今日の「青空文庫」の公開作である高見順の随筆「かなしみ」を読み易くしてみる
今日の「青空文庫」の公開作は高見順の随筆「かなしみ」であった。
私は高見淳が好きだが、これは初めて読んだ。しかし実に、佳品であった。最後の部分が自ずと、ジジーンと、きた。原文は改行なしの一段で読点が禁欲的でちょっと今時の若者には読み難いようだから、恣意的に改行と読点代わりに字空けを施して以下に示す。若い読者向けに私の注を入れた。読みは歴史的仮名遣で示した。
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赤羽の方へ話をしに行つた日は 白つぽい春の埃が中空に舞ひ漂つてゐる日であつたが、その帰りに省線電車の長い席の いちばん端に 私が腰掛けて 向うの窓のそとの チカチカ光る空気に ぼんやり眼をやつてゐるといふと、上中里か田端だつたかで、幼な子を背負つた ひとりの若い女が入つてきて 手には更に 滅法ふくらんだ風呂敷をさげてをつた。
そこで 席を譲つた私であつたが、このごろ 幼な子となると この私としたことが、きまつて おのが細頸を捩ぢ曲げたり 或は長い頸をば 一層のばしたりしてまで その幼な子の顔をのぞいて さうして そのあどけなさをば、マア言つてみりや 蜂が騒々しく花の蜜を盗むみたいに なんとなく 心に吸ひ取り集めないでは ゐられないのであつたから、そのときも その幼な子に 遽しく[やぶちゃん注:「あはただしく」。]眼を向けたことは言ふまでも無いのだ。
どうやら 眼が見え出してから やつと一二月位にしかならないと察せられるその子は、眼と眼とのあひだの まだ隆起のはつきりしない鼻の上ンところに、インキのやうな 鮮やかな色合ひの青筋を見せてゐて、そのせゐもあるんだらうが、総じて脾弱な感じで 顔色も こつちの主観からだけでなく 病弱の蒼さと見られ、さういふ子には なほのこと 親ならぬ私ながら いとしさが唆られる[やぶちゃん注:「そそられる」。]のである。
ところが その親の若い女なんだが、これはまた どうして 骨太の おつとやそつとでは[やぶちゃん注:現在の「ちょっとやそっと」に同じい。] 死にさうもない体格の 牛みたいなやうな女で、そして さういふ女に有り勝ちの 眼暈[やぶちゃん注:ママ。「めまひ」(眩暈)と訓じていよう。]を催させるやうな色彩と柄の それにペカペカと安つぽく光るところの着物を着てゐる。
その背中で 小さな頼りない幼な子は キョトンとした青つぽい眼を あらぬ方に放つてゐたが、するうちに 何を見つけたか、弱さうな子でも やはりくびれは出来てゐる その頸を 精一杯うしろに曲げて、それは全く もやしの茎が ポキント 儚く[やぶちゃん注:「はかなく」。]折れるやうに 今にも折れはしないかと ハラハラする位に 無理に のけぞらせて、一心に何かを瞠め出したものだ。
何か横の 上の方にあるものに 幼な子は大変な興味を惹かれて了つたらしいのだ。
瞬きもせず瞠めてゐるのだつた、[やぶちゃん注:読点はママ。]
すぐその無理な恰好が苦しくなるのだらう、首を前に戻すのだが、その戻すのが戻すといつた式のものでなく ガクッと 首を前に倒す、いいえ、ぶつつけ ぶつ倒すのだ。
さうして 鼻をペチャンコに潰したまま 母親の襟に顔を埋め、しばらくは さうして フーフーと 息をついてゐる。
この幼な子にとつて 仰向いて瞠める[やぶちゃん注:「みつめる」。]のは それこそ 大変な労苦であることを それは ありありと語つてゐた。
と また 首を持ちあげ 頸を折るみたいにして 仰向く[やぶちゃん注:「あふむく」(あおむく)。]のであつた。
さうして再びガクッとやる。
はて 何が一体そんなにまで 幼な子の心を強く捕へたのか
と 私は心穏かでなく 幼な子の視線を辿るといふと、席の横に ひとりの背の低い青年が立つてゐて その男の顔を瞠めてゐることが分つた。
さりながら その顔は 至つてありきたりの雑作[やぶちゃん注:「ざふさく」(ぞうさく)。顔立ち。]であつて 別に不思議な顔といふのではなかつた。
けれど 如何にも不思議さうに 幼な子は見入つてゐる といふことを 青年は夙に[やぶちゃん注:「つとに」。とっくに。先(せん)から。]気づいてゐたらしく、青年らしい羞恥と困惑を押へ隠して さりげない風を敢へて装つてゐる表情であつたが、ここでまた 私の吟味的な視線を 面皰[やぶちゃん注:「にきび」。]の吹き出た頬に感じると、もはや我慢がならぬ といつた如くに 苦虫を噛み潰したやうな顔をした。
と その瞬間、私は ああさうだ と ひそかに合点をした。青年は セルロイド製の黒いふちの眼鏡を掛けてゐた。
たしかに その眼鏡に 幼な子は惹かれたのであるらしい。
軈て[やぶちゃん注:「やがて」。] 幼な子は小さな手まで上へ頼りなげに差しのべはじめたが、その手の動きも 私の推測の誤りでないらしいことを告げてゐると私はした。[やぶちゃん注:「した」はママ。「察した」の謂いか。]
幼な子の 春の芽のやうな 可愛い手は 然し[やぶちゃん注:「しかし」。] 充分にあがらず、空間を模索的に動かしてゐるうち 青年の洋服の袖をとらへた。
すると、この、幼児を身辺に持つたことのないらしい青年は すつかり照れて、冗談ぢやないよ といつた風に すげなく、だが さう あらはに 引つこめるのも大人気ない といつた様子で 静かに 手をひくと 同時に 幼な子は 例の ガクッと やる やり方で顔を伏せた。
丁度 そのとき 電車は駅に入り、青年は降りて了つた。
そして 又 電車が動き出すと その動揺に促された如くに 幼な子は やをら 首を挙げて 不思議な眼鏡を観察すべく 上を見たはいいが、さあ大変、大事な眼鏡は消え失せてゐる。
今まで ちやんと あつたものが あッといふ間に なくなるとは 信じ難い、さういつた眼を 幼な子は ムキになつて向けてゐたが、やがて なんとも いひやうのない哀しい顔付をしたとおもふと、それはすぐ無慙な歪んだ顔に成り、ヒーヒーと泣き出した。
その泣き声が、抗議的な爆発的な叫喚的なものならいいんだが、いかにも弱々しい低い 絶え入るやうな哀しいものであつたのも 私の心を ひとしほ 苦しめた。
若い母親は、ああ よしよし と言つて 背中をゆすぶり、その体躯にふさはしい 勇ましい振り方をするもので、幼な子はガクンガクンと首をがくつかせて そして 泣きつづける。
泣きつづけるので 母親は、ああよしよし、もうすぐだよ、上野に着いたらやるからネ と言って[#「言って」はママ][やぶちゃん注:この注は「青空文庫」の入力者によるもの。] 自分の人差指を 幼な子の口に突き込んだのであつたが、どうやら それは おしやぶり代りに当てがふ積りらしく、幼な子の泣き出した事情も 遣る瀬ないそのかなしみも 知らない母親は 一図に 幼な子が空腹から泣いたもの と解したのであらう。
幼な子は そんな汚いおしやぶりは拒否したけれど、荒いゆすぶりに脳震蕩気味に成つたのか 連続的に泣くのは控へて 時々泣く泣き方に移つて行つた。
その頃は私も さう ジロジロ見るのは悪いやうな気がして 心ならずも ソッポを向いてゐたのだが、やはり どうも 気になつて さりげなく横目でのぞくと、幼な子の顎の下にあるべき涎掛けが ずれてゐて 涎が母親の晴着の襟を汚してゐる。
これはいけないと 直してあげようとしかけたとき 女は隣りにゐる 草色のズボンをはいて 上はシャツだけの 若い男に話し掛け、その言葉は そのまだまるで若い男が[やぶちゃん注:「まだ」はママ。「そのまるで」(およそ父親とは見えない)「まだ」(未婚のような)「若い男」の謂いか。] どうも 幼な子の父親であるらしいことを 私に知らしめ、さうなるといふと 私のしようとすることなどは 当然 その若い父親のすべきことであり、それを 男を さておいて 私がすることは 何か恥をかかせることに成る恐れがある といふことを 私に知らしめた。
そこで 私はやめたのだが、然し、その若い父親は 泣きじやくる幼な子に てんで眼を呉れようとはしないだけでなく、うるさい幼な子の存在に腹を立ててさへゐるかのやうな顔を ツンと 横に向けてゐる。
さうして 襟は汚されるままで、言ひかへると 幼な子は そのかなしみを遂に察して貰へず、一向に顧られない[やぶちゃん注:「かへりみられない」。]ままで いつか 上野へ着いて、さて 私は これが最後だ と 別れの挨拶を 幼な子にかけようとするみたいな想ひで 改めて 眼をやるといふと、幼な子は 母親の濡れた襟に ぴたりと頬をくつつけて、何か 自分から諦めた そんな安らかさで 眼をつぶつて、そして 自分の下唇を 口のなかに食ひ込ませ 乳の出ないそんなものを チクチクと しきりに吸つてゐるのであつた。
幼な子のかなしみが、いや、かなしみとは 常に かういふものなのであらう、――かなしみが ジーンと 私の胸に来た。幼な子が車内から去つた ずつとあとも 私の心には 深いかなしみが残されてゐた。それは 幼な子へのあはれみ といふのでなく、いつか 私自身のかなしみ といふのに 成つてゐた。
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