北越奇談 巻之一 龍種石
龍種石(りうしゆせき)
關(せき)の奧、黑嶽(くろがたけ)に滝谷明神(たきだにみやうじん)あり。
社前に、形、如ㇾ卵、丈(たけ)七尺餘りなる、靑黑(せいこく)にして潤沢、殊に常ならざる石あり。祭事には、必(かならず)、近村の少年、多く集りて力を競ひ爭(あらそ)ふといへども、數(す)十人にして、さらに動(うごか)し轉ずること、あたはず。
然(しか)るに、過(すぎ)し年、十月の頃ならん、一日、雷雨・暴風ありて、大木を引拔き、石壁(せきへき)を崩し、一條の雲龍(うんりやう)、渦卷き下りて、かの社前の石を卷(まき)、乾(いぬゐ)の方(かた)に飛(とび)さりしが、半里ばかり持行(もちゆき)て、大澤(だいたく)の中(うち)に落(おと)し去りぬ。
又、翌年秋九月、如ㇾ例、風雨夥(おびたゞ)しく起り、かの大石(たいせき)を引上げ、五、六丁、巻(まき)去りしが、其山下(さんか)に修善寺と云へる禪院の後ろに落したり。其響(ひゞき)、山を動(うごか)し、大雨水(たいうすい)、寺内に溢(あふ)れ、半時(はんじ)ばかりが程は、平地(へいち)、一尺の水あり。
扨、寺僧を始め、村中の者ども、多く集まり來りて、是を見るに、其前(そのさき)、澤中(たくちう)に落(おとし)たる石なり。然(しから)ば、
「此石、龍神(りうじん)の惜しむ所。」
と覺(おぼえ)つれば、
「此地に捨置(すておか)んことも却つて危(あやうき)を待(まつ)に似たり。」
「左(さ)は云へ、此石、人力(じんりよく)の容易(たやす)く移すべきにもあらず。」
「如何(いかゞ)せん。」
と、囁き合へるに、和尚の曰く、
「是は定(さだめ)て龍種(りうしゆ)なるべし。只、打碎(うちくだき)て捨(すつ)るにしかじ。」
と、石工(せきこう)を呼びて、是を切(しら)しむ。
工人、即ち、石脈を截(た)ち、油を差し、「矢」と云へる物を入(いれ)て、終日(しうじつ)、是を打(うて)ども、破(やぶ)れず。
翌日、數(す)十人を催して打(うた)しむるに、忽、金石(きんせき)の碎くる響(ひゞき)ありて兩斷し、其央(そのなかば)、少(すこし)き空所(くうしよ)ありしが、小蛇(しようじや)四ツ、蠢(うごめ)き出づ。
「されば。」
とて、是をも打殺さんとするを、和尚、又、急に制して、溪流に捨てたり。
又、五華山(ごくはさん)の中嶺(ちうれい)、出湯(いでゆ)の奧に、斷岸(だんがん)數(す)十丈の飛泉(たき)あり。其上に「龍(りやう)の劍堀(けんぼり)」と云へるもの、三、四ケ所にあり。しかも、數丈一堅(すじよういつへき)の大石(たいせき)にして、人力(じんりよく)の及ぶ所にあらず。古(いにしへ)より、時ありて、龍(りやう)、此所(このところ)に下(くだ)り、猶、深く、其石を穿(うがつ)つ内(うち)窪(くぼ)かなる形、自然にして、茶臼(ちやうす)のごとし。如何なる故ありてか、龍(りやう)の此(この)工(たくみ)をなせることを知らず。
是等も、即(すなはち)、龍種石(りうしゆせき)の類ひならんか。
總て、此近村、旱(ひでり)する時は、百姓大勢、其嶺(みね)に集まり登り、小石をもつて其劍堀(けんぼり)に抛(なげ)打ち、深く埋(うづ)みて下(くだ)る時は、忽、大雨(たいう)し、抛(なげうち)たる小石、盡(ことごと)く拂(はら)ひ去りぬ。「瑯環記(らうくわんき)」、『水仙子有一圓石如ㇾ卵。一日風雨タリ。石忽破小虫出。即呑硯中水曳雲上去。』トアリ。此類(たぐひ)なるべし。
[やぶちゃん注:「龍種石(りうしゆせき)」龍の卵のような石の意。
「關(せき)の奧、黑嶽(くろがたけ)に滝谷明神(たきだにみやうじん)あり」不詳。一つの候補地は現在の南魚沼市瀧谷にある瀧谷神社である(ここ(グーグル・マップ・データ))。南東奥に「無黒山」や「黒岩峰」というピークがあるからであるが、「關」が判らぬ。新潟で「關」となると、北の新潟県岩船郡関川村があるが、「奥山」ならあるが、「黑嶽」や「滝谷明神」が見当たらぬ。近くにある禅寺「修善寺」が頼みの綱と思ったが、新潟県内に現在、同名の寺院すら見当たらぬのだ。お手上げ。識者の御教授を乞う。
「如ㇾ卵」「たまごのごとく」。
「丈(たけ)七尺餘り」高さ約二メートル十二センチほど。
「潤沢」潤(うるお)いに満ちた色艶(つや)があること。
「乾(いぬゐ)」西北。
「如ㇾ例」「れいのごとく」。ここは前段を受けて、前の年の十月の時途同じような、の意。
「五、六丁」五百四十六~六百五十五メートルほど。
と云へる禪院の後ろに落したり。其響(ひゞき)、山を動(うごか)し、大雨水(たいうすい)、寺内に溢(あふ)れ、半時(はんじ)ばかりが程は、平地(へいち)、一尺の水あり。
「是は定(さだめ)て龍種(りうしゆ)なるべし。只、打碎(うちくだき)て捨(すつ)るにしかじ」と和尚が言ったのは、それが真正の龍の卵たる龍種石であるとすれば、そこから昇龍が化生(けしょう)する可能性が大であり、その場合は、とんでもない天変地異が発生し、物損は勿論、人的被害も生じ得る以上は、龍が生まれないように粉砕して捨てるべきであると考えたのであろう。逆に後でその石から出現した「小蛇」四頭を殺さなかったのは、それらがただの小蛇でなく、真正の龍となるべき属性を内包している龍の子のプロトタイプである場合、それを殺すことで逆にまた想像を絶する天変地異が発生する可能性を恐れたのであろう。
『油を差し、「矢」と云へる物を入(いれ)て』「矢(や)」(鍵括弧は私が附した)は叩いて割るために噛ませる楔(くさび)のこと。油を差すのは、その「矢」を摩擦を減らしてより深くぴったりと食い込ませるため。
「五華山(ごくはさん)の中嶺(ちうれい)、出湯(いでゆ)の奧」「數(す)十丈の飛泉(たき)あり」「龍(りやう)の劍堀(けんぼり)」これらから推定したのは新潟県新発田市荒川にある剣龍峡である。新発田市の月岡温泉のすぐ奥にあること、峡谷名だけでなく、実際の展望ポイントに「龍の剣堀」という場所が現在もあること、同峡谷には複数の滝が現在もあるが、その中の「つむじ倉滝」は、落差が実に八十五メートルもあること、「五華山」が判らぬが、この剣龍峡は多数の高峰に囲まれており、南方には「五頭連峰」という山塊が存在することなどから、最有力同定候補として挙げておく。
「其石を穿(うがつ)つ内(うち)窪(くぼ)かなる形、自然にして」「穿(うがつ)つ」は原典のママ。野島出版版もかく活字化している。問題はここをどう読むかである(野島版は注も何もない)。私はまず、
「其石を穿(うがつ)つ【しつる】内(うち)【に】窪(くぼ)かなる形【の】自然にし(=生じ)て」
と読んでみた。次に、単にルビの「つ」が衍字なのであって、
「其石を穿(うが)つ内(うち)、窪(くぼ)かなる形、自然にして」
と読んだ。後者の方が無理がないし、外をわざわざいじくる必要がないから、後者を私は最終的に採る。
「茶臼(ちやうす)」碾茶(てんちゃ:覆いをした茶園の若芽を摘んで蒸した後、通常の茶のように揉まずに、そのまま乾燥して製した茶)を挽(ひ)いて抹茶にするための挽き臼。。穀物用の臼よりも小振りで、丈が比較的高い。
「瑯環記(らうくわんき)」元の伊士珍が書いた神仙小説集。全三巻。「琅嬛記」とも書く。
『水仙子有一圓石如ㇾ卵。一日風雨タリ石忽破小虫出。卽呑硯中水曳雲上去』底本のだらだらルビに従って試みに訓読してみると、
水仙子(すいせんし)、一(いち)圓石(えんせき)有りて、卵(らん)のごとし。一日(いちじつ)、風雨たり。石、忽ち、破れて、小虫(しようちう)、出づ。即ち、硯中(けんちう)の水を呑み、雲を曳いて、上(のぼ)り去る。
である。中文サイトによれば、これは同書の「卷下」に出る「修眞錄」なる書を出典とする以下で、崑崙の引く原文とはかなり異なる。
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水仙子爲南溟夫人侍者、手恆弄一圓石如鳥卵、色類玉。後以贈靑霞君、靑霞君以爲經鎭。一日誦陰符經、忽大風雨、其石裂破、有一蟲走出、狀若綠螈、就硯池飲少水、乘風雨飛去、蓋龍也。石隨合、略無縫痕。
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因みにこの原文では、石から走り出た生物の形状は緑色をした「螈」のような感じの生き物であったとしているが、この「螈」は両生類のイモリのことである。なお、野島出版脚注には、『士珍の自注に其の事は元の観手抄に出づというが觀手抄は何の書たるかは不明。記する所おかしい話が多いから恐らくは明人、桑懌』(そうえき:実は本書は明代のこの人物が士珍作と仮託した偽書であるらしい)『の馬鹿げた話であろうとなされている(漢和大字典より)』とある。]