宿直草卷五 第十二 勘忍故に德を取る事 +荻田安静跋 /「宿直草」大洲本全篇電子化注~了
第十二 勘忍(かんにん)故に德を取る事
[やぶちゃん注:「宿直草」の最終話で、前話とは間男の笑い話として直連関するが、こちらは一切の怪異がなく、怪談集としての最終話としては如何なものか? 少なくとも私は裏切られた気分で、面白い話もこれでは面白くないというのが正直なところである。
最後の跋文もそのまま(ここのみ、表記は敢えて原典のままとした)に載せた。]
天滿(てんま)に商人(あきんど)あり。誰もとつかは師走の比、銀子(ぎんす)才覺のため、京伏見に上(のぼ)るに、調はざれば、晝、舟に乘りて、我屋へは夜になりて歸るに、内に、早や、戸を閉めたり。やがて、門叩くに、暫し開(あけ)ず。あらけなく怒りければ、やうやう開けたり。
内に入(いれ)ば、妻、不興氣(ふけうげ)にして倒惑(たうわく)したる體(てい)なり。男も銀(かね)は得借り出(いだ)さず、不氣嫌にして、其處(そこ)ら見まはすに、常(つね)、長持に入(いれ)し道具引き散らし、あまさへ、糸房(いとぶさ)の大數珠(おほずゞ)あり。
不思議に思ひ、取りて見れば、我(わが)恃(たの)みし長老の數珠なり。
『さては。我妻と密通して、今宵忍び、詮方無(せんかたな)さに、長持に隱れしなり。さてさて、無念なる事。曳き出し、斬りて捨(すつ)べし。』
と思ひしが、
『迚(とて)も、我が耻も四方へ知れなん。』
と、暫し、勘忍の胸を摩(さす)り、妻に向つて云(いふ)やう、
「銀子の才覺、叶(かな)ひ難(がた)し。質物(しちもつ)にて借り出すべし。」
と傭夫(ようふ)、二人、雇ひ、かの長持に錠(ぢやう)を下ろし、その夜に持ちて出づる。
妻、見て悲しび、
「それは、今日(けふ)、物を取り出(だ)し、中に何もさふらはず。誰(た)が質(しち)に取り申べき。」
と云ふ。夫、聞き、
「よし、空(あき)長持にても銀(かね)は借りて來(こ)んぞ。小言(こゞと)な云ふそ。」
と出る。
さて、かの寺に行き、門を叩くに、同宿(どうじゆく)出(いで)て、
「お留守。」
と云ふ。
「いや、何屋の誰(たれ)にて御座候。長老樣へ仰(おほせ)られ下さるべく候。當年、殊の外、手づまり申候。近頃近頃(ちかごろちかごろ)、御無心の事に御座候へども、銀子三貫目御貸し下され候やうに、又、此長持に我等所帶道具一跡(せき)入れ置き申候へば、先(まづ)、質(しち)に入申候。則ち、鎰(かぎ)はこれに御座候。明朝早々、借りに參申べく候。御歸りなされ候はゞ、此段、よきに申給へ。」
と云ふ。同宿(どうしゆく)、聞きて、
「先づ、請取りは致し候。銀子の義、如何(いかゞ)御座あるべく候か、御口上の通りは申聞(まうしきこす)べし。」
と云ふ。
「かたじけなし。」
とて歸り、さて、翌くる日、又、寺へ行く。
同宿、出(いで)合ひて、
「昨夜(ゆふべ)の事、長老に申聞(まうしきこえ)候へば、易き事とて、則(すなはち)、此三貫目、進(しんじ)申候へと申され候。猶、又、日來(ひごろ)御懇意の旦那の御事なれば、此三貫目あり合(あひ)候から、沙汰なしに進じ申候へと申付候。御目にかゝるべく候へども、夜前、深更(しんかう)に歸り候から、御斷(ことわ)り申候と申せ、との事に御座候。」
なんど、お鬚(ひげ)の塵(ちり)を取るまでの挨拶なり。
男。聞きて、
「さてさて。お寺から里へと、銀(かね)永(なが)ふ下さるべき義、かたじけなく存じ奉り候。然(しか)らば、お寺の物をたゞに貰ひ申も冥加なく候へば、足りは仕るまじけれど、此長持の物、皆、上げ申候。長老樣へよきに申させ給へ。」
と云へば、同宿(どうじゆく)、聞きて、
「長持は、云はれぬ事なされて、よく進ぜられ候。辭退申さるべけれど、御心入(おんこころいれ)にてさふらへば、收められ候やうに申べく候。」
と色代(しきたい)ありて、男は出(いで)ぬ。
女房は、如何(いかゞ)計(はから)ひしや。
氣味よき分別、理の常(つね)か。あらはれて恥の巷(ちまた)に洩れば、如何(いか)ばかり口惜しからん。わが恥、人の恥を隱し、我も德を得、人も命を得る。又、案の厚きか。重ね斬(ぎ)りの道具たるべけれど、恥は後代まで殘らん。
その上(かみ)、所司代の某(なにがし)、公方より子息に役(やく)を仰付(おほせつけ)らるべき由、聞こえければ、
「器(うつは)、見屆けず。他家(たけ)の達者に仰せ付られ候やうに。」
と申上げられしかども、十手(ぢふしゆ)指(ゆびさ)して否むべきやうなかりしかば、御受け申されける時、
「愚息義も、慌てゝ妻敵(めがたき)は討ち申まじく候。」
と申されけるとかや。
「天晴(あつぱれ)一言(いちごん)かな。」
と云ひ合へり、となり。
この人もそれか。
但し、誰(たれ)しも言葉には云ふ。行ひなくんばあらじ。口の上、聞きたる時は、善人ならぬはなけれども、その行跡(かうせき)を見るときは、惡人ならぬ日もなし。身は指に差され、名は舌に載る。あゝ、獨り、我か。知る事の難(かた)きにはあらず、勤むることの怠ればなり。
右、この草子、われ、七、八歳より五十有餘(よ)の今、四十五年の間、見聞(けんぶん)せしを書(かき)ならぶれば、我からおこがましくこそ侍れ。よしや、人のいつはりて我にかたらば、そのいつはり、我、おふべきなり。見ん人、わがために、補へ。
延寳【丁巳】曆初春吉旦
五條橋通扇屋町丁子屋
西村九郎右衞門開板
[やぶちゃん注:「勘忍(かんにん)」第一義の「人の過ちを我慢して許すこと・勘弁していやること」の意。
「誰もとつかは」「とつかは」は慌てるさま。せかせかするさま。
「銀子(ぎんす)」ここの場合は「金子(きんす)」に同じく、金銭のこと。以前に「灰吹」で注したが、江戸初期の金銀の精製技術は不完全で綺麗な分離抽出は出来なかったこととも関係するか? なお、これで古くは「ゐんつう」(いんつう/「員子」とも書いた。「ヰン(イン)」「ツウ」は孰れも唐音)と読んで、中国から渡来した精製分離された純良な金銀の謂い及びそこから転じた「金銭・金子」の謂いもあるが、ここは特にそう読んでいる決め手がないので「ぎんす」とした。
「糸房(いとぶさ)の大數珠(おほずゞ)」高僧などが用いる高級なもったいつけた房の付いた大きな数珠(じゅず)。
「借りて來(こ)んぞ。」「借りてきてやろうやないかい!」。
「小言(こゞと)な云ふそ。」「小言は言わんときッツ!」。
「何屋の誰(たれ)」単に屋号実名を伏せた表記。
「同宿」ここは寺の住持の従僧のこと。
「近頃近頃(ちかごろちかごろ)」繰り返し(原典は踊り字「〱」)はママ。まんず、まんず、今日この頃は。
「御無心の事に御座候へども」「そちら様(御住持の菩提寺)にても至って勝手不如意になられ、拠所無く、金品、何かと、御入用切なることとは存じまするが」と、まず、相手の財政不況を慮った「ふり」をしている慇懃(実は確信犯の無礼)ととっておく。
「銀子三貫目」ここも「金子」に読み換えて、江戸初期のこちらの換算値を参照すると、当時は銭四千文と同じで現在の金額にして約十万円に当たったとある。一貫目は一貫文と同じであるから、江戸時代の標準でそれは一文銭一千枚相当となり、それで単純換算すると、一文銭で四千枚、四十万円(或いはそれ以上)相当となる。
「一跡(せき)」一切。
「鎰(かぎ)はこれに御座候」その場で確かめられると、主人公よりも中の住持が困るから、寺を出る間際に渡したのであろう。面白さとしてはしかし、渡して確かめさせて、中で縮こまっている住持と従僧が顔を見合わせ、パタンと閉じるという滑稽があった方が喜劇としては(私はしかし最初に苦言した通り、そのようなものを「宿直草」の最終話に求めてはいない)面白かろう。
「あり合(あひ)候から」たまたま全く自由になる当該額の金子が御座ったによって。
「沙汰なしに」返済や証文や質(しち)などの保険措置なしに、という意味であろう。要するに全額寄付するというのである。
「お鬚(ひげ)の塵(ちり)を取るまでの挨拶」ごく念の入った問題にしようのない非常に丁寧にして相手の気持ちを完璧に思いやった〈ような〉挨拶。
「里」檀家。
「永(なが)ふ下さる」条件なし返済なしの寄附であるから、かく言った。それをダメ押して確認決定(けつじょう)させるために「お寺の物をたゞに貰ひ申」と言い直したのである。
「冥加なく」本来、「冥加」は限定的に「違約や悪事をした場合、神仏の加護が尽きても仕方ない」という意で用いる自誓の言葉であるから、皮肉が又してもダメ押しで効いてくるのである。
「長持は、云はれぬ事なされて、よく進ぜられ候。」この台詞は上手く訳せないのであるが、取り敢えずは、
「長持は、そうさ、こちらが質として要求したわけでも御座らぬに、言いようもない御決心(言葉上は金になる家財道具一切が入っているはず)をなされて、かくも素晴らしく御寄附下さいました。」
という意で私は一応、とるのだが……しかし……凝っとこの台詞の文字を見ていると……「長持」は「住持」を引っ掛けているのではなかろうか?……と思えてきたのである。そう、
「住持は、そうさ、言いようもない破廉恥至極なことをなされて、しかも、それを訴え出ることもなされぬというかくも素晴らしき御決心をなされて、目出度くも住持入りの長持を御寄附下さいました。」
という、思わず、本音を含ませた洒落として「宿直草」の筆者がやらかした皮肉なパロディとしての台詞としての意味である。私は、気に入らない喜劇だからこそ、こんなことも言い添えたとお考えあれかし。
「色代(しきたい)」挨拶。会釈。元は後の「式台」の語源となる玄関の前の間のこと。
「重ね斬(ぎ)りの道具」長持に妻と間男を押し込んで、サンドイッチにしたまま、長持ちを太刀や鋸で真っ二つにするという猟奇的な想像上のイメージか。江戸時代、「重ねて四つ」という語があった。不義密通を働いた男女は、裏切られた夫が公に訴え出れば、処罰理由が掲げられ、ともに死罪(両者が確信犯であった場合に限る。但し、実際には本話で主人公が恐れるように恥が知れることから、内々に示談金で処理されたケースも多いらしい。因みに、この話のように僧(浄土真宗以外)であった場合は不義密通でなくても女犯(にょぼん)だけで住持なら遠島である)であるが、実は密通現場を亭主が発見した場合は、当時の法でも夫が殺してもお咎めなしと定められていた。つまり、密通現場を夫が確かに押さえれば、二人の密通の体(てい)をその交接の体(てい)に擬えて「重ねて」縛り、二人纏めて下半身と上半身に切り離して「四つ」にしてよかったのである。彼は商人だから、刀で四つ斬りは物理的に難しかろう。長持に押し込んで鋸挽きにするのが現実的だとは思う。せめてこんな妄想でホラーを感じたくなるね、せめて最後なんだから。
たるべけれど、恥は後代まで殘らん。
「所司代の某(なにがし)」不詳。しかし「公方」と出るから、これは室町時代で、さすれば、先の二つ前の「第十 京師に、人、失る事」のモデルであった京都所司代多賀高忠辺りかなどと考えたが、これは、篠原進氏の論文「あらすじの外側にある物語――『新可笑記』の表現構造――」によって江戸幕府の第二代京都所司代であった板倉勝重(天文一四(一五四五)年~寛永元(一六二四)年)とその長男板倉重宗(天正一四(一五八六)年~明暦二(一六五七)年)の話とする。同論文に、前田金五郎によれば、『これは源和五年(一六一九)の「史実」で新井白石の『藩翰譜』五、『滑稽美談』一、『可観小説』一など多くの傍証がある』とする、とある。但し、ウィキの「板倉重宗」によれば、彼は第二代将軍秀忠の治世、元和六(一六二〇)年に父の推挙により京都所司代となったとあり(承応三(一六五四)年まで実に三十年以上に亙って在職)、また、『父・勝重から所司代に推挙されたとき、重宗は固辞したという。だが』、『父と秀忠の強い薦めがあって断りきれず、父に「なぜこんな大任を」と述べた。勝重は笑いながら「爆火を子に払うため」と答えたという』(出典を「責而話草」(せめてわぐさ)とする。但し、この本は江戸末期の渋井徳章編であるから、やや実録性に欠くか)とあって状況が全く違う。
「十手(ぢふしゆ)指(ゆびさ)して」意味不詳。命じた将軍以外の左右の重臣ら総ても、皆、彼の息子を指差して、将軍の指示を支持し、の謂いか? 識者の御教授を乞う。
否むべきやうなかりしかば、御受け申されける時、
「愚息義も、慌てゝ妻敵(めがたき)は討ち申まじく候。」「吾輩の愚息も、軽率にも妻敵を「重ね四つ」に討つ(ような軽率な仕儀をなして家名を穢し、末代までの恥じとするような)ことは御座るまいと存ずる。」。但し、この話、所司代という犯罪処理を行う立場にある者として「妻敵」として訴えが出て、ろくに調べもせずに、その妻と間男を死罪に処するような軽率なことは致しますまい、十分に吟味するだけの能力は持って御座るとは存ず右る、という秘かな息子へのエールとも私にはとれるが、如何?
「行ひなくんばあらじ」実際の行動が伴わなければ、実はない、と言わざるを得ない。
「日」時。
「身は指に差され、名は舌に載る」軽率な行動を成す者の身は指弾され、恥に満ちた汚名は何時までも人の口に登るものである。
「あゝ、獨り、我か」反語。ああっ! 独り、私だけはそれを免れているか? いや、私も同じ穴の貉ではある。
「知る事の難(かた)きにはあらず、勤むることの怠ればなり」理屈として認識することは少しも難しいことではないが、しかし、それを常に行動規範として実行することに勤めること、これ、私を含め、多くの人々の場合、つい怠りがちとなるからである。
「われ、七、八歳より五十有餘(よ)の今、四十五年の間」本書は後に出る通り、延宝五(一六七七)年(丁巳(きのえみ))に京で知られた西村九郎右衛門(「丁子屋」は屋号)の書肆から板行されているが、原著者荻田安静はそれに先立つ八年前の寛文九(一六六九)年に没している(生年不明)。例えば、この跋文が死の前年に書かれたものと仮定してみると、荻田の生年は元和元・慶長二〇(一六一五)前後と推定し得るか。
「我から」自然。自発の意。
「おこがましく」分不相応であり、私の書いた中身も、或いは、如何にも馬鹿げているようにも感じられ。
「よしや」たとえ。仮に。
「おふ」「負ふ」。責任がある。
「初春」正月。
「吉旦」吉日。]