柴田宵曲 續妖異博物館 「馬にされる話」
馬にされる話
「幻異志」に見えた三娘子(さんぢやうし)は、板橋店にひとり住んで居る。深夜木牛と木人とを動かして床前の地を耕し、蕎麥の種を蒔く。蕎麥は忽ちに花咲き實熟するのを、粉にして燒餠を作る。翌朝この點心を口にした者は、皆驢馬になつてしまつたが、趙季和なる者ひとり鄰室に在つて三娘子の所爲を窺ひ、早く脱出したため驢馬になることを免れた。季和都よりの歸りに再び板橋店に一宿すると、三娘子が木牛木人を以て蕎麥を作ること前日に變らなかつた。翌朝點心を喫するに當り、ひそかに用意した一枚とすり換へ、これを三娘子にすゝめたので、彼女はたちどころに驢馬に變ずる。木牛木人はあとに殘つたが、季和の手ではどうにもならぬ。乃ち驢馬に鞭つて諸州を周遊すとある。
[やぶちゃん注:以上は私が異様に好きな一篇であるが、「幻異志」のそれよりも同じ唐代伝奇の「河東記」の「板橋三娘子」の方が纏まっていて、ストーリーも摑み易い。「太平廣記」の「幻術三」に載るそれを示す。
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唐汴州西有板橋店。店娃三娘子者、不知何從來。寡居、年三十餘、無男女、亦無親屬。有舍數間、以鬻餐爲業。然而家甚富貴、多有驢畜。往來公私車乘、有不逮者、輒賤其估以濟之。人皆謂之有道。故遠近行旅多歸之。
元和中、許州客趙季和、將詣東都、過是宿焉。客有先至者六七人、皆據便榻。季和後至、最得深處一榻。榻鄰比主人房壁。既而三娘子供給諸客甚厚。夜深致酒、與諸客會飮極歡。季和素不飮酒、亦預言笑。至二更許、諸客醉倦、各就寢。三娘子歸室、閉關息燭。
人皆熟睡、獨季和轉展不寐。隔壁聞三娘子悉窣、若動物之聲。偶於隙中窺之、卽見三娘子向覆器下、取燭挑明之。後於巾廂中、取一副耒耜、並一木牛、一木偶人、各大六七寸。置於竈前。含水噀之、二物便行走、小人則牽牛駕耒耜、遂耕牀前一席地、來去數出。又於廂中、取出一裹蕎麥子、受於小人種之。須臾生、花發麥熟、令小人收割持踐、可得七八升。又安置小磨子。磑成麵訖、却收木人子於廂中、卽取麵作燒餠數枚。
有頃雞鳴、諸客欲發。三娘子先起點燈。置新作燒餠於食牀上、與客點心。季和心動遽辭、開門而去、卽潛於戶外窺之。乃見諸客圍牀、食燒餠未盡、忽一時踣地、作驢鳴、須臾皆變驢矣。三娘子盡驅入店後、而盡沒其貨財。季和亦不告於人、私有慕其術者。
後月餘日。季和自東都囘、將至板橋店、預作蕎麥燒餠、大小如前。既至、復寓宿焉。三娘子歡悦如初。其夕更無他客、主人供待愈厚。夜深、殷勤問所欲。季和曰、「明晨發、請隨事點心。」。三娘子曰、「此事無疑、但請穩睡。」。半夜後、季和窺見之、一依前所爲。
天明、三娘子具盤食、果實燒餠數枚於盤中訖、更取他物。季和乘間走下、以先有者易其一枚、彼不知覺也。季和將發、就食、謂三娘子曰、「適會某自有燒餠、請撤去主人者、留待他賓。」。卽取己者食之。方飮次、三娘子送茶出來。季和曰、「請主人嘗客一片燒餠。」。乃揀所易者與噉之。纔入口、三娘子據地作驢聲。卽立變爲驢、甚壯健。季和卽乘之發、兼盡收木人木牛子等。然不得其術、試之不成。季和乘策所變驢、周遊他處、未嘗阻失、日行百里。
後四年、乘入關、至華岳廟東五六里、路傍忽見一老人。拍手大笑曰、「板橋三娘子、何得作此形骸。」。因捉驢謂季和曰、「彼雖有過、然遭君亦甚矣。可憐許、請從此放之。」。老人乃從驢口鼻邊、以兩手擘開、三娘子自皮中跳出、宛復舊身、向老人拜訖、走去。更不知所之。
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以下、二〇〇八年明治書院刊の中国古典小説選第六巻を参考にしながら、語注を附す。
「店娃」(てんあ)は旅館の女主人。
「無男女、亦無親屬」子どものいない寡婦で、親類縁者もなかった。
「往來公私車乘、有不逮者、輒賤其估以濟之」乗り物を引いたり、載るための動物が足りない旅人には、その沢山飼っていた驢馬を安値で用立ててやって助けた。
「有道」道義に富んだ親切な人物。
「元和」八〇六年~八二〇年。
「東都」洛陽。
「便榻」(べんとう)は簡易ベッド。
「二更」午後十時頃。
「悉窣」(しつそく)は「かそこそ」というオノマトペイア。
「一副耒耜」一揃えの鋤(すき)。「巾廂」(きんそう)は小箱であるからミニチュア。
「六七寸」唐代の一寸は三・一一センチメートルであるから、十八~二十一センチメート「一席地」蓆(むしろ)一枚を敷くばかりのごく僅かな地面。
「持踐」脱穀。
「七八升」唐代の一升は五十九ミリリットルであるから、四リットル強から四・七リットル。
「小磨子」ミニチュアの臼(うす)。
「燒餠」(しやうへい)はシャオピン。平たい肉饅頭。
「踣地」「地に踣(たふ)れ」。地面に倒れ。
「私有慕其術者」「私(ひそ)かに其の術を慕ふ者(こと)有り」。季和は恐れたのではなく、逆にその幻術にあこがれて、習得したいと思ったのである。だから後で「兼盡收木人木牛子等」だのであったが、しかし「不得其術、試之不成」なのである。
「適會」偶々。
「某」「それがしに」。私には。
「自有燒餠」「自(みづか)ら燒餠有り」。(すっかり忘れていたのですが)自分で作った焼餅があることに気づきました。
「請主人嘗客一片燒餠」「請ふ、主人、客の一片の燒餠を嘗(あじみ)んことを。」。
「關」潼関(どうくわん)。現在の陝西省渭南市にあった関所。 洛陽と長安との交通の要所。
全現代語訳ならば田中貢太郎「蕎麦餅」がよい(リンク先は青空文庫版)が、次の段で林羅山の「怪談全書」版の古文訳を示しておいたので、まずはそれを読まれるのがよかろうとは存ずる。]
この話は室町時代に成つた「奇異雜談集」に「丹波の奧の郡に人を馬になして賣し事」といふのがあるから、早く日本に渡來したものであらう。「老媼茶話」にある行脚僧は、手を園爐裏に入れて、指に燈をともしたり、足を打ち碎いて薪にしたり、奇々怪々なものであるが、二三寸ばかりの人形二三百を吐き出し、それが座中を耕して稻を作り、忽ちに數升の米を得る一段は、三娘子の話から脱化したと思はれる。たゞ「老媼茶話」には人を化して馬にする事はない。
[やぶちゃん注:前注に示した二〇〇八年明治書院刊の中国古典小説選第六巻の「板橋三娘子」の「余説」によれば、岡田充博氏の本作の詳細な考証論文によれば、恐らくは本邦で最初にはっきりとこれが紹介されたのは林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)の「怪談全書」の「三娘子」であるとする(「奇異雜談集」(作者不詳)の開板は貞享四(一六八七)年)。「奇異雜談集」の「卷三」の「三」のそれを岩波文庫版の高田衛編「江戸怪談集(上)」から恣意的に正字化して示す。読みは私がオリジナルに歴史的仮名遣で附し、一部に句読点を追加して、直接話法を改行して読み易くした。
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遙かの昔、丹波の國、奧の郡(こほり)の事なるに、山ぎはに大なる家一軒あり、隣もなし。人數十人あまり、渡世、心やすく見えたり。農作をもせず、職をもせず、商ひをもせず。心やすき事、人みな、不審す。馬を買ひゆくとも見えぬに、よき馬を賣れり。一月に、二疋、三疋、賣るゆへに、これまた、人不審するなり。
街道なるゆへに、旅人一宿する事あり。ないない、人の申すは、
「亭主大事の私術をつたへて、人を馬になして賣る。」
といへり。一定(いちじやう)をば知らざるなり[やぶちゃん注:確かなことは不明ではあった。]。
あるとき、旅人六人、つきたり。五人は俗人、一人は會下僧(ゑげそう)[やぶちゃん注:師に従って修行する僧。]なり。亭主うちへ請じ入れて、枕を六つ出だして、
「御くたびれなるべし、先づ、御休みあれ。」
といふ。俗人、みな、臥したり。
客僧は丹後にて粗(ほぼ)聞くことあるゆへに、用心する也。座敷の奧にゐて、臥さず。垣のひまより内をのぞけば、忙はしくみえたり。小刀(こがたな)にて、垣のひまを少しくりあけてよく見れば、疊の臺ほどなるものに、土、一杯あり。その上に物の種をまきて、上に薦(こも)をきせたり。釜には飯をたき、汁をたき、鍋に湯をたけり。茶、四、五服のむほどして、
「もはやよかるべし。」
とて、薦をとれば、靑々(あをあを)としたる草、二、三寸に生ひ繁りたり。葉は蕎麥に似たり。
それを取つて、湯に煮て、蕎麥のごとくに和(あ)えて、大なる椀にもりて、菜(さい)にして、飯を出だしたり。俗人、起きて、みな、食す。
「珍らしき蕎麥かな。」
といふて賞翫す。
僧は食する由して[やぶちゃん注:ふりをして。]、隅の簀子(すのこ)の下へすてたり。
饌(ぜん)[やぶちゃん注:膳。]をあげてのち、風呂を焚きて、
「たちて候。一風呂、御入りあれ。」
といへば、
「もつとも然るべし。」
とて、みな、入れり。僧は入る由して、脇へはづして、東司(とうす)[やぶちゃん注:この僧は禅僧か。主に禅家で厠のことをかく称する。]のうちに隱れ居て、よく見れば、亭主、きり、金鎚、金釘をもちきたりて、風呂の戸を打ちつけたり。
客僧、
「ここに居て、人に見つけられては曲(きよく)なし[やぶちゃん注:折角難を遁れたうま味がない。]。」
とて、くらまぎれに出でて、風呂の簀子の下へ入りて、靜まりゐてみれば、良(やや)ありて、亭主、
「もはやよきぞ、戸をあけよ。」
といひて、釘ぬきにて戸をあくれば、馬一疋出でて、いなないて走りゆく。夜にて門をさすゆへに、庭に踊りまはる。又、一疋出で、又、一疋出で、五疋、出でたり、
「今一疋出づべし。」
とて、まてども出でず。火をあかしてみれば、何もなし。
「今一人は、いづかたへ行きたるぞ。」
と、尋ぬる間に、簀子の下より出でて、後ろの山にのぼりて、遠く行くなり。
翌日、國の守護所にゆきて、上(うへ)くだんの樣(さま)を具(つぶ)さにかたれば、守護のいはく、
「曲事(くせ)なり。聞きおよびし事、さては、まことなり。」
とて、人數(にんず)を卒して彼に發向し、人を、みな、打ち殺して果たすなり。
右、靈雲の雜談なり。
*
気になるのは最後に、皆、「打ち殺して果た」したとするところ。罪もなき馬に変ぜられた俗人五人も一緒に一網打尽にされたというわけである。ちょっと哀しい気がする。
この際、序でだから、「怪談全書」のそれ、「卷五」の「三娘子(さんらうし)」(読みはママ)を以下に電子化しておく。底本は「日本名著全集」の「第一期第十卷 怪談名作集」を用いた。(但し漢字カタカナ交じりのそれを漢字ひらがなに換え、読みは一部に留め、改行を施した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。
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唐(たう)の汴州(へんじう)の西、板橋店(はんけうてん)と云ふ所に、三娘子と云ふ女あり。孀(やもめ)にして居ること三十餘年、子もなく親類(しんるい)もなし。數間(すけん)の屋に居て、食物を賣るを以て業(げふ)とす。然れども家甚だ豐(ゆたか)にして驢馬多くあり。往來の諸人、車馬もたざる者はきたりて、驢馬を買ふ。其あたひやすうして是を賣る。これにて旅客おほく聚(あつま)る。
元和年中、許州(きよじう)の趙季和(てうきくわ)と云ふ人、東都に行かんとする時、この所に寄宿す。旅人六七人、さきだち到る。趙季和はおそく到る。三娘子よく饗(もてな)す。諸客(かく)よろこんで酒をのむ。季和は下戸(げこ)なりといへども、其座中に交る。亥の刻ばかり、皆つかれて臥せり。三娘子入つて戸をさし燈(ともしび)をけす。
季和獨(ひとり)いまだねいらず。壁を隔てゝ、三娘子が物をうごかす聲を聞いて、透間よりこれをのぞけば、火をともし箱の中より鋤耒(すきくは)をとり出し、一の木牛(うし)、一の木人形、各(おのおの)六七寸ばかりなる物を、竃(かまど)の前におき水を吐く。其木人形はしり行き、牛を牽來(ひきき)て耒(くは)を以て床の前の地を掘り耕す。又箱の中より一包の蕎麥をとり出しこれを植ゆ。やがて花さき、そば熟す。是をかりとりて、七八升あり。又小(すこし)き臼(うす)にてすりて粉(こ)となす。卽ち木牛、木人形、幷(ならび)にすきくはを箱の中へ收む。蕎麥をとり燒餅(やきもち)六七枚に作る。
しばらくありて、鷄鳴に至つて、諸客出(いで)んとするとき、三娘子早くまず興(お)きて、かの燒餅を床の上に置き、客(かく)に食(くら)はしむ。季和これを見てむなさわぎし、暇乞(いとまごひ)して出づるまねして、潜(ひそか)に門外よりこれを伺へば、諸客皆燒餅を食ふ時に、地に倒れて驢馬の鳴くまねして即ち形(かたち)變じて驢馬となる。三娘子あまたの驢馬を牽いて馬屋のうしろへ入れて、諸客の財寶を悉くとり納む。
季和(きくわ)つくづく見て人に語らず。珍しき術(じゆつ)なりと思へり。
月を經て後、季和東都より歸り、この所にいたらんとする時、豫(あらかじ)め蕎麥の燒餅を作り、其大小、さきに見たる所のごとくす。板橋店に至りて、また宿を假る。三娘子、悦びて饗(もてな)すこと始の如し。此日、季和答へて
「明朝(めいてう)早く出づべし。燒餅(やきもち)の點心(てんしん)せよ」
と云ふ。
三娘子
「これはやすきことなり。よくしづかにねむれ」
と云ふ。
夜半(やはん)過ぎて、季和ひそかに伺へば、三娘子がする所、先(さき)の日の如し。夜明けて三娘子、食物菓子をそなへ、燒餅數枚(すまい)を並べ置く。別物をとらんとする時、季和その隙(ひま)を見て、走つて三娘子が餅(もち)一枚をとりて、己(おのれ)が餅一枚にとりかへて、季和物食(ものくら)ふ時に三娘子に向つて
「我も亦燒餅(やきもち)あり。主人の餅を殘して、他の客人にくらはしめん」
と云ひて、先にとりかへたる己が餅を見知りて食(くら)ふ。三娘子茶をさゝげて來る。季和云ひけるは
「己が餅一つ主人、試みに食(くら)へ」
と云ふ。主人
「くらはし」
と答ふ。季和先の替へ置きたる主人の餅を、我手より出(いだ)しとりて與ふ。主人これを口に入るゝとひとしく、三娘子うつぶき臥し驢(うま)[やぶちゃん注:読みはママ。]の鳴くこえをなして、即ち變じて驢馬(ろば)となる。其力すくやかなり。季和これに乘つて出づ。その木にて作れる人と牛とをとると云へども、其術を知らざればすることあたはず。季和、この驢(うま)に乘つて所々(ところところ)を往來(ゆきき)すれども、つまづくことなし。毎日ありくこと百里計(ばかり)なるべし。
其後四年、この驢(うま)にのりて華山の廟(べう)の東に到る。五六里許(ばかり)の路次(ろじ)にて一人の老人にあふ。老人、手を打(う)つて笑つて
「板橋(はんけう)の三娘子、何故に驢馬の形となるや」
と云ひて、驢(うま)をとらへて季和に云ひけるは
「彼(かの)人、罪ありといへども、君に逢うて、はづかしめらるゝこと甚だし。あはれなるかな。今よりゆるしはなて」
と云ひて、老人、兩手(ふたつのて)を以て驢馬の口鼻(くちはな)の邊(へん)より、これを引きさきければ、三娘子その驢(うま)の皮の内より躍出(をどりい)づ。卽ち本(もと)よりの三娘子なり。老人に向つて禮拜し畢つて、走去(はしりさ)る。
其行く所を知らず。
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「老媼茶話」のそれは「卷之六」の「飯綱の法」の最後に附された例。【2017年12月6日削除・追記】「老媼茶話」は全篇を、ブログ・カテゴリ「怪奇談集」で、現在、電子化注作業中であるが、当該章を昨日公開したので、ここに提示した原文は削除した。上に附したリンクでご覧戴きたい。]
「高野聖」(泉鏡花)では山中の孤屋に住む美人によつて、越中富山の藥賣りが馬にされてしまふ。この一段は無論陰になつてゐるので、讀者は前に藥賣りを見、後に馬を見るに過ぎぬが、三娘子の話を知る者がこれを讀めば、「高野聖」のヒントが那邊に存するか、想像するに難くないと思はれる。然るに鏡花は三娘子の話を讀んでゐなかつたと「文壇人國記」(橫山健堂)に書いてある。もし三娘子でないとすれば、同じやうな題材を「アラビアン・ナイト」に求めなければならぬ。
[やぶちゃん注:泉鏡花の「高野聖」は「鏡花花鏡」の正字正仮名版(PDF)をお薦めする。
『「文壇人國記」(橫山健堂)』評論家横山健堂(明治五(一八七二)年~昭和一八(一九四三)年)の明治四四(一九一一)年刊の作品。私は未見。]
魔法つかびの女王ラーブは、夜宮殿の中に大麥を蒔き、その實を粉にしてサウイークを作る。サウイークは麥こがしのやうなものださうである。國王べドル・バーシムはこのサウイークをすり換へたため、自分が驢馬にされるのを免れたのみならず、反對に女王を驢馬にしてしまふ。驢馬になつた女王の運命は、三娘子と同じであつた。三娘子は華嶽廟の東まで來た時、一人の老人が現れて、超季和に向ひ、もう赦してやつてもよからうと云ひ、再び昔の姿に還つて、更に行くところを知らずといふので了つてゐるが、ラーブはその母親である老婆の手によつて、もう一度人間に戾り、べドル・バーシムを醜い鳥にして報復するといふ話が加はつてゐる。「高野聖」の美人は反魂丹賣りを馬にして賣り飛ばした。この邊は三娘子と同じであるが、孤屋のほとりに徘徊する猿や蟇や蝙蝠の事を考へると、ラープの方に近くなつて來る。三娘子は點心を食はして驢馬にする以外の方法を知らなかつた。三娘子と「アラビアン・ナイト」との繫がりは輕々に斷ぜられぬが、「高野聖」の著想は先づ後者によつたものと見てよからう。かういふ題材を參謀本部の地圖の通用する世界に持つて來て、悠々と描き去る作家は、この人以外にありさうもない。
[やぶちゃん注:ここで説明されているのは「アラビアン・ナイト」の『「柘榴の花」と「月の微笑」の物語』(第五百二十六夜~第五百四十九夜)のことらしい。ウィキの「千夜一夜物語のあらすじ」の当該の物語の項を参照されたい。]
人を馬にする話は、三娘子系統の外にもう一つある。「寶物集」に擧げた天竺安息國の王、馬を好んだ結果、人を馬に化する術を習ひ得た。葉の狹い草を食はせれば人が馬になり、葉の廣い草を食はせればまた人に還るといふのだから、三娘子の方法より遙かに簡單である。この事を知らぬ一人の商人がやつて來て、忽ち馬にして繫がれてしまつた。形は馬でも心は人なので、一商人歎き悲しむけれども、顧る人もない。商人の子、父の歸らざることを悲しみ、あとからやつて來て、宿の亭主から人を馬にする草の祕密を聞かされた。最近馬にされた商人は、栗毛の馬の眉に斑があると聞き、首尾よく尋ね當てて、葉の廣い草を食はせたら、忽ち父親になつたので、一緒に本國へ歸つたといふのである。西洋のお伽噺にも果物を食べて鼻が長くなるとか、角が生えるとかいふのがあり、また他の果物を食べれば舊に復する筋であつたと思ふ。草の葉の廣狹もこれと似たやうなものらしい。「老媼夜譚」(佐々木喜善)に收錄された奧州の民譚の中にも、伊勢參宮の途中、見知らぬ町の安宿で草餠を食はされ、一夜にして馬になる話がある。馬にされてから座頭(ざとう)の淨瑠璃を聞く機會があつたが、その文句の中に、那須野ガ原の奧の沼のほとりの朝日の眞當りに生えてゐる縞の芒(すすき)を食めば、もとの人間になるとあるのを耳にし、早速那須野ガ原へ出かけて行つて、縞の芒を見付け、人間の姿になることが出來た。「老媼夜譚」の話は大體三娘子と同じ事で、宿屋から草餠を盜み出し、參宮の戾り道に宿の者に食はせて馬にする、といふところまで往つてゐる。たゞ縞の芒を嚙んで人間に還るといふのは三娘子にない事だから、「寶物集」にある天竺の話が何かの徑路によつて、奧州の民謠に溶け込んだものであらう。日本に傳はつた馬になる話には、二つの系統があると見なければならぬ。
[やぶちゃん注:以上の「寶物集」』(ほうぶつしゅう:平安末期に成立した平康頼著になる仏教説話集)の話は「卷第一」の「親馬になされたるを子の助けし事」である。私は同書を所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから次の頁で視認出来る。
佐々木喜善「老媼夜譚」は昭和二(一九二七)年郷土研究社刊の「馬になつた男」である。私は同書を所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。
「朝日の眞當り」朝日が真正面から当たる辺りの謂いであろう。佐々木の原文自体がそうなっている。]
三娘子や「アラビアン・ナイト」は勿論、「寶物集」の話にしたところで、慥かに童話的な要素を具へてゐるが、こゝに最も現實的で殺風景なのは「今昔物語」の「通四國邊地僧至不知所被打成馬語」である。三人の僧が四國の山中で道に迷ひ、漸く一軒の家に逢着する。居住者は六十ばかりの僧で、恐ろしい顏をした男であつたが、先づ三人に食事をふるまひ、然る後庭に引落して笞(むち)で打つ。百敲かれて起された時は已に馬になつてゐた。これは笞にさういふ魔力があるのか、先づ食はせたものに三娘子の點心のやうな作用があるのか、「今昔物語」の文章だけではよくわからぬ。南方熊楠翁は人を馬にする話は諸國に多いと云ひ、その方法として魔力ある藥料を塗り付けるか、魔力ある飮食物を與へるか、手綱や轡を加へるかの三つを擧げてゐる。この話でも轡は用ゐられるが、それは已に馬になつてからで、笞で打ち据ゑた後、引き起すと馬になつてゐるのが「今昔物語」の特色ださうである。とにかくこの方法によつて三人のうち二人までは忽ち馬にされてしまふ。殘る一人は主僧の寢入つた間に逃げ出し、途中で逢つた女房のはからひで一命だけは助かる。いづれにしても百敲きにして馬にするなどは殺風景極まる上に、その馬は土に埋めて殺すといふのだから、この主僧なる者は三娘子や安息國の王に覆輪かけた兇惡の徒である。支那とも天竺とも違ふ筋で、南方翁のいはゆる特色を具へてゐるに拘らず、從來あまり話の種にならなかつたのは、徹頭徹尾不愉快なためかと思はれる。
[やぶちゃん注:以上の「今昔物語集」の話は「卷第三十一」の「通四國邊地僧行不知所被打成馬語第十四」(四國の邊地(へんぢ)を通る僧、知らぬ所へ行きて馬(むま)に打ち成さるる語(こと)第十四」)である。【二〇二二年四月二十日以下のテクストのみ完全な正字に改稿した。】
*
今は昔、佛(ほとけ)の道を行ひける僧、三人(みたり)、伴なひて、四國の邊地と云ふは、伊豫・讚岐・阿波・土佐の海の邊(ほと)りの𢌞(めぐ)り也(なり)[やぶちゃん注:文脈がややぎくしゃくしているのは、四国の辺地の具体な解説が後から挿入された結果であろう。]、其の僧共(ども)、□を𢌞けるに、思ひ懸けず、山に踏み入りにけり。深き山に迷(まど)ひにければ、濱の邊りに出でむ事を、願ひけり。終(つひ)には、人跡(ひとあと)絕えたる深き谷に踏み入りにければ、彌(いよい)よ、歎き悲しむで、荊(うばら)・蕀(からたち)を分けて行きける程に、一(ひとつ)の平らなる地、有り。見れば、垣(かき)など拵(しつら)ひ、𢌞(めぐら)したり。
『此(ここ)は、人の栖(すみか)にこそ有りぬれ。』
と思ふに、喜(うれ)しくて、入りて見れば、屋共(やども)、有り。譬(たと)ひ、鬼の栖(すみか)也とも、今は何(いか)がせむ、道をも知らねば、行くべき方も思(おぼ)えで、其の家に寄りて、
「物申さむ。」
と云へば、屋の内に、
「誰(た)そ。」
と問ふ。
「修行仕(つかまつ)る者共の、道を踏違(たが)へて參りたる也。何方(いづかた)に行くべきにか、敎へ給へ。」
と云へば、
「暫く。」
と云ひて、内より、人、出で來たるを見れば、年六十許りなる僧也。形ち、糸(いと)怖氣(おそろしげ)也。
呼び寄すれば、
『鬼にても、神(かみ)にても、今は、何にかはせん。』
と思ひて、三人(みたり)乍ら、板敷[やぶちゃん注:建物外に設えた簀の子。]の上に昇りて居(ゐ)たれば、僧の云はく、
「其達(そこたち)は極(こう)じ給ひぬらむ。」
と云ひて、程無く、糸(いと)淸氣(きよげ)なる食ひ物を持い來たり。
『然(さ)は、此れは、例(れい)の人なめり。』[やぶちゃん注:「例の人」は「鬼ではなく、普通の人間」の意。]
と、糸(いと)喜(うれ)しく思ひて、物(もの)打ち食ひ畢(は)てて居たる程に、家主(いへあるじ)の僧、糸氣怖氣(けおそろしげ)に成りて、人を呼べば、
『怖し。』
と思ひて有るに、來る人を見れば、怪氣(あやしげ)なる法師也。主(あるじ)、
「例の物共、取りて來たれ。」
と云へば、法師、馬の轡頭(くつわづら)[やぶちゃん注:手綱。]と笞(しもと)とを、持ち來たり。
主の僧、
「例の樣にせよ。」
と俸(おきつ)れば、一人の修行者(しゆぎやうじや)を、板敷より取りて引き落とす。今二人は、
『此れは。何にせむずるぞ。』
と思ふ程に、庭に引き落として、此の笞を以つて背を打つ。慥(たしか)に五十度(ごじふど)、打つ。修行者、音(こゑ)を擧げて、
「助けよ。」
と叫べども、今二人、何がは、助けむとする。然て亦、衣を引き去りて、膚(はだへ)を、亦、五十度、打つ。百度、打たるれば、修行者、低(うつぶし)に臥たるを、主の僧、
「然(さ)て、引き起こせ。」
と云へば、法師、引き起こたるを見れば、忽ちに馬に成りて、身振ひ打ちして立つれば、轡頭(くつわづら)を□□て引き立てたり。
殘りの二人の修行者、此れを見るに、
『此れは何(いか)なる事ぞ。此の世には非(あら)ぬ所也けり。我等をも、此(か)くせむずる也けり。』
と思ふに、悲しくして、更に物も思えで有る程に、亦、一人の修行者を、板敷より引き落として、前の如く打てば、打ち畢りて、亦、引き起こしたれば、其れも、馬に成りて立てれり。然(しか)れば、二疋の馬に、轡頭を□□て引き入れつ。
今一人の修行者、
『我をも引き落として、彼等が樣に打たむずらむ。』
と思ふに悲しければ、憑(たの)み奉る本尊に、
『我を、助け給へ。』
と心の内に念ずる事、限り無し。其の時に、主の僧、
「其の修行者をば、暫く、然(さ)て置きたれ。」
と云ひて、
「其こに有れ。」
と云ひつる所に、居(ゐ)たる程に、日も暮れぬ。
修行者の思はく、
『我れ、馬に成らむよりは、只、逃げむ。追れて捕へられて死なむも、命を棄すてなむ事は、同じ事也。』
と思へども、知らぬ山の中なれば、何方(いづかた)へ逃ぐべしとも思えず。亦、
『身を投げてや、死なまし。』
と、樣々に思ひ歎く程に、家の主の僧、修行者を呼ぶ。
「候ふ。」
と答ふれば、
「彼(か)の後ろの方(かた)に有る田には、『水は有りや。』と見よ。」
と云へば、恐々(おづお)づ行きて見るに、水、有れば、返りて、
「水、候ふ。」
と答ふ。
『此れも我を「何にせむ」とて云ふにや。』
と思ふに、生きたる心地も爲(せ)ず。
然る間、人皆、寢(い)ぬる時に、修行者、
『只、逃げなむ。』
と偏へに思ひ得て、負(おひ)をも棄てて、只、身一つ、走り出でて、足の向きたる方(かた)に走る程に、
『五、六町は、來ぬらむ。』
と思ふに、亦、一つの屋(や)、有り。
『此(ここ)も、何(いか)なる所、ならむ。』
と恐しく思ひて、走り過ぎむと爲(す)るに、屋の前に、女房、一人、立ちて、
「彼(あ)れは、何(いか)なる人ぞ。」
と問へば、修行者、恐々(おづお)づ、
「然々(しかじか)の者の、此(か)く思ひ得て、『身を投げても死なむ』とて罷り候ふ也。助けさせ給へ。」
と云へば、女、
「哀れ、然(さ)る事、有るらむ。糸惜(いとほ)しき事かな。先づ、此(ここ)へ入り給へ。」
と云へば、入りぬ。
女の云はく、
「年來(としごろ)、此(か)く踈(う)き事共を見居(みゐ)たれども、我れ、力、及ばず。但し、『其(そこ)をば、構へて、助け聞えむ。』と思ふ。我れは、其の御(おは)しつらむ御房(ごばう)の大娘(だいじやう)[やぶちゃん注:正妻。]也。此(ここ)より下(しも)に然許(さばかり)去りて、丸(まろ)[やぶちゃん注:私。]が弟(おとうと)なる女房御(おは)す。然々(しかしか)有る所也。其の人のみぞ、其(そこ)をば、助け聞えむ。『此(ここ)よりぞ。』とて、其(そこ)へ御(おは)せ。消息(せうそく)を奉らむ。」
と云ひて、書きて取らせて云はく、
「二人の修行者をば、既に馬に成して、其(そこ)をば、土に掘り埋づめて、殺さむと爲(し)つる也。『田に水や有る。』と見せけるは、掘り埋づまむが爲め也。」
と云ふを聞くに、
『賢くぞ、逃げにける。暫しの命も有るは、佛の御助(おほむたす)け也。』
と思ひて、消息を取るままに、女に向かひて、手を摺りて、泣々(なくな)く、臥し禮(をが)みて、走り出でて、敎へつる方(かた)を指して、
『廿町許りは來らむ。』
と思ふ程に、片山の邊(ほと)りに、屋(や)、有り。
『此(ここ)なめり。』
と思ひて、寄りて、人を以つて、[やぶちゃん注:使用人がいる相応の屋敷のようである。]
「然々の御文(おほむふみ)、奉らむ。」
と云ひ入れたれば、使ひ、取りて、入りて返りて、
「此方(こなた)へ入り給へ。」
と云へば、入りぬ。亦、女房、有りて云く、
「我れも、年來(としごろ)、『踈(う)き事。』と思つるに、姊の亦、此(か)く云ひ遣(おこ)せたれば、『助け聞えむ。』と思ふ也。但し、此には極く恐しき事、有る所也。暫く此に隱れて御(おは)せ。」
とて、一間(ひとま)なる所に隱し居(す)へて、
「努々(ゆめゆめ)、音、な爲(し)給ひそ。時、既に吉(よ)く成りぬ[やぶちゃん注:「その時間になりましたよ」。]。」
と云へば、修行者、
『何事ならむ。』
と、恐しく思ひて、音も立てず、動かで、居たり。
暫し許り有れば、恐し氣なる氣はひしたる者、入り來(く)。生臭き香(か)、薰(にほ)ひたり。恐しき事、限り無し。
『此れも、何なる者ならむ。』
と思ふ限りに入り來りて、此の家主(いへあるじ)の女房と物語など打ちして、二人臥(ふ)すなり。聞けば、懷抱して[やぶちゃん注:まぐわって。]返りぬ。修行者、此れを心得る樣、
『此れは。鬼の妻にして、常に來りて、此樣(かやう)に懷抱して返る也けり。』
と思ふにも、極めて氣六借(けむづか)し。
然(さ)て、女房、行くべき道を敎へて、
「實(まこと)に奇異(あさま)しき命を存(そん)し給ひぬる人かな。『喜(うれ)し。』と思(おぼ)せ。」
と云へば、修行者、前の如く、泣々(なくな)く伏し禮(をが)みて、其の所を出でて、敎へけるまゝに行きければ、夜(よ)も曙方(あけがた)に成りぬ。
『今は、百町許りは來(き)ぬらむ。』
と思ふ程に、夜(よ)、白々と成りぬ。見れば、例(れい)の直(うるは)しき道に出でぬる也けり。其の時にぞ、心、落居(おちゐ)ける。
「喜(うれ)し。」
と云へば愚也や。其(そこ)よりなむ、人里を尋ねて行きて、人の家に這ひ入りて、然々(しかじか)の事の有りつる樣(さま)を語りければ、其の家の人も、
「奇異(あさま)しかりける事かな。」
と云ひける。里の者共も、聞き繼ぎてぞ、問ひ合ひたりける。其の逃げて出でたりける所は、□□の國□□郡(こほり)の□□鄕(さと)也。
然(さ)て、二人の女房の、修行者に口固(くちかた)めける事は、
「此(か)く有難き命を助け聞(きこ)えつ。努々(ゆめゆめ)『此(かか)る所、有りつ。』と人にな語り給ひそ。」
とぞ、返々(かへすがへ)す云ひけれども、修行者、
「然許(さばかり)の事をば、何(いか)でか、然(さ)ては、止(や)まむ。」
とて、普(あまね)く語りければ、其の國の人の、年若くて勇みたる兵(つはもの)の、道に堪(た)ふるは、
「軍(いくさ)を發(おこ)して、行きて見む。」
など云ひけれども、道の行き方も無かりければ、然(さ)て止みにけり[やぶちゃん注:沙汰止みとなった。]。然(しか)れば、彼の僧も、修行者の逃げぬるを、
『道の無ければ、否(え)逃げじ。』
と思ひて、怱(いそ)ぎても、追はざりけるにこそ。
然(さ)て、修行者、其よりなむ、傳はりて、京に上りたりける。其の後(のち)、『其の所を何(いづ)こに有り』と云ふ事、聞えず。現(あらは)に、人を馬に打ち成しける、更に、心得ず。畜生道などにや有らむ。[やぶちゃん注:ここでは実はあそこは人間の世界ではなく、六道の三悪道に一つである「畜生道」であったのではないか、と推測しているのである。]
彼(か)の修行者の、京に返りて、二人の同法の馬(むま)の爲めに、殊に善根を修(しゆ)しけり。
此れを思ふに、身を棄てて行ふと云ひ乍らも、無下に知らざらむ所には、行くべからずと、修行者の正しく語けるを聞き傳へて、此く語り傳へたるとや。
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「南方熊楠翁は人を馬にする話は諸國に多いと云ひ、その方法として魔力ある藥料を塗り付けるか、魔力ある飮食物を與へるか、手綱や轡を加へるかの三つを擧げてゐる」【二〇二二年四月二十日改稿】出典は南方熊楠の「今昔物語の研究」の「二」。以上の「今昔物語集」の話を枕として語っている。熊楠の論考は近いうちに電子化する予定である。]