柴田宵曲 續妖異博物館 「猿の妖」
猿の妖
「輟耕錄」にある「鬼贜」といふ話は猿の妖を書いたものである。陝西の老婆の家に道士が來て食を乞ふ。老婆は少しも厭な顏をせずに給してゐたが、一日道士は、お前の家は妖異のために苦しめられて居りはせぬかと問ひ、老婆が然りと答へるのを聞いて、それならわしが退治してやると云つて、囊の中から符を取り出して火の中に投じた。忽ち落雷のやうな響きがすると、道士は老婆を顧みて、妖は已に退治したが、一つだけ取り逃してしまつた、二十年ばかりたつて、この家に災難が來るだらう、その時はこれを焚くがいゝ、と告げ、鐡簡を與へて立ち去つた。老婆には娘が一人あり、長ずるに從つて非常な美人になつたが、或日大王なる者が大勢の供を連れて老婆の家に宿り、お前の家に異人から授かつた鐡簡があるさうな、それを見せろ、と云ふ。老婆はその前から鐡簡を見せろといふ人が屢屢あるので、ひそかに僞物を作つてこれを示し、眞物は肌身離さぬやうに持つてゐた。大王に見せたのも無論僞物の方であつたが、彼はそれを返さぬのみならず、娘に酒の酌をさせろなどと云ひ出して、いくら辭退しても承知しない。老婆は道士の云つたことを想ひ起し、勘定して見ればあれから丁度二十年になる。災難といふのはこれかも知れぬと氣が付いたので、腰に付けてゐた鐡簡を竈の下に抛り込んだ。いつかと同じ落雷のやうな響きと共に電光が閃き、家の中は煙で一杯になつた。その煙が薄れてから見ると、何十疋といふ猿が斃れて居り、その最も大きなのが大王と稱したやつで、道士が一つだけ逃したと云つた者に相違ない。彼等の携帶した金銀寶玉の類は、老婆からの訴へにより悉く官庫に沒收された。
[やぶちゃん注:「鬼贜」原典を見ると「鬼贓」で、これならば鬼の「贓品」(不正な手段で手に入れた品物)の意で腑に落ちる。
「鐡簡」鉄製の札。恐らくは呪力を封じた、或いは、そうした力を持った呪符や呪言(じゅごん)を記したものであろう。
以上は「輟耕錄」の「卷六」の「鬼贓」。
*
陝西某縣一老嫗者、住村莊間、日有道流乞食、與之、無吝色。忽問曰、「汝家得無爲妖異所苦乎。」。嫗曰、「然。」。曰、「我爲汝除之。」。卽命取火焚囊中符篆。頃之、聞他所有震霆聲。曰、「妖已誅殛。才遁其一、廿年後、汝家當有難。今以鐵簡授汝、至時、亟投諸火。」。言訖而去。自是久之、嫗之女長而且美、一日、有曰大王者、騎從甚都、借宿嫗家、遣左右謂曰、「聞嘗得異人鐵簡、可出示否。」。蓋嫗平日數爲他人借觀、因造一僞物、而以眞者懸腰間、不置也。遂用僞獻。還、謂曰、「可呼汝女行酒。」。以疾辭、大王怒、便欲爲姦意。嫗竊思道流之説、計算歳數又合、乃解所佩鐵簡投酒灶火内、既而電掣雷轟、煙火滿室。須臾、平息、擊死獼猴數十、其一最巨、疑卽向之逃者。所齎隨行器用、悉系金銀寶玉。赴告有司、籍入官庫。泰不華元帥爲西臺御史日、閲其案朱語、曰鬼髒云。餘親聞泰公説甚詳、且有鈔具案文、惜不隨卽記錄、今則忘邑裏姓名歳月矣。
*
この話は岡本綺堂「中國怪奇小説集」に「鬼の贓品」として訳されてある。「青空文庫」のこちらで読める。]
この話をそのまゝ日本の舞臺に持つて來たのが「御伽百物語」の「宮津の妖」である。道士といふのは工合が惡いから、順禮の僧とし、大王も「なま上達部(かんだちめ)の雜餉(ざつしやう)なりける男」と大分格下げになつてゐるが、全體の筋は同じ事で、最後に金銀の類を官家の貨殖に收めるところまで殆ど變りがない。それが「御伽空穗猿」の「猿官人に化て婦女を奪ひし事」になると、木曾の駒ガ嶽に話を持つて行つた。鐡札を與へた行脚の沙門は順禮の僧と大差ないが、こゝでは國主の使者に對し、先づ鐡札を香爐にかざして退散させ、愈々國主自ら乘り込んだといふ時、圍爐裏に投じて猿の一族を滅盡するといふ二段になつてゐる。たゞ最後の金銀寶玉の一條はこの話にはない。
[やぶちゃん注:「順禮」諸国巡礼。
「なま上達部(かんだちめ)」若い公卿。三位以上の公家の総称。参議は四位であるが、特例としてこれに準ぜられた。
「雜餉(ざつしやう)」貴族・武家に仕えて雑務に携わった者。
「御伽百物語」の「宮津の妖(ばけもの)」は以下。活字本二種を持つが、今回は早稲田大学古典籍総合データベースの画像を視認して示す。読みは一部に限り、踊り字〱は正字化した。適宜、句読点や記号を打った。直接話法等は改行した。挿絵は画像が綺麗な所持する国書刊行会「江戸文庫」版を用いた。一部に注を附したが、二次創作でもあり、地名等のそれは省略した。【2018年3月3日追記:カテゴリ「怪奇談集」で「御伽百物語」全篇を電子化注であるが、本「宮津の妖」に辿り着いた。底本が異なり、注も一からやり直しているので、そちらも参照されたい。これはこれでこのまま残しておく。】
*
宮津の妖
丹後の國、宮津といふ所に、須磨屋忠介といひけるは、常に絹をあきなふの家にて、精好(せいかう)の機(はた)をたて並べ、糸繰りの女、肩をつきしろひ[やぶちゃん注:互いに突(つつ)き合う。励ます意或いは居眠りを注意することであろう。]、日夜に家業おこたらず、富貴(ふうき)も年々にまさり、眷屬、あまた引きしたがへける中に、其ころ、年久しくつとめて、中老の數に入りたりける、源(げん)といひし糸繰(いとくり)は、成相(なりあひ)のわき在所、伊禰(いね)といふ村のものにてありしが、稚(おさな)き程に父にはなれ、母ひとりの介抱にて、三つ四つまでそだちける比(ころ)、此邊は、みな、網をひき、魚とりて、身すぎとする所なりければ、常に彼(かの)母、この源を抱(いだ)きおひて、濱に出で、鰯を干し、鯖を漬けなどして每日を過しけるが、其比(そのころ)しも、いづくともなく、順禮の僧と見えて、年五十四、五ばかりなるが、此さとに來たりて、家々に物を乞(こひ)、袖をひろげて身命(しんめい)をつなぎ、夜は此後家が方へたよりて、一夜(よ)をあかしけり。されども、内に入りてしたしく寢る事はなく、只、おもての庭にむしろを敷(しき)、門(かど)の敷居を枕として寢たりければ、日暮れては、さらに内より出づる事もかなはず。まして外(そと)より來たる人は、此寢たる僧にはゞかりて、得(え)入らず。その上、此坊主、ちかごろの朝寢し也。然れども、此孀(やもめ)、すこしもいとふ氣色なく、心よく、もてなしけるに、ある時、此僧、かたりていはく、
「誠に此とし比(ごろ)、こゝに起き臥しをゆるし、心よくもてなし給ふ御芳志のほど、忘れがたく、何をがなと思へど、世をいとひし身なれば、今さら報ずべき此世の覺えもしらず。さりながら此家のやうを見るに、度々、妖怪の事ありと思ふなり。」
といへば、あるじの女のいうやう、
「さればとよ、此家のみにあらず。惣じて此伊禰(いね)の村は、海にさし出でたる嶋さきなれば、むかふの沖に見えたる中の嶋より、あやしきもの、折々、渡り來て、里人をたぶらかし惱(なやま)す也。されば、我が妻(つま)[やぶちゃん注:夫。]の夭(わかじに)したまひしも、此物怪(もつけ)の故なり。」
とかたれば、僧のいふやう、
「さればこそ。其あやしみの兆(きざし)を見とめたるゆへぞかし。日ごろの御おんには、せめて、其難を救ひてまいらすべし。今は吾も故郷のなつかしうなりたれば、近き内におもひたちて、遙(はるか)なる旅にをもむく也。いでや、先づ、こよひの内に此家の難をしりぞけて參らせんずるぞ。」
と、火をあらだち[やぶちゃん注:ことさらに掻き立てて燃え上がらせ。]、水をあびなどして、何やらん、咒(まじなひ)の御札(おふだ)をしたゝめ、圍爐裏(いろり)にむかひて、彼(かの)札どもを燒(やき)あげたれば、しばらくありて、雨風の音はげしく、あつ松[やぶちゃん注:不詳。「向うの松」の謂いか? 或いは「壓松」で押し伏されたかのように低く這うように生えている松の意か?]のかたより、ふり來たるよ、と見えしが、伊禰の山もくづるゝばかり、大きなる神なり、いなづまのひかりひまなく、時ならぬ大(おほ)ゆだち[やぶちゃん注:激しい夕立。]して、中の嶋にわたると見えしが、あるじの女は氣もたましゐも身にそはで、ちゞまり居たる内、やうやう、雲、はれ、星のひかり、さはやかになりける比、かの僧のいひけるは、
「今は心やすかれ。長く、此家にあやしき物、來たるまじ。さりながら、口惜しき事は、今ひとつの惡鬼(あつき)を取りのこしたり。今より廿年を經て、此家に難あるべし。その折ふし、我がせしやうに、是れを火にくべ給へ。是れをさへ燒き給はゞ、永く、妖怪の根(ね)をたちて、子孫も繁昌すべきぞ。」
と、鐵(くろがね)の板に朱にて書きたる札を取りいだして、あるじにとらせ、僧はなくなく、その家を立ち出でしが、終(つひ)に、いづくにか去(いに)けん、二たび、歸らずなりぬ。これより久しうして、彼(かの)女のそだてつる娘が、やうやう、人となり、はや廿三、四になりけるが、田舍にはおしきまで、心ばへ、やさしく、容顏、いつくしく、他(た)に勝(すぐ)れるそだちゆへ、其ころの人のもてはやしにて、高き賤しきとなく、誰も心をかけ、戀ひわたりけれども、此母の親、心おごりして、尋常の人にあはせんとも思はず、かしづきわたりけるに、此ころ、都より、大内(おほうち)方の何がしとかやいふ、なま上達部(かんたちめ)の「雜餉(ざつしやう)なりける男、年五十ばかりなるが、城崎(きのさき)の湯に入りける歸り、此丹後に聞えたる切戸(きれと)[やぶちゃん注:京都府宮津市文珠字切戸にある臨済宗智恩寺。]・成相(なりあひ)[やぶちゃん注:丹後半島南東部の天橋立の北側にある真言宗成相山成相寺。境内から天橋立が一望される。]の寺々をもおがまばやとて、うち越え、かなたこなたと珍しき所々見めぐり、江尻より舟に乘りて、枯木(からき)、ねぬなわの浦、水江(みづのえ)のさとなどを心がけてこぎ出でけるが、此いねの磯を通るとて、彼のむすめのありけるをかいまみしより、しづ心なく思ひみだれし體(てい)にて、暮れかゝるより此磯に舟をかけさせ、船人にとい聞き、浦の海士にたづねて、此やもめの家に幕(まく)うたせ、物の具とりはらはせなどして、宿をかりつゝ、夜ひとよ、歌をうたひ、舞をかなでゝ、酒をのみ、宿のあるじといふ女をも、ひたすらによび出だし、見にくき姿をもいとはず、そゞろに酒をしゐのませ[やぶちゃん注:「強い吞ませ」。]、扨、かのみそめつる娘の事を尋ねしに、此母、なを、心を高くもちて思ひけるは、
『都の人とこそいへ、大やけのまた者(もの)[やぶちゃん注:将軍・大名などに直属していない家来。又家来。陪臣。]なんどに我が娘をあはせては、かねがね、戀(こひ)わたりつる此あたりの人の心ばへも恥(はづ)かし。とても、都へとならば、いかなる卿相(けいしやう)の妾ともとこそ祈りつれ。』
とおもへば、なかなか、よそ事に聞きて返事もせず。彼(かの)都人、いよいよ、こひ佗(わび)て、ひたすらに母が機嫌をとりつゝ、けふ聞きおきし、何かの事を、ひとつ、我(われ)しりがほにいふ内、
「いつぞや、旅の僧のくれたりと聞く守り札は、今にありや。何やうのものぞ。見せよ。」
と望めば、彼の母、つねに此まもりを大事とおもふ心より、似せ札をこしらへて持ちたりけるを、さし出だす。都人、それを取りけるより、いよいよ手(て)つよく、
「彼のむすめを我にくれよ。」
と、乞ふ事、しきりなりしかども、母、また、なをなを、口こはくいひて、うけあはさりしかば、今は、都人も大(おほき)に怒り、はら立、
「所詮、こよひの内に下部はら、殘る隈なく家さがしして、理不盡に娘を奪ひとれ。都へとく具してゆくべし。」
と罵るほどに、母の親、いまはせんかたなく、非道の難にあふ事を歎きしが、ふと、おもひあはせけるまゝに、肌の守りより、例の札を取りいだし、茶がまの下の火に、さしつけて燒(やき)けるが、ふしぎや、俄(にはか)に、大かみなり、大雨、しきりにして、いなづまの、かげより、はたと落ちかゝるかみなり、あやまたず、此家(いゑ)のむかひなる磯に落ちしよ、と見えしが、雨、はれ、夜あけて見れば、彼の都人と見えしは、いづれも、年へたる古き猿どもの、衣服したるにてぞ、ありける。さて、彼(かの)家にて、とりちらしたる道具ども、大かた、此世の物にあらず。みな、金銀のたぐひなりしかば、悉く官家(くわんか)に申して、是れを成相(なりあひ)の寶藏(ほうざう)におさめけるとぞ。
*
「御伽空穗猿」「おとぎうつぼざる」と読む。浮世草子怪談集。江戸中期の戯作者摩志田好話(ましだこうわ 生没年未詳。後に静観房好阿(じょうかんぼうこうあ)と名乗る)の作。「猿官人に化て婦女を奪ひし事」はその「卷之一」の二話目。所持するはずなのだが、見当たらない。活字本は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらから読め、原典は早稲田大学古典籍総合データベースのこちらの十四コマ以降で視認出来る。]
猿はキツプリングの「ジャングル・ブック」あたりを見ても、常に同類群居し、團體行動を營んでゐる。「輟耕錄」の大王なる者は、どのくらゐの與黨を持つてゐたかわからぬが、衆を恃んでゐたことは慥かである。「今昔物語」の人身御供(ひとみごくう)の話にしても、大勢の眷屬を從へて居つた。「白猿傳」の如く單騎獨行する例は、極めて稀であるらしい。
[やぶちゃん注:『キツプリングの「ジャングル・ブック」』イギリス統治下のインドを舞台にした作品や児童文学で知られるボンベイ(ムンバイ)生まれのイギリス人小説家で詩人のジョゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling 一八六五年~一九三六年)が一八九四年に出版した短編小説集“The Jungle Book”。翌年には続編“The Second Jungle Book”)も出版されている)。赤ん坊の頃から狼に育てられた少年モウグリ(Mowgli:「蛙」の意)が主人公。参照したウィキの「ジャングル・ブック」及び同英語版によれば、猿の群れが登場するのは、“Kaa's Hunting”(カー、狩りをする)の章で、『前作で人間の世界に戻る前の物語。モウグリは猿の群「バンダー・ログ」』(Bandar-logs)『にさらわれ、ジャングルの中の、廃墟となった人間の元宮殿に送られる。「バンダー・ログ」はモウグリの賢さを利用し、自分たちのリーダーにしようとしていた』。クマのバルー(Baloo)と黒豹のバギーラ(Bagheera)は、トンビのチリ(Chil)や『巨大なニシキヘビのカーの助けをうけて、モウグリを助ける』とある。小学生の時に読んだ記憶だけはあるのだが、哀しいかな、皆、忘れて、思い出せない。
『「今昔物語」の話』先行する「人身御供」の注で電子化済み。
「白猿傳」先行する「白猿傳」を参照。]
「八犬傳」の中の庚申山に於ける山猫退治は、「剪燈新話」の「申陽洞記」に據つたものと云はれてゐる。隴西の李生なる者が騎射をよくし、膽勇を以て稱せられながら、未だ志を得ずにゐる時、錢翁といふ豪家の愛孃が忽然として行方不明になつた。もし女の所在を知る者あらば、家財の半分を與へる、女もその人に嫁せしむる、といふ懸賞條件まで發表されたが、少しも消息がわからぬ。一日獵に出た李生が麞(くじか)の走るを逐ひ、山深く入るほどに日が暮れてしまつた。たまたま山頂に古い廟のあるのを認め、そこまで辿り著いて見ると、全く荒れ果てて鳥獸の跡があるのみである。李生も氣味が惡かつたが、已むを得ずその軒下に一夜を明すことにした。ところが一睡もせぬのに、遙かに警蹕(けいしつ)の聲が聞える。こんな山中に深夜何者も來る筈がない、鬼神でなければ山賊であらう、と思つたので、廟の欄を攀ぢ上り、梁(はり)に身を隱し、樣子を窺つてゐると、やがて二つの紅燈を眞先に門のところまでやつて來た。首領らしい者は紅い冠をかぶり、淡黃色の袍(うわぎ)を著て、神座の前の案(つくゑ)に著坐し、武器を持つた者などが階下に居ならぶ。なかなかいかめしい樣子ではあるが、彼等の容貌は人間ではない、大猿である。李生が腰に帶びた矢を取り出し、首領を狙つて放つと、矢はあやまたず臂に中(あた)り、皆うろたへて散亂した。夜が明けて神座のほとりを見れば、點々たる鮮血の痕がある。その痕を尋ねて南へ五里ばかり行つたら、果して大きな穴があり、血の痕はその中に入つてゐる。李生は穴のほとりを徘徊してゐるうちに、足を滑らしてその穴に轉落してしまつた。
穴は深かつたけれども幸ひに無事であつた。路らしいものがあるのを探り探り、眞暗な中を進むこと百步ばかりで、急に明るいところへ出た。そこに石室があつて、申陽洞といふ立札がしてある。門を守つてゐるのはいづれも昨夜見た妖怪であつたが、李の姿を見て驚いた。何者でどうしてこゝへ來たかと問はれたので、私は城中の醫者でございますが、山へ藥草を採りに參りまして、つい足を踏み外してこゝへ落ちました、どうか御勘所下さいまし、と丁寧に答へた。醫者だと聞くと、彼等は皆喜んだ樣子で、實は主君申陽侯が昨夜出遊の際、流れ矢に中つて病牀に居られる、お前が醫者なら幸ひだから治療して貰ひたい、と云ひ出した。李生は彼等に案内されて曲房深く入る。華麗な奧の間の石榻に橫はつてゐるのは一の老猿で、絶世の美人が三人、その傍に侍してゐる。李は子細らしくその疵を見て藥を與へ、群妖の請ひに任せてまた藥を與へた。その藥といふのは矢の先に塗つて猛獸猛禽を發すのに使ふ、恐るべき毒であつたから、群妖は立ちどころに昏倒した。壁にかゝつてゐた寶劍を執り、三十六の首を斬り、三人の美人も倂せて斬らうとしたが、彼女等は皆人で、その一人は例の錢翁の愛孃であることがわかつた。李は思ひがけず一擧に群妖を討滅し得たが、地底を脱出する方法がない。思案の途も盡きたところへ、虛星の精と名乘る老人が現れ、今まで妖怪の爲に屛息してゐた次第を語り、李及び三人の美女のこゝを脱する法を講じてくれた。老人の言に從つて、半時ほど目を閉ぢてゐる間、絶えず風雨の聲がしてゐたが、その聲が止んだので目を開いたら、大きな白鼠が直ぐ前に居り、鼠や豕の如き者が穴を穿ちつゝあつた。浮世に還つた李生は約束通り錢翁の壻となつたことは云ふまでもない。
この話は多少「白猿傳」に似たところがある。人界より良家の美女を奪ひ去るあたり特に然りであるが、申陽洞はいさゝか賊寨じみてゐて、「白猿傳」の如き豪快味がない。妖は一ながら相距(さ)ること遠しである。
[やぶちゃん注:『「八犬傳」の中の庚申山に於ける山猫退治』瀧澤馬琴の「南總里見八犬傳」は妻の愛読書で、彼女は通して三度ほど読み返しているらしいが、私は部分的にしか読んだことがないので、ウィキの「南総里見八犬伝」の「庚申山の妖猫退治」より引く。『諸国を経て下野国を訪れた現八は、庚申山山中にて妖猫と対峙し、弓をもって妖猫の左目を射る。現八が山頂の岩窟で会った亡霊は赤岩一角を名乗り、自らを殺した妖猫が「赤岩一角」に成り代わっていることを告げる。山を降りた現八は、麓の返璧(たまがえし)の里に一角の実子・犬村角太郎の草庵を訪って語らう。角太郎の妻・雛衣の腹は身に覚えのない懐妊の模様を示しており、角太郎は不義とみなして雛衣を離縁、自らは返璧の庵に蟄居していた』。『偽赤岩一角(実は妖猫)は、後妻に納まっていた船虫とともに角太郎を訪れ、雛衣を復縁をさせたが、これは偽一角が目の治療のために孕み子の肝とその母の心臓とを要求するためのものであった。孝心に迫られて窮した角太郎を救い、みずからの潔白を明かすために割腹した雛衣の胎内からは、かつて誤飲した珠が飛び出して偽一角を撃った。角太郎は現八と共に、正体を現した妖猫を退治し、名を大角と改めて犬士の一人に加わる』とある。
『「剪燈新話」の「申陽洞記」』原文も訳本も所持しているが、長いので引かない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で、頭注のある訓点附きをここから視認出来る(明治三三(一九〇〇)年青木嵩山堂刊の「剪燈新話」)。また、「青空文庫」で岡本綺堂の「中国怪奇小説集」の「申陽洞記」及び田中貢太郎訳の「申陽洞記」がそれぞれ読める。また、本話は浅井了意の「伽婢子」で「隱里(かくれざと)」として翻案もされている。
「隴西の李生」名は徳逢(とくほう)。
「麞(くじか)」獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ属ノロジカ Capreolus capreolus。体長約一~一・三メートル小型のシカ。
「警蹕(けいしつ)」貴人の通行などの際に先払いの者が掛け声を掛けて人々をいましめたその声。
「臂」音「ヒ」であるが、ここは「ひじ」で訓読みしておく。但し、この語は肩から手首までの腕部分を広範囲に指す語である。
「五里」「剪燈新話」は明代の作品であるから、一里は五百六十メートル弱であるから、二キロ八百メートル程。
「石榻」「せきとう」で石製の寝台のこと。
「虛星の精」二十八宿の一つ虚宿(きょしゅく/とみてぼし)。北方玄武七宿の第四宿で実在する星として主体となる星官(星座)としての「虚」は「みずがめ座β」及び「こうま座α」の二つ。鼠はこの虚星の精であるとされた。]
倂し猿の妖を説く以上、「廣異記」の一小話を閑却するわけには往くまい。戸部尚書韋虛已の子、晝間閣中に獨坐してゐると、軒に妙な物音がして、地獄の圖にある牛頭(ごづ)のやうな顏が、中を窺つてゐるのが見えた。韋の子が小さくなつてぢつとしてゐると、今度は階を上つて牀前に現れ、覗き込むやうにしてゐる。かういふことが二三度あつて、韋の子は恐ろしくてそこにゐられなくなつた。思ひきつて外へ出ようとし、枕を取つてそのものに投げ付けたけれど中らなかつた。門を開いて逃げ出したら、うしろから追駈けて來る。韋の子は恐怖の叫びを擧げながら、そこにある空井戸の周圍をぐるぐる𢌞るうちに、たうとうつかまりさうになつたので、井戸の中に飛び込んだ。底から仰ぎ見れば、井戸に據つて坐つてゐるのは一疋の猿であつた。叫び聲を耳にして家人が駈けて來た時は、猿は已にどこかへ行つてしまひ、井戸の傍には踏み荒した足跡が殘つてゐた。韋の子は直ぐに發見され、下げた綱に縋つて上つて來たが、茫然として何も云はず、三日ほどたつて漸く恐ろしかつた話をするやうになつた。倂し一月餘りで亡くなつたさうである。この話は小規模ではあるが、妖味は頗る多い。牛頭の如きものの内を窺ふあたり、特にさうである。
[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「畜獸十一」に載る「廣異記」を出典とする「韋虛己子」版である。
*
戸部尚書韋虛己。其子常晝日獨坐閤中。忽聞簷際有聲、顧視乃牛頭人、眞地獄圖中所見者、據其所下窺之。韋伏不敢動、須臾登階。直詣牀前。面臨其上。如此再三、乃下去。韋子不勝其懼。復將出内、卽以枕擲之、不中、乃開其門、趨前逐之。韋子叫呼、但遶一空井而走。迫之轉急。遂投于井中。其物因據井而坐、韋仰觀之、乃變爲一猿。良久、家人至、猿卽不見。視井旁有足跡奔蹂之狀、怪之、窺井中、乃見韋在焉。懸縋出之、恍惚不能言、三日方能説。月餘乃卒。
*]