北越奇談 巻之一 龍力 / 巻之一~了
龍力(りうりき)
文化三丙寅(ひのえとら)六月廿七日未ノ上刻、晴天、俄に一輪(いちりん)の雲起(おこり)て、大風(たいふう)驟雨、白日(はくじつ)、忽、闇夜(あんや)のごとくなりしが、此の日、北國(ほつこく)の舩(ふね)、米穀八百石を積みて、島見(しまみ)の沖を過ぎけるが、怪雲、常ならず、風、裏帆を吹(ふき)絞り、舟(ふね)の進退、自由ならず。船頭、揖取に手繩(てなは)を引かせ、風を間切(まぎつ)て、沖の方へ漕出(こぎいだ)さんとするほどに、忽、四條の黑雲(こくうん)、舟の前後に曳(ひき)下(くだ)りて、波、次第に沸立(わきたち)たれば、舩の老父(おやぢ)、大きに驚き、
「是は正(まさ)しく、龍卷の此所(ところ)に下(くだ)るなるべし。只には逃れがたかるべし。」
とて、俄に早舟(てんま)一艘引おろし、九人の者ども、急ぎ、乘移(のりうつ)り、手ン手に櫓を推早(おしはや)め、十丁ばかりも過(すぎ)たる頃、四條(よぢやう)の黑雲、打捨たる舟の前後に渦巻くほどこそあれ。
白浪(しらなみ)高く湧(わき)上(あが)り、怪風、難なく、舩を巻(まき)て水際(みづぎは)四、五丈ばかりも曳上(ひきあ)げ、立(たて)さまに落しければ、舟は微塵に割碎(さけくだ)けて、水底(すいてい)に入る、と見へしが、百雷の落(おつ)るごとく響(ひゞき)渡り、龍(りやう)は南を指して登り去りぬ。
九人の舟者(しうしや)、漸(やうや)く浦に漕ぎ近付(ちかづき)ければ、其浦々の人々、多く漁舟(ぎよしう)にうち乘り、迎ひ來たりて、助け歸りぬ。
此日、遠く是を望(のぞみ)たるは、
「五條の黑雲、海上に引下(ひきくだ)りたり、と見へしが、半時(はんじ)ばかりの間(あいだ)に、大雨(たいう)、木(こ)の葉を飛(とば)せて吹(ふき)來りぬ。されども、龍(りやう)は海邊(かいへん)に添ふて過(すぎ)たりと覺(おぼえ)て、此時、寺泊(てらどまり)の山東(さんとう)、人家を卷上げ、行人(こうじん)を引立(ひきたて)、數十丁(すじつてう)、持去(もちさ)りし。」
と云へり。
同日、新潟の湊口(みなとぐち)にても、大舩(たいせん)を吹倒(ふきたを)せし、と云へり。
總て、北越、夏の夕(ゆふべ)、驟雨する時は、小魚(しようぎよ)・水蛭(すいしつ)なんど、雨と共に下(くだ)る。龍の、江河池水(こうがちすい)抔(など)、巻來(まききた)ること、明かなり。然(しか)れども、海潮(かいてう)を卷來る時、雨の塩の氣味(きみ)無きも、奇なり。
只、龍(りやう)の神變(しんへん)、一滴の水をもつて大雨(たいう)となせり。其奇、可ㇾ知。
北越奇談巻之一終
[やぶちゃん注:「文化三丙寅(ひのえとら)六月廿七日」グレゴリオ暦一八〇六年八月十一日。因みにこれは本書刊行の六年前である。
「未ノ上刻」午後一時過ぎ。
「一輪(いちりん)の雲」という表現に竜巻のニュアンスが既に感じられる。
「八百石」野島出版脚注に『六十キロ』グラム『入約四千袋』とある。
「島見(しまみ)」現在の新潟県新潟市北区島見町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。新潟港の手前、阿賀野川の右岸の北。「島見」の島は佐渡であろう。
「揖取に手繩(てなは)を引かせ」「手繩」は帆を手動で微妙に調節しながら引くことか。
「風を間切(まぎつ)て」風の納まった瞬間を狙っての謂いか。そのためには、「手繩」をずっと持ち続けていて素早く引いたり、押したりせねばならぬから、まえの解釈がしっくりくるのである。
「早舟(てんま)」伝馬船(てんません)。廻船などに搭載されて付属する船(親船・本船)と陸上との間の荷役・連絡や漕走機能のない親船の出入港時の曳航などに用いた。参照したウィキの「伝馬船」によれば、『親船の積荷がないときは船体中央胴の間にある伝馬込に、積荷があるときは船首の合羽上に搭載されるか曳航され、特に船上に搭載場所がなかった軍船の場合は曳航が行われた。親船が廻船の場合、百石積以上の船に搭載され、親船の』三十分の一『の規模が標準とされた。廻船では、檣(ほばしら、帆柱)・楫(かじ、舵)とともに』「三つ道具」或いは帆桁を加えて「四つ道具」と『称され、必ず装備する付属品』であった。『千石積の廻船の場合、三十石積の伝馬船を装備しており、全長は』四十尺(約十二メートル)、六丁又は八丁の櫓を『推進具とし、打櫂・練櫂・帆を装備するものもあった。伝馬船は船幅よりも長いことが多かったため、船首尾は両舷から突出していた』とある。
「十丁」約一キロメートル。
「四、五丈」約十二~十五メートル。
「立(たて)さま」舳か艫を上に縦様に成して。
「百雷の落(おつ)るごとく響(ひゞき)渡り」電光を描出していないから、竜巻を起している積乱雲の中の見えないところで激しい雷が発生しているのであろう。
「其浦々」先の島見の附近の漁師ら。
の人々、多く漁舟(ぎよしう)にうち乘り、迎ひ來たりて、助け歸りぬ。
「此日、遠く是を望(のぞみ)たるは」「たる人は」ととって、後を直接話法とした。
「寺泊(てらどまり)」新潟湊のずっと南方。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「山東(さんとう)」上記のリンク先を航空写真に切り替えると、寺泊は海浜まで丘陵域が迫っていることが判るから、その東側の山麓部を指して言っているのであろう。
「數十丁(すじつてう)」六掛けすると六キロメートル半にもなってしまうので、ここは「十數町」で採り、一・七キロメートルぐらいにしておこう。
持去(もちさ)りし、と云へり。
「水蛭(すいしつ)」環形動物門ヒル綱 Hirudinea の蛭(ひる)類。陸産のものでもよいが、ここはかつては田圃や池沼に多く見られた吸血性のヒル綱顎ビル目ヒルド科チスイビル属チスイビル Hirudo nipponica ととってよかろう。
「龍(りやう)の神變(しんへん)、一滴の水をもつて大雨(たいう)となせり」崑崙は龍の実在性を疑っているようであるが、取り敢えずは、怪奇談の体裁を壊さぬように、龍はたった一滴の水さえあれば、恐るべき天変地異を齎すことが出来る存在であると結んで一巻を終えている。お美事!!!
「可ㇾ知」「しるべし」。]