北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート6 其五「冬雷」・其六{三度栗」・其七「沖の題目」)
其五 冬雷(ふゆかみなり)は北海(ほつかい)氣候の逆にして、南方(なんぼう)の國に異なること、是に限らず。南國の梅(むめ)は正月に開き、北國(ほつこく)は三月にかゝる。東南の水仙は、冬、專ら是を愛し、予が國は來(らい)二月に漸(やうや)く咲けり。是、皆、陰陽遲速、同じからざるが故なり。
[やぶちゃん注:「南方(なんぼう)」濁音はママ。
「來(らい)二月」その南国の冬が過ぎた、翌年、明けた二月。]
其六 「三度栗(さんどぐり)」は、蒲原郡安田村にあり。親鸞上人の植(うゆ)る所と、これ、舊跡なり。七奇の部にあらず。此種類、常州にもありと云へり。かゝる異木變艸(いぼくへんそう)、稀にあるもの也。近年、殊に夛(おほし)。唯(たゞ)、鸞上人(らんしようにん)の植(うへ)ゐたる舊跡とのみ思ふべし。
[やぶちゃん注:「三度栗」天津甘栗で知られる中国原産のブナ目ブナ科クリ属シナグリ
Castanea mollissimaの一品種Castanea mollissima cv.(cultivar:ラテン語:クルティヴァール:品種)か。シナグリの花は五月からずっと咲き続け、新しく伸びた枝先には必ず花を咲かせ、枝が伸びている間はずっと花が見られ、雌花が出れば結実し続ける。通常の栗の木が実を落としてしまった後もずっと栗の実をつけていることなどから、年に三度も実をつけるとされて「三度栗」と呼ばれる。ウィキの「三度栗」によれば、年に三回も『実をつけるといわれており、三度栗に関する伝説が各地に残って』おり、現在の『新潟県阿賀野市保田』(やすだ)にある浄土真宗焼栗山孝順寺(ここ(グーグル・マップ・データ:日本有数の大地主であった斎藤家の邸宅を本堂とした寺)に『伝わる三度栗伝説は、越後七不思議』(後述)の一つとされ、『ほかの三度栗伝説は多くが空海にまつわるものであるが、浄土真宗の寺に伝わるこの三度栗伝説は親鸞にまつわるものである』(他の弘法大師絡みのそれは前のリンク先(ウィキ)を参照のこと)。『当地で布教活動を行っていた親鸞の念仏の礼にと、老女が焼き栗を親鸞に差し出した』。『親鸞は帰途』、「我が勸むる彌陀の本願、末世に繁昌致さば、この栗、根芽(こんが)を生(しやう)じて一年に三度、咲き、實(みの)るべし。葉は一葉にして二葉に分かれて繁茂せよ」と『唱えてこの栗をこの地に蒔いた』。すると、『焼き栗から芽が出て、年に』三度、『実をつけ、その葉の先は二つに分かれて茂るようになったという』。『同様の伝説が福井県鯖江市にも残っている』とある。さて、先に出た「越後七不思議」というのは、当地に流罪となって、赦免後も暫く当地で布教し、後に関東(本文に出る「常州」(常陸)も含まれる)へも足を延ばした、親鸞に限定された、特に動植物の珍種を親鸞の起こした奇瑞として伝える特異な聖人伝承の七不思議である。ウィキの「越後七不思議」によれば、「逆さ竹(だけ)」・「焼鮒(やきふな)」・「八房(やつふさ)の梅」・「珠数掛桜(じゅずかけざくら)」・「三度栗」・「繋(つな)ぎ榧(がや)」・「片葉(かたは)の蘆(あし)」(同ウィキはその名数から外して最後に「八珍柿」を挙げている)を数えという。それぞれの具体はリンク先をお読み戴きたいが、非常に興味深いのは、橘崑崙はこの「三度栗」以外には「其十」で「逆竹」を、「其十三」で「八房の梅」を挙げるだけで、外の四つを問題とせず、名さえ記していない点である。この後で「八房の梅」に自筆の画を挿絵としても添えているが、それはあからさまな親鸞顕彰と思われるものではなく、その記載内容は寧ろ、専ら植物学的興味、純粋にその老梅の樹木としての花の香その他の即物的な観察による讃嘆に終始しているのである(この老樹は一つの花に八つの実が成るとされる八重咲きの梅の木で親鸞が植えた梅干の種から育ったと伝えるが、その伝承を崑崙は記載しておらず、ただ「親鸞上人の旧跡」とのみ記す)。崑崙の宗旨はよく判らないが、或いは彼は新潟に多い浄土真宗の宗門ではなかったのではなかろうか? もし、門徒であったなら、せめても親鸞の七不思議として独立項を設けて、名数ぐらいは列記したはずである。因みに次の「其七 沖の題目」は日蓮の旧跡とするが、読まれれば判る通り、けんもほろろの短さであるから、日蓮宗の門徒の可能性は全くないと言ってよい。翻って、崑崙は本書の第六巻の越後所縁の「人物」の「其三」で曹洞宗の名僧良寛(「了寛」と記す)についてかなりの文章を割いて綴っており、それ以外でも禅僧の名を挙げて語る部分が散見される。また、崑崙は「石鏃」で鬼神の信望者であることを公言しているわけだが(恐らく崑崙は国学的な神道支持派であったとは思われる。あの系統は鬼神に対する親和性がすこぶる高いからである)、多くの仏教宗派は鬼神論には冷淡であって本質的には(方便としては用いても)認めないものが殆んどである。しかし、禅宗は仏教の中では一種の強烈な個人主義支持の宗派であって、鬼神を語っても何ら、問題がないのである。
「鸞上人(らんしようにん)」原典のママ。]
其七 「沖の題目」は、角田濱海上(かいしよう)にして、日蓮上人の旧跡なり。波風、靜かなる日、波上(はしよう)に題目の文字(もんじ)、浮(うか)ミ出ると云へり。沖行(ゆく)船の見つる事、今に猶あり、と云へれど、信(まこと)となしても尋ぬべき便(たより)なし。羽州鶴が岡に梵字川(ぼんじがは)あり。其源(みなもと)、湯殿山より出て、流水の紋(もん)に、梵字、見ゆると云ふがごとし。是等のことは、愚民を導く便(たより)のみ。奇とするに足らず。
[やぶちゃん注:どうです? けんもほろろでしょ? 新潟は日蓮も佐渡に流罪となったから信徒はそれなりにいるが。
「角田濱」既出既注。新潟県新潟市西蒲(にしかん)区角田浜(かくだはま)。佐渡を正面に据えたここ(グーグル・マップ・データ)。
「羽州鶴が岡に梵字川(ぼんじがは)」山形県鶴岡市を流れる川名として現存。ここ(グーグル・マップ・データ)。地図で判るが、源を辿ると確かに南東の湯殿山(月山の南西山腹にある標高千五百メートル。月山・羽黒山とともに出羽三山の一つとして修験道の霊場として知られる)である。]
« 北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート5 其四「四蓋波」) | トップページ | 北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート7 其八「湧壷」) »