北越奇談 巻之三 玉石 其八・其九(白玉環・勾玉・管玉)
其八
柏崎の西南、海岸に臨みて、三十番神(ばんじん)の社(やしろ)あり。過(すぎ)し頃、此山の梺(ふもと)を掘りて一ツの壷を得る者あり。内、皆、赤土(せきど)。是を海潮(かいてう)に洗ひば、其内、白玉環(はくぎよくくはん)一双・勾玉(まがたま)・管玉(くだだま)等、數品(すひん)、有(あり)。皆、小児(しように)等(ら)に分かち與(あた)ふ。後(のち)、知れる者あり。漸々(やうやう)にして、その品(ひん)、五ツ六ツを得ると雖も、其余(そのよ)、所在を失(しつ)す。惜しむべきの甚(はなはだし)シきなり。予偶々(たまたま)、是を見るに、靑緑(せいりよく)・白色(はくしよく)、奇玩、絶品なり。密(ひそか)に按ずるに、昔より、帝都の乱を避けて、貴人(きにん)の北越に逃(のが)れ住める者、甚(はなはだ)多し。今、その系跡(けいせき)、定(さだ)かならずと雖も、是等も、其人を葬(ほうむ)れる地なるべきか。
[やぶちゃん注:現在の柏崎市番神二丁目に現存する「番神堂(ばんじんどう)」(柏崎市指定文化財・有形文化財・建造物に指定)。柏崎市公式サイト内のこちらによれば、これは柏崎市西本町にある日蓮宗妙行寺(みょうぎょうじ)の境外仏堂で、文永一一(一二七四)年に日蓮が佐渡流罪から赦免された帰り、三十番神(後注参照)の霊を請じ迎えて祀ったものと伝えられているものとある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「三十番神」国土を一ヶ月三十日(旧暦は大の月が三十日)の間、交替して守護するとされる三十の神。神仏習合に基づいた法華経守護の三十神(先の崎市公式サイト内の柏崎市のページに、その総ての神名とその祭日の一覧が載る)が著名。初め、天台宗で、後に日蓮宗で信仰された。
「白玉環」軟玉(なんぎょく:nephrite:ネフライト:翡翠のなかで硬度の低い、半透明で乳白色を呈したもの)で作った環状の装飾品。腕輪・指輪・耳輪などにするものの、特に中国では古えより男子が腰に帯び、それを狭義に「玉環」とも呼んだ。但し、ここはそれに限定する必要はない。
「勾玉」コンマ形に湾曲した弥生・古墳時代の装飾用の玉。丸い部分の貫通孔に紐を通して首飾りとした。瑪瑙・翡翠・水晶・琥珀・ガラスなどで作った。獣類の歯牙に孔(あな)をあけたものに起源をもつといわれ、縄文時代にも不整形のものがある(「大辞泉」の記載)。
「管玉(くだだま)」「くだたま」とも。ウィキの「管玉」によれば、『管状になっている宝飾装身具の部品、ビーズの一形態で、管に糸を通して腕飾り(ブレスレット)や首飾り(ネックレス)などとして』現代でも『用いられる。古代においてはガラスも含む希少な宝石(宝玉)から作られたので、漢字文化圏では別の形状である曲玉・とんぼ玉とともに「ビーズ」に代えて「玉」(ぎょく)名で分類する』。『日本では、縄文時代からみられ、今日と同じように腕飾りや首飾りなどとして用いられていたものとみられる。古墳時代にあっては、古墳の副葬品となることが多かった。遅くも奈良時代までに』、『宝飾部品としての製作は一旦』、『途絶している』以下は、『主に日本古代におけるものについて』の解説。『形状は、縄文時代のもの』は、その側面が、やや、『楕円形を呈するのに対し、弥生時代以降のものは正円筒形をなしている』。『素材は、ガラス・碧玉・滑石・凝灰岩などが多い。礫石を採取する場合と原石を採取する場合があり、管玉製作地』『は、原石産出地や原石の採取可能な海岸の比較的近くに立地することが多い』。『用途としては、首飾り、胸飾り、腕飾りなどの装身具としてであるが、縄文時代など時代をさかのぼるにつれ、美しく飾るというよりはむしろ呪術的な意味合いが強かったものと考えられる』。『装身具として利用するために紐を通すための孔(あな)をあける必要がある。そのための穿孔具としては、竹、鳥類の骨、極細の石製のドリル(石錐)や鉄製ドリルなどがあった。竹・鳥骨はじかに素材玉にあてて穿孔したが、ドリルの場合は細長い管の先に取り付けられて回転させることによって穿孔する』。『ドリルを用いた穿孔技術としては』、『管に錐(ドリル)をあてて直接両手でもみこむ揉錐(もみきり)技法』、『弓の弦に管を巻き付け、弓を左右に動かすことで錐(ドリル)を回転させる弓錐(ゆみきり)技法』、『管を弓の中央の孔に通し、弦を管に螺旋状に巻き付けて、弓を上下に動かすことによって錐(ドリル)を回転させる舞錐(まいきり)技法』『があった』と推定されている。『なお、これに際しては、木材でつくった固定板を用意し、中央に穴をあけて粘土を詰め、そのなかに素材の玉を埋め、さらに固定板を足で押さえるなど材料・工具をともに固定する手立てが講じられ、さらに、ドリルの回転の際には摩擦材として硬く微細な砂をまくなどの工夫が施された』『。仕上げ段階ではさらに全体に研磨が施されてひとつひとつの管玉が完成したものと考えられる』とある。
「昔より、帝都の乱を避けて、貴人(きにん)の北越に逃(のが)れ住める者、甚(はなはだ)多し。今、その系跡(けいせき)、定(さだ)かならずと雖も、是等も、其人を葬(ほうむ)れる地なるべきか」これが崑崙の歴史認識の限界を示している。これらは恐らく、古墳時代(三世紀中頃から七世紀頃)の地方豪族の古墳の副葬品と思われる。]
其九(く)
寺泊より東一里、竹森(たけもり)と云へる所、古き砦の跡ありて、角櫓(すみやぐら)と覺しき所、尤(もつとも)高く、方(ほう)なり。此村の中(うち)、路(みち)・堤(つゝみ)など、傷(いた)み損ずる時は、必ず、其櫓の土を採りて、是を補ふ。過ぎし頃、土中(どちう)深く掘り穿(うが)つに、白玉の勾玉(まがだま)一つ、出(いず)ス。甚だ、常に見るよりは、大なり。後、其(その)得たる者、東武に行(ゆき)て、これを失(しつ)す。
[やぶちゃん注:原典はこの位置に挿絵(崑崙自筆)が載る。記載内容から、これらは総て、前者「其八」の出土品である。]
[やぶちゃん注:「寺泊より東一里、竹森(たけもり)と云へる所」現在の越後線寺泊駅のある新潟県長岡市寺泊竹森。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在の町域はまさに寺泊港から東南東に四キロ離れた位置にある。
「角櫓(すみやぐら)」城郭の隅に立てた櫓のことであるが、これは方墳か崩落した前方後円墳の一部を指しているのではあるまいか? 同地区には室町期の城塞跡もあるが、他にも古墳時代或いはそれ以前とされる竹森上向遺跡及び中向遺跡が存在する。「新潟県埋蔵文化財包蔵地一覧表」(PDF)の四ページ目の右「遺跡台帳 長岡市(6)」の冒頭の遺跡番号「1073」番から「1198」番(連番ではないので注意)までの十五箇所が総て竹森地区内である。]
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