北越奇談 巻之四 怪談 其十(山男)
其十
[やぶちゃん注:葛飾北斎の挿絵。右上に「山男 衆人に交て よく人語を解す」とある。今回も、見開きの絵を合成し、四方の枠を除去した。囲炉裏端の縁と板敷の目が合わないが、北斎独特の煙の曲線のみを整合させることを優先した。]
妙髙山・黑姫山(くろひめざん)・燒山(やけやま)、皆、高山(かうざん)なり。それより、万山(ばんざん)相重(あいかさな)り、信州・戸隱・越中立山に至るまで、數(す)十里に連(つらな)り渡りて、その深遠(しんえん)、云ふべからず。髙田藩中、數千家(すせんか)の薪(たきゞ)、皆、此山中(さんちう)より伐出(きりいだ)すことなり。凡(およそ)、奉行より木挽・杣(そま)の輩(ともがら)に至るまで、各(おのおの)誓(ちかつ)て曰(いわく)、
「山小屋の在中、如何なる怪事ありとも、人に語るべからず。」
となり。
一年(ひとゝせ)、升山(ますやま)某(それがし)、此(この)役に當たりて、數日(すじつ)、山小屋にありしが、夜々(よるよる)、人々、打寄(うちより)、火を焚くこと、不ㇾ絶(たへず)。これを圍(かこ)みて、炉にあたる。
しかるに、山男(やまおとこ)と云ふもの、折節、來りて、焚火にあたり、一時(いちじ)ばかりにして、去(さる)。
其(その)形、人倫に異なることなし。赤髮(せきはつ)、裸身(はだかのみ)、灰黑色(はいくろいろ)。長(たけ)八尺あまり。腰に草木(そうもく)の葉を着(つく)る。
更に、物言(ものい)ふことなけれども、声を出(いだ)すこと、牛のごとし。又、よく、人の言語(ごんご)を聞(きゝ)別(わ)くる。相馴(あいなれ)て、知る人のごとし。
一夕(いつせき)、升山氏(うじ)、是に謂(いひ)て曰(いはく)、
「汝(なんぢ)、木葉(このは)を纏(まと)ふは、其(その)恥(はづ)る所を、知る。火にあたるは、寒(さむさ)を恐(おそ)るゝ也。然(しから)ば、汝、夏冬となく、裸身(はだかみ)にして、寒暑、堪(たえ)たると云ふにもあらず。何ぞ、獸皮を獲(と)りて、暖身(あたゝか)に身を纏はざるや。」
と。
山男、つくづく、是を聞(きゝ)て、去る。
扨(さて)、翌夜(よくや)、忽(たちまち)、羚羊(しらしゝ)二疋を両(ふたつ)の手ニ提(さ)げて來(きた)り、升山が前に置く。
升山、其意(こゝろ)を悟り、短刀を拔き、その皮を取りて、山男に與ふ。
山男、頻りに口を開き、打笑(うちわら)ひ、喜び、去(さる)。
それより二夜(にや)過(すぎ)、又、小熊(こぐま)一ツ、兎一ワを持來(もちきた)りて、是を小屋の中(うち)に投げ入(いれ)て去(さり)しが、已にして、又、來(きた)る。人々、是を見れば、先(さき)の皮、一枚は背を覆ひ、藤(ふぢ)を以つて繫(つな)ぎ合(あは)せ、一枚は腰を纏ふたれ共、生皮(なまかは)をそのまま着たる故、乾くに隨(したがつ)て縮み寄り、硬張(こはばり)たり。
皆皆、打笑(うちわら)ひ、依ㇾ之(これによつて)、熊の皮を取り、十文字に刺す。竹を入れ、小屋の軒に下げて、その製(せい)し方(かた)を教へ、升山、又、是(これ)に山刀(やまがたな)【長一尺ばかり、白鞘(さや)なり。】一丁を與へて歸らしむ。
其後(そののち)、數日(すじつ)、不ㇾ來(きたらず)と云へり。
予是を聞(きゝ)て按ずるに、凡(およそ)、山男・山女(やまおんな)と云へるは、鬼神(きしん)の術(じゆつ)あるがごとく言傳(いひつた)へたれど、全く左(さ)にはあらざるべし。卽(すなはち)、山中自然の人種にして、言語(げんぎよ)、習ふことなければ、言はず。服(ふく)、製することを知らざれば、裸なる者にして、只(たゞ)、夷地(いち)五十年前(ぜん)の風俗に同じく、愚(ぐ)の甚しき者なるべし。よく、是にも、人道のてだてを教(おしへ)ば、如何(いか)ならんと思ふのみ。
予文化甲子(きのえね)の夏、信州に遊び、虫倉山(むしくらやま)と言(いへ)る高山(こうざん)に登(のぼり)て、山女の住(すみ)たる洞(ほら)を見たり。凡(およそ)、三洞(さんどう)あり。古洞(こどう)は谷を隔(へだて)て古木(こぼく)林中(りんちう)にあり。山燕(やまつばめ)の巣、甚だ多し。今洞(こんどう)と云ヘるは、其上(そのうへ)、絶壁の中腹に在(あり)て、下より仰見(あふぎみ)ること、數(す)十丈、かの山女は見へざれども、洞(ほら)の口(くち)、草苔(くさこけ)の打ち生(はへ)るなく、甚だ奇麗(きれい)なり。如何にも住(すめ)る者、あるがごとし。雪中には、山の中(うち)、大なる足跡ありと云へり。
[やぶちゃん注:以上は以前に、「想山著聞奇集 卷の貮」の「𤢖(やまをとこ)が事」で電子化したものをブラシュ・アップし、注を新たに附した。上記リンク先も参照されたい。また、こちらのブログ記事も本邦の山人(さんじん)・山男関連の記事をよく蒐集して纏めておられる。
「妙髙山」(めうこうさん)は現在の新潟県妙高市にある。標高二千四百五十四メートル。
「黑姫山(くろひめざん)」現在の長野県上水内(かみみのち)郡信濃町(まち)にある黒姫山(くろひめやま)。標高二千五十三メートル。妙高山頂上からは直線で南南東九キロ弱であるが、やや気になるのは、ここは高田藩領ではない点である。山入伐採権を持っていたものか? 高田藩は一時、幕府領となっていた時期があり、黒姫山は天領も多いから、その関係もあるのかも知れない。識者の御教授を乞うものである。
「燒山(やけやま)」新潟県糸魚川市大平焼山。妙高山の西北七・七キロメートル弱。この地図で三つの山を確認出来る(グーグル・マップ・データ)。
「髙田藩」福嶋藩(ふくしまはん)とも呼ばれ、藩庁は高田城(現在の新潟県上越市)にあった。
「木挽」伐り出された木を大鋸(おおが)で材木にする木挽き職人。
「杣(そま)」単に木を伐り出す木樵(きこ)りかと思ったが、野島出版脚注に『山に樹木を植え付けて生長させた山を杣山という。この杣山の木を伐る役目の人を杣といった』とある。
「升山(ますやま)某(それがし)」不詳。
「一時(いちじ)」一時(いつとき)で現在の二時間であろう。
ばかりにして、去(さる)。
「八尺」二メートル四十二センチ。
「羚羊(しらしゝ)」鯨偶蹄目反芻亜目 Pecora 下目ウシ科ヤギ亜科ヤギ族カモシカ属ニホンカモシカ Capricornis crispus のこと。
「文化甲子(きのえね)」文化元(一八〇四)年。
「虫倉山(むしくらやま)」現在の長野県長野市中条(なかじょう)御山里(みやまさ)にある虫倉山。ここ(グーグル・マップ・データ)。この中条地区には山姥伝説がある。
「夷地(いち)」野島出版版は『いぞち』とあるが、原典画像では「ぞ」は痕跡も見えない。「蝦夷(えぞ)地」。]
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