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2017/08/20

北越奇談 巻之三 玉石 其十(古鏡)

 

Kokyou

 

[やぶちゃん注:原典はこの位置(柱「其十」の前で、見開きの左頁全部を使用。前の勾玉等の絵が右頁後半(前半は同本文)にある)に挿絵(崑崙自筆)が載る。以下、キャプション。直径は約二十四センチメートル、背紋に描かれた楽器は七孔の横笛(龍笛(りゅうてき)か)能管(のうかん)か篠笛(しのぶえ))・笙及び笙が湾曲したような楽器(竽(う)か?)及び鉦か鼓か(同心円状のもの)。四方(図の東西南北位置)に配されたものがよく判らないが、或いは対称図形化した箜篌(くご)か或いは琵琶のような弦楽器のそれようにも見える。間には雲形が挿入されて飛天による天界の楽の音をイメージするかのようにも見える。「綠錆」は後の「其十四」の古銭の条で本文に「あをさび」と訓じてある。所謂、緑青(ろくしょう)である。「宣估銅」の部分は「俗に宣(の)ぶる、估銅(こどう)と云へる物の如し」ではないか? 「估銅」は純粋な銅ではなく、鉛の上に銅をかぶせた物(中国ではこの熟語で銅銭でも粗悪な悪貨を言う)を指す語だからである。]

 

古鏡(こきやう)【徑(わたり)八寸】畧圖

 

 背文

  樂器

   図のごとし

 

 鏡面綠錆

 地が松の

     いろ

  俗に宣估銅と

    いへるものゝ

        ごとし

 

    其十

 

 伊夜日子(いやひこ)神社北一里、竹(たけ)の町(まち)村、此所(このところ)、菖(あやめ)の観音(くはんおん)と云へる在(あり)て、㚑驗(れいげん)著じるき古跡なり。四面、竹皇(ちくくはう)、欝然として、幽遠、量(はかり)なし。毎年、三、四月、此(この)竹を伐(きる)時は、必ず、雨、降る。其奥に禪院あり。院の後ろ、山の中段に菖蒲塚(あやめづか)と名付(なづく)るもの、方(ほう)五、六間、四面高一丈五尺、又、其の下に猪ノ隼人(ゐのはやと)の塚あり。方三、四間、高一丈ばかりなり。髙倉(たかくら)の乱に賴政戰死の後(のち)、臣(しん)隼人、菖蒲(あやめ)の前(まへ)を供奉(ぐぶ)して北越に落下(おちくだ)り、終(つゐ)に此地に葬(ほふむ)ると云へ傳ふ。過(すぎ)し頃、人ありて、密(ひそか)にかの塚を發(あば)くに、内、只、一(いつ)小缾(しようへい)・古鏡一面あり。遂に是を市(いち)に賣る。相傳(あいつたへ)て其古鏡は今が友、釈迦塚谷江(しやかづかたにゑ)氏(うぢ)の家(いへ)に藏(おさ)む。其鏡(かゞみ)、經(わたり)八寸、背文(はいもん)、樂器(がくき)、面(おもて)、地金(ぢがね)粗く、いまだ水銀を下(くださ)ざるがごとし。最(もつとも)唐鏡(とうきやう)也。小缾は、今、所在を失す。

[やぶちゃん注:野島出版版はこの条、異様に多くの注が附されてある。まず、本文の後には全体が三字下げで『「備考」』とあって、『昭和十三年三月十日、文部省より重要美術品の認定せられたるもの左の如し』という前振りの後、

   《引用開始》

一、陶製壺 二口 二、鋼製経簡 一口 三、銅製経簡残片 一口 四、銅製梅花双雀文鏡 一面 五、銅製菊花双雀文鏡 一面 六、銅製萩薄菊花双雀文鏡 一面 七、銅製草花僧雀文鏡一面 八、銅鏡残片 二ケ 九、青白磁小壺 一口 十、青白磁盒子 二口

   《引用終了》

とある。これらは後に注する菖蒲塚(あやめづか)古墳の出土品である。なお、「盒子」は「ごうし・ごうす」(「合子」とも書く)と読み、身と蓋(ふた)とを合わせる意で、蓋のある比較的小さな器の総称である。このリストに就いては後の「菖蒲塚(あやめづか)」の注を参照のこと。

「伊夜日子(いやひこ)神社」現在の新潟県西蒲原郡弥彦(やひこ)村弥彦(やひこ)にある彌彦(いやひこ)神社。この一帯は既出既注。

「竹(たけ)の町(まち)村」新潟県新潟市西蒲区竹野町。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、現在の竹野町地区は直線でも彌彦神社から北へ六キロメートル以上はある。

「菖(あやめ)の観音(くはんおん)」後の「禪院」は誤り。竹野町に現存する真言宗金仙寺。創建は治承四(一一八〇)年にここに出る源頼政の妻菖蒲の前が夫の菩提を弔うために小堂を建立して観音像(伝弘法大師作)を安置したのが始めとされ、菖蒲の逝去後、嘉禄二(一二二六)年に旧従者達が道弁和尚を招いて堂宇を建立、新たに開山としたという。江戸時代に入ると、三根山藩主牧野家の祈願所となり、寺領を寄進されるなどの庇護を受けた。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「菖蒲塚(あやめづか)」以下の話は伝承であって実際には前方後円墳。上記グーグル・マップ・データの金仙寺の西北直近にある。ウィキの「菖蒲塚古墳」(あやめづかこふん)を引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。角田山(かくだやま:既出既注。新潟県新潟市西蒲区。標高四百八十一・七メートル)『東麓の台地先端部にある。本古墳は金仙寺境内に所在し、その周辺は「越王」(こしわ)と通称されている所である。 全長五十三メートル、後円部径三十三メートル、同高さ三メートルで、前方部高さ二メートルと後円部より前方部が低い。 新潟県内では最大クラスである。日本海側で最北端に位置する柄鏡形の古式前方後円墳であり、一九三〇年(昭和五年)に国の史跡に指定された』。『内部主体は明らかでない。石室を有しない木棺直葬ではなかったかと推定されている。築造年代は五世紀前半と推定されている』。『当古墳の最も古い資料としては一八一二年(文化九年)刊行の「北越奇談」で、盗掘され、鏡が出土したことが記されている。その鏡と伝えられている鼉竜鏡(だりゅうきょう)が新潟県の有形文化財に指定されている。径二十二・七センチメートル、仿製鏡(ぼうせいきょう)』(リンク先の注に『中国鏡を摸して、国内で製作した鏡』とある)『で、古墳時代前期のものと推定されている。言い伝えにより、古墳の中には源頼政の妻菖蒲御前が葬られた墓とされている。また、隣接する隼人塚古墳には、家臣である猪隼太の墓とされた(古墳の造成時期は、当該古墳と同時期と考えられている。)』。『二〇〇二年・二〇〇三年に古墳の範囲の確認のために巻町教育委員会が調査を行い、その結果、緩やかな傾斜を持つ台地の上に全体の形を設計した後、周囲に溝を掘り、その際に出た土などで盛り上げて作られた墓であることが判明。その際、土質の異なる土を交互に盛るなどして強化する工夫がなされた』。『当古墳の墳丘上には、平安時代から室町時代にかけて経塚が営まれている。経塚から出土した銅製経筒、陶製壺、銅鏡等の遺物は「越後国菖蒲塚古墳経塚出土品」として一九六二年(昭和三十七年)に国の重要文化財(考古資料)に指定されている(金仙寺蔵)』。「出土品」の項。●『壺』:『溝から発見。古墳の上から転落したと考えられる。壺の特徴から、古墳時代前期の後半に作られたことが明らかになった』。●『銅鏡』:『江戸時代に出土しただ龍鏡。直径二十三・七センチメートルで新潟県内では最大の鏡である。新潟県の有形文化財に指定されている。個人蔵(東京国立博物館に寄託)』(紋様に基づく名称からお分かりと思うが、老婆心乍ら言っておくと、これはここで挿絵として崑崙が提示した鏡とは全く違うものである。新潟県立生涯学習推進センターの運営になる「ラ・ラ・ネット」内の鼉竜鏡がそれであるが、楽器紋様に記載は一切なく、画像が小さいが、拡大する限り、本図の鏡ではない)。●『勾玉・管玉』:『新潟市歴史博物館に保管されている。勾玉(長さ二・三センチメートル)はヒスイ製で一点、碧玉製管玉(長さ一・七~三・四センチメートル)は七点。古墳の後円部の埋葬室内に副葬品として納められていた』。以下の「文化財」にリストが載るが、それを見て戴くと、野島出版版の本文の『備考』が、本菖蒲塚古墳のリストであることがはっきりと判る。

「五、六間」九・一から十一メートル弱。「方」とあるが、円墳部の崩れたものであろう。

「一丈五尺」約四メートル五十四センチメートル。

「三、四間」五・五から七・三メートル弱。方墳部。

「一丈」約三メートル。

「髙倉(たかくら)の乱」は後白河天皇の第三皇子以仁王(仁平元(一一五一)年~治承四(一一八〇)年)の平家打倒の挙兵を指す。彼の邸宅が三条高倉にあったことから「高倉宮」と称された。事前に露見して、治承四年五月二十六日(一一八〇年六月二十日)に山城国宇治(現在の京都府宇治市)の宇治川での橘合戦を以って、以仁王は討ち死にし、ともに戦った源頼政(長治元(一一〇四)年~治承四(一一八〇)年)は同日、平等院の庭で自害した。

「賴政戰死の後(のち)、臣(しん)隼人、菖蒲(あやめ)の前(まへ)を供奉(ぐぶ)して北越に落下(おちくだ)り」野島出版脚注に『源三位頼政は、戦不利なるを見て「越後は自分の釆地』(さいち:領地)『であり』、『縁者も多いといい、供の武士に猪ノ早太守岡崎藤平義高、小國頼作頼忠等の供をつけて菖蒲の前を越後に下したと寺伝にある』(この家臣の名の文字列は読み難いが、推定では切れそうにないのでそのままとした。「猪ノ早太」(いのはやた)が先に出た「猪ノ隼人(ゐのはやと)」と読めはする)とある。

「菖蒲(あやめ)の前」(生没年未詳)源頼政の妻で、元は鳥羽院に仕えていた女官。講談社の「日本人名大辞典」によれば、以仁王の挙兵に先だって彼女自身の故郷であった伊豆長岡へと逃れ、頼政の死後に伊豆西浦の禅長寺に堂を建立、出家して名を西妙と改め、一説には建保三(一二一五)年に八十九歳で死去したという、とある。

「終(つゐ)に此地に葬(ほふむ)る」菖蒲の前のこと。

「小缾(しようへい)」「缾」は「瓶」に同じい。小さな瓶(かめ)。

「釈迦塚谷江(しやかづかたにゑ)」野島出版脚注に『南蒲原郡今町字釈迦塚谷江家』とある。ここは現在の新潟県見附市釈迦塚町である。(グーグル・マップ・データ)。菖蒲塚古墳からは南へ二十キロメートルも離れる。

「いまだ水銀を下(くださ)ざるがごとし」水銀アマルガムをガラスに付着させて鏡を作る方法は一三一七年(日本は鎌倉時代末期)にベニスのガラス工が発明したもので、そうしたガラス鏡は天正一八(一五四九)年にポルトガルの宣教師フランシスコ・ザビエルが贈り物として初めて日本に齎したと言われており、本邦で初めてガラス板が製造されたのは十八世紀後半の泉州(大阪府)佐野であったとされる(三重硝子工業株式会社」公式サイト内知識」に拠る)。

「最(もつとも)唐鏡(とうきやう)也」最も古い形の中国様式(中国製ではない)の鏡。野島出版脚注にも『崑崙は唐鏡といっているが、考古學者の研究によれば、中國鏡ではなくて、我國で鋳造した彷製鏡で、神獣鏡を模したものであろうという』とある。]

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