北越奇談 巻之一 巻水
巻水(けんすい)
同年八月十三日、朝五ツ時、新潟を出舩(しゆつせん)して池端(ちたん)の幽荘に歸らんとす。伴ふ者一人、乘り遲れて後舟(あとぶね)一丁ばかり引下(ひきさが)りて來りぬ。予が乘合は、湯殿山詣、尾州の道者、十八人なり。殊に晴天一片の雲なく、風、朗(ほが)らかに、景色、云ふばかりなし。湊口(みなとぐち)は難なく打渡り、沼垂(ぬつたり)の裏潟(うらかた)より、新渠(しんかは)一里ばかり、舟子(ふなこ)に綱手(つなで)引かせて急ぎけるが、忽(たちまち)、海上(かいしやう)、一(ひと)群れの雲(くも)起り、瞬(またゝき)の中(うち)に、半天の掩ひ、數(す)條の雲、曳下(ひきくだ)り、已に波上(はしやう)、五、六間にもなりぬと覺ゆる頃、頻りに雲尾(うんび)轉じ、忽(たちまち)、白波高く湧上(わきあが)り、雲尾に接(まじは)ると見へしが、一條の白氣(はくき)、黒雲(こくうん)の中に立昇ること、數(す)十丈なり。巻上げたる水は、半(なかば)より斷(たち)て落(おち)ぬ。海上、猶、浪(なみ)湧きて、窪(くぼ)かなる穴をなせるがごとし。白氣、雲中(うんちう)に入ると等しく、驟雨(しうう)、瀧を峙(そばだ)つるがごとく、咫尺(しせき)の間(あいだ)も分(わか)たばこそ、船中、忽、水溢(あふ)れ、笠を漏(も)り、蓑を通し、乾ける所は更になし。漸(やうやう)晴上がりて、
「後(あと)なる舟は如何に。伴ふ者は無事なるか。」
と顧省(かへりかへりみる)ほどに、間もなく、出來(いできた)り、互へに其危(あやう)きを語れば、纔かに後(おくれ)たる舟は、
「一点の雨なく、風の強きこと、舟を中空(なかそら)に飛(とば)すごとくなりし。」
となん。
如何に不思議なる龍(りやう)の神変、計(はか)り難きことどもなり。
予も、此日、初めて龍の水を巻く所を目前に見つるが、是を以考(もてかんがふ)るに、世に龍の水を卷くと云へるは無(なき)にしもあらねど、多くは水中の龍、雲を呼び、水を曳(ひい)て上天(しようてん)すると覺(おぼへ)たり。此日、遠方より見たる人の物語るには、
「十三條が雲、曳下(ひきくだ)りたる。」
と云へり。されども、近く是を見れば、雲、數(す)條の中(うち)、只、一條の大雲(だいうん)、波上(はしよう)に近付(ちかづき)、切(しき)りに轉ずる時、水中より浪湧き、海底、轟き渡りて、一條の白氣、空を突(つき)て登る。然(しか)れば、十三條曳下(ひきくだ)るとて、十三龍(りやう)の水を巻くにはあらず。水中の龍、みづから、雲を呼ぶに依りて、引連(ひきつれ)、數(す)條の雲を相迎(あいむかふ)ると覺(おぼへ)たり。故に、初め、靑空(せいくう)一点の雲を呼びて後、如ㇾ此の化(くは)をなす。只、雲中の龍、水を得ざる前は靜かにしてあるべきいはれなし。又、龍(りやう)の説、紛々、追(おつ)て、智者の論を聞(きか)ん。
[やぶちゃん注:前話の僅か十二日後に、やはり筆者橘崑崙が実体験した水上での水を吸い上げる竜巻の実見記。恐るべき実録記載の三連投!!!
「同年八月十三日」前の竜巻二本の発生は、実は場所もごく近い。先のそれは「寛政三辛亥(かのとゐ)年(どし)八月朔日」でグレゴリオ暦一七九一年八月二十九日午後四時前後であったが、今回のそれはグレゴリオ暦一七九一年九月十日の「朝五ツ時」で、定時法なら午前八時前後であるが、不定時法ではこの時期では今少し前の午前七時四十五分頃から八時頃に相当する。
「池端(ちたん)」前話に出るも不詳。しかし、今回の方向は、
「新潟」→「湊口(みなとぐち)」(正確な位置不詳。信濃川河口付近か)→「沼垂の裏」手→「新渠(しんかは)」(=通船川)【以降は追記注を参照】
で、先の実録談の進行方向とは逆のように思われ、そうすると、「池端」=三条のどこかとする私の仮説は崩れることとなってしまう(但し、これはあくまで現在の地図上での新潟地誌に冥い(しかし、落された新潟大学入試の地理の問題には必ず新潟地誌の問題が出るため、高校時代に人よりは新潟の地誌をかなり細かく学んだことを、いまさらに私は思い出しした)私の愚考ではある)。再度、越後地方史研究者の御教授を乞うものである。【二〇一七年八月二十六日追記】「北越奇談 巻之四 怪談 其八(崑崙の実体験怪談)」でこの場所をかなりの所まで絞り込むことが出来たので是非、参照されたい。【二〇一七年八月三十一日削除・追記】前の「巻之一 鬪龍」の「池端」の注追記で示した通り、H・T氏の考証により、私の位置認識が全く以って誤っており、これは新潟県新発田(しばた)市池ノ端(いけのはた)(ここ(グーグル・マップ・データ))であることが判明した。H・T氏のこの注への御指摘によって、ここでの崑崙の動きも地図上での整合性をとることが出来ることが判った。同氏のメールから引用させて戴く(一部の表記・表現を加工させて貰った)。
《引用開始》
実際の経路は、「新渠(しんかは)」(=通船川)から阿賀野川出て、対岸の新発田川に入り、大田川と新発田川の合流点で大田川に入り、そのまま遡って池之端陣屋までとなります。
此れはウィキの「新発田川」に載る輸送路としての『新発田から新潟までのルート』の、『猿橋-舟入-中ノ橋-三賀(堰)-佐々木-笠柳(堰)-木崎-島見-津島屋-通船川-焼島潟-栗の木川-信濃川-新潟』の逆方向で、途中で分岐したものです。
なお、池之端陣屋は戦国時代の池之端城(大田川左岸の自然堤防上の城)跡で、南東側外郭に作られています(参考:秋田城介氏のサイト「秋田の中世を歩く」の「池之端城」)。
《引用終了》
「幽荘」世間から離れてひっそりと静かな隠宅。
「一丁」百九メートル。
「湯殿山詣」山形県鶴岡市と同県西村山郡西川町に跨る、月山・羽黒山とともに出羽三山の一つとして知られる修験道の霊場湯殿山。月山南西山腹にある。標高千五百メートル。
「尾州」尾張国。
「道者」「同者・同社」とも書き、神社・仏閣・霊場などを連れ立って参詣する巡礼。老婆心乍ら、ここは、同船していた乗客は自分以外は「湯殿山詣」での帰りの「尾」張国の巡礼の人々「十八」名(+他船頭二人で計二十一名であろう。後に「綱手」と出るのは、川幅が狭く、流れが比較的緩やかな運河河川などを流れに逆らって遡上する際に土手に「舟子(ふなこ)」の一人が上り、小舟に繋索した綱を持って曳き、運行させる方法と読んだ。そのためには舟には〈今一人の繩及び微妙な操船を担当する船頭〉がいなければ、危険だからである)であったという謂いである。舟の定員数もある程度は決まっていたのであろうが、冷静確実な記憶に私は舌を捲く。
「半天の掩ひ」「の」は野島出版版も「の」で、原典を見ても、「の」の崩し字とするのが確かに最も無難であると私も判断してかくしたが、ここは「半天を掩ひ」とあるのが最も自然で、格助詞「の」では逆立ちしても読めないと思う。或いは崑崙の現行を彫った彫り師の誤刻かも知れぬ。
「五、六間」九メートル十センチから十メートル九一センチ。
「雲尾(うんび)轉じ」積乱雲の底から漏斗状に雲が回りながら垂れ下がって来るのを「尾」が「轉じ」たと言っているのである。そうして「忽(たちまち)、白波高く湧上(わきあが)り、雲尾に接(まじは)ると見へしが、一條の白氣(はくき)、黒雲(こくうん)の中に立昇る」とは竜巻が海上で海水を吸い上げ、遂にはそれが大きな水柱となり、「海上」表面には吸引されている地点に「窪(くぼ)かなる穴をなせるがごとし」であった、という水上での竜巻の一連の発生及び形成過程を実に冷静に子細に観察している。崑崙、恐るべし!
「數(す)十丈」一丈は三・〇三メートルであるから、約百八十二メートル前後(私は「数」という不定数詞は六掛けを基本としている)。
「半(なかば)より斷(たち)て落(おち)ぬ」
「白氣」ここは五行説のそれではなく、竜巻の中央部で圧縮された水とその中空での転回がかく見えたものであろう。
「驟雨(しうう)」急に降り出す雨。対流性の積雲や積乱雲から降る雨で、降水強度が急激に変化し、降り始めや降り止みが突然で、空間的な降雨分布を見ても変化が大きく、散発的であることを特徴とするもの。中でも特に短時間で止む一過性のそれを「俄か雨」と呼称する(ウィキの「驟雨」に拠った)。
「瀧を峙(そばだ)つるがごとく」瀧を自分の傍に持ってきて、屹立させたような感じで。
「咫尺(しせき)の間(あいだ)も分(わか)たばこそ」ほんの僅かの距離や時間も冷静に目測・計測出来ないほどに、一瞬のうちに。結びの省略及び近世以降に生ずる「ばこそ」の形での否定の意の用法。
「笠を漏(も)り」野島出版版や原典は「笠をもり」と平仮名。意味が採り難いと判断して、かく漢字化した。
「互へに」原典のママ。
「龍(りやう)」以下、原典では総て「りやう」のルビを振る。読者のために幾つか複数箇所に特異的に読みを複数回振っておいた。
「十三龍(りやう)」十三頭の龍(りゅう)。
「如ㇾ此」「かくのごとく」。
「化(くは)」化生(けしょう)の謂いであるが、事実上は科学的な見かけ上の変化や象の謂いでとっても全く論理矛盾を生じないところが崑崙の凄いところではないか?! 言い添えておくと、本書冒頭の私の注の中のウィキの引用にもあった通り、崑崙はかなりの現実主義者であり、怪奇現象をあまり信じていなかったことが、本書全体の雰囲気からは窺われるのである。]