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« 1954ゴジラ追悼―― | トップページ | 北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート3 其二「箭ノ根石」(Ⅲ)~この石鏃の条は了) »

2017/08/10

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート2 其二「箭ノ根石」(Ⅱ))

 

總て北越山下の田家には、二月十五日・十八日、山神祭(さんしんまつり)とて、山に不ㇾ入(いらず)。もし、誤(あやまつ)て山に入る時は、必、種々(しゆじゆ)の怪を見て、病(やむ)といふ。今は所々(しよしよ)拾ひ盡くすと雖も、尚、尋ね求(もとむ)るごとに不ㇾ得(えず)といふこと、なし。「續日本(しよくにほん)紀」【同「日本後記」】『承和六年、出羽國より申。八月廿九日、田河郡(たがはごほり)の西濱(にしはま)、符(ふ)を達する所、五十餘里の間(あいだ)、元より、石なし。十三日より、雷雨、甚だしく、十余日を歴(へ)、晴天を見る。後(のち)、落(おち)たる石、少からず。鏃(やじり)に似、鉾(ほこ)似たる石、或(あるひは)白、或赤(あかし)。』とあり。又、「三代實錄」に、『仁和(にんわ)元年六月廿一日、出羽國秋田城(あきたのしろ)及(および)飽海郡(あくみごほり)神宮の西濱に石鏃を降(ふら)す』、『同二年、出羽國飽海郡諸神社の辺(ほとり)に石鏃を降す』とあり。しかれば、上古、巳に其神奇を記す。今世(こんせい)、好事の者、是は人作(じんさく)にして石と石とを打合(うちあは)せ、割飛(さけとび)たる物、此形を成す、と云ふ。近頃、會津の医(ゐ)某(それがし)なる者、來て、自(みづか)ら作れりとてに示す。其形、似よりたるにもあらず、笑ふべきの至り也。紫土色(むらさきつちのいろ)、俗に「火打石」と云へるものゝごとし。、即(すなはち)、其眞(しん)なる紫・白・黑色、各(おのおの)如珠玉(しゆぎよくのごとく)なるもの、五、六品を出し見せしむるに、其医、初めて信服せり。又、江州(ごうしう)石亭(せきてい)なる者、其(その)人作(じんさく)たることを論ずと。又、或人、上古、是を作りて竹木(ちくぼく)の先に插(さしはさ)み、鳥獸を獵(かり)すと。是、又、論ずるに足らざるの説なり。石鏃上品なるもの、よく竹木を削(けづり)、自(みづか)ら竹木に插(さしはさ)み、弓に矧(は)げて用ひたる物にはあらずと覺ゆ。其故は、形、

 

Sekizoku1_2

 

如ㇾ此(かくのごとき)もの夛(おほ)くあり。

Sekizoku2_2


此品(しな)、最も多しと雖も、竹木に挾みて肉に深く入るべき理(り)なし。眞の鏃(やじり)は、

 

Yajirihonmono_2

 

かくのごとし。是を以つて知るべし。又、古人、銅・鐡、いまだあらず。石と石とを打合せて、獵(かり)するために此物をなさば、何ぞ、

 

 Sekizoku3
Sekizoku4

 

如ㇾ此、不用の戲(たはむれ)に力(ちから)を労せんや。又、上品なるは、珠玉がごとくなる物ありて、鐡槌(てつつい)にも碎き難きあり。又、上古人作(じようこじんさく)と云はば、北國にのみ限るいはれ、なし。又、或人、是は自然にしてなるものと云へり。是れ、莊子の見(けん)か。何にもせよ、おのれが智に及びがたきものは、皆、自然とさへ云(いへ)ば濟むやうなものなれど、物理を明(あきらか)にせんと思ふ。才氣もなく、先愚(せんぐ)に近き達論(たつろん)と云ふべし。是も、自然に成るものならば、鏃(やじり)の形のみに限るべからず。或は鉾鎗(ほうそう)・鈇鉞(ふえつ)・刀劔・戈戟(くはんくは)・鋤鎌(じよれん)・鋸刃(きよじん)等(とう)、其余(よ)、種々(しゆじゆ)の形もあるべし。是を按ずるに、鬼神(きしん)の説、明かなり。只し、「本草」に「石弩(せきど)」と云(いふ)は如ㇾ此(かくのごとき)ものか。霹靂石・霹靂楔・霹靂堪[やぶちゃん注:以上の後の二箇所の「霹靂」は原典・野島出版版ともに総て「ゝ」で示されてあるが、これは非常に読み難いので、かく、した。]・雷斧、皆、此邦にあり。是は人作なるべし。其石(せき)、質(しつ)、皆、粗品なれば、石石(せきせき)琢磨して形を成せりと覺ゆ。其品、あらまし、末に圖せり。霹靂石は自然也。其形も定(さだま)りなく、大小數品(すひん)、黑色(こくしよく)、玉(たま)のごとし。石弩は群石(ぐんせき)の内より、自然に片々として割飛(われと)ぶ。しかれば、此邦(くに)、石鏃の類にはあらざるべし。雲母石・石燕(せきえん)の類か。又、荊州・梁州・肅愼國(しくしんこく)、靑石(あをいし)を以て矢に作る、とあり。是が數年(すねん)、此奇を試るに、其夛く出(いづ)る所、從來の石質、粗品なる所は、石鏃も又、粗品なり。石質、明徹なる所は、石質も又、珠玉のごとし。其石色(せきしよく)も又、同じ。其中(うち)、粗惡の品ばかり、偶々(たまたま)見たる人は、人作とも思ふべし。又、ある人、燕石と云へるは是なり、と云へり。其説を聞(きか)んことを請ふ。曰(いはく)、一儒、長崎に至り、石鏃を以つて來舶清人(らいはくのしんじん)に示す。清客(しんかく)、見て、燕石なり、とて大笑(たいしよう)せり、と云へり。甚だ訝(いぶか)しき説也。此人、猥(みだり)に此論を成せりと覺ゆ。笑ふべきの甚だしきなり。かの呉人(ごひと)、燕石を包(つゝみ)て玉(たま)と成せるは、豈(あに)如ㇾ此(かくのごとき)ものならんや。【一説に、燕石は、即、燕の國よりいづる玉に似たる石なり。此邦、陸奥津輕石と称する物のごとくなるべし。】玉(たま)に誤(あやま)るのもの知(しり)ぬべし。本州、霹靂石、有(ある)は、此邦の落星石(らくせいせき)、俗に「星銷(ほしくづ)」と云へるもの、是なり。今北越・信州・佐州其余所(よしよ)所々(しよしよ)にあり。空中(くうちう)太陽の氣、鬱結して、忽、火光(くはくはう)を發し、飛去(とびさ)もの、地上に落(おつ)る時は、即、化(け)して石となると。是なり。其火光【大なるは、俗に「光りもの」と云ふ。小なるは「流星」又は「夜這星」と云ふ。】、「左傳」、『星、落(おつ)ること如ㇾ雨(あめのごとし)』。即、此火光なり。豈(あに)真(まこと)の星ならんや。霹靂石、形、不ㇾ一(いつならず)、黑(こく)・靑色(せいしよく)・眞黑色(しんこくしよく)・漆黑(しつこく)・白点(はくてん)等(とう)なり。甚だ、光彩潤沢明徹、如ㇾ玉(たまのごとし)。俗に「落星」・「石星(せきほし)」・「銷石(くずいし)」と云ふ。

[やぶちゃん注:「二月十五日・十八日、山神祭(さんしんまつり)とて、山に不ㇾ入(いらず)」「山神」は山の神。詳しくはウィキの「山の神」などを参照されたいが、「民俗学辞典」(昭和五〇(一九七五)年四十七版東京堂刊)によれば、『田の神を山の神とする』(同一視する)『所では二月と十月の二回に祭る』とあるから、月はいいとしても、『山の神の祭日は區々だが、月の七日・九日・十二が多い』とあるのからは、当時の北越の慣習はややずれがあると言える(因みに『杣や炭燒は十二月十二日、マタギは六月十二日を祭日としている』とある)。この日は総て『山稼を休んで山の神をまつ』り、『山の神が狩をする日、木種を播く日、木を數える日などと言われて、山入りを忌む。もし禁を破つて山に入ると山の神に木と間違えられて數え込まれてしまう』と言われている。

「今は所々(しよしよ)拾ひ盡くすと雖も、尚、尋ね求(もつむ)るごとに不ㇾ得(えず)といふこと、なし」今までいろいろなところで山の神についての話を採集してきて総て採り尽くしたとさえ思うようなのだが、しかし、なお、また新たに採集に出かけると、必ず、今まで聴いたことない、新たな山の神に纏わる話柄を得られぬということはないほど、奥深い信仰である、というのである。

「續日本(しよくにほん)紀」(しょくにほんぎ)は菅野真道(まみち)らが延暦一六(七九七)年)に完成させた勅撰史書。六国史の「日本書紀」に続く第二。文武天皇元(六九七)年から桓武天皇の延暦一〇(七九一)年まで九十五年を記す。編年体・漢文・全四十巻。

『同「日本後記」ニ』返り点がないけれども『「日本後記」に同じ』と読むのであるが、この謂い方は誤り「日本後記」は「續日本紀」の続篇として書かれた勅撰史書。六国史の第三。承和七(八四〇)年に完成し、延暦一一(七九二)年から天長一〇(八三三)年に至る四十二年間を記す。編者は藤原緒嗣(おつぐ)ら。編年体・漢文・全四十巻(現存は十巻のみ)。しかも、以下の内容は実は「續日本紀」日本後記」(そもそもが記載期間からこの両者ではあり得ない)でもなく、その後の勅撰史書「續日本後記」の記載事項である(次注参照)。

『承和六年、出羽國より申ス。八月廿九日、田河郡(たがはごほり)の西濱(にしはま)、符(ふ)を達する所、五十餘里の間(あいだ)、元より、石なし。十三日より、雷雨、甚だしく、十余日を歴(へ)、晴天を見る。後(のち)、落(おち)たる石、少からず。鏃(やじり)に似、鉾(ほこ)ニ似たる石、或(あるひは)白、或赤(あかし)。』前注で述べた通り、これは「續日本後記」(仁明天皇の代である天長一〇(八三三)年から嘉祥三(八五〇)年までの十八年間を記す。藤原良房らによって貞観一一(八六九)年に完成。編年体・漢文・全二十巻)の「卷八」の「承和六年十月乙丑【十七】」の以下。「J-TEXT」の本文データを一部加工して示した。

   *

乙丑。出羽國言。去八月廿九日管田川郡司解稱。此郡西濱達符之程五十餘里。本自無石。而從今月三日。霖雨無止。雷電鬪聲。經十餘日。乃見晴天。時向海畔。自然隕石。其數不少。或似鏃。或似鋒。或白或黑。或靑或赤。凡厥狀體。鋭皆向西。莖則向東。詢于故老。所未曾見。國司商量。此濱沙地。而徑寸之石自古無有。仍上言者。其所進上兵象之石數十枚。收之外記局。

   *

ここは「續日本後記」の原文で注する。

・「承和六年」は八三九年。

・「八月廿九日」はユリウス暦で八三九年十月十日、グレゴリオ暦換算では十月十四日。

・「田川郡」現在の山形県東田川郡・鶴岡市及び酒田市の一部(概ね、最上川以南)などに相当する地域。

・「西濱」前の注と矛盾するが、現在の山形県飽海(あくみ)郡遊佐町(ゆざまち)吹浦(ふくら)字西浜附近ではないか。ここ(グーグル・マップ・データ)。古い時代の田川郡域はこの辺りも含まれていたか、或いはただの誤認か。

・「符」野島出版脚注に『竹又は木の上にしるしとすべき文字をかき、之を割りて彼我各半分を所持し、他日ある時、合わせて証拠とするもの』とある。

・「本自無石」この浜にはもともと転石は皆無の純粋な砂浜海岸であったというのである。

・「今月三日」同年の八月三日はユリウス暦九月一四日、グレゴリ暦換算で九月十八日「北越奇談」本文は「十三日」とするが、これだと、ユリウス暦九月二十四日、グレゴリオ暦換算で九月二十八日

「三代實錄」「日本三代實錄」。六国史の第五の「日本文徳天皇実録」を次いだ最後の勅撰史書。天安二(八五八)年から仁和三(八八七)年までの三十年間を記す。延喜元(九百一)年成立。編者は藤原時平・菅原道真ら。編年体・漢文・全五十巻。

「仁和(にんわ)元年六月廿一日、出羽國秋田城(あきたのしろ)及(および)飽海郡(あくみごほり)神宮の西濱に石鏃を降(ふら)す」仁和元年は八八五年。以下。同前の「六国史」データに同じ仕儀を施した。これは「卷四十八」の「仁和元年十一月廿一日辛丑」の条に挿入される形で記された記事である。

   *

去六月廿一日、出羽國秋田城中及飽海郡神宮寺西浜、雨石鏃。陰陽寮言。當有凶狄陰謀兵亂之事。神祇官言。彼國飽海郡大物忌神・月山神、田川郡由豆佐乃賣神、倶成此恠。祟在不敬。

   *

「六月廿一日」ユリウス暦八月五日、グレゴリオ暦換算で八月九日

「同二年、出羽國飽海郡諸神社の辺(ほとり)に石鏃を降す」同書の「卷四十九」の以下の「仁和二年四月十七日丙寅」の記載。

   *

十七日丙寅。令出羽國愼警固。去二月彼國飽海郡諸神社邊、雨石鏃。陰陽寮占云。宜警兵賊。由是、預戒不虞。

   *

「仁和二年四月十七日」はユリウス暦八八六年五月二十四日、グレゴリ暦換算で五月二十八日

「火打石」玉髄質の石英から出来た堅硬な岩石。断面は貝殻状を呈し、鋭い稜を有する。原始時代より石器材料とされてきた。地質学的にはチャートの一種で、生物起原或いは無機起原の堆積性珪質岩。

「石亭(せきてい)」奇石収集家で本草学者の木内石亭(きうち/きのうち せきてい 享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)。幼名は幾六。諱は重暁(しげあき)。近江国志賀郡下坂本村(現在の滋賀県大津市坂本)の捨井家に生まれるが、母の生家である木内家の養子となった。安永四(一七五一)年に大坂に赴き、津島如蘭(桂庵)から本草学を学んだ。津島塾では稀代の本草学者でコレクターの木村蒹葭堂(けんかどう)と同門であった。宝暦六(一七五六)年には江戸に移って田村元雄(藍水)に入門、平賀源内らと交流した。十一歳の頃から珍石奇石に興味を抱き、諸国を精力的に旅して、二千種を超える石を収集した。収集した奇石の中には鉱物・石製品・石器・化石も含まれており、分類や石鏃の人工説をも唱えていることから考古学の先駆者とも評される。また、弄石社を結成して諸国に散らばっている愛好家達の指導的役割をも果たした。著作に私の偏愛する「雲根志」(十六巻。(安永二(一七七三)年に前編を、安永八(一七七九)年に後編を、享和元(一八〇一)年に三編を刊行)「奇石産誌」などがあり、シーボルトが著書「日本」を記すに当っては石器や曲玉についての石亭の研究成果を利用している(以上は主にウィキの「木内石亭」に拠った)。崑崙とは同時代人。

「是、又、論ずるに足らざるの説なり」驚くべきことに、崑崙は石鏃を実用目的の鏃(やじり)として全く認めていないことがここではっきりと判る。直後に「石鏃上品なるもの」は「弓に矧(は)げて用ひたる物にはあらず」(「矧ぐ」は「弓に矢を番(つが)える」こと。)と断じているのである。そうして、その理由として「石鏃」の中に、捕獲対象生物の体に到底深く刺さるとは思えない形状のものが沢山あるからだ、と具体的な図を示して証左としているのである。なお、私は、その崑崙の理屈は殆んど説得力を持たないと考えている。鏃は尖っていればいいというものではない。狩猟対象生物を殺す以外にも鈍体の鏃で対象生物を弱めておいて捕獲し、それを生きた状態で捕獲して暫く生かしておいたり、家畜化する場合もあるし(縄文人は犬を既に家畜化しており、死んだ犬を人間のように埋葬したりもしている)、後の犬追物(いぬおうもの)のように、単なる遊戯として殺すことなく、射弓を楽しんだ(練習した)こともあったろう。さらに言えば、高い梢の木の実を収穫するのには開いた鈍体の鏃の方が有効でさえある。ともかくも「尖っていなければ鏃ではあり得ない」という崑崙の持論は実用的科学的にも認められない主張である。

「或人、是は自然にしてなるものと云へり。是れ、莊子の見(けん)か。何にもせよ、おのれが智に及びがたきものは、皆、自然とさへ云(いへ)ば濟むやうなものなれど、物理を明(あきらか)にせんと思ふ。才氣もなく、先愚(せんぐ)に近き達論(たつろん)と云ふべし。是も、自然に成るものならば、鏃(やじり)の形のみに限るべからず。或は鉾鎗(ほうそう)・鈇鉞(ふえつ)・刀劔・戈戟(くはんくは)・鋤鎌(じよれん)・鋸刃(きよじん)等(とう)、其余(よ)、種々(しゆじゆ)の形もあるべし」面白いのは、崑崙はここで「石鏃を全く自然に形成されたものだ」とする考えも、「荘子の無為自然じゃああるまいし、あり得ない!」と拒否しているのである。しかし、どうも、「では、崑崙先生、石鏃は誰が何のために作ったのですか?」というストレートな疑問に彼ははっきりとは答えていないのである。実は最後まで読むと、どうも実は意外なことに、

崑崙は鬼神が石鏃を創ったと大真面目に信じている

らしいのである! それが次の「予是を按ずるに、鬼神(きしん)の説、明かなり」ではっきりと示されるのである!

「石弩(せきど)」一般には「弩」は「おおゆみ」のことで、専用の矢を板発条(いたばね)の力で弦により発射する大型の強力な弓。西洋で用いられた弓の一種であるクロスボウ(crossbow)とほぼ同一のものを指すが、ここは李時珍の「本草綱目」の「砭石」(へんせき:中国の鍼術で用いる石製の針の原材料の石か。焼いて血管を刺して瀉血などに用いた)に出る矢に使用するという青い自然石(後で「石弩は群石(ぐんせき)の内より、自然に片々として割飛(われと)ぶ」とあるから人工物ではない)。後注で当該部を引用した。

「霹靂石・霹靂楔・霹靂堪・雷斧、皆、此邦にあり。是は人作なるべし」この文脈には疑問がある。この頭に「霹靂石」を出し、それを「人作」としながら、その舌の干(ひ)ぬ間に直下で「霹靂石は自然也」と言っているからである。ここは一応、好意的に前のそれは衍字として無視し、後者はそれらの人造石器の原料としての「霹靂石」は「自然」石であると読んでおく。しかし、そんなこと、普通はわざわざ言わない。それを考えると、どうもやっぱり、崑崙は確信犯で鬼神の存在を肯定していることが判るのである。

「石弩」一般には「弩」は「おおゆみ」のことで、専用の矢を板発条(いたばね)の力で弦により発射する大型の強力な弓。西洋で用いられた弓の一種であるクロスボウ(crossbow)とほぼ同一のものを指すが、ここは李時珍の「本草綱目」の「砭石」に出る矢に使用するという青い自然石(後で「石弩は群石(ぐんせき)の内より、自然に片々として割飛(われと)ぶ」とあるから人工物ではない)。後注で当該部を引用した。

「霹靂石・霹靂楔・霹靂堪・雷斧、皆、此邦にあり。是は人作なるべし」どうもここがよく判らぬ。これらを人工物であると素直に認めている崑崙は、どうして石鏃類だけを除外して何とも言えない意味深長な形で留保しているのだろう? 前の土底村での怪奇体験から超自然現象としてそれを特別視しているとするには、どうも、これ、崑崙らしくなく、ありそうもない。或いは、土底での体験の背後に自分を騙す人為が働いていたのではないかという深い猜疑を持ってしまった彼が、「騙されるのだけはは癪に障って許されない」と、怪しい石鏃の起原だけを妙な形で棚上げにし、留保してしまったのかも知れない。ただ、この文脈には疑問がある。この頭に「霹靂石」を出し、それを「人作」としながら、その舌の干(ひ)ぬ間に直下で「霹靂石は自然也」と言っているからである。ここは一応、好意的に前のそれは衍字として無視し、後者はそれらの人造石器の原料としての「霹靂石」は「自然」石であると読んでおく。しかし、そんなこと、普通はわざわざ言わない。それを考えると、どうもやっぱり、崑崙にはある心理的な抑圧、「騙されるのだけは厭!」というやや病的な意識が作用しているようにも思われてくるのである。

「石弩は群石(ぐんせき)の内より、自然に片々として割飛(われと)ぶ。しかれば、此邦(くに)、石鏃の類にはあらざるべし」先に出た中国の本草学上の「石弩」を石鏃と比較し、それとは違うと否定しているのであるが、何だかひどく歯切れが悪い言い方である。

「雲母石」雲母。アルカリ金属・アルカリ土類金属・鉄・アルミニウムなどを含むケイ酸塩鉱物。多くは単斜晶系で六角板状の結晶。薄く剝がれ、光沢を持つ。白雲母・黒雲母・鱗雲母(りぬんも)など、二十数種がある。各種岩石の造岩鉱物として広く存在する。

「石燕(せきえん)」は二枚の前後の殻を持つ海産の底生無脊椎動物(左右二枚の殻を持つ斧足類を含む貝類とは全く異なる生物)である冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda に属する腕足類の化石。石灰質の殻が「翼を広げた燕(つばめ)に似た形状」であることからの呼称。表面には放射状の襞があって、内部に螺旋状の腕骨がある。古生代のシルル紀から二畳紀にかけて世界各地に棲息した(当該時代の示準化石)。中国ではその粉末を漢方薬として古くから用いた。“Spirifer”(ラテン語:スピリフェル)とも呼ぶ。いつか電子化注して見たいと思っているが、南方熊楠にはこれを考証した優れた伝承論考「燕石考」がある。

「荊州」楚の古名。現在の湖北省一帯。

「梁州」現在の四川省と陝西省漢中地方に相当する地域。

「肅愼國(しくしんこく)」満州(中国東北地方及びロシア沿海地方)に住んでいたとされるツングース系狩猟民族が住んでいた地域の名称。この呼称は周代から春秋戦国時代の華北を中心とする東アジア都市文化圏の人々(後に漢民族として統合されていく前身となった人々)が彼ら(粛慎人)の自称を音訳したものである。位置は参照したウィキの「粛慎」で確認されたい。

「靑石(あをいし)を以て矢に作る、とあり」この箇所の引用元は「本草綱目」の「石部第十卷 金石之四」「砭石」の「附錄」と思われる。

   *

石砮。時珍曰、「石砮出肅愼。國人以枯木爲矢、靑石爲鏃、施毒、中人卽死。石生山中。禹貢荊州、梁州皆貢砮、卽此石也。又南方藤州、以靑石爲刀劍、如銅鐵、婦人用作環玦。琉璃國人墾田、以石爲刀、長尺餘。皆此類也。

   *

「甚だ訝(いぶか)しき説也。此人、猥(みだり)に此論を成せりと覺ゆ。笑ふべきの甚だしきなり。」崑崙は実証主義者ではあるが、ここまで他人の引用は殆んどが徹底的に批判し否定するため、自論の餌食として引いていることが判る。案外、付き合いにくい人物だったかも知れぬ。

「かの呉人(ごひと)、燕石を包(つゝみ)て玉(たま)と成せる」出典未詳。識者の御教授を乞う。

「陸奥津輕石」津軽錦石のことか。碧玉・玉髄・瑪瑙に代表されるケイ酸質(SiO2)が主体の岩石・鉱物で多彩な色彩を持ち、錦織りのように非常に美しい。津軽の海浜に打ち上げられ、古くから高級加工材とされてきた。国名・地名を名産品に添える例として述べた。

「落星石(らくせいせき)」「星銷(ほしくづ)」以下の叙述から隕石と読める。

「左傳」「春秋左氏傳」。孔子の編纂と伝えられる五経の一つである史書「春秋」の代表的な三つの注釈書の一つ(他は「春秋公羊(くよう)傳」「春秋穀梁傳」)。紀元前七百年頃から凡そ二百五十年もの間の歴史が記されている。伝統的には孔子と同時代の魯の太史左丘明の注釈とされるが、怪しい。

「星、落(おつ)ること如ㇾ雨(あめのごとし)」例えば「春秋左氏傳」の「僖公」にデータ(秦鼎「春秋左氏傳校本」と「漢籍國字解全書」を参考としたものとある)を使用させて戴いた。「春秋左氏傳」は所持するが、このサイトのこのデータがこの注には最も相応しい)、

   *

十有六年、春、王正月、戊申、朔、隕石于宋、五。隕、落也。聞其隕視之、石。數之五。各隨其聞見先後而記之。莊七年、星隕如雨、見星之隕、而隊於四遠、若山若水、不見在地之驗。此則見在地之驗、而不見始隕之星。史各據事而書。

   *

とある。リンク先の訓読の一部を加工させて示すと、

   *

十有六年、春、王の正月、戊申(つちのえさる)、朔、石、宋に隕(お)つること、五つ。「隕」は、「落つる」なり。其の隕つるを聞きて之れを視れば、石なり。之れを數ふれば、五つなり。各々、其の聞見(ぶんけん)の先後(せんご)に隨ひて之れを記すなり。莊七年、星隕ちて雨(あめふ)るは、星の隕ちて、四遠に隊(お)つるを見るに、若しくは山、若しくは水、地に在るの驗(しるし)を見ず。此れは、則ち、地に在るの驗を見て、始めて隕つるの星を見ず。史、各々、事に據(よ)りて書(しよ)すなり。

   *]

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