「北越奇談」の作者が棲んだという「池端」の考証情報を拝受
「北越奇談」で橘崑崙茂世が壮年期に澄んでいた「池端(ちたん)」は固有名詞で、それは新潟県新発田市池ノ端(ここは寄合旗本溝口家越後池端五千石の陣屋があった)ではないかという、詳細な検証を添えたメールを未知の方より、つい先ほど、拝受した。
それは地理的な位置からも崑崙の叙述から、すこぶる納得の出来る地理条件にあることが判り、これは幾つかの複数の注を大幅に変更する必要が生じた。
それは地理的な位置からも崑崙の叙述から、すこぶる納得の出来る地理条件にあることが判り、これは幾つかの複数の注を大幅に変更する必要が生じた。
私事上、それらを直ぐに訂正する余裕がないので、ここに、その新たな御教授を受けた事実を示しおいて、向後、幾つかの注を大きく変更することになることを先に申し述べておきたい。これは先に同定してこれだと述べた場所や寺なども、全く違ったものとなることになる(既に幾つか誤りであることが、ほぼ判明した)。
因みに、そこで最後にその方は、作者崑崙橘茂世は実は、『池端陣屋に関係する現地雇用の手代、手先のような者ではなかったでしょうか?』 『鬪龍の条の竜巻発生状況、被害が詳しく、飛脚便の書類を目にできる立場にあるような気がしました』と述べておられ、思わず、「そうか!」と独りごちてしまったほどである。
また、未知の方に導かれた。
因みに、そこで最後にその方は、作者崑崙橘茂世は実は、『池端陣屋に関係する現地雇用の手代、手先のような者ではなかったでしょうか?』 『鬪龍の条の竜巻発生状況、被害が詳しく、飛脚便の書類を目にできる立場にあるような気がしました』と述べておられ、思わず、「そうか!」と独りごちてしまったほどである。
また、未知の方に導かれた。
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