北越奇談 巻之一 河伯
河伯(かはく)
水中(すいちう)にて河伯(かつぱ)に曳かれ死する者、年毎(としごと)にありて、其説、分明ならず。鼈(べつ)とも云(い)へ、蛇(じや)とも云へり。
其中(そのうち)、過(すぎ)し頃、予が幼年の知ル人、信川の邊り、眞越村(まごしむら)孝源寺(こうげんじ)、一向宗門にて何某(なにがし)と云へる僧、十八才なりし者、夏の頃、農家の童(わらべ)、數多(あまた)伴ひ、信川に浴しけるが、忽(たちまち)、水底(すいてい)に引入(ひきいり)て、見へず。
童ども、大に驚き、慌(あは)て騷ぎて立歸り、此由(よし)、告(つぐ)るほどに、村中(むらうち)の老若(ろうにやく)、川岸に集まり、網を曳(ひき)、鍵(かぎ)を下(さ)げて、搜し求むれども、其邊りには觸(さ)はる物もなく、川下半里ばかりにして、鐘が渕(ふち)と云へる所に至り、勇壯の若者、五、六人、腰に繩を付(つけ)、手(て)ン手(で)に鎌を握りて、水底(すいてい)を潛(くゞ)りけるが、難なく、かの亡僧(ぼうそう)を抱(いだ)き上げて、是を見れば、更に皮膚の間(あいだ)、疵付(きづつく)る所はなけれど、肛門、開き、腹、太く腫滿(はれみち)て、是を推(おせ)ば、鳴蠢(なりうごめ)きたり。
「すはや、敵(かたき)は此腹中(ふくちう)にあり。」
と我も我もと、立(たち)まとひ、
「打(うた)ばや。」
「切らばや。」
なんど声々に喚(わめく)ほどに、其内、叔父なる老人の云へるは、
「正(まさ)しく、毒蛇の腹中にあるなるべし。打(うた)ば、口よりも飛去(とびさ)りぬべきぞ。肛門と口とに小刀(こがたな)を刺し、腹上(ふくしよう)より突殺(つきころ)さん。」
と。
人人、一決しける所、母なる者、いたく悲しみ、
「僧侶の身、非常の死といへども、身躰(しんたい)、又、刃(やいば)に及(およば)んこと、業生(ごうしやう)、猶、深きに似たり。只に、葬り給へ。」
と、請求(こひもとむ)るにぞ。
「さらば、火葬にして敵(かたき)もともに燒殺(やきころ)せ。」
と、大なる瓶(かめ)に入(いれ)、板石(いたいし)を蓋にして、其上も猶、大石(たいせき)にて圍み、焚炭(たきずみ)數十俵(すじうひよう)を以(もて)、燒立(やきたて)たるに、忽、炎火、盛(さかん)に立昇(たちのぼ)り、火勢、近付(ちがづく)べくもあらねば、今は蛇身も燒失(やけうせ)ぬべく覺ゆる所に、忽、火中一声の響(ひゞき)ありて、焰炎(ほのう)の中(うち)より、尺ばかりなるもの、空中に撥ね上がると見へしが、雲氣(うんき)、四野(しや)に滿ち、暴風大雨(ぼうふうたいう)、立(たち)やすらふべくもあらず、山をなせる火氣、忽、消失せて、是を見れば、瓶(かめ)碎け、大石(たいせき)數片(すへん)に破(やぶ)れ割(さけ)たり。
「誠に龍蛇(りやうだ)の神(しん)なる、人智の及ぶ所にあらず。」
と、見る人、震(ふる)ひ畏(おそ)れける。
[やぶちゃん注:竜巻実録連投から、同じ水変乍ら、異様な水怪実談へと転ずる。怪奇談集として非常に上手い構成である。橘崑崙、これ、タダモノではない。
「河伯(かはく)」「河伯(かつぱ)」ルビの違いはママ。以下の叙述も河童のようでありながら、実は腹中へと侵入した怪龍蛇とする展開は、数ある河伯(これは狭義には中国神話に登場する黄河の神を指し、「白亀」形(後注に出る実在する大型のスッポンのアルビノ個体あたりがモデルか)とも「白龍」形或いは「龍」そのものとも、また「龍が曳く車に乗っている人」形とも人頭魚体ともされる)・河童・怪蛇譚の中でもかなり変わった特異点のケースと言える。
「鼈(べつ)」この字は本邦では爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン
Pelodiscus sinensis に当てるが、ここは巨大な怪亀ととっておいてよい。
「信川の邊り、眞越村(まごしむら)孝源寺(こうげんじ)」不詳。村名・浄土真宗の寺名としても現認出来ない。信濃川では広域過ぎて、特定も不能で、「川下半里ばかりに」あるとする「鐘が渕」という淵名も確認出来なかった(これが一番の特定素材とは思われるのだが)。識者の御教授を切に乞うものである。
「驚き慌(あは)て騷ぎて立歸り」野島出版版では『驚き騒ぎて立帰り』であるが、原典に拠った(原典は「あはて」と平仮名。
「鍵(かぎ)」鉤(かぎ)・鳶口(とびぐち)のことであろう。長い樫の棒の先に鳶の嘴に似た形の鉄製の鉤をつけた、木材や大型の魚類などを引き寄せるに用いるあれである。
「皮膚の間(あいだ)、疵付(きづつく)る所はなけれど、肛門、開き、腹、太く腫滿(はれみち)て、是を推(おせ)ば、鳴蠢(なりうごめ)きたり」通常のある程度の時間が経過した水死体の特徴を完備しており、実は異様な死体とは言えない。但し、淡水域での水死体の場合は、体内に生物が侵入することはそう多くはない(海域での漂流死体では穴子・蝦蛄・蛸などが容易に侵入して内部から食い荒らすとは普通に見られる現象である)。
「立(たち)まとひ」「まとひ」は「纏ひ」で遺体の周囲に野次馬のように「立ち集まり」の謂いともとれる。或いは変死体のさまに周囲に集まった連中が「立ち惑(まど)ひ」かも知れぬ。
「打(うた)ばや」「腹を殴打しよう!」。
「切らばや」「いや! 腹を切り裂くべきだ!」。
「叔父なる」「小父」で「他人である年輩の男性」の意があり、私はそれでとる。「老人」とダブるが、縁者である「叔父」ととってしまうと、後で実母が出るのと妙にリアル過ぎて五月蠅い気がするからである。そもそもこの仕儀、母ならずとも、反対したくなる残酷なものではないか。それを実の叔父がまことしやかに提案するというのもヘンである。こういう、訳知り顔で物言いするケッタイな爺いというのは、しばしばこうした話柄につきものであり、この猟奇的場面処理が、実はこの話が事実ではない創作された話柄であることを強く感じさせるとも言えるのである。
「業生(ごうしやう)」「業障」(ごふしやう/ごつしやう)の誤記であろう。三障の一つで成仏することを妨げるところの身・口・意によって発生する悪しき行為、或いは、広く過去(前世も含む)において行なった悪しき行為によって生じたところの障(さわ)り・業(ごう)を指す。]