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2017/08/26

北越奇談 巻之四 怪談 其七(舟幽霊)

 

    其七

 

Hunayuurei

 

[やぶちゃん注:葛飾北斎の舟幽霊(ふなゆうれい)の挿絵。右上に白抜きで、「船頭孫助 洋中にたゞよひて 幽霊舩を見る」とキャプションがつく(原画はもっとはっきり見え、引用元の野島出版版でもよく抜けているのであるが、これを画像ソフトでよく見えるようにすると、全体の白のエッジが荒くなるのでやめた)。この絵は原典では(リンク先は例の早稲田大学の画像)見開きで左右二枚なのであるが、この絵は私の大のお気に入りの一枚で、なんとか合成を試みてみた。但し、私のちゃちなソフトは斜度を微妙に調整することが出来ず、右画像の傾きをどうしても補正しきれなかったため、絵自体を切り取ることなく、不自然な部分を隠すために、一部の箇所を黒で塗り潰したり、白で抹消してある。御寛恕願いたい。原画を見て戴くと判るが、北斎のダイナミックな筆致は私の合成の方が遙かに伝わってくると思う。]

 

 海上(かいしよう)の奇は、はかり難し。その中(うち)、幽㚑舟(ゆうれいぶね)と云へる事、常に人の物語る所なれども、去(さる)宝暦(ほうりやく)の秋、五ケ濱、船頭孫助と云へる者、水主(かこ)共に七人乗(のり)、順風に帆を張りて、松前を出(いで)、三日と云へるに、佐州の沖、越後新泻を巽(たつみ)の方(かた)に見なしたる頃、俄(にはか)に、逆風、落(おち)來たり、裏帆(うらぼ)、引絞(ひきしぼ)りて、舩(ふね)、已に、覆(くつがへ)らんとす。舟子(ふなこ)、慌(あは)て、立騷(たちさは)ぎ、

「荷物を打(うて)。帆柱、伐(き)らばや。」

なんど、狼狽𢌞(うろたへまは)るに、ほどなく、怒浪(どらう)、山のごとく、打重(うちかさ)なりて、頂(いたゞき)の上に崩れかゝり、忽(たちまち)、艫(とも)、裂け、舳(へ)、碎けて、六人の者共(ものども)、海底の魚腹(ぎよふく)に葬らるゝこととは、なりぬ。

 しかるに、船頭孫助一人、波上(はしよう)に浮出(うかみいで)たる折節、舟の破(やぶ)れ裂けたる板一枚、長(たけ)二尺ばかりなるが、手に觸(さは)りたり。孫助、嬉しく、浮木(うきゞ)の亀(かめ)と、これに取附(とりつ)き、一息つきて、

「助け舟やある。」

と見圍(みまはせ)ども、日は巳に暮果てたり。

 風雨、目口を開き難く、鯨浪(おほなみ)、千尋(ちひろ)の底より湧き返りて、咫尺(しせき)も分かたぬ暗夜(あんや)成(なれ)ば、何(いづ)れを佐州、何れを越後の方(かた)とも知らざれば、志(こゝろざ)して泳ぎ寄るべき便(たよ)りもなし。然れども、

「もしや、命(いのち)の助かることもや。」

と、心中に金毘羅宮を念じ、伊夜日子(いやひこ)に立願(りうぐはん)して、只、一片の薄板(うすいた)を力に、何處(いづ)くともなく漂居(たゞよへゐ)しが、大波、頻りに打ち疊(たゝ)みて、水底(みなそこ)に沈むと思へば、又、浮(うか)み、心も共に、消へ果てぬべく見へし折りしも、忽(たちまち)、沖の方(かた)より、大勢の立騷(たちさは)ぐ音して、手(て)ん手(で)に、

「……柱……伐れ……荷を……打て……楫(かぢ)……直(なほ)せ……」

なんど、呼(よば)はり呼はり、其船、已に程近く來たりたれば、孫助、嬉しく、

「何卒(なにとぞ)して、此舟に助け乘せ給らばや。」

と、波間より、顏、差し出だして、これを見れば、其舟、既に、半(なかば)、裂け碎けたるがごとく、十人ばかりの舟子(ふなこ)、左右に立騷(たちさは)ぐ有樣(ありさま)、さらに生(いけ)る人とも、覺へず。

 面(おもて)、靑褪(あをざ)め、瘦衰(やせおとろ)へたる姿、文目(あやめ)も知らぬ闇なれども、影のごとく、仄(ほの)見へて、右の方(かた)を漕(こぎ)通り、瞬(またゝき)の間(ま)に、數十丁(すじつてう)、行過(ゆきす)ぎたりしが、忽、一同に、

「……ッ……」

泣叫(なきさけ)ぶ声して、其舟、ぐはらぐはら、と、打碎(うちくだ)け、書消(かきけす)ごとく、形(なり)失せて、荒波、どうどうと、鳴渡(なりわた)る声のみなり。

「扨は、幽㚑のものなるべし。」

とて、心に佛神を念じ、漂(たゞよ)へ居(ゐ)るうちに、又、初めのごとく、立騷ぐ音して、声々(こへごへ)に呼はり呼はり、其舟の碎けたる所に至りては、忽、泣叫びて消失(きへう)せぬ。如ㇾ此(かくのごとく)なること、幾度(いくたび)と云ふことを知らず。

 見るに、魂(たましゐ)、飛び、心、消ゆるがごとし。

 已にして夜も明渡(あけわた)れば、雨風、少し止みたれども、助かるべき舟も、あらず。

 何(いづ)れを目當(めあて)の山本(やまもと)とも、更に見へ分(わ)くことなければ、次(しだい)に波に揉まれ、潮に引かれて、淼渺(びやうびやう)たる蒼海(さうかい)に漂へ居(ゐ)ること、二日二夜(よ)なり。

 漸々(やうやう)、波風、鎭(しづ)まり、空、少し晴(はれ)たれども、身力(しんりよく)疲れ、目も眩(くら)みて、何(いづ)く共、浦・山を辨(わきま)へ難く、又、餓渴(うへかは)きたれども、口に味(あぢは)ふべき物もなく、已に命も絶入(たへいり)ぬべき所に、何(なに)とも知らぬ藁苞(わらづと)一ツ、波に搖れて流れ來(きた)れり。

 孫助、漸々(やうやう)に是を取り、開きて見るに、赤き蕃椒(とうがらし)二蔓(つる)あり。即(すなはち)、是を食するに、さらに辛(からき)とも覺へず。腹の空(すき)たるまゝに十ばかりを食しければ、忽、餓(うへ)を凌(しの)ぎ、心力(しんりよく)、爽(さは)やかなることを覺へて、其餘(そのあまり)を首に掛け、餓へる時は、一ツ二ツを食し、遂に三日に及びける。

 朝(あさ)、佐州の方(かた)より、船一艘、帆を張りて來(きた)れるあり。あまりに嬉しく、舟の向(むか)ふ方(かた)を心掛(か)けて、身力を盡して游(およげ)ども、渺(びやう)たる海上、只、一ツ所に居(ゐ)るがごとし。

 漸く、船近くなるほどに、頻りに声を立(たつ)れども、音、嗄(か)れて、不出(いでず)。

「如何(いかゞ)はせん。」

と、悶(もだ)へ苦しみたりしが、忽、一計を思ひ出(いだ)し、かの藁苞を手に差し上げて、舟の方(かた)を招きければ、かの舟の親父、是を見付(みつけ)、

「何樣(なにさま)、人のわざならん。」

と帆を下げ、櫓を押して漕ぎ來り、竟(つゐ)に孫助を引上(ひきあ)げ、樣々(さまざま)に介抱し、身を(あたゝめ)、粥(かゆ)など勸(すゝ)め、勞(いたは)りければ、漸(やうや)く、言語(げんぎよ)分かり、始(はじめ)よりの艱難(かんなん)を物語るに、舟の者ども、大に驚き、

「まことに命(いのち)強き人かな。」

とて、終(つゐ)に、是を送りて新泻に到りぬ。

 寛政丑(うし)の春、かの地に至りて、數日(すじつ)、逗留せしに、ある日、七十ばかりの老人來りて相見(あいまみ)ゆ。宿の主(あるじ)、此老人を指(ゆび)さして、

「此翁こそ、かの命強(いのちづよ)き人なり。」

とて笑ひぬ。其實(じつ)を問(とふ)に、かの老人の曰(いはく)、

「咄(はな)し候は、いと安く侍れども、其艱難を話す每(ごと)に、身の毛、よだち候。まゝ、身(み)の毒と存じ、其後(そのゝち)は不語(かたらず)。」

と云へり。

 今(このとし)、已に七十三歳とぞ。

 誠に命(めい)は天にあるものか。

 

[やぶちゃん注:舟幽霊の台詞を生者と区別するため、鍵括弧内に「……」を挿入して示した。

「宝暦(ほうりやく)」一七五一年から一七六四年。本書の刊行は文化九(一八一二)年春であるから、そこからなら、四十八年前から六十一年前であるが、最後で、崑崙はこの主人公孫助に直接会ったのを「寛政丑(うし)の春」としており、これは寛政五年癸丑(みずのとうし)であるから、一七九三年で、そこからだと、二十九年前から四十二年前となる。また、その時、孫助は数え「七十三歳」であったとあるから、この孫助は享保六(一七二一)年生まれであることが分かり、事件当時は満で、三十歳から四十三歳の間であったことになる。

「五ケ濱」現在の新潟県新潟市西蒲区大字五ケ浜(ごかはま)。ここ(グーグル・マップ・データ)。佐渡島を望む陸の孤島とも称された地で、かつては漁業や入浜式塩田で栄えたらしい。後に北海道(後注参照)への移住者いることが、個人ブログ「ペタンク爺さん」のこちらで判り、そこに地名について、日蓮の佐渡流罪の際、『彼を護送して佐渡に渡った中に、遠藤左衛門尉藤原正遠』がおり、その子孫は十一代まで佐渡に在住し、十二代の『遠藤冶部左衛門定通の時に五ヶ浜に移住して、代々庄屋を勤め』たとする。移住当時、この地には五ヶ所に村があって、それらの総家数は六十軒ほどであったが、この定通が、その五ヶ村を一村に纏めて、『「五ヶ村」と名づけて村方取立てを申し出たものと伝えられて』い』るとある。この「命強き」「孫助」も「遠藤」姓だったら面白い。

「船頭」ここは、和船で船に乗り組み、指揮をとる船長(ふなおさ)のこと。

「水主(かこ)」下級船員のこと。後の「船子」も同じ。

「松前」北海道渡島(おしま)半島南端にある町。十五世紀半ばに武田信広が、この地を平定して第五代慶広が福山城を築いて、松前氏を称して城下町とした。江戸時代は蝦夷(えぞ)地経営の中心地となった。

「佐州」佐渡国。佐渡島。

「巽(たつみ)」東南。この時の孫助の舟の位置はここ(グーグル・マップ・データ)の中央付近と思われる。

「俄(にはか)に逆風落(おち)來たり、裏帆(うらぼ)、引絞(ひきしぼ)りて、舩(ふね)、已に、覆(くつがへ)らんとす」野島出版版は「來たり」で句点とするが、ここは急に落ち来たった強烈な逆風(この場合は南西の風と読める)が、帆を裏側にしてすっかり引き絞ってしまって(巻き上がってしまって)、帆走不能となり、バランスを崩して船が沈みかけたというのであるから、ここは読点とすべきである。なお、この船は西廻廻船で、船の種類は所謂、「弁才船(べぜざいせん)」である。これは和船の一つで、江戸時代の海運の隆盛に対応して全国的に活躍し、俗に「千石船」とも呼ばれた典型的な和船である。船首の形状や垣立(かきたつ:和船の左右の舟べりに垣根のように立てた囲い。かきたて)に特徴があり、一本の帆柱に横帆一枚をつけるだけながら、帆走性能や経済性に優れた。菱垣(ひがき)廻船・樽(たる)廻船・北前船なども、総て、この形式を用いた。

「荷物を打(うて)」「荷物を海に投げ捨てよ!」。バランスを崩した上に、船内の荷が一方に片寄れば、転覆を早めるからである。

「帆柱、伐(き)らばや」船主である孫助に水主(たちが)「帆柱を伐っておくんなせえ!」と懇願しているのである。山田淳一氏の論文「弁才船の漂流――なぜ帆柱を切ったのか――」(PDF)によれば、弁才船は帆柱の横揺れによって致命的に破損する構造であったからであるとある。この論文、実に素晴らしい(特に冒頭の部分の、何故、帆柱を伐ったかについての他の諸説もそれぞれに納得が出来た。特に、伐らないと、荷を故意に捨てたと疑われた、というのは意外な事実可能性の一つであった)必見にして必読!

「浮木(うきゞ)の亀(かめ)」「盲亀(まうき(もうき))の浮木(ふぼく)」と同じい。大海中に住んでいて百年に一度だけ水面に浮かび出てくるという目の見えない亀が、たまたまそこに浮き漂っていた流木に遭遇し、しかもそこに開いた小さな穴からたまたま頭を出す、という「涅槃経」にある「人として生まれて真の仏説に出会うことが非常に稀れなことあること」の譬え話に基づき、「滅多に会えないこと」を言う。

「咫尺(しせき)も分かたぬ」「咫尺」は「史記」の「蘇秦傳」に拠る語で(「セキ」は漢音)、「咫」は周尺の八寸(十八センチメートル)、「尺」は一尺(二十二・五センチメートル)であって、相対距離が非常に短いこと、対象との距離が極めて近いことであるから、眼と鼻の先にな何かあっても全く見えない、判らないの意。

「金毘羅宮」香川県仲多度郡琴平町にある金刀比羅宮(ことひらぐう)。当時は真言宗象頭山松尾寺金光院で「象頭山金毘羅大権現」と呼ばれたが、悪名高き明治の廃仏毀釈によって現在の神社となった。古くから海上交通の守り神として全国的に信仰されており、今も漁業や船員などの海事関係者の崇敬を集めている

「伊夜日子(いやひこ)」多数回既出既注の新潟県西蒲原郡弥彦(やひこ)村弥彦にある彌彦(いやひこ)神社。祭神の天香山命(あめのかごやまのみこと)は社伝によれば、越後国開拓の詔によって越後国の野積の浜(現在の長岡市)に上陸して地元民に漁撈・製塩・稲作・養蚕などの産業を教えたとされる。このため、越後国を造った国造りの神として弥彦山に祀られ、「伊夜比古神」として崇敬された。「越後国一の宮」とも呼ばれる。神社の後背地である弥彦山(やひこやま)は標高六百三十四メートルであるが、海岸線に近く、漁師の海上での目安ともなるランドマークでもある。

「數十丁(すじつてう)」十町は約千九十一メートル。私は不定数を示す「数」は必ず六掛けを基本としているので、遠過ぎる。ここはせめて「十數町」とすべきところである。

「淼渺(びやうびやう)」既出既注。水が広く限りのないさま。

(あたゝめ)」温め。暖かくしてやり。野島出版脚注では、『アテ字であろう』としているが、この字は正しく「冷えたものを温める」の意である。

「言語(げんぎよ)」読みは原典のママ。]

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