北越奇談 巻之一 鬪龍
鬪龍(とうりやう)
寛政三辛亥(かのとゐ)年(どし)八月朔日、信川(しんせん)の西江戸巻の傍(かたはら)にいさゝかなる池水(いけみづ)あり。しかるに此日、忽(たちまち)、西北(にしきた)の風、激しく吹來りて、一点の黑雲(こくうん)、その水面(すいめん)に落(おつ)ると見へしが、百雷一度に轟き起り、黑雲、田野に敷き、ニツの龍火(りやうくは)、水上(すいじよう)に戰ひ、東に追ひ、北に返して囘轉すること、風車(ふうしや)のごとく、霆雷(いなびかり)、四方に閃(ひらめ)き、その響、地軸を動しけるが、忽(たちまち)、怪風、左右に吹分れ、暴雨、盆を傾(かたふ)け、其疾(とき)こと、百千の𥅄(ど)を放(はなつ)がごとく、拳(こぶし)の太さなる氷塊を交(ま)じへ、飛(とば)す。一たび、是(これ)に觸るゝ者は皮肉を破り、骨を碎(くだ)く。烈風の過(すぐ)る所、家を傾け、木を穿ち、石を轉(まろば)し、土を覆す。急雨の過(すぐ)る所、壁を通し、戸を倒して、平地、忽、江河となせり。一龍(いちりやう)は東を指して稻麻(とうま)を千切り、村屋(そんおく)を亂して、栗林(くりばやし)と云へる村下(むらのほとり)を過(す)ぎ、加茂の山邊(やまべ)に添ふて登る。一龍は信川を上(のぼ)りに、三條の町端を過ぎ、堤(つゝみ)の上なる土藏を押(おし)、茶店(さてん)を倒し、南を指して飛去(とびさ)りしが。又、半空(はんくう)より引返して、山手の方を北に巡り、何くとも至る所を知らず。總て其行過(ゆきすぐ)る村落・田野、大小となく、人家草木に害なきはあらじ。殊に甚しきは、信川の邊(ほとり)栗林の前後にして、其餘、二、三里には過(すぎ)ざるものなり。予は此頃、いまだ池端(ちたん)にありて、其日は殊に、八朔(はつさく)の空、豐かなりしかば、田家(でんか)に祝宴し侍りけるに、翌日早天(さうてん)、加茂の近村より飛脚到來して其事を訴ひ、役所より見分す。かゝる鬪龍の大変は北越にも稀なることなり。
[やぶちゃん注:第一話に続けて竜巻実録二連発で、しかも、こちらはまさに同時に二本(!!)が発生したハイブリッドな二連発でもある。
「寛政三辛亥(かのとゐ)年(どし)八月朔日」グレゴリオ暦一七九一年八月二十九日。
「信川(しんせん)の西江戸巻」信濃川の西(岸)の「江戸巻」ということか? 不詳であるが、これ等の条件から調べてみると、ある地区が候補として上ってくるように私には感じられた。それは現在の新潟市西蒲区大字巻東町(まきあずまちょう)である(ここ(グーグル・マップ・データ))。ここは確かに信濃川が北上して下る西側に位置しており、しかも「巻(まき)」の字が含まれ、「江戸」は「東(あずま)」と親和性がすこぶる強いからである。識者の御教授を乞う。
「ニツの龍火(りやうくは)」恐らくは同時か交互に積乱雲内で雷電が発生し、しかもその直後に偶然、二つの別々な竜巻が発生したものと推定される。
「百千の𥅄(ど)を放(はなつ)がごとく」𥅄は「見つめる」の意か? 野島出版脚注には、『𥅄は弩』(音「ド」)『の誤記であろう。一度に多くの矢を發し得る』石『弓のこと』とする。私もこの見解に賛同するものである。
「氷塊」雹である。最近のsupercell(スーパーセル:極大積乱雲)とそれに伴う竜巻騒ぎやゲリラ豪雨の際にも、かなり大きな雹が降って、かなりの物損被害が生じたのは記憶に新しい。
「稻麻(とうま)」稲や麻などの纏まって生えている人工的な栽培作物全般を指している。
「栗林(くりばやし)」先の巻東町から南へ十一キロメートルほどの信濃川河畔の新潟県三条市栗林か。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「加茂」新潟県加茂市の丘陵部か。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここに配したグーグル・マップ・データには一画面の中に巻東町と栗林と加茂市の丘陵部が総て含まれており、次に出る「三条」も入っており、本ロケーションとして私は無理がないと考えている。【二〇一七年八月三十一日追記】新潟県加茂市下条。ここ(グーグル・マップ・データ)。次注を必ず参照のこと。
「池端(ちたん)」読み方が特異であるが、不明。三条は橘がいたことがはっきりしている場所であり、ここに「池端(ちたん)」という場所があれば、比定は間違いないと思うのだが。識者の御教授を乞う。【二〇一七年八月二十六日追記】「北越奇談 巻之四 怪談 其八(崑崙の実体験怪談)」でこの場所をかなりの所まで絞り込むことが出来たので是非、参照されたい。【二〇一七年八月三十一日削除・追記】私の「池端(ちたん)」探索は、橘崑崙茂世が出版当時、三条に住んでいたことに拘ってしまった結果として見出せなかった誤りが一つ、また、彼がその場所「池端」を「ちたん」と音読みしているのを無批判に受け入れてしまい、「いけはた」「いけのはた」という地名を捜すという基本行動をしなかった誤りが一つ、さらに悪いことに、見出せないことに苛立って、意識の中でそれを「池(いけ)の端(はた)の寓居」という意味に勝手に変換して考えるようになってしまった誤りが一つ、と三重の誤認が総ての推理を決定的に誤ったものとしまっていたことが、昨日、未知の大阪在住のH・T氏からのメール(そこではこの地名の詳細な検証が成されてあった)を頂戴して判然とした。まず、結論から言うと、これはH・T氏の考証により、
新潟県新発田(しばた)市池ノ端(いけのはた)(ここ(グーグル・マップ・データ))
であると確定してよいと思われる。以下、H・T氏からのメールを部分引用させて戴く(同氏の了解はお願いしてある。但し、一部の表記・表現を加工・省略させて貰った)。
《引用開始》
新潟県新発田市池ノ端附近は、江戸時代、此の地に寄合旗本であった溝口家(越後池端五千石)の陣屋がありました。寄合旗本溝口家は越後新発田藩分家で第三代直武以降、寄合となり、知行地の池之端(現新潟県新発田市池ノ端)に陣屋を構えています。
地名「池端」「池ノ端」の書き分けについては、幕末明治初期の文書(サイト「新潟県立文書館」の「インターネット古文書講座」の第二十九回「物価高騰につき拝借金願」(原文画像・解読文と解説)を見ると、最後の宛先は、『池端御役所』とあり、また、同講座の第三十六回の「旧主様に才覚金の返済を求める」(原文画像・解読文と解説)では、差出人肩書に『元池端御知行所』とあって、宛先人肩書は『元池端様御懸役』となっています。
それに対して、『早稲田大学図書館紀要』第六十二号(二〇一五年三月)の藤原英之氏の論文「市島春城の生家、角市市島家の歴史について」(「早稲田大学リポジトリ」よりPDFでダウンロード可能)の中の「吾家之歴史」の翻刻資料の一七二頁には、柱に『池之端始』、本文に『○四男国太郎殿、池之端溝口讃岐守様御陣屋江御代官役被申付、尤此方ゟ八百両年賦安利ニかし付申候』とあり、其後の辞令文書では『普代ニ抱入給人格池端陣屋代官役申付、別紙之通宛行候、念入可相勤候、子七月』と、「池之端」と「池端」が書き分けられています。
公式文書(陣屋提出または発給文書)は「池端」、その他の言い方・書き方は「池之端」ではないかと推察します。
また、この「巻之一
鬪龍の条」の最後の、「加茂の近村より飛脚到來して其事を訴ひ、役所より見分す」とあるのは、「加茂市民俗資料館館報告」第二十一号(PDF)の四頁目にある佐藤謙次氏の「市川家から池端代官となった俊次郎」の「講座内容」の中に、慶長三(一五九八)年より新発田藩領であつた下条村は、寛永五(一六二八)年に検地され、三ヶ村に分村した。そのひとつである下条中村は、旗本溝口内記宣俊の所領となり、新発田の池端に陣屋が置かれた。五代目市川正兵衛は、加茂町の庄屋の他、鶴田新田や下条東村の庄屋も兼帯していた。六代目正太郎の願い出により、子の俊次郎は新発田藩池之端陣屋の代官役となったとあることから、現在の加茂市の下条(ここ(グーグル・マップ・データ))の一部は、新発田の池端に陣屋の支配地であったのであり、この竜巻被害は八朔で取り入れ前のことでもあり、「加茂の近村」である下条中村の庄屋は、池端陣屋に被害報告と検分を依頼する義務があったのです。
《引用終了》
この後、H・T氏は次の「巻之一
巻水」及び「巻之四 怪談 其八」の私の池端誤認による誤りを訂された上(後日、それぞれの誤った注も順次改訂する)、最後に、
《引用開始》
小生、上記で、まず間違いないと思っています。
ここからは想像ですが、「崑崙橘茂世」は池端陣屋に関係する現地雇用の手代、手先のような者ではなかったでしょうか?
鬪龍の条の竜巻発生状況、被害が詳しく、飛脚便の書類を目にできる立場にあるような気がしました。
《引用終了》
と添えておられる。「池端」同定の確度は勿論のこと、最後の謎めいた崑崙橘茂世の正体の推理に激しく胸揺すぶられた。最後にH・T氏に心から御礼申し上げるものである。]