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2017/08/15

柴田宵曲 續妖異博物館 「白猿傳」

  白猿傳 

 御伽草子は「五朝小説」の中の話をよく染め返したものといふ「文會雜記」の説は、どれほど實例が擧るか知らぬけれど、最も有名な話で成程と思はれるのは、大江山の酒呑童子(しゆてんどうじ)であらう。酒呑童子は丹波の大江山に住んで、近國他國よりみめよき女房を奪つて行く。それが源賴光の鬼退治になる動機は、池田の中納言の最愛の娘が、或日の暮れ方に行方不明になつたことに在つた。唐の「白猿傳」も、歐陽紇の妻が一夕陰風晦黑の裡に何者かに奪ひ去られるのにはじまる。その地に神あつて美女を盜むといふ警告は、前以て受けてゐたのだから、大江山の評判と似たやうなものである。賴光は四天王一人武者を倂せ一行六人に過ぎなかつたが、紇は壯士三十人を率ゐてゐる。賴光等が谷川に衣を洗ふ花園中納言の姫に逢つて、酒呑童子の樣子を尋ねたやうに、紇も怪物に囚はれた女達から討つべき手だてを聞いた。酒を飮ませて醉つたところを討つのは同じであるが、賴光等が山伏と稱して童子の面前に出たに反し、紇は一切を婦人のはからひに任せ、醉うて手足を縛せられたのを斃すのである。最も似てゐるのは、童子が晝は人の姿で夜になれば鬼形に變ずるといふことで、「白猿傳」の怪物も白衣を著けた美髯の丈夫と見えたのに、縛されたのは大白猿であつた。酒呑童子が多くの徒黨を擁し、白猿が飽くまで單騎獨行するやうな相違は無論あるけれど、子細に點檢するまでもなく、酒呑童子が「白猿傳」に負ふところの多いのは明瞭であると思はれる。

[やぶちゃん注:「御伽草子」ウィキの「御伽草子」から引く。『鎌倉時代末から江戸時代にかけて成立した、それまでにない新規な主題を取り上げた短編の絵入り物語、およびそれらの形式』を持った物語で、広義には『室町時代を中心とした中世小説全般を指すこともあり、室町物語とも呼ばれる』。『平安時代に始まる物語文学は、鎌倉時代の公家の衰微にともない衰えていったが、鎌倉時代末になると、その系譜に属しながら、題材・表現ともにそれまでの貴族の文学とは、全く異なる物語が登場する。それまで長編だったのが短編となり、場面を詳述するのではなく、事件や出来事を端的に伝える。テーマも貴族の恋愛が中心だったのが、口頭で伝わってきた昔話に近い民間説話が取り入れられ、名もない庶民が主人公になったり、それが神仏の化身や申し子であったり、動物を擬人化するなど、それまでにない多種多様なテーマが表れる』。御伽草子に含まれるものは、四百編を超えるものが存在するとされているが、その中でも人口に膾炙するそれは凡そ百編強とも言われる(現在は研究が進んで漸増している)。但し、『同名でも内容の違うものや、その逆のパターンなどがあり、正確なところはわからない。室町時代を中心に栄え、江戸時代初期には』「御伽物語」や「新おとぎ」といった『「御伽」の名が入った多くの草子が刊行された』が、「御伽草子」という名で呼ばれるようになったのは、十八世紀前期、凡そ享保年間(一七一六年~一七三六年)に『大坂の渋川清右衛門がこれらを集めて『御伽文庫』または『御伽草子』として以下の』二十三『編を刊行してからのことである』。但し、これも十七『世紀半ばに彩色方法が異なるだけで全く同型・同文の本が刊行されており、渋川版はこれを元にした後印本である』。元来、「御伽草紙」という『語は渋川版の商標のようなもので、当初はこの』二十三『種類のみを「御伽草紙」と言ったが、やがてこの』二十三『種に類する物語も指すようになった。現在では、「御伽草紙(子)」と言ったら』、この二十三『種の物語草紙を指し、物語草紙全体は「お伽草紙(子)」と表記するのが通例で』、その二十三の話とは、「文正草子」・「鉢かづき」・「小町草子」・「御曹司島わたり」・「唐糸草子」・「木幡(こはた)狐」・「七草草子」・「猿源氏草子」・「物ぐさ太郎」・「さざれ石」・「蛤の草子」・「小敦盛」・「二十四孝」・「梵天國(ぼんてんこく)」・「のせ猿草子」・「猫の草子」・「濱出(はまいで)草子」・「和泉式部」・「一寸法師」・「さいき」・「浦島太郎」・「酒呑童子」・「橫笛草子」を指す。

「五朝小説」明代に編纂された「魏晋小説」・「唐人百家小説」・「宋人百家小説」・「皇明百家小説」から成る志怪小説叢書。編者は桃源居士や馮夢龍(ふうむりゅう 一五七四年~一六四六年)とし、諸本があり、それらの内容は必ずしも一致しない。

「文會雜記」「常山紀談」で知られる江戸中期の岡山藩士で儒学者の湯浅常山(宝永五(一七〇八)年~安永一〇(一七八一)年)の書いた主に徂徠学派の言行を纏めたもの。その「卷之三上」に(以下は吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示した)、

   *

一 オトギ婢子(ハウコ)ハ至テ好書ナリ、ト君修ノ評ナリ。五朝小説ノ中ノ咄ヲヨク染メカヘシタルモノ也。ト君修ノ友人小説ヨク讀ム人ノ云ヘルトナリ。

   *

とある。この「オトギ婢子(ハウコ)」は別本では「オトギ册子」と表記され、以前は柴田宵曲が言うように先の「御伽草子」のことと解釈されるのが一般的であったようだが、これは思うに、浅井了意の「伽婢子」(その内容は確信犯で中国の志怪小説をインスパイアしていることは言を俟たない)と採るのが正しいように思われるから、この宵曲のそれはややピント外れであると私は考えている。しかもここでその説を述べているのは、常山自身ではなく、「君修」、則ち、常山が親しかった太宰春台門下の年下の篠山藩士で漢学者であった才人松崎観海(享保一〇(一七二五)年~安永四(一七七六)年:「君修」は彼の字(あざな))である点でも、宵曲の謂いは正確ではない

「酒呑童子」「御伽草子」中のそれは別名を「大江山絵詞(えことば)」とも呼び、名の表記も酒顛童子・酒天童子・朱点童子などとも書く。源頼光・碓井貞光・卜部季武・渡辺綱・坂田公時(金時)・藤原保昌が大江山の酒呑童子を退治する話。中世に流行した英雄伝説・怪物退治譚の代表作で、絵巻物としても流布し、江戸時代には浄瑠璃・青本・黒本で同名の影響作が多数ある。各地に伝わる伝承や同伝説をもとにした作品群の詳細はウィキの「酒呑童子」を参照されたい。

「池田の中納言」一条院に仕えた池田中納言国隆。

「白猿傳」作者不詳の唐代初期或いは中期に書かれた伝奇小説。正式書名は「補江總白猿傳(ほこうそうはくえんでん)」でこれは「江總」の書いた「白猿傳」を「補」筆したという意であるが、実在した人物としては実在する本作の主人公歐陽紇(おうようこつ:南朝最後の王朝陳の将軍)友人で大物文人官僚であった江総(五一九年~五九四年)がいるものの、彼が「白猿傳」という原作を書いた事実はない。「白猿傳」は、紇が南方遠征中に妻を猿の妖怪白猿神に攫われ、山中深く分け入って白猿を探し出して殺し、妻を取り返す。しかし、彼女は既に猿の子を妊娠しており、その生まれた子は後に成人して知られた文人書家となったという物語である(その前に紇は陳の武帝に誅殺されたと記す。但し、実在した紇を処刑したのは陳の高宗宣帝陳頊(ちんぎょく 在位五六八年~五八二年)である。なお、ここまでの事実事蹟は二〇〇五年明治書院刊中国古典小説選第四巻を参照した)。因みに、この生まれた子も、実在する、かの唐代の名書家欧陽詢(五五七年~六四一年)を明らかに指していると読める。本話は「大平廣」の「卷四百四十四 畜獸十一」に「歐陽紇」として載る(リンク先は中文ウィキの原文)。岡本綺堂の「中国怪奇小説集」の一篇として訳されてある(リンク先は「青空文庫版」)。

「花園中納言」不詳。]

 

「白猿傳」の話は早く林羅山が「怪談全書」の中に紹介してゐる。その後いはゆる奇談小説の時代になつて、「繁野話(しげしげやわ)」の中にある「白菊の方猿掛の岸に怪骨を射る話」なども、「白猿傳」の翻案であることは疑ひを容れぬ。場所は飛驒と信濃の境で狒々谷といふことになつてゐるが、三須守廉の妻が行方不明になるにはじまり、妖物が雷火に擊たれて死するに了る。その間には人を惑はす妖術があつたり、孔雀明王の法を修する道人が出たりして、複雜怪奇の度を加へてゐるものの、大體に於て「白猿傳」の筋書を離れず、酒呑童子を連想せしむるところは殆どない。この話の流れは更に後になつて、「蜑(あま)の下草」などの中にも面影をとゞめてゐる。場所は美濃の靑野ガ原、主人公は織田信長の郎黨で、怪しい老翁の規模も大分小さくなつた。この話だけ讀めばうつかり看過するかも知れぬが、「白猿傳」「繁野話」と竝べて見る時、その系統に屬するものであることは爭はれぬ。

[やぶちゃん注:『「白猿傳」の話は早く林羅山が「怪談全書」の中に紹介してゐる』同書の「卷之一」の「歐陽紇」。所持するが、長く、しかも概ね、原典の訳であるので省略する。

『「繁野話(しげしげやわ)」の中にある「白菊の方猿掛の岸に怪骨を射る話」』「繁野話」は江戸中期の医師で漢学者・読本作家でもあった都賀庭鐘(つがていしょう 享保三(一七一八)年~?:大坂の出身。他にも、当時、流行した中国の白話文学を翻案して「英草紙(はなぶさぞうし)」と本書と「莠句册(ひつじぐさ)」の三部作を書いて大いに売れ、読み本の祖とされた。学者としても優れ、安永九(一七八〇)年には「康煕字典」を校訂して出版している)の作で、明和三(一七六六)年刊で五巻六冊。中国の小説や日本の古典を翻案した奇談集。

「白菊の方猿掛の岸に怪骨を射る話」「しらぎくのかた、さるかけのきしに、くわいこつをいること」と読む。「繁野話」の「第三卷(だいさんのまき)」の「五」(第三巻総てが本話)。同書は所持するが、非常に長尺な話なので、国立国会図書館デジタルコレクションの松山米太郎校訂「雅文小説集」(大正一五(一九二六)年有朋堂書店刊)に載る同作をリンクさせておくに留める。「白菊の下」もあって、画像「126」コマから「143」コマまでが当該全話である。なお、本作は研究者によって明代の白話小説「陳從善梅嶺失渾家」及び「平妖傳」さらには「水滸伝」なども参照されていることが指摘されてある。「猿掛」は山の名で現在の岡山県倉敷市から矢掛町に跨る標高二百四十三メートルの猿掛山。ここ(グーグル・マップ・データ)。「狒々谷」「繁野話」原典では「ひゝたに」とルビする。本文では『後世其處さだかならず』と誤魔化してある。如何にもな名ではある。

「三須守廉」「繁野話」原典では「みすのもりかど」とルビする。彼は原典によれば、『備中の國窪屋(くぼのや)大領』(郡司)の弟で、『信濃掾(しなのゝぜう)とな』って妻女ととともに赴任する途中での出来事とする。

「孔雀明王の法」密教で孔雀明王(毒蛇を食う孔雀を神格化したもので、人間の三悪を呑食して衆生の業障罪悪や諸病の痛みを除くことを本願とする。金色の孔雀に乗る四臂(しひ)で、明王中では例外として忿怒相でなく慈悲相の菩薩の形相(けいそう)として示される)を本尊として息災・祈雨を修する秘法。

「蜑(あま)の下草」不詳。識者の御教授を乞う。

「美濃の靑野ガ原」現在の岐阜県大垣市とその西の不破郡垂井町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。] 

 

「繁野話」が雷火を持ち出したについて、思ひ浮ぶのが「閲微草堂筆記」の中の一話である。これは發端からして妖怪に奪はれることなどはなく、人に買はれて知らぬ土地に伴はれる。その女を買つた道士は、山に入るに當つて目を閉ぢよと云ふ。風の中を飛ぶやうに覺えて、やがて目を開いたら已に高峯の上に在つた。そこには立派な建物があり、婦女ばかり二十何人も居る。調度その他、王侯の如くである。彼女等はこゝを仙府と稱し、道士を祖師と崇めてゐたが、毎月一度祖師は金管を用ゐて、婦女の身體から血を吸ひ取る。このところ頗る靑野ガ原の老翁の乳を吸ふ話と相通ずる點がある。土地はよはど高いと見えて、雲も眼下を行き、雨も遙か下に降るのであつたが、一日俄かに黑雲が起り、恐ろしい風が吹き出した。目もくらむやうな稻光りにつれて、雷鳴がとどろき渡ると、道士は顏色を變へ、そこにゐる女達を全部呼び集めて、肉屛の如く自分を取り圍ませた。雷は愈々近く、閃々たる火光が幾度か室内に入ると思ふうちに、大きな龍の爪が空中に現れて、重圍の中に小さくなつてゐる道士を攫み去つた。同時に言語に絶する大きな雷鳴があつて、天地晦冥になる。女が氣が付いた時は、全然知らぬ里の路傍に倒れてゐた。

[やぶちゃん注:これは「閲微草堂筆記」の「第二十二卷 灤陽續錄四」にある以下。

   *

門人王廷紹言、忻州有以貧鬻婦者、去幾二載。忽自歸、云初被買時、引至一人家。旋有一道士至、攜之入山。意甚疑懼、然業已賣與、無如何。道士令閉目、卽聞兩耳風颼颼。俄令開目、已在一高峰上。室廬華潔、有婦女二十餘人、共來問訊、云此是仙府、無苦也。因問、「到此何事。」。曰、「更番侍祖師寢耳。此間金銀如山積、珠翠錦繡、嘉肴珍果、皆役使鬼神、隨呼立至。服食日用、皆比擬王侯。惟每月一囘小痛楚、亦不害耳。」。因指曰、「此處倉庫、此處庖廚、此我輩居處、此祖師居處。」。指最高處兩室曰、「此祖師拜月拜斗處、此祖師煉銀處。」。亦有給使之人、然無一男子也。自是每白晝則呼入薦枕席、至夜則祖師升壇禮拜、始各歸寢。惟月信落紅後、則淨盡褫外衣、以紅絨爲巨綆、縛大木上、手足不能絲毫動、並以綿丸窒口、喑不能聲。祖師持金管如箸、尋視脈穴、刺入兩臂兩股肉、吮吸其血、頗爲酷毒。吮吸後、以藥末糝創孔、卽不覺痛、頃刻結痂。次日、痂落如初矣。其地極高、俯視雲雨皆在下。忽一日、狂飈陡起、黑雲如墨壓山頂、雷電激射、勢極可怖。祖師惶遽、呼二十餘女、並裸露環抱其身、如肉屛風。火光入室者數次、皆一掣卽返。俄一龍爪大如箕、於人叢中攫祖師去。霹靂一聲、山谷震動、天地晦冥。覺昏瞀如睡夢、稍醒、則已臥道旁。詢問居人、知去家僅數百里。乃以臂釧易敝衣遮體、乞食得歸也。忻州人尚有及見此婦者、面色枯槁、不久患瘵而卒。蓋精血爲道士採盡矣。據其所言、蓋卽燒金御女之士。其術靈幻如是、尚不免於天誅、況不得其傳、徒受妄人之蠱惑、而冀得神仙、不亦傎哉。

   *

なかなか猟奇的で面白い話なので、小山裕之氏のサイト内のにある現代語訳を引用させて戴く。注記号と一部の句点を除去した。読み易さを考え、改行と記号を追加した。

   《引用開始》

 門人の王廷紹が言った。

――忻州に貧しいために妻を売った者がおり、去って二年に近かった。突然、ひとりで帰ってき、

「買われた当初、一人が家に引いていった。」

と言った。

 突然、一人の道士が来、引きつれて山に入った。心はたいへん疑い恐れていたが、売ってしまったので、どうしようもなかった。道士は目を閉ざさせ、すぐに両耳に風が颼颼[やぶちゃん注:「そうそう/しゅうしゅう」と読み、雨や風の音が幽かにあるさま。]とするのが聞こえた。にわかに目を開かせると、すでに高い峰の上にいた。居室は華麗清潔で、婦女二十余人がおり、ともに尋ねてき[やぶちゃん注:「訊ねて来」であろう。]、

「こちらは仙府だから、苦しむことはない。」

と言った。そこで尋ねた。

「こちらに来たのはどうしてだ。」

「交代で祖師さまの寝所に侍しているのでございます。こちらは金銀が山のように積まれ、珠翠錦繍、嘉肴珍果は、すべて鬼神を使役し、呼びますとたちまち来ます。服食日用は、みな王侯に肩を並べんばかりです。毎月一回の小さな痛みも、障りはございません。」

そこで指して言った。

「こちらは倉庫、こちらは厨房、こちらはわたしたちの居ります所、こちらは祖師さまのおわす所でございます。」

もっとも高い処にある二つの部屋を指して言った。

「こちらは祖師が月を拝し、北斗を拝する処で、こちらは祖師が煉銀[やぶちゃん注:錬金術の一種。]される処です。」

やはり給仕する人がいたが、一人の男子もいなかった。

 それから白昼になるたび呼び入れて枕席に進み、夜になり、祖師が祭壇に登って礼拝すると、はじめてそれぞれ帰って寝た。

 月信落紅(つきのもの)の後だけは、内外の衣をすべて剥ぎ、紅い絨いとを巨きな縄にし、大きい木に縛り、手足はすこしも動かせず、綿の丸で口を塞ぎ、黙って声を出せなかった。祖師は金管を箸のように持ち、脈穴を探し、両腕や両股の肉に刺し込み、その血を吸い、すこぶる残酷であった。吸った後、薬の粉末を創の孔に撒けば、すぐに痛みを覚えなくなり、まもなく痂[やぶちゃん注:「かさぶた」。]ができ、翌日になれば、痂は落ち、元通りになるのであった。

 その地はきわめて高く、俯いて見ると雲雨はすべて下にあった。

 とある日、狂飈[やぶちゃん注:「きょうひょう」と読み、吹き荒れる大風・暴風のこと。]はにわかに起きず[やぶちゃん注:「は」と「ず」は衍字か?]、黒い雲が墨のように山頂を圧し、雷電が閃き、勢はたいへん恐ろしかった。

 祖師は慌て恐れ、二十余の女を呼び、みな裸になってその身を抱きかかえたが、肉屏風のようであった。火光が部屋に入ること数回、いずれも一回伸びてすぐに帰った。

 にわかに一匹の龍、爪の大きさは箕のようなものが、人ごみの中から祖師を攫って去った。霹靂の音がし、山谷は震動し、天地は暗くなった。

 ぼんやりと眠って夢みているかのようであるのを覚え、やや醒めれば、すでに道端に臥していた。

 住民に尋ねると、家から数百里にすぎないことが分かった。

 そこで臂(釧うでわ)を敝衣(ぼろぎ)に換えて体を蔽い、乞食して帰ることができた。

 忻州の人にはなおこの妻を見られた者がいたが、面色は枯槁で、まもなく癆咳を患って亡くなった。

 そもそも精血を道士にとり尽くされていたのであった。

 かれの言うことに拠れば、そもそも焼金[やぶちゃん注:引用元の注に『方術の士が丹砂を鍛えて黄金にすること』とある。]して女と交わる士であった。

 かれの術がこのように霊妙でも、なお天誅を免れなかった。ましてその伝授を得ていないのに、いたずらにでたらめなものの蠱惑を受け、神仙となることを願うのは、まちがったことではないか。

   《引用終了》] 

 

「關微草堂筆記」はこの雷火を以て天誅と解してゐる。この話が「白猿傳」に似たところは、その居所が深山高峯に在ること、婦女ばかりで一人の男子も居らぬことであるが、白猿の類でない代りに、白日の下に雙劍を舞はすやうな、武術の心得はなかつたやうである。泉鏡花は嘗て「買はれた女」といふ題で、この話を女自身體驗を語るやうに書いてゐた。

[やぶちゃん注:最後の鏡花のそれは大正三(一九一四)年四月に発表された「みつ柏(がしは)」の二篇目。「青空文庫」ので読める。]

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