(いりさか)」現在の新潟県長岡市与板町与板。新潟県公式サイト内の「塩之入峠良寛歌碑」を見ると、この中央のトンネル附近(グーグル・マップ・データ)が「塩之入峠」となるが、不審。現在の与板市街から見て、ここは西北に当たるからである。崑崙の謂いが正しいとするなら、ここよりもずっと遙か彼方の南にまで下がらなければならないと私は思うのだが?

「栃尾(とちを)の東、山の間(あひだ)、塩中村(しほなかむら)」地図を拡大して探し続けた結果、やっと発見した。新潟県長岡市塩中。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在の栃尾(新潟県長岡市栃尾町)市街地からは八キロ以上東北の山中で、塩谷川(しおたにがわ)添いである。この附近の地名には「塩新町」「下塩」「上塩」などと塩のつく地名が多く、しかもそれらは孰れも「塩中」の下流であるから、或いはこの「塩中」の「中」は「上・中・下」の「中」なのではなく、まさに崑崙の言うように、そこの「溪流の」「中」に塩水の「井」がある、という意味の「中」ではあるまいか?

「鹹(しほはや)し」塩からい。しょっぱい。

「水戸赤水」水戸藩の地理学者で漢学者の長久保赤水。既出既注。ここの内容も含めて「古の七奇」の中の「其七 火井(くはせゐ)」を見よ。

「此奇、獨り浮屠子(ふどし)の眼(まなこ)に觸れざるこそ、幸ひなれ」「浮屠子」は僧侶や仏教徒を指す。水戸光圀を濫觴とする水戸学は儒学思想を中心として国学・史学・神道を結合させたもので、外来伝来のくせに国家を支配した仏教に対し、極めて批判的であったから、水戸藩侍講であった長久保赤水もその強い影響下にあった。先の箇所では「赤水の博識には淺々しき説と云ふべし」と徹底的に論難していたのが、ここは一転して「かゝる」坊主絡みの「俗説を破」った(この「破」るとは、他の例のように「火井」が弘法大師や親鸞や日蓮といった糞坊主の阿呆奇瑞に馬鹿馬鹿しく牽強付会されることを免れたのは不幸中の幸いだったとそうした信じるに値しない抹香臭い俗世間の作り話を喝「破」(かっぱ)したことは、まさに「好語(こうご)と稱すべし」(言い得て妙の的を射た名言である)と諸手を挙げて称(たた)えているのである。このことから見ても、崑崙は国学系のシンパサイザーであったことが判明すると言えるのではあるまいか?

「享保十三」一七二八年。

「戊申」「つちのえさる/ボシン」。

「魚沼郡新保村(うほぬまごひりしんぼむら)」複数箇所の候補地があるので確定出来ぬ。識者の御教授を乞う。

「代醉編(たいすいへん)」先に出た「琅耶代醉(ろうやたいすい)」(野島出版脚注に『四十巻。明の張張鼎思が撰したもので経史の考証を随録したものだという』とある、私も調べては見たがよく判らん書物である)であろう。

「木塩(ぼくしほ)」出典元が不詳なれば、これも不詳。

「石塩(せきゑん)」岩塩のことか。本邦では岩塩が採掘されている話を全く聴かないが、これは日本がモンスーンの影響を受けてきた森林帯の島嶼だからである。岩塩は塩湖が地殻変動で岩石化したものを指し、塩湖は雨季と乾季の雨量が極端に異なる地域でのみ形成される。即ち、本邦には地質年代史上、砂漠のような乾燥地帯の大規模な形成が過去に一度も存在しなかったため、大きな岩塩床も存在しないのである(以上はQ&Aサイトの回答を参考にした)。]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート7 其八「湧壷」)

 

其八 「沸壷(わきつぼ)」【「熱壷(ねつつぼ)」なり。】蒲原郡柄目木村(かんばらごほりからめきむら)【即、油の湧く所。】十丁計(ばかり)隔(へだて)て、山の尾上(おのへ)、丘の引𢌞(ひきまは)りたる所、經(わたり)四、五尺の井あり。其中(なか)、水、自然に高く沸上(わきあが)ること、二、三尺、外(ほか)に漏るゝ所もなく、更に增減なし。是は越中立山、南部怖山(おそれざん)等(とう)のごとし。即(すなはち)、地中、硫黄(ゐわう)の氣(かざ)或ひは臭水油(くさみづのあぶら)の氣(き)、泉脉(せんみやく)を押して此動搖をなすなるべし。先ツ「寰宇記(くはんうき)」に云咄泉(とつせん)の類(たぐひ)なり。

[やぶちゃん注:これは「熱壷」とある以外は、温泉を感じさせない。所謂、通常の水温の井戸でありながら、気体がぼこぼこと湧き上がっており、水位の増減が無く、その井戸から流れ出る川筋なども全くないというのであれば、これはやはり前章に出た「古の七奇」の「其七 火井」でそこで崑崙が「是は、必、臭水油(くさみづあぶら)の氣なるべし」として「凡(およそ)、國中(こくちう)、是に類する所、甚だ多し。柄目木村(からめきむら)、即、入方村(によほふじむら)に同じ。寺泊大和田山(おほわだやま)の間(あいだ)、少しの水溜(みづたま)りありて、冷水なれども、常に湯の沸くがごとく泡立(あはだち)てあり。是に火をかざせば、忽、然(もゆ)る」(下線太字やぶちゃん)と同じ場所・同じ現象である(場所の旧「蒲原郡柄目木村(からめきむら)」は複数回既出で既注の、現在の新潟市秋葉区柄目木(がらめき)。ここ(グーグル・マップ・データ))から、まずはそこと同じ

〈井戸の中での石油由来の天然ガスの自然湧出〉

と判断出来る

 しかし、崑崙が後で似ている、として出す、

「越中立山」と「南部怖山」(恐山に同じ)は孰れも硫黄噴気孔を持つ真正の温泉であって、これとは違うと当初は私も思った

のであるが、確認のために再度、現在の柄目木の地図を確認してみると、

同地区の東南で僅かに接する同じ秋葉区草水町に「秋葉温泉 花水」という温泉施設がある

ことが判ったのである。しかも同施設の公式サイトの「基本ガイド」を読むと、秋葉温泉は弱アルカリ性・ナトリウム・塩化物温泉と明記し、さらに地下千から千二百メートルら湧出する、およそ四百五十万年前の化石海水(英語:fossil salt water太古の海水が地層の隙間などに封じ閉じ込められたもので、帯水層中に液体のままの昔の海水が貯留しているものを指す語。海水が石になっているわけではない。生物等の遺骸が実際に石化した「化石」とは全く無関係な比喩的表現であるので注意されたい)を『主成分とした各種天然ミネラルを含有する成分豊富なお湯で』、『この湯の源泉は薄緑褐色で肌に吸い付くような豊かな浴感と、肌をつるつるにする豊富な炭酸水素イオン成分が特徴で』あるとあるのである。但し、恐らくは当該水の熱水古代海水の採取の深さから見て、近代以降に開発された温泉と思われ、これをもってここに示された「湧壷」「熱壷」を安易に、

天然ガスの地下水脈からの湧出ではなく、やはり〈温泉〉じゃないか、と言い換えるわけには私はいかないと考える

のである。大方の御叱正を俟つものである。

「十丁」一キロ九十メートル。

「山の尾上(おのへ)、丘の引𢌞(ひきまは)りたる所」前でかく言ったものの、この距離と位置は柄目木か見て、よく秋葉区草水町の「秋葉温泉 花水」のある場所に一致するようにも読めるのである。悩ましい。

「經(わたり)四、五尺」直径一・二二~一・五一センチメートル。

「水、自然に高く沸上(わきあが)ること、二、三尺」六十一~九十一センチメートルほどの高さまでぼこぼこと吹き上がるというのだから、相応の圧がかかっていることが判る。

「先ツ」「まづ」であろう。

「寰宇記(くはんうき)」正式書名は「太平寰宇記」。北宋の楽史(がくし)によって十世紀後半に編纂された中国の地理書。全二百巻。各地ごとに著名な人物や文芸を記すその構成は後代の中国の地理書の規範となった。太平興国四(九七九)年に宋の太宗は北漢を滅ぼして天下統一を成し遂げたが、これはその天下統一を湛えるために太宗に進上された書であった。参照したウィキの「太平寰宇記」によれば、『大量の書籍を引用するが、その多くは唐・五代以前のものであるため、宋のみならず唐代の地理を知るためにも重要な書物である』とある。

「咄泉(とつせん)」中文サイトの「太平寰宇記」原典では捜し得ず、本邦の漢籍サイトの四庫全書の中にこれかと思われる文字列を発見したが、一部の電子化文字に疑義を持った。さらに調べるうちに、幸い、本邦の寺島良安の「和漢三才圖會」の「卷之五十七」の「水類」にある「妒女泉(うはなりゆ)」(「うはなり」は「妬(うわなり)」=嫉妬の意。有間温泉の伝承が有名で、とある人妻が夫に愛人がいるのを知って、愛人を殺して自身も深い温泉に入水して果てたが、その後、美しい女性がこの温泉の近くに立つと、湯が激しく煮えたぎるようになったという伝承から「妬湯(うわなりゆ)」と呼ばれるようになったとされる)の項に以下のように出るのを見出したので、それを電子化しておく。所持する原典(全画像・正規購入品)から視認して、まず白文で示し、後に訓点に従って書き下した文を示す。良安の訓点はすこぶる読み易いものであるが、さらに一部に句読点・記号及び一部の送り仮名や読み等(無論、歴史的仮名遣)をオリジナルに追加した(因みに私は別に「和漢三才圖會」(水族の部は個人サイト内でずっと昔に完遂、現在は「蟲類」の部をブログにて作業中)の電子化注も手掛けている)。

   *

寰宇記云安豐郡咄泉在淨戒寺北至泉旁大叫則大湧小叫則小湧若咄之其湧出彌甚世人奇之號曰咄泉

   *

「寰宇記(くわんうき)」に云く、『安豐郡の咄泉(とつせん)は、淨戒寺の北に在り。泉の旁(かたはら)に至りて、大きに叫(わめ)くときは、則(すなは)ち、大きに湧き、小さく叫ぶときは、則ち、小(すこ)し湧く。若(も)し、之れを咄(しか)れば[やぶちゃん注:「叱れば」。]、其の湧き出づること、彌々(いよいよ)甚だし。世人、之れを奇(あや)しみて、號して「咄泉」と曰(い)ふ。』と。

   *]

2017/08/11

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート6 其五「冬雷」・其六{三度栗」・其七「沖の題目」)

 

其五 冬雷(ふゆかみなり)は北海(ほつかい)氣候の逆にして、南方(なんぼう)の國に異なること、是に限らず。南國の梅(むめ)は正月に開き、北國(ほつこく)は三月にかゝる。東南の水仙は、冬、專ら是を愛し、が國は來(らい)二月に漸(やうや)く咲けり。是、皆、陰陽遲速、同じからざるが故なり。

[やぶちゃん注:「南方(なんぼう)」濁音はママ。

「來(らい)二月」その南国の冬が過ぎた、翌年、明けた二月。]

 

其六 「三度栗(さんどぐり)」は、蒲原郡安田村にあり。親鸞上人の植(うゆ)る所と、これ、舊跡なり。七奇の部にあらず。此種類、常州にもありと云へり。かゝる異木變艸(いぼくへんそう)、稀にあるもの也。近年、殊に夛(おほし)。唯(たゞ)、鸞上人(らんしようにん)の植(うへ)ゐたる舊跡とのみ思ふべし。

[やぶちゃん注:「三度栗」天津甘栗で知られる中国原産のブナ目ブナ科クリ属シナグリ Castanea mollissimaの一品種Castanea mollissima cv.cultivar:ラテン語:クルティヴァール:品種)か。シナグリの花は五月からずっと咲き続け、新しく伸びた枝先には必ず花を咲かせ、枝が伸びている間はずっと花が見られ、雌花が出れば結実し続ける。通常の栗の木が実を落としてしまった後もずっと栗の実をつけていることなどから、年に三度も実をつけるとされて「三度栗」と呼ばれる。ウィキの「三度栗」によれば、年に三回も『実をつけるといわれており、三度栗に関する伝説が各地に残って』おり、現在の『新潟県阿賀野市保田』(やすだ)にある浄土真宗焼栗山孝順寺((グーグル・マップ・データ:日本有数の大地主であった斎藤家の邸宅を本堂とした寺)に『伝わる三度栗伝説は、越後七不思議』(後述)の一つとされ、『ほかの三度栗伝説は多くが空海にまつわるものであるが、浄土真宗の寺に伝わるこの三度栗伝説は親鸞にまつわるものである』(他の弘法大師絡みのそれは前のリンク先(ウィキ)を参照のこと)。『当地で布教活動を行っていた親鸞の念仏の礼にと、老女が焼き栗を親鸞に差し出した』。『親鸞は帰途』、「我が勸むる彌陀の本願、末世に繁昌致さば、この栗、根芽(こんが)を生(しやう)じて一年に三度、咲き、實(みの)るべし。葉は一葉にして二葉に分かれて繁茂せよ」と『唱えてこの栗をこの地に蒔いた』。すると、『焼き栗から芽が出て、年に』三度、『実をつけ、その葉の先は二つに分かれて茂るようになったという』。『同様の伝説が福井県鯖江市にも残っている』とある。さて、先に出た「越後七不思議」というのは、当地に流罪となって、赦免後も暫く当地で布教し、後に関東(本文に出る「常州」(常陸)も含まれる)へも足を延ばした、親鸞に限定された、特に動植物の珍種を親鸞の起こした奇瑞として伝える特異な聖人伝承の七不思議である。ウィキの「越後七不思議によれば、「逆さ竹(だけ)」・「焼鮒(やきふな)」・「八房(やつふさ)の梅」・「珠数掛桜(じゅずかけざくら)」・「三度栗」・「繋(つな)ぎ榧(がや)」・「片葉(かたは)の蘆(あし)」(同ウィキはその名数から外して最後に「八珍柿」を挙げている)を数えという。それぞれの具体はリンク先をお読み戴きたいが、非常に興味深いのは、橘崑崙はこの「三度栗」以外には「其十」で「逆竹」を、「其十三」で「八房の梅」を挙げるだけで、外の四つを問題とせず、名さえ記していない点である。この後で「八房の梅」に自筆の画を挿絵としても添えているが、それはあからさまな親鸞顕彰と思われるものではなく、その記載内容は寧ろ、専ら植物学的興味、純粋にその老梅の樹木としての花の香その他の即物的な観察による讃嘆に終始しているのである(この老樹は一つの花に八つの実が成るとされる八重咲きの梅の木で親鸞が植えた梅干の種から育ったと伝えるが、その伝承を崑崙は記載しておらず、ただ「親鸞上人の旧跡」とのみ記す)崑崙の宗旨はよく判らないが、或いは彼は新潟に多い浄土真宗の宗門ではなかったのではなかろうか? もし、門徒であったなら、せめても親鸞の七不思議として独立項を設けて、名数ぐらいは列記したはずである。因みに次の「其七 沖の題目」は日蓮の旧跡とするが、読まれれば判る通り、けんもほろろの短さであるから、日蓮宗の門徒の可能性は全くないと言ってよい。翻って、崑崙は本書の第六巻の越後所縁の「人物」の「其三」で曹洞宗の名僧良寛(「了寛」と記す)についてかなりの文章を割いて綴っており、それ以外でも禅僧の名を挙げて語る部分が散見される。また、崑崙は「石鏃」で鬼神の信望者であることを公言しているわけだが(恐らく崑崙は国学的な神道支持派であったとは思われる。あの系統は鬼神に対する親和性がすこぶる高いからである)、多くの仏教宗派は鬼神論には冷淡であって本質的には(方便としては用いても)認めないものが殆んどである。しかし、禅宗は仏教の中では一種の強烈な個人主義支持の宗派であって、鬼神を語っても何ら、問題がないのである。

「鸞上人(らんしようにん)」原典のママ。]

 

其七 「沖の題目」は、角田濱海上(かいしよう)にして、日蓮上人の旧跡なり。波風、靜かなる日、波上(はしよう)に題目の文字(もんじ)、浮(うか)ミ出ると云へり。沖行(ゆく)船の見つる事、今に猶あり、と云へれど、信(まこと)となしても尋ぬべき便(たより)なし。羽州鶴が岡に梵字川(ぼんじがは)あり。其源(みなもと)、湯殿山より出て、流水の紋(もん)に、梵字、見ゆると云ふがごとし。是等のことは、愚民を導く便(たより)のみ。奇とするに足らず。

[やぶちゃん注:どうです? けんもほろろでしょ? 新潟は日蓮も佐渡に流罪となったから信徒はそれなりにいるが。

「角田濱」既出既注。新潟県新潟市西蒲(にしかん)区角田浜(かくだはま)。佐渡を正面に据えたここ(グーグル・マップ・データ)。

「羽州鶴が岡に梵字川(ぼんじがは)」山形県鶴岡市を流れる川名として現存。(グーグル・マップ・データ)。地図で判るが、源を辿ると確かに南東の湯殿山(月山の南西山腹にある標高千五百メートル。月山・羽黒山とともに出羽三山の一つとして修験道の霊場として知られる)である。]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート5 其四「四蓋波」)

 

其四 「四蓋波(しかいなみ)」【「四海波」。】。頸城郡(くびきごほり)名立(なだち)の下(しも)、鍋ヶ浦(なべがうら)と云へる所、打寄(うちよす)る波、立(たち)かへりて、四方より四かいに打(うつ)、と云へり。是、磯石(いそいし)、左右に峙(そばだ)ち起(おこ)れる故に、此紋(もん)をなせるなるべし。たとへ五、六かいの波をなすとも、敢て奇とするに足らず。俗徒、「髙砂(たかさご)」の謠ひを聞(きゝ)、「四海波(しかいなみ)」と云へるは、只、目出度ものとのみ心得て、四海(しかい)と四蓋(しかい)の意を知らず。かゝる蒙説を云へ出せること、他邦の人に對して、竊(ひそか)に面赤(めんせき)す。

[やぶちゃん注:これは最後に崑崙が赤面しているようにトンデモ名数である。「四海波」とは、時代劇でよく耳にする祝儀の場で謡われる、かの世阿弥作の脇能「高砂(たかさご)」の中の、シテの老翁(実は相生の松の精)が松の目出度さを語り詠う冒頭、

〽四海 波 靜かにて 國も治まる時つ風 枝を鳴らさぬ御代(みよ)なれや あひに相生(あひおひ)の 松こそ目出たかりけれ げにや仰ぎても こともおろかや かかる世に 住める民(たみ)とて豐かなる 君の恵惠みぞ有難き 君の惠みぞ有難き

の部分の通称であるが、そもそもが「四海」は「天下」の意で、「波 靜かにて 國も治まる時つ風……」とまさに天下泰平のパノラミックな表現なのであって、これはもともとは「四海波」という三字熟語でさえないのである。「四蓋波」の方は、本文に従えば、打ち寄せた波が、逆に返して、海上の四方(こだわるが、物理的には浦にうち寄せたんだから少なくとも反射波の一度目の行く先は物理的には三方である)に向かって四度、波に波を蓋(ふた)をするように畳み掛けて反射波の波紋を起こすという意味であろう。なお、祝儀で謠われるのは、同謡曲の最後の方の、ワキ・ワキツレ(阿蘇の神主と従者)によって謠われる舞囃子の冒頭の、

〽高砂や この浦舟(うらぶね)に帆をあげて この浦舟に帆をあげて 月もろともにいでしほの 浪の淡路の島影(しまかげ)や 遠くなりをの沖過ぎて 早や住江(すみのえ)に着きにけり 早や住江に着きにけり

の箇所である。

「頸城郡(くびきごほり)名立(なだち)の下(しも)、鍋ヶ浦(なべがうら)」現在の新潟県上越市鍋ケ浦。(グーグル・マップ・データ)。地図内西直近に上越市名立区もある。

「四かい」崑崙先生もこの「四海(しかい)」と「四蓋」(しがい)に困ったものか、原典がこのように平仮名「かい」になっている。「四海」に向かって「四回」、「蓋(かい)」するように「打」つという苦しい赤面しそうな駄洒落あんであろうか(真面目な崑崙先生には洒落はちょっと似合わぬが)。

「是、磯石(いそいし)、左右に峙(そばだ)ち起(おこ)れる」この浦、波で反転するほどの中位の有意な大きさの転石が満ち満ちた礫(れき)性海岸であり(ということはかなりの「浜鳴り」がするはずである)、波がそれらに当たると、反作用の法則で海方向にそれらの石が多量に左右に転がって、それが複雑な磯からの反射波を起こすという崑崙の自然科学的分析である。

そこ鍋ヶ浦近辺をネットで調べて見た。

検索を続けると、B・Y氏の個人サイト「B型人間のアウトドア」の桑取川河口というのが目に止まった。ここは鍋ヶ浦の東で現在の漁港らしきものがなければ、ここは「鍋ヶ浦」の東の端と言ってよいと思われるのであるが、そこに添えられた写真の中に!

おう! ゴロタ石の海岸じゃあねえか!

何だか、私は、無性に、嬉しくなってしまったしまったのである。

「五、六かい」この「かい」は、もう、「囘」でいいでしょう? 崑崙センセ?]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート4 其三「鎌鼬」)

 

其三 「鎌鼬(かまいたち)」。一「構太刀(かまひたち)」。時所(じしよ)に定(さだま)りなし。夛(おほ)くは社地を過(よぎ)る者、不慮に面部(めんぶ)手足(しゆそく)なんど、皮肉(ひにく)、割破(さけやぶ)れて白く爆(は)ぜ反(かへ)ることなり。疵(きづ)口の大小に變りあれど、さして血も不ㇾ出(いでず)、痛もなく、何のわざとも更に名付(なづけ)がたきものなり。或説に鬼神(きしん)の刄(やいば)に行き當たり、其觸(ふる)る所、此(この)奇をなす、故に「構太刀」と云ふと。此説、當れりと云ふべきか。凡(およそ)、鬼神(きしん)は北方陰分(ほつほうゐんぶん)の地に集まるものにして、卽(すなはち)、坤(うしとら)を鬼門となす。依ㇾ之(これによつて)か、北越は鬼神の奇(き)、甚だ夛し。然(しか)れども、天地の化(くは)長じ、人氣(じんき)滿てるに随(したがつ)て、自然と幽冥に歸するものと覺ゆ。此奇、北越三五十前年(ぜんねん)までは甚だ夛かりしが、今は稀に有事なり。伊夜日子(いやひこ)より國上(くかみ)山に驅け踰(こ)す所、黑坂(くろさか)と云ふあり。此所に誤つて躓倒(つまづきたを)るゝ者、必(かならず)、此奇を受く。如ㇾ此こと、所々(しよしよ)にあり。又、一説に、寒氣、皮膚の間に凝封(ぎようふう)せられて、暖(だん)を得る時は、皮肉、裂け、其(その)氣(き)、發(おこる)と云へり。是、医家(いか)の説なるべし。左あらば、甲信の二國、奥白河(おくしらかは)の邊は極(きはめ)て地高(ぢだか)なる所にして、寒氣、北越に倍す。しからば、此奇、却(かへつ)て甚しかるべし。又、其治方(ぢほう)に、古き暦紙(れきし)を燒(やき)て貼れば、卽(すなはち)、効(しるし)あり。是(これ)、邪(じや)を去(さる)の故か。只(たゞ)し、構ひたる刃(やいば)觸(ふる)るとにはあらず。是も鬼神の氣に觸るゝなるべし。今は他邦(たほう)も此(この)奇、稀(まれ)にあると云へり。

[やぶちゃん注:「鎌鼬」については、私の目撃例(但し、不可抗力の人為の疑惑の深い例)も含め、さんざん注で書いてきたのでここでは繰り返さない。

囊 之七 旋風怪の事

最近のものでは孰れも「北越奇談」のこの条も引いている、

柴田宵曲 續妖異博物館 「鎌鼬

「想山著聞奇集 卷の貮」「鎌鼬の事」

の本文及び私の詳細な注を参照されたい。

「構太刀(かまひたち)」後に出る「構ひたる刃(やいば)」、鬼神が見えない太刀の抜き身を「構」えたなどという意味ではあるまい。この「構」は以下の叙述から、鬼神がその瞬間に自分のテリトリーとしている場所(神域・禁足地。後の多く発生する場所としての「社地」と一致する)に入ったり(「構う」には「禁制にする」の意がある)、気に入らない人間に対して懲らしめやからかい目的で意図的に「構う」(「構う」には別に「相手にしてふざける・からかう」の意がある)という呪的な意味を元にしているように思われるが、それは多分、後付けで「鎌鼬」の音が訛っただけであろう。

「時所(じしよ)に定(さだま)りなし」(一般には)時と場所を選ばず、突如、前触れなしに発生する。

「面部(めんぶ)」四十八年前に中学一年の私が面前で目撃したケースも、顔面、それも眼であった。

「爆(は)ぜ反(かへ)る」勢いよく裂け破れると同時に、その裂けた口が有意に外側に反り返る。

「さして血も不ㇾ出(いでず)」私の目撃例では多量に血が滴った。

「何のわざ」何ものが成す仕儀。崑崙は、ここでは意外にも、全く以って、自然現象としての分析解釈力を欠いている。巻之一の竜巻類での鋭い観察眼が、ここでは一向に発揮されないのは大いに不満である。前の「石鏃」で鬼神説をぶち上げてしまった関係上、この「鬼神(きしん)の刄(やいば)に行き當た」ったという怪しげな説に付和雷同してしまっている感が頗る強い。

「北方陰分(ほつほうゐんぶん)」陰陽道で北方の陰気の集結する時空間を指すか。

「坤(うしとら)」丑寅。東北。

「然(しか)れども、天地の化(くは)長じ、人氣(じんき)滿てるに随(したがつ)て、自然と幽冥に歸するものと覺ゆ」しかし、天地開闢以来、その永い時間経過し、人類が誕生して漸層的にその人口が増えて、地に満ちるほどになるに従って、自ずから、そうした鬼神の力は、本来の彼らのいるべき場所であると思われるより陰気に満ちた死後の世界の領分へと場所を変えてしまったものと思われる、というのである。これは以下の「此奇、北越三五十前年(ぜんねん)までは甚だ夛かりしが、今は稀に有事なり」の判ったような判らないような理由づけとなっているようである。

「伊夜日子(いやひこ)」既出既注の弥彦山。越後平野西部、新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦にある弥彦山。標高六百三十四メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「國上(くかみ)山」「國上(くかみ)山」新潟県燕市に位置する標高三一二・八メートルの国上山(くがみやま)。ここ(グーグル・マップ・データ)。弥彦山の南。俗に弥彦山脈と呼ばれる山並みの南端に位置する。

「黑坂(くろさか)」上記のグーグル・マップ・データで雰囲気は判るし、このルートの途中にはやはり既出既注の黒滝城跡もあるから、この坂の「黑」というのは、これまた、しっくりくる。

「如ㇾ此こと」「かくのごときこと」。

「奥白河(おくしらかは)」現在の福島県の白河市のずっと西方の新潟県境付近を指すか。現在の南会津郡や大沼郡辺りか。

「地高(ぢだか)」高地。

「治方(ぢほう)」治療法。処方。

「古き暦紙(れきし)を燒(やき)て貼れば、卽(すなはち)、効(しるし)あり。是(これ)、邪(じや)を去(さる)の故か」諸病の民間療法で、この処方はしばしば見られる。暦は農耕や神聖な行事を細かく限定し、それは単なる予兆だけではなく、過去現在未来の時空間を絶えることなくそれ自体が支配していると見做されることから、強力な呪力を持つものと考えられたことは想像に難くない。]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート3 其二「箭ノ根石」(Ⅲ)~この石鏃の条は了)

 

[やぶちゃん注:実際には原典ではここに最初に掲げた三葉に亙る石器図が入る。以下は驚天動地の崑崙の石鏃鬼神創造説の主張と、中華第一主義への強い疑義である。]

 

右數品(すひん)、あらまし、如ㇾ此。諸方の風子(ふうし)、よく是を知る。只し、此一奇は羽州をもって祖とすべけれど、今世(こんせい)、北越、此奇、夛(おほき)がゆへに、他邦より是を求むる者、必、が國を以つて名とす。[やぶちゃん注:ここにある以下の改行は原典のママ。以下、崑崙と批判者の対話形式であるので、読み易さを図り、直接話法を改行して示した。]

或る人の曰(いはく)、

「汝、頻りに鬼神を信じて婦女子のごとし。豈(あに)鬼神手足(しゆそく)有(あつ)て、この工(たくみ)をなすことあらんや。」

が曰、

「鬼神、又、なきにあらず。「易」に、『遊魂(ゆうこん)変をなす』、是なり。鬼神、又、手足有(あつ)て、鏃(やじり)をつくり出(いだ)には、あらず。上古、戰場の死氣、凝結して不ㇾ散(さんぜず)。一念、只、鏃を磨(みがき)て敵(てき)に對(たい)せんとす。其氣、石を穿て、忽(たちまち)、此形を成す。前にも云へる如、氣を以つて制するほど強きは、なし。六月、雪を下(くだ)し、三年、雨、降らざるの類(たぐひ)、匹夫(ひつふ)の恨(うらみ)だに如ㇾ此(かくのごとし)。まして戰死の遺恨をや。只、其(それ)、汝、此國の奇を爭(あらそ)はゞ、一人を屈するにあらず。汝も又、自(みづから)生國(しようごく)を辱(はづかし)むるなり。於ㇾ是(こゝにおゐて)因(ちな)ミに云ふ。或人、兩三輩、語(かたつ)て曰、

『我、聞く。羽州男鹿島の(おかじま)中(うち)、蘇武(そぶ)の碑ありと。然(しか)れば、蘇武、此國に莭死(せつし)せること、明かなり。是、一快事(いちくはいじ)にあらずや。』

と。笑(わらつ)て曰、

『公等(こうら)、聖人の道を尊(たつと)んで中華を賞(しよう)ずるは左(さ)もありなん。何ぞ、本邦をして強(しゐ)て夷狄(ゐてき)の國と成し、是を快事なりとせば、即、公等も又、左襟不毛(さきんふもう)の辱しめを得るにあらずや。是、好奇の淫(ゐん)たるべし。』

又、云(いふ)、

『國字と雖も、章を文(あや)どるは、が等(とう)の及難(およびがた)きものと見へたり。西海(さいかい)の蟠龍子(ばんりうし)、「俗説辨」を著はす。其中(うち)、本邦の奇事を論ずる所に至(いたつ)ては、必(かならず)、云ふ、「此國何々を以つて奇となす。是、何ぞ奇とするに足らん【中華の書を引く。】。如ㇾ此(かくのごとく)、かの國、已にあり」と記せること、數ヶ條(すかじやう)なり。密かに笑ふ。是、彼(かの)國を賞して本邦を辱しむるの文躰(ぶんてい)なり。是を論ぜば、中華の書何々(なになに)を擧げ、記(しる)すれども不珍(ふちん)とす。「本邦、巳に此奇あり。即、是なり」と、本邦、かの國に不減(ふげん)の賞を記したきことなり。又、蟠龍子、自(みづから)言(いふ)、「此(この)『俗説辨』を謗(そし)れる人ありと聞けり。請ふらくは、其人に面して高論を聞(きか)ん。是、我(わが)願ふ所なり」と記せり。近頃、「俗説辨」、二、三編(べん)を見て、思ひらく、其中、時賴・秀吉両公囘國(くはいごく)の論あり。これ、甚だ誤れり。蟠龍子、此二公の意を不察と云ふべし。只し、理は不盡(ふじん)の妙にして、言々(げんげん)、何ぞ窮(きはま)る所あらんや。が石鏃の論も、又、後(のち)の好事家、妙論あらんことを俟(ま)つのみ』。」。

[やぶちゃん注:以上で「箭ノ根石(石鏃)」の条は終わっている。彼が鬼神を大真面目に信ずるところは留保するとして、こうして読むと、崑崙は非常にしっかりした構成を念頭に置きながら論を展開させていることが、非常によく判る。

「風子(ふうし)」好事家を含む風流人士。

「此一奇は羽州をもって祖とす」先の「續日本紀」以下の最古記載が出羽だからである。

「「易」に、『遊魂(ゆうこん)変をなす』」「魂」は原典では「云」が上にあって下に「鬼」とする異体であるが、野島出版版に拠った。「易經」の「繫辭上」の中に、

   *

仰以觀於天文、俯以察於地理。是故知幽明之故。原始反終。故知死生之説。精氣爲物、遊魂爲變。是故知鬼神之情狀。

(仰ぎて以つて天文(てんもん)を觀(み)、俯して以つて地理を察す。是の故(ゆゑ)に、幽明の故(こ)[やぶちゃん注:事。]を知る。始めを原(たづ)ねて終りに反(かへ)る。故(ゆゑ)に死生の説を知る。精氣、物と爲(な)り、遊魂、變を爲(な)す。是の故(ゆゑ)に鬼神の情狀を知る。)

   *

とある。

「上古、戰場の死氣、凝結して不ㇾ散(さんぜず)。一念、只、鏃を磨(みがき)て敵(てき)に對(たい)せんとす」私はここを読みながら、思わず偏愛する晩唐の詩人李賀の「長平箭頭歌」(長平(ちやうへい)箭頭(せんとう)の歌)を思い出していた。この詩については、私サイト内の非常に古いページに、原文及び私の訓読とオリジナル訳があるので参照されたい。

「前にも云へる如、氣を以つて制するほど強きは、なし」「古の七奇」の「其五 胴鳴(ほらなり)」などを参照。

「六月、雪を下(くだ)し、三年、雨、降らざるの類(たぐひ)、匹夫(ひつふ)の恨(うらみ)だに如ㇾ此(かくのごとし)」「六月」は旧暦の晩夏。これは何かそうした具体的な怨恨による異常な自然現象の原拠があるのであろうが、今直ぐには思いつかぬ。判明したら、追記する。

「只、其(それ)、汝、此國の奇を爭(あらそ)はゞ、一人を屈するにあらず。汝も又、自(みづから)生國(しようごく)を辱(はづかし)むるなり」なかなか深遠な論理である。ある国固有の「奇」=不思議を論難して否定し去って、それを主張している例えば私橘崑崙を平伏させたと思ったら、それは大間違いである。固有の説明のつかない超自然の力によるものと推定し得る「奇」が存在しないと軽率に全否定した場合、それは鏡返しで君の国の固有の「奇」も同時に全否定され、君の国の、少なくとも「奇」による歴史や民族や、それによって長い年月をかけて形成されてきた独自にして固有の属性をも否定し、辱めることとなるのだというのである。これは非常な「真」という気がする。凄いぞ! 崑崙先生!!!

「羽州男鹿島の(おかじま)中(うち)、蘇武(そぶ)の碑あり」秋田県男鹿半島の男鹿市船川港本山門前字祓川に現存する赤神神社(縁起上では貞観二(八六〇)年に慈覚大師円仁が当地に来て赤神山日積寺永禅院(永禅坊とも)を創建したのに始まるとされるが、伝承では、景行天皇二(七二)年(或いは景行天皇十年とも十一年ともされる)に赤神と称した漢の孝武帝が天から降りてきたという伝説がある)があるが、ブログ「露木順一と未来を語る」のこちらにも、菅江真澄の紀行文の中には、『徐福のほか、中国古代の帝国、漢を代表する皇帝、武帝を祀った廟があ』り、『更には武帝に使えた高名な家臣蘇武までが祀られていたと』あるとある。思い出すのは青森県戸来村のキリストの墓だ。キリストが来たのなら、かの悲劇の武将蘇武の墓があっても私は驚かぬ。

「莭死(せつし)」「莭」は「節」に同じい。単に「死」の「節」(折り・時)を迎えたとも採れるし、蘇武が自身の正しいとする「節」を守って漢に戻ることなく、匈奴から何とまあ、本邦にまで流れて来て、ここで「死」を迎えたという意味にも採れようか。

「夷狄」中国では古来、東夷西戎南蛮北狄と四方を未開の蛮族と見做し、中央で華やかに栄える「中華」として自国の優位性を誇った。そこから「夷狄」と略述して、中国で自国以外の外国人を軽蔑したり敵意をもったりして呼ぶ際に広く用いる語となった。

「左襟不毛(さきんふもう)」野島出版脚注に『えりの左前の人。耕さない土地に住む人。野』蛮『人をいう』とある。

「國字と雖も」(中国以外の)自国の文字を有する(ということは同時に独自の文化を持つ自立した国・国民であることを指す)国・民とであっても。

「章を文(あや)どる」野島出版脚注に『文を作る』とある。

『西海(さいかい)の蟠龍子(ばんりうし)、「俗説辨」を著はす』肥後熊本藩士で神道家の井沢蟠龍(いざわばんりょう 寛文八(一六六八)年~享保一五(一七三一)年:江戸で山崎闇斎に垂加神道を学び、後に国学・儒学を研究、博学でおおくの著作をものすとともに、剣術・柔術にも優れた)が書いた考証随筆「廣益俗説辨」を指す。ただ、以下を読むと、あたかも崑崙は執筆時に存命していて、今にも対面して議論を吹っ掛けたいといった勢いであるが、崑崙の生年は宝暦一一(一七六一)年頃と推定されており、本書に至っては文化九(一八一二)年刊であるから、彼よりも前代の人であるので注意されたい。則ち、以下の「是を論ぜば、中華の書何々(なになに)を擧げ、記(しる)すれども不珍(ふちん)とす」は、井沢氏が生きておれば、私のこの奇談集の話も悉く、「珍しくもなんともないね、中国の書に総て既にして記されおるわい」とほくそ笑むことであろう、という仮定である。

『「本邦、巳に此奇あり。即、是なり」と、本邦、かの國に不減(ふげん)の賞を記したきことなり』ここは崑崙の井沢に対する反論部分。寧ろ、逆に「我が国には、古え、既に独自のかくかくしかじかの固有の奇ある。則ち、それがこれである!」と言い返したいと言い、「かの國に不減の賞記したきことなり」は「却って、中国の記録に勝るとも劣らぬ誉れを誇れる事実のあることをこの書で是非とも記したいのである」という強烈な自信に満ちた言明なのである。う~ん、気持ちは痛いほど判るが、やっぱり、崑崙先生、なかなかの反骨家であるわい。

「思ひらく」「思へらく」が正しい。漢文訓読に由来する、動詞「思ふ」に完了の助動詞「り」の付いた「思へり」の「ク」語法(活用語の語尾に「く」が付いて,全体が名詞化される語法)で「思っていることには」の意。

「時賴・秀吉両公囘國(くはいごく)の論あり」これは「廣益俗説辨」の「卷十三 士庶」にある「最明寺時賴、廻國の説」である。所持する東洋文庫版を加工データとして、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を視認底本として正字化して示す。読みは一部に留めた。【 】は原典の二行割注。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

   *

俗説云、最明寺平時賴、民のくるしみを見、うつたえをきかんために、みづから諸國をめぐるといふ。

[やぶちゃん注:以下、東洋文庫及び底本は全体が最後まで一字下げ。]

今按ずるに、羅山子道春曰く、時賴の修行するは、人の鬱訴を聞かんが爲なり。民のうれひくるしみを直(ぢき)に見てをさめんとする其こゝろざしは殊勝なれ共、聖賢の道より見れば、あながち國君(こくくん)として、ひそかにしのびありき、毛を吹いて疵(きず)をもとめ、人の隱僻(いんぺき)をたづねさぐらんは、あまりさしていらざる事にや。いにしへは民のくるしみを問ふ使(つかひ)を諸國につかはして、廉直(れんちよく)に事をきく時は、君(きみ)は居ながらも明(あきらか)なるべし、と後漢書などにもあれば、かならずしも修行することを用ゆべからず。予按ずるに、むかしもろこしにて、河伯(かはく)化(け)して白龍(はくりやう)となり水におよぎしを、羿(げい)といふ者矢をはなちて、龍(りやう)が左の目を射たり。河伯いかつて此事を天帝にうつたふ。天帝のたまひけるは、汝ふかく神異を守らば、羿何によりて汝を射んや。汝いま蟲類となる故、人の爲に射らるゝこと理(ことわり)なり。恨むべからずとありしこと、事文類聚に見えたり。これを以て思へば、時賴、天下の執權にして、威勢まことに強大なれども、獨身(どくしん)にて國を廻(めぐ)るときは、乞食(こつじき)法師に異なるべからず。古語にも、呑舟(どんしう)の魚も水をうしなひて螻蟻(ろうぎ)[やぶちゃん注:螻蛄(けら)と蟻(あり)。虫けら。]のために制せらるゝは、其居(きよ)を離るゝ故なりとあれば、不ㇾ虞(はからざる)の愁(うれひ)、あやうからずや。頃日(このごろ)、䟽魯理傳(そろりでん)[やぶちゃん注:近世本格怪談集の濫觴の一つとされる名作「曾呂利物語」のこと。寛文三(一六六三)年板行。]を見るに、䟽魯理は其郷里姓氏を詳(つまびらか)にしらず【泉州地志云、鼠樓粟新左衞門は和泉國堺の産なり。堺鑑云、鞘師也と有り】。豐臣太閤(とよとみのたいかふ)につかへて寵幸(ちやうかう)せらる。ある日、太閤、諸臣をあつめてのたまふは、われすでに日本をたなごゝろににぎれり。しかれども、若(も)し一民(みん)も其所(そのところ)を得ざることあらば、わが恥なり。われ、平時賴にならつて、郡縣(ぐんけん)をめぐり見るべし。諸臣みなことばをそろへて、時賴の國をめぐられしは、美事(よきこと)に似て人主(じんしゆ)の所爲(しよゐ)にあらず。殿下若(も)しかれにならはせ給ひ、萬一の不虞(ふぐ)[やぶちゃん注:「不慮」。思いがけない出来事。]まさまさば、如何(いかゞ)とまうす。太閤またのたまひけるは、我(わが)神武(しんぶ)なる[やぶちゃん注:自分の神のようにこの上なく優れた武徳によって保たれた。]天下に敵なし。たとひひとり身にしてゆくとも、たれか我をはからんや。汝等かさねていふべからず、と御(おん)いかりの色みえ給へば、おのおの深くうれふるれども、再びいさめたてまつるものなし。それより三日過ぎて後(のち)、太閤䟽魯理を召て、世上に珍らしき事はなきか、と問はせ給ふ。䟽魯理めづらかなる事こそ侯へ。此ごろ京の賈人(あきんど)鞍馬山にのぼるとて、山の麓にいたるとき、晴れたる天(てん)忽にちにくれて黃昏(ゆふぐれ)の如し。天狗忽然として飛び來り、賈人を見ていはく、われ今(いま)食(しよく)に飢ゑたり。汝を取りてくらはんとのゝしる。其いきはひ、甚だおそろし。賈人いはく、われ運つきて今日(こんにち)公(こう)にあひ奉れり。にぐるとものがれがたし。ともかくもなし給ふべし。但しそれがしつねづね公の神通(じんづう)をきゝ候(さぶら)ひぬ。ねがはくは一目見せ給ふべし。左あらば死るともうらみ候はじ。天狗がいはく、なんぢがのぞみに任かせて神通を見すべし。先(まづ)大身(たいしん)を見せしめんといふとひとしく、其長(たけ)、鞍馬山より高くなる。賈人おどろきて、此上は小身(せうしん)を見候はゞやといへば、たちまち蜘蛛(くも)ほどになれり。賈人掌(たなごころ)をひらきて、此上にすわり給へといへば、天狗やがて飛びあがる。賈人急に口をあけてのみければ、天狗つひに腹中にて死し候とかたる。そのことば未(いま)だをはらざるに、太閤笑ひたまひて、世上に何ぞ此事あらんや。汝まうけ作りて、わが微行(ぎかう)の擧(きよ)を諷(ふう)するものなりとて、其後(そののち)廻國の沙汰なかりけりと記せり。これをもつて見れば、時賴の時に䟽魯理がたぐひの者だにもなきにや、いとあさまし。

   *

崑崙はこれを、「甚だ誤れり」と断じ、「蟠龍子、此二公の意を不察」(さつせず)「と云ふべし」と批難しているのであるが、ます、井沢も崑崙もともに時頼(こちらは既遂)及び秀吉(こちらは未遂)の回国伝説を信じていた。しかし、崑崙は彼らの市井に交って民意を知ろうとした為政者の誠意を全く理解していないとして批判しているのである。秀吉の話も怪しいが(そこでは寧ろ秀吉が主役ではなく、トリックスター曽呂利こそがそれであるところが如何にも作り話である)、北条時頼が隠居後に鎌倉御府内から出た形跡は「吾妻鏡」を子細に調べて見ても全く出てこないから、後世のデッチアゲ(謡曲「鉢木」で爆発的に流行)であることはもう確実であるから、私はこの回国類話全体が胡散臭い馬鹿話としてしか思われないから、崑崙の気持ちは心情的には共感出来るものの、その真面目腐った真っ向批判自体は「笑止」としか感じられぬ。因みに、回国伝説の神様水戸黄門光圀が江戸に出た以外に、実際に生涯に於いて旅行したのは鎌倉と六浦(現在の横浜市金沢区)へのただ一度きりであったこともここに言い添えておこう。序でだから追伸すると、光圀は実は大の神道好きで仏教嫌いあって、この時も諸所で野面の仏像等を損壊したりしているトンデモナイ文化破壊者であった。

「只し、理は不盡(ふじん)の妙にして、言々(げんげん)、何ぞ窮(きはま)る所あらんや」最後には崑崙先生、智の謙虚へと戻る。「但し、宇宙を支配する理(ことわり)は解明し尽くすことが出来ない霊妙なものであるからして、総てを言葉によって極め尽くすことは出来ない。それは私のここでの石鏃が鬼神の残存遺恨を元にした生成説もまた、その誤認の対象から免れるものではない、として、識者の意見を「俟つのみ」と擱筆するのである。うん! やっぱ、崑崙先生、好きッツ!!!]

2017/08/10

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート2 其二「箭ノ根石」(Ⅱ))

 

總て北越山下の田家には、二月十五日・十八日、山神祭(さんしんまつり)とて、山に不ㇾ入(いらず)。もし、誤(あやまつ)て山に入る時は、必、種々(しゆじゆ)の怪を見て、病(やむ)といふ。今は所々(しよしよ)拾ひ盡くすと雖も、尚、尋ね求(もとむ)るごとに不ㇾ得(えず)といふこと、なし。「續日本(しよくにほん)紀」【同「日本後記」】『承和六年、出羽國より申。八月廿九日、田河郡(たがはごほり)の西濱(にしはま)、符(ふ)を達する所、五十餘里の間(あいだ)、元より、石なし。十三日より、雷雨、甚だしく、十余日を歴(へ)、晴天を見る。後(のち)、落(おち)たる石、少からず。鏃(やじり)に似、鉾(ほこ)似たる石、或(あるひは)白、或赤(あかし)。』とあり。又、「三代實錄」に、『仁和(にんわ)元年六月廿一日、出羽國秋田城(あきたのしろ)及(および)飽海郡(あくみごほり)神宮の西濱に石鏃を降(ふら)す』、『同二年、出羽國飽海郡諸神社の辺(ほとり)に石鏃を降す』とあり。しかれば、上古、巳に其神奇を記す。今世(こんせい)、好事の者、是は人作(じんさく)にして石と石とを打合(うちあは)せ、割飛(さけとび)たる物、此形を成す、と云ふ。近頃、會津の医(ゐ)某(それがし)なる者、來て、自(みづか)ら作れりとてに示す。其形、似よりたるにもあらず、笑ふべきの至り也。紫土色(むらさきつちのいろ)、俗に「火打石」と云へるものゝごとし。、即(すなはち)、其眞(しん)なる紫・白・黑色、各(おのおの)如珠玉(しゆぎよくのごとく)なるもの、五、六品を出し見せしむるに、其医、初めて信服せり。又、江州(ごうしう)石亭(せきてい)なる者、其(その)人作(じんさく)たることを論ずと。又、或人、上古、是を作りて竹木(ちくぼく)の先に插(さしはさ)み、鳥獸を獵(かり)すと。是、又、論ずるに足らざるの説なり。石鏃上品なるもの、よく竹木を削(けづり)、自(みづか)ら竹木に插(さしはさ)み、弓に矧(は)げて用ひたる物にはあらずと覺ゆ。其故は、形、

 

Sekizoku1_2

 

如ㇾ此(かくのごとき)もの夛(おほ)くあり。

Sekizoku2_2


此品(しな)、最も多しと雖も、竹木に挾みて肉に深く入るべき理(り)なし。眞の鏃(やじり)は、

 

Yajirihonmono_2

 

かくのごとし。是を以つて知るべし。又、古人、銅・鐡、いまだあらず。石と石とを打合せて、獵(かり)するために此物をなさば、何ぞ、

 

 Sekizoku3
Sekizoku4

 

如ㇾ此、不用の戲(たはむれ)に力(ちから)を労せんや。又、上品なるは、珠玉がごとくなる物ありて、鐡槌(てつつい)にも碎き難きあり。又、上古人作(じようこじんさく)と云はば、北國にのみ限るいはれ、なし。又、或人、是は自然にしてなるものと云へり。是れ、莊子の見(けん)か。何にもせよ、おのれが智に及びがたきものは、皆、自然とさへ云(いへ)ば濟むやうなものなれど、物理を明(あきらか)にせんと思ふ。才氣もなく、先愚(せんぐ)に近き達論(たつろん)と云ふべし。是も、自然に成るものならば、鏃(やじり)の形のみに限るべからず。或は鉾鎗(ほうそう)・鈇鉞(ふえつ)・刀劔・戈戟(くはんくは)・鋤鎌(じよれん)・鋸刃(きよじん)等(とう)、其余(よ)、種々(しゆじゆ)の形もあるべし。是を按ずるに、鬼神(きしん)の説、明かなり。只し、「本草」に「石弩(せきど)」と云(いふ)は如ㇾ此(かくのごとき)ものか。霹靂石・霹靂楔・霹靂堪[やぶちゃん注:以上の後の二箇所の「霹靂」は原典・野島出版版ともに総て「ゝ」で示されてあるが、これは非常に読み難いので、かく、した。]・雷斧、皆、此邦にあり。是は人作なるべし。其石(せき)、質(しつ)、皆、粗品なれば、石石(せきせき)琢磨して形を成せりと覺ゆ。其品、あらまし、末に圖せり。霹靂石は自然也。其形も定(さだま)りなく、大小數品(すひん)、黑色(こくしよく)、玉(たま)のごとし。石弩は群石(ぐんせき)の内より、自然に片々として割飛(われと)ぶ。しかれば、此邦(くに)、石鏃の類にはあらざるべし。雲母石・石燕(せきえん)の類か。又、荊州・梁州・肅愼國(しくしんこく)、靑石(あをいし)を以て矢に作る、とあり。是が數年(すねん)、此奇を試るに、其夛く出(いづ)る所、從來の石質、粗品なる所は、石鏃も又、粗品なり。石質、明徹なる所は、石質も又、珠玉のごとし。其石色(せきしよく)も又、同じ。其中(うち)、粗惡の品ばかり、偶々(たまたま)見たる人は、人作とも思ふべし。又、ある人、燕石と云へるは是なり、と云へり。其説を聞(きか)んことを請ふ。曰(いはく)、一儒、長崎に至り、石鏃を以つて來舶清人(らいはくのしんじん)に示す。清客(しんかく)、見て、燕石なり、とて大笑(たいしよう)せり、と云へり。甚だ訝(いぶか)しき説也。此人、猥(みだり)に此論を成せりと覺ゆ。笑ふべきの甚だしきなり。かの呉人(ごひと)、燕石を包(つゝみ)て玉(たま)と成せるは、豈(あに)如ㇾ此(かくのごとき)ものならんや。【一説に、燕石は、即、燕の國よりいづる玉に似たる石なり。此邦、陸奥津輕石と称する物のごとくなるべし。】玉(たま)に誤(あやま)るのもの知(しり)ぬべし。本州、霹靂石、有(ある)は、此邦の落星石(らくせいせき)、俗に「星銷(ほしくづ)」と云へるもの、是なり。今北越・信州・佐州其余所(よしよ)所々(しよしよ)にあり。空中(くうちう)太陽の氣、鬱結して、忽、火光(くはくはう)を發し、飛去(とびさ)もの、地上に落(おつ)る時は、即、化(け)して石となると。是なり。其火光【大なるは、俗に「光りもの」と云ふ。小なるは「流星」又は「夜這星」と云ふ。】、「左傳」、『星、落(おつ)ること如ㇾ雨(あめのごとし)』。即、此火光なり。豈(あに)真(まこと)の星ならんや。霹靂石、形、不ㇾ一(いつならず)、黑(こく)・靑色(せいしよく)・眞黑色(しんこくしよく)・漆黑(しつこく)・白点(はくてん)等(とう)なり。甚だ、光彩潤沢明徹、如ㇾ玉(たまのごとし)。俗に「落星」・「石星(せきほし)」・「銷石(くずいし)」と云ふ。

[やぶちゃん注:「二月十五日・十八日、山神祭(さんしんまつり)とて、山に不ㇾ入(いらず)」「山神」は山の神。詳しくはウィキの「山の神」などを参照されたいが、「民俗学辞典」(昭和五〇(一九七五)年四十七版東京堂刊)によれば、『田の神を山の神とする』(同一視する)『所では二月と十月の二回に祭る』とあるから、月はいいとしても、『山の神の祭日は區々だが、月の七日・九日・十二が多い』とあるのからは、当時の北越の慣習はややずれがあると言える(因みに『杣や炭燒は十二月十二日、マタギは六月十二日を祭日としている』とある)。この日は総て『山稼を休んで山の神をまつ』り、『山の神が狩をする日、木種を播く日、木を數える日などと言われて、山入りを忌む。もし禁を破つて山に入ると山の神に木と間違えられて數え込まれてしまう』と言われている。

「今は所々(しよしよ)拾ひ盡くすと雖も、尚、尋ね求(もつむ)るごとに不ㇾ得(えず)といふこと、なし」今までいろいろなところで山の神についての話を採集してきて総て採り尽くしたとさえ思うようなのだが、しかし、なお、また新たに採集に出かけると、必ず、今まで聴いたことない、新たな山の神に纏わる話柄を得られぬということはないほど、奥深い信仰である、というのである。

「續日本(しよくにほん)紀」(しょくにほんぎ)は菅野真道(まみち)らが延暦一六(七九七)年)に完成させた勅撰史書。六国史の「日本書紀」に続く第二。文武天皇元(六九七)年から桓武天皇の延暦一〇(七九一)年まで九十五年を記す。編年体・漢文・全四十巻。

『同「日本後記」ニ』返り点がないけれども『「日本後記」に同じ』と読むのであるが、この謂い方は誤り「日本後記」は「續日本紀」の続篇として書かれた勅撰史書。六国史の第三。承和七(八四〇)年に完成し、延暦一一(七九二)年から天長一〇(八三三)年に至る四十二年間を記す。編者は藤原緒嗣(おつぐ)ら。編年体・漢文・全四十巻(現存は十巻のみ)。しかも、以下の内容は実は「續日本紀」日本後記」(そもそもが記載期間からこの両者ではあり得ない)でもなく、その後の勅撰史書「續日本後記」の記載事項である(次注参照)。

『承和六年、出羽國より申ス。八月廿九日、田河郡(たがはごほり)の西濱(にしはま)、符(ふ)を達する所、五十餘里の間(あいだ)、元より、石なし。十三日より、雷雨、甚だしく、十余日を歴(へ)、晴天を見る。後(のち)、落(おち)たる石、少からず。鏃(やじり)に似、鉾(ほこ)ニ似たる石、或(あるひは)白、或赤(あかし)。』前注で述べた通り、これは「續日本後記」(仁明天皇の代である天長一〇(八三三)年から嘉祥三(八五〇)年までの十八年間を記す。藤原良房らによって貞観一一(八六九)年に完成。編年体・漢文・全二十巻)の「卷八」の「承和六年十月乙丑【十七】」の以下。「J-TEXT」の本文データを一部加工して示した。

   *

乙丑。出羽國言。去八月廿九日管田川郡司解稱。此郡西濱達符之程五十餘里。本自無石。而從今月三日。霖雨無止。雷電鬪聲。經十餘日。乃見晴天。時向海畔。自然隕石。其數不少。或似鏃。或似鋒。或白或黑。或靑或赤。凡厥狀體。鋭皆向西。莖則向東。詢于故老。所未曾見。國司商量。此濱沙地。而徑寸之石自古無有。仍上言者。其所進上兵象之石數十枚。收之外記局。

   *

ここは「續日本後記」の原文で注する。

・「承和六年」は八三九年。

・「八月廿九日」はユリウス暦で八三九年十月十日、グレゴリオ暦換算では十月十四日。

・「田川郡」現在の山形県東田川郡・鶴岡市及び酒田市の一部(概ね、最上川以南)などに相当する地域。

・「西濱」前の注と矛盾するが、現在の山形県飽海(あくみ)郡遊佐町(ゆざまち)吹浦(ふくら)字西浜附近ではないか。ここ(グーグル・マップ・データ)。古い時代の田川郡域はこの辺りも含まれていたか、或いはただの誤認か。

・「符」野島出版脚注に『竹又は木の上にしるしとすべき文字をかき、之を割りて彼我各半分を所持し、他日ある時、合わせて証拠とするもの』とある。

・「本自無石」この浜にはもともと転石は皆無の純粋な砂浜海岸であったというのである。

・「今月三日」同年の八月三日はユリウス暦九月一四日、グレゴリ暦換算で九月十八日「北越奇談」本文は「十三日」とするが、これだと、ユリウス暦九月二十四日、グレゴリオ暦換算で九月二十八日

「三代實錄」「日本三代實錄」。六国史の第五の「日本文徳天皇実録」を次いだ最後の勅撰史書。天安二(八五八)年から仁和三(八八七)年までの三十年間を記す。延喜元(九百一)年成立。編者は藤原時平・菅原道真ら。編年体・漢文・全五十巻。

「仁和(にんわ)元年六月廿一日、出羽國秋田城(あきたのしろ)及(および)飽海郡(あくみごほり)神宮の西濱に石鏃を降(ふら)す」仁和元年は八八五年。以下。同前の「六国史」データに同じ仕儀を施した。これは「卷四十八」の「仁和元年十一月廿一日辛丑」の条に挿入される形で記された記事である。

   *

去六月廿一日、出羽國秋田城中及飽海郡神宮寺西浜、雨石鏃。陰陽寮言。當有凶狄陰謀兵亂之事。神祇官言。彼國飽海郡大物忌神・月山神、田川郡由豆佐乃賣神、倶成此恠。祟在不敬。

   *

「六月廿一日」ユリウス暦八月五日、グレゴリオ暦換算で八月九日

「同二年、出羽國飽海郡諸神社の辺(ほとり)に石鏃を降す」同書の「卷四十九」の以下の「仁和二年四月十七日丙寅」の記載。

   *

十七日丙寅。令出羽國愼警固。去二月彼國飽海郡諸神社邊、雨石鏃。陰陽寮占云。宜警兵賊。由是、預戒不虞。

   *

「仁和二年四月十七日」はユリウス暦八八六年五月二十四日、グレゴリ暦換算で五月二十八日

「火打石」玉髄質の石英から出来た堅硬な岩石。断面は貝殻状を呈し、鋭い稜を有する。原始時代より石器材料とされてきた。地質学的にはチャートの一種で、生物起原或いは無機起原の堆積性珪質岩。

「石亭(せきてい)」奇石収集家で本草学者の木内石亭(きうち/きのうち せきてい 享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)。幼名は幾六。諱は重暁(しげあき)。近江国志賀郡下坂本村(現在の滋賀県大津市坂本)の捨井家に生まれるが、母の生家である木内家の養子となった。安永四(一七五一)年に大坂に赴き、津島如蘭(桂庵)から本草学を学んだ。津島塾では稀代の本草学者でコレクターの木村蒹葭堂(けんかどう)と同門であった。宝暦六(一七五六)年には江戸に移って田村元雄(藍水)に入門、平賀源内らと交流した。十一歳の頃から珍石奇石に興味を抱き、諸国を精力的に旅して、二千種を超える石を収集した。収集した奇石の中には鉱物・石製品・石器・化石も含まれており、分類や石鏃の人工説をも唱えていることから考古学の先駆者とも評される。また、弄石社を結成して諸国に散らばっている愛好家達の指導的役割をも果たした。著作に私の偏愛する「雲根志」(十六巻。(安永二(一七七三)年に前編を、安永八(一七七九)年に後編を、享和元(一八〇一)年に三編を刊行)「奇石産誌」などがあり、シーボルトが著書「日本」を記すに当っては石器や曲玉についての石亭の研究成果を利用している(以上は主にウィキの「木内石亭」に拠った)。崑崙とは同時代人。

「是、又、論ずるに足らざるの説なり」驚くべきことに、崑崙は石鏃を実用目的の鏃(やじり)として全く認めていないことがここではっきりと判る。直後に「石鏃上品なるもの」は「弓に矧(は)げて用ひたる物にはあらず」(「矧ぐ」は「弓に矢を番(つが)える」こと。)と断じているのである。そうして、その理由として「石鏃」の中に、捕獲対象生物の体に到底深く刺さるとは思えない形状のものが沢山あるからだ、と具体的な図を示して証左としているのである。なお、私は、その崑崙の理屈は殆んど説得力を持たないと考えている。鏃は尖っていればいいというものではない。狩猟対象生物を殺す以外にも鈍体の鏃で対象生物を弱めておいて捕獲し、それを生きた状態で捕獲して暫く生かしておいたり、家畜化する場合もあるし(縄文人は犬を既に家畜化しており、死んだ犬を人間のように埋葬したりもしている)、後の犬追物(いぬおうもの)のように、単なる遊戯として殺すことなく、射弓を楽しんだ(練習した)こともあったろう。さらに言えば、高い梢の木の実を収穫するのには開いた鈍体の鏃の方が有効でさえある。ともかくも「尖っていなければ鏃ではあり得ない」という崑崙の持論は実用的科学的にも認められない主張である。

「或人、是は自然にしてなるものと云へり。是れ、莊子の見(けん)か。何にもせよ、おのれが智に及びがたきものは、皆、自然とさへ云(いへ)ば濟むやうなものなれど、物理を明(あきらか)にせんと思ふ。才氣もなく、先愚(せんぐ)に近き達論(たつろん)と云ふべし。是も、自然に成るものならば、鏃(やじり)の形のみに限るべからず。或は鉾鎗(ほうそう)・鈇鉞(ふえつ)・刀劔・戈戟(くはんくは)・鋤鎌(じよれん)・鋸刃(きよじん)等(とう)、其余(よ)、種々(しゆじゆ)の形もあるべし」面白いのは、崑崙はここで「石鏃を全く自然に形成されたものだ」とする考えも、「荘子の無為自然じゃああるまいし、あり得ない!」と拒否しているのである。しかし、どうも、「では、崑崙先生、石鏃は誰が何のために作ったのですか?」というストレートな疑問に彼ははっきりとは答えていないのである。実は最後まで読むと、どうも実は意外なことに、

崑崙は鬼神が石鏃を創ったと大真面目に信じている

らしいのである! それが次の「予是を按ずるに、鬼神(きしん)の説、明かなり」ではっきりと示されるのである!

「石弩(せきど)」一般には「弩」は「おおゆみ」のことで、専用の矢を板発条(いたばね)の力で弦により発射する大型の強力な弓。西洋で用いられた弓の一種であるクロスボウ(crossbow)とほぼ同一のものを指すが、ここは李時珍の「本草綱目」の「砭石」(へんせき:中国の鍼術で用いる石製の針の原材料の石か。焼いて血管を刺して瀉血などに用いた)に出る矢に使用するという青い自然石(後で「石弩は群石(ぐんせき)の内より、自然に片々として割飛(われと)ぶ」とあるから人工物ではない)。後注で当該部を引用した。

「霹靂石・霹靂楔・霹靂堪・雷斧、皆、此邦にあり。是は人作なるべし」この文脈には疑問がある。この頭に「霹靂石」を出し、それを「人作」としながら、その舌の干(ひ)ぬ間に直下で「霹靂石は自然也」と言っているからである。ここは一応、好意的に前のそれは衍字として無視し、後者はそれらの人造石器の原料としての「霹靂石」は「自然」石であると読んでおく。しかし、そんなこと、普通はわざわざ言わない。それを考えると、どうもやっぱり、崑崙は確信犯で鬼神の存在を肯定していることが判るのである。

「石弩」一般には「弩」は「おおゆみ」のことで、専用の矢を板発条(いたばね)の力で弦により発射する大型の強力な弓。西洋で用いられた弓の一種であるクロスボウ(crossbow)とほぼ同一のものを指すが、ここは李時珍の「本草綱目」の「砭石」に出る矢に使用するという青い自然石(後で「石弩は群石(ぐんせき)の内より、自然に片々として割飛(われと)ぶ」とあるから人工物ではない)。後注で当該部を引用した。

「霹靂石・霹靂楔・霹靂堪・雷斧、皆、此邦にあり。是は人作なるべし」どうもここがよく判らぬ。これらを人工物であると素直に認めている崑崙は、どうして石鏃類だけを除外して何とも言えない意味深長な形で留保しているのだろう? 前の土底村での怪奇体験から超自然現象としてそれを特別視しているとするには、どうも、これ、崑崙らしくなく、ありそうもない。或いは、土底での体験の背後に自分を騙す人為が働いていたのではないかという深い猜疑を持ってしまった彼が、「騙されるのだけはは癪に障って許されない」と、怪しい石鏃の起原だけを妙な形で棚上げにし、留保してしまったのかも知れない。ただ、この文脈には疑問がある。この頭に「霹靂石」を出し、それを「人作」としながら、その舌の干(ひ)ぬ間に直下で「霹靂石は自然也」と言っているからである。ここは一応、好意的に前のそれは衍字として無視し、後者はそれらの人造石器の原料としての「霹靂石」は「自然」石であると読んでおく。しかし、そんなこと、普通はわざわざ言わない。それを考えると、どうもやっぱり、崑崙にはある心理的な抑圧、「騙されるのだけは厭!」というやや病的な意識が作用しているようにも思われてくるのである。

「石弩は群石(ぐんせき)の内より、自然に片々として割飛(われと)ぶ。しかれば、此邦(くに)、石鏃の類にはあらざるべし」先に出た中国の本草学上の「石弩」を石鏃と比較し、それとは違うと否定しているのであるが、何だかひどく歯切れが悪い言い方である。

「雲母石」雲母。アルカリ金属・アルカリ土類金属・鉄・アルミニウムなどを含むケイ酸塩鉱物。多くは単斜晶系で六角板状の結晶。薄く剝がれ、光沢を持つ。白雲母・黒雲母・鱗雲母(りぬんも)など、二十数種がある。各種岩石の造岩鉱物として広く存在する。

「石燕(せきえん)」は二枚の前後の殻を持つ海産の底生無脊椎動物(左右二枚の殻を持つ斧足類を含む貝類とは全く異なる生物)である冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda に属する腕足類の化石。石灰質の殻が「翼を広げた燕(つばめ)に似た形状」であることからの呼称。表面には放射状の襞があって、内部に螺旋状の腕骨がある。古生代のシルル紀から二畳紀にかけて世界各地に棲息した(当該時代の示準化石)。中国ではその粉末を漢方薬として古くから用いた。“Spirifer”(ラテン語:スピリフェル)とも呼ぶ。いつか電子化注して見たいと思っているが、南方熊楠にはこれを考証した優れた伝承論考「燕石考」がある。

「荊州」楚の古名。現在の湖北省一帯。

「梁州」現在の四川省と陝西省漢中地方に相当する地域。

「肅愼國(しくしんこく)」満州(中国東北地方及びロシア沿海地方)に住んでいたとされるツングース系狩猟民族が住んでいた地域の名称。この呼称は周代から春秋戦国時代の華北を中心とする東アジア都市文化圏の人々(後に漢民族として統合されていく前身となった人々)が彼ら(粛慎人)の自称を音訳したものである。位置は参照したウィキの「粛慎」で確認されたい。

「靑石(あをいし)を以て矢に作る、とあり」この箇所の引用元は「本草綱目」の「石部第十卷 金石之四」「砭石」の「附錄」と思われる。

   *

石砮。時珍曰、「石砮出肅愼。國人以枯木爲矢、靑石爲鏃、施毒、中人卽死。石生山中。禹貢荊州、梁州皆貢砮、卽此石也。又南方藤州、以靑石爲刀劍、如銅鐵、婦人用作環玦。琉璃國人墾田、以石爲刀、長尺餘。皆此類也。

   *

「甚だ訝(いぶか)しき説也。此人、猥(みだり)に此論を成せりと覺ゆ。笑ふべきの甚だしきなり。」崑崙は実証主義者ではあるが、ここまで他人の引用は殆んどが徹底的に批判し否定するため、自論の餌食として引いていることが判る。案外、付き合いにくい人物だったかも知れぬ。

「かの呉人(ごひと)、燕石を包(つゝみ)て玉(たま)と成せる」出典未詳。識者の御教授を乞う。

「陸奥津輕石」津軽錦石のことか。碧玉・玉髄・瑪瑙に代表されるケイ酸質(SiO2)が主体の岩石・鉱物で多彩な色彩を持ち、錦織りのように非常に美しい。津軽の海浜に打ち上げられ、古くから高級加工材とされてきた。国名・地名を名産品に添える例として述べた。

「落星石(らくせいせき)」「星銷(ほしくづ)」以下の叙述から隕石と読める。

「左傳」「春秋左氏傳」。孔子の編纂と伝えられる五経の一つである史書「春秋」の代表的な三つの注釈書の一つ(他は「春秋公羊(くよう)傳」「春秋穀梁傳」)。紀元前七百年頃から凡そ二百五十年もの間の歴史が記されている。伝統的には孔子と同時代の魯の太史左丘明の注釈とされるが、怪しい。

「星、落(おつ)ること如ㇾ雨(あめのごとし)」例えば「春秋左氏傳」の「僖公」にデータ(秦鼎「春秋左氏傳校本」と「漢籍國字解全書」を参考としたものとある)を使用させて戴いた。「春秋左氏傳」は所持するが、このサイトのこのデータがこの注には最も相応しい)、

   *

十有六年、春、王正月、戊申、朔、隕石于宋、五。隕、落也。聞其隕視之、石。數之五。各隨其聞見先後而記之。莊七年、星隕如雨、見星之隕、而隊於四遠、若山若水、不見在地之驗。此則見在地之驗、而不見始隕之星。史各據事而書。

   *

とある。リンク先の訓読の一部を加工させて示すと、

   *

十有六年、春、王の正月、戊申(つちのえさる)、朔、石、宋に隕(お)つること、五つ。「隕」は、「落つる」なり。其の隕つるを聞きて之れを視れば、石なり。之れを數ふれば、五つなり。各々、其の聞見(ぶんけん)の先後(せんご)に隨ひて之れを記すなり。莊七年、星隕ちて雨(あめふ)るは、星の隕ちて、四遠に隊(お)つるを見るに、若しくは山、若しくは水、地に在るの驗(しるし)を見ず。此れは、則ち、地に在るの驗を見て、始めて隕つるの星を見ず。史、各々、事に據(よ)りて書(しよ)すなり。

   *]

1954ゴジラ追悼――

俳優中島春雄氏が亡くなった。   初代1954ゴジラは殆んど(一部とギニョールを除く)彼が演じた(クレジットでは手塚勝巳が併記されるが、彼はリハーサルであまりの重さに音を上げてしまい、完成作では国会議事堂シーンぐらいでしか操演していない。中島と手塚は素では新聞社の記者(中島)とデスク(手塚)も演じている)。   だから私は唯一正統の初代ゴジラの命日を、向後、8月7日とし、追悼することとする。

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート1 其一「神樂嶽の神樂」 其二「箭ノ根石」(Ⅰ))

 

    俗説十有七奇(じうゆしちき)

 

[やぶちゃん注:前章に続き、各個的に注するが、「其二」の「箭ノ根石(やのねいし)」は長く、図譜も夥しいので、適所で切って注してある。

 先に後に出る挿絵をフライングして示す

 以下は、キャプションを右から下、次いで左方向の順でオリジナルに判読した(野島出版版は画像のみで活字化されておらず、キャプションに対する注記も一切ない)。幾つかの問題点があるので、それぞれに私の注を附しておいた。句読点・鍵括弧・記号を追加した。]

 

〈一枚目右図〉

「霹靂堪(へきれきじん)」【四品。】

 俗に「石劔」。

 「雷の太皷のと云。

[やぶちゃん注:「堪」の音は「たん」が正しい。これは「堪(た)える・堪(こら)える・打ち勝つ・勝(すぐ)れる」の意で、以下の石棒を霹靂(雷)に打ち勝つ、天変に立ち向かうための呪具・聖具と考えた呼称と推定する。

「石劔」は「せきけん」。「石剣」(「せっけん」とも読む)は縄文後期から晩期にかけての遺跡などから出土する石器で、その形状が武具である剣に似ているための名称(但し、以下で述べる通り、実際に実戦用の「剣」として用いられたものとは思われない)。ウィキの「石剣」によれば、本邦では縄文中期頃以降の遺跡から出土する石棒(男性器をかたどったものだが、縄文後期になるとこうした形状の物は減る)を加工する『技術から石剣・石刀の類が造られるようにな』なったと考えられており、『石棒と同様、指揮棒として特定の人が権力を示す為に使ったとも、祭祀用具とも考えられてい』て、『実用的武具ではなかったという考えでは』『考古学研究者の』『見解は一致している。八幡一郎は、「石棒が武器として用いられたかは分からないが、あんな重い物を振り回すわけにはいかない」とし、武具ではなく、呪具と関連したものと捉えている』とある。但し、ここに描かれた物のうちの最初の三品は、「石剣」というよりも、古形の「石棒」と言った方がよいように思われる。グーグル画像検索の「石棒」「石剣」をリンクさせておく。

「太皷」は「たいこ」で太鼓と同じい。

」この判読は推定だが、太鼓の「撥」(ばち)であろう。

 

長一尺六寸余。

[やぶちゃん注:約四十八・四八センチメートル余り。]

 

八寸。

[やぶちゃん注:二十四・二四センチメートル。]

 

一尺五分。

[やぶちゃん注:三十一・八一五センチメートル]

 

長一尺三寸余。

五寸五分。

[やぶちゃん注長さは約三六・四センチメートル余り。「囘リ」は「めぐり」で円周(最大)と解釈しておく。一六・七センチメートル。]

 

「霹靂楔(へきれきけつ)」【三品。】

 俗に「大勾玉

 鬼の手形」と

      いふ。

[やぶちゃん注:「楔」は「くさび」で、その石器の一面が有意に薄くなっていることを意味しているものと思われる。「大勾玉」は「おほまがたま」。]

 

長八寸五分。両面。

[やぶちゃん注:二十五・七五五センチメートル。「両面」というのは、この図で立体感を出すことが出来なかったことを憂えた崑崙が、この石器が有意な厚さを持った恐らくは円盤状の石器で、反対側も同じ形状であることを示すために入れたのではないかと推理した。]

  此所、しのぎの下、自然薄く楔のごとし。

[やぶちゃん注:下部の「○」は記号ではなく、穴と見た

「しのぎ」は「鎬」で刀剣や鏃などの刃の背に沿って小高くなっている部分を指すから、この石器は左側の三日月型に見える部分が厚く鎬状になっており、右の楕円に見える部分が有意に薄くなって(穴さえ空けられて)楔のように見えるというのであろう。これは本文に叙述がないのであるが、以下の注で述べた通り、私はこれを主に漁具として用いられたと推定されている石器「石錘(せきすい)」の一種ではないかと考えている。石錘は平たい石を楕円形に加工し、その長軸両端に紐を掛けるための凹部を切り出してあるものが普通であるが、弥生から古墳時代の九州型のそれでは一個から三個の穿孔を施したものがあり、これは日本海ルートで伝播したと考えられ、若狭の遺跡からも出土している。]

 

〈一枚目左図〉

徑四寸余。

厚八分。

[やぶちゃん注:この石器は非常に不思議な形をしているが、この凹みは繩を懸けたものと思われ、とすれば、異形の「石錘」とも考えら得るか?

「徑」は「わたり」で直径。

「四寸余」十二・一二センチメートル余り。

「厚」「あつさ」。

「八分」二・四二センチメートル。]

 

○此二図(にづ)、上につゞく。

[やぶちゃん注:「上(か)みに續く」で、先の右の図の「霹靂楔」に続く、の意と思われる。特に下方のそれは正しく「楔」としか言いようがない形状だからである。これは或いは実際に石器を製作するために岩石に打ち込んだ石製の「楔」そのものとも考え得る形状と言える。]

 

青黑色。

 長九寸四分 厚四分余。

[やぶちゃん注:長さ二十八・四八センチメートル、厚さ一センチ三ミリメートル余り。]

 

「雷斧石(らいふせき)」【三品。】

 俗に「狐まさかり」。

 此、おほく出、

  みな、ねす灰色。

[やぶちゃん注:これらは典型的な石斧である。「狐」は形状(側面ではなく描かれた図のこちら側)が狐の顏の形に似るからか? 或いは単に野中に落ちている小さな石の斧からの「妖狐の使う小(ちっ)ちゃな鉞(まさかり)」という意味か?

「ねす灰色」「鼠灰色(ねずはいいいろ)」か?]

 

「天狗ノ飯櫂(てんぐのめしがひ)」【一品。】

 赤黑色。

[やぶちゃん注:「飯櫂」は「飯匙」(めしがひ/めしがい)で杓文字(しゃもじ)のこと。因みに全く関係ないが、「天狗の飯匙」は現在、菌界子嚢菌門チャワンタケ亜門テングノメシガイ綱テングノメシガイ目テングノメシガイ科 Geoglossaceae の茸の一群の和名でもある(黒っぽいスプーン型の茸である)。]

 

此數類、が見たる所なり。

 事余、又、異形も

        あるべし。

[やぶちゃん注:「事余」は「じよ」で「他にも」の謂いであろう。]

 

〈三枚目の図〉

「石鏃(せきぞく)」【十三品。】

 

如ㇾ此也形、甚だ夛し。

 しのぎ、するどに

  立て、能、竹木を

     けづる。

[やぶちゃん注:一行目は「かくのごときなるかたち、はなはだおほし」或いは「かくのごときなり。かたち、はなはだおほし」と読んでおくが、「也」は判読に自信がない。二行目以下は「鎬(しのぎ)、鋭(するど)に立(たち)て能(よ)く竹木(ちくぼく)を削る。」であろう。]

 

長三寸二分。如白玉。

[やぶちゃん注:長さ九・七センチメートル。「白玉のごとし」。最上段の最も大きく、優れた形をした有茎石鏃の解説であろう。]

 

○大小異形。俗に「箭の根」「矢石」と云。

 

紫・赤・靑・黑・白・黄・斑、色、皆、如ㇾ玉(むらさき あか あを くろ しろ き またら いろ みな たまのごとし) 黄土色は、夛く兼所なり。

[やぶちゃん注:「兼所」は「かぬるところ」或いは「かねるところ」で、どの色にも多く付随している色である、という意味と読む。]

 

Sekki1

 

Sekki2

 

其一 「神樂嶽(かぐらだけ)のかぐら」と云へるは、山下人(やましたびと)・樵夫(きこり)など、時有(ときあつ)て、山上、忽(たちまち)、御神樂(みかぐら)を奏する音、聞ゆと云へり。然(しかれ)ども、其所(そのところ)、分明(ぶんみやう)ならず。中越後(なかえちご)にて是を尋(たづ)ぬれば、羽州の境(さかひ)、村上山中(むらかみやまなか)と云へ、下越後(しもえちご)にて是を尋(たづぬ)れば、會津境(ざかひ)、津川の邊(ほとり)とも云へり。數ヶ年(すかねん)、其地を求むれども、未ㇾ得(いまだえず)、あるまじきことにもあらねど、重(かさね)て穿鑿を歷(へ)て、其實(じつ)を記すべし。或人、是を聞(きゝ)たりなど云(いへ)れど、牧笛樵歌(ぼくてきしようか)なんど誤まりけん、訝(いぶか)し。

[やぶちゃん注:山風や谷風によって山の反対側或いは近くの別な麓の村の音が反響して山頂から聴こえるような現象。

「然ども其所、分明ならず」以下に見る通り、一箇所を限定して指し示すことが出来ないことを謂う。

「村上山中(むらかみやまなか)」現在の新潟県北端の村上市。ここ(グーグル・マップ・データ)。出羽国、現在の山形県との境に当たるのが、朝日山地。朝日岳の主峰大朝日岳(標高千八百七十メートル)は山形県に属する。ここは私も登頂したことがある。

「會津境(ざかひ)、津川」新潟県東蒲原郡阿賀町津川附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「牧笛樵歌(ぼくてきしようか)」本来は「牧笛」は、牧童が家畜に合図するときに吹く笛であるが、ここは百姓の草刈の際に野良作業の囃子として吹き鳴らす笛や太鼓、「樵歌」は文字通り、樵(きこり)が伐採する際の木こり唄。]

 

其二 「箭ノ根石(やのねいし)」【「石鏃(せきぞく)」なり。】。諸方の好事家、已に此奇を知。其形、種々(しゆじゆ)ありて、上品なるものは紫(し)・白(はく)・靑(せい)・黑(こく)、皆、如ㇾ玉(たまのごとし)、甚だ鋭(するど)にして、込(こみ)も長し。大なるもの、八寸ばかりなるあり。二寸、三寸、四寸なるものも又、稀なり。多くは一寸ばかりなり。總て、北越所々(しよしよ)、山中並ニ古き社地・古城跡・畑(はた)などにもあり。雷斧石(らいふせき)を、まゝ交(まじ)へ出(いだ)す。又、俗に「天狗のメシガイ」と云ふ物を出す。石鏃に似て、形、異也。頸城郡には大光寺村山畑(やまはた)、神田山(かんだやま)、三島郡には圓淨湖(ゑんじようじがた)の北、京ケ入村(きやうがいりむら)・渡邊村・長者ヶ岡・竹森(たけもり)の村、古き社地あり。雪中(せつちう)に土(つち)のうちより飛放(とびはなつ)て、竹木(ちくぼく)に鑿立(えりたつ)こと、ありし。蒲原郡には伊夜日子山下(いやひこのさんか)、麓村(ふもとむら)の畑(はた)、黑滝(くろだき)の古城跡等(とう)なり。又、米山の西北(にしきた)、土底村(どそこむら)海邊(かいへん)、砂山の間(あいだ)に小池あり。此所、甚(はなはだ)夛(おほ)し。日々、小児等(ら)、其辺(ほとり)、盡(ことごと)く拾ひ盡(つ)くして、歸(かへる)と雖も、翌朝(よくてう)、又、元のごとし。一とせ、此池に遊び、其奇を試んと思ひ、一夕(いつせき)、小児等(ら)を伴ひ、かの池より、五、六丁にして池の畔(ほとり)に至り、石鏃、五ツ、六ツ、拾ひ得て歸りぬ。扨、翌朝未明に、又、独行(どつかう)してその所に至り見るに、果して、三ツ、四ツあり。其中(そのうち)、不思義なるは、半(なかば)、鏃(やじり)の形をなして、いまだ全くならざるものあり。又、水底(すいてい)所々(しよしよ)に石銷(くづ)、一ト群れづゝにして、有(あり)。皆、一片(いつへん)一片に、割(さけ)ケ飛(とび)たるがごとし。まことに此奇を見て、身毛寒慄(しんもうかんりつ)をなせり。又、何(いづ)れ社地などに、地中より飛放(とびはなつ)て、人に當(あた)れるものもあれど、敢(あへ)て損傷(そんじよう)に及ばず。又、信州境、關山(せきやま)の中(うち)にて、農家の婦(ふ)、戸外(こぐはい)に出て、浴湯(ゆあび)したりけるに、山中(さんちう)より何處(いづ)くともなく、矢響(やひゞき)して、盥(たらゐ)の中(うち)に飛入(とびいり)たり。女、驚き、立上(たちあがり)て是を見れば、大なる箭(や)の根石(ねいし)、徑(わた)り七寸計(ばかり)なるものなり。誠に、其奇、はかるべからず。

 

[やぶちゃん注:以下、本文は改行せずに続いているが、長いので、ここで一旦、切ることとする。

 この話の中で、崑崙自身の不思議な体験として、石鏃を執り尽くしたはずなのに、翌朝に行くと、拾い忘れるはずのない有意に目立つ石鏃が複数転がっている、またその中には、あたかも昨日から今日にかけて、新たに加工している途中のようなものさえも交っている、という怪異が出るが、これは海を隔てた佐渡島の怪談実録を集めた私の偏愛する「佐渡怪談藻鹽草」の中の一篇「淺村何某矢の根石造るを見る事」(既に全話をオリジナルに電子化注済み)を強く思い出させた。海峡を隔ててはいるものの、隣国であり、この類話性はすこぶる興味深い

「箭ノ根石(やのねいし)【石鏃(せきぞく)なり】」後で崑崙の描いた多量の図譜が出るが、本邦では縄文時代に弓矢の使用とともに現われ、縄文から弥生時代を通じて主に狩猟具として使われた剥片石器。材料は黒曜石・粘板岩・頁岩が多い。矢の先端の反対側に突起を伴わない「無茎石鏃」の外、傘の柄のようにそこに突起(茎)を持つものもあって、それは「有茎石鏃」と呼称する。縄文記には、原石を打ち欠いて剥片を作り、それに細部の調整を加えて製作したもので、それらの殆んどは「打製石器」に属する。弥生以降から側縁部に磨きをかけた「磨製石器」としての石鏃が増加してくる。矢柄(やがら)への取り付けは管状の植物の凹み部分などを利用し、紐などで縛って装着させたと考えられているが、有茎石鏃の場合はその突起箇所を柄に成形した凹み部分と咬み合わせることで強度を加増させたものと考えられる。既に前章の注で述べているが、東北や北海道地方では石鏃の補強や補修及び接着部からアスファルトが検出される場合も多く、現在の新潟・秋田などにあった油田地帯から湧出した天然アスファルトが、交易の結果、北日本一帯に流通していたことが判明している(以上は主にウィキの「石鏃」に拠った)。但し、実際に崑崙が図で提示するそれらは、既に掲げた通り、多様な形状をした「石鏃」もさることながら、それだけに留まらず、乳棒状の擂り粉木か突き棒のような「石棒」・「石剣」・「石矛(いしぼこ)」の類や、典型的形状を成す石斧類(「霹靂堪(へきれきじん)」・「雷斧石(らいふせき)」)、三角稜を呈した手裏剣のような特異な武具か器具のような、しかし、漁具の錘のようにも見える「霹靂楔」などにまで及んでいる

「込(こみ)」先の注で出した「有茎石鏃」鏃(やじり)を矢本体である篦(の:矢柄(やがら))の中にさし込まれる突起部分。「のしろ」とも呼ぶ。

「八寸」約二十四センチメートル。

「二寸、三寸、四寸」約六センチから十二センチメートル。

「一寸」三センチメートル。

「天狗のメシガイ」図及び前の注を参照。

「頸城郡」「大光寺村」旧中頸城郡内。現在位置不詳。識者の御教授を乞う。

「神田山(かんだやま)」上越市頸城区塔ケ崎に神田山神社があるから、前の大光寺村とともにこの附(グーグル・マップ・データ)か?

「圓淨湖(ゑんじようじがた)」既出既注。現在の新潟県長岡市寺泊下曽根附近ここ(グーグル・マップ・データ))に存在した「円上寺潟」のこと

「京ケ入村(きやうがいりむら)」長岡市寺泊京ケ入。ここ(グーグル・マップ・データ)。以下、「渡邊村」「長者ヶ岡」「竹森の村」もこの周辺ととっておき、面倒なので限定比定はしない。悪しからず。

「雪中(せつちう)に土(つち)のうちより飛放(とびはなつ)て、竹木(ちくぼく)に鑿立(えりたつ)こと、ありし」石鏃類が、冬場、雪の中で地面から飛び出して、竹や樹木に深く刺さった状態で発見されることがあるというのである。奇怪な現象である。「伊夜日子山」多数既出既注の新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦にある弥彦山のこと。標高六百三十四メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「麓村(ふもとむら)」弥彦山の南東山麓の新潟県西蒲原郡弥彦村麓。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「黑滝(くろだき)の古城跡」弥彦村麓の中のここ(グーグル・マップ・データ)。築城時期・築城主体ともに不明。一説に鎌倉末期に刈羽郡小国保から西蒲原に進出した小国氏が築いたともされる。慶長三(一五九八)年に廃城となったと推定される。詳しくは秋田城介氏のサイト「秋田の中世を歩く」の「黒滝城」を参照されたい。

「米山の西北(にしきた)、土底村(どそこむら)海邊(かいへん)」新潟県上越市大潟区土底浜。の附近(グーグル・マップ・データ)。

「小池」現在の土底地区には「天ヶ池」があり、その周辺にも池沼は散在する。

「かの池より、五、六丁にして池の畔(ほとり)に至り」「五、六丁」は五百四十六~六百五十五メートルほどであるが、ここ意味がよく判らぬ。

「身毛寒慄(しんもうかんりつ)をなせり」恐ろしさのあまり、身の毛がよだつほどに寒気とともに慄(ぞっ)としたというのである。

「何(いづ)れ社地などに、地中より飛放(とびはなつ)て、人に當(あた)れるものもあれど、敢(あへ)て損傷(そんじよう)に及ばず」どこそこの社(やしろ)の境内地内では、突然、地中から石鏃が飛び出して、参詣人や通行者に当たるという奇怪な現象が起こる場合もあるが、特にそれによって傷を受けるほどではない、というのである。これって多分、子どもの悪戯ではないの? 僕ならきっとやるもん、崑崙先生。

「信州境、關山(せきやま)」新潟県妙高市関山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「七寸」二十一・二一センチメートル。崑崙先生、これもさ、その農家の女性に懸想している、どこそこの男が覗きをしているうちにムラムラきて、しょうかたなしに男根に似た石鏃を投げたと解釈する方が、ずっと自然だと思うんですけど?

2017/08/09

北越奇談 巻之二 古の七奇

 

    古(いにしへ)の七奇(しちき)

 

[やぶちゃん注:最初の名数は前と同じく処理した(原典は一字空けで連続)。注は各項目ごとに附した。]

 

燃土(もゆるつち)

燃水(みづ)

白兎(しろうさぎ)

海鳴(うみなり)

胴(ほら)鳴

火井(くはせい)

無縫塔(むほうとう)

 

其一 燃土、焚土(えんど)なり。米山(よねやま)の陽(みなみ)、西北の濱、潟町(かたまち)のほとり、鵜(う)の池・朝日の池、同柿崎(かきざき)の裏田(うらた)の沼より出(いづ)る。又、三島郡竹森(たけもり)と云(いへ)る所、用水の溜池及(および)田の沼より出づ。其外、所々に多し。是、謂ゆる、桑田江海(さうでんこうかい)の変、上古、艸根木葉(さうこんぼくよう/くさのねこのは[やぶちゃん注:後ろの「/」以下は左ルビ。以下、同じ。]深く落(おち)重なりて、數(す)千年を積み、泥土(でいど/どろつち)のごとくなりたる物也。是を田家(でんか)の人、切(きり)上げて、日に干(ほし)、焚(たく)時は、卽(すなはち)、よく燃(もゆ)る。今尙、信州にも出(いで)、西國にもありと云へり。然れども、「日本書紀」に、『人皇三十九代天智帝七年戊辰(つちのえたつ)五月、越國進水土可ㇾ代薪油者』とあり。上古、已にが國より此一奇を出すこと、明(あきらか)なり。今年、文化庚午(かうご)まで千百四十三年に及べり。

[やぶちゃん注:「燃土」これは永らく「石炭」或いは「泥炭」とされてきたが(私は本文の叙述から今日まで何の疑問もなしに「石油」が染み込んだ腐葉土のようなもの思い込んでいた)、近年の研究では天然アスファルトnatural asphalt:土瀝青(どれきせい)。原油に含まれる炭化水素類の中で最も重質のもので、ここは地表面まで滲出した原油が、長い年月をかけて軽質分を失い、それが風雨に晒され、酸化されて出来た天然のそれ)であるとされる。既に縄文後期後半から晩期にかけて、日本海側の現在の秋田県・山形県・新潟県などで天然アスファルトは産出され発見されており、縄文人はこれを熱して、後の項に出る石鏃(せきぞく:石製の鏃(やじり))や骨銛(こつせん:動物の骨(ほね)で出来た銛(もり))などの漁具の接着や破損した土器・土偶の補修などに利用していた

「焚土(えんど)野島出版脚注には、『「えんど」と振仮名がつけてあるが、正しくは「ふんど」又は「はんど」である』とある。

「米山(よねやま)の陽(みなみ)、西北の濱、潟町(かたまち)のほとり、鵜(う)の池・朝日の池」現在の新潟県上越市大潟区潟町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「柿崎(かきざき)」前の潟町の東北の日本海沿岸にある現在の上越市柿崎区柿崎。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「三島郡竹森(たけもり)」先の柿崎より遙か東北の長岡市寺泊竹森。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「桑田江海(さうでんこうかい)の変」盛唐の詩人劉廷芝の名作「代悲白頭翁」(白頭(はくとう)を悲しむ翁(おきな)に代はる)の「已見松柏摧爲薪 更聞桑田變成海」(已に見る 松柏の摧かれて薪(たきぎ)と爲るを 更に聞く 桑田の變じて海と成るを)で知られる「滄海變じて桑田となる」(但し、実際には同じ盛唐の詩人儲光羲(ちょこうぎ)の詩「獻八舅東歸」(八舅(はつきう)の東歸するに獻ず)の最終句「滄海成桑田」(滄海も桑田と成る)を出典とすると言った方が正しいようである)の誤り。原義は「青海原が桑畑に変わるように、世の中の移り変わりが激しいこと」を言うが、ここはそうした想像を絶した物質変性を言っている。

「切(きり)上げて」地中から伐り出して地表に掘り上げて。

「人皇三十九代天智帝七年戊辰(つちのえたつ)」六六八年。

「五月、越國進水土可ㇾ代薪油者」原文に従って訓読すると「五月、越國(ゑつこく)、水土(すいど)を進(すゝ)めて可ㇾ代二薪油(しんゆ)に代(か)ゆべき者(もの)」であるが、この叙述を載せる「日本書紀」の伝本の当該箇所を私は見出すことが出来ない。識者の御教授を乞う。

「文化庚午(かうご)」文化七年。一八一〇年。崑崙の冒頭の凡例のクレジットの前年。「千百四十三年」か数えの計算であるからおかしくない。] 

 

其二 燃水(もゆるみづ)、草生津(くさふづ)の油(あぶら)、卽(すなはち)、臭水(くさみづ)の油なり。頸城郡(くびきごほり)、凡(およそ)六ケ所。然れども、その大なるものは、蒲原郡草生津村、同新津(にいつ)村、同柄目木(からめき)村、同黑川館村(くろかはたてむら)等(とう)なり。出雲崎の上蛇崩(かみじやくづれ)と云ふ所、海中に出(いづ)ツ[やぶちゃん注:ママ。「出づ」の衍字か。]。如ㇾ此(かくのごとく)、所々(しよしよ)、水中(すいちう)より、油、混じはりて、沸出(わきいづ)るを、草(くさ)にしみ付(つけ)、採ること也。然(しか)れども、如何なる油なることを知らず。水の臭きが故に「くさ水の油(あぶら)」と稱す。張華が「博物志」『石泉脂石漆(せきせんしせきしつ)』、李時珍が「本艸(ほんさう)」に『石腦油(せきのうゆ)』又『石油(せきゆ)』『山(さん)油』、「酉陽雜記(ゆうようざつき)」『石脂水』と云へる、皆、此類(たぐひ)か。今、此邦(くに)の醫(ゐ)、是を「石腦油」に當(あて)、用(もちゆ)るに、甚だ効ありと云へり。是を按ずるに、これも又、焚土(えんど)のごとく、數(す)千年前(ぜん)、松柏(しようはく)の古木大材(こぼくたいざい)、土中に落入(おちいり)たる、松脂(まつやに)の腐水(ふすい)と覺ゆ。其故は、甚(はなはだ)、油煙(ゆえん)多く、松の匂ひあり【或人云、「松脂は茯苓となり、琥珀となる、何ぞ油となるの理あらん、是は只、土中の油なるべし」と。然らず。松脂、其樹より自然に滴り落(おち)、土中に凝塊するもの、化して茯苓・琥珀ともなるべし。これは土中に含みたる松脂にして、水土の底に腐爛せるものなればなり。只、「土中自然の油(あぶら)」と云はんも暗愚の說と云ふべし。】。殊に、上古、北越は、如何なる山谷水土の変ありにしや、所々(しよしよ)、水底(すいてい)・沼田の下(した)、多く埋木(まいぼく)の大なるものを出(いだ)すこと、はかりがたし。近頃、圓淨湖水(えんじようこすい)の底、樋(ひ)、掘り拔きの所、數(す)丈の土中より、立木(たちき)のまゝなる埋木(まいぼく)數(す)十を出すと云へり。何(いづ)れ、其奇、可ㇾ察(さつすべし)。此二奇(にき)、卽(すなはち)、『可ㇾ代薪油(しんにかゆべき)』ものなり。

[やぶちゃん注:言わずもがな、石油。

「蒲原郡草生津村」旧新潟県古志郡草生津町(くそうづまち)内。現在の新潟県長岡市草生津。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「新津(にいつ)村」現在の新潟市秋葉(あきは)区新津本町周辺であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「柄目木(からめき)村」新潟市秋葉区柄目木(がらめき)。新津の南東直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「黑川館村(くろかはたてむら)」現在の新潟県胎内市のこの附近か(グーグル・マップ・データ)。

「出雲崎の上蛇崩(かみじやくづれ)」現在の新潟県三島郡出雲崎町勝見に「蛇崩丘(じやくずれおか)」という場所を見出せる。位置はマッピン・データのこちらで確認されたい。古く或いは近くに大きな崩落のあった場所には「蛇崩」の名が各地でつく。地中を巨大な蛇が移動したと考えられたり、激しい帯状の崩落の跡が蛇のように見えたからであろう。

『張華が「博物志」』晋の政治家文人張華(二三二年~三〇〇年)が撰した博物書。散逸しているが、恐らくは次の「本草綱目」の記載(張華「博物志」載、『延壽縣南山石泉注爲溝、其水有、挹取著器中、始黃後黑如凝膏、燃之極明、謂之石漆。』(下線太字やぶちゃん)からの半可通な孫引きであろうと私は思う。

『李時珍が「本艸」』明の本草学者李時珍(一五一八年~一五九三年)の著した「本草綱目」。以下は、「金石之三」に「石腦油」として項立てされてある。中文ウィキのこちらで原文が読める。その「釋名」では「石油」「石漆」「猛火油」「雄黃油」「硫黃油」を挙げるが、ここで崑崙が示す「山油」という異名は出ない。不審である。

「酉陽雜記」唐の段成式(八〇三年~八六三年)の撰になる主に怪異記事を集録した博物学的大著「酉陽雜俎(ゆうようざつそ(ゆうようざっそ)」の誤り。「卷十 物異」の以下。

   *

石漆。高奴縣石脂水、水膩浮水上如漆。採以膏車及燃燈、極明。

   *

自然流で訓読すると、

   *

石漆(せきしつ)。高奴(かうど)縣の石脂水(せきしすい)、水の膩(あぶら)の水上に浮きて漆(うるし)のごとし。採りて以つて車に膏(あぶらさ)し、及び燈(ひ)に燃(も)さば、極(いみ)じく明(めい)たり。

   *

これは確かに「石油」のことと考えよい。東洋文庫版の今村与志雄の訳注でもそう推定注されてあり(この部分の注は詳細を極める)、『現在、この地方に玉門油田(中華人共和国成立後、最初に開かれた油田)がある』ともある。「高奴縣」現在の陝西省延安市北東部を流れる延河北岸地域に相当する秦代の古い県名。後漢末には廃されている。この附近か(グーグル・マップ・データ)。

「甚だ効あり」先のリンク先の「本草綱目」の「主治」を見ると、「小兒驚風」(小児が「ひきつけ」を起こす病気の称。現在の癲癇(てんかん)症や髄膜炎の類に相当)・「瘡癬蟲癩」(疥癬や虫刺されによる皮膚の壊死をいうか)・「針箭入肉」(尖ったものが筋肉まで刺さって折れたもの状態を指すか)に処方するとある。

「松脂(まつやに)」主成分はテレビン油(C10H16)とロジン(アビエチン酸などの樹脂酸を主成分とする樹脂の総称)。因みに、石油の主成分の殆んどは炭化水素で、それに種々の炭化水素混合物が混じり、その他にも硫黄化合物・窒素化合物・金属類も含まれている。崑崙が拘るように松脂が石油になったわけではないが、構成元素は確かに同じ炭素と水素ではあるし、この反論した知ったか男の謂い方は確かにひどく気に食わない。やれ! やれ! 崑崙先生!

「茯苓」「ぶくりやう(ぶくりょう)」は漢方薬に用いる生薬の一つ。茸の一種である松の根に寄生する松塊(まつほど:菌界担子菌門菌蕈(きんじん)綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensa )の菌核を乾燥させたもの。健胃・利尿・強心等の作用を持つ。

「琥珀」植物の樹脂が化石となったもの。黄褐色か黄色を呈し、樹脂光沢を持ち、透明か半透明。石炭層に伴って産出する。

「圓淨湖水(うえんじようこすい)」野島出版脚注によれば、正しくは「圓上寺湖」であるとし、『信濃川の悪水を円上寺より隧道によって寺泊町を横断して日本海に注ぐもの』とあるが、この湖(後掲するように「潟」)は現存しない。現在の新潟県長岡市寺泊下曽根附近ここ(グーグル・マップ・データ))に存在した「円上寺潟」のことである。新潟県公式サイト内のこちらのページに、この附近は『下曽根地域付近に円上寺潟と称する』五百『ヘクタール余りの湖沼の低湿地が広がる水害常襲地帯』で、『また、地域を縦貫していた島崎川は、現在の燕市(旧分水町牧ヶ花)地先で西川と合流し、地域の用水源としても重要な機能を果たしてい』たものの、『梅雨や秋雨の頃になると』、『西川からの悪水が逆流し』、『一帯は湛水し、一大湖沼の様相を呈してい』た(これが、崑崙が「湖水」と表現した所以であろう)。『円上寺潟の干拓は』承応元(一六五二)年から『始まり、日本海への排水も計画され』『たが、丘陵地を通過すること、膨大な費用がかかることなどからその当時は、排水先を島崎川筋から西川に求めざるを得』ず、『その後、島崎川筋への排水路の整備を進め』ものの、『排水口にある村々の反対などに遭い、思うように工事が進』まなかった。そこで、寛政一〇(一七九八)年、『渡部村地内(旧分水町)から丘陵地を掘り抜き、野積村須走浜にて日本海に直接排水する計画』(排水路延長四千九十メートルの内、隧道部分は実に千百八十一メートルあった『が再び立案され』、寛政一二(一八〇〇)年より工事が始まり』、文化一二(一八一五)年『に竣工し』た。しかし、それでも『潟の完全な排水はできず』、その悲願は『明治以降の大河津分水路の完成まで』『待たなければなか』ったとある、その隧道のことをここで「湖水の底」に「樋(ひ)」を「堀り拔」いた、と言っているのだと私は読む(下線太字はやぶちゃん)。本書の刊行は文化九(一八一二)年であるから、この隧道掘削の時期と矛盾がないからである。

「數(す)丈」一丈は三・〇三メートル。] 

 

其三 白兎(しろうさぎ)は諸州共に是ありと雖も、他邦の白兎は、卽(すなはち)、其質(しつ)にして、生(むま)るゝより、白く、冬・夏ともに相同じ灰色なるは、その常なりと。越國(ゑつこく)に產する所は、春の末より秋の終りまでは盡(ことごと)く灰毛(はいげ)にして、白は絕(たへ)て、なし。冬は、卽、淸白(せいはく)に雪の凝(こ)れるがごとし。春・秋も尙、斑(まだら)なるものだに見ず。去(さんぬ)安永年中、古志郡(こしごほり)の内(うち)より、黑頭(くろかしら)の白兎を出(いだ)せしことあり。近世に至ては、奧羽、又、信州・加賀・越中・佐州などにも、白兎、が國のごとしと云へり。然(しか)れども、「年代實記」に、『寶龜五甲寅從越國獻白兎』とあり。此國、他邦に先立(さきだ)ちて、奇と稱すること、如ㇾ此(かくのごとし)。凡(およそ)三奇、今、猶、諸州に同類出ると雖も、證書(しようしよ)、明(あきらか)なるを以(もつて)、他邦の產は盡(ことごと)く越國(ゑつこく)の餘流と云ふべし。

[やぶちゃん注:これは冬季に雪深い越後なれば、そこに棲息する野兎(哺乳綱ウサギ目ウサギ科ノウサギ属ニホンノウサギ Lepus brachyurus )の体得した保護色に過ぎないと思われる。

「安永」一七七二年~一七八一年。

「古志郡」旧越後国の同郡は現在の長岡市の一部・小千谷市の一部・見附市の一部に当たる。位置や歴史(非常に古くは越中国に属した)はウィキの「古志郡」で確認されたい。

「佐州」佐渡国。

「年代實記」不詳。野島出版脚注にも『この名の本は明らかでない』とある。幾つかの文字列の組み合わせで試してみたが、ネット上でも掛かってこない。

「寶龜五甲寅從越國獻白兎」「寶龜五甲寅(きのえとら)、越國より白兎(はくと)を獻ず」。] 

 

其四 海鳴(うみなり)は晴天と雖も、雨ならんとする時、已海潮の響(ひゞき)、五、六里に聞へ渡りて、南にあり。風雨の日も晴んとする時は、北に聞ゆ。是を以つて、國人(くにうど)、陰晴(いんせい)を占ふ。今、九州灘是と類(るい)する所ありと云へり。然(しか)れども、が國、此(この)奇、先達(さきだつ)て有(ある)により、今、好事の者、九州灘の中に聞出せりと覺ゆ。是を按ずるに、數十里の海潮、大山(たいさん)の插(さしはさ)むところ、必ず、汐の差引(さし)き、直流(ちよくりう)すること、あたはず。相戰(あひたゝかひ)て此響(ひゞき)をなせるなるべし。然(しか)れども、陰晴(ゐんせい)に、其氣、自然と南北すること、北越の海に限る、と云へり。故に以(もつて)、奇となすか。唯、享德年間の舊記に此奇を擧げたるを見る。

[やぶちゃん注:これは激しい上昇気流や逆転層などの海域の大気上の変化によって、通常は聴こえない遠くの岩礁や暗礁或いは岩礁性海岸にぶつかる波濤の音が、ごく近くで聴こえる現象のように思われる。遠雷の可能性を挙げる方もおられようが、崑崙は「海鳴」「海潮」「汐の差引(さし)き、直流(ちよくりう)すること、あたはず。相戰(あひたゝかひ)て此響(ひゞき)をなせるなるべし」等、完全に海の波の砕ける音として述べており、「雷の音」と思われるような記載は一切していないことから、それは排除されると思う。また、天候が悪化するのは上昇気流につきものである。私は高山の山頂で下界の市街の音がびっくりするほどすぐそこのように聴こえるのを何度か経験したが、概ね、その後に雨雪となった。

「九州灘」玄界灘のことか。後の「汐の差引(さし)き、直流(ちよくりう)すること、あたはず。相戰(あひたゝかひ)て此響(ひゞき)をなせるなるべし」辺りからは周防灘とも思われなくもない。

「享徳」一四五二年から一四五四年。足利義政の治世。

「舊記」不詳。] 

 

其五 胴鳴(ほらなり)は秋晴(しうせい)の日、風雨ならんとする時、必、是を聽く。例へば、雲中(うんちう)より雷(らい)の轟き落(おつ)るごとく、雪の高山(かうざん)より雪崩れ落(おつ)るがごとき聲ありて、何處(いづ)くとも定めがたし。頸城郡には黑姬嶽(くろひめだけ)と云へ[やぶちゃん注:ママ。]、蒲原古志の邊(ほとり)には蘇門山(そもんざん)淡ケ嶽(あはがたけ)とも云ふ。又、岩船郡(いはふねごほり)には村上(むらかみ)外道山とも云へり。其響(ひゞき)、更に遠近(えんきん)なし。俗の諺に、昔、奧州阿部の族徒、黑鳥兵衞(くろとりひやうゑ)と云へる者あり。八幡太郞義家のために討(うた)れ、其頭(かしら)と胴(どう)と兩斷して埋(うづ)む、と【今、蒲原郡鎧潟の辺、黑鳥村八幡の神社あり。其下、時々震動して、此音をなす。】然(しか)るに、其胴、其頭と合(がつ)せんことを欲して此鳴動をなせりと云へ傳ふ。一笑すべし。今は、此奇、稀に聞(きく)ことなり。只し、黑鳥の村、二、三里の間(あいだ)は、今、猶、此動鳴(どうめい)ありて、其方角、紛ふべくも在ず、黑鳥八幡の社地なり、と云へり。又、黑鳥村の人は、前々(ぜんぜん)より、更に此鳴動を聞こと、なし。他(た)に出るときは、卽(すなはち)、聞(きく)。是、又、一奇なり。近頃、丙寅(へいゐん)の秋、米山(よねやま)より西北の海邊(かいへん)にて聞(きゝ)しは、山の鳴るにあらず、海潮の響、地に接して、此動鳴をなすなるべし。是を以(もつて)按ずるに、頸城郡の海は能登の北涯(ほくがい)を外(はづ)れ、佐州の南浦(みなみうら)を離(はな)れて、大洋數(す)千里の海潮、玆(こゝ)に、的(てき)する所なれば、此響(ひゞき)をなす、と覺ゆ。是、卽、數(す)千里の外(ほか)、風雨氣(き)ざし起こる時は、其氣、海上を走りて、地に徹接(てつせつ)する所、即、其氣、地を押し、山谷(さんこく)に徹して、鳴動す。凡(およそ)、氣を以つて氣を製[やぶちゃん注:ママ。「制」。]するとは、此理(り)にして、方(まさ)に風(かぜ)ならんとする時は、窓戸(そうこ)先(まづ)ツ鳴り、雨ならんとする時は、煤(すゝ)、自然に落(おつ)。頭(かしら)痒く、氣鬱(きうつ)し、魚(うを)、躍(おど)り、猫兒(びようじ)獨り、狂ふ。是、自然にして、其氣、先(まづ)ツ押至(おしいた)るものなり。されば、晴天、波(なみ)風、靜かなる折にも、浦々(うらうら)、胴鳴(どうめい)する時は、必、風雨あり。胴鳴(どうめい)と云へるは、胴(どう)に響(ひゞき)て鳴るゆへに名付(なづけ)しならん。此義を以つて擦(さつ)[やぶちゃん注:漢字はママ。]すれば、越後にのみ限るいはれ、なし。他邦、いまだ穿鑿の至らざる所か。只し、地勢によるか、黑鳥の一奇か。

[やぶちゃん注:これは崑崙も疑義を挟んでいるように(崑崙は最終的に「海鳴」と同じ現象と断じ、それが陸の山地地形によって増幅されたものと考えているようである)、「海鳴」との差異が明確でない。当初、私はまず、遠雷の可能性を考えた。次に「胴鳴」という呼称から、ある程度、有意に地下或いは海底の下方などで発生するものと考え、その場合は、天然ガス(「其七」の火井(かせい)を参照)或いはメタンガス等、又は、近年、多量の埋蔵が確認されているメタンハイドレートの圧力の高まりによる爆発音或いは土中空所等でのそれらの自然発火を想定した。最後に、断層帯などのある場所で発生する地鳴り(或いは地震のプレ現象)と考えた(しかし、崑崙は、その鳴動のある地域で、遙か以前或いはその後に大きな地震が発生し、ひどい災害を受けたなどということは一切記していない。ただ、地震災害のスパンは長いから、崑崙がたまたま経験しなかったことの方は特におかしくはなく、かのかつての大規模な新潟地震は私自身の記憶にも鮮明ではある)。しかし不審なのは、何よりも近代以降、こうした体験事実(特にが原因とするなら)が聴こえてこないことである。本当にそうした自然の地中の化学物質によって爆裂震動などの現象が起こっていたのであれば、それは近代の諸記録にも記され、公機関はその異常音に危険性を察知し、速やかに調査するはずであろうが、そうした新潟県での事実を私は寡聞にして知らないことである。但し、の地震災害調査予防のための調査は行われており、新潟薬科大学非常勤講師(地学担当)の河内一男氏の「地震鳴動(地鳴り)予知された地震」には、何と! §2 橘崑崙著『北越奇談』に見る鳴動」という章でこれを『小規模地震に関連した地震鳴動』の江戸期の科学的古記録として位置付けておられる。必読!

「頸城郡には黑姬嶽(くろひめだけ)」新潟県糸魚川市にある黒姫山(くろひめやま)。標高千二百二十一メートル。

「蒲原古志の邊(ほとり)には蘇門山(そもんざん)淡ケ嶽(あはがたけ)」先の河内の記載から、守門岳(すもんだけ:新潟県魚沼市・三条市・長岡市に跨る標高千五百三十七・二メートルの山)と粟ケ岳(あわがたけ:新潟県加茂市と三条市の境で新潟県のほぼ中央にある標高千二百九十三メートルの山)と判明。

「岩船郡(いはふねごほり)には村上(むらかみ)外道山」原典では「外道山」のルビが黒く抜け落ちている。やはり、先の河内氏の記載から新潟県村上市山辺里(さべり)にある下渡山(げどやま)と判明。標高二百三十七・八メートル。なお、以上の山の位置も河内氏のページの地図に総て示されてある。

「奧州阿部」安倍貞任(さだとう 寛仁三(一〇一九)年~康平五(一〇六二)年)及びその弟宗任(むねとう 長元五(一〇三二)年~嘉承三(一一〇八)年:鳥海柵の主として「鳥海三郎」とも称された)の一族。兄貞任は前九年の役で源頼義・義家父子と戦って敗死し、弟宗任は降服、義家によって都へ連行され、四国の伊予国に配流、治暦三(一〇六七)年には筑前国宗像郡筑前大島に再配流させられた。

「黑鳥兵衞(くろとりひやうゑ)」ウィキの「黒鳥兵衛」によれば、『越後国の伝説上の人物』とする。『伝説によれば、平安時代の後期、安倍貞任の残党であった黒鳥兵衛は越後国へ入ると』、『悪逆非道の限りを尽くし、朝廷の討伐軍をも打ち破った』。『困り果てた朝廷は、佐渡国へ配流となっていた源義綱』(?~長承三(一一三四)年?:頼義の子で義家の同母弟。後三年の役には下向せず、以後義家に代わって朝廷に重用された。天仁二(一一〇九)年に実子義明が源義忠暗殺の嫌疑で殺害されたのに怒り、出京したが、追捕され、佐渡に配流となった。歴史的には帰京後に自殺したとされている)『を赦免し(あるいは源義家とも言う)黒鳥兵衛の討伐に当たらせた』。『黒鳥兵衛は妖術を使って抵抗するが、次第に追い詰められ、現在の新潟市南区味方の陣に立てこもった。当時、このあたり一帯は泥沼で、容易に歩ける場所ではなく、攻めるに難しい陣であった』。『攻めあぐねていた源義綱は、ある日、一つがいの鶴が木の枝をくわえて来ると、それを足に掴んで沼の上を歩くのを見た。「これこそ神の御加護」と、かんじき(竹などで作った輪状又はすのこ状の歩行補助具で、足に着け、雪上や湿地などで足が潜らないようにする。)を作り、兵に履かせて一気に攻め込んだ。不意を突かれた黒鳥兵衛は、ついに討ち取られ、首をはねられた』。「かんじき」発明の始祖とされ、『かんじきの緒を立てた場所が現在の新潟市西区黒鳥緒立』とされ(ここ(グーグル・マップ・データ)。以下の地名もこの周辺に集まっている。地図を拡大されたい)、『黒鳥兵衛の斬られた首の落ちた所が現在の新潟市西区黒鳥である』と伝え、『これが、黒埼という地名の起源となった』という。『黒鳥兵衛の首は塩漬けにされ、埋めた場所に首塚が造られ』、『この地に鎮護のために建てた祠が緒立の八幡神社である』とされる(ここ(グーグル・マップ・データ)先の地図内であるが、先の地図ではこの神社は示されないので再度、リンクさせた。「新潟市文化スポーツ部文化政策課」公式サイト内の「緒立八幡宮」のページも是非、参照されたい)。『塩漬けの首により、塩分を含んだ水が地中から湧き出している』とされ、これが現在の緒立温泉(鉱泉)であるという。ここに本記載の内容が出、時折、『空に轟音が轟くことがあるという。人々は、首を切られた黒鳥兵衛の胴が首を求めて咆哮すると言い、「胴鳴り」と呼んで恐れた』とある。『このように、黒鳥兵衛の伝説は越後国一帯を舞台とする壮大な軍記物で、伝説ゆかりの地は、新潟市黒埼地区を初め、新潟県北部に広く分布する。緒立からは緒立遺跡や的場遺跡といった古い住居跡が見つかっているが、黒鳥兵衛伝説は史実に基づくものではなく、後世の創作と見られている』とある。こういうピカレスク・ロマン、とっても好き!

「蒲原郡鎧潟」現在の新潟市西蒲区鎧潟にあったかつてあった面積約 九平方キロメートルの潟。文政年間(一八一八年~一八三〇年)に長岡藩によって干拓が始められ、明治末期までに半分が耕地となった。但し、ここは先の黒鳥地区からは南南西に十一キロも離れていから、「黑鳥村八幡の神社あり」というのはちょっと解せない。現在、新潟市県新潟市西蒲区巻甲(鎧潟の南西近く)に八幡宮(といっても、ただの小さな石の祠。個人サイト「新潟県神社探訪」のこのページを参照)はあるにはあるが、新しい(刻印は昭和五(一九三〇)年七月という)。これは潟の完全干拓後に移されたものと考えてよいように思われるが、にしても黒島と鎧潟の距離は如何ともしがたい。識者の御教授を乞う。

「丙寅(へいゐん)」文化三年丙寅(ひのえとら)はグレゴリオ暦一八〇六年。

「米山(よねやま)」既出既注。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「佐州の南浦(みなみうら)」前に「能登」半島を指してあるから、佐渡島の小佐渡の本土側を広域に指していよう。

「的(てき)する」目指す。対馬海流の中の本土側の流れは能登を舐めて富山湾沖を回って佐渡海峡を北上する。

「徹接(てつせつ)する」野島出版脚注に『つきさゝる』とある。

「此理(り)にして」「此」は強調の「これ」であろう。

「風(かぜ)ならん」後の「雨ならん」とともに、プレの状態(風が吹かんとしている直前、雨が降ろうとしている直前)を指している。

「先(まづ)ツ」以前にもあったが、これは以降にもまま見られるから、これは例えばこの場合、「まづ」の積りで「先ツ」と本文を刻印したにも拘わらず、ルビだけを集中して後から彫った結果、ダブった、結果的に衍字となってしまったものであろうと私は推測する。以後に出ても注記はしない。

「頭(かしら)痒く」原典・野島出版版ともに「痒く」は「かゆく」と平仮名。推定して漢字化した。

「猫兒(びようじ)」子猫。ここまでは、大気圧や気温・湿度の変化を、人の器官や心理及び動物が事前に察知(予兆)すること(それを崑崙は「其氣、先(まづ)ツ押至(おしいた)る」と言っているのである)を示している。

「胴鳴(どうめい)と云へるは、胴(どう)に響(ひゞき)て鳴るゆへに名付(なづけ)しならん」崑崙先生に諸手を挙げて賛同する。黒島の胴体が鳴るというのは洒落にもならない、あまりに牽強付会の駄解釈である。] 

 

其六 無縫塔(むはうとう)は蒲原郡河内谷(かはちだに)陽谷寺(やうこくじ)門外、溪流數十尋(すじうじん)の渕(ふち)囘(めぐ)りて、百歩ばかりの間(あいだ)、岸、平かに、亂石(らんせき)、磊落(らいらく)たり。此寺、住僧入寂三年の前、必、此渕より墓所の印(しるし)となせる石一ツ、岸の上に上ぐることなり。其石、常躰(つねてい)の石に異なるにもあらねど、自然にして來徃(らいわう)の人、誰(たれ)云ふとなく、「是こそ無縫塔なり」と。衆目の指す所、皆、一(いつ)なり。其奇怪、如何なることとも量りがたし。一たび、衆人の名付(なづく)るより、其石、幾度(いくたび)、渕に抛入(なげいる)れども、一夜(いちや)にして、また、もとの所に上げ置く、となり。先年、住職の和尙、其石を渕に投入(なげいれ)て曰、「我、大願あり。いまだ死すべからず」とて、其場より、寺を出(いで)て、再び歸らざりしに、命(いのち)恙(つゝが)なく、長壽なりし、と云へり。其奇、甚(はなはだ)し。此所に到りて、寺の墳墓を見るに、已に其石、十四、五、並(なら)べり。余(よ)は常の無縫塔、人作(じんさく)なり。信州四部(しぶ)の溫泉寺(をんせんじ)、此奇と相同じと云へ[やぶちゃん注:ママ。]傳ふ。予いまだ其地に至らず。知る人に詳しく聞得(きゝえ)しに、水底(すいてい)より無縫塔の形を  作りなして上ぐると云へり。甚(はなは)、訝(いぶか)し。追(おつ)て考ふべし。只し、此一奇は怪と云ふべきのみ。

 

[やぶちゃん注:部分には、以下の画像が入る(今まで通り、野島出版のもの。早稲田大学古典データベースのものは許可を得ないと使用出来ない)。原典のものはもっと太目である。但し、無縫塔(卵塔)の形状としてはこの野島出版のものの方がよく模していると言える。但し、頭頂部はこんなに有意には尖らないので注意されたい 

Muhoutou_6
なお、
この話、崑崙も最後に言い添えている通り、この古えの七奇の中で、自然現象としては唯一全く説明出来ず、人為によるものでないとすれば、確かに純然たるただ一話の怪奇譚と言える。しかし、どうもこれ、私には、檀家或いは土地の者の中に、代々、そういう闇の予兆を司る者がいたのではないかなどとも思うのである。その証拠に、例として崑崙の挙げた、石が上ると同時にここを去った和尚は長寿を全うしている。石が上るのが、死の三年も前というのもはたから見ると間が抜けているように見えるが、しかし、死病でもないのに寿命を三年に限られておいて平然と住持を続けるというのも僧とは言え、はなはだ苦痛であろう(少なくとも私なら苦痛である)。気にくわない住持を追い出すため、或いは、心理的に追い詰めて精神的に弱らせて死に至らせるか、実際に殺害に及んだケースもあるやも知れぬ。後に俗説の「奇」の中に「即身仏」が出るが、即身仏の木乃伊(ミイラ)の一部は秘かに霊薬とされ、実際に売買されたようである。また、東北に限らず、本邦では国外からの旅人などの行路死病人や、放浪してきた異邦人を確信犯で殺害し、それを、洒落ではないが、即席に、即身仏化、ミイラ化して、それを即身仏の妙薬として売っていた事実が実は確かにあったと思われる。そんなことを派生的に想像してみると、ますますリアルにホラーではないか。まんず、この寺の実在が不明なのをいいことに勝手に感想を記させてもらった。悪しからず。

「無縫塔」若い読者のためにウィキの「無縫塔」を引いておく。『主に僧侶の墓塔として使われる石塔(仏塔)』で、『塔身が卵形という特徴があり、別に「卵塔」とも呼ばれる。また』、広義に古くより普通の『墓場のことを「卵塔場」と』も称する。『形式としては二種類あり、一つは基礎の上に請花をのせ、その上に丸みをおびた長い卵形の塔身をのせるものである。もう一つは、基礎の上に六角または八角の竿と呼ばれる台座の上に中台、請花、卵形塔身がのる。卵形塔身は前者のほうが長く、後者は低い。基礎の下には脚、返花座(かえりばなざ)が据えられることが多い。また、竿、中台、請花には格座間などの総力が施されている場合がある。卵形塔身は、時代によって形が微妙に変化する。なお、この卵形塔身に縫い目がない(一つの石だけで構成されている)ことから無縫塔の名がある』(各部の配置はリンク先を参照されたい)。『中世期の石塔は、それまでのもろい凝灰岩から硬質の花崗岩や安山岩の利用といった材質の変化、また関東に入った大蔵系石工の活躍、技術の進歩、大陸から入った禅宗を含む鎌倉新仏教の台頭などによって、複雑な形を持った新たな形式が数多く登場した。平安期からの五輪塔をはじめ、鎌倉期には宝篋印塔、板碑、狛犬などが新たに造られるようになった。 無縫塔も、鎌倉期に禅宗とともに大陸宋から伝わった形式で、現存例は中国にもある。当初は宋風形式ということで高僧、特に開山僧の墓塔として使われた。近世期以後は宗派を超えて利用されるようになり、また僧侶以外の人の墓塔としても使われた。 現在でも寺院の墓地に卵塔が並んでいたら、ほぼ歴代住持の墓である』。但し、この話の怪石は自然石で、村人がその川から自然に岸に上って来る妖石を「無縫塔」と呼んでいるものなので注意されたい。

「蒲原郡河内谷(かはちだに)陽谷寺(やうこくじ)」現在の新潟県五泉市川内(かわち)にある曹洞宗雲栄山永谷寺(ようこくじ)の誤りである。同寺の公式サイトの「アクセス」の地図を見られたい(グーグル・マップ・データにはポイントされていないからである。「ストリートビュー」のここで、辛うじて、寺の名を記した門前の写真が見られる。この写真にある川が、ここに出る川と考えてよかろう)。ぽんぽこ氏のブログ「新潟県北部の史跡巡り」のおぼと石五泉市で、この寺を本話の舞台としておられ、その淵から揚がる石を「おぼと石」と呼ぶとある。本歩柑子は大高興氏なる方の「北越奇談」の現代語訳から引用をされており、その冒頭は『中蒲原郡河内谷、陽(永)谷寺門外の渓流数』十『尋(ひろ)』(七十メートルほど)『のふちを回って、百歩ばかりの間は平になっていて、岩石がうず高く積っております』。『この寺の住僧が死ぬ』三『年前までは、必ず毎年ふちから墓印のついた石が一つずつ岸に上がります』(以下略)とあるから間違いない(なお、私は「北越奇談」の現代語訳があるということは情報としては知っている。しかし、所持していないし、買うつもりも、ない。本電子化をすべて終えた後になら買ってもいいとは思っている。私は本書に限らず、原文を載せないただの現代語訳というものに対して、生理的な激しい嫌悪感を持っているからである)。そこに画像で示された現地の説明板「オボト石」によれば、雷城(いかずちじょう:新潟県五泉市雷山(いかづちやま)に築かれた中世の山城。築城時期・築城主ともに不明。戦国時代には越後と会津蘆名氏との領界の城として重視され、天正一七(一五八九)年に蘆名氏が伊達氏に滅ぼされると同時に廃城となっている)落城の際、城主の一人娘菊姫が東光院淵に身を投じたが、永谷寺の大潮和尚の功徳によって成仏し、淵の龍神と化したという(「成仏」して「龍神」というのは私にはやや解せぬ)。それに感謝し(感謝して死を告げるというのも私には解せぬ)、歴代の住職が亡くなる七日前になると、淵から墓石となる丸い石を届けるようになったという。村人達はこの石を「オボト石」と呼び、毎年、般若会には見知らぬ女性が法会の席に座っており、これは菊姫の化身がお参りに来ると伝えられているとある(「越後村松 桜藩塾」という署名が最後にある)。「おぼといし」は「むほうとう」と発音が似ている。

「數(す)十尋(じん)」水深としての一尋(ひろ)ならば六尺で約一・八メートルであるが、これでは深過ぎる。淵の周囲の距離としておこう。百八メートル前後か。永谷寺の西方山下には早出川というが川が流れてはいる。

「磊落」原義使用で、石が多く積み重なっているさま。

「已に其石、十四、五、並(なら)べり。余(よ)は常の無縫塔、人作(じんさく)なり」ということは、人が彫った無縫塔以外に、そうでない自然石に見えるものが、十四、五も卵塔場(この場合は住職その他のその「陽谷寺」関連の僧侶の墓所という狭義の意で用いた。一般に寺僧の墓は墓所の中でも一定区画に纏められてある)に存在したと崑崙は言っているのである。しかし、この寺の創建が古いものであったとすれば、古えの僧の無縫塔が風化して自然石のように見えたとも解釈可能ではある。粗悪な砂岩などを用いれば、風雨にさらされれば短期で崩落してしまうからである。

「信州四部(しぶ)の温泉寺(おんせんじ)」現在の長野県下高井郡山ノ内町(まち)にある渋温泉の横湯山温泉寺。嘉元三(一三〇五)年、京の臨済宗東福寺の虎関師練国師が草庵を建てて温泉の効能を教え、弘治二(一五五六)年に佐久曹洞宗貞祥寺から節香徳忠禅師を招いて開山、武田信玄が永禄七(一五六四)年に伽藍を寄進し、寺の紋を武田菱とした。川中島の戦いの折りには武田方の湯治場となっていた(ウィキの「山ノ内町に拠る)。]

 

 

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[やぶちゃん注:北斎のもの。右中央上に「入方村 火井の図」のキャプション。]

 

 其七 火井(くはせゐ)、三條の南一里ばかり山の麓、入方村(によほうじむら)【卽、入方寺村なり。又、妙法寺、又、如法寺とも云ふ。】某(それがし)と云ふ百姓の家、炉(ろ)の角(すみ)に石臼を置き、其穴に竹を差し、火をかざせば、卽、声ありて、火移り、盛(さかん)に燃(もゆ)ること、尺ばかりならん。縱橫に竹を組み上ぐれば、其竹の孔(あな)ごとに、皆、火、燃ゆる。竹を少し引(ひき)上ぐれば、央(なかば)は火絕(たへ)て、無く、上にばかり、火、盛んなり。皆、土中より登れる氣の燃ゆるなるべし。一說に硫黃(ゐわう)の氣と云へれど不ㇾ然(しからず)。硫黃は、卽、火遠く土中に入(いり)て、地中も又、燃(もゆる)なり。是は、必、臭水油(くさみづあぶら)の氣なるべし。凡(およそ)、國中(こくちう)、是に類する所、甚だ多し。柄目木村(からめきむら)、卽、入方村(によほふじむら)に同じ。寺泊大和田山(おほわだやま)の間(あいだ)、少しの水溜(みづたま)りありて、冷水なれども、常に湯の沸くがごとく泡立(あはだち)てあり。是に火をかざせば、忽、然(もゆ)る。その他(ほか)、栃尾(とちを)の鄕(ごう)比禮(ひれ)と云ふ所、山澤(さんたく)の水に火をかざせば、水上に、火、燃(もゆ)る。魚沼郡一ノ宮村山間(やまあい)の澗流(かんりう)に火を移せば、三尺ばかり上にて、火、燃ゆる。古志郡見附川(みつけがは)、舟渡(ふなわたし)ある所、川原(かはら)の砂に管(くだ)を刺し、火をかざせば、幾所(いくところ)も燃(もえ)て不ㇾ絶(たへず)、甚(はなはだ)夜行(やこう)に便(たより)あり。其余(そのよ)、所々(しよしよ)に多し。頸城郡(くびきごほり)上野尾(うへのを)の原(はら)、谷間より風の出る洞(ほら)ありて、火を移す時は、忽、空中に、火、燃(もゆ)ること、如車輪(しやりんのごとし)。又、同郡(ぐん)[やぶちゃん注:ここまで他は総て「郡」は「こほり」「ごほり」であるので特異点の読みである。]吉村(よしむら)、大滝氏(おほたきうじ)、近來(きんらい)、井(ゐ)を掘(ほり)しに、烟草(たばこ)の吹殼(ふきがら)より火移り、井中(ゐのうち)く燃上(もえあが)りて、數日(すじつ)消えず。甚(はなはだ)奇なり。水戶赤水(みとせきすい)先生、此一奇を以つて甚(はなはだ)賞す。卽、「琅耶代醉(ろうやたいすい)」に火井(くはせゐ)の說を擧(あ)ぐ。又、「大明一統志(だいみんいつとうし)」にも、『蜀地(しよくち)雲南(うんなん)に有火井不過二三所(くはせゐあり にさんしよにすぎず)』[やぶちゃん注:後半返り点なしはママ。]とあり。赤水(せきすい)の「奧羽記行」に、卽身佛・逆竹(さかさだけ)・八房梅(やつふさのむめ)等(とう)を七奇に擧げて、『越人、是等の白癡(たはけ)を奇と思へるも可ㇾ笑(おかし)』と謗(そし)れり。甚だ誤れるならずや。赤水、偶(たまたま)、此國至り、農夫・商客等(ら)の蒙說を聞(きゝ)、北越には人なきがごと、思へたるなるべし[やぶちゃん注:ママ。]。何ぞ再び、知者を求めて尋ね聞(きか)ざるや。赤水の博識には淺々(あさあさ)しき說と云ふべし。又、此火井(くはせい)を賞して、『是、陰火にあらず、陽火にあらず』と云へり。是、又、誤れり。硫黃の火を以(もつて)是に移せば、卽、燃(もゆ)る。是、陽火にあらずして何ぞや。陰火は陽火に遇ふ時は、忽、消(きゆ)るものなり。

 右は古の七奇なり。

[やぶちゃん注:これは天然ガスである。石油が地熱で温められて気化し、概ね、地層が地上に向かって山型に曲がった部分に溜まったもので、成分の殆んどはメタン(CH)で、有害な一酸化炭素は含まれていない。空気より軽いため、家屋内では高い所(天井)に貯留する。「臭水油(くさみづあぶら)の氣なるべし」という崑崙の認識は科学的も正しい。

「入方村(によほうじむら)【卽(すなはち)、入方寺村なり、又、妙法寺、又、如法寺とも云ふ。】」現在の新潟県三条市如法寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「竹を少し引(ひき)上ぐれば、央(なかば)は火絕(たへ)て、無く、上にばかり、火、盛んなり」これは、竹を有意に引き上げた際には、引き上げた際に臼と竹筒の隙間から酸素が多く供給されて完全燃焼するから、燃える炎の中心部分(芯)が青く透けて燃えていないように見える、ということのように私は読んだ。

「硫黃は、卽、火遠く土中に入(いり)て、地中も又、燃(もゆる)なり」崑崙が温泉地などで黄色くなった高熱の噴煙孔を観察した際の認識に基づくものか?

「柄目木村(からめきむら)」既出既注。新潟市秋葉区柄目木(がらめき)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「寺泊大和田山(おほわだやま)」地域名としては現在、新潟県長岡市寺泊大和田がある(ここ(グーグル・マップ・データの航空写真))。この地域か、その周辺のピークを指すか。この地区と北の寺泊の本地区との間には、上記のリンク先を地図に切り替えて見ると、確かに現在でも数箇所の池沼らしきものを確認出来る。

「栃尾(とちを)の郷(ごう)比禮(ひれ)」現在の新潟県長岡市比礼。ここ(グーグル・マップ・データ)。東直近に栃尾地区が広がる。

「魚沼郡一ノ宮村」現在の新潟県小千谷市内(ここ(グーグル・マップ・データ))ではあるが、それ以上の限定が出来ない(合併前の旧村名などから推理したが、結局、だめであった)。識者の御教授を乞う。

「澗流(かんりう)」野島出版脚注に『谷川の流れ』とある。

「古志郡見附川(みつけがは)」地名からは現在の新潟県見附市(ここ(グーグル・マップ・データ))であるが、同市内を流れる渡しの必要な大きな河川は現在は刈谷田川(やりやたがわ)という名である。それ以上の「舟渡(ふなわたし)ある所」の「川原(かはら)」までは比定不能。識者の御教授を乞う。

「頸城郡(くびきごほり)上野尾(うへのを)」不詳。全くお手上げ。識者の御教授を乞う。

「同郡(ぐん)吉村(よしむら)」不詳。全くお手上げ。識者の御教授を乞う。

「大滝氏(おほたきうじ)」不詳。

「水戶赤水(みとせきすい)先生」崑崙と同時代人である水戸藩の地理学者で漢学者でもあった長久保赤水(享保二(一七一七)年~享和元(一八〇一)年)のことか。本名は玄珠。常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)出身。農民出身ながら、水戸藩第六代藩主徳川治保(はるもり)の侍講となり(就任は安永六(一七七七)年)、安永三(一七七四)年に日本地図「日本輿地路程全図(にほんよちろていぜんず)」を作成、五年後の安永八年にはそれを修正した「改正日本輿地路程全図」初版を大坂で出版している。これは、日本人が出版した日本地図としては初めて経緯線が入った地図で、作成者名から通称「赤水図」と呼ばれている。その後もマテオ・リッチの地図を参考に日本の島嶼などを加筆した世界地図「地球万国山海輿地全図説」(天明五(一七八五)年頃)を刊行したり、遠く第二代水戸藩主徳川光圀が編纂を始めた「大日本史」の「地理志」の執筆など行った博識の才人である。彼は宝暦一〇(一七六〇)年、四十四歳の時、東北地方(奥州南部と越後)を二十日間に亙って旅し、それから三十二後の晩年、寛政四(一七九二)年に旅行記「東奥紀行」を著している(以上はウィキの「長久保赤水」に拠った)から、ここの批判的記載はそれに基づくものか。

「琅耶代醉(ろうやたいすい)」野島出版脚注に『四十巻。明の張張鼎思が撰したもので経史の考証を随録したものだという』とある。いろいろ検索して見たが、それ以外のことは判らなかった。

「大明一統志(だいみんいつとうし)」明朝の全域と朝貢国について記述した地理書。九十巻。李賢らの奉勅撰で一四六一年に完成。

『赤水の「奧羽記行」』先に注した寛政四(一七九二)年刊の「東奥紀行」のことであろうか。

「卽身佛・逆竹(さかさだけ)・八房梅(やつふさのむめ)」総て次の章に出るので注さない。

「人なきがごと」愚鈍な輩ばかりで、真の「知者」たる「人」たるべき「人」は一「人」としていないように。

「求めて」底本「もとめて」と判読出来る。野島出版版は『めとめて』。「め」ではないし、「目留めて」では意味が通じぬ。単なる誤植かと思われる。

「赤水の博識には淺々(あさあさ)しき說と云ふべし」かの博識の「赤水」「に」「しては」、「淺々(あさあさ)しき」(考えが浅く軽率極まりない)謂いと言わざるを得ぬ。崑崙の言うべき時には毅然として謂うという態度が素晴らしい。

「陰火」「陽火」例えば、李時珍の「本草綱目」の「火部」の冒頭の「陽火 陰火」に出る陰陽五行説の「火(か)」の考え方である。火(か)は五行の一つであり、「気」はあるが、「質」は持たず、造化の両間にあって万物を生殺する。五行のうち、「火」を除く「木」・「土」・「金」・「水」は皆一種であるが、ただ「火」だけは「陽火」と「陰火」の二種が存在する。「陽火」は草に遭えばこれを焼き、木があると燔(た)き、湿(しつ)によって弱まり、水によって消滅するのに対し、「陰火」は草木を焚(た)かず、金石を融解して流す。湿によっていよいよ燃え、水に遭うとますます熾(さか)んになり、水を差すと、光焔は自然に消滅する、などと判ったような判らないようなことを言っている。また、そこで時珍は「地」の「陰火」の中に「石油之火」を挙げているから、長久保赤水もそれを安受け売りしただけのことと思われる。原文はウィキで読める。]

2017/08/08

北越奇談 巻之二 七奇辨

 

北越奇談 巻之二

 

        北越 崑崙橘茂世述

        東都 柳亭種彦挍合

 

    七奇辨(しちきのべん)

 

[やぶちゃん注:以下、総論部。数え上げる名数部分は原典では一字下げで各項目が、原則、一字空けで五行に分かれており、野島出版版は中黒(「・」)を以って総て繋げているが、私は、贅沢に前後を一行空けた上、総て改行して一字下げで並べ、続く本文も改行した(原典は二字空けで名数に繋がる)。なお、今までは漢文表記箇所は総て注で読みを示してきたが、長い一部の例外を除き、本文に読みとして繰り込むこととした。]

 

 後越(こうえつ)に古(いにしへ)より「七不思義」と云へることあり。今尚、諸方の遊客好事(ゆふかくこうず)の人、此國に尋來(たづねきたり)て其奇を探(さぐら)んとす。然りと雖も、其説、紛々として更に實事を知らず。近世諸家の記行に載(のす)る所、各(おのおの)其名目に別異(べつゐ)ありて、論説する所も又、同じからず。是、必(かならず)、風游(ふうゆふ)の客(かく)、民間或は驛亭に就て、問訊(もんじん)するによりて、如ㇾ此(かくのごとく)、誤り來りたりと覺ゆ。可ㇾ惜(おしむべし)、民間愚蒙(ぐもう)の輩(ともがら)、却(かへつ)て生國(しやうごく)の盲(もう)を曳くと云ふべし。凡(およそ)、諸家(しよけ)の雜記・記行に擧ぐる所と、國人(くにふど)・家々に論説する所を合せ見るに、今尚、二十有四奇(ゆうしき)あり。

 

 神樂嶽(かぐらだけ)の神樂

 海鳴(うみなり)

 胴鳴(ほらなり)

 燃土(もえつち)

 七ツ法師(はうし)

 八ツ瀧(だき)

 白兎(しろうさぎ)

 鎌鼬(かまいたち)

 火井(くはせゐ)

 塩井(えんせゐ)

 燃水(もえみづ)

 蓑虫の火(ひ)

 冬雷(ふゆかみなり)

 逆竹(さかさだけ)

 風穴(かざあな)

 沸壷(わきつぼ)

 白螺(しろたにし)

 土用清水(どようしみづ)

 四蓋波(しかいなみ)[やぶちゃん注:清音はママ。]

 箭根石(やのねいし)

 三度栗(さんどくり)

 無縫塔(むはうとう)

 沖の題目

 八房梅(やつぶさのむめ)

 即身仏

 

 是なり。密(ひそか)に按ずるに、「日本書紀」の二説を本(もと)として、享徳の頃、が國(くに)好事の者、偶(たまたま)、此七奇を撰(せん)せしなるべし。尤(もつとも)、其時世は義政將軍の頃にして、風流好奇、今時(こんじ)の泰平にも等(ひとし)ければ、さもありなんか。何れ、永く此國の勝奇(せうき)となり、諸家の記録にも載せ、公聽(こうちやう)にも入たれば、今更、止(やむ)べきにあらず。サハ此説、今古(こんこ)の別(べつ)ありて、古(いにしへ)は、いまだ、諸國の奇事・名勝、穿鑿の至らざる所と、好事の者も、又、少(すくな)きがために、目前(もくぜん)の説のみにして、他邦の論に詳しからず。今は太平永く續き、士は君恩に誇り、民は耕作に富(とん)で常に、間(かん)、多きに乘(じよう)じ、四方(しほう)に遊歷し、勝を尋ね、奇を探り、家に有(あつ)ては山林を平げ、石を穿ち、水脈を通じ、田野を開き、深山幽谷・海島河源(かいとうかげん)に到るまで、人力(じんりき)の行屆(ゆきとゞか)ざるは、なし。故に、天の化(くは)も、又、盛にして、五月十日の風雨良く、時を不ㇾ違(たがへず)草木(さうもく)長じ、百穀實り、熱國(ねつこく)は却(かへつ)て凉しく、寒國は更に暖(あたゝか)なり。於ㇾ此(こゝにおゐて)諸州の産物・奇勝、其類(るい)するもの、甚だ多し。是を以つて是を見れば、古(いにしへ)の七奇は、今尚、他邦に同じきものあるを聞(きく)。が國(くに)、民間の童蒙、他(た)の問訊に對して、是非、かの七奇を飾らんと欲する故、是を減(げん)じ、彼(かれ)を增(ぞう)して、終(つゐ)に如ㇾ此(かくのごとし)。笑ふべきの甚しきなり。爰(こゝ)に於て「古(いにしへ)の七奇」を辨じ、「今の七奇」を撰(せん)せんとす。希(ねがは)くは、四方(よも)の好事家、爲ㇾ之(これがために)、説論(せつろん)せよ。

 

[やぶちゃん注:「七奇」以下、本「卷之二」全部を用いて〈古えの七奇〉〈俗説の十七奇〉及び橘崑崙自撰の「新撰七奇」(これは前の二つの奇名数から選び出したもので解説はごく短い)を詳述し、提示する。されば、ここでは個々の以下に並ぶ「奇」については一切、注をしない。どうしてもごく簡単にそれらの概要を知りたいというフライング好きの方は、〈俗説の十七奇〉を除くなら、Yutaka氏の「越後七不思議」がコンパクトに纏まってはいる。そこには「親鸞の越後七不思議」も載っている。但し、以下の崑崙の解説は詳説を極めるのでご期待頂いてよい。

「後越(こうえつ)」「越後」に同じい。

「記行」「紀行」に同じい。

「驛亭」宿場。或いは宿場の旅籠(はたご)。

「問訊(もんじん)」「訊問」(必要な取調べなどのために自分が確かに納得出来るまで詳しく口頭で問い質(ただ)すこと)に同じい。

「生國(しやうごく)の盲(もう)を曳く」誤った〈越後七不思議〉の情報を正確無比な決定的情報と誤認して旅から生国へと帰り、そこでそれを吹聴して伝播させてしまい、その結果として、その誤った〈越後七不思議〉を盲目的に信じ込んでしまった新たな、或いは後代の、その国の情報に対する批判的精神を持たない無知蒙昧の徒が増える。仮にそうした人々が後に実際に越後に旅人として来訪しても、そこで誰かが、「それが誤りであってこれが唯一正当な〈越後七不思議〉である」という教授を行わない限り、またしても、誤った、七つでない、痙攣的に増殖し変質してしまったそれこそ「奇」なる〈越後七不思議〉が全国に蔓延し続けるという悪循環が生ずる、という筆者の大真面目な危惧を主張しているのである。私はこれを大上段に過ぎるとか、事大主義的だ、などとは全く思わない。私は橘崑崙的人種であることをここに表明しておく。

「二十有四奇(ゆうしき)」「有」は数字とともに用いて「さらに・その上また」の意を表わす。「二十四」に同じ。

『「日本書紀」の二説』とは「燃土(もえつち)」と「燃水(もえみづ)」の「二説」に当たる「日本書紀」の「卷第二十七 天智天皇紀」の中に載る、「越國獻燃土與燃水」(越(こし)の國、燃ゆる土と燃ゆる水とを獻ず)を指しているものと私は考える。但し、次章で崑崙の引くものは版本が異なるらしく、以上の文字列ではない。

「享徳」一四五二年から一四五四年までの三年間。東山文化の形成者にして政治より数奇(すき)の道を好んだ風流人の室町幕府第八代将軍足利義政の治世であるが、享徳の乱(享徳三年十二月二十七日(一四五五年一月十五日)に勃発、終息は文明十四年十一月二十七日(一四八三年一月六日)で実に二十七年余りもかかった)が起って(第五代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発して幕府方と、山内・扇谷両上杉方と、鎌倉公方(古河公方)方の三者が覇権・利権を争い、この闘諍(とうじょう)は関東全域に拡大、これが関東地方に於ける戦国時代の導火線となった)が起っており、崑崙の言うような、「風流好奇、今時(こんじ)の泰平にも等」しいなどという呑気な評価を下せる時代では必ずしもなかった。それとは別に、何故、崑崙はこのたった三年を〈越後の古えの七奇〉の選定時期として限定出来たのだろう? 何か、そうした記録が残っていなければこうは言えない。最古の〈越後の古えの七奇〉ネタ元は何だろう? 識者の御教授を乞うものである。

「勝奇」その国特有・固有の名勝と珍奇談。

「今古(こんこ)の別(べつ)ありて」〈越後の古えの七奇〉にさえも、実は古いものと、それに比べると相対的に新しいものとでは、有意に異なった「七奇」として存在しているというのである。

「目前(もくぜん)の説のみにして、他邦の論に詳しからず」これは越後の人々が自分が越後で実際に眼前で目撃体験して不思議に思ったものを「不思議」としただけのことで、彼らは越後以外の国の地誌やそこで発生する現象等に詳しくなかった。その結果として、他国でも普通に見られ、それらは実は越後が敢えて挙げるほどに特有なものではなく、時には全国的にも普通に見られる不思議でも何でもない自然な現象であることを知らなかった、そのために選ばれてしまった〈奇ならざる奇〉がそれらの中には混入していたと崑崙は指摘するのである。

「士は君恩に誇り」武士階級は主上や主君の御恩を一切修羅の戦場に出ずることもなしに心安らかに奉じて、穏やかに生活することが出来ており。

「間(かん)」「閑」の方が判りがよい。閑(ひま)・暇(いとま)。

「河源」野島出版版は『河原』となっている。

「天の化(くは)」野島出版脚注に『天地自然のうつり変わり』とある。

「五月十日」旧暦の二十四節気の第九の五月節である「芒種」(旧暦四月後半から五月前半)を念頭に置くか。穀類の種を蒔く、本格的な農作業の始まりの時期であり、自然界の活動も本格的に活性化する。それを「於ㇾ此(こゝにおゐて)諸州の産物・奇勝、其類するもの、甚だ多し」、即ち、諸国の特産品の基点であり、それぞれの国の名所も最も見るに生き生きとしてくるのであり、それらはどこの国でもシンクロニックである、と述べているのである。

「是非、かの七奇を飾らんと欲する故」何としても「越後七奇」を鮮やかに自慢したいがため、つい装飾的誇張的になってしまい、足したり、除いたりしては、手におえない「笑ふべきの甚しき」七つ以上のトンデモ〈奇〉トンデモ〈不思議〉となってしまった、という謂いであろう。

「爲ㇾ之(これがために)、説論(せつろん)せよ」表面上は、私が規定した〈古えの七奇〉と〈俗説の十七奇〉、そして私が定めた「新撰七奇」をまずは検討し、議論して欲しい、というのであるが、寧ろ、これをオーソドックスな名数として流布して戴ければ幸甚であるという自負を含んでいよう。]

2017/08/07

北越奇談 巻之一 龍力 / 巻之一~了

 

    龍力(りうりき)

 

 文化三丙寅(ひのえとら)六月廿七日未ノ上刻、晴天、俄に一輪(いちりん)の雲起(おこり)て、大風(たいふう)驟雨、白日(はくじつ)、忽、闇夜(あんや)のごとくなりしが、此の日、北國(ほつこく)の舩(ふね)、米穀八百石を積みて、島見(しまみ)の沖を過ぎけるが、怪雲、常ならず、風、裏帆を吹(ふき)絞り、舟(ふね)の進退、自由ならず。船頭、揖取に手繩(てなは)を引かせ、風を間切(まぎつ)て、沖の方へ漕出(こぎいだ)さんとするほどに、忽、四條の黑雲(こくうん)、舟の前後に曳(ひき)下(くだ)りて、波、次第に沸立(わきたち)たれば、舩の老父(おやぢ)、大きに驚き、

「是は正(まさ)しく、龍卷の此所(ところ)に下(くだ)るなるべし。只には逃れがたかるべし。」

とて、俄に早舟(てんま)一艘引おろし、九人の者ども、急ぎ、乘移(のりうつ)り、手ン手に櫓を推早(おしはや)め、十丁ばかりも過(すぎ)たる頃、四條(よぢやう)の黑雲、打捨たる舟の前後に渦巻くほどこそあれ。

 白浪(しらなみ)高く湧(わき)上(あが)り、怪風、難なく、舩を巻(まき)て水際(みづぎは)四、五丈ばかりも曳上(ひきあ)げ、立(たて)さまに落しければ、舟は微塵に割碎(さけくだ)けて、水底(すいてい)に入る、と見へしが、百雷の落(おつ)るごとく響(ひゞき)渡り、龍(りやう)は南を指して登り去りぬ。

 九人の舟者(しうしや)、漸(やうや)く浦に漕ぎ近付(ちかづき)ければ、其浦々の人々、多く漁舟(ぎよしう)にうち乘り、迎ひ來たりて、助け歸りぬ。

 此日、遠く是を望(のぞみ)たるは、

「五條の黑雲、海上に引下(ひきくだ)りたり、と見へしが、半時(はんじ)ばかりの間(あいだ)に、大雨(たいう)、木(こ)の葉を飛(とば)せて吹(ふき)來りぬ。されども、龍(りやう)は海邊(かいへん)に添ふて過(すぎ)たりと覺(おぼえ)て、此時、寺泊(てらどまり)の山東(さんとう)、人家を卷上げ、行人(こうじん)を引立(ひきたて)、數十丁(すじつてう)、持去(もちさ)りし。」

と云へり。

 同日、新潟の湊口(みなとぐち)にても、大舩(たいせん)を吹倒(ふきたを)せし、と云へり。

 總て、北越、夏の夕(ゆふべ)、驟雨する時は、小魚(しようぎよ)・水蛭(すいしつ)なんど、雨と共に下(くだ)る。龍の、江河池水(こうがちすい)抔(など)、巻來(まききた)ること、明かなり。然(しか)れども、海潮(かいてう)を卷來る時、雨の塩の氣味(きみ)無きも、奇なり。

 只、龍(りやう)の神變(しんへん)、一滴の水をもつて大雨(たいう)となせり。其奇、可ㇾ知。

 

北越奇談巻之一終

 

[やぶちゃん注:「文化三丙寅(ひのえとら)六月廿七日」グレゴリオ暦一八〇六年八月十一日。因みにこれは本書刊行の六年前である。

「未ノ上刻」午後一時過ぎ。

「一輪(いちりん)の雲」という表現に竜巻のニュアンスが既に感じられる。

「八百石」野島出版脚注に『六十キロ』グラム『入約四千袋』とある。

「島見(しまみ)」現在の新潟県新潟市北区島見町附近。(グーグル・マップ・データ)。新潟港の手前、阿賀野川の右岸の北。「島見」の島は佐渡であろう。

「揖取に手繩(てなは)を引かせ」「手繩」は帆を手動で微妙に調節しながら引くことか。

「風を間切(まぎつ)て」風の納まった瞬間を狙っての謂いか。そのためには、「手繩」をずっと持ち続けていて素早く引いたり、押したりせねばならぬから、まえの解釈がしっくりくるのである。

「早舟(てんま)」伝馬船(てんません)。廻船などに搭載されて付属する船(親船・本船)と陸上との間の荷役・連絡や漕走機能のない親船の出入港時の曳航などに用いた。参照したウィキの「伝馬船によれば、『親船の積荷がないときは船体中央胴の間にある伝馬込に、積荷があるときは船首の合羽上に搭載されるか曳航され、特に船上に搭載場所がなかった軍船の場合は曳航が行われた。親船が廻船の場合、百石積以上の船に搭載され、親船の』三十分の一『の規模が標準とされた。廻船では、檣(ほばしら、帆柱)・楫(かじ、舵)とともに』「三つ道具」或いは帆桁を加えて「四つ道具」と『称され、必ず装備する付属品』であった。『千石積の廻船の場合、三十石積の伝馬船を装備しており、全長は』四十尺(約十二メートル)、六丁又は八丁の櫓を『推進具とし、打櫂・練櫂・帆を装備するものもあった。伝馬船は船幅よりも長いことが多かったため、船首尾は両舷から突出していた』とある。

「十丁」約一キロメートル。

「四、五丈」約十二~十五メートル。

「立(たて)さま」舳か艫を上に縦様に成して。

「百雷の落(おつ)るごとく響(ひゞき)渡り」電光を描出していないから、竜巻を起している積乱雲の中の見えないところで激しい雷が発生しているのであろう。

「其浦々」先の島見の附近の漁師ら。

の人々、多く漁舟(ぎよしう)にうち乘り、迎ひ來たりて、助け歸りぬ。

「此日、遠く是を望(のぞみ)たるは」「たる人は」ととって、後を直接話法とした。

「寺泊(てらどまり)」新潟湊のずっと南方。(グーグル・マップ・データ)。

「山東(さんとう)」上記リンク先航空写真切り替と、寺泊は海浜まで丘陵域が迫っていることが判るから、その東側の山麓部を指して言っているのであろう。

「數十丁(すじつてう)」六掛けすると六キロメートル半にもなってしまうので、ここは「十數町」で採り、一・七キロメートルぐらいにしておこう。

持去(もちさ)りし、と云へり。

「水蛭(すいしつ)」環形動物門ヒル綱 Hirudinea の蛭(ひる)類。陸産のものでもよいが、ここはかつては田圃や池沼に多く見られた吸血性のヒル綱顎ビル目ヒルド科チスイビル属チスイビル Hirudo nipponica ととってよかろう。

「龍(りやう)の神變(しんへん)、一滴の水をもつて大雨(たいう)となせり」崑崙は龍の実在性を疑っているようであるが、取り敢えずは、怪奇談の体裁を壊さぬように、龍はたった一滴の水さえあれば、恐るべき天変地異を齎すことが出来る存在であると結んで一巻を終えている。お美事!!!

「可ㇾ知」「しるべし」。]

北越奇談 巻之一 龍種石

 

    龍種石(りうしゆせき)

 

 關(せき)の奧、黑嶽(くろがたけ)に滝谷明神(たきだにみやうじん)あり。

 社前に、形、如ㇾ卵、丈(たけ)七尺餘りなる、靑黑(せいこく)にして潤沢、殊に常ならざる石あり。祭事には、必(かならず)、近村の少年、多く集りて力を競ひ爭(あらそ)ふといへども、數(す)十人にして、さらに動(うごか)し轉ずること、あたはず。

 然(しか)るに、過(すぎ)し年、十月の頃ならん、一日、雷雨・暴風ありて、大木を引拔き、石壁(せきへき)を崩し、一條の雲龍(うんりやう)、渦卷き下りて、かの社前の石を卷(まき)、乾(いぬゐ)の方(かた)に飛(とび)さりしが、半里ばかり持行(もちゆき)て、大澤(だいたく)の中(うち)に落(おと)し去りぬ。

 又、翌年秋九月、如ㇾ例、風雨夥(おびたゞ)しく起り、かの大石(たいせき)を引上げ、五、六丁、巻(まき)去りしが、其山下(さんか)に修善寺と云へる禪院の後ろに落したり。其響(ひゞき)、山を動(うごか)し、大雨水(たいうすい)、寺内に溢(あふ)れ、半時(はんじ)ばかりが程は、平地(へいち)、一尺の水あり。

 扨、寺僧を始め、村中の者ども、多く集まり來りて、是を見るに、其前(そのさき)、澤中(たくちう)に落(おとし)たる石なり。然(しから)ば、

「此石、龍神(りうじん)の惜しむ所。」

と覺(おぼえ)つれば、

「此地に捨置(すておか)んことも却つて危(あやうき)を待(まつ)に似たり。」

「左(さ)は云へ、此石、人力(じんりよく)の容易(たやす)く移すべきにもあらず。」

「如何(いかゞ)せん。」

と、囁き合へるに、和尚の曰く、

「是は定(さだめ)て龍種(りうしゆ)なるべし。只、打碎(うちくだき)て捨(すつ)るにしかじ。」

と、石工(せきこう)を呼びて、是を切(しら)しむ。

 工人、即ち、石脈を截(た)ち、油を差し、「矢」と云へる物を入(いれ)て、終日(しうじつ)、是を打(うて)ども、破(やぶ)れず。

 翌日、數(す)十人を催して打(うた)しむるに、忽、金石(きんせき)の碎くる響(ひゞき)ありて兩斷し、其央(そのなかば)、少(すこし)き空所(くうしよ)ありしが、小蛇(しようじや)四ツ、蠢(うごめ)き出づ。

「されば。」

とて、是をも打殺さんとするを、和尚、又、急に制して、溪流に捨てたり。

 又、五華山(ごくはさん)の中嶺(ちうれい)、出湯(いでゆ)の奧に、斷岸(だんがん)數(す)十丈の飛泉(たき)あり。其上に「龍(りやう)の劍堀(けんぼり)」と云へるもの、三、四ケ所にあり。しかも、數丈一堅(すじよういつへき)の大石(たいせき)にして、人力(じんりよく)の及ぶ所にあらず。古(いにしへ)より、時ありて、龍(りやう)、此所(このところ)に下(くだ)り、猶、深く、其石を穿(うがつ)つ内(うち)窪(くぼ)かなる形、自然にして、茶臼(ちやうす)のごとし。如何なる故ありてか、龍(りやう)の此(この)工(たくみ)をなせることを知らず。

 是等も、即(すなはち)、龍種石(りうしゆせき)の類ひならんか。

 總て、此近村、旱(ひでり)する時は、百姓大勢、其嶺(みね)に集まり登り、小石をもつて其劍堀(けんぼり)に抛(なげ)打ち、深く埋(うづ)みて下(くだ)る時は、忽、大雨(たいう)し、抛(なげうち)たる小石、盡(ことごと)く拂(はら)ひ去りぬ。「瑯環記(らうくわんき)」、『水仙子有一圓石如ㇾ卵。一日風雨タリ。石忽破小虫出。即呑硯中水曳雲上去。』トアリ。此類(たぐひ)なるべし。

 

[やぶちゃん注:「龍種石(りうしゆせき)」龍の卵のような石の意。

「關(せき)の奧、黑嶽(くろがたけ)に滝谷明神(たきだにみやうじん)あり」不詳。一つの候補地は現在の南魚沼市瀧谷にある瀧谷神社である(ここ(グーグル・マップ・データ))。南東奥に「無黒山」や「黒岩峰」というピークがあるからであるが、「關」が判らぬ。新潟で「關」となると、北の新潟県岩船郡関川村があるが、「奥山」ならあるが、「黑嶽」や「滝谷明神」が見当たらぬ。近くにある禅寺「修善寺」が頼みの綱と思ったが、新潟県内に現在、同名の寺院すら見当たらぬのだ。お手上げ。識者の御教授を乞う。

「如ㇾ卵」「たまごのごとく」。

「丈(たけ)七尺餘り」高さ約二メートル十二センチほど。

「潤沢」潤(うるお)いに満ちた色艶(つや)があること。

「乾(いぬゐ)」西北。

「如ㇾ例」「れいのごとく」。ここは前段を受けて、前の年の十月の時途同じような、の意。

「五、六丁」五百四十六~六百五十五メートルほど。

と云へる禪院の後ろに落したり。其響(ひゞき)、山を動(うごか)し、大雨水(たいうすい)、寺内に溢(あふ)れ、半時(はんじ)ばかりが程は、平地(へいち)、一尺の水あり。

「是は定(さだめ)て龍種(りうしゆ)なるべし。只、打碎(うちくだき)て捨(すつ)るにしかじ」と和尚が言ったのは、それが真正の龍の卵たる龍種石であるとすれば、そこから昇龍が化生(けしょう)する可能性が大であり、その場合は、とんでもない天変地異が発生し、物損は勿論、人的被害も生じ得る以上は、龍が生まれないように粉砕して捨てるべきであると考えたのであろう。逆に後でその石から出現した「小蛇」四頭を殺さなかったのは、それらがただの小蛇でなく、真正の龍となるべき属性を内包している龍の子のプロトタイプである場合、それを殺すことで逆にまた想像を絶する天変地異が発生する可能性を恐れたのであろう。

『油を差し、「矢」と云へる物を入(いれ)て』「矢(や)」(鍵括弧は私が附した)は叩いて割るために噛ませる楔(くさび)のこと。油を差すのは、その「矢」を摩擦を減らしてより深くぴったりと食い込ませるため。

「五華山(ごくはさん)の中嶺(ちうれい)、出湯(いでゆ)の奧」「數(す)十丈の飛泉(たき)あり」「龍(りやう)の劍堀(けんぼり)」これらから推定したのは新潟県新発田市荒川にある剣龍峡である。新発田市の月岡温泉のすぐ奥にあること、峡谷名だけでなく、実際の展望ポイントに「龍の剣堀」という場所が現在もあること、同峡谷には複数の滝が現在もあるが、その中の「つむじ倉滝」は、落差が実に八十五メートルもあること、「五華山」が判らぬが、この剣龍峡は多数の高峰に囲まれており、南方には「五頭連峰」という山塊が存在することなどから、最有力同定候補として挙げておく。

「其石を穿(うがつ)つ内(うち)窪(くぼ)かなる形、自然にして」「穿(うがつ)つ」は原典のママ。野島出版版もかく活字化している。問題はここをどう読むかである(野島版は注も何もない)。私はまず、

「其石を穿(うがつ)つ【しつる】内(うち)【に】窪(くぼ)かなる形【の】自然にし(=生じ)て」

と読んでみた。次に、単にルビの「つ」が衍字なのであって、

「其石を穿(うが)つ内(うち)、窪(くぼ)かなる形、自然にして」

と読んだ。後者の方が無理がないし、外をわざわざいじくる必要がないから、後者を私は最終的に採る。

「茶臼(ちやうす)」碾茶(てんちゃ:覆いをした茶園の若芽を摘んで蒸した後、通常の茶のように揉まずに、そのまま乾燥して製した茶)を挽(ひ)いて抹茶にするための挽き臼。。穀物用の臼よりも小振りで、丈が比較的高い。

「瑯環記(らうくわんき)」元の伊士珍が書いた神仙小説集。全三巻。「琅嬛記」とも書く。

『水仙子有一圓石如ㇾ卵。一日風雨タリ石忽破小虫出。卽呑硯中水曳雲上去』底本のだらだらルビに従って試みに訓読してみると、

水仙子(すいせんし)、一(いち)圓石(えんせき)有りて、卵(らん)のごとし。一日(いちじつ)、風雨たり。石、忽ち、破れて、小虫(しようちう)、出づ。即ち、硯中(けんちう)の水を呑み、雲を曳いて、上(のぼ)り去る。

である。中文サイトによれば、これは同書の「卷下」に出る「修眞錄」なる書を出典とする以下で、崑崙の引く原文とはかなり異なる。

   *

水仙子爲南溟夫人侍者、手恆弄一圓石如鳥卵、色類玉。後以贈靑霞君、靑霞君以爲經鎭。一日誦陰符經、忽大風雨、其石裂破、有一蟲走出、狀若綠螈、就硯池飲少水、乘風雨飛去、蓋龍也。石隨合、略無縫痕。

   *

因みにこの原文では、石から走り出た生物の形状は緑色をした「螈」のような感じの生き物であったとしているが、この「螈」は両生類のイモリのことである。なお、野島出版脚注には、『士珍の自注に其の事は元の観手抄に出づというが觀手抄は何の書たるかは不明。記する所おかしい話が多いから恐らくは明人、桑懌』(そうえき:実は本書は明代のこの人物が士珍作と仮託した偽書であるらしい)『の馬鹿げた話であろうとなされている(漢和大字典より)』とある。]

北越奇談 巻之一 蝮蛇

 

    蝮蛇(うはばみ)

 

 葛塚(くずづか)は福湖(ふくしまがた)の西涯(さいがい)にして、今、數十邑(すじうゆう)の惣名(そうみよう)たり。福湖(ふくしまがた)より溜水(りうすい)を阿水(あが)の中(うち)へ吐流(とりう)せる濁川(にごりかは)と云へる挾渠(きようきよ)ありて、其廣さ、二十餘間には過ぎるべけれど、深き事、幾(いくばく)なることを知らず。町の端(はし)、大曲(おほまがり)と云へる渕、殊に深し。此所(このところ)、冬の半(なかば)より春に至(いたつ)て、白魚(しらうほ)を獲ること、夜每(よごと)に夥(おびたゞ)し。されども、漁者(ぎよしや)、三網(みあみ)より過(すぎ)て、又、曳くこと、あたはず。四度(よたび)に至る者は、即(すなはち)、水底(すいてい)より其網を引(ひき)とりて、盡(ことごと)く破り棄つ。も此地に久しく寓して、月夜(げつや)、橋頭(きようとう)に是を見たり。

 又、十とせばかり以前ならん。殊に晴やかなる日、川水、俄に逆捲き起り、左右の堤、溢(あふ)れ、漁舟(ぎよしう)を覆(くつがへ)し、網を破り、流(ながれ)に隨(したがひ)て一里餘り下(くだり)しが、忽、水底に沈みて、止(やみ)ぬ。其通り筋、兩堤の村々、農夫・漁人、棹を捨て、鍬を投げて逃去りしが、さらに一人として、其形(かたち)、如何なるものといふことを見ず。

 又、福湖(ふくしまがた)東南の岸(きし)、新田(しんでん)と云へる所に、何某とて、豐かに富(とめ)る農家あり。其下男(しもおとこ)、馬の秣(まくさ)苅(かる)次手(ついで)、芦・萩深く茂れる淵に臨(のぞみ)て、釣を垂れ、半時ばかり休らひけるが、忽、水底より二丈ばかりなる蝮蛇(うはばみ)、黑き頭(かしら)をさし出(いだ)し、紅(くれなゐ)の口を開きければ、かの男、あまりに打驚き、竿を捨て、蓑を忘れ、夢路を辿(たど)る心地にて逃歸りけるが、夫(それ)より數(す)十日、病臥(やみふし)ぬ。

 此頃、予も其家に至り、詳(くは)しく尋ね聞(きゝ)しかど、

「あまりに恐ろしくて、鱗(うろこ)・鬚(ひげ)は見定(みさだめ)もせず、爪・角(つの)はなかりし。」

と云へり。

 

[やぶちゃん注:前話とは水怪の妖蛇譚で直連関。

「蝮蛇(うはばみ)」蟒蛇(うわばみ)。大蛇。「蝮」(通常は「まむし」と訓ずる)に「うはばみ」の訓を当てるケースは稀であるが、ないわけではない。例えば、知られた泉鏡花の「高野聖」の「第十七」で、『軈(やが)て又例の木の丸太を渡るのぢやが、前刻(さつき)もいつた通り草のなかに橫倒(よこだふ)れになつて居る木地(きぢ)が恁(か)う丁度鱗(うろこ)のやうで譬(たとへ)にも能くいふが松の木は蝮(うはゞみ)に似て居るで』と出る。

「葛塚(くずづか)は福湖(ふくしまがた)の西涯(さいがい)」現在も一部が残る福島潟(既出既注)の西方、新潟県新潟市北区葛塚周辺。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「惣名(そうみよう)」(複数の村落を纏めた)総称。

「溜水(りうすい)」溜まった水。

「阿水(あが)」阿賀野川。

「吐流(とりう)」排水。

「濁川(にごりかは)」現在の福島潟を源流として阿賀野川河口及び日本海へと注ぐ新潟市北区を流れる新井郷川(にいごうがわ)の旧称或いは前身と考えられる。グーグル・マップ・データで、新井郷川阿賀野川を見ると、まさに「濁川」という地名を確認出来るからである。

「挾渠(きようきよ)」狭い人工的に掘削した掘割。

「二十餘間」四十一・一八メートル。現在の新井郷川の川幅は四十二メートルほどでよく一致する

「大曲(おほまがり)と云へる渕」不詳。現在の新井郷川が旧濁川と河川変更されているとするなら、最早、存在しない可能性もある。現地の識者の御教授を乞う。

「白魚(しらうほ)」文字通りならば、シラウオ(条鰭綱新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科 Salangidae に分類される魚の総称。狭義にはその中の一種 Salangichthys microdon の和名)であるが、シロウオ(スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科シロウオ Leucopsarion petersii)である可能性も半ばする分布域・生息場所・漁法からはこの孰れであってもおかしくはないからである。但し、両者は全く縁遠い別種である。孰れも死ぬと白く濁った体色になって見分けがつきにくくなるが、生体の場合はシロウオ Leucopsarion petersii の方には体にわずかに黒い色素細胞があり、幾分、薄い黄味がかかることで区別は出来る。詳しくは私の今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅1 行くはるや鳥啼きうをの目は泪 芭蕉の私の注及びそのリンク先を参照されたい。

「予も此地に久しく寓して」これは重要な発言である。橘崑崙茂世はかつてこの葛塚附近に、有意な機関、仮に住居を持っていたという事実が判るからである(冒頭の柳亭種彦の序文から、本書刊行直前には三条にいた)。

「橋頭(きようとう)」橋の畔(ほと)り。橋のたもと。

「其形(かたち)」その変事を起した(と思われる)川中の生物或いは魔物の姿形。

「福湖(ふくしまがた)東南の岸(きし)、新田(しんでん)と云へる所」旧福島潟の東南の岸辺りであったと思われる地域((グーグル・マップ・データ))には現在でも「新田」のつく地名が多く残ることが地図上からも判る。

「半時」現在の一時間に相当。

「二丈」六メートル六センチ。]

北越奇談 巻之一 河伯

 

    河伯(かはく)

 

 水中(すいちう)にて河伯(かつぱ)に曳かれ死する者、年毎(としごと)にありて、其説、分明ならず。鼈(べつ)とも云(い)へ、蛇(じや)とも云へり。

 其中(そのうち)、過(すぎ)し頃、が幼年の知人、信川の邊り、眞越村(まごしむら)孝源寺(こうげんじ)、一向宗門にて何某(なにがし)と云へる僧、十八才なりし者、夏の頃、農家の童(わらべ)、數多(あまた)伴ひ、信川に浴しけるが、忽(たちまち)、水底(すいてい)に引入(ひきいり)て、見へず。

 童ども、大に驚き、慌(あは)て騷ぎて立歸り、此由(よし)、告(つぐ)るほどに、村中(むらうち)の老若(ろうにやく)、川岸に集まり、網を曳(ひき)、鍵(かぎ)を下(さ)げて、搜し求むれども、其邊りには觸(さ)はる物もなく、川下半里ばかりにして、鐘が渕(ふち)と云へる所に至り、勇壯の若者、五、六人、腰に繩を付(つけ)、手(て)ン手(で)に鎌を握りて、水底(すいてい)を潛(くゞ)りけるが、難なく、かの亡僧(ぼうそう)を抱(いだ)き上げて、是を見れば、更に皮膚の間(あいだ)、疵付(きづつく)る所はなけれど、肛門、開き、腹、太く腫滿(はれみち)て、是を推(おせ)ば、鳴蠢(なりうごめ)きたり。

「すはや、敵(かたき)は此腹中(ふくちう)にあり。」

と我も我もと、立(たち)まとひ、

「打(うた)ばや。」

「切らばや。」

なんど声々に喚(わめく)ほどに、其内、叔父なる老人の云へるは、

「正(まさ)しく、毒蛇の腹中にあるなるべし。打(うた)ば、口よりも飛去(とびさ)りぬべきぞ。肛門と口とに小刀(こがたな)を刺し、腹上(ふくしよう)より突殺(つきころ)さん。」

と。

 人人、一決しける所、母なる者、いたく悲しみ、

「僧侶の身、非常の死といへども、身躰(しんたい)、又、刃(やいば)に及(およば)んこと、業生(ごうしやう)、猶、深きに似たり。只に、葬り給へ。」

と、請求(こひもとむ)るにぞ。

「さらば、火葬にして敵(かたき)もともに燒殺(やきころ)せ。」

と、大なる瓶(かめ)に入(いれ)、板石(いたいし)を蓋にして、其上も猶、大石(たいせき)にて圍み、焚炭(たきずみ)數十俵(すじうひよう)を以(もて)、燒立(やきたて)たるに、忽、炎火、盛(さかん)に立昇(たちのぼ)り、火勢、近付(ちがづく)べくもあらねば、今は蛇身も燒失(やけうせ)ぬべく覺ゆる所に、忽、火中一声の響(ひゞき)ありて、焰炎(ほのう)の中(うち)より、尺ばかりなるもの、空中に撥ね上がると見へしが、雲氣(うんき)、四野(しや)に滿ち、暴風大雨(ぼうふうたいう)、立(たち)やすらふべくもあらず、山をなせる火氣、忽、消失せて、是を見れば、瓶(かめ)碎け、大石(たいせき)數片(すへん)に破(やぶ)れ割(さけ)たり。

「誠に龍蛇(りやうだ)の神(しん)なる、人智の及ぶ所にあらず。」

と、見る人、震(ふる)ひ畏(おそ)れける。

 

[やぶちゃん注:竜巻実録連投から、同じ水変乍ら、異様な水怪実談へと転ずる。怪奇談集として非常に上手い構成である。橘崑崙、これ、タダモノではない。

「河伯(かはく)」「河伯(かつぱ)」ルビの違いはママ。以下の叙述も河童のようでありながら、実は腹中へと侵入した怪龍蛇とする展開は、数ある河伯(これは狭義には中国神話に登場する黄河の神を指し、「白亀」形(後注に出る実在する大型のスッポンのアルビノ個体あたりがモデルか)とも「白龍」形或いは「龍」そのものとも、また「龍が曳く車に乗っている人」形とも人頭魚体ともされる)・河童・怪蛇譚の中でもかなり変わった特異点のケースと言える。

「鼈(べつ)」この字は本邦では爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis に当てるが、ここは巨大な怪亀ととっておいてよい。

「信川の邊り、眞越村(まごしむら)孝源寺(こうげんじ)」不詳。村名・浄土真宗の寺名としても現認出来ない。信濃川では広域過ぎて、特定も不能で、「川下半里ばかりに」あるとする「鐘が渕」という淵名も確認出来なかった(これが一番の特定素材とは思われるのだが)。識者の御教授を切に乞うものである。

「驚き慌(あは)て騷ぎて立歸り」野島出版版では『驚き騒ぎて立帰り』であるが、原典に拠った(原典は「あはて」と平仮名。

「鍵(かぎ)」鉤(かぎ)・鳶口(とびぐち)のことであろう。長い樫の棒の先に鳶の嘴に似た形の鉄製の鉤をつけた、木材や大型の魚類などを引き寄せるに用いるあれである。

「皮膚の間(あいだ)、疵付(きづつく)る所はなけれど、肛門、開き、腹、太く腫滿(はれみち)て、是を推(おせ)ば、鳴蠢(なりうごめ)きたり」通常のある程度の時間が経過した水死体の特徴を完備しており、実は異様な死体とは言えない。但し、淡水域での水死体の場合は、体内に生物が侵入することはそう多くはない(海域での漂流死体では穴子・蝦蛄・蛸などが容易に侵入して内部から食い荒らすとは普通に見られる現象である)。

「立(たち)まとひ」「まとひ」は「纏ひ」で遺体の周囲に野次馬のように「立ち集まり」の謂いともとれる。或いは変死体のさまに周囲に集まった連中が「立ち惑(まど)ひ」かも知れぬ。

「打(うた)ばや」「腹を殴打しよう!」。

「切らばや」「いや! 腹を切り裂くべきだ!」。

「叔父なる」「小父」で「他人である年輩の男性」の意があり、私はそれでとる「老人」とダブるが、縁者である「叔父」ととってしまうと、後で実母が出るのと妙にリアル過ぎて五月蠅い気がするからである。そもそもこの仕儀、母ならずとも、反対したくなる残酷なものではないか。それを実の叔父がまことしやかに提案するというのもヘンである。こういう、訳知り顔で物言いするケッタイな爺いというのは、しばしばこうした話柄につきものであり、この猟奇的場面処理が、実はこの話が事実ではない創作された話柄であることを強く感じさせるとも言えるのである。

「業生(ごうしやう)」「業障」(ごふしやう/ごつしやう)の誤記であろう。三障の一つで成仏することを妨げるところの身・口・意によって発生する悪しき行為、或いは、広く過去(前世も含む)において行なった悪しき行為によって生じたところの障(さわ)り・業(ごう)を指す。]

北越奇談 巻之一 巻水一奇

 

    巻水(けんすい)一奇

 

 中(なか)ノ口川(くちがは)と云へるも、信川の分流にして、西川(にしがは)よりは、其幅、少し大なり。此流に付(つき)て、吉井村の畔(ほと)り、千野潟と云へる僅かなる溜湛(りうたん)あり。蓴菜・菱など多く生ず。其村に貧しき寡女(やもめ)在(あり)て、春・夏・秋は是を取(とり)て業(なりはひ)とす。

 此日も小舟に悼さして水面(すいめん)に漂ひけるが、晴天、俄に一群(ひとむれ)の雲、かの村中(むらなか)より潟の上に掩(おほ)ひ下(くだ)りて、水を巻く事、晒せる布を引上ぐるがごとし。雲中(うんちう)に声ありて、舟の櫓を押(おす)に異(こと)ならず。家ごとに出(いで)てこれを見れば、雲裏(うんり)一條の白氣(はつき)、帋鳶(いか)の尾を曳(ひく)がごとく、村の畔(ほと)りより潟中(かたのうち)まで十餘丁に餘る所、長く引はへたり。

「すはや、菱を採る寡女(やもめ)、定(さだめ)て此龍(りやう)に捲かれ死せん。不憫さよ。」

と口口(くちぐち)に囁き呼ばはりけるほどに、忽(たちまち)、黑雲(こくうん)、東の方に引去りしが、此邊りは、風もなく、雨もなく、晴空(せいてん)、元のごとし。然るに五、六里なる山手、大雨(たいう)すと見へて、數(す)十里に連(つらな)りたる高山(かうざん)、一ツとして見ゆる所なく、ほどなく、かの寡女(やもめ)、舟さし寄せて歸り來りければ、人々、集まり、

「如何に。恐ろしからずや。」

「怪我せしことはなきか。」

など尋(たづぬ)るに、かの寡女、一事(いちじ)として知ることなし。

「水面(すいめん)、さらに波風さへ、あらず。」

と云へり。誠に龍(りやう)の神化(しんくわ)、その奇、はかりがたし。

 

[やぶちゃん注:再び竜巻実録物(但し、伝聞)。

「中(なか)ノ口川(くちがは)」西川の更に内陸で西川と同じく三条市尾崎で信濃川から一度分流して北へ流れ、新潟市西区善久で再び信濃川に合流する川。ウィキの「中ノ口川によれば、上杉家家老『直江兼続が河道を整備したという伝説が残って』おり、『それによると、中ノ口川は直江兼続が信濃川の自然流路を改修し』て『治水工事を行い、かつて直江川(なおえがわ)とも呼ばれていたと伝えられている』とあるから、案外、この寡婦を救ったのは、あの「愛」字の立物で知られる直江兼続だったのかも知れぬ。因みにかの「愛」は下部に左右に尖った雲形(くもがた)の上に張り付けてある。それは無論、彼が寡婦をも愛する博愛主義者だったなどというわけではなく、当時のデザインで神仏の略称であることを普通に示すものであって、あの「愛」は一面三目六臂で赤色忿怒相を示す恐ろしい形相を持つ「愛染明王」の「愛」であることは御承知のこととは思う。私は「愛」ではなく、ウィキに載る伝説を読み、あの彼の立物の「愛」を支える「雲」形と、この雲湧き上がる話柄との連関を、思ったのである

「吉井村の畔(ほと)り、千野潟と云へる僅かなる溜湛あり」溜湛(りゅうたん)は既注。水が流れずに溜まる箇所で、河川の蛇行によって取り残された三日月湖のような池沼であろう。「吉井」「千野」では現在の地名で残らず、位置は確定出来なかった。孰れにせよ、この中央に配した川のどこかである(グーグル・マップ・データ)。限出来る方は是非とも御教授あられたい。

「蓴菜」既出既注。スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi

「菱」フトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ Trapa japonica。私は小学二年生の頃、母の郷里の大隅半島中央部の岩川の山間の池で菱を採った。無論、貯蔵したそれを食べたこともある(三十代の頃、タイのスコータイの道端で殻ごと黒く焼いたそれを見つけて激しく懐かしがったところ、通訳の誠実な娘チップチャン(「蝶々」の意)がポケット・マネーで私にプレゼントしてくれたのを思い出す)。菱の実は秋に熟してしまうと、本体から離れて水底に沈んで冬を越す。菱の実を食べたり、採ったりしたことのある人は、私と同年代では恐らく非常に少ないものと思う。

「雲中(うんちう)に声ありて、舟の櫓を押(おす)に異(こと)ならず」意味が今一つとりにくい。「声」は「こゑ」のルビであるが、音(おと)の意味でよいと思われ、その竜巻の中でする音が「ギイッツギイッツ」という櫓を漕ぐ音と似ていたというのであろう。或いは櫓臍の軋る「ギュルギュル」という音と言った方がよいかもしれない。

「雲裏(うんり)」雲の中。

「帋鳶(いか)」正月に揚げる凧、「いかのぼり」のこと。

「十餘丁」千七百メートル前後。

「長く引はへたり」「はへたり」は「生えたり」で、竜巻が地水に接して生えているように見えたのであろう。

「すはや」感動詞。「あっ!」「やっ!」など、突然の出来事に驚いて発する語。感動詞「すは」を強めた語で「や」は強調の間投助詞。

「此邊りは、風もなく、雨もなく、晴空(せいてん)、元のごとし」吉井村村内の景。この時の竜巻の発生が局所的で、影響も極めて限定的であったことが判る。

「五、六里なる山手」「數(す)十里に連(つらな)りたる高山(かうざん)」「山手」とあるから内陸の高地(実はここは西の海側にも山塊はある)。のグーグル・マップ・データを航空写真に切り替えると、東方に有意な山塊が見え、偶然であろうが、その北端のピークは「高立山」(たかだてやま)、南方端にあるピークは「高山」(呼称は「たかやま」であろう)である。]

2017/08/06

北越奇談 巻之一 似類

 

    似類(じるい)

 

Kuutyuuwosamayoumono

 

[やぶちゃん注:橘崑崙茂世の筆になる挿絵(左に「茂」「世」の落款有り)。私はこの挿絵がすこぶる好きでたまらない。右上には『西川乃土人棒をもて怪物をうたんとなす』とキャプションが入る。なお、標題の「似類」とは、前の二話の「登蛇(とうだ)」と「似」たような「類」いの未確認生物・幻獣の謂いである。]

 

 信川(しんせん)の分流西川(にしがは)といへるは、海に近く、伊夜日子山(いやひこやま)の一里東を巡り、新潟の南(みなみ)、平島(ひらじま)にて會す。此川續きに曾根と云へる所、又、鈴木村(すゞきむら)と云へる、此両村を插(ささしはさみ)てあり。

 夏の夕暮れ、若者ども、多く集まり、流(ながれ)に浴し、砂汀(さてい)に戲(あはむ)れ遊ぶ折節、何(なに)共知らず、二尺餘りなるもの、空中、一丈ばかり上にありて、頻りに轉じ翻るること、兵術(ひようじゆつ)に棒を使ふがごとく、一轉(いつてん)ごとに響(ひゞき)ありて、夫(それ)と見定むべき樣(やう)もあらず。

 初めは小児(しように)等(ら)、釣竿・小竹(をだけ)なんど、持ち來りて、是を打(うた)んとすれども、更に打(うち)當つること、なし。

 若き者共、興に入(いり)、手(て)ン手(で)に、棒・舟棹(ふなざほ)なんど、携ひ來つて、左右前後より、是を打てども、其翻ること、速(すみやか)にして、一ツも打得(うちう)ること、あたはず。後(のち)は次(しだい)に、大勢、東西の岸に集まり來り、力を盡し、聲を勵(はげま)して打(うつ)ほどに、何時(いつ)となく、怪物は消(きえ)失せて、両村の老若(らうにやく)、何ごとゝは知らず、騷動すること、夥(おびたゞ)し。

 日も巳に暮(くれ)果つるほどに、風雨、俄(にはか)に水陽(みなかみ)より起り、その激しきこと、皮肉を破るがごとく、漸々(やうやう)にして、皆々、家に逃歸(にげかへ)れり。

 此一事(いちじ)、殊に奇なり。按ずるに、是等も又、登蛇(とうだ)の類ひならんか。

 

[やぶちゃん注:空中を浮遊する目に見えない透明なクラゲのような(しかし何かが確かにいることが棒を振り回すような回転する「ぶぅん」というような音(オノマトペイア表現は本文叙述からの私の推定)によってはっきりと全員に知れるのである)怪物という属性が実にオリジナルですこぶるいいではないか! しかもそれは、筆者の夢想の産物なんどではなく、村人たちが追い掛け回しては知らないうちにいずこかへと消え去っている現実の何ものかなのである! ある者は集団ヒステリーで片付けるかも知れぬし、何らかの微小昆虫の集合体と同定する輩もおり、また、阿呆臭い、空中を高速(時速二百八十キロメートル以上で飛翔移動するとされている棒状の未確認動物スカイ・フィッシュ(Sky FishFlying RodsRod)を今さらに言い出したり、「ウルトラマンティガ」に出てきた空中棲息生物クリッター! と叫ぶ奴もいるかも知れぬ。しかし、正体が判らぬ故に、この出現が日常化しているにも拘わらず(普通、これは怪談の怪談性の低下を引き起こす大きなマイナス要素である)、この話、実に第一級の怪奇談の一つと言えるのである。実際には私も実在生物(特に昆虫)の群体として考察し、それに集団感染性ヒステリーを添えて解明してみたい欲求はあるのであるが、それは如何にも私の好きなこの話の注としては至って面白くないと思うのである。

「信川の分流西川といへるは、海に近く伊夜日子山(いやひこやま)の一里東を巡り、新潟の南(みなみ)、平島(ひらじま)にて會す。此川續きに曾根と云へる所、又、鈴木村(すゞきむら)と云へる、此両村を插(ささしはさみ)てあり」以上の叙述から地図を探って行くと、発見した! ここだゾ!!

現在の西川信濃川から一度、新潟県燕市五千石付近で分流し、弥彦山(=「伊夜日子山(いやひこやま)」)

約四・九キロメートル(以上は山頂からの直線距離であり、「一里」とは齟齬しない)

を北上して下り、遙か北の

新潟の南西方直近にある、現在の、

新潟市西区平島

で、河口近くの

分流元である信濃川に再び注いで(「會」して)いる

から、

西川は分岐も合流も信濃川という信濃川の秘蔵っ子中の正統なる分流

なのである! そうしてその、

西川の東(右岸)

にある、

現在の新潟県新潟市西蒲区曽根

の、

西川を隔てた直の対岸(左岸)

には、実に

新潟市西蒲区鱸(すずき

という「そね」と「すゞき」の地名が現存するのである! ここ!(グーグル・マップ・データ)

現代の地図データを調べて、ここまで江戸時代の記述の細部までがほぼ完全に一致するということは、そうそうあるもんじゃないんだ! 嬉しいッツ!!!

「砂汀(さてい)」川岸の川砂の溜まった洲(す)。

「二尺」六十一センチメートル弱。

「一丈」三メートル三センチ。

「水陽(みなかみ)」西川の上流。前に述べた通り、元は信濃川であるが、分岐点からは直線でも約二十一キロメートル離れており、途中も激しく蛇行している。この場合は、上流がこの辺りで、西に大きく蛇行していることから、川の上流というより、その西方向にある角田山(かくだやま:新潟県新潟市西蒲区にある。標高四百八十一・七メートル)の北の裾野を、日本海方向から強烈な海風が吹き寄せてくる、と解釈した方がよいかも知れない。夏という季節から考えても、これは強い偏西風を指している可能性もある。]

 

北越奇談 巻之一 登蛇 + 其二

 

    登蛇(とうだ)

 

Touda

 

[やぶちゃん注:遠近感と空間の厚みを美事に捉えた葛飾北斎の挿絵である。右の雲気の中に『聖教寺乃園中に小虵風雨を起して登天なす』とある。「虵」は「蛇」に同じい。見開きのそのままを画像化したが、左の歪みはママである。早稲田大学古典データベースの画像を見るとこんな歪みはないから、野島出版が挿絵を取り込む際に処理を誤ったものと思われる。【2017年9月3日削除・追記】今回、ダイナミックな北斎の画像をより正確に味わえるように、左右の画像を接近させて合成し、一部の枠を除去した。悪しからず。]

 

 

 頸城郡(くびきごほり)松の山村聖敬寺(せうけいじ)と云へるは、森々たる古木、晝暗く、庫裏(くり)は大沢(だいたく)に臨みて、淸水(せいすい)譚々と、夜(よ)、明らかなり。

 一トとせ、秋のすゑ、老僧客(らうそうかく)と相對し、間談止(やみ)て、暫く黙坐がする折節、沢の邊(ほとり)より、小蛇(しやうじや)の長(たけ)五、六寸ばかりなるが這出(はへいで)て、石上(せきしよう)に登り、其尾、纔かに、四、五分(ぶ)ばかり、石に付けて直立し、一声(いつせい)、細く、吟ず。

 客、怪しみて問(とふ)。僧の曰(いはく)、

「是は、正しく登天の蛇(だ)なるべし。油斷すべからず。」

とて人を呼び、

「干物(ほしもの)なんど、取納(とりおさめ)よ。窓、鎖(さ)せ。柴に笘(とま)覆(おほ)ひ。」

など云へる中(うち)、一点の奇雲、簷頭(せんとう)に現はれ、小蛇、忽ち、見へず。

 かゝるほどこそあれ、暴風、すさまじく吹起り、樹を倒し、山を動(うごか)して、蛟龍(こうりやう)、雲中(うんちう)に現じ、西に飛び、東に馳(はせ)、北に飜り、南に驅けりて、縱横すること、數(す)十度、大雨、いよいよ強く、石を穿ち、山を割(さき)て、洪水、沢に溢(あふ)れ、暗きこと闇夜(あんや)に異ならず。朝の五ツより暮の七ツに至るまで戸を閉(とぢ)て開くあたはず。只、今、天、傾(かたふ)き、地、陷(おちいる)かと、恐ろしなどいふばかりなし。

 然るに、忽(たちまち)、空中、一声の響(ひゞき)ありて、山林、動搖しけるが、風雨、程なく晴渡りて、何(いづ)くともなく、其(その)去りし所を知らず。

 然るに、三とせほど過(すぎ)て、初春の頃、木を刈(かる)者、深山に入(いり)、

「大蛇(だいじやの)枯骨(ここつ)、數丈(すじやう)なるを見たる」。

と云へり。

 是を按ずるに、登天の龍(りやう)、人の看(かん)に觸るゝときは、天帝、これを罰す、と云へり。もし、是等のことにもやあらんか。只し、此説も又、信ずべきにもあらず。

 

[やぶちゃん注:これも筆者の実見(というか、後半は実聴という方が正しい)になる実録小蛇と天変の怪異は確かに見聴きしたのにも拘わらず(後半で実見していない点で彼はこれを真正の龍蛇の怪異と見做すことを留保しているとも言える。何より次の「其二」で崑崙は最後に「予はいまだ、登蛇を見ず」と断言しているのである)、昇龍が人にしっかりと見られてしまった場合には天帝はその龍(蛇)を罰する、という説を「又、信ずべきにもあらず」と退けているところ辺り、崑崙の現実主義的考証家としての手堅い一面をはっきりと提示していると言える。

「頸城郡(くびきごほり)松の山村聖敬寺(せうけいじ)」旧新潟県東頸城郡松之山町(現在は十日町市松之山。ここ(グーグル・マップ・データ))のことかと思われるが、この周辺域に「聖教寺」という寺院は現存しない模様である。識者の御教授を乞う。

「間談(かんだん)」閑談で、とりとめのない(僧から見れば)下らない世間話ととっておく。

「五、六寸」十六~十八センチメートル。

「四、五分」一・三~一・五センチメートル。

「笘(とま)覆(おほ)ひ」「ひ」はママ。命令形「へ」が正しい。「笘」は既注であるが、再掲すると、菅(すげ)・茅(かや)などで編んで作った大型のシート。対象物を覆って雨露を凌ぐのに用いた。

「簷頭(せんとう)」簷(ひさし)の突き出した縁側の先。

のに現はれ、小蛇、忽ち、見へず。

「かゝるほどこそあれ、」野島出版版はこの前の改行はない。また「あれ」の後は句点であるが、私は事態がありえないように急激に転変する感じを出すには、ここは改行し、しかも「こそ」已然形の逆接用法ととった方がより効果的と考えた。

「蛟龍(こうりやう)」ウィキの「蛟龍によれば、『中国の竜の一種、あるいは、姿が変態する竜種の幼生(成長の過程の幼齢期・未成期)だとされる』。『日本では、「漢籍や、漢学に由来する蛟〔コウ〕・蛟竜〔コウリュウ〕については、「みずち」の訓が当てられる。しかし、中国の別種の竜である虬竜〔キュウリュウ〕(旧字:虯竜)や螭竜〔チリュウ〕もまた「みずち」と訓じられるので、混同も生じる。このほか、そもそも日本でミズチと呼ばれていた、別個の存在もある』(ここで言う本邦での「みずち」(古訓は「みつち」)は水と関係があると見做される竜類或いは伝説上の蛇類又は水神の名である。「み」は「水」に通じ、「ち」は「大蛇(おろち)」の「ち」と同源であるともされ、また、「ち」は「霊」の意だとする説もある。「広辞苑」では「水の霊」とし、古くからの「川の神」と同一視する説もあるという)。『ことばの用法としては、「蛟竜」は、蛟と竜という別々の二種類を並称したものともされる。また、俗に「時運に合わずに実力を発揮できないでいる英雄」を「蛟竜」と呼ぶ。言い換えれば、伏竜、臥竜、蟠竜などの表現と同じく、雌伏して待ち、時機を狙う人の比喩とされる』。荀子勧学篇は、『単に鱗のある竜のことであると』し、述異記には『「水にすむ虺(き)は五百年で蛟となり、蛟は千年で龍となり、龍は五百年で角龍、千年で応竜となる」とある。水棲の虺』は、一説に蝮(まむし)の一種ともされる。「本草綱目」の「鱗部・龍類」によれば(以下、最後まで注記番号を省略した)、『その眉が交生するので「蛟」の名がつけられたとされている。長さ一丈余』(約三メートル)『だが、大きな個体だと太さ数囲(かかえ)にもなる。蛇体に四肢を有し、足は平べったく盾状である。胸は赤く、背には青い斑点があり、頚には白い嬰』(えい:白い輪模様或いは襞(ひだ)或いは瘤の謂いか?) 『がつき、体側は錦のように輝き、尾の先に瘤、あるいは肉環があるという』。但し、蛟は有角であるとする「本草綱目」に反して、「説文解字」の『段玉裁注本では蛟は「無角」であると補足』して一定しない。「説文解字」の小徐本系統の第十四篇によれば、「蛟竜屬なり、魚三千六百滿つ、すなわち、蛟、これの長たり、魚を率いて飛び去る」(南方熊楠の「十二支考 蛇に關する民俗と傳説」から私が改めて引用した)『とある。原文は「池魚滿三千六百』『」で、この箇所は、<池の魚数が』三千六百『匹に増えると、蛟竜がボス面をしてやってきて、子分の魚たちを連れ去ってしまう、だが「笱」』(コウ/ク:魚取り用の簗(やな)のこと)『を水中に仕掛けておけば、蛟竜はあきらめてゆく>という意』が記されてあるそうである。「山海経」にも『近似した記述があり、「淡水中にあって昇天の時を待っているとされ、池の魚が二千六百匹を数えると蛟が来て主となる」とある。これを防ぐには、蛟の嫌うスッポンを放しておくとよいとされるが、そのスッポンを蛟と別称することもあるのだという』。更に時珍は「本草綱目」で『蛟の属種に「蜃」がいるが、これは蛇状で大きく、竜のような角があり、鬣(たてがみ)は紅く、腰から下はすべて逆鱗となっており、「燕子」を食すとあるのだが、これは燕子〔つばくろ〕(ツバメ)詠むべきなのか、燕子花〔カキツバタ〕とすべきなのか。これが吐いた気は、楼のごとくして雨を生み「蜃楼」(すなわち蜃気楼)なのだという』。『また、卵も大きく、一二石を入れるべき甕のごと』きものである、とする。

「朝の五ツより暮の七ツ」午前八時前後から午後四時前後。

「數丈(すじやう)」約十八メートル前後。

「人の看(かん)に」人の眼に。]

 

 

 

    其二

 

 三条の古城跡、今なを殘れるものは、内堀半ば埋れたれども、泥深く、水淸く湛へて、囘(めぐ)りは盡く、人家、連(つらな)れり。

 過ぎし年、秋もやゝ枯れ芦(あし)の、そこ爰(こゝ)に苅殘(かりのこ)したる間(あいだ)より、尺ばかりなる靑蛇(せいじや)一ツ現はれ出(いで)、かの芦に登りつゝ、其尾ばかり、少し、枯葉の先に打纏ひ、頭高く仰(あふい)で、口を開き、大さ、豆ほどなる氣を吐(はき)けるが、忽(たちまち)、鞠(まり)のごとき怪雲となりて、かの小蛇を隱し、煙(けむり)のごとく、中空に立登る程こそあれ。

 大雲(たいうん)、俄(にはか)に渦捲き起り、暴風、樹上を押し、大雨、篠を突き、暮(くる)るも更に分たざりしが、かの登蛇は、遙かに北を指して飛去りぬと覺へけれど、夜に入りては、いよいよ、雷電、鳴(なり)はためき、三日のうちは猶、風雨、止(やま)ざりけり。

 凡(およそ)是に類すること甚(はなはだ)多し。皆、目(ま)の當り、人の見る所にして、さして疑ふべきにもあらねども、はいまだ、登蛇を見ず。

 

[やぶちゃん注:今までとは異なり、最後の一文から、この内容は伝聞過去の「けり」で怪異の話柄が終わっているように、総てが聞き書きであり、だからこそ最後のびしっと決めた断言が、龍蛇の存在への崑崙の中の強い疑義感を示していると言えるのである。

「三条の古城跡」現在の新潟県三条市にあった三条城の城跡。ウィキの「三条より引く。『最初に城が築かれた時期は不明だが、平安時代に三条左衛門が築き、前九年の役の後、安倍貞任の郎党、黒鳥兵衛が攻め落としたという』。『南北朝時代には南朝方の池氏の拠点となった』。『室町時代になると』、『守護代長尾邦景方の山吉久盛の拠点となり』、応永三〇(一四二三)年には『守護上杉房朝方の中条房資・黒川基実・加地氏・新発田氏に攻められるが、黒川基実・加地氏・新発田氏が寝返り』、『落城しなかった』。『戦国時代も代々山吉氏の居城となっていたが、山吉豊守が』天正五(一五七七)年『に死去すると、嗣子がなかったため』、『弟の山吉景長が山吉氏を嗣いだ』ものの、『領地は半減されて木場城に移され、三条城には神余親綱が入った』。『上杉謙信の急死により勃発した御館の乱で、神余親綱は栃尾城主の本庄秀綱と示し合わせて上杉景虎に与し、上杉景勝に対抗した。景虎死後も景勝に対抗していたが、山吉景長が城内の旧臣に呼びかけて内応を誘い』、天正八(一五八〇)年『に落城、親綱は自刃した』。その後、『景勝は三条城を応急普請し甘粕長重を城主に据え』、天正九(一五八一)年『に勃発した新発田重家の乱において中継拠点として度々利用された』。『上杉景勝の会津移封後は堀秀治の家老堀直政が城主となり、直政嫡男の堀直清が城代となった』。慶長五(一六〇〇)年の上杉遺民一揆の際には攻撃を受けたが、堅守、慶長一五(一六一〇)年に堀家が改易となると、三条城は一旦、廃城となった。江戸時代になると、元和二(一六一六)年に『市橋長勝が三条城主に任じられ、信濃川の対岸東側にあらたに築城したが、市橋氏は在城』五年にして『改易となり、稲垣重綱が入ったが』、寛永一九(一六四二)年、幕命によって廃城となっている、とある。新潟県三条市上須頃ろ)附近(グーグル・マップ・データ)にあったと推定されているようである。ここは現在、東が信濃川、西が信濃川分流の中ノ口川で、そこに挟まれた巨大な中洲のような地形を成している。如何にも、蘆が沢山生えていて、蛇もいっぱいいそうな場所ではある。]

北越奇談 巻之一 巻水

 

    巻水(けんすい)

 

 同年八月十三日、朝五ツ時、新潟を出舩(しゆつせん)して池端(ちたん)の幽荘に歸らんとす。伴ふ者一人、乘り遲れて後舟(あとぶね)一丁ばかり引下(ひきさが)りて來りぬ。が乘合は、湯殿山詣、尾州の道者、十八人なり。殊に晴天一片の雲なく、風、朗(ほが)らかに、景色、云ふばかりなし。湊口(みなとぐち)は難なく打渡り、沼垂(ぬつたり)の裏潟(うらかた)より、新渠(しんかは)一里ばかり、舟子(ふなこ)に綱手(つなで)引かせて急ぎけるが、忽(たちまち)、海上(かいしやう)、一(ひと)群れの雲(くも)起り、瞬(またゝき)の中(うち)に、半天の掩ひ、數(す)條の雲、曳下(ひきくだ)り、已に波上(はしやう)、五、六間にもなりぬと覺ゆる頃、頻りに雲尾(うんび)轉じ、忽(たちまち)、白波高く湧上(わきあが)り、雲尾に接(まじは)ると見へしが、一條の白氣(はくき)、黒雲(こくうん)の中に立昇ること、數(す)十丈なり。巻上げたる水は、半(なかば)より斷(たち)て落(おち)ぬ。海上、猶、浪(なみ)湧きて、窪(くぼ)かなる穴をなせるがごとし。白氣、雲中(うんちう)に入ると等しく、驟雨(しうう)、瀧を峙(そばだ)つるがごとく、咫尺(しせき)の間(あいだ)も分(わか)たばこそ、船中、忽、水溢(あふ)れ、笠を漏(も)り、蓑を通し、乾ける所は更になし。漸(やうやう)晴上がりて、

「後(あと)なる舟は如何に。伴ふ者は無事なるか。」

と顧省(かへりかへりみる)ほどに、間もなく、出來(いできた)り、互へに其危(あやう)きを語れば、纔かに後(おくれ)たる舟は、

「一点の雨なく、風の強きこと、舟を中空(なかそら)に飛(とば)すごとくなりし。」

となん。

 如何に不思議なる龍(りやう)の神変、計(はか)り難きことどもなり。

 も、此日、初めて龍の水を巻く所を目前に見つるが、是を以考(もてかんがふ)るに、世に龍の水を卷くと云へるは無(なき)にしもあらねど、多くは水中の龍、雲を呼び、水を曳(ひい)て上天(しようてん)すると覺(おぼへ)たり。此日、遠方より見たる人の物語るには、

「十三條が雲、曳下(ひきくだ)りたる。」

と云へり。されども、近く是を見れば、雲、數(す)條の中(うち)、只、一條の大雲(だいうん)、波上(はしよう)に近付(ちかづき)、切(しき)りに轉ずる時、水中より浪湧き、海底、轟き渡りて、一條の白氣、空を突(つき)て登る。然(しか)れば、十三條曳下(ひきくだ)るとて、十三龍(りやう)の水を巻くにはあらず。水中の龍、みづから、雲を呼ぶに依りて、引連(ひきつれ)、數(す)條の雲を相迎(あいむかふ)ると覺(おぼへ)たり。故に、初め、靑空(せいくう)一点の雲を呼びて後、如ㇾ此の化(くは)をなす。只、雲中の龍、水を得ざる前は靜かにしてあるべきいはれなし。又、龍(りやう)の説、紛々、追(おつ)て、智者の論を聞(きか)ん。

 

[やぶちゃん注:前話の僅か十二日後に、やはり筆者橘崑崙が実体験した水上での水を吸い上げる竜巻の実見記。恐るべき実録記載の三連投!!!

「同年八月十三日」前の竜巻二本の発生は、実は場所もごく近い。先のそれは「寛政三辛亥(かのとゐ)年(どし)八月朔日」でグレゴリオ暦一七九一年八月二十九日午後四時前後であったが、今回のそれはグレゴリオ暦一七九一年九月十日の「朝五ツ時」で、定時法なら午前八時前後であるが、不定時法ではこの時期では今少し前の午前七時四十五分頃から八時頃に相当する。

「池端(ちたん)」前話に出るも不詳。しかし、今回の方向は、

「新潟」→「湊口(みなとぐち)」(正確な位置不詳。信濃川河口付近か)→「沼垂の裏」手→「新渠(しんかは)」(=通船川)【以降は追記注を参照】

で、先の実録談の進行方向とは逆のように思われ、そうすると、「池端」=三条のどこかとする私の仮説は崩れることとなってしまう(但し、これはあくまで現在の地図上での新潟地誌に冥い(しかし、落された新潟大学入試の地理の問題には必ず新潟地誌の問題が出るため、高校時代に人よりは新潟の地誌をかなり細かく学んだことを、いまさらに私は思い出しした)私の愚考ではある)再度、越後地方史研究者の御教授を乞うものである。【二〇一七年八月二十六日追記】「北越奇談 巻之四 怪談 其八(崑崙の実体験怪談)」でこの場所をかなりの所まで絞り込むことが出来たので是非、参照されたい。【二〇一七年八月三十一日削除・追記】前の「巻之一 鬪龍」の「池端」の注追記で示した通り、H・T氏の考証により、私の位置認識が全く以って誤っており、これは新潟県新発田(しばた)市池ノ端(いけのはた)ここ(グーグル・マップ・データ))であることが判明した。H・T氏のこの注への御指摘によって、ここでの崑崙の動きも地図上での整合性をとることが出来ることが判った。同氏のメールから引用させて戴く(一部の表記・表現を加工させて貰った)。

   《引用開始》

 実際の経路は、「新渠(しんかは)」(=通船川)から阿賀野川出て、対岸の新発田川に入り、大田川と新発田川の合流点で大田川に入り、そのまま遡って池之端陣屋までとなります。

 此れはウィキの「新発田川」に載る輸送路としての『新発田から新潟までのルート』の、『猿橋-舟入-中ノ橋-三賀(堰)-佐々木-笠柳(堰)-木崎-島見-津島屋-通船川-焼島潟-栗の木川-信濃川-新潟』の逆方向で、途中で分岐したものです。

 なお、池之端陣屋は戦国時代の池之端城(大田川左岸の自然堤防上の城)跡で、南東側外郭に作られています(参考:秋田城介氏のサイト「秋田の中世を歩く」の池之端城)。

   《引用終了》

 

「幽荘」世間から離れてひっそりと静かな隠宅。

「一丁」百九メートル。

「湯殿山詣」山形県鶴岡市と同県西村山郡西川町に跨る、月山・羽黒山とともに出羽三山の一つとして知られる修験道の霊場湯殿山。月山南西山腹にある。標高千五百メートル。

「尾州」尾張国。

「道者」「同者・同社」とも書き、神社・仏閣・霊場などを連れ立って参詣する巡礼。老婆心乍ら、ここは、同船していた乗客は自分以外は「湯殿山詣」での帰りの「尾」張国の巡礼の人々「十八」名(+他船頭二人で計二十一名であろう。後に「綱手」と出るのは、川幅が狭く、流れが比較的緩やかな運河河川などを流れに逆らって遡上する際に土手に「舟子(ふなこ)」の一人が上り、小舟に繋索した綱を持って曳き、運行させる方法と読んだ。そのためには舟には〈今一人の繩及び微妙な操船を担当する船頭〉がいなければ、危険だからである)であったという謂いである。舟の定員数もある程度は決まっていたのであろうが、冷静確実な記憶に私は舌を捲く。

「半天の掩ひ」「の」は野島出版版も「の」で、原典を見ても、「の」の崩し字とするのが確かに最も無難であると私も判断してかくしたが、ここは「半天を掩ひ」とあるのが最も自然で、格助詞「の」では逆立ちしても読めないと思う。或いは崑崙の現行を彫った彫り師の誤刻かも知れぬ。

「五、六間」九メートル十センチから十メートル九一センチ。

「雲尾(うんび)轉じ」積乱雲の底から漏斗状に雲が回りながら垂れ下がって来るのを「尾」が「轉じ」たと言っているのである。そうして「忽(たちまち)、白波高く湧上(わきあが)り、雲尾に接(まじは)ると見へしが、一條の白氣(はくき)、黒雲(こくうん)の中に立昇る」とは竜巻が海上で海水を吸い上げ、遂にはそれが大きな水柱となり、「海上」表面には吸引されている地点に「窪(くぼ)かなる穴をなせるがごとし」であった、という水上での竜巻の一連の発生及び形成過程を実に冷静に子細に観察している。崑崙、恐るべし!

「數(す)十丈」一丈は三・〇三メートルであるから、約百八十二メートル前後(私は「数」という不定数詞は六掛けを基本としている)。

「半(なかば)より斷(たち)て落(おち)ぬ」

「白氣」ここは五行説のそれではなく、竜巻の中央部で圧縮された水とその中空での転回がかく見えたものであろう。

「驟雨(しうう)」急に降り出す雨。対流性の積雲や積乱雲から降る雨で、降水強度が急激に変化し、降り始めや降り止みが突然で、空間的な降雨分布を見ても変化が大きく、散発的であることを特徴とするもの。中でも特に短時間で止む一過性のそれを「俄か雨」と呼称する(ウィキの「驟雨」に拠った)。

「瀧を峙(そばだ)つるがごとく」瀧を自分の傍に持ってきて、屹立させたような感じで。

「咫尺(しせき)の間(あいだ)も分(わか)たばこそ」ほんの僅かの距離や時間も冷静に目測・計測出来ないほどに、一瞬のうちに。結びの省略及び近世以降に生ずる「ばこそ」の形での否定の意の用法。

「笠を漏(も)り」野島出版版や原典は「笠をもり」と平仮名。意味が採り難いと判断して、かく漢字化した。

「互へに」原典のママ。

「龍(りやう)」以下、原典では総て「りやう」のルビを振る。読者のために幾つか複数箇所に特異的に読みを複数回振っておいた。

「十三龍(りやう)」十三頭の龍(りゅう)。

「如ㇾ此」「かくのごとく」。

「化(くは)」化生(けしょう)の謂いであるが、事実上は科学的な見かけ上の変化や象の謂いでとっても全く論理矛盾を生じないところが崑崙の凄いところではないか?! 言い添えておくと、本書冒頭の私の注の中のウィキの引用にもあった通り、崑崙はかなりの現実主義者であり、怪奇現象をあまり信じていなかったことが、本書全体の雰囲気からは窺われるのである。]

2017/08/05

北越奇談 巻之一 鬪龍

 

    鬪龍(とうりやう)

 

 寛政三辛亥(かのとゐ)年(どし)八月朔日、信川(しんせん)の西江戸巻の傍(かたはら)にいさゝかなる池水(いけみづ)あり。しかるに此日、忽(たちまち)、西北(にしきた)の風、激しく吹來りて、一点の黑雲(こくうん)、その水面(すいめん)に落(おつ)ると見へしが、百雷一度に轟き起り、黑雲、田野に敷き、ニツの龍火(りやうくは)、水上(すいじよう)に戰ひ、東に追ひ、北に返して囘轉すること、風車(ふうしや)のごとく、霆雷(いなびかり)、四方に閃(ひらめ)き、その響、地軸を動しけるが、忽(たちまち)、怪風、左右に吹分れ、暴雨、盆を傾(かたふ)け、其疾(とき)こと、百千の𥅄(ど)を放(はなつ)がごとく、拳(こぶし)の太さなる氷塊を交(ま)じへ、飛(とば)す。一たび、是(これ)に觸るゝ者は皮肉を破り、骨を碎(くだ)く。烈風の過(すぐ)る所、家を傾け、木を穿ち、石を轉(まろば)し、土を覆す。急雨の過(すぐ)る所、壁を通し、戸を倒して、平地、忽、江河となせり。一龍(いちりやう)は東を指して稻麻(とうま)を千切り、村屋(そんおく)を亂して、栗林(くりばやし)と云へる村下(むらのほとり)を過(す)ぎ、加茂の山邊(やまべ)に添ふて登る。一龍は信川を上(のぼ)りに、三條の町端を過ぎ、堤(つゝみ)の上なる土藏を押(おし)、茶店(さてん)を倒し、南を指して飛去(とびさ)りしが。又、半空(はんくう)より引返して、山手の方を北に巡り、何くとも至る所を知らず。總て其行過(ゆきすぐ)る村落・田野、大小となく、人家草木に害なきはあらじ。殊に甚しきは、信川の邊(ほとり)栗林の前後にして、其餘、二、三里には過(すぎ)ざるものなり。は此頃、いまだ池端(ちたん)にありて、其日は殊に、八朔(はつさく)の空、豐かなりしかば、田家(でんか)に祝宴し侍りけるに、翌日早天(さうてん)、加茂の近村より飛脚到來して其事を訴ひ、役所より見分す。かゝる鬪龍の大変は北越にも稀なることなり。

 

[やぶちゃん注:第一話に続けて竜巻実録二連発で、しかも、こちらはまさに同時に二本(!!)が発生したハイブリッドな二連発でもある。

「寛政三辛亥(かのとゐ)年(どし)八月朔日」グレゴリオ暦一七九一年八月二十九日

「信川(しんせん)の西江戸巻」信濃川の西(岸)の「江戸巻」ということか? 不詳であるが、これ等の条件から調べてみると、ある地区が候補として上ってくるように私には感じられた。それは現在の新潟市西蒲区大字巻東町(まきあずまちょう)である((グーグル・マップ・データ))。ここは確かに信濃川が北上して下る西側に位置しており、しかも「巻(まき)」の字が含まれ、「江戸」は「東(あずま)」と親和性がすこぶる強いからである。識者の御教授を乞う。

「ニツの龍火(りやうくは)」恐らくは同時か交互に積乱雲内で雷電が発生し、しかもその直後に偶然、二つの別々な竜巻が発生したものと推定される。

「百千の𥅄(ど)を放(はなつ)がごとく」𥅄は「見つめる」の意か? 野島出版脚注には、『𥅄は弩』(音「ド」)『の誤記であろう。一度に多くの矢を發し得る』石『弓のこと』とする。私もこの見解に賛同するものである。

「氷塊」雹である。最近のsupercell(スーパーセル:極大積乱雲)とそれに伴う竜巻騒ぎやゲリラ豪雨の際にも、かなり大きな雹が降って、かなりの物損被害が生じたのは記憶に新しい。

「稻麻(とうま)」稲や麻などの纏まって生えている人工的な栽培作物全般を指している。

「栗林(くりばやし)」先の巻東町から南へ十一キロメートルほどの信濃川河畔の新潟県三条市栗林か。(グーグル・マップ・データ)。

「加茂」新潟県加茂市の丘陵部か。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここに配したグーグル・マップ・データには一画面の中に巻東町と栗林と加茂市の丘陵部が総て含まれており、次に出る「三条」も入っており、本ロケーションとして私は無理がないと考えている。【二〇一七年八月三十一日追記】新潟県加茂市下条。(グーグル・マップ・データ)。次注を必ず参照のこと。

「池端(ちたん)」読み方が特異であるが、不明。三条は橘がいたことがはっきりしている場所であり、ここに「池端(ちたん)」という場所があれば、比定は間違いないと思うのだが。識者の御教授を乞う。【二〇一七年八月二十六日追記】「北越奇談 巻之四 怪談 其八(崑崙の実体験怪談)」でこの場所をかなりの所まで絞り込むことが出来たので是非、参照されたい。【二〇一七年八月三十一日削除・追記】私の「池端(ちたん)」探索は、橘崑崙茂世が出版当時、三条に住んでいたことに拘ってしまった結果として見出せなかった誤りが一つ、また、彼がその場所「池端」を「ちたん」と音読みしているのを無批判に受け入れてしまい、「いけはた」「いけのはた」という地名を捜すという基本行動をしなかった誤りが一つ、さらに悪いことに、見出せないことに苛立って、意識の中でそれを「池(いけ)の端(はた)の寓居」という意味に勝手に変換して考えるようになってしまった誤りが一つ、と三重の誤認が総ての推理を決定的に誤ったものとしまっていたことが、昨日、未知の大阪在住のH・T氏からのメール(そこではこの地名の詳細な検証が成されてあった)を頂戴して判然とした。まず、結論から言うと、これはH・T氏の考証により、

 

新潟県新発田(しばた)市池ノ端(いけのはた)(グーグル・マップ・データ))

 

であると確定してよいと思われる。以下、H・T氏からのメールを部分引用させて戴く(同氏の了解はお願いしてある。但し、一部の表記・表現を加工・省略させて貰った)。

   《引用開始》

 新潟県新発田市池ノ端附近は、江戸時代、此の地に寄合旗本であった溝口家(越後池端五千石)の陣屋がありました。寄合旗本溝口家は越後新発田藩分家で第三代直武以降、寄合となり、知行地の池之端(現新潟県新発田市池ノ端)に陣屋を構えています。

 地名「池端」「池ノ端」の書き分けについては、幕末明治初期の文書(サイト「新潟県立文書館」のインターネット古文書講座の第二十九回「物価高騰につき拝借金願」(原文画像解読文解説)を見ると、最後の宛先は、『池端御役所』とあり、また、同講座の第三十六回の旧主様に才覚金の返済を求める原文画像・解読文と解説)では、差出人肩書に『元池端御知行所』とあって、宛先人肩書は『元池端様御懸役』となっています。

それに対して、『早稲田大学図書館紀要』第六十二号(二〇一五年三月)の藤原英之氏の論文「市島春城の生家、角市市島家の歴史について」(「早稲田大学リポジトリ」よりPDFでダウンロード可能)の中の「吾家之歴史」の翻刻資料の一七二頁には、柱に『池之端始』、本文に『○四男国太郎殿、池之端溝口讃岐守様御陣屋御代官役被申付、尤此方ゟ八百両年賦安利かし付申候』とあり、其後の辞令文書では『普代抱入給人格池端陣屋代官役申付、別紙之通宛行候、念入可相勤候、子七月』と、「池之端」と「池端」が書き分けられています。

 公式文書(陣屋提出または発給文書)は「池端」、その他の言い方・書き方は「池之端」ではないかと推察します。

 また、この「巻之一 鬪龍の条」の最後の、「加茂の近村より飛脚到來して其事を訴ひ、役所より見分す」とあるのは、加茂市民俗資料館館報告(PDF)の四頁目にある佐藤謙次氏の「市川家から池端代官となった俊次郎」の「講座内容」の中に、慶長三(一五九八)年より新発田藩領であつた下条村は、寛永五(一六二八)年に検地され、三ヶ村に分村した。そのひとつである下条中村は、旗本溝口内記宣俊の所領となり、新発田の池端に陣屋が置かれた五代目市川正兵衛は、加茂町の庄屋の他、鶴田新田や下条東村の庄屋も兼帯していた。六代目正太郎の願い出により、子の俊次郎は新発田藩池之端陣屋の代官役となったとあることから、現在の加茂市の下条((グーグル・マップ・データ))の一部は、新発田の池端に陣屋の支配地であったのであり、この竜巻被害は八朔で取り入れ前のことでもあり、「加茂の近村」である下条中村の庄屋は、池端陣屋に被害報告と検分を依頼する義務があったのです。

   《引用終了》

この後、H・T氏は次の「巻之一 巻水」及び「巻之四 怪談 其八」の私の池端誤認による誤りを訂された上(後日、それぞれの誤った注も順次改訂する)、最後に、

   《引用開始》

 小生、上記で、まず間違いないと思っています。

 ここからは想像ですが、「崑崙橘茂世」は池端陣屋に関係する現地雇用の手代、手先のような者ではなかったでしょうか?

 鬪龍の条の竜巻発生状況、被害が詳しく、飛脚便の書類を目にできる立場にあるような気がしました。

   《引用終了》

と添えておられる。「池端」同定の確度は勿論のこと、最後の謎めいた崑崙橘茂世の正体の推理に激しく胸揺すぶられた。最後にH・T氏に心から御礼申し上げるものである。]

北越奇談 巻之一 龍蛇ノ奇

 

[やぶちゃん注:読み易さを考え、本文の段落の冒頭は野島出版版に従い、一字空けた。冒頭の「挍合」は「校合」(けふがう(きょうごう))に同じい。

 

北越奇談巻之一

 

        北越 崑崙橘茂世述

 

        東都 柳亭種彦挍合

 

    龍蛇(りやうだ)ノ奇

 

Hokuetukidannryou

 

[やぶちゃん注:右の雲中に、

 

編者崑崙

 新寫にて

  龍巻に

   あふ

 

とある。しかし茂世の落款はどこにも見当たらないし、タッチから見ても、これは「北越奇談」刊行に当たって橘が新たに描いたものを北斎が描き直したものと思われる。本文第一篇の挿絵をわざわざ「新寫」したという事実から見て、本書刊行に当たって、橘が原稿だけでなく、挿絵の追加を望んだり、或いは最初に描いたものに橘本人がダメ出しをして書き直したことが実は刊行が何年も遅れた一因であるように思えてきた。]

 

 北越は水國なり。西北、海、廣(とを)く、東南・坤(うしとら)に環(めぐ)りて山勢、波濤のごとく聳(そびへ)て、其央(なかば)、只、香山(いやひこやま)・米嶽(よねやま)を置(おく)のみにして、餘地、盡(ことごと)く平田(へいでん)・邑里(ゆうり)、離坎(みなみきた)八十余里に連(つらな)り、横幅(わうふく)、尤(もつとも)地の厚薄(かうはく)に從がへ、或は八十、或は二十乃至三十余里に止(とゞまつ)て、川脈(せんみやく)縱横し、池澤(ちたく)、如ㇾ星、就ㇾ中、湛水(たんすい)の大なるもの鎧湖(よろひがた)と名づく。囘(めぐ)り十有余里、四時(しゐじ)、更に渺漫(びようまん)たり。商客(しやうかく)、常に揚帆(やうはん)して來徃(らいわう)す。『蚌珠照ㇾ暗』と南溪が「東遊記」に擧(あ)ぐるをもって略ㇾ之。福湖(ふくしまがた)次ㇾ之。囘り九里に餘り、冬夏、水、尚、不增減。蓮花如ㇾ錦漁舟織がごとし。謂ゆる靑蓮の生ずる所なり。塩津潟(しほつがた)は、過ぎし頃、只、一片の砂岸(しやがん)を穿つて數里(すり)の溜水(りうすい)、一時に歸海し、今、已に六十余村なり。佐潟(さがた)は山間(さんかん)にありて、其境(さかい)、挾(せば)けれども、水、甚(はなはだ)清麗にして、大鮒魚(たいふぎよ)を生ず。大潟(おほがた)・田潟・丸潟・蓮潟・浦潟・徳人(とくじん)潟・楊枝(やうじ)潟・岩關(いはせき)潟・岩舩(いはふね)潟・沼垂(ぬつたり)潟・鳥屋野(とやの)潟・圓上寺の潟、總て蒲原郡(かんばらごほり)に多くありて、鱸魚(ろぎよ)の美なるは、秋風(しうふう)に感をなし、蓴菜(じゆんさい)の無塩(ぶえん)は巳に古人の好對(こうつい)に入る。長峯(ちやうはう)の古城跡(こじやうせき)を巡りて、湖水、三つあり。其れ清徹(せいてつ)、いふばかりなし。爰(こゝ)に鯉魚(りぎよ)・鯰(なまづ)を産して、北國には、又、珍らしき所也。

 頸城郡の中に長池(ながいけ)・青柳の池あり。山の半(なかば)にして、清冷明徹、深きこと、幾許(いくばく)なることを知らず。謂ゆる潛龍(せんりやう)ありて、すこしも人語を高くすれば、忽(たちまち)、水、涌浪(わきなみ)たちて近付(ちかづく)べからず。一度見るも、恐怖せずといふことなし。上出(かみで)の池・鏡ケ池・蒲生ケ池、皆、次ㇾ之。又、五十嵐川の源流、蘓門山(そもんざん)の中嶺(ちうれい)【一に諏訪門ヶ嶽(すもんがたけ)】・吉ヶ平(よしがひら)といへる所、七つの池水(いけみづ)あり。其大なるもの馬追ヶ池と稱す。古木鬱々と覆ひ、山間に巡りて、清徹、鏡のごとく。一點の塵穢(ぢんゑ)なく、見る人、寒慄(かんりつ)せざるはなし。異郷の客(かく)、到れば、即(すなはち)、雲起り、風たちて、雷雨す。この水底、白螺(しろたにし)を生じて一奇とす。國中(こくちう)、旱(ひでり)する時は、行者みづから、此山に登り、かの白螺をとり來れば、即(すなはち)、大雨(たいう)す。田間(でんかん)、水足りて後(のち)、速(すみやか)に其所におくり返すとなり。若(もし)、誤(あやまつ)て、螺(たにし)、死する時は、洪水ありとぞ。大池・鰌ヶ池・河高ヶ池(かはだかがいけ)等は皆、次ㇾ之。河水(かはみづ)は名に應(おふ)、信川(しんせん)、其源(みなもと)、甲・飛・信の三州より出(いで)て、即(すなはち)、千曲川なり。魚沼川【一に大野川】をはじめ、万山(ばんざん)の諸流、盡(ことごと)く是に合(がつ)し、誠に千里の長流(てうりう)と云(いふ)べし。春夏秋冬のへだてなく、淼渺(ひやうびやう)両岸(りようがん)を浸せり。其幅、所によりて挾闊(きやうくはつ)があれども与板(よいた)より三条の間にいたりては、千數(す)百間(けん)に過ぎたる所、數里なり。それより三川に分かれて、湊近く合す。新潟より沼垂の裏、溜湛(りうたん)一里にあまりて水涯(すいがい)を見ず。渺漫、海潮(かいてう)に入會(にうくはい)する所なり。是より阿水(あがみづ)に續きて、通舩(つうせん)の新渠(しんかは)あり。二里の間、茶店(さてん)相連(つらな)る。阿賀川(あががは)といへるは、其源、日光山より出て奧州を歴(へ)、會津山中の溪流、一つに集りて、信川(しんせん)に劣らぬ大江(たいこう)なり。海邊(かいへん)近くなりては、松ヶ崎にわたる所、千二百間といふ。堺川・姫川は國の南にありて無双(ぶそう)の急流なり。靑海川・布(ぬの)川・古川・股川・大和川・早川・荒川・保倉川・近江川・鵜川・惡田(あくた)川・朝目川・小谷川・東川・島崎(しまさき)川・三島川・宮本川・清津川・赤川・中津川・大野川・佐梨川・阿古間川・大口(おほくち)川・刈谷田(かりやだ)川・貝喰川・五十嵐川・天神川・加茂川・古阿賀早出(こあがはやで)川・多屋野川・加治川・姫田(ひめだ)川・乙(きのと)川・黑川・絶名(たえな)川・荒川・淸川・瀨波川・大川等(とう)なり。其外、分流・溪流・大小、擧げていふべからず。

 誠(まこと)に北越は天下無双(ぶそう)の水國(すいこく)たるべし。かるがゆへに龍蛇(りやうだ)の化(くは)、無量にして、海より出(いで)て、山に入(いり)、山より來つて湖水に入(いる)。水を巻き、雲を起し、不時の風雨をなすこと、年ごとに人の見る所なり。

 兒(じ)たる時より是を聞(きゝ)ていまだ見ず。かの葉公(せつこう)の龍(りやう)を好める諭(たとへ)には異なれども、人の物語るに付(つき)て不審なる事ども、おほかりしが、去(いんぬる)寛政五癸丑(みづのとうし)年十一月廿日、さりがたき私用出來(いできた)りて、独(ひとり)、蓑笠に寒風をしのぎ、新潟の津(つ)にいたらんとす。此日、殊に雪しげく降りて、行(ゆき)かふ人もあらざりしが、木崎(きざき)なる茶店(さてん)に立寄(たちより)、便船(びんせん)やあると尋ねお求むるに、折節、雨雪(うせつ)をしのぐ笘(とま)だにもなき小舟(をぶね)ひとつ、流(ながれ)にまかせて漕來(こぎきた)りぬ。待(まち)もふけたることなれば、幸ひと、便(たより)をもとめ、舩中に簑うち敷きて坐するとおぼえし。忽(たちまち)、阿賀の大江を橫ぎり渡り、新渠(しんかは)いたりて茶店を望めば、此日の風雪激しきほどに、來徃の小舩、數十(すじつ)艘、岸に繫ぎて、何れに舟寄すべくもあらざれければ、舟子(ふなこ)の曰、

「旅人、今暫し、寒氣を忍び給ひ。」

とて、又、一里ばかり漕行(こぎゆき)ぬ時、いまだ七ツには過(すぎ)ざれども、風、いよいよ荒く、雪、空中に翻り、遠景、總て暮(くるゝ)がごとし。此所(このところ)、野守が笘屋一ツありて新潟へは一里なり。名に負ふ八千余流の港湊(ごうそう)する所、海と河水(かはみづ)と、只、一片の沙岸(しやがん)を隔つるのみ。白浪(しらなみ)、天に漲(みなぎり)、見るさへ、いとど物凄き折りなれば、は舟底に打臥し居けるに、舟子、忽(たちまち)、聲を上げ、慌て騷ぎて、

「すはや、龍卷の來るは。」

とて、舟底に轉(まろ)び臥しぬ。も思ひ寄らざることなれば、急立上(いそぎたちあが)りて是を見るに、海上、岸(きし)近く、一陣の黒雲(こくうん)、洑來(うづまききた)る。その疾(とき)事、矢のごとく、勢ひ、浪を捲(まき)、砂(いさご)を飛(とば)せ、舟をのぞんで突來(つききた)る、

コハかなはじ。」

と、我も舟中に轉び入(いり)しが、

「いやとよ、此勢ひ、舟に當らば、など、迯(のが)るる道あらん。聞傳(きゝつと)ふ、龍蛇は白刃(はくじん)を畏(おそ)ると云へり。とても迯れぬ命ならば。」

と、又、舟底(ふなぞこ)より立上がり、刀、拔き放して額(ひたゐ)に當て、舟の艗(へさき)に片坐するほどこそあれ、其間(そのあひだ)、三間ばかりあらんか、左の方(かた)を過ぐ勢ひ、雲百輪(ひやくりん)を捲くに似て、風一條につぐみ、鋭(とき)こと、劍(つるぎ)のごとく、川浪、忽(たちまち)二ツにさけて、舟、巳に覆へらんとせしが、橫さまに吹飛すこと、石飛礫(いしつぶて)を抛(なげうつ)に似て、おぼへず半丁ばかり、退(しりぞ)けらる。その常(つね)、龍(りやう)を画(ゑが)くごとに其眞(しん)を見ざることを恨み、古(いにしへ)より論ずる所、其説紛々たるを憂(うれふ)る折節なれば、恐ろしさもさることながら、心を付(つけ)て、雲中(うんちう)を見れども、更に其形は見へず、只、雲中、うごめきわたり、其頭(かしら)と思(おぼ)しき所、呼吸(こきう)のごとく、火光(くわくはう)ありて、風と共に後(しりへ)に打靡(うちなび)くこと、一息(いっそく)々々たり。黒雲(こくうん)とともに、其丈(たけ)、總て十丈は過ぎざるべし。其響(ひびき)、雷(らい)のごとく巽(たつみ)を指して、行過(ゆきすぐ)る所、木を拔き、枝を割(さき)、左右に吹飛(ふきば)すありさま、風に木の葉の亂るゝに異ならず。纔かに一瞬の間(ま)、夢のごとくに覺へ侍る。又、一奇(いつき)なるは、此日、新潟に渡り得ずして野守が軒に繫(つなぎ)たる米穀・大根なんど積(つみ)たる小舟十一艘、此怪風の當る所、僅かに二艘、繩(なは)引(ひき)千切り、水面遙かに吹放(ふきはな)たれたり。殘る九ツの舟は少しも動ぜず、ゆたかにして岸にあり。其疾(とき)をこと、如ㇾ此。扨、漸く舟底(ふなぞこ)より立上がり、かの野守が軒に漕(こぎ)寄せ、不思議に命(いのち)を全(まつとう)し、かの笘屋に宿(やど)請ふて入(いり)見れば、先達(さだつ)て十一人の舟子、皆、爐邊に取圍(とりかこみ)て相顧(あひかへりみる)隙(ひま)もあらねど、人々、少しづゝ坐を讓り、を介抱し得させぬ。其夜、纔かなる一間に、家内、六人あり。客(きやく)、三人なり。各(おのおの)枕を打交(うちまじへ)て臥すといへども、はかかることの得もなれざるに、寒風、肌(はだへ)を穿つて、夢結ぶべき隙(ひま)もなく、打咳(うちすはぶき)ければ、あるじの翁(おきな)、笑止にや思ひけん、頓(やが)て起上り、外面(とのも)に出(いで)、藁(わら)抔(など)多く持來(もちきた)りて、床下(ゆかした)に敷(しき)、左右にも積み、其中に枕を高ふして、上にも厚く打覆(うちおほ)ひければ、忽(たちまち)、寒(かん)を忘れ、暖(あたゝか)なること、云ふべからず。

「かの錦繡(きんしう)の夜のものにもやは、か劣らじ。」

とこそ覺侍(おぼえはんべ)る。誠に人世の生涯には、かゝる奇事にも遭ひぬるものかな。

 凡(およそ)、北越海邊(かいへん)の人家には屋上に鎌を立(たて)、田間(でんかん)には龍卷の節、必ず、百姓、大勢、集まり、手手(で)に鍬・鋤なんど振りまはして、其怪風を迯(のが)れ避(さく)ることなり。

 

[やぶちゃん注:前置きがやや長いが、巻頭であり、北越の地誌を漏らさず概観せんとする橘崑崙の強靱な筆勢が窺われて身が引き締まる。しかも、龍変(小舟二艘が吸引されて吹き上げられてしまうというかなり強く大きな竜巻現象)の体験は崑崙自身の実体験談というのが冒頭から凄いではないか!

「坤(うしとら)」ルビはママ「坤」ならば南西、「うしとら」ならば「艮(丑寅)」で東北である。越後山脈は東南から北東にかけて弧を描くようにあり、東北に奥羽三山脈を控えると言えるから、ここは「坤」ではなく「艮」とするのが自然で正しいと私は思う(本文の誤字でルビは正しいと判ずるということである)。因みに、野島出版版は「うしとふ」と判読してあるのがまず不審で、「坤」の注も『ひつじさる。西南の方角をいう』としてルビを全く無視しているのも重ねて不審である。

「香山(いやひこやま)」越後平野西部、新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦にある弥彦山。標高六百三十四メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「米嶽(よねやま)」米山。前回冒頭で既出既注。

「邑里(ゆうり)」村里。

「離坎(みなみきた)」二字へのルビ。易で「離(リ)」は南を、「坎(カン)」は北を指す。

「横幅(わうふく)、尤(もつとも)地の厚薄(かうはく)に從がへ」国土としての越後の横幅(東西幅:この場合は山家の居住地を除いた最も居住に適した平野部やその山の辺縁部を指しているように読める)は、全く以って海岸線から山での厚さ・薄さ(によって形成される平地部分)という、自然の摂理に従っており。

「川脈(せんみやく)」川筋。大小の河川。

「如ㇾ星」「ほしのごとく」。以下、漢文脈部分は読み難くなるだけなので、注で歴史的仮名遣での読みを附すこととする。

「就ㇾ中」「なかんづく」。

「鎧湖(よろひがた)」総面積約九平方キロメートルに及ぶ新潟平野の中西部の信濃川下流左岸にかつて存在した潟。干拓によって現在は痕跡すら残らない。文政年間(一八一八年~一八三〇年)に長岡藩によって干拓事業が開始され、明治末期までに半分が耕地となった。第二次世界大戦後には国営事業として干拓が続行、一九六七年に全面干拓された。現在の西蒲区巻(まき)町・潟東(かたひがし)村・西川(にしかわ)町に跨る水田地帯が跡地である。ここ(グーグル・マップ・データ)の中央付近に相当する。「新潟」の語源説の一つでもあるらしい。

「四時(しゐじ)」四季を通じて一年中の意。慣用読みで「しいじ」とも読むのでその歴史的仮名遣の誤りである。野島出版版の『しろじ』は判読の誤りである。

「渺漫(びようまん)たり」歴史的仮名遣は「べうまん」が正しい。果てしなく広がっているさま。「渺渺」に同じい。

「『蚌珠照ㇾ暗(ばうしゆやみをてらす)』と南溪が東遊記に擧(あ)ぐる」「蚌珠照ㇾ暗」は「ばうしゆやみをてらす」と訓じている。「蚌珠」は淡水産真珠のこと。この場合の「蚌」は斧足綱古異歯亜綱イシガイ目イシガイ科イケチョウ亜科カラスガイCristaria plicata 及び同属の琵琶湖固有種メンカラスガイCristaria plicata clessini (カラスガイに比して殻が薄く、殻幅が膨らむ)と、イシガイ科ドブガイ属 Sinanodonta に属する大型のヌマガイ Sinanodonta lauta(ドブガイA型)と、小型のタガイ Sinanodonta japonica(ドブガイB型)の二種と考えてよい。カラスガイとドブガイとは、その貝の蝶番(縫合部)で識別が出来る。カラスガイは左側の擬主歯がなく、右の後側歯はある(擬主歯及び後側歯は貝の縫合(蝶番)部分に見られる突起)が、ドブガイには左側の擬主歯も右の後側歯もない。ここで言っているのは医師橘南谿(たちばななんけい 宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年:本名、宮川春暉(はるあきら)。伊勢久居(現在の三重県津市久居)西鷹跡町に久居藤堂藩に勤仕する宮川氏(二百五十石)の五男として生まれた。明和八(一七七一)年一九歳の時、医学を志して京都に上り、天明六(一七八六)年には内膳司(天皇の食事を調達する役所)の史生となり、翌年には正七位下・石見介に任じられ、光格天皇の大嘗祭にも連なって医師として大成した。諸国遍歴を好み、また文もよくしたため、夥しい専門の医学書以外にも、この「東遊記」や「西遊記」(併せて「東西遊記」と称する)等の紀行類や名随筆「北窓瑣談」等で知られている。ここはウィキの「橘南谿」を参照した)の紀行「東遊記」(寛政七(一七九七)年に前編五巻を、同九年に続編五巻を板行)の後編の「卷之二」の「蚌珠(ぼうじゆ)」のことを指していると思われるが、当該章にはこの漢文脈の一節は出ないので、不審。一応、東洋文庫版で当該章全部を示しておく(気持ちの悪い新字新仮名)。読みは一部に留めた。

   *

 山から出ずるを玉といい、水に生ずるを珠という。唐土(もろこし)にはむかしより卞和(べんか)が玉、合浦の珠などいい伝えて、名高き玉ども数々聞こえ、限り無き世の宝ともてはやし、君子温潤の徳などにも比せり。我朝には、昔より格別に名高き玉を聞かず。神代(じんだい)に曲玉(まがたま)などいえど、今古塚(ふるつか)より掘出だせるを見るに、格別珍愛すべき物とも見えず。又、珠玉を産する山川をも聞及ばず。

 只越後に在りける頃、新潟の人の語りしは、此近きあたりに福島潟というかたあり。此潟に珠(たま)をふくめる貝あり。其大きさ三四尺わたりもあらん。月明らかなる夜は、折ふし其貝口を開くに、其珠大きさ拳の程もあらんと見えて、暁の明星の出でたるごとく、光明赫やくとして水面(すいめん)にきらめく。人是に近づく時は、忽ち口を閉じて水底(すいてい)に沈み、或は口を開きながら水上(すいしょう)を矢を射るごとくに去る。其貝出ずる所定まらず。何時(なんどき)見るにも其大きさ同じ程なれば、只一つの貝と思わる。折々見るものあれども、昔よりある貝にして殊に光あるものなれば、人恐れて取る事なし。又あまり程近く見る事なければ、何貝という事をしる事なし。唐土抔にていう所の蚌殊にやと沙汰するのみ也。

 此福島潟というは越後にて尤も大なる潟にて、竟(わたり)六七里に余りて江州の湖水を見るがごとし。其外にも鎌倉潟、白蓮潟、鳥屋野潟などいいて、越後には潟と名付くるもの甚だ多し、他国には無きもの也。此越後は唐土の江南の地に似て、広大なる国にて、しかも畳を敷きたるがごとく甚だ平坦なる土地なり。其中に大河流る。其土地甚だ平なる故に、川の流急ならず。所々にて河水両方へくぼみ入りて溜り水となる。是を彼地にては何方(なにがた)[やぶちゃん注:何潟。]々々という。皆甚だ大にして、二里三里四方、或は五六里四方なるものあり。他の国は地狭く、たとい広き所にても土地に高下(こうげ)あれば、川水急に流れて、左右へくぼみ入るのいとまなし。唐土なども、絵図を以て考うるに、洞庭湖、青草湖(せいそうこ)抔、すべて湖という者、則ち越後の潟と同じ趣也。此故に皆長江に傍(そい)て湖あり。北方の地は地面に高下ありて山多く嶮岨なるゆえに、黄河に湖ある事なし。日本にては、只越後のみ潟あり。其他には無し。但し出羽の八郎潟、常陸の霞浦抔、少し似たれども其実(じつ)は又異(こと)なり。

   *

底本に「卞和(べんか)が玉」について、『春秋時代、楚の卞和が山で発見した宝石。『韓非子』に、卞和が王にこの玉を献上しようとして両足を切られた説話が載る。連城(れんじょう)の玉とも』と不全な注が載る。「大辞泉」には(見出し「卞和(べんくわ(べんか))」。現代も一貫して読みならわしは「べんか」であって「べんわ」ではないので注意されたい)について、『中国、春秋時代の楚(そ)の人。山中で得た宝玉の原石を楚の厲王(れいおう)に献じたが』、信じて貰えずに『左足を切られ、次の武王のときにも献じたが、ただの石だとして右足を切られた。文王が位につき、これを磨かせると、はたして玉であったので、この玉を「和氏(かし)の璧(たま)」と称した。のち、趙(ちょう)の恵文王がこの玉を得たが、秦の昭王が』十五『の城と交換したいと言ったので、「連城の璧」とも称された』とある。私が東洋文庫の注を不全と言った理由がお判り戴けよう。「合浦(がっぽ)の珠」には同じく『合浦は地名。その海に宝珠を産する』とするだけで、これではその位置も判らぬ。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、中国の華南地方の広西チワン族自治区の南部の北海特別市合浦(現代中国語音写:ホープー)県。北部湾に臨み、沿岸の海水は年間、摂氏二十六から三十度を保ち、塩分濃度やプランクトンの棲息状態が真珠母貝(ここは真珠を採取するウグイスガイ科に属する海産貝類を指す。アコヤガイ(斧足綱ウグイスガイ目ウグイスガイ科アコヤガイ属ベニコチョウガイ亜種アコヤガイ Pinctada fucata martensii)はその代表であるが,他にもアコヤガイ属シロチョウガイ Pinctada maxima など複数の種が含まれる)の成育に適するため、早くから真珠の産地として知られた、とある。海南島の北の対岸、ここ(グーグル・マップ・データ)である。

「略ㇾ之」「これをりやくす」。

「福湖(ふくしまがた)」本文表記はママ。「福島潟」のこと。前回に既出既注。

「次ㇾ之」「これにつぐ」。以下同じ箇所は注さない。

「不增減」「ぞうげんせず」。

「蓮花如ㇾ錦漁舟織」「れんげにしきのごとくぎよしうおる」。

「靑蓮」これが花の色を表わしているとすれば、これはスイレン目スイレン科スイレン属 Nymphaea の一種(或いは品種)あって、 ヤマモガシ目ハス科ハス属ハス Nelumbo nucifera ではない。仏教では「蓮」と「睡蓮」を一緒くたにしてしまうが、全く違う植物種であるので注意されたい。

「塩津潟(しほつがた)」現在の新潟県新発田市紫雲寺地区及び胎内市塩津地域に存在した潟。紫雲寺潟(しうんじがた)とも呼ばれた。長さ約六キロ、横約キロに及んだが、ここに出る通り、十八世紀前半には干拓により姿を消していた。この附近(グーグル・マップ・データ)。参照したウィキの「紫雲寺潟」によれば、九世紀末から十世紀『初頭(平安時代)、地震による地盤沈下で潟が形成されたと推定されている』。『江戸時代中期、潟には加治川、菅谷川など多数の川が流入し、周辺地域の水難防止のため遊水地にされていたが、潟縁地域の開発が進むにつれ水害が問題化する。このため新発田藩による排水工事や』、享保六(一七二一)年には『周辺村民らによる長者堀(現在の落堀川)の開削が行われたが』、『機能しなかった。その後、信州出身の竹前権兵衛、小八郎兄弟が自費での紫雲寺潟干拓を幕府に許可され』、享保十三年に工事着手し、『長者堀の再開削や流入河川の締め切りを行い』、享保一七(一七三二)年頃には干拓が完了、潟の跡には約二千町歩(約二千ヘクタール)の新田と四十二の『新しい村が誕生した。これは当時の日本で多く見られた町人請負新田のなかでも最大規模のものであった』とある。崑崙の村数「六十余」というのはその後に入植したりして増えた数であろう。

「佐潟(さがた)」新潟市西区赤塚に現存する砂丘湖佐潟(さかた)。ウィキの「佐潟」より引く。『新潟市の南西部に位置し、北東部の大きな本潟と南西部の小さな上潟から成り立っている。標高』五メートル、平均水深一メートル、総水域面積四十三・六ヘクタールで『湖底は船底型である。南北を砂丘に挟まれ』、『東西には低地が広がっており、流入する河川は無く湧水で維持されている。成立時期ははっきりしないものの、縄文時代以前に遡るとされる。また低地には潟の痕跡がある事から、過去においては現在よりも東西に広がっていたものと考えられる』。ここ(グーグル・マップ・データ)。「山間(さんかん)」という謂いはその南北を砂丘に挟まれていることと、西が海浜に向けて平地となっており、湧水によって椎が維持されているという点から納得出来ないでもないが、位置的には現在の地図や航空写真を見ても、今の佐潟を「山間」の潟とするのはかない奇異な表現に感じられるように私は思う。なお、以下、名数のように並ぶ「大潟」以降の潟や、池及び河川名や山岳名は調べるにきりがなく(私は新潟現地の現況情報に詳しくない)、労多くして誰も読まないと思われるので原則、注しないこととする。悪しからず。

「大鮒魚(たいふぎよ)」大きな鮒というのだから、全長が三十センチメートルにもなる条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科フナ属ギンブナ Carassius auratus langsdorfi であろう。

「沼垂(ぬつたり)潟」旧「沼垂」は現在の中央区東地区と東区山ノ下地区の区域に相当する。この中央付近(グーグル・マップ・データ)。新潟町と共に信濃川河口に位置し、港町として栄えていた。市街地の中心部を流れる栗ノ木川を挟んで東側の「東沼垂」には花街が形成され、芸妓がいたとされる。

「鱸魚(ろぎよ)」棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus。各種魚類の目で最も多数を含み、一般に純然たる海水魚だと思われているが、春から秋にかけては内湾や河川や潟湖内へ回遊を行ない、驚くほど上流まで群れで進出する(私は柏尾川の戸塚駅付近で多数の彼ら(大型個体)を目撃したことがある)。

「蓴菜(じゆんさい)」スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi。本邦では全土で普通種であったが、池沼開発や水質悪化によって急激に減少し、既に東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県・沖縄県で絶滅種に指定されており、新潟県も絶滅危惧II類に指定している。現在の日本一の産地は秋田県三種町で国内生産量の約九十%を占める(以上はウィキの「ジュンサイ」に拠った)。

「無塩(ぶえん)」新鮮な生ま物のこと。

「好對(こうつい)」珍味佳肴として二つ挙げろと言われたら必ず挙げられるもの、といった謂いか。

「長峯(ちやうはう)の古城跡(せき)」越後国頸城郡長峰(現在の新潟県上越市吉川区長峰付近)に中世から近世初頭にかけて存在した長峰城(平山城)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「湖水、三つあり」前のグーグル・マップ・データを見ると、直近に長峰池があり、北に小さな坂田池、南に朝日池・鵜ノ池があり、さらに小型の池が南方に三つ、計七つあるが、坂田を除いた三つか、或いは今の地図でも朝日池と鵜ノ池は見るからに以前は一つのものだったようにも思われるのでそこまでの三つを指すか。

「白螺(しろたにし)」腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae の殻色は白っぽい感じから淡褐色であって、大型個体になると、殻の表面が剥げてそこが有意に白っぽく見える個体も多い。但し、私は、ここで行者が雨乞いのために持ち下って帰すというのは、実はタニシの生体個体ではなく、鮮やかに白くなった山上の地層から出土する化石化したタニシではないかという疑惑を持っている

「淼渺(ひやうびやう)」正しくは「びやうびやう」。水が広く限りのないさま。

「挾闊(きやうくはつ)」狭い所と広い所。

「与板(よいた)」新潟県三島郡与板町(よいたまち)附近。現在の新潟県のほぼ中心に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「千數(す)百間(けん)」千三百間としても二・三六キロメートルである。現在の地図上で見る限りでは、与板と三条の間の信濃川の川幅は一キロメートルもないが、これは所謂、当時の治水の不全な状態の氾濫原を言っているとすれば、納得できない数値ではない。

「溜湛(りうたん)」野島出版脚注に『水が流れず、たまる処』とある。

「水涯(すいがい)」水際。岸。以下の叙述から、海からの海水流入や信濃川の河川浸食が激しく、川岸がはっきりと見えないことを言っているものと思われる。

「阿水(あがみづ)」阿賀野川。後の「阿賀川」も同じ。

「通舩(つうせん)の新渠(しんかは)あり」「新渠」は新しい川。以下に見るように、開鑿された人工運河である。現在も文字通り「通船川」として残る。ウィキの「通船川」によれば、『かつて阿賀野川の下流域は複雑な乱流と蛇行を繰り返し、たびたび洪水を起こして流路がたびたび変わるなど、新田開発もままならない状態であった。新発田藩第』六『代藩主・溝口直治は』享保一五(一七三〇)年、『信濃川に合流していた阿賀野川の河道を日本海へ直接流出させるため』、『松ヶ崎(現新潟市東区下山・北区松浜付近)に掘割(捷水路)を開削した。だが、この捷水路(松ヶ崎掘割)は翌』『年春の融雪洪水によって決壊し、阿賀野川は日本海へ直接注ぎ込むようになった』。『その後、この旧流路は「通船川」に改称』、その名は『両河川の下流域の水運に用いられていたこと』に由来する。その後、安永二(一七七三)年には同藩第八代藩主『溝口直養によって流路整備などの改修を受けた』とある。

「信川(しんせん)」信濃川。

「松ヶ崎」現在の阿賀野川河口付近の旧新潟県北蒲原郡松ヶ崎浜村(まつがさきはまむら)。

「千二百間」二・一八キロメートル。現在の河川改良された河口付近の最大川幅は約一キロメートルほどであるから、納得出来る数値である。

「かるがゆへに」「かかるが故(ゆゑ)に」。

「龍蛇(りやうだ)の化(くは)、無量にして」天候や水界を支配する龍蛇の化生(けしょう)とされる風水害の現象は限りなくあり。

「予兒(じ)たる時」橘崑崙の出生は宝暦一一(一七六一)年頃(第十一代将軍徳川家治の治世)と推定されている。

「かの葉公(せつこう)の龍(りやう)を好める諭(たとへ)」「せつこう」はママ。普通は「えふこう」。葉公は楚の国の葉村(ようそん)の長官のことで、春秋時代に編まれた逸話集の「新序儒書」等に基づく故事成句「葉公好龍」(葉公(ようこう)龍を好む)である。これは「見掛け倒しで本物ではないこと」の譬えで、「表裏が一致しない人」を揶揄するものであるから、崑崙は自虐的に言っていることが判る。原文は中文サイトから引いておくと、

   *

葉公子高好龍、鉤以寫龍、鑿以寫龍、屋室雕文以寫龍。於是天龍聞而下之、窺頭於牖、施尾於堂、葉公見之、棄而還走、失其魂魄、五色無主、是葉公非好龍也、好夫似龍而非龍者也。

   *

らしい。我流で書き下しておくと、

   *

「葉公子高、龍を好み、鉤(く)して以つて龍を寫し、鑿(さく)して以つて龍を寫し、屋室(をくしつ)、雕文(てうもん)して以つて龍を寫す。是に於いて、天龍一聞して、之れを下し、頭を牖(ゆう:窓。)に窺ひ、尾を堂に施せば、葉公、之れを見、棄てて還走し、其の魂魄を失(しつ)す。是れ、葉公、龍を好むにあらず、好むに、夫(そ)れ、龍に似るも龍に非らざる者を好むなり。

   *

でっつ氏のブログ「大連雑学事典」の葉公好龍によれば、『中国では、子供向けの絵本にも出てくるくらいポピュラーな成語』とあり、以下のように原話を解説されておられる。

   *

昔、葉公、名を高という龍が大好きな男がいた。

身に着けいている剣には龍の彫刻を刻み、杯の上にも龍を彫っていたし、壁や窓枠、梁、家の門にも大好きな龍を描いていた。

天にいた龍がこの話を聞き、天から降りて葉公の家を訪れた。

龍が寝室の窓から覗き込み、尻尾はダイニングの外側まで伸びていた。

葉公は、本物の龍を見て逃げ惑い、肝をつぶして顔色を失った。

本質的に、葉公は龍が好きなのではなく、龍に似た物品が好きなだけだったのだ。

   *

「寛政五癸丑(みづのとうし)年十一月廿日」グレゴリオ暦一七九三年十二月二十二日

「木崎(きざき)」現在の新潟県新潟市北区木崎であろう。(グーグル・マップ・データ)。ここは新潟の北、阿賀野川の右岸域で崑崙が三条にから新潟に向かったとすると位置はおかしいが、あとの叙述行路(「阿賀の大江を橫ぎり渡り、新渠(しんかは)いたりて)からは正しい。

「笘(とま)」菅(すげ)・茅(かや)などで編んで作った大型のシート。船を覆って雨露を凌ぐのに用いた。

「旅人、今暫し、寒氣を忍び給ひ」「給ひ」はママ。

「七ツ」午後四時前後。

「野守」立ち入り禁止の猟地や禁猟の野を見張る番人。

「港湊(ごうそう)」ここは前の謂いから、無数の河川が海に流れ込む河口の謂いであろう。

「一片の沙岸(しやがん)」河口付近の僅かな砂州を指すか。

「艗(へさき)」舳(へさき)。

「片坐」片膝を立てるの謂いか。挿絵を見ると、崑崙は左足で舟に横に張った舟梁(ふなばり)に伸ばして踏ん張り、右足を強く曲げて左足の腿の下に足の裏を当てているのが判る(これを片坐と言っているか)。右足は恐らく膝の部分を舷側板に押し当てて、全身を必死に固定しているものと思われる。

「其間(そのあひだ)、三間ばかり」小舟と実体としての竜巻との距離が五メートル半ほどしかなかったというのである。

「つぐみ」野島出版脚注に『かがみ、うづくまる』とある。老婆心ながら、「風一條」が主語であるから、旋風となった風が極端に圧縮されて、水の表面へ屈み込む、しゃがみ込む、蹲(うずくま)るように吹いていることを表現しているらしい。前の「百輪」(竜巻の旋風が百の輪のように渦巻く)という表現とともに、北斎の挿絵ではそれが妖怪の頭のように描かれて素晴らしい。

「半丁ばかり」五十四メートル五十五センチほど。ここで船が水面をすっと抵抗なく送られたことが幸いしている。

「火光(くわくはう)ありて」雷電が発生している。竜巻は巨大積乱雲とともに発生するから、雷を伴って何ら、不思議ではない。

「十丈」三十メートル強。

「巽(たつみ)」東南。

「如ㇾ此」「かくのごとし」。

「打咳(うちすはぶき)ければ」「すわぶく」は「咳をする」。

「笑止」この場合は「気の毒に思うこと」の意。

「かの錦繡(きんしう)の夜のもの」分厚くしかも軽い高価な錦織の絹の蒲団。

「か劣らじ」「か」は語調を整え、強調する接頭辞。

「覺侍(おぼえはんべ)る」読みは原典に従った。野島出版版では「はんべる」は『はべる』となっているが、「はんべる」は中世以降、普通に見られる表記である。

誠に人世の生涯には、かゝる奇事にも遭ひぬるものかな。

「屋上に鎌を立(たて)、田間(でんかん)には龍卷の節、必ず、百姓、大勢、集まり、手ン手(で)に鍬・鋤なんど振りまはして、其怪風を迯(のが)れ避(さく)る」これも言わずもがなであるが、ここでの鎌や鍬や鋤は崑崙が船中で刀を抜き身にして額に押し当てたのと全く同じ、龍の暴威から身を守るための刃物としての呪具の代わりである。]

2017/08/04

橘崑崙「北越奇談」電子化注始動 / 序・目録・敍・前書・凡例

 
橘崑崙 北越奇談



[やぶちゃん注:これより、越後の文人橘崑崙(たちばなこんろん
 宝暦一一(一七六一)年頃~?)の筆になる文化九(一八一二)年春、江戸の永寿堂という書肆から板行された随筆「北越奇談」(全六巻)を電子化注する。

 序及び校合監修は戯作者柳亭種彦、挿絵は大部分が浮世絵師葛飾北斎によって描かれた(筆者崑崙自身も絵師であり、幾つかの下絵を描いている)という、今から見れば、恐るべき豪華な奇談集である。

 電子化に際しては、加工データとして所持する平成二(一九九〇)年野島出版(新潟県三条市)の第五版「北越奇談」をOCRで読み込んだものを使用し、それを早稲田大学古典データベースのこちらからダウン・ロードした原典画像で校合、漢字をそれに合わせて正字化して示した(但し、一部の漢字は現在の新字に等しいものが含まれており、それはそのままに再現した。判読に迷うものは正字を採用した)。また、一部は原典の平仮名を恣意的に漢字化し(それは特に注していない)、さらに読み易さを考えて、句読点や濁点・記号及び改行等を大幅にオリジナルに増補してある。但し、読みについては私が読みが振れると判断したものに限って附した。歴史的仮名遣の誤りは原典のママであり、それも煩瑣なだけなので、原則、注していない。二行割注は同ポイントで【 】で示した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。原典の小文字表記(「一」の数詞等)は一部(「予」「ニ」等)覗いて再現せず(拗音との混同を避けるため)、同ポイントとした。

 挿絵は総て野島出版のものを用いたが、早稲田大学古典データベースの上記のものをダウン・ロードして見られんことを強くお薦めする。

 なお、野島出版の「北越奇談」は、新字採用で編者不詳ながら、詳細な脚注・補注が完備しており、しかも最後に本書の構成及び筆者橘崑崙の事蹟考証(この追跡は他書の及ぶところではない)を附してある非常に優れたものであり、地方出版物としては極めて優れた刊行物(しかも刊行当時で九百五十円という驚くべき安価)であり、入手を強くお薦めするものである。

 ウィキの「北越奇談」によれば、『北越地方の怪異談や、奇岩、怪石、植物などの博物学的記録などが内容の中心であり、特に』第四巻及び第五巻は確信犯で『「怪談」と題し、妖怪譚を中心として収録』している。但し、『崑崙は必ずしも怪異・奇跡といったものを信じておらず、疑念を挟みながら、または娯楽的に、怪異なことは怪異なままとして扱っていたようで、竜などの伝説上のものを架空のものと割り切って書いている例も見られる。また、そうした怪異譚に中に織り交ざる形で、刊行までの約』二百『年間にわたる北越地方一体の様子、人々の考え方なども読み取ることができる』内容である。第三巻では『海保青陵による原稿が記載されているが、これは刊行年』から七年前の『ものであり、それだけに原稿が揃ってから出版に至るまで』の厳密な考証や監修がなされたと考えてよく、刊行自体が『かなりの曲折をともなう大事業だったことが窺える。さらに』以下を見て戴くと判る通り、冒頭の目録末には「右前編六册」と書かれていること、また巻末(リンク先は早稲田大学の当該部のHTML画像)に「北越奇談後編續出」「古器 産物 名所旧跡 山勝 海絶 奇事 其外珍話等多く集む」と『広告があることなどから、崑崙は後編を執筆する予定であったことをうかがわせるが、結局は後編は出版されず、後編分の草稿の有無も判明していない』。『刊行当時としては崑崙は無名の人物であったのに対し、北斎は浮世絵師の代表といえ、種彦も新進の戯作者であった。こうした面々は、版元が無名の崑崙を売り出すために起用したものと考えられている』。本書は知られた地誌で私の偏愛するところの、鈴木牧之著になる、本書から二十五年後の刊行である「北越雪譜」(天保八(一八三七)年)とともに越後の二大奇書と呼ばれるが、牧之は「北越雪譜」の執筆に向けての取材中、崑崙に会った、と自著「北海雪見行脚集」の中で『述べており、年代も同じで感覚も似ていることから』、本書はかの名著「北越雪譜」の『執筆の上での大きな参考にもなっ』たものと考えてよい。『雪国の生活の厳しさを感じさせる』「北越雪譜」に対して、本「北越奇談」は『娯楽物語としての趣向が強いため、江戸時代当時の人々の嗜好に合い、好んで受け入れられたという。しかし、現代では、「北越雪譜」が『牧之の遺した多くの資料によって研究が大きく進んでいる』のに反し、この「北越奇談」は『北斎の画を収めた書として価値が高いと注目されてはいるものの、随筆としての研究はそれほど進んでいない。これは崑崙が生没年不明の上、生涯の記録も少ない謎の人物ということが大きな要因と見られている。そのような多くの意味において、この』二『大奇書は対照的である』とある。私は、実利的地誌としての「北越雪譜」に若き日に強く感動したが(これは私の愛読書で、灼熱のトップレスの女性が行き来する真夏のスペインのコスタ・デ・ソルの浜辺でも黙々とそれを読んだ)、その後に本書野島出版のそれで読んで、これは「北越雪譜」以前に出現しながら、それを美事に補完するところの民俗学書であると、またまた、心打たれた若き日の思い出す。「北越雪譜」の電子化注もしたいが、これは複数の部分原文電子化が行われているので、今回は見送り、その雪国の民俗を伝えて素晴らしいプレ作品としての本書のオリジナル電子化注をすることとした

 注では野島出版の詳細な注も参考にさせて戴きつつ、オリジナリティを出すように心がけるつもりである。【2017年8月3日始動 藪野直史】]

 

 

[やぶちゃん注:以下、柳亭種彦の手になる序。]

 

 

 花を植(うゆ)る園(その)には、蝶、晨(あした)にまひ、水を湛(たゝふ)る池には、螢、夜(よる)照す。これ、その好(このむ)所を慕ひて也。書を讀(よむ)こと終日(ひねもす)倦(うま)ず。故に書肆の訪(とふ)こと屢(しばしば)也。一日、永壽堂主人、靑紅(せいこう)一帙(いちじつ)を携(たづさへ)來(き)つ、標題して「北越奇談」といふ。朗誦(らうじゆ)終(おはつ)て曰(いはく)、「夫(それ)、慕はしきもの他(ひと)の國の名勝古跡なり。其ことを聞(きか)むに文(ぶん)あり。其形を見(みん)に畫(ぐは)あり。宛然(ゑんぜん)として北越に到るがごとし。蓋(なんぞ)速(すみやか)に上肆(じようし)なさゞるや。」。書肆、笑(わらつ)ていふ、「我、既に其心あれど悲哉(かなしいかな)、編者(へんしや)崑崙先生は遙(はるか)に北越三条にあり。剞劂(きけつ)終(おは)つて後(のち)、先生の挍合(きようごう)を待(また)ば、發兌(はつだ)の期(ご)を錯(あやまる)べし。子(し)に其(その)叓(こと)を諾(だく)さん爲來(きた)れりとて去(さる)。書肆の言(こと)、默止(もだし)難く、傭書(ようしよ)劂人(けつじん)の誤(あやまり)を補ふと云へど、我は唯、俗書に遊ぶのみ。かゝる書を挍合なすべき才(さへ)なく、猶、先生の意に惇(もと)ることも多かるべし。そは、稿本を得て後(のち)、再(ふたゝ)び先生の閲(けみ)するを待たで、發販(はつはん)なすゆへにこそあれ。

 文化八年辛未蘭秋

        柳亭主人種彦 ㊞
 
[やぶちゃん字注:署名の下に洒落た刻印がある。早稲田大学版のこちらの画像で確認されたい。]

 

[やぶちゃん注:「永壽堂」本書を板行した書肆(書店)。奥附に相当するものと思われる広告の前の早稲田大学版のこちらの画像で確認されたい。

「靑紅一帙」野島出版脚注に『青や赤い表紙の本の一包。帙は本のつつみをいう』とある。

「宛然として」あたかもまさに実際に。宛(さなが)ら。

「北越三条」新潟県のほぼ中央部に位置する現在の三条市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「剞劂(きけつ)」「剞」は彫刻師の用いる曲がった小さな彫刻刀、「劂」は同じく使用される曲がった鑿(のみ)で、転じて版木を彫ることから、印刷・上梓の意となった。

「先生」原著者である橘崑崙を指す。後の種彦の言のそれも同じ。

「挍合(きようごう)」「校合(きょうごう:現代仮名遣)」に同じい。写本・印刷物の文字や記載事項を基準となる底本或いは原稿と照らし合わせ、その異同を知らべて訂正したり、相違を書き記したりすること。

「發兌(はつだ)」書物などを印刷して発行すること。

「叓(こと)」「事」の異体字。但し、野島版では上部が「古」になっており、原典は「古」の字のようであるものの、下部の「口」の右手に大きな汚損があるので、この字を採用した。

「默止(もだし)難く」(先に述べた通り、内容が非常にリアリティがあって心惹かれて)無視して何もしないわけにはどうにもいかないので。

「傭書(ようしよ)劂人(けつじん)」野島出版脚注には、『傭書は雇われて文字を写す人。劂人は文字をほる人』とある。

「惇(もと)る」反する。

「そは、稿本を得て後(のち)、再(ふたゝ)び先生の閲(けみ)するを待たで、發販(はつはんん)なすゆへにこそあれ」万一の誤字・誤判読は、総て、この私(柳亭種彦)が責めを負うべきものであるという注意書き。

「文化八年」一八一一年。刊行の前年。

「辛未」「かのとひつじ」或いは音で「シンビ」。干支は正しい。

「蘭秋」陰暦七月の異称。

「柳亭主人種彦」(天明三(一七八三)年~天保一三(一八四二)年)は合巻(ごうかん:文化年間以降に流行した草双紙(挿絵に重きを置いた通俗的絵草紙)の一種で、黄表紙本が内容の複雑化に伴って長編化したもの。従来、五丁一冊であったものを数冊合綴(がってつ)したところからの呼称で、伝奇色が強く、歌舞伎絵風の華麗な表紙・挿画が読者の関心を惹いた)の流行作家。本名は高屋彦四郎知久で、れっきとした旗本小普請組二百俵取りの武士であったが、若い頃より芝居を好み、声色も巧みであったという。文化四(一八〇七)年に読本(草双紙に対して読むことを主体とした本の意)の創作を始めたが、成功せず、同八年に合巻に筆を染めて以後、本領を発揮し、合巻界の第一人者となった。同十二年に初編刊した「正本製(しょうほんじたて)」は芝居の世界を巧みに描写した合巻として人気を博し、その後の「源氏物語」を大奥の世界に擬えた「偐紫(にせむらさき)田舎源氏」は歌川国貞の華麗な挿絵とともにベストセラーとなり、文政 一二(一八二九)年から天保一三(一八四二)年まで、実に三十八編をも重ねたが、内容から幕府の咎めに遭い、絶版となった。一説には春本「春情妓談水揚帳(しゅんじょうきだんみずあげちょう)」などの執筆も併せて咎められた結果、自殺したともされる。小説だけでなく、考証物にも優れ、書籍の収集家としても知られた(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」を下敷きにした)。]

 

 

 

 北越奇談 目録

越後地理路程略圖並順路案内

 龍蛇ノ奇   卷一

 七奇ノ辨   卷二

 玉石     卷三

 怪談     卷四

 同      卷五

 人物     卷六

   右前編六册

 

[やぶちゃん注:冒頭注で記した通り、「右前編六册」とあって、後編の予定があり、或いはその草稿が存在した可能性さえも捨てきれない。どこかに残っていないものだろうか?]

 

 

 

北越奇談敍

維昔吾北越國俗相傳爲口實者有七奇談焉爾後民間妄好怪僻雷同其説塗々增附曁今至其既有二十有四奇事云於是乎愚者動眩惑于其偽妄※[やぶちゃん字注:「※」=「目」+「曹」。但し、これは野島出版版で、原典はよく見ると、「つくり」の上部の中の横一画(第六画目)がない。]無適従矣吾橘先生詳論辨七奇輯錄其説撰題北越奇談者若干卷博而約簡而要天下始知七奇之説且許其實也昔司馬遷將爲史記歴觀天下紀載亦勤矣故及書成人服其該博也先生所善画所好詩既老無事血氣益彊固周游海内盖爲是也冊之美且善也衆目所視誰敢間之及刻成命敍於遂書詹々言以爲序

文化六年己巳初冬

         明浦漁人林成 ㊞ ㊞

[やぶちゃん注:この署名の左に篆刻の刻印が二つ縦に並ぶ。上は「號文斉」、下は「一字大噐」。]

 

[やぶちゃん注:原典は上記の通りの完全な白文。野島出版版には訓読文が載るので、それを恣意的に原文表記を無視して概ね正字化して以下に示す。但し、若干、表記に疑義(歴史的仮名遣の誤り)を感ずる箇所を恣意的に訂した。また、読点も増やした一部の漢字が本文とは別な字になっているのは野島出版版のママである。その方が文意をとり易いと判断したからである。

   *

北越奇談敍

維(これ)昔(むかし)、吾が北越國俗(こくぞく)、相傳へて、口實と爲(な)すもの、七奇談あり。爾後(そののち)、民間妄(みだ)りに怪(くわい)を好み、雷同に僻(かたよ)り、其の説、塗塗(とと)增附して今に曁(およ)び、其れ、既に、二十有四奇事あるに至ると云ふ。是(ここ)に於てか、愚者は動(やや)もすれば、其の僞妄(ぎばう)に眩惑(げんわく)し、瞢[やぶちゃん注:底本のママ。](ぼう)として適從(せきじゆう)するところなし。吾が橘先生、詳(つまびら)かに論じて七奇を辨じ、其の説を輯錄(しふろく)し、撰して「北越奇談」と題するもの若干卷、博(はく)にして約(やく)、簡にして要、天下始めて七奇の説を知り、且つ其の實たるを許すなり。司馬遷、將に史記を爲(つく)らんとし、天下を歷遊して、紀載(きさい)、亦た、勤めたり、故に書、成(な)るに及び、人、其の該博(がいはく)に服するなり。先生、畫を善くする所、詩を好(よく)する所、既に老いて無事、血氣、益々(ますます)彊固(きようこ)、周(あま)ねく海内(かいだい)に游(あそ)ぶは、蓋(けだ)し、是れが爲めなり。册の、美にして、且つ、善なるは、衆目の視(み)る所、誰か敢へて之を間(かん)せん。刻、成るに及び、敍を余に命ず。遂に詹々(せんせん)の言(げん)を書して以て序と爲す。

文化六年己巳初冬

         明浦漁人林成 ㊞ ㊞

   *

「維(これ)昔(むかし)」野島出版版では「おもうむかし」と訓じているが、とらない。「維」には「思う」(思ふ)に相当する意はない。次の語を強調する「これ」で訓じた。

「塗塗增附」内容をより厚く多く増補すること。

「曁(およ)び」及び。到(至)り。

「僞妄(ぎばう)」野島出版版では「ぎぼう」とルビするが、正しい歴史的仮名遣で示した。出鱈目な偽り。虚言妄語。

「瞢(ぼう)」意識が明らかでないような状態。「冥(くら)いこと」を意味する。

「適從(せきじゆう)」拠り所として従うこと。「適帰」も同義。

「輯錄(しふろく)」集めて記録すること。

「博(はく)にして約(やく)」その智の内容、博(ひろ)くして、正確且つ短く語られてあること。

「其の實たるを許すなり」それが根拠のない噂や虚偽ではない、紛れもない現象的事実であることを認知するものである。

「紀載(きさい)」「記載」に同じい。

「彊固(きようこ)」強く堅固。

「海内」(越後国の)国内。

「是れが爲めなり」この心身の驚くべき強健なるが故である。

「册」書画。

「間(かん)」謗(そし)ること。批判すること。

「詹々(せんせん)」くどくどと言い続けること。無暗に言葉が長々しいこと。分不相応に序を請け負って書いたことへの自己卑辞。

「文化六年」一八〇九年。本書板行の三年前。先の柳亭種彦の序文が二年後で、理由は不明中がら、出版に遅滞が生じたことがはっきりと判る。

「己巳」「つちのとみ/キシ」。干支は正しい。

「明浦漁人林成」現代仮名遣で「めいほぎょじんりんせい」と読んでおく。現地の隠棲した漢詩人で、橘崑崙の友人であったようだ。野島出版脚注には、坂口五峰の「北越詩話」の記載からとして、小林文斎なる人物がこの奇談の序を書いたとあって、彼は『名は成、字は大器、一号明浦漁人』であるとする。注者は『三条附近の人であろうか』と推測されておられる。]

 

 

 

[やぶちゃん注:以下、橘崑崙の手になる凡例の前の序(前書)。名所の記載は全部連なっているが、甚だ読み難いので、各項を総て改行した。原典では「長岡」の記載の後に改頁見開きで以下の地図「越後國畧圖」(橘崑崙自筆であろう)が載る。]

 

Etigonokuniryakuzu

 

 凡(およそ)諸國遊歴の客(かく)、名所古跡を探(さぐら)んとするの志(こゝろざし)ある人は、必ず、先づ、其國の地理を知らずんばあるべからず。道路の順、逆によりて空しく、草鞋(さうあい)を費すのみならず、僅か數十步(すじつぽ)の違(たがひ)にして名勝を見落としたるは殘情(ざんじやう)の止(とゞ)め難(がた)きものなり。ここに於て、今、北越、二、三の勝所を擧げて風遊(ふうゆふ)の子に、たよりするものなり。

○市振(いちふり)【親知らずと云(いふ)難所(なんじよ)あり。】

○鍋が浦【名立(なたち)と有間川の間。盆山(ぼんさん)の奇石多し。】

○居多【親鸞上人旧跡。】

○五智(ごち)【國分寺。五智如來有(あり)。】

○今町(いままち)【直江の津(つ)。春日新田への今渡(いまわたし)。應化(おふけ)の橋あとや。】

○關川(せきがは)

○高田(たかた)【榊原侯十五万石御城下。直江町(なをえまち)。今、あふげの橋。この橋上、妙高山の眺望よし。】

○春日林泉寺【上杉輝虎公旧跡。】

○柿崎(かきざき)【鸞上人旧跡。是より、米(よね)山かけこし、鯨波(くじらなみ)へ六里。】

○米山下通(したどほり)

○上ヶ輪(あげわ)【弁慶力餠。産水(うぶみづ)あり。】

○笠島(かさしま)【奇石あり。黑海苔(くろのり)名産。】

○青海川(あをうみがは)【景色よし。山々一望。櫻多し。】

○鯨波【鬼ヶ洞(ほら)といふあり。】

○柏崎(かしはざき)【縮(ちゞみ)を見るには小千谷(をぢや)へ出づべし。山路(やまみち)九里。長岡へすぐに出るには八里。】

○長岡【牧野侯七万四千石御城下○悠久山(ゆうきうざん)の宮(みや)へ十八丁。これ勝地なり。櫻の時、殊によし。三條へ六里。】

○如法寺村(によはうじむら)【入方村とも[やぶちゃん注:この割注は「如法寺村の右上方にある特殊なもの。ルビはない。以下は普通に本文割注。]】【火井七奇(ひいせゐしちき)ノ一。三条へ二十丁。】

○三条【東本願寺掛所(かけしよ)あり。本城寺(ほんじやうじ)へ十八丁。】

○弥彦(やひこ)【一ノ宮明神○國上(くかみ)山へ一里。風穴あり○野積(のづみ)。弘智法印即身仏なり。一里。】

○角田濱(かくだのはま)【絶景なり。一里のまはり。新潟へ五里。赤塚(あかつか)の下へ出る。】

○新潟【湊入(みなといり)、亦、景色よし○鳥屋野(とやの)へ一里。是より舟にて何(いづ)くへも通行よし。】

○小島【八房梅(やつふさのむめ)。】

○草水(くさふづ)【燃(もゆ)る水、七奇ノ一、油(あぶら)の涌(わく)池あり。】

○河内谷【陽谷寺。七奇ノ一。無錘塔。此処、五泉(ごせん)より山々入こと、三里。】

○水原(すいばら)【福島潟(ふくしまがた)のほとりを通り、三里。こしの水海(みづうみ)なり。】

○新發田(しばた)【溝口侯五万石御城下。せいろうの松原(ばら)を通り、八里。】

○乙村(きのとむら)【大日堂。】

○村上【内藤侯御城下五万石。】

○蒲萄峠(ぶどうとふげ)【葡萄とも書(かく)。矢ぶきの明神。】

○これより、羽州鼠が關に至る。

 

  ○右大略道路少しの遲速ありといへども皆順路なり。

  前の圖と、引き合はせ見るべし。

 

 

 

[やぶちゃん注:以下、橘崑崙の手になる凡例。各柱の「一」以外の後の行は原典では一字下げになっているが再現していない。]

 

   凡例

一、怪談は君子の憎む所なりといへども、近世の風俗・文事、甚だ盛んにして、聖語(せいご)は已に童牧(どうぼく)の口號(くごう)たり。佛説は、すなはち、婦女の舌弄(ぜつらう)となれり。こゝに於て、朋友の茶話(さわ)、對賓(たいひん)の談笑、動(やゝも)すれば、其頭(かうべ)を交へんとす。鳴呼(あゝ)、我等(わがとう)の下愚、默して退くに無由(よしなし)。しかれば、かの怪談妄説も時あつて、又、一助なきことなからんやと。是、が此戲作(げさく)を著(あらは)すの素意(そゐ)なり。讀人(よむひと)、あやしみたまふこと、なかれ。

一、奇事怪説、人々に記し、家々に論ずる所、數十百章(すじふひゃくしよう)に至れば、が目(ま)の當たり見聞(みきゝ)たるの余(よ)は、十にして、一、二取(とつ)て、三寫(さんしや)の誤まり無(なき)にしもあらざるべし。

一、年歴日時(ねんれきじつじ)をあらはして、人の姓名を隠せるあり。亦、地名を出(いだ)さずして、其人を記せるもあり。是は今時(こんじ)存命の人、又、舊事といヘども、其子孫、顯然たるは、これを憚るのみ。

一、事々(じじ)妄説のみなるはが乳學(にうがく)性愚(せいぐ)のいたす所也。亦、國字・天爾遠波(てにをは)の相違、多かるべし。希(こひねがは)くは、博達(はくたつ)の諸子、言言(げんげん)に雌黃(しわう)を加(くはへ)給はんことを請ふ而已(のみ)。

   文化八年辛未仲秋

            北越三条 崑崙橘茂世 述

                  ㊞ ㊞

[やぶちゃん注:この名の左に印二種。上は「橘茂世」、下は「野薔薇華亭」。

 以下、全体が枠で囲まれた(省略)柳亭種彦の挿絵に就いての四字下げの注記。]

 

畫(ぐは)は北齋翁の筆(ふで)なれど、畫翁(ぐわおう)の盤多(ばんた)を助けんと、崑崙子の下繪(したゑ)のまゝに彫するもの四枚、傍(かたは)らに茂世(もせい)の印(ゐん)を押したり。印無きは、悉く北齋翁の畫なり。

      辛未秋      柳亭種彦再禀

 

[やぶちゃん注:以下の、優れた遠近感を持った北斎の描画は「凡例」の途中に見開きで入る。今回は左右の画をトリミングしてなるべく中央に寄せた。中央上部に隙間が出来てしまったが画像の回転角を微調整出来ない私の安物の加工ソフトではこれが限界。悪しからず。]

 

Hokuetukidankantouhokusai

 

[やぶちゃん注:「草鞋(さうあい)」草鞋(わらじ)。

「鍋が浦」現在の新潟県上越市大字鍋ケ浦。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「名立(なたち)」新潟県上越市名立(なだち)区の名立地区。鍋が浦の西方。

「有間川」新潟県上越市有間川(ありまがわ)。桑取川河口。鍋が浦の東方。

「盆山(ぼんさん)」 庭に石などを積み上げて築く人工の山や、箱庭や盆栽の上に自然の石や砂を用いて作った山(に用いる奇石)の謂いか。

「居多」「こた」であろう。原典はルビ位置が黒く潰れている。消したのではなく、翻刻の誤りか。有間川の東方の新潟県上越市五智に居多(こた)神社(こたじんじゃ)がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。承元元(一二〇七)年に専修念仏停止(ちょうじ)の法難を受けて越後国府へ御流罪となった親鸞は、木浦(現在の糸魚川市能生)から舟に乗って、この居多ヶ浜に上陸したと伝えられる。

「國分寺」新潟県上越市五智にある天台宗安国山華蔵院五智国分寺。奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺の中の越後国国分寺の後継寺院に相当する。

「五智如來」五大如来ともいい、密教で五つの知恵(法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智)を五体の如来に当て嵌めたもの。金剛界五仏と同義。通常は大日如来(中心)・阿閦(あしゅく)如来(東方)・宝生如来(南方)・観自在王如来(=阿弥陀如来)(西方)・不空成就如来(北方)を配するが、ウィキの「五智国分寺」によれば、五智国分寺のそれは大日如来を中心として薬師如来・宝生如来・阿弥陀如来・釈迦如来である。

「今町(いままち)」現在の新潟県上越市住吉町附近の旧地名と思われる。この附近(グーグル・マップ・データ)。関川の右岸に春日神社があり、その南に新潟県上越市春日新田として地名が残る。

「今渡(いまわたし)」関川を渡る渡しのあった旧地名か。

「應化(おふけ)の橋」現在の新潟県上越市川原町附近にあったとされる橋。ウィキの「直江津橋」(現在の同地区の関川に架橋)によれば、その橋は「おうげの橋」「おうぎの橋」と呼ばれ、漢字表記は「応化」・「往下」・「応解」・「逢岐」・「大笥」などであったとし、森鴎外の「山椒大夫」では『安寿と厨子王丸とその母が、この橋の辺りで連れ去られたとされている。上杉謙信が』天文一八(一五四九)年『に荒廃した橋を再建、堀秀治が新たに橋を架けたが、松平忠輝が高田城下の繁栄のために橋を壊して渡しのみとし、明治初期に至るまで『直江津に橋は架けられなかった』とある。但し、以下の「高田」の項にも旧直江の「直江町(なをえまち)」に当時、「あふげの橋」があり、「この橋上、妙高山の眺望よし」とまで記しているから、この旧橋は位置が比定されていないことが判り、恐らくは関川の少し上流には当時、橋があったことになり、ウィキの記載には不審が残る。

「榊原候」高田藩の江戸中後期の藩主家。

「春日林泉寺」現在の新潟県上越市中門前にある曹洞宗春日山林泉寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「林泉寺上越市によれば、明応六(一四九七)年に越後守護代長尾能景が創建、天文五(一五三六)年)にその子為景が死ぬと、為景の末子であった虎千代(後の上杉謙信)が七歳で林泉寺に預けられた。彼は十四歳で呼び戻されて元服して景虎と称するまで、林泉寺六世天室光育から学問を学び、景虎が後に上杉氏を継承し、上杉輝虎を称すると、林泉寺は上杉氏の菩提寺となった。『輝虎は七世住職益翁宗謙のもとで参禅』、元亀元(一五七〇)年に剃髪した際、『師の諱から一字を取って不識庵謙信と号した』。天正六(一五七八)年に『急死した謙信の遺骸を収めた棺は、謙信の号のもととなった春日山城内の不識院に埋葬されたが』、謙信の養子景勝が慶長三(一五九八)年に会津へ、慶長六(一六〇一)年に米沢へと移封されたのに伴い、『米沢へと移された。通説では林泉寺もこれにしたがって移転したとされている』。『開山以来の袈裟と持鉢は上越市の林泉寺に残されており』、『法統上の正統を伝えている』。『上杉氏移封後は春日山城下に残された林泉寺は一時衰退』したが、『上杉景勝に代わって春日山城主となった堀秀治によって再興され、春日山城主・堀氏、堀氏改易後高田城に入封した松平氏』、十八『世紀前半から明治維新まで高田藩に在封した榊原氏と歴代の上越地方の支配者により』、『菩提寺として尊崇を受け』、また、『江戸時代の林泉寺は江戸幕府』第二代将軍『徳川秀忠から御朱印で寺領』二百二十四石を『授けられ、高田藩主から禁制の特権』も与えられていたという。しかし、寛永年間及び弘化四(一八四七)年の二度の『火災で本堂や山門などが焼失』したとある(下線やぶちゃん)。

「上杉輝虎」上杉謙信。前注参照。

「柿崎」新潟県上越市柿崎区柿崎。

「鸞上人旧跡」原典のママ。野島出版版では「親鸞」となっている。柿崎での親鸞については新潟県上越市柿崎区にある柿崎御坊の別称を持つ川越山浄善寺の公式サイト内のこちらに詳しい。

「米(よね)山」新潟県中越地方と上越地方との境に位置する山。九百九十二・五メートル。江戸時代に北陸道が再整備された際、米山麓の米山峠には鉢崎関が設置され、出雲崎や佐渡島に向かう旅客を取り締まっていた。ここ(グーグル・マップ・データ)。北国街道一番の難所とされた。

「かけこし」峠を乗り掛けて越し。

「鯨波(くじらなみ)」新潟県柏崎市鯨波。ここ(グーグル・マップ・データ)。

へ六里。】

「上ヶ輪(あげわ)」新潟県柏崎市上輪。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「弁慶力餠。産水(うぶみづ)あり」サイト「ほかにねーこて柏崎」の「弁慶の力餅」に、復刻された「弁慶餅」の画像とともに、『同地区の伝説によ』る『と、文治三(一一八七)年、源義経が兄頼朝に追われ、奥州落ちをする際、北の方が同地区の亀割坂付近で産気づき、胞姫神社に祈願して安産で亀若丸を生んだと伝えられて』おり、『この時、義経の供をしていた弁慶が産湯を得るために、つえで掘った井戸が「弁慶の産水井」、ついた餅が「弁慶の力餅」として長く伝わったとも言われてい』るとある。「上輪新田の弁慶の産水井戸(御膳水(ごぜんすい)」(PDF)も参照されたい。

「笠島(かさしま)」新潟県柏崎市笠島。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「黑海苔(くろのり)」生海苔を刻んで、紙漉きの要領で漉いて乾燥させたもの。焼かないので磯の香が強い。

「青海川(あをうみがは)」新潟県柏崎市大字青海川。ここ(グーグル・マップ・データ)。鯨波の西直近。

「鬼ヶ洞(ほら)」柏崎市役所公式サイト内の『柏崎市名所案内「鯨波鬼穴」』(海食洞の画像有り)によれば、『昔、この穴に赤鬼が住んでいて、村の娘たちをとらえては食べ、村人を苦しめていました。村人は神様に鬼を追い払ってもらおうと、番神さんにお願いをしたところ』、二十九『の仏様を従え、うちわ太鼓を打ち鳴らし、大声を張り上げ、お題目を唱えながら穴に近づきました。すると、赤鬼が穴から這い出し、逃げて行ったと云われています。それ以来、この穴を鬼穴と呼ぶようになりました』と伝承を記す。

「牧野侯」越後国の古志郡全域及び三島郡北東部・蒲原郡西部(現在の新潟県中越地方の北部から下越地方の西部)を治めた長岡藩の江戸時代を通じて藩主であった牧野氏。

「悠久山(ゆうきうざん)」新潟県長岡市東部に位置する海抜百十五メートルのなだらかな山。長岡の中心市街地付近では唯一の山である。

「如法寺村(によはうじむら)」三条市如法寺附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「火井七奇(ひいせゐしちき)」油田関連の七不思議。「卷之二」の「古の七奇」で詳述される。

「掛所(かけしよ)」浄土真宗の寺院で地方に設けられた別院。後には別院の支院を呼ぶようにもなった。

「本城寺(ほんじやうじ)」新潟県三条市の本成寺(にしほんじょうじ)地区のことであろう。当地には法華宗長久山本成寺がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「弥彦(やひこ)」新潟県西蒲原郡弥彦村。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「一ノ宮明神」新潟県西蒲原郡弥彦(やひこ)村弥彦にある彌彦(いやひこ)神社。神社名の正式な読みは以上だが、地域名が「やひこ」であることから「やひこ」神社とも呼ばれるらしい。言わずもがなであるが、神社仏閣と地名を別な読み方をするのは〈ハレとケ〉の民俗からはごくごく普通のことである。

「國上(くかみ)山」新潟県燕市に位置する標高三一二・八メートルの国上山(くがみやま)。ここ(グーグル・マップ・データ)。弥彦村の南直近で俗に弥彦山脈と呼ばれる山並みの南端に位置する。

「風穴」国上山にある真言宗雲高山国上寺(こくじょうじ)本堂裏手にある。

「野積(のづみ)。弘智法印即身仏なり」長岡市野積にある真言宗海雲山龍泉院西生寺(さいしょうじ)に現存する日本最古の即身仏弘智法印のそれ。弘智は高野山で修行の後、西生寺の東の岩坂に庵住、正平一八/貞治二(一三六三)年十月二日に入定(にゅうじょう)したとされる。

「角田濱(かくだのはま)」新潟県新潟市西蒲(にしかん)区角田浜(かくだはま)。佐渡を正面に据えたここ(グーグル・マップ・データ)。

「赤塚(あかつか)」角田浜の東北直近。

「湊入(みなといり)」新潟湊の湾口部の呼称か。

「鳥屋野(とやの)」新潟県新潟市中央区鳥屋野。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「小島」阿賀野市小島。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「八房梅(やつふさのむめ)」小島にある浄土真宗梅護寺(親鸞が布教のために滞在した)にある、一つの花に八つの実がなる八重咲きの梅。親鸞が植えた梅干の種から育ったと伝える「越後七不思議」の一つ。

「草水(くさふづ)」「臭水」(臭い水)がもと。油田。

【燃(もゆ)る水、七奇ノ一、油(あぶら)の涌(わく)池あり。】

「河内谷」「陽谷寺」新潟県五泉市川内にある曹洞宗雲栄山永谷寺(ようこくじ)のことであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。ぽんぽこ氏のブログ「新潟県北部の史跡巡り」の「おぼと石/五泉市」を読む限り、ここである。

「無錘塔」卵塔。僧侶の墓で卵形をしている。本文で語られるが、淵に投げ入れても、自然に岸辺に揚がるという、自然現象では説明出来ない古い一奇。

「五泉(ごせん)」新潟県下越地方にある五泉市(ごせんし)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「水原(すいばら)」阿賀野市水原町(すいばらまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「福島潟(ふくしまがた)」やや内陸の新潟県新潟市北区新鼻に位置する阿賀野川水系に出来た潟。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「こしの水海(みづうみ)」新潟県阿賀野市水原地区にある人造湖瓢湖(ひょうこ)のことか(ここ(グーグル・マップ・データ))。白鳥渡来地と知られる小さな湖であるが、人造と言っても寛永一六(一六三九)年に用水池として竣工している古いものである。

「新發田(しばた)」新潟県新発田市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「溝口侯」柴田藩主の溝口家。

「せいろう」新潟県北蒲原郡聖籠町(せいろうまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。新発田市(北部分は一部が海岸まで達する)の海沿い側の北西に接する。

「乙村(きのとむら)」新潟県胎内市乙。(グーグル・マップ・データ)。

「大日堂」同地区内にある真言宗如意山乙寶寺(おっぽうじ)の本堂(本尊・金剛界大日如来)。寺伝によれば、天平八(七三六)年に聖武天皇の勅願により行基菩薩や婆羅門僧正らが北陸一帯の安穏を祈り開山したとされる古刹。

「村上」新潟県北部の日本海に面した村上市。

「内藤侯」村上藩の江戸時代中後期の藩主内藤氏。

「蒲萄峠(ぶどうとふげ)」新潟県村上市葡萄にある、村上城下を起点にして北上、庄内鶴岡へ通じる旧出羽街道の峠。(グーグル・マップ・データ)。

「矢ぶきの明神」「矢葺の明神」。現在は漆山神社とも呼称する。前の葡萄峠も含め、豆壱郎氏のサイト内の「峠コレクション」の葡萄峠が写真も豊富でよい。

「羽州鼠が關」山形県鶴岡市大字鼠ヶ関。(グーグル・マップ・データ)。

 

「聖語(せいご)は已に童牧(どうぼく)の口號(くごう)たり。佛説は、すなはち、婦女の舌弄(ぜつらう)となれり」儒教の聖人君子や仏教のありがたい教説も、今や、子女や農夫さえも口ずさむような面白くもおかしくもないような知れたものと変容してしまった。

「對賓(たいひん)の」賓客を迎えて披露する。

「其頭(かうべ)を交へんとす」そうした平凡な脳味噌による、常套的な退屈な話を交わすことから救われてはいない。

「我等(わがとう)」我等(われら)に同じい。

「下愚、默して退くに無由(よしなし)」そのような下等で面白味のない話しか出来ないのであれば、黙して語らず、早々にその場をしりぞく以外にはやりようがない。

「予が目(ま)の當たり見聞(みきゝ)たるの余は、十にして、一、二取(とつ)て、三寫(さんしや)の誤まり無(なき)にしもあらざるべし」私が実際に目の当たりにし、直接に見たり聞いたりしたもの以外のそれは、三つに一つは誤りが含まれていないとは言えないであろう(されば、そのような認識でお読み戴きたい)。

「乳學(にうがく)性愚(せいぐ)」野島出版脚注に『学問が』浅く、『馬鹿な生まれつき』とある。

「雌黃(しわう)」元来は石黄(せきおう:鶏冠石の変質した砒素の硫化鉱物。有毒で黄色を呈し、樹脂光沢がある)を指し、これは古く中国で書き上げてしまった文章の誤りにこれを塗布して正したことから、詩文を添削したり、インスパイアすることを指す語となった。

「仲秋」陰暦八月の異名。冒頭の柳亭種彦の序文の書かれた翌月である。

「茂世」(しげよ)は橘崑崙の名。

 

「北齋翁」(宝暦一〇(一七六〇)年~嘉永二(一八四九)年)は知られたの浮世絵師。江戸本所割下水の川村家に生まれたが、幕府御用鏡磨師中島伊勢の養子となり、その後、勝川春章に入門して「勝川春朗」と号して役者絵を発表、後に狩野派・住吉派・琳派、さらには洋風銅版画の画法をも取り入れて独自の画風を確立した。画業は主要画号の使用時期を基準に六期に区分するのが一般的であるが、本書刊行の文化九(一八一二)年は、彼が北斎を名乗った時期(寛政一一(一七九九)年頃から文化一一(一八一四)年頃まで)の後期に当たり、まさに北斎の画業の一大進展期であると同時に、様式の確立期に相当している

「盤多(ばんた)」盤は皿や鉢などの容器を謂うが、意味が通じぬ。「繁多」(忙しい)の謂いであろう。

「再禀」「サイヒン」と読む。「禀」は「稟」の俗字で、この場合は再度、ある要請や命令を受けることで、序文の添書き(追加)を、再び引き受けた、謂い。]

 

2017/08/03

伊豆高原湯治

 
蜩は耳の高さで鳴き
寝耳を破れり
 
伊東の菓子屋「にし村」の青年
入院し
店は「解体」との張り紙のあり
限りなくかなし

2017/08/02

柴田宵曲 續妖異博物館 「馬にされる話」

 

 馬にされる話 

 

「幻異志」に見えた三娘子(さんぢやうし)は、板橋店にひとり住んで居る。深夜木牛と木人とを動かして床前の地を耕し、蕎麥の種を蒔く。蕎麥は忽ちに花咲き實熟するのを、粉にして燒餠を作る。翌朝この點心を口にした者は、皆驢馬になつてしまつたが、趙季和なる者ひとり鄰室に在つて三娘子の所爲を窺ひ、早く脱出したため驢馬になることを免れた。季和都よりの歸りに再び板橋店に一宿すると、三娘子が木牛木人を以て蕎麥を作ること前日に變らなかつた。翌朝點心を喫するに當り、ひそかに用意した一枚とすり換へ、これを三娘子にすゝめたので、彼女はたちどころに驢馬に變ずる。木牛木人はあとに殘つたが、季和の手ではどうにもならぬ。乃ち驢馬に鞭つて諸州を周遊すとある。

[やぶちゃん注:以上は私が異様に好きな一篇であるが、「幻異志」のそれよりも同じ唐代伝奇の「河東記」の「板橋三娘子」の方が纏まっていて、ストーリーも摑み易い。「太平廣記」の「幻術三」に載るそれを示す。

   *

 唐汴州西有板橋店。店娃三娘子者、不知何從來。寡居、年三十餘、無男女、亦無親屬。有舍數間、以鬻餐爲業。然而家甚富貴、多有驢畜。往來公私車乘、有不逮者、輒賤其估以濟之。人皆謂之有道。故遠近行旅多歸之。

 元和中、許州客趙季和、將詣東都、過是宿焉。客有先至者六七人、皆據便榻。季和後至、最得深處一榻。榻鄰比主人房壁。既而三娘子供給諸客甚厚。夜深致酒、與諸客會飮極歡。季和素不飮酒、亦預言笑。至二更許、諸客醉倦、各就寢。三娘子歸室、閉關息燭。

 人皆熟睡、獨季和轉展不寐。隔壁聞三娘子悉窣、若動物之聲。偶於隙中窺之、卽見三娘子向覆器下、取燭挑明之。後於巾廂中、取一副耒耜、並一木牛、一木偶人、各大六七寸。置於竈前。含水噀之、二物便行走、小人則牽牛駕耒耜、遂耕牀前一席地、來去數出。又於廂中、取出一裹蕎麥子、受於小人種之。須臾生、花發麥熟、令小人收割持踐、可得七八升。又安置小磨子。磑成麵訖、却收木人子於廂中、卽取麵作燒餠數枚。

 有頃雞鳴、諸客欲發。三娘子先起點燈。置新作燒餠於食牀上、與客點心。季和心動遽辭、開門而去、卽潛於外窺之。乃見諸客圍牀、食燒餠未盡、忽一時踣地、作驢鳴、須臾皆變驢矣。三娘子盡驅入店後、而盡沒其貨財。季和亦不告於人、私有慕其術者。

 後月餘日。季和自東都囘、將至板橋店、預作蕎麥燒餠、大小如前。既至、復寓宿焉。三娘子歡悦如初。其夕更無他客、主人供待愈厚。夜深、殷勤問所欲。季和曰、「明晨發、請隨事點心。」。三娘子曰、「此事無疑、但請穩睡。」。半夜後、季和窺見之、一依前所爲。

 天明、三娘子具盤食、果實燒餠數枚於盤中訖、更取他物。季和乘間走下、以先有者易其一枚、彼不知覺也。季和將發、就食、謂三娘子曰、「適會某自有燒餠、請撤去主人者、留待他賓。」。卽取己者食之。方飮次、三娘子送茶出來。季和曰、「請主人嘗客一片燒餠。」。乃揀所易者與噉之。纔入口、三娘子據地作驢聲。卽立變爲驢、甚壯健。季和卽乘之發、兼盡收木人木牛子等。然不得其術、試之不成。季和乘策所變驢、周遊他處、未嘗阻失、日行百里。

 後四年、乘入關、至華岳廟東五六里、路傍忽見一老人。拍手大笑曰、「板橋三娘子、何得作此形骸。」。因捉驢謂季和曰、「彼雖有過、然遭君亦甚矣。可憐許、請從此放之。」。老人乃從驢口鼻邊、以兩手擘開、三娘子自皮中跳出、宛復舊身、向老人拜訖、走去。更不知所之。

   *

 以下、二〇〇八年明治書院刊の中国古典小説選第六巻を参考にしながら、語注を附す。

「店娃」(てんあ)は旅館の女主人。

「無男女、亦無親屬」子どものいない寡婦で、親類縁者もなかった。

「往來公私車乘、有不逮者、輒賤其估以濟之」乗り物を引いたり、載るための動物が足りない旅人には、その沢山飼っていた驢馬を安値で用立ててやって助けた。

「有道」道義に富んだ親切な人物。

「元和」八〇六年~八二〇年。

「東都」洛陽。

「便榻」(べんとう)は簡易ベッド。

「二更」午後十時頃。

「悉窣」(しつそく)は「かそこそ」というオノマトペイア。

「一副耒耜」一揃えの鋤(すき)。「巾廂」(きんそう)は小箱であるからミニチュア。

「六七寸」唐代の一寸は三・一一センチメートルであるから、十八~二十一センチメート「一席地」蓆(むしろ)一枚を敷くばかりのごく僅かな地面。

「持踐」脱穀。

「七八升」唐代の一升は五十九ミリリットルであるから、四リットル強から四・七リットル。

「小磨子」ミニチュアの臼(うす)。

「燒餠」(しやうへい)はシャオピン。平たい肉饅頭。

「踣地」「地に踣(たふ)れ」。地面に倒れ。

「私有慕其術者」「私(ひそ)かに其の術を慕ふ者(こと)有り」。季和は恐れたのではなく、逆にその幻術にあこがれて、習得したいと思ったのである。だから後で「兼盡收木人木牛子等」だのであったが、しかし「不得其術、試之不成」なのである。

「適會」偶々。

「某」「それがしに」。私には。

「自有燒餠」「自(みづか)ら燒餠有り」。(すっかり忘れていたのですが)自分で作った焼餅があることに気づきました。

「請主人嘗客一片燒餠」「請ふ、主人、客の一片の燒餠を嘗(あじみ)んことを。」。

「關」潼関(どうくわん)。現在の陝西省渭南市にあった関所。 洛陽と長安との交通の要所。

 全現代語訳ならば田中貢太郎「蕎麦餅」がよい(リンク先は青空文庫版)が、次の段で林羅山の「怪談全書」版の古文訳を示しておいたので、まずはそれを読まれるのがよかろうとは存ずる。] 

 

 この話は室町時代に成つた「奇異雜談集」に「丹波の奧の郡に人を馬になして賣し事」といふのがあるから、早く日本に渡來したものであらう。「老媼茶話」にある行脚僧は、手を園爐裏に入れて、指に燈をともしたり、足を打ち碎いて薪にしたり、奇々怪々なものであるが、二三寸ばかりの人形二三百を吐き出し、それが座中を耕して稻を作り、忽ちに數升の米を得る一段は、三娘子の話から脱化したと思はれる。たゞ「老媼茶話」には人を化して馬にする事はない。

[やぶちゃん注:前注に示した二〇〇八年明治書院刊の中国古典小説選第六巻の「板橋三娘子」の「余説」によれば、岡田充博氏の本作の詳細な考証論文によれば、恐らくは本邦で最初にはっきりとこれが紹介されたのは林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)の「怪談全書」の「三娘子」であるとする(「奇異雜談集」(作者不詳)の開板は貞享四(一六八七)年)。「奇異雜談集」の「卷三」の「三」のそれを岩波文庫版の高田衛編「江戸怪談集(上)」から恣意的に正字化して示す。読みは私がオリジナルに歴史的仮名遣で附し、一部に句読点を追加して、直接話法を改行して読み易くした。

   *

 遙かの昔、丹波の國、奧の郡(こほり)の事なるに、山ぎはに大なる家一軒あり、隣もなし。人數十人あまり、渡世、心やすく見えたり。農作をもせず、職をもせず、商ひをもせず。心やすき事、人みな、不審す。馬を買ひゆくとも見えぬに、よき馬を賣れり。一月に、二疋、三疋、賣るゆへに、これまた、人不審するなり。

 街道なるゆへに、旅人一宿する事あり。ないない、人の申すは、

「亭主大事の私術をつたへて、人を馬になして賣る。」

といへり。一定(いちじやう)をば知らざるなり[やぶちゃん注:確かなことは不明ではあった。]。

 あるとき、旅人六人、つきたり。五人は俗人、一人は會下僧(ゑげそう)[やぶちゃん注:師に従って修行する僧。]なり。亭主うちへ請じ入れて、枕を六つ出だして、

「御くたびれなるべし、先づ、御休みあれ。」

といふ。俗人、みな、臥したり。

 客僧は丹後にて粗(ほぼ)聞くことあるゆへに、用心する也。座敷の奧にゐて、臥さず。垣のひまより内をのぞけば、忙はしくみえたり。小刀(こがたな)にて、垣のひまを少しくりあけてよく見れば、疊の臺ほどなるものに、土、一杯あり。その上に物の種をまきて、上に薦(こも)をきせたり。釜には飯をたき、汁をたき、鍋に湯をたけり。茶、四、五服のむほどして、

「もはやよかるべし。」

とて、薦をとれば、靑々(あをあを)としたる草、二、三寸に生ひ繁りたり。葉は蕎麥に似たり。

 それを取つて、湯に煮て、蕎麥のごとくに和(あ)えて、大なる椀にもりて、菜(さい)にして、飯を出だしたり。俗人、起きて、みな、食す。

「珍らしき蕎麥かな。」

といふて賞翫す。

 僧は食する由して[やぶちゃん注:ふりをして。]、隅の簀子(すのこ)の下へすてたり。

 饌(ぜん)[やぶちゃん注:膳。]をあげてのち、風呂を焚きて、

「たちて候。一風呂、御入りあれ。」

といへば、

「もつとも然るべし。」

とて、みな、入れり。僧は入る由して、脇へはづして、東司(とうす)[やぶちゃん注:この僧は禅僧か。主に禅家で厠のことをかく称する。]のうちに隱れ居て、よく見れば、亭主、きり、金鎚、金釘をもちきたりて、風呂の戸を打ちつけたり。

 客僧、

「ここに居て、人に見つけられては曲(きよく)なし[やぶちゃん注:折角難を遁れたうま味がない。]。」

とて、くらまぎれに出でて、風呂の簀子の下へ入りて、靜まりゐてみれば、良(やや)ありて、亭主、

「もはやよきぞ、戸をあけよ。」

といひて、釘ぬきにて戸をあくれば、馬一疋出でて、いなないて走りゆく。夜にて門をさすゆへに、庭に踊りまはる。又、一疋出で、又、一疋出で、五疋、出でたり、

「今一疋出づべし。」

とて、まてども出でず。火をあかしてみれば、何もなし。

「今一人は、いづかたへ行きたるぞ。」

と、尋ぬる間に、簀子の下より出でて、後ろの山にのぼりて、遠く行くなり。

 翌日、國の守護所にゆきて、上(うへ)くだんの樣(さま)を具(つぶ)さにかたれば、守護のいはく、

「曲事(くせ)なり。聞きおよびし事、さては、まことなり。」

とて、人數(にんず)を卒して彼に發向し、人を、みな、打ち殺して果たすなり。

 右、靈雲の雜談なり。

   *

気になるのは最後に、皆、「打ち殺して果た」したとするところ。罪もなき馬に変ぜられた俗人五人も一緒に一網打尽にされたというわけである。ちょっと哀しい気がする。

 この際、序でだから、「怪談全書」のそれ、「卷五」の「三娘子(さんらうし)」(読みはママ)を以下に電子化しておく。底本は「日本名著全集」の「第一期第十卷 怪談名作集」を用いた。(但し漢字カタカナ交じりのそれを漢字ひらがなに換え、読みは一部に留め、改行を施した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

   *

唐(たう)の汴州(へんじう)の西、板橋店(はんけうてん)と云ふ所に、三娘子と云ふ女あり。孀(やもめ)にして居ること三十餘年、子もなく親類(しんるい)もなし。數間(すけん)の屋に居て、食物を賣るを以て業(げふ)とす。然れども家甚だ豐(ゆたか)にして驢馬多くあり。往來の諸人、車馬もたざる者はきたりて、驢馬を買ふ。其あたひやすうして是を賣る。これにて旅客おほく聚(あつま)る。

元和年中、許州(きよじう)の趙季和(てうきくわ)と云ふ人、東都に行かんとする時、この所に寄宿す。旅人六七人、さきだち到る。趙季和はおそく到る。三娘子よく饗(もてな)す。諸客(かく)よろこんで酒をのむ。季和は下戸(げこ)なりといへども、其座中に交る。亥の刻ばかり、皆つかれて臥せり。三娘子入つて戸をさし燈(ともしび)をけす。

季和獨(ひとり)いまだねいらず。壁を隔てゝ、三娘子が物をうごかす聲を聞いて、透間よりこれをのぞけば、火をともし箱の中より鋤耒(すきくは)をとり出し、一の木牛(うし)、一の木人形、各(おのおの)六七寸ばかりなる物を、竃(かまど)の前におき水を吐く。其木人形はしり行き、牛を牽來(ひきき)て耒(くは)を以て床の前の地を掘り耕す。又箱の中より一包の蕎麥をとり出しこれを植ゆ。やがて花さき、そば熟す。是をかりとりて、七八升あり。又小(すこし)き臼(うす)にてすりて粉(こ)となす。卽ち木牛、木人形、幷(ならび)にすきくはを箱の中へ收む。蕎麥をとり燒餅(やきもち)六七枚に作る。

しばらくありて、鷄鳴に至つて、諸客出(いで)んとするとき、三娘子早くまず興(お)きて、かの燒餅を床の上に置き、客(かく)に食(くら)はしむ。季和これを見てむなさわぎし、暇乞(いとまごひ)して出づるまねして、潜(ひそか)に門外よりこれを伺へば、諸客皆燒餅を食ふ時に、地に倒れて驢馬の鳴くまねして即ち形(かたち)變じて驢馬となる。三娘子あまたの驢馬を牽いて馬屋のうしろへ入れて、諸客の財寶を悉くとり納む。

季和(きくわ)つくづく見て人に語らず。珍しき術(じゆつ)なりと思へり。

月を經て後、季和東都より歸り、この所にいたらんとする時、豫(あらかじ)め蕎麥の燒餅を作り、其大小、さきに見たる所のごとくす。板橋店に至りて、また宿を假る。三娘子、悦びて饗(もてな)すこと始の如し。此日、季和答へて

「明朝(めいてう)早く出づべし。燒餅(やきもち)の點心(てんしん)せよ」

と云ふ。

三娘子

「これはやすきことなり。よくしづかにねむれ」

と云ふ。

夜半(やはん)過ぎて、季和ひそかに伺へば、三娘子がする所、先(さき)の日の如し。夜明けて三娘子、食物菓子をそなへ、燒餅數枚(すまい)を並べ置く。別物をとらんとする時、季和その隙(ひま)を見て、走つて三娘子が餅(もち)一枚をとりて、己(おのれ)が餅一枚にとりかへて、季和物食(ものくら)ふ時に三娘子に向つて

「我も亦燒餅(やきもち)あり。主人の餅を殘して、他の客人にくらはしめん」

と云ひて、先にとりかへたる己が餅を見知りて食(くら)ふ。三娘子茶をさゝげて來る。季和云ひけるは

「己が餅一つ主人、試みに食(くら)へ」

と云ふ。主人

「くらはし」

と答ふ。季和先の替へ置きたる主人の餅を、我手より出(いだ)しとりて與ふ。主人これを口に入るゝとひとしく、三娘子うつぶき臥し驢(うま)[やぶちゃん注:読みはママ。]の鳴くこえをなして、即ち變じて驢馬(ろば)となる。其力すくやかなり。季和これに乘つて出づ。その木にて作れる人と牛とをとると云へども、其術を知らざればすることあたはず。季和、この驢(うま)に乘つて所々(ところところ)を往來(ゆきき)すれども、つまづくことなし。毎日ありくこと百里計(ばかり)なるべし。

其後四年、この驢(うま)にのりて華山の廟(べう)の東に到る。五六里許(ばかり)の路次(ろじ)にて一人の老人にあふ。老人、手を打(う)つて笑つて

「板橋(はんけう)の三娘子、何故に驢馬の形となるや」

と云ひて、驢(うま)をとらへて季和に云ひけるは

「彼(かの)人、罪ありといへども、君に逢うて、はづかしめらるゝこと甚だし。あはれなるかな。今よりゆるしはなて」

と云ひて、老人、兩手(ふたつのて)を以て驢馬の口鼻(くちはな)の邊(へん)より、これを引きさきければ、三娘子その驢(うま)の皮の内より躍出(をどりい)づ。卽ち本(もと)よりの三娘子なり。老人に向つて禮拜し畢つて、走去(はしりさ)る。

其行く所を知らず。

   *

「老媼茶話」のそれは「卷之六」の「飯綱の法」の最後に附された例。【2017年12月6日削除・追記】「老媼茶話」は全篇を、ブログ・カテゴリ「怪奇談集」で、現在、電子化注作業中であるが、当該章を昨日公開したので、ここに提示した原文は削除した。上に附したリンクでご覧戴きたい。 

 

「高野聖」(泉鏡花)では山中の孤屋に住む美人によつて、越中富山の藥賣りが馬にされてしまふ。この一段は無論陰になつてゐるので、讀者は前に藥賣りを見、後に馬を見るに過ぎぬが、三娘子の話を知る者がこれを讀めば、「高野聖」のヒントが那邊に存するか、想像するに難くないと思はれる。然るに鏡花は三娘子の話を讀んでゐなかつたと「文壇人國記」(橫山健堂)に書いてある。もし三娘子でないとすれば、同じやうな題材を「アラビアン・ナイト」に求めなければならぬ。

[やぶちゃん注:泉鏡花の「高野聖」は「鏡花花鏡」の正字正仮名版(PDF)をお薦めする。

『「文壇人國記」(橫山健堂)』評論家横山健堂(明治五(一八七二)年~昭和一八(一九四三)年)の明治四四(一九一一)年刊の作品。私は未見。] 

 

 魔法つかびの女王ラーブは、夜宮殿の中に大麥を蒔き、その實を粉にしてサウイークを作る。サウイークは麥こがしのやうなものださうである。國王べドル・バーシムはこのサウイークをすり換へたため、自分が驢馬にされるのを免れたのみならず、反對に女王を驢馬にしてしまふ。驢馬になつた女王の運命は、三娘子と同じであつた。三娘子は華嶽廟の東まで來た時、一人の老人が現れて、超季和に向ひ、もう赦してやつてもよからうと云ひ、再び昔の姿に還つて、更に行くところを知らずといふので了つてゐるが、ラーブはその母親である老婆の手によつて、もう一度人間に戾り、べドル・バーシムを醜い鳥にして報復するといふ話が加はつてゐる。「高野聖」の美人は反魂丹賣りを馬にして賣り飛ばした。この邊は三娘子と同じであるが、孤屋のほとりに徘徊する猿や蟇や蝙蝠の事を考へると、ラープの方に近くなつて來る。三娘子は點心を食はして驢馬にする以外の方法を知らなかつた。三娘子と「アラビアン・ナイト」との繫がりは輕々に斷ぜられぬが、「高野聖」の著想は先づ後者によつたものと見てよからう。かういふ題材を參謀本部の地圖の通用する世界に持つて來て、悠々と描き去る作家は、この人以外にありさうもない。

[やぶちゃん注:ここで説明されているのは「アラビアン・ナイト」の『「柘榴の花」と「月の微笑」の物語』(第五百二十六夜~第五百四十九夜)のことらしい。ウィキの「千夜一夜物語のあらすじ」の当該の物語の項を参照されたい。] 

 

 人を馬にする話は、三娘子系統の外にもう一つある。「寶物集」に擧げた天竺安息國の王、馬を好んだ結果、人を馬に化する術を習ひ得た。葉の狹い草を食はせれば人が馬になり、葉の廣い草を食はせればまた人に還るといふのだから、三娘子の方法より遙かに簡單である。この事を知らぬ一人の商人がやつて來て、忽ち馬にして繫がれてしまつた。形は馬でも心は人なので、一商人歎き悲しむけれども、顧る人もない。商人の子、父の歸らざることを悲しみ、あとからやつて來て、宿の亭主から人を馬にする草の祕密を聞かされた。最近馬にされた商人は、栗毛の馬の眉に斑があると聞き、首尾よく尋ね當てて、葉の廣い草を食はせたら、忽ち父親になつたので、一緒に本國へ歸つたといふのである。西洋のお伽噺にも果物を食べて鼻が長くなるとか、角が生えるとかいふのがあり、また他の果物を食べれば舊に復する筋であつたと思ふ。草の葉の廣狹もこれと似たやうなものらしい。「老媼夜譚」(佐々木喜善)に收錄された奧州の民譚の中にも、伊勢參宮の途中、見知らぬ町の安宿で草餠を食はされ、一夜にして馬になる話がある。馬にされてから座頭(ざとう)の淨瑠璃を聞く機會があつたが、その文句の中に、那須野ガ原の奧の沼のほとりの朝日の眞當りに生えてゐる縞の芒(すすき)を食めば、もとの人間になるとあるのを耳にし、早速那須野ガ原へ出かけて行つて、縞の芒を見付け、人間の姿になることが出來た。「老媼夜譚」の話は大體三娘子と同じ事で、宿屋から草餠を盜み出し、參宮の戾り道に宿の者に食はせて馬にする、といふところまで往つてゐる。たゞ縞の芒を嚙んで人間に還るといふのは三娘子にない事だから、「寶物集」にある天竺の話が何かの徑路によつて、奧州の民謠に溶け込んだものであらう。日本に傳はつた馬になる話には、二つの系統があると見なければならぬ。

[やぶちゃん注:以上の「寶物集」』(ほうぶつしゅう:平安末期に成立した平康頼著になる仏教説話集)の話は「卷第一」の「親馬になされたるを子の助けし事」である。私は同書を所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから次の頁で視認出来る。

佐々木喜善「老媼夜譚」は昭和二(一九二七)年郷土研究社刊の「馬になつた男」である。私は同書を所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。

「朝日の眞當り」朝日が真正面から当たる辺りの謂いであろう。佐々木の原文自体がそうなっている。] 

 

 三娘子や「アラビアン・ナイト」は勿論、「寶物集」の話にしたところで、慥かに童話的な要素を具へてゐるが、こゝに最も現實的で殺風景なのは「今昔物語」の「通四國邊地僧至不知所被打成馬語」である。三人の僧が四國の山中で道に迷ひ、漸く一軒の家に逢着する。居住者は六十ばかりの僧で、恐ろしい顏をした男であつたが、先づ三人に食事をふるまひ、然る後庭に引落して笞(むち)で打つ。百敲かれて起された時は已に馬になつてゐた。これは笞にさういふ魔力があるのか、先づ食はせたものに三娘子の點心のやうな作用があるのか、「今昔物語」の文章だけではよくわからぬ。南方熊楠翁は人を馬にする話は諸國に多いと云ひ、その方法として魔力ある藥料を塗り付けるか、魔力ある飮食物を與へるか、手綱や轡を加へるかの三つを擧げてゐる。この話でも轡は用ゐられるが、それは已に馬になつてからで、笞で打ち据ゑた後、引き起すと馬になつてゐるのが「今昔物語」の特色ださうである。とにかくこの方法によつて三人のうち二人までは忽ち馬にされてしまふ。殘る一人は主僧の寢入つた間に逃げ出し、途中で逢つた女房のはからひで一命だけは助かる。いづれにしても百敲きにして馬にするなどは殺風景極まる上に、その馬は土に埋めて殺すといふのだから、この主僧なる者は三娘子や安息國の王に覆輪かけた兇惡の徒である。支那とも天竺とも違ふ筋で、南方翁のいはゆる特色を具へてゐるに拘らず、從來あまり話の種にならなかつたのは、徹頭徹尾不愉快なためかと思はれる。

[やぶちゃん注:以上の「今昔物語集」の話は「卷第三十一」の「通四國邊地僧行不知所被打成馬語第十四」(四國の邊地(へんぢ)を通る僧、知らぬ所へ行きて馬(むま)に打ち成さるる語(こと)第十四」)である。【二〇二二年四月二十日以下のテクストのみ完全な正字に改稿した。】

   *

 今は昔、佛(ほとけ)の道を行ひける僧、三人(みたり)、伴なひて、四國の邊地と云ふは、伊豫・讚岐・阿波・土佐の海の邊(ほと)りの𢌞(めぐ)り也(なり)[やぶちゃん注:文脈がややぎくしゃくしているのは、四国の辺地の具体な解説が後から挿入された結果であろう。]、其の僧共(ども)、□を𢌞けるに、思ひ懸けず、山に踏み入りにけり。深き山に迷(まど)ひにければ、濱の邊りに出でむ事を、願ひけり。終(つひ)には、人跡(ひとあと)絕えたる深き谷に踏み入りにければ、彌(いよい)よ、歎き悲しむで、荊(うばら)・蕀(からたち)を分けて行きける程に、一(ひとつ)の平らなる地、有り。見れば、垣(かき)など拵(しつら)ひ、𢌞(めぐら)したり。

『此(ここ)は、人の栖(すみか)にこそ有りぬれ。』

と思ふに、喜(うれ)しくて、入りて見れば、屋共(やども)、有り。譬(たと)ひ、鬼の栖(すみか)也とも、今は何(いか)がせむ、道をも知らねば、行くべき方も思(おぼ)えで、其の家に寄りて、

「物申さむ。」

と云へば、屋の内に、

「誰(た)そ。」

と問ふ。

「修行仕(つかまつ)る者共の、道を踏違(たが)へて參りたる也。何方(いづかた)に行くべきにか、敎へ給へ。」

と云へば、

「暫く。」

と云ひて、内より、人、出で來たるを見れば、年六十許りなる僧也。形ち、糸(いと)怖氣(おそろしげ)也。

 呼び寄すれば、

『鬼にても、神(かみ)にても、今は、何にかはせん。』

と思ひて、三人(みたり)乍ら、板敷[やぶちゃん注:建物外に設えた簀の子。]の上に昇りて居(ゐ)たれば、僧の云はく、

「其達(そこたち)は極(こう)じ給ひぬらむ。」

と云ひて、程無く、糸(いと)淸氣(きよげ)なる食ひ物を持い來たり。

『然(さ)は、此れは、例(れい)の人なめり。』[やぶちゃん注:「例の人」は「鬼ではなく、普通の人間」の意。]

と、糸(いと)喜(うれ)しく思ひて、物(もの)打ち食ひ畢(は)てて居たる程に、家主(いへあるじ)の僧、糸氣怖氣(けおそろしげ)に成りて、人を呼べば、

『怖し。』

と思ひて有るに、來る人を見れば、怪氣(あやしげ)なる法師也。主(あるじ)、

「例の物共、取りて來たれ。」

と云へば、法師、馬の轡頭(くつわづら)[やぶちゃん注:手綱。]と笞(しもと)とを、持ち來たり。

 主の僧、

「例の樣にせよ。」

と俸(おきつ)れば、一人の修行者(しゆぎやうじや)を、板敷より取りて引き落とす。今二人は、

『此れは。何にせむずるぞ。』

と思ふ程に、庭に引き落として、此の笞を以つて背を打つ。慥(たしか)に五十度(ごじふど)、打つ。修行者、音(こゑ)を擧げて、

「助けよ。」

と叫べども、今二人、何がは、助けむとする。然て亦、衣を引き去りて、膚(はだへ)を、亦、五十度、打つ。百度、打たるれば、修行者、低(うつぶし)に臥たるを、主の僧、

「然(さ)て、引き起こせ。」

と云へば、法師、引き起こたるを見れば、忽ちに馬に成りて、身振ひ打ちして立つれば、轡頭(くつわづら)を□□て引き立てたり。

 殘りの二人の修行者、此れを見るに、

『此れは何(いか)なる事ぞ。此の世には非(あら)ぬ所也けり。我等をも、此(か)くせむずる也けり。』

と思ふに、悲しくして、更に物も思えで有る程に、亦、一人の修行者を、板敷より引き落として、前の如く打てば、打ち畢りて、亦、引き起こしたれば、其れも、馬に成りて立てれり。然(しか)れば、二疋の馬に、轡頭を□□て引き入れつ。

 今一人の修行者、

『我をも引き落として、彼等が樣に打たむずらむ。』

と思ふに悲しければ、憑(たの)み奉る本尊に、

『我を、助け給へ。』

と心の内に念ずる事、限り無し。其の時に、主の僧、

「其の修行者をば、暫く、然(さ)て置きたれ。」

と云ひて、

「其こに有れ。」

と云ひつる所に、居(ゐ)たる程に、日も暮れぬ。

 修行者の思はく、

『我れ、馬に成らむよりは、只、逃げむ。追れて捕へられて死なむも、命を棄すてなむ事は、同じ事也。』

と思へども、知らぬ山の中なれば、何方(いづかた)へ逃ぐべしとも思えず。亦、

『身を投げてや、死なまし。』

と、樣々に思ひ歎く程に、家の主の僧、修行者を呼ぶ。

「候ふ。」

と答ふれば、

「彼(か)の後ろの方(かた)に有る田には、『水は有りや。』と見よ。」

と云へば、恐々(おづお)づ行きて見るに、水、有れば、返りて、

「水、候ふ。」

と答ふ。

『此れも我を「何にせむ」とて云ふにや。』

と思ふに、生きたる心地も爲(せ)ず。

 然る間、人皆、寢(い)ぬる時に、修行者、

『只、逃げなむ。』

と偏へに思ひ得て、負(おひ)をも棄てて、只、身一つ、走り出でて、足の向きたる方(かた)に走る程に、

『五、六町は、來ぬらむ。』

と思ふに、亦、一つの屋(や)、有り。

『此(ここ)も、何(いか)なる所、ならむ。』

と恐しく思ひて、走り過ぎむと爲(す)るに、屋の前に、女房、一人、立ちて、

「彼(あ)れは、何(いか)なる人ぞ。」

と問へば、修行者、恐々(おづお)づ、

「然々(しかじか)の者の、此(か)く思ひ得て、『身を投げても死なむ』とて罷り候ふ也。助けさせ給へ。」

と云へば、女、

「哀れ、然(さ)る事、有るらむ。糸惜(いとほ)しき事かな。先づ、此(ここ)へ入り給へ。」

と云へば、入りぬ。

 女の云はく、

「年來(としごろ)、此(か)く踈(う)き事共を見居(みゐ)たれども、我れ、力、及ばず。但し、『其(そこ)をば、構へて、助け聞えむ。』と思ふ。我れは、其の御(おは)しつらむ御房(ごばう)の大娘(だいじやう)[やぶちゃん注:正妻。]也。此(ここ)より下(しも)に然許(さばかり)去りて、丸(まろ)[やぶちゃん注:私。]が弟(おとうと)なる女房御(おは)す。然々(しかしか)有る所也。其の人のみぞ、其(そこ)をば、助け聞えむ。『此(ここ)よりぞ。』とて、其(そこ)へ御(おは)せ。消息(せうそく)を奉らむ。」

と云ひて、書きて取らせて云はく、

「二人の修行者をば、既に馬に成して、其(そこ)をば、土に掘り埋づめて、殺さむと爲(し)つる也。『田に水や有る。』と見せけるは、掘り埋づまむが爲め也。」

と云ふを聞くに、

『賢くぞ、逃げにける。暫しの命も有るは、佛の御助(おほむたす)け也。』

と思ひて、消息を取るままに、女に向かひて、手を摺りて、泣々(なくな)く、臥し禮(をが)みて、走り出でて、敎へつる方(かた)を指して、

『廿町許りは來らむ。』

と思ふ程に、片山の邊(ほと)りに、屋(や)、有り。

『此(ここ)なめり。』

と思ひて、寄りて、人を以つて、[やぶちゃん注:使用人がいる相応の屋敷のようである。]

「然々の御文(おほむふみ)、奉らむ。」

と云ひ入れたれば、使ひ、取りて、入りて返りて、

「此方(こなた)へ入り給へ。」

と云へば、入りぬ。亦、女房、有りて云く、

「我れも、年來(としごろ)、『踈(う)き事。』と思つるに、姊の亦、此(か)く云ひ遣(おこ)せたれば、『助け聞えむ。』と思ふ也。但し、此には極く恐しき事、有る所也。暫く此に隱れて御(おは)せ。」

とて、一間(ひとま)なる所に隱し居(す)へて、

「努々(ゆめゆめ)、音、な爲(し)給ひそ。時、既に吉(よ)く成りぬ[やぶちゃん注:「その時間になりましたよ」。]。」

と云へば、修行者、

『何事ならむ。』

と、恐しく思ひて、音も立てず、動かで、居たり。

 暫し許り有れば、恐し氣なる氣はひしたる者、入り來(く)。生臭き香(か)、薰(にほ)ひたり。恐しき事、限り無し。

『此れも、何なる者ならむ。』

と思ふ限りに入り來りて、此の家主(いへあるじ)の女房と物語など打ちして、二人臥(ふ)すなり。聞けば、懷抱して[やぶちゃん注:まぐわって。]返りぬ。修行者、此れを心得る樣、

『此れは。鬼の妻にして、常に來りて、此樣(かやう)に懷抱して返る也けり。』

と思ふにも、極めて氣六借(けむづか)し。

 然(さ)て、女房、行くべき道を敎へて、

「實(まこと)に奇異(あさま)しき命を存(そん)し給ひぬる人かな。『喜(うれ)し。』と思(おぼ)せ。」

と云へば、修行者、前の如く、泣々(なくな)く伏し禮(をが)みて、其の所を出でて、敎へけるまゝに行きければ、夜(よ)も曙方(あけがた)に成りぬ。

『今は、百町許りは來(き)ぬらむ。』

と思ふ程に、夜(よ)、白々と成りぬ。見れば、例(れい)の直(うるは)しき道に出でぬる也けり。其の時にぞ、心、落居(おちゐ)ける。

「喜(うれ)し。」

と云へば愚也や。其(そこ)よりなむ、人里を尋ねて行きて、人の家に這ひ入りて、然々(しかじか)の事の有りつる樣(さま)を語りければ、其の家の人も、

「奇異(あさま)しかりける事かな。」

と云ひける。里の者共も、聞き繼ぎてぞ、問ひ合ひたりける。其の逃げて出でたりける所は、□□の國□□郡(こほり)の□□鄕(さと)也。

 然(さ)て、二人の女房の、修行者に口固(くちかた)めける事は、

「此(か)く有難き命を助け聞(きこ)えつ。努々(ゆめゆめ)『此(かか)る所、有りつ。』と人にな語り給ひそ。」

とぞ、返々(かへすがへ)す云ひけれども、修行者、

「然許(さばかり)の事をば、何(いか)でか、然(さ)ては、止(や)まむ。」

とて、普(あまね)く語りければ、其の國の人の、年若くて勇みたる兵(つはもの)の、道に堪(た)ふるは、

「軍(いくさ)を發(おこ)して、行きて見む。」

など云ひけれども、道の行き方も無かりければ、然(さ)て止みにけり[やぶちゃん注:沙汰止みとなった。]。然(しか)れば、彼の僧も、修行者の逃げぬるを、

『道の無ければ、否(え)逃げじ。』

と思ひて、怱(いそ)ぎても、追はざりけるにこそ。

 然(さ)て、修行者、其よりなむ、傳はりて、京に上りたりける。其の後(のち)、『其の所を何(いづ)こに有り』と云ふ事、聞えず。現(あらは)に、人を馬に打ち成しける、更に、心得ず。畜生道などにや有らむ。[やぶちゃん注:ここでは実はあそこは人間の世界ではなく、六道の三悪道に一つである「畜生道」であったのではないか、と推測しているのである。]

 彼(か)の修行者の、京に返りて、二人の同法の馬(むま)の爲めに、殊に善根を修(しゆ)しけり。

 此れを思ふに、身を棄てて行ふと云ひ乍らも、無下に知らざらむ所には、行くべからずと、修行者の正しく語けるを聞き傳へて、此く語り傳へたるとや。

   *

「南方熊楠翁は人を馬にする話は諸國に多いと云ひ、その方法として魔力ある藥料を塗り付けるか、魔力ある飮食物を與へるか、手綱や轡を加へるかの三つを擧げてゐる」【二〇二二年四月二十日改稿】出典は南方熊楠の「今昔物語の研究」の「二」。以上の「今昔物語集」の話を枕として語っている。熊楠の論考は近いうちに電子化する予定である。]

Jeanne Moreau

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哀しみは永遠に癒えることはない……
私は生の舞台で数メートルの距離で彼女を二度見た――
最初の時、最後の舞台挨拶――
一度――彼女の視線と僕の視線が合わさった――
僕はあの時――生涯でただの一度――「悩殺」――の語を認知したのだった……

2017/08/01

詩人だぁ?

自分を「詩人」だと信じている人間は「詩人」ではあり得ない。「詩人」とは常に自己存在の「火中」で必ず公然とした「詩人」を拒否するものである。「詩人」は「芸術家」と同義として――よい――

病者

何を語っても相手を「病者だ」と思っている人間とは――語るべき価値は――全く――ない――

宿直草 序及び目録 /「宿直草」全電子化完遂 

 

[やぶちゃん注:以下、荻田安静とは別人(署名なく、不詳。後に本書を改組・編纂した安静の弟子富尾似船は有力な一人の候補ではあるものの、断定は出来ない)の手に成る「宿直草」の序及び目録。序は基礎底本にヘルン文庫(但し、下部の破損がひどく全文の確認は出来なかった)によって読みを変更・追加してある(「反古(ほぐ)」「俗(ひと)」などは基礎底本にはないが、なくては読みが振れて読めぬ部類のものである)。目録は各巻の冒頭に分割してあるが、基礎底本に従い、最初に纏めた。基礎底本は話の番号に枠が附されているが、面倒なだけなので省略し、有意な各話の字下げも省略した。また、目録中の「附(つけたり)」は基礎底本では右ポイント落ちであるが、同ポイントで前後を一字空けた。目録ともに漢字表記は基礎底本のそれを原則、正字化するに留めたが、「序」だけはヘルン文庫で確認出来た「虫」「万は「蟲」「萬」としなかった(後者は破損しているが一画目の残存からかく判じた)。実際には目録の中の「蛇」は「虵」である可能性がすこぶる高い(本文がそうであるから)が、大洲本の目録原本を確認出来ない以上、そうした仕儀はここではやめることとした。]

 

 

 序

筆とればものゝ書かるゝにや。先生このはなしをあつむ。またとはぬ夜(よ)の伽(とぎ)にあらずや。はるけきみちのあづまなる、つくしなるうはさ。一ふたとかぞへ、十種甘(とくさはた)くさと指をり、來ぬ人を松ほの浦のみるめともからは、もにすむ虫のわれからと、人のあどうつとしもなく、げに目をさますわざなりけらし。この反古(ほぐ)よ。万(よろず)治(おさむ)るみつの陽(はる)より、むなしく蟬(せみ)の家(いへ)となれり。于戲(ああ)ゆく師(ひと)のかたみならずや。われすてがてにおもひければ、深きねもなき萍(うきくさ)のはなかきあつめぬるぞ。心の水のさそひものなる。猶(なを)先生の下戸(げこ)とばけものはなきをかたるも、報ひはめぐる小車(をぐるま)の、たとき教へをよるべにたのみ、趣(おもむき)を國風(ならはし)のはなしにかりつゝ、おとこ山の花もいたづらに手折(たをり)、もとめ塚(つか)のをみなへしもさなくはちぎらざれとや。心のたねの素直ならば、むべなでしこの末葉(すゑば)まで、枯(かれ)うつろはぬいさをしなるべし。おきなぐさのおもおもと、うば竹のよしある袖にはいはず、たゞ若(わか)むらさきの、よそふく風のてになびきやすく、色(いろ)てふふかくときめく俗(ひと)に、傍(そば)にいさめのとのゐぐさならし。

 

[やぶちゃん注:「先生」執筆者の第一候補を富尾似船とする所以。

「またとはぬ」「又問はぬ」であるがこれは「以前に聴いたことがない」の謂いではないか?話のオリジナリティがあることを指すものか。

「つくしなるうはさ」「筑紫」に「盡し」(渉猟し尽くした)を掛けるか。本書では関東の話柄は勿論のこと、「卷一 第七 天狗、いしきる事」などの複数話で「筑紫」が舞台となっている。

「一ふた」一つ二つ。

「ともから」「友がら」に以下の「われから」のからと音を通じ合わせてある。

「あど」相槌(あいづち)。

「みつの陽(はる)」三年前の春の意か? とすれば、安静は寛文九(一六六九)年に亡くなっているから、この序は寛文七年に書かれたものとなる。

「于戲(ああ)」「于」(音「ウ」)は息がつかえて出る「おぅ」等の音を表わし、感嘆の声「あぁ!」を意味し、「戲」の字は音で「コ・ク」と読むと、嘆息の声を現わす。

「すてがてに」「捨て難てに」捨て難いものに。

「深きねもなき萍(うきくさ)のはなかきあつめぬるぞ」荻田安静の蒐集した話数はもっと遙かにあったということが判る。

「心の水のさそひものなる」好奇心が、水がいっさんに流れるように、自然、誘われるような実に魅力的なも話柄群である。

「下戸(げこ)とばけものはなき」「下戸と化け物は無し」とは本来は「世の中には化け物などいないのと同じように,全く酒の飲めない者などというのも実はいない」という諺に基づく。この「序」の筆者はどうも怪異など実はないと言いたいらしい。

「國風(ならはし)のはなし」本邦を舞台とした話。

「かりつゝ」仮託しながら。

「おとこ山の花もいたづらに手折(たをり)、もとめ塚(つか)のをみなへしもさなくはちぎらざれとや」待遇中止法で前も否定されるのであろう。――怪異の中の男の勇猛果敢な「花」のある話を徒らに「手折」ったりせず(ありえないとして頭から否定したりしないで)、謡曲の「求塚(もとめづか)」(観阿弥作で万葉集などに取材した菟名日処女(うないおとめ)の霊が、二人の男に愛されたために入水した故事と死後の苦しみを語るもの)の女郎花のような儚い娘の話も「千切らざれ」、同じようにありえない話として馬鹿にしてはいけない、と師は訴えんがためにこの「宿直草」の怪談集を書かれたものか?――

「心のたね」「心の種」。真心の核心。怪談話の「種」も掛けていよう。

「むべ」「宜/諾(うべ)」に同じ。副詞で「なるほど・もっともなことに」の意。

「なでしこの末葉(すゑば)まで」頑是ない童から老いた者に至る万民にとって、の謂いか。

「いさをし」益となる立派な御仕事、御功績。

「おきなぐさのおもおもと、うば竹のよしある袖にはいはず、たゞ若(わか)むらさきの、よそふく風のてになびきやすく、色(いろ)てふふかくときめく俗(ひと)に」以上はだらだらとした「多様なあらゆる俗人」の形容粉飾。「宿直草」のいやったらしい退屈なそれとひどく似ている。或いは、「宿直草」のそうした厭な部分は実はこの序を書いた可能性の高い似船の添えたものだったのかも知れないなどと、ふっと思ったりした。]

 

 

宿直草 卷一 目錄

第一  すたれし寺を管ノ立てし僧の事

第二  七命(みやう)ほろびし因果の事

第三  武州淺草にばけ物ある事

第四  淺草の堂にて人を引きさきし事

第五  ある寺の僧、天狗の難にあひし事

第六  天狗つぶてうつ事

第七  天狗いしきる事

第八  天狗つぶて 附 心にかゝらぬ怪異はわざはひなき辨の事

第九  攝州本山(ほんざん)は魔所なる事

第十  本山(ほんざん)の嶺に天火おつる事

第十一 見こし入道をみる事

第十二 弓法の德をおぼえし事

 

宿直草 卷二 目錄

 

第一  急なる時も思案(しあん)あるべき事

第二  蜘蛛人をとる事

第三  百物語して蜘蛛の足をきる事

第四  甲州の辻堂(つじだう)に化物ある事

第五  三人しなしな勇(よう)ある事

第六  女は天性肝(きも)ふとき事

第七  似(に)たるは似て更に是(ぜ)ならさる事

第八  誓願寺にて鬼に責(せめ)らるゝ女の事

第九  建仁寺の餠屋告(つげ)をうる事

第十  夢におどろきて信をうる事

第十一 小宰相局(こさいしやうつぼね)の幽靈の事

第十二 不孝なる者、舌をぬかるゝ事

 

宿直草 卷三 目錄

 

第一  卒都婆の子うむ事

第二  古狸を射る事

第三  狸藥(くすり)の事

第四  たぬきの腹鼓(はらつゝみ)も僞(いつはり)ならぬ事

第五  山姫の事

第六  狩人(かりうど)名もしれぬものをとる事

第七  蛇(くちなは)の分食(わけ)といふ人の事

第八  湖(みづうみ)に入武具(ぶぐ)を得し事

第九  伊賀の池に蛇(じや)すむ事

第十  幽靈の方人(かたうど)の事

第十一 ゆうれい僞(いつはり)し男を睨(にらみ)ころす事

第十二 ゆうれい讀經(どつきやう)にうかみし事[やぶちゃん注:「どつきやう」はママ。]

第十三 男を噉(く)ふをんなの事

第十四 蝨(しらみ)の憤(いきどをり)人をころせし事

第十五 ねずみ人をくふ事

 

宿直草 卷四 目錄

 

第一  ねこまたといふ事

第二  年經(としへ)し猫はばくる事

第三  送り狼といふ事

第四  狼にくはるゝものゝ事

第五  殺生して神罰あたる事

第六  所をかんがへ殺生すべき事

第七  七人の子の中も女に心ゆるすまじき事

第八  冷食(れいしよく)をぬすむ狗(いぬ)の事

第九  月影を犬と見る事

第十  痘する子をばけ物と思ひし事

第十一 いざりを班(ばけもの)と見し事

第十二 山臥(ぶし)しのびものをおどす事

第十三 博奕(ばくち)うち女房におそれし事

第十四 魔法を覺し山伏の事

第十五 きつね人の妻にかよふ事

第十六 智ありても畜生はあさましき事

第十七 蛇をうむをんなの事

 

宿直草 卷五 目錄

 

第一  産女(うぶめ)の事

第二  戰場の跡(あと)火もゆる事

第三  仁光坊(にんくはばう)といふ火の事

第四  曾我の幽靈の事

第五  古曾部(こそべ)の里のゆうれいの事

第六  蛸もおそろしき物なる事

第七  學僧、盜人の家に宿かる事

第八  道行(ゆく)僧、山賊にあふ事

第九  旅僧(りよそう)狂氣な者にめいわくする事

第十  京師(けいし)に人失(うす)る事

第十一 五音(ごゐん)を聞きしる事

第十二 堪忍ゆへに德をうる事

宿直草卷五 第十二 勘忍故に德を取る事 +荻田安静跋 /「宿直草」大洲本全篇電子化注~了

 

  第十二 勘忍(かんにん)故に德を取る事

 

[やぶちゃん注:「宿直草」の最終話で、前話とは間男の笑い話として直連関するが、こちらは一切の怪異がなく、怪談集としての最終話としては如何なものか? 少なくとも私は裏切られた気分で、面白い話もこれでは面白くないというのが正直なところである。

 最後の跋文もそのまま(ここのみ、表記は敢えて原典のままとした)に載せた。]

 

 天滿(てんま)に商人(あきんど)あり。誰もとつかは師走の比、銀子(ぎんす)才覺のため、京伏見に上(のぼ)るに、調はざれば、晝、舟に乘りて、我屋へは夜になりて歸るに、内に、早や、戸を閉めたり。やがて、門叩くに、暫し開(あけ)ず。あらけなく怒りければ、やうやう開けたり。

 内に入(いれ)ば、妻、不興氣(ふけうげ)にして倒惑(たうわく)したる體(てい)なり。男も銀(かね)は得借り出(いだ)さず、不氣嫌にして、其處(そこ)ら見まはすに、常(つね)、長持に入(いれ)し道具引き散らし、あまさへ、糸房(いとぶさ)の大數珠(おほずゞ)あり。

 不思議に思ひ、取りて見れば、我(わが)恃(たの)みし長老の數珠なり。

『さては。我妻と密通して、今宵忍び、詮方無(せんかたな)さに、長持に隱れしなり。さてさて、無念なる事。曳き出し、斬りて捨(すつ)べし。』

と思ひしが、

『迚(とて)も、我が耻も四方へ知れなん。』

と、暫し、勘忍の胸を摩(さす)り、妻に向つて云(いふ)やう、

「銀子の才覺、叶(かな)ひ難(がた)し。質物(しちもつ)にて借り出すべし。」

と傭夫(ようふ)、二人、雇ひ、かの長持に錠(ぢやう)を下ろし、その夜に持ちて出づる。

 妻、見て悲しび、

「それは、今日(けふ)、物を取り出(だ)し、中に何もさふらはず。誰(た)が質(しち)に取り申べき。」

と云ふ。夫、聞き、

「よし、空(あき)長持にても銀(かね)は借りて來(こ)んぞ。小言(こゞと)な云ふそ。」

と出る。

 さて、かの寺に行き、門を叩くに、同宿(どうじゆく)出(いで)て、

「お留守。」

と云ふ。

「いや、何屋の誰(たれ)にて御座候。長老樣へ仰(おほせ)られ下さるべく候。當年、殊の外、手づまり申候。近頃近頃(ちかごろちかごろ)、御無心の事に御座候へども、銀子三貫目御貸し下され候やうに、又、此長持に我等所帶道具一跡(せき)入れ置き申候へば、先(まづ)、質(しち)に入申候。則ち、鎰(かぎ)はこれに御座候。明朝早々、借りに參申べく候。御歸りなされ候はゞ、此段、よきに申給へ。」

と云ふ。同宿(どうしゆく)、聞きて、

「先づ、請取りは致し候。銀子の義、如何(いかゞ)御座あるべく候か、御口上の通りは申聞(まうしきこす)べし。」

と云ふ。

「かたじけなし。」

とて歸り、さて、翌くる日、又、寺へ行く。

 同宿、出(いで)合ひて、

「昨夜(ゆふべ)の事、長老に申聞(まうしきこえ)候へば、易き事とて、則(すなはち)、此三貫目、進(しんじ)申候へと申され候。猶、又、日來(ひごろ)御懇意の旦那の御事なれば、此三貫目あり合(あひ)候から、沙汰なしに進じ申候へと申付候。御目にかゝるべく候へども、夜前、深更(しんかう)に歸り候から、御斷(ことわ)り申候と申せ、との事に御座候。」

なんど、お鬚(ひげ)の塵(ちり)を取るまでの挨拶なり。

 男。聞きて、

「さてさて。お寺から里へと、銀(かね)永(なが)ふ下さるべき義、かたじけなく存じ奉り候。然(しか)らば、お寺の物をたゞに貰ひ申も冥加なく候へば、足りは仕るまじけれど、此長持の物、皆、上げ申候。長老樣へよきに申させ給へ。」

と云へば、同宿(どうじゆく)、聞きて、

「長持は、云はれぬ事なされて、よく進ぜられ候。辭退申さるべけれど、御心入(おんこころいれ)にてさふらへば、收められ候やうに申べく候。」

と色代(しきたい)ありて、男は出(いで)ぬ。

 女房は、如何(いかゞ)計(はから)ひしや。

 氣味よき分別、理の常(つね)か。あらはれて恥の巷(ちまた)に洩れば、如何(いか)ばかり口惜しからん。わが恥、人の恥を隱し、我も德を得、人も命を得る。又、案の厚きか。重ね斬(ぎ)りの道具たるべけれど、恥は後代まで殘らん。

 その上(かみ)、所司代の某(なにがし)、公方より子息に役(やく)を仰付(おほせつけ)らるべき由、聞こえければ、

「器(うつは)、見屆けず。他家(たけ)の達者に仰せ付られ候やうに。」

と申上げられしかども、十手(ぢふしゆ)指(ゆびさ)して否むべきやうなかりしかば、御受け申されける時、

「愚息義も、慌てゝ妻敵(めがたき)は討ち申まじく候。」

と申されけるとかや。

「天晴(あつぱれ)一言(いちごん)かな。」

と云ひ合へり、となり。

 この人もそれか。

 但し、誰(たれ)しも言葉には云ふ。行ひなくんばあらじ。口の上、聞きたる時は、善人ならぬはなけれども、その行跡(かうせき)を見るときは、惡人ならぬ日もなし。身は指に差され、名は舌に載る。あゝ、獨り、我か。知る事の難(かた)きにはあらず、勤むることの怠ればなり。

 

 右、この草子、われ、七、八歳より五十有餘(よ)の今、四十五年の間、見聞(けんぶん)せしを書(かき)ならぶれば、我からおこがましくこそ侍れ。よしや、人のいつはりて我にかたらば、そのいつはり、我、おふべきなり。見ん人、わがために、補へ。

 

  延寳【丁巳】曆初春吉旦

 

    五條橋通扇屋町丁子屋

       西村九郎右衞門開板

 

[やぶちゃん注:「勘忍(かんにん)」第一義の「人の過ちを我慢して許すこと・勘弁していやること」の意。

「誰もとつかは」「とつかは」は慌てるさま。せかせかするさま。

「銀子(ぎんす)」ここの場合は「金子(きんす)」に同じく、金銭のこと。以前に「灰吹」で注したが、江戸初期の金銀の精製技術は不完全で綺麗な分離抽出は出来なかったこととも関係するか? なお、これで古くは「ゐんつう」(いんつう/「員子」とも書いた。「ヰン(イン)」「ツウ」は孰れも唐音)と読んで、中国から渡来した精製分離された純良な金銀の謂い及びそこから転じた「金銭・金子」の謂いもあるが、ここは特にそう読んでいる決め手がないので「ぎんす」とした。

「糸房(いとぶさ)の大數珠(おほずゞ)」高僧などが用いる高級なもったいつけた房の付いた大きな数珠(じゅず)。

「借りて來(こ)んぞ。」「借りてきてやろうやないかい!」。

「小言(こゞと)な云ふそ。」「小言は言わんときッツ!」。

「何屋の誰(たれ)」単に屋号実名を伏せた表記。

「同宿」ここは寺の住持の従僧のこと。

「近頃近頃(ちかごろちかごろ)」繰り返し(原典は踊り字「〱」)はママ。まんず、まんず、今日この頃は。

「御無心の事に御座候へども」「そちら様(御住持の菩提寺)にても至って勝手不如意になられ、拠所無く、金品、何かと、御入用切なることとは存じまするが」と、まず、相手の財政不況を慮った「ふり」をしている慇懃(実は確信犯の無礼)ととっておく。

「銀子三貫目」ここも「金子」に読み換えて、江戸初期のこちらの換算値を参照すると、当時は銭四千文と同じで現在の金額にして約十万円に当たったとある。一貫目は一貫文と同じであるから、江戸時代の標準でそれは一文銭一千枚相当となり、それで単純換算すると、一文銭で四千枚、四十万円(或いはそれ以上)相当となる。

「一跡(せき)」一切。

「鎰(かぎ)はこれに御座候」その場で確かめられると、主人公よりも中の住持が困るから、寺を出る間際に渡したのであろう。面白さとしてはしかし、渡して確かめさせて、中で縮こまっている住持と従僧が顔を見合わせ、パタンと閉じるという滑稽があった方が喜劇としては(私はしかし最初に苦言した通り、そのようなものを「宿直草」の最終話に求めてはいない)面白かろう。

「あり合(あひ)候から」たまたま全く自由になる当該額の金子が御座ったによって。

「沙汰なしに」返済や証文や質(しち)などの保険措置なしに、という意味であろう。要するに全額寄付するというのである。

「お鬚(ひげ)の塵(ちり)を取るまでの挨拶」ごく念の入った問題にしようのない非常に丁寧にして相手の気持ちを完璧に思いやった〈ような〉挨拶。

「里」檀家。

「永(なが)ふ下さる」条件なし返済なしの寄附であるから、かく言った。それをダメ押して確認決定(けつじょう)させるために「お寺の物をたゞに貰ひ申」と言い直したのである。

「冥加なく」本来、「冥加」は限定的に「違約や悪事をした場合、神仏の加護が尽きても仕方ない」という意で用いる自誓の言葉であるから、皮肉が又してもダメ押しで効いてくるのである。

「長持は、云はれぬ事なされて、よく進ぜられ候。」この台詞は上手く訳せないのであるが、取り敢えずは、

「長持は、そうさ、こちらが質として要求したわけでも御座らぬに、言いようもない御決心(言葉上は金になる家財道具一切が入っているはず)をなされて、かくも素晴らしく御寄附下さいました。」

という意で私は一応、とるのだが……しかし……凝っとこの台詞の文字を見ていると……「長持」は「住持」を引っ掛けているのではなかろうか?……と思えてきたのである。そう、

「住持は、そうさ、言いようもない破廉恥至極なことをなされて、しかも、それを訴え出ることもなされぬというかくも素晴らしき御決心をなされて、目出度くも住持入りの長持を御寄附下さいました。」

という、思わず、本音を含ませた洒落として「宿直草」の筆者がやらかした皮肉なパロディとしての台詞としての意味である。私は、気に入らない喜劇だからこそ、こんなことも言い添えたとお考えあれかし。

「色代(しきたい)」挨拶。会釈。元は後の「式台」の語源となる玄関の前の間のこと。

「重ね斬(ぎ)りの道具」長持に妻と間男を押し込んで、サンドイッチにしたまま、長持ちを太刀や鋸で真っ二つにするという猟奇的な想像上のイメージか。江戸時代、「重ねて四つ」という語があった。不義密通を働いた男女は、裏切られた夫が公に訴え出れば、処罰理由が掲げられ、ともに死罪(両者が確信犯であった場合に限る。但し、実際には本話で主人公が恐れるように恥が知れることから、内々に示談金で処理されたケースも多いらしい。因みに、この話のように僧(浄土真宗以外)であった場合は不義密通でなくても女犯(にょぼん)だけで住持なら遠島である)であるが、実は密通現場を亭主が発見した場合は、当時の法でも夫が殺してもお咎めなしと定められていた。つまり、密通現場を夫が確かに押さえれば、二人の密通の体(てい)をその交接の体(てい)に擬えて「重ねて」縛り、二人纏めて下半身と上半身に切り離して「四つ」にしてよかったのである。彼は商人だから、刀で四つ斬りは物理的に難しかろう。長持に押し込んで鋸挽きにするのが現実的だとは思う。せめてこんな妄想でホラーを感じたくなるね、せめて最後なんだから。

たるべけれど、恥は後代まで殘らん。

「所司代の某(なにがし)」不詳。しかし「公方」と出るから、これは室町時代で、さすれば、先の二つ前の第十 京師に、人、失る事のモデルであった京都所司代多賀高忠辺りかなどと考えたが、これは、篠原論文「あ外側物語――表現構造――」によって江戸幕府の第二代京都所司代であった板倉勝重(天文一四(一五四五)年~寛永元(一六二四)年)とその長男板倉重宗(天正一四(一五八六)年~明暦二(一六五七)年)の話とする。同論文に、前田金五郎によれば、『これは源和五年(一六一九)の「史実」で新井白石の『藩翰譜』五、『滑稽美談』一、『可観小説』一など多くの傍証がある』とする、とある。但し、ウィキの「板倉重宗によれば、彼は第二代将軍秀忠の治世、元和六(一六二〇)年に父の推挙により京都所司代となったとあり(承応三(一六五四)年まで実に三十年以上に亙って在職)、また、『父・勝重から所司代に推挙されたとき、重宗は固辞したという。だが』、『父と秀忠の強い薦めがあって断りきれず、父に「なぜこんな大任を」と述べた。勝重は笑いながら「爆火を子に払うため」と答えたという』(出典を「責而話草」(せめてわぐさ)とする。但し、この本は江戸末期の渋井徳章編であるから、やや実録性に欠くか)とあって状況が全く違う。

「十手(ぢふしゆ)指(ゆびさ)して」意味不詳。命じた将軍以外の左右の重臣ら総ても、皆、彼の息子を指差して、将軍の指示を支持し、の謂いか? 識者の御教授を乞う。

否むべきやうなかりしかば、御受け申されける時、

「愚息義も、慌てゝ妻敵(めがたき)は討ち申まじく候。」「吾輩の愚息も、軽率にも妻敵を「重ね四つ」に討つ(ような軽率な仕儀をなして家名を穢し、末代までの恥じとするような)ことは御座るまいと存ずる。」。但し、この話、所司代という犯罪処理を行う立場にある者として「妻敵」として訴えが出て、ろくに調べもせずに、その妻と間男を死罪に処するような軽率なことは致しますまい、十分に吟味するだけの能力は持って御座るとは存ず右る、という秘かな息子へのエールとも私にはとれるが、如何?

「行ひなくんばあらじ」実際の行動が伴わなければ、実はない、と言わざるを得ない。

「日」時。

「身は指に差され、名は舌に載る」軽率な行動を成す者の身は指弾され、恥に満ちた汚名は何時までも人の口に登るものである。

「あゝ、獨り、我か」反語。ああっ! 独り、私だけはそれを免れているか? いや、私も同じ穴の貉ではある。

「知る事の難(かた)きにはあらず、勤むることの怠ればなり」理屈として認識することは少しも難しいことではないが、しかし、それを常に行動規範として実行することに勤めること、これ、私を含め、多くの人々の場合、つい怠りがちとなるからである。

 

「われ、七、八歳より五十有餘(よ)の今、四十五年の間」本書は後に出る通り、延宝五(一六七七)年(丁巳(きのえみ))に京で知られた西村九郎右衛門(「丁子屋」は屋号)の書肆から板行されているが、原著者荻田安静はそれに先立つ八年前の寛文九(一六六九)年に没している(生年不明)。例えば、この跋文が死の前年に書かれたものと仮定してみると、荻田の生年は元和元・慶長二〇(一六一五)前後と推定し得るか

「我から」自然。自発の意。

「おこがましく」分不相応であり、私の書いた中身も、或いは、如何にも馬鹿げているようにも感じられ。

「よしや」たとえ。仮に。

「おふ」「負ふ」。責任がある。

「初春」正月。

「吉旦」吉日。]

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