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2017/08/13

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート13 其十五 「蓑虫の火」 其十六{土用淸水」 其十七「白螺」 + 「新撰七奇」) / 巻之二~了

 

其十五 「蓑虫の火(ひ)」【虫の部にあらず。】何れの所にも限らず、細雨蕭條(しやうじやう)たる夜(よ)、蓑笠に、獨り、路過(みちすぐ)る者あれば、忽然として、蓑の毛(け)に蛍火(けいくは)のごとく光るもの付(つき)、是を拂ひば、忽(たちまち)、蓑毛一面に火移つつて、笠の雫(しづく)手足の濡れたる所まで、盡(ことごと)く光(ひかり)燐然たり。落(おつ)る雨(う)、皆、火をなすことなり。心を靜め、身を動ぜず、過(すぐ)る時は、又、自然に消ゆる。蓑にも限らず、傘(からかさ)・衣類等(とう)、相同じ。又、船中・湖水の中(うち)にもあり。狐狸の怪ならんと云ふ説あれども、左(さ)にあらず。是、鬼火(きくは)なり。「老學庵筆記」『田野(でんや)、麥苗(ばくみよう)・稻穗、雨夜(うや)、忽(たちまち)、火の起(おこ)るを見る。是、古戰場の燐火也』と記(しる)せり。相同じ。

[やぶちゃん注:この崑崙得意の鬼神鬼火原因説を採る発光現象の真相は不詳。当該の発光生物もこの条件ではピンとこない(しかも崑崙は蛍などの昆虫類などの発光説を否定している)。静電気でここまではっきりとは光らんだろうし、球電とか、大槻教授のプラズマ説なら、六十年も生きた私が今までに一回ぐらい見てもおかしくないだろうに、一向、見たこと、ない。識者の御教授を乞う。

「虫の部にあらず」所謂、この名称は、真正の生物としての「虫類(ちゅうるい)」(江戸以前の「虫類」は昆虫だけでなくて爬虫類や広汎な無脊椎動物及び創造生物まで含むので注意されたい)とは全く違う対象及び原因を指しているので注意されたい、という意味の割注である。

「是を拂ひば」ママ。こうした一見すると誤文法にしか見えないものは、今までにもしばしば見かけたが、これだけ多いと、或いは、当時の北越の方言なのかもしれぬ、という気もしてきた。

「老學庵筆記」南宋の政治家で詩人として知られる陸游(一一二五年~一二一〇年)の随筆集。全十巻。野島出版脚注によれば、凡そ『五百八十の項目で雑事を記す』とある。

是、古戰場の燐火也」先の「石鏃」の中の崑崙の鬼神説、「上古、戰場の死氣、凝結して不ㇾ散(さんぜず)。一念、只、鏃を磨(みがき)て敵(てき)に對(たい)せんとす」と相響き合う。]

 

其十六 「土用淸水(どようしみづ)」は古志郡(こしごほり)長岡、蒼紫明神(あをしみやうじん)の山下(さんか)、中沢(なかざは)村【一谷内村と云ふ。】田間(でんかん)小高き所より淸水出る。年々(としどし)、六月土用入前(いるまへ)より、水少しづゝ出(いで)、土用中(ちう)には、淸水、溢(あふ)るゝがごとし。十八日を歴(へ)て、次第に、水、減じて、なし。一説、小松内大臣平(たいらの)重盛の舍弟池中納言賴盛、攝津一谷落城の後(のち)、此國へ來り、蒲原郡(かんばらごほり)三条の城に入る。此頃、中沢村に至り、水を求るに、時、六月の炎暑當たり、無ㇾ得ㇾ水(みづをうることなし)。即(すなはち)、以ㇾ杖(つえをもつて)、地を刺して得ㇾ之(これをう)、と。此説、伏波(ふくは)將軍、源賴義の傳に似て信じがたけれど、何(いづ)れ、此泉(いづみ)の奇賞すべし。

[やぶちゃん注:この清水の流出と停水は特定時期の自然現象という部分では説明し難い。或いは、この山上の明神で同時期に行われた(行われる)特殊な祭事や作業、周辺の農作業等の水路調節或いはその変更時期とリンクしているのかも知れない。以下のグーグル・マップ・データを見ると、当該地の東南直近にはかなり大きな池沼群を現認出来るから、これと何らかの関係がありそうにも思われる

「土用」五行に由来する暦の雑節で、広義には一年の内の不連続な四回のの期間、具体的には「四立(しりゅう)」(立夏・立秋・立冬・立春)の直前の約十八日間に相当する時期を指す。現行では専ら、「夏の土用」即ち、立秋の直前のみが取り沙汰されて鰻食を勧めるばかりに成り下がった。ここで述べているのも旧暦「六月土用」であるから、その時期である。

「長岡、蒼紫明神(あをしみやうじん)の山下(さんか)、中沢(なかざは)村蒼柴神社(あおしじんじゃ)」「蒼紫明神(あをしみやうじん)」は現在の新潟県長岡市にある悠久山山内にある蒼紫神社(新潟県長岡市悠久町)。ウィキの「蒼紫神社」によれば、当初は祭神である越後長岡藩三代目藩主牧野忠辰(ただとき)の『尊号の蒼柴大明神と呼称されたが、神仏分離令により現在の名称となる。創建当初は長岡城内にあったが、後に悠久山に移り、北越戦争で長岡城が落城すると一時期、栃尾に遷座するが終戦後に現在地に安置』。享保七(一七二二)年に既に隠居していた牧野忠辰が死去したが、『これを通達された京都の神祇道管領の吉田家より、故人忠辰に蒼柴霊神の神号が贈られる。このために養嗣子で当時の藩主牧野忠寿が長岡城東隅に社殿を造営して忠辰の霊璽を奉安したのが始まり』とする。明和三(一七六六)年に牧野忠精(ただきよ)が第九第藩主藩主となると、『社殿の城内からの移転が計画され』、最終的に天明元(一七八一)年八月八日に『遷宮式が行われて現在地に移転』したとある。本書刊行は文化九(一八一二)年であるから、この社殿は現在地と考えてよいここ(グーグル・マップ・データ)。

「小松内大臣平(たいらの)重盛の舍弟池ノ中納言賴盛」トンデモ誤り「小松内大臣平(たいらの)重盛」(保延四(一一三八)年~治承三(一一七九)年)は平清盛の長男であり、「池ノ中納言賴盛」は清盛の異母弟平頼盛(長承二(一一三三)年~文治二(一一八六)年)のことである。頼盛は清盛の男兄弟の中で壇ノ浦の戦い後も、唯一、生き残った人物として知られるが、頼盛は後白河院の命を受ける形で実は秘かに源頼朝と通じていたと考えられ、源平の最終合戦前後も一貫して頼朝から厚遇されている。彼は源平合戦開始後も京に残留し、木曾義仲の京都制圧(寿永二(一一八三)年七月末)から数ヶ月後、鎌倉に亡命(鎌倉到着は閏十月頃か)しており、その後、翌年には京に戻って朝廷に出仕している。元暦二(一一八五)年三月、平氏一門は壇ノ浦の戦いで滅亡するが、それから程なく頼朝に出家の素懐を申し送って了承を得、五月二十九日に東大寺で出家し、法名を重蓮と改め、翌年、享年五十四で病没(推定)している。晩年の彼は京では全くの「過去の人」であった。無論、彼が越後に行ったという事実は全くない。行く必要もない但し、越後には「越後池氏」という平頼盛の後裔を名乗る一族がおり、また、新潟県には平頼盛の伝説を伝える地が多く存在することも事実ではある。ウィキの「池氏によれば、『出自については、実は平氏ではなく高志池君(垂仁天皇の末裔を称する皇別氏族)の子孫であったとする説もある』とあり、親不知に伝わる伝承では、『壇ノ浦の戦い後に助命された頼盛は越後国蒲原郡五百刈村(現在の新潟県長岡市)で落人として暮らしていたとされ、現在でも』「池」姓は『新潟県中越地方に多い苗字である』とある(下線やぶちゃん)。ここにも出る『三条、蒲原郡周辺には越後池氏の伝承が多く伝えられているが、確実な史料での初見は池宮内大夫頼章、頼定兄弟相論への幕府による裁許の』弘安一一(一二八八)年の関東下知状で、この当時、『池氏は下総大夫盛氏を惣領地頭とする福雄荘(新潟県燕市)の一分地頭であり、弥彦神社の神官も務めていた』。元応二(一三二〇)年のクレジットを持つ『池新大夫為定が関東御公事の勤めをはたすことができないとの理由で所領を譲り渡している史料』『から、池一族は吉河荘(長岡市)にも所領を領有していたことがわかる。越後池氏に関しては、出自を含め不明なことが多いとされるが、近年、福雄庄や吉河庄が関東御領の可能性があると考えられること、「池大納言所領相伝系図」』『では、池大納言家保業流の維度、宗度は河内大夫と通称しており、越後池氏の一族も「大夫」を通称としていることなどから、関東祗候の家であった保業流の一族が越後に入部した説も唱えられている』元弘三(一三三三)年。鎌倉幕府滅亡の際、『討幕軍に参加した越後勢として池七郎成清』『の名が認められる』。『鎌倉後期には関東御領の多くが北条氏領とされているが、前述の池兄弟相論の地は最終的には北条氏の護持僧の所領とされており、北条氏に圧迫され』て『所領を奪われていったことが、池氏が討幕軍に参加した理由ではないかと推論されている』。『南北朝時代には南朝方として三条周辺や山古志に勢力を持ち、北朝方の中条氏らと争った記録がみられる。のちに北朝方となり足利尊氏に従った』とあるので、この話、この「池」一族が頼盛の末裔を僭称するために捏造した話として読み換えるなら、腑に落ちる

「攝津一ノ谷落城」「鵯越の逆落とし」で知られる「一ノ谷の戦い」は寿永三/治承八年二月七日(一一八四年三月二十日)、摂津国一ノ谷(現在の神戸市須磨区内)で行われ、搦手の大将源義経が丹波城(三草山)を、次いで、一ノ谷を落した。平氏は屋島へと敗走して鎌倉方の完全勝利に終わった。

「蒲原郡(かんばらごほり)三条の城」既出既注。既に本書の頃は廃城(寛永一九(一六四二)年の幕命による)となっており、往時の城は現在の新潟県三条市上須頃(かみすごろ)の附近(グーグル・マップ・データ)にあったと推定されているようである。

「中沢村」現在の新潟県三条市中沢であろう。三条城跡から南東に九キロメートルほどの山中。

「以ㇾ杖(つえをもつて)、地を刺して得ㇾ之(これをう)」これは弘法大師お得意の奇瑞。

「伏波(ふくは)將軍」新末期から後漢初期の武将馬援(紀元前一四年~四九年)のこと。後漢王朝の初代皇帝光武帝の強い信頼を受け、多くの反乱を征討した。四〇年に交州(現在のベトナム北部附近)で徴姉妹が反乱を起こしたが、翌年に伏波将軍に任ぜられてこれを鎮圧している。「杖刺し水湧く」に類する彼の故事は知らぬ。識者の御教授を乞う。

「源賴義」源家のチャンピオン源義家の、彼とともに前九年の役で安倍貞任を討ち、安倍氏を滅亡ささせたことで知られる義家の父源頼義(永延二(九八八)年~承保二(一〇七五)年)。同じく「杖刺し水湧く」に類する彼の故事は知らぬ。識者の御教授を乞う。]

 

其十七 「白螺(しろたにし)」。前に記(き)する古志郡(こしごほり)諏門山(すもんさん)芦ケ平村(あしがひらむら)馬追ケ池(むまおひがいけ)にあり。他邦の人、至(いたつ)て是を見んことを求むれども、村老(そんらう)、敢て、許さず、「今は、なし」と答ふ。是、地神(ちじん)の惜しむ所にして、山、大に荒(ある)る故なり。六月、雪を下(くだ)し、風雨・洪水あり。故に、恐れて、樵夫(しようふ)も、猶、至らず。今は他邦の人に池を見することだに、許さずと云へり。弱冠の頃、四月廿四日、此所(このところ)に至(いたり)て、路を失(しつ)し、黄昏(たそがれ)に吉ヶ平(よしがひら)に出(いで)、宿を求む。翌日より、風雨激しく、六日まで留宿(りうしゆく)せしが、其中(そのうち)、村老に請(こふ)て、山中七池水(ちすい)、盡(ことごと)く見物せり。

白螺(しろたにし)は田螺(たにし)の白きものなり。

[やぶちゃん注:「白螺(しろたにし)」既出既注であるが再掲しておく。腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae の殻色は白っぽい感じから淡褐色であって、大型個体になると、殻の表面が剥げてそこが有意に白っぽく見える個体も多い。但し、私は、ここで村民が殊更に隠すというのは、実はタニシの生体個体ではなく、鮮やかに白くなった山上の地層や池塘の底から出土する化石化したタニシではないかという疑惑を持っている。孰れにせよ、奇ではない。

「古志郡(こしごほり)諏門山(すもんさん)芦ケ平村(あしがひらむら)馬追ケ池(むまおひがいけ)」よく判らんが、この「諏門山」というのは現在の新潟県魚沼市・三条市・長岡市に跨る守門岳(すもんだけ:標高千五百三十七・二メートル)のことではないか? ここ(グーグル・マップ・データ)。山岳家の個人サイトを縦覧して見ると、三条市になるこの守門岳から北に連なる尾根を行った直線で五キロほどの位置にある番屋山の北側の登りの沢の名を「馬追沢」と呼んでいることが判った。しかも、さらに地図を精査してみたところが、この番屋山から北東一帯は新潟県三条市「吉ケ平(よしがひら)」ここ(グーグル・マップ・データ))なんである! これこそ「芦ケ平(あしがひら)」「吉ヶ平(よしがひら)」と考えてよかろう!! そうして! 遂に! この吉ヶ平の北地区にある「雨生ヶ池」は「まごいがいけ」と読むことを突き止めた!! 「まごいがいけ」は「むまおひがいけ」だろッツ!! こういう発見は地図好きには、何とも! こたえられない快感なんである!!!

「地神(ちじん)」(「ちがみ・ぢがみ」とも)「ブリタニカ国際大百科事典」から引く(コンマを読点に変更し、アラビア数字を漢数字に代えた)。『日本の農村で特定の集団と関係する縁起をもち、特定の土地に祀られる機能神の総称。祖先信仰を基盤に、歴史的地域的に多様な信仰と結びついて発展を』遂げた『全国的規模の信仰であるが、呼称は地方によって異なる。信仰内容から次の三種に類別することができる。(一)一村または一集落単位の地縁集団が、土地の守護、農耕の神として祀る。包括神的性格を』持ち、『村の辻や神社の境内などに祀り、春秋の彼岸を祭日とする。地神講と称する講を組織する地方もあり、順番に宿をして祭りを行うこともある。(二)特定の家の田畑などに祀り、その田や畑を開拓した人を地神とするもの。田畑の守護神であると同時に、その家の開拓先祖として信仰されることが多く、祭場を屋敷内に』置いて、『屋敷神としての機能をもつことがある。(三)家人が死んで三十三年を経過すると、地神と呼ぶ祖先神になるというもの。多くは屋敷の一隅に常設の祠(ほこら)や』藁で作った『仮屋に祀る』。

「山中七池水」現在の三条市吉ケ平にも「雨生ヶ池」の他に「大池」を現認出来、さらに国土地理院の地図を精査すると、この二つの池の間を流れる守門川の両岸には二つの小さな池塘も認められた。最後に! 「まこと&かよこの山記録」という個人サイト内で吉ヶ平歴史散策ツアーというページを発見! 多分、私は実際に行くことはないこの「雨生ヶ池」の写真を見ることが出来た!!! 感無量!!! 因みに、その解説に『番屋山の下の文字に馬追沢とある』。『この池は馬が追われて池に落ちたとの説もあり』、『池の源流は馬追沢という名になっているとの事』(下線やぶちゃん)とある。

 なお、以下の最後の総括附言は、原典では全体が二字半下げになっている。この附記は崑崙の智に対する非常な厳密さと謙虚さを如実に示している。崑崙先生! わて、好きやねん!!!]

 

今の七奇を撰(ゑら)ばんとするに、古(いにしへ)の七奇の内(うち)、捨(すつ)べからざるもの、あり。新に加(くはへ)んと欲する物、あり。然(しか)れば、假令(たと)へ、今、他邦に同(おなじ)奇(き)を出(いだ)すと雖も、奇なるものは、即(すなはち)、奇なり。又、後(のち)の人、時の重きに從つて、後の七奇を撰述(せんじゆつ)し給ふべし。

 

 

 

    新撰七奇

 

「石鏃(せきぞく)」

「鎌鼬(かまいたち)」

  此二奇、古の「海鴨」・「白兎」に易る。

  新撰、「海鳴」は常に聞くべからず、

  「白兎」は近國、余類、甚だ多き故、

  除ㇾ之。

「火井(くはせゐ)」

「燃土(もゆるつち)」

「燃水(みづ)」

「胴鳴(ほらなり)」

「無縫塔(むはうとう)」

  此五奇は古より賞称するところをあらためず。

 

    右

 

北越奇談巻之二終

 

[やぶちゃん注:底本は解説部分全体が二字下げであるので、以上のような改行を施して原典の雰囲気を出した。無論、鍵括弧は原典にはなくて単に字空けで繋がっている。野島出版版では字空けなしで中黒が名数の間に打たれてある。最後なので贅沢にそれぞれ改行して並べ、ポイントも大きくし太字とした。

「易る」「かへる」。

「新撰」今回の私の提示する「新撰七奇」では、の意で、以下、「海鳴」は最近ではもう殆んど全く聴くことがなくなってしまった故、また「白兎」は越後の近国でも同様の毛の季節変化を示す兎が非常に多く見られることから越後固有の「奇」とは認められぬから、「除ㇾ之」(これをのぞく)と述べているのである。

「燃水(みづ)」「もゆるみづ」。

「古」「いにしへ」。]

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