フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 僕の愛する「にゃん」
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 行夜(へひりむし) | トップページ | ブログ990000アクセス突破記念 花嫁と瓢簞 火野葦平 »

2017/08/18

北越奇談 巻之三 玉石 其七(光る石)

 

    其七(しち)

 

Ooyutotuomataonsen

 

[やぶちゃん注:崑崙の自筆画。しかし、どうもこの配置は理解し難い遠望する駒ヶ岳の位置から、グーグル・マップ・データのこの地域(ほぼ中央に大湯と栃尾又を配した)を南北逆様にした位置から南東向きで描いたとしか思えないのであるが、そうすると、大湯の位置と栃尾又の位置がどうも解せない(一つ考えた私の解釈があるが、それは後注を参照されたい)。「白蓋山」も現行の地図にはなく、駒ヶ岳の描き方の違いからは大湯の背後(東北)にあるピークと読めるから、これは現在の「津久しの岐山」かその奥の「鼓が倉山」であろうとは思われる。因みに「白蓋山」は恐らく「しろぶたやま」ではなく「びゃくがいさん」であろうと思われる。「白蓋」とは神道に於いて神殿の天井に寺院の天蓋のように配してその下に神降ろしをするための結界のような装置を言う。]

 

 新發田(しばた)より東北、加治(かぢ)、中条(ちうぢやう)の間、路(みち)の傍(かたはら)、田の中に、庚申塚あり。塚の上に、大尺五寸ばかりなる圓(まろ)き石を鎭(ちん)して是を祭る。此石、その先(さき)、農夫、屋後(おくご)の竹林(ちくりん)を掃除して、竹の根を穿(うが)つに、かの石一ツを得(う)。その色、青黑(せいこく)、甚だ滑らかなり。農夫、是を以つて藁を打(うつ)盤(ばん)となす。其夜、家婦(かふ)、庭に出(いづ)るに、光(ひかり)ありて燦然たり。婦人、魑魅(ちみ)なりとして驚き叫ぶ。家主(あるじ)、若者、三、五人を伴ひ來りて、光る物を打(うつ)に、石なり。皆、以(もつて)、怪なりとして其石を竹林に捨(すつ)。猶、その石、夜々(やゝ)光ありて、村中の老若(らうにやく)、恐れて、夜(よる)行(ゆく)者、なし。依(よつ)て是を庚申塚に祭り、上に泥を塗りて光を隱す。今、猶、苔蒸して荒埃(くはうあい)たり。其地に到り、村老に乞ふて、かの石を求(もとめ)んとすれども、其祟りあらんことを恐れて許さず。又、相似たる一奇あり。前に擧ぐる佐奈志(さなし)川と云へるは駒ヶ嶽の梺(ふもと)、大湯村(おほゆむら)と、栃尾俣村(とちをまたむら)の間(あいだ)にして、山間の淸流、數(す)十里を巡り、その源(みなもと)、尋ぬべからざるがごとし。栃尾俣の温泉は西岸にありて、村を離(はな)るゝこと、十町ばかり。深き林の中に湯小屋(ゆごやを)掛け、いかにも物凄きさまなれば、入浴(たうし)の人も今は稀れにして、只、大湯より合(あは)せ湯に通(かよ)ふばかりなるがごとし。大湯は村中(むらうち)にありて、百數(す)十人を浴(よく)すべし。是(これ)、熱(ねつ)の湯なり。又、川岸に瀧の湯あり。是は冷(ひへ)なり。熱は疝氣(せんき)・頭痛・打身・癪氣(しやくき)を治(ぢ)し、冷(ひへ)は疥癬濕瘡(ひぜんしつさう)を治す。即(すなはち)、農家に入浴(たうぢ)の人を宿(やど)し、さらに不自由なること、なし。繁花(はんくわ)と云ふにはあらざれども、閑淸(かんせい)にして、景色(けいしよく)、俗ならず。此川中(かはなか)に、一とせ、夏の渇水せし頃、水中(すいちう)、一点の光ありて、仄(ほの)かに見ゆ。初めは螢なんどの水上(すいしよう)に止(とゞま)るかと見へしが、數日(すじつ)にして、所を移さず。如ㇾ此(かくのごとき)こと、十余日。一日、夕立の雨に、洪水、俄(にはか)に至り、終(つゐ)に、その光を失(しつ)す。其後(そのゝち)、五、六丁、川下に、水中(すいちう)、又、一点の光ありて、朧々(ろうろう)と眞夜(しんや)の星のごとし。樵夫の輩(ともがら)、只、是を怪しむのみにして、又、尋ね求(もとむ)るの心、なし。惜むべし、其秋、又、洪水、俄に至り、遂に、其所在を失すと言(いへ)り。これらの事、皆、山中(さんちう)正愚(せいぐ)の輩(ともがら)、此話をなすが故に敢へて疑ふべきにもあらず。只、がごとき好事の客(かく)、いまだ如ㇾ此(かくのごとき)奇を見得(みえ)ざるに、誠(まこと)に無貪夜識金銀氣(むさぼることなく きんぎきを しる)と、是、わが輩(ともがら)の不幸と云ふべきのみ。

 

[やぶちゃん注:「新發田(しばた)より東北、加治(かぢ)、中条(ちうぢやう)の間」この附近ではないか?(グーグル・マップ・データ) ここは現在の「新発田」市内で、「新発田」市街地外の「東北」に当たり、中央に羽越本線「加治」駅があり、南位置にある郵便局などの施設名が「加治」を含む呼称であり、その南から北西に流れる川が加治川、その右岸の「加治」駅から真西の位置に「向中条」という地名を見出せるからである。

「庚申塚」私は若き日から好んで探索してきたもので旧知のものあるが(太字は私のオリジナルな補注である)、若い人のためにウィキの「庚申塔」を引いておく。『庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を』三年十八回『続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる』。『庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜』、『寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避けるためとして庚申の日の夜は夜通し眠らないで』、『天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習である』(伝播当初から仏教・神道及び豊饒と性神を祀る相対道祖神や塞(さえ)の神のような土着神や行路神との習合が急速に進み、江戸時代は他の有象無象の講中と同様、経済扶助意識の共有や親睦目的のための徹夜宴会が中心となり、庚申信仰のここに書かれてあるような本質はとうに失われていたと考えた方がよい)。『庚申塔の石形や彫られる仏像、神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。仏教では、庚申の本尊は青面金剛』(しょうめんこんごう:実際、彩色図などでは顔が青く塗られる。ここで「仏教では」と言っているが、実際にはこの庚申信仰の影響下で造形・形象された本邦の仏教思想の中で、「三尸の虫を押さえつける尊神」として拵えた夜叉神の一人に過ぎない。その形相や持ち物は明王像(特に軍荼利(ぐんだり)明王)に非常によく似ている)『とされるため、青面金剛が彫られることもある。神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。また、庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。さらに、塞神として建立されることもあり、村の境目に建立されることもあった』(本来の十干十二支は純粋な順列記号であって、「申」から「猿」は単なる連想による勝手な派生ハイブリッド習合(何でもかんでも現世利益となり、しかも自在に対応出来る人間にとって都合のよい神仏集合体)でしかない)。因みに、湘南地区で一見しておいてよいものは、江ノ島奥津宮手前の階段脇にある江戸中期に建立された三十六匹もの猿が浮き彫りにされた多彩な群猿奉賽像庚申塔である。未見の方は、是非、お勧めである。

「尺五寸」三十二センチメートル弱。

「鎭(ちん)して是を祭る」神霊を鎮めるように置き配してこれを祀っている。

「その先(さき)」その昔。

「魑魅(ちみ)」魑魅魍魎。訓ずると「すだま・こだま」で、元来はアニマチズム(animatism)的な崇拝・畏敬対象であった、山林・溪谷・木石・生物の精霊とされる「物の怪」の類いであるが、ここは「化け物」でよかろう。

「荒埃(くはうあい)」荒れ果てて埃まみれであること。

「前に擧ぐる」其四(木葉石)

「佐奈志(さなし)川」新潟県魚沼地方を流れる信濃川支流の魚野川のそのまた支流である佐梨川。駒ヶ岳を水源とし、全長約十八キロメートル。挿絵の注のグーグル・マップ・データ或いは以下のそれを参照。

「駒ヶ嶽」越後駒ヶ岳。新潟県南魚沼市と魚沼市に跨る。標高二千三メートル。

「大湯村(おほゆむら)」新潟県魚沼市大湯温泉。(グーグル・マップ・データ)。

「栃尾俣村」佐梨川の大湯温泉の、上流直近にある魚沼市大湯温泉栃尾又。栃尾又温泉がある。なお、正式な住所は大湯もここも魚沼市上折立のようである。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「栃尾俣の温泉は西岸にありて、村を離(はな)るゝこと、十町ばかり」「十町」は約九百八十二メートルで、現在の大湯温泉地区の南端と現在の栃尾又温泉との実測距離と完全に合致するところが、「栃尾俣の温泉は西岸」ではなく、佐梨川の東岸である。一つ考えたのは、挿絵の「栃尾俣の温泉」の位置の不審である。この挿絵の通りなら、確かに「栃尾俣の温泉」は佐梨川の西側にあると読めるからである。そこで一つの解釈であるが、「栃尾俣」の名称は川が分岐していることを指すとすれば、実は現在の栃尾又温泉のあるのは佐梨川から南東に分岐した「栃尾又沢」の奥だという点である。実はかつてはこの「栃尾俣の温泉」はこの佐梨川と栃尾又沢の分岐点付近にあったのではないか? それが佐梨川を渡渉した西岸の、現在の「大湯温泉カタクリ群生地」(グーグル・マップ・データ))の南の先、先の川の分岐点の少し南位置にあったとすると、実測値がやはり概ね「十町」と一致するのである。その痕跡でも少しここに残っていたらなぁ。大方の御叱正を俟つものではある。

「合(あは)せ湯」違った泉質の湯に合わせて浸かって湯治することであろう。現在の大湯温泉の泉質はナトリウム - 塩化物泉(同地区内で泉質の違うものがある)であるのに対し、栃尾又温泉は天然ラジウム温泉(含有量日本第二位)で異なる。

「川岸に瀧の湯あり」不詳。現在の大湯温泉には佐梨川に近い「荒瀬の湯」「川原の湯」とも)はあるが、孰れも熱いから違う(特に「荒瀬の湯」は源泉温度が五十三・八度と超弩級に高い)。

「疝氣(せんき)」「癪氣(しやくき)」は合わせて「疝積(せんしゃく)」とも呼び、近代以前の日本の病名で、当時の医学水準でははっきり診別出来ないままに、疼痛を伴う内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていたものの俗称の一つである。単に「疝」とも、また「あたはら」とも言い、平安期に成立した医書「医心方」には,『疝ハ痛ナリ、或ハ小腹痛ミテ大小便ヲ得ズ、或ハ手足厥冷(けつれい)シテ臍ヲ繞(めぐ)リテ痛ミテ白汗出デ、或ハ冷氣逆上シテ心腹ヲ槍(つ)キ、心痛又ハ撃急シテ腸痛セシム』とある(「厥冷」は冷感の意)。一方、津村淙庵の「譚海」(寛政七(一七九五)年自序)の「卷の十五」には、『大便の時、白き蟲うどんを延(のば)したるやうなる物、くだる事有。此蟲甚(はなはだ)ながきものなれば、氣短に引出すべからず、箸か竹などに卷付(まきつけ)て、しづかに卷付々々、くるくるとして引出し、内よりはいけみいだすやうにすれば出る也。必(かならず)氣をいらちて引切べからず、半時計(ばかり)にてやうやう出切る物也。この蟲出切(いできり)たらば、水にてよく洗(あらひ)て、黑燒にして貯置(ためおく)べし。せんきに用(もちゐ)て大妙藥也。此蟲せんきの蟲也。めつたにくだる事なし。ひよつとしてくだる人は、一生せんきの根をきり、二たびおこる事なし、長生のしるし也』と述べられており、これによるならば疝気には寄生虫病が含まれることになる(但し、これは「疝痛」と呼称される下腹部の疼痛の主因として、それを冤罪で特定したものであって、寄生虫病が疝痛の症状であるわけではない。ただ、江戸期の寄生虫の罹患率は極めて高く、多数の個体に寄生されていた者も多かったし、そうした顫動する虫を体内にあるのを見た当時の人はそれをある種の病態の主因と考えたのは自然である。中には「逆虫(さかむし)」と称して虫を嘔吐するケースもあった)。また、「せんき腰いたみ」という表現もよくあり、腰痛を示す内臓諸器官の多様な疾患も含まれていたことが分かる。従って疝気には今日の医学でいうところの疝痛を主症とする疾患、例えば腹部・下腹部の内臓諸器官の潰瘍や胆石症・ヘルニア・睾丸炎などの泌尿性器系疾患及び婦人病や先に掲げた寄生虫病などが含まれ、特にその疼痛は寒冷によって症状が悪化すると考えられていた(以上は概ね平凡社「世界大百科事典」の立川昭二氏の記載に拠ったが、「譚海」の全文引用と( )内の寄生虫病の注は私の全くのオリジナルである)。

「疥癬濕瘡(ひぜんしつさう)」所謂、疥癬(かいせん)のこと。節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱ダニ目無気門(コナダニ)亜目ヒゼンダニ科ヒゼンダニ属ヒゼンダニ変種ヒゼンダニ Sarcoptes scabiei var. hominis が寄生することによって起こる皮膚感染症。本種はヒトにのみ限定的に寄生し、ヒトの皮膚角層内にトンネル状の巣穴を掘って棲息する。主症状は激烈な痒みで、初期には指間部・手首及び肘の屈曲面・腋窩の襞・ベルトに沿ったウエストライン・殿部下方等に紅色の丘疹が現れる。この丘疹は体の如何なる部位にも拡大可能であるが、通常、成人では顔面に出現することはない。ヒゼンダニの形成するトンネルは微細な波状を成し、やや鱗状の屑を伴う細い線として認められ、その長さは数ミリメートルから一センチメートル程度で、一方の端にはしばしば小さな黒い点(ヒゼンダニ本体)を認め得る(病態については万有製薬の「メルクマニュアル」の「疥癬」の記載を参照した)。

「繁花(はんくわ)」繁華。繁盛。

「閑淸(かんせい)」閑静。清閑。

「五、六丁」五百四十六~六百五十四メートル。

「朧々(ろうろう)と」ぼんやりとしておぼろげなさま。

「眞夜(しんや)」野島出版版では『春(しゆん)夜』と判読するが、私は原典をかく判読「無貪夜識金銀氣(むさぼることなく きんぎんきを しる)」杜甫の七律「題張氏隱居」 (張氏の隱居に題す)」の五句目、「不貪夜識金銀氣」(貪(むさぼ)らずして 夜(よ) 金銀の氣を識(し)り)の引用。「不貪して」は全く心から無欲であるから(こそ逆に)。「金銀の氣を識り」土中に埋蔵されている金銀から立ち昇るその高雅なる気を自然に感じることが出来る。]

« 和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 行夜(へひりむし) | トップページ | ブログ990000アクセス突破記念 花嫁と瓢簞 火野葦平 »