北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート3 其二「箭ノ根石」(Ⅲ)~この石鏃の条は了)
[やぶちゃん注:実際には原典ではここに最初に掲げた三葉に亙る石器図が入る。以下は驚天動地の崑崙の石鏃鬼神創造説の主張と、中華第一主義への強い疑義である。]
右數品(すひん)、あらまし、如ㇾ此。諸方の風子(ふうし)、よく是を知る。只し、此一奇は羽州をもって祖とすべけれど、今世(こんせい)、北越、此奇、夛(おほき)がゆへに、他邦より是を求むる者、必、予が國を以つて名とす。[やぶちゃん注:ここにある以下の改行は原典のママ。以下、崑崙と批判者の対話形式であるので、読み易さを図り、直接話法を改行して示した。]
或る人の曰(いはく)、
「汝、頻りに鬼神を信じて婦女子のごとし。豈(あに)鬼神手足(しゆそく)有(あつ)て、この工(たくみ)ミをなすことあらんや。」
予が曰、
「鬼神、又、なきにあらず。「易」に、『遊魂(ゆうこん)変をなす』、是なり。鬼神、又、手足有(あつ)て、鏃(やじり)をつくり出(いだ)スには、あらず。上古、戰場の死氣、凝結して不ㇾ散(さんぜず)。一念、只、鏃を磨(みがき)て敵(てき)に對(たい)せんとす。其氣、石を穿ツて、忽(たちまち)、此形を成す。前にも云へる如ク、氣を以つて制するほど強きは、なし。六月、雪を下(くだ)し、三年、雨、降らざるの類(たぐひ)、匹夫(ひつふ)の恨(うらみ)だに如ㇾ此(かくのごとし)。まして戰死の遺恨をや。只、其(それ)、汝、此國の奇を爭(あらそ)はゞ、予一人を屈するにあらず。汝も又、自(みづから)生國(しようごく)を辱(はづかし)むるなり。於ㇾ是(こゝにおゐて)因(ちな)ミに云ふ。或人、兩三輩、語(かたつ)て曰、
『我、聞く。羽州男鹿島の(おかじま)中(うち)、蘇武(そぶ)の碑ありと。然(しか)れば、蘇武、此國に莭死(せつし)せること、明かなり。是、一快事(いちくはいじ)にあらずや。』
と。予笑(わらつ)て曰、
『公等(こうら)、聖人の道を尊(たつと)んで中華を賞(しよう)ずるは左(さ)もありなん。何ぞ、本邦をして強(しゐ)て夷狄(ゐてき)の國と成し、是を快事なりとせば、即、公等も又、左襟不毛(さきんふもう)の辱しめを得るにあらずや。是、好奇の淫(ゐん)たるべし。』
又、云(いふ)、
『國字と雖も、章を文(あや)どるは、予が等(とう)の及難(およびがた)きものと見へたり。西海(さいかい)の蟠龍子(ばんりうし)、「俗説辨」を著はす。其中(うち)、本邦の奇事を論ずる所に至(いたつ)ては、必(かならず)、云ふ、「此國何々を以つて奇となす。是、何ぞ奇とするに足らん【中華の書を引く。】。如ㇾ此(かくのごとく)、かの國、已にあり」と記せること、數ヶ條(すかじやう)なり。予密かに笑ふ。是、彼(かの)國を賞して本邦を辱しむるの文躰(ぶんてい)なり。予是を論ぜば、中華の書何々(なになに)を擧げ、記(しる)すれども不珍(ふちん)とす。「本邦、巳に此奇あり。即、是なり」と、本邦、かの國に不減(ふげん)の賞を記したきことなり。又、蟠龍子、自(みづから)言(いふ)、「此(この)『俗説辨』を謗(そし)れる人ありと聞けり。請ふらくは、其人に面して高論を聞(きか)ん。是、我(わが)願ふ所なり」と記せり。予近頃、「俗説辨」、二、三編(べん)を見て、思ひらく、其中、時賴・秀吉両公囘國(くはいごく)の論あり。これ、甚だ誤れり。蟠龍子、此二公の意を不察と云ふべし。只し、理は不盡(ふじん)の妙にして、言々(げんげん)、何ぞ窮(きはま)る所あらんや。予が石鏃の論も、又、後(のち)の好事家、妙論あらんことを俟(ま)つのみ』。」。
[やぶちゃん注:以上で「箭ノ根石(石鏃)」の条は終わっている。彼が鬼神を大真面目に信ずるところは留保するとして、こうして読むと、崑崙は非常にしっかりした構成を念頭に置きながら論を展開させていることが、非常によく判る。
「風子(ふうし)」好事家を含む風流人士。
「此一奇は羽州をもって祖とす」先の「續日本紀」以下の最古記載が出羽だからである。
「「易」に、『遊魂(ゆうこん)変をなす』」「魂」は原典では「云」が上にあって下に「鬼」とする異体であるが、野島出版版に拠った。「易經」の「繫辭上」の中に、
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仰以觀於天文、俯以察於地理。是故知幽明之故。原始反終。故知死生之説。精氣爲物、遊魂爲變。是故知鬼神之情狀。
(仰ぎて以つて天文(てんもん)を觀(み)、俯して以つて地理を察す。是の故(ゆゑ)に、幽明の故(こ)[やぶちゃん注:事。]を知る。始めを原(たづ)ねて終りに反(かへ)る。故(ゆゑ)に死生の説を知る。精氣、物と爲(な)り、遊魂、變を爲(な)す。是の故(ゆゑ)に鬼神の情狀を知る。)
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とある。
「上古、戰場の死氣、凝結して不ㇾ散(さんぜず)。一念、只、鏃を磨(みがき)て敵(てき)に對(たい)せんとす」私はここを読みながら、思わず偏愛する晩唐の詩人李賀の「長平箭頭歌」(長平(ちやうへい)箭頭(せんとう)の歌)を思い出していた。この詩については、私サイト内の非常に古いページに、原文及び私の訓読とオリジナル訳があるので参照されたい。
「前にも云へる如ク、氣を以つて制するほど強きは、なし」「古の七奇」の「其五 胴鳴(ほらなり)」などを参照。
「六月、雪を下(くだ)し、三年、雨、降らざるの類(たぐひ)、匹夫(ひつふ)の恨(うらみ)だに如ㇾ此(かくのごとし)」「六月」は旧暦の晩夏。これは何かそうした具体的な怨恨による異常な自然現象の原拠があるのであろうが、今直ぐには思いつかぬ。判明したら、追記する。
「只、其(それ)、汝、此國の奇を爭(あらそ)はゞ、予一人を屈するにあらず。汝も又、自(みづから)生國(しようごく)を辱(はづかし)むるなり」なかなか深遠な論理である。ある国固有の「奇」=不思議を論難して否定し去って、それを主張している例えば私橘崑崙を平伏させたと思ったら、それは大間違いである。固有の説明のつかない超自然の力によるものと推定し得る「奇」が存在しないと軽率に全否定した場合、それは鏡返しで君の国の固有の「奇」も同時に全否定され、君の国の、少なくとも「奇」による歴史や民族や、それによって長い年月をかけて形成されてきた独自にして固有の属性をも否定し、辱めることとなるのだというのである。これは非常な「真」という気がする。凄いぞ! 崑崙先生!!!
「羽州男鹿島の(おかじま)中(うち)、蘇武(そぶ)の碑あり」秋田県男鹿半島の男鹿市船川港本山門前字祓川に現存する赤神神社(縁起上では貞観二(八六〇)年に慈覚大師円仁が当地に来て赤神山日積寺永禅院(永禅坊とも)を創建したのに始まるとされるが、伝承では、景行天皇二(七二)年(或いは景行天皇十年とも十一年ともされる)に赤神と称した漢の孝武帝が天から降りてきたという伝説がある)があるが、ブログ「露木順一と未来を語る」のこちらにも、菅江真澄の紀行文の中には、『徐福のほか、中国古代の帝国、漢を代表する皇帝、武帝を祀った廟があ』り、『更には武帝に使えた高名な家臣蘇武までが祀られていたと』あるとある。思い出すのは青森県戸来村のキリストの墓だ。キリストが来たのなら、かの悲劇の武将蘇武の墓があっても私は驚かぬ。
「莭死(せつし)」「莭」は「節」に同じい。単に「死」の「節」(折り・時)を迎えたとも採れるし、蘇武が自身の正しいとする「節」を守って漢に戻ることなく、匈奴から何とまあ、本邦にまで流れて来て、ここで「死」を迎えたという意味にも採れようか。
「夷狄」中国では古来、東夷西戎南蛮北狄と四方を未開の蛮族と見做し、中央で華やかに栄える「中華」として自国の優位性を誇った。そこから「夷狄」と略述して、中国で自国以外の外国人を軽蔑したり敵意をもったりして呼ぶ際に広く用いる語となった。
「左襟不毛(さきんふもう)」野島出版脚注に『えりの左前の人。耕さない土地に住む人。野』蛮『人をいう』とある。
「國字と雖も」(中国以外の)自国の文字を有する(ということは同時に独自の文化を持つ自立した国・国民であることを指す)国・民とであっても。
「章を文(あや)どる」野島出版脚注に『文を作る』とある。
『西海(さいかい)の蟠龍子(ばんりうし)、「俗説辨」を著はす』肥後熊本藩士で神道家の井沢蟠龍(いざわばんりょう 寛文八(一六六八)年~享保一五(一七三一)年:江戸で山崎闇斎に垂加神道を学び、後に国学・儒学を研究、博学でおおくの著作をものすとともに、剣術・柔術にも優れた)が書いた考証随筆「廣益俗説辨」を指す。ただ、以下を読むと、あたかも崑崙は執筆時に存命していて、今にも対面して議論を吹っ掛けたいといった勢いであるが、崑崙の生年は宝暦一一(一七六一)年頃と推定されており、本書に至っては文化九(一八一二)年刊であるから、彼よりも前代の人であるので注意されたい。則ち、以下の「予是を論ぜば、中華の書何々(なになに)を擧げ、記(しる)すれども不珍(ふちん)とす」は、井沢氏が生きておれば、私のこの奇談集の話も悉く、「珍しくもなんともないね、中国の書に総て既にして記されおるわい」とほくそ笑むことであろう、という仮定である。
『「本邦、巳に此奇あり。即、是なり」と、本邦、かの國に不減(ふげん)の賞を記したきことなり』ここは崑崙の井沢に対する反論部分。寧ろ、逆に「我が国には、古え、既に独自のかくかくしかじかの固有の奇ある。則ち、それがこれである!」と言い返したいと言い、「かの國に不減の賞記したきことなり」は「却って、中国の記録に勝るとも劣らぬ誉れを誇れる事実のあることをこの書で是非とも記したいのである」という強烈な自信に満ちた言明なのである。う~ん、気持ちは痛いほど判るが、やっぱり、崑崙先生、なかなかの反骨家であるわい。
「思ひらく」「思へらく」が正しい。漢文訓読に由来する、動詞「思ふ」に完了の助動詞「り」の付いた「思へり」の「ク」語法(活用語の語尾に「く」が付いて,全体が名詞化される語法)で「思っていることには」の意。
「時賴・秀吉両公囘國(くはいごく)の論あり」これは「廣益俗説辨」の「卷十三 士庶」にある「最明寺時賴、廻國の説」である。所持する東洋文庫版を加工データとして、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を視認底本として正字化して示す。読みは一部に留めた。【 】は原典の二行割注。踊り字「〱」「〲」は正字化した。
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俗説云、最明寺平時賴、民のくるしみを見、うつたえをきかんために、みづから諸國をめぐるといふ。
[やぶちゃん注:以下、東洋文庫及び底本は全体が最後まで一字下げ。]
今按ずるに、羅山子道春曰く、時賴の修行するは、人の鬱訴を聞かんが爲なり。民のうれひくるしみを直(ぢき)に見てをさめんとする其こゝろざしは殊勝なれ共、聖賢の道より見れば、あながち國君(こくくん)として、ひそかにしのびありき、毛を吹いて疵(きず)をもとめ、人の隱僻(いんぺき)をたづねさぐらんは、あまりさしていらざる事にや。いにしへは民のくるしみを問ふ使(つかひ)を諸國につかはして、廉直(れんちよく)に事をきく時は、君(きみ)は居ながらも明(あきらか)なるべし、と後漢書などにもあれば、かならずしも修行することを用ゆべからず。予按ずるに、むかしもろこしにて、河伯(かはく)化(け)して白龍(はくりやう)となり水におよぎしを、羿(げい)といふ者矢をはなちて、龍(りやう)が左の目を射たり。河伯いかつて此事を天帝にうつたふ。天帝のたまひけるは、汝ふかく神異を守らば、羿何によりて汝を射んや。汝いま蟲類となる故、人の爲に射らるゝこと理(ことわり)なり。恨むべからずとありしこと、事文類聚に見えたり。これを以て思へば、時賴、天下の執權にして、威勢まことに強大なれども、獨身(どくしん)にて國を廻(めぐ)るときは、乞食(こつじき)法師に異なるべからず。古語にも、呑舟(どんしう)の魚も水をうしなひて螻蟻(ろうぎ)[やぶちゃん注:螻蛄(けら)と蟻(あり)。虫けら。]のために制せらるゝは、其居(きよ)を離るゝ故なりとあれば、不ㇾ虞(はからざる)の愁(うれひ)、あやうからずや。頃日(このごろ)、䟽魯理傳(そろりでん)[やぶちゃん注:近世本格怪談集の濫觴の一つとされる名作「曾呂利物語」のこと。寛文三(一六六三)年板行。]を見るに、䟽魯理は其郷里姓氏を詳(つまびらか)にしらず【泉州地志云、鼠樓粟新左衞門は和泉國堺の産なり。堺鑑云、鞘師也と有り】。豐臣太閤(とよとみのたいかふ)につかへて寵幸(ちやうかう)せらる。ある日、太閤、諸臣をあつめてのたまふは、われすでに日本をたなごゝろににぎれり。しかれども、若(も)し一民(みん)も其所(そのところ)を得ざることあらば、わが恥なり。われ、平時賴にならつて、郡縣(ぐんけん)をめぐり見るべし。諸臣みなことばをそろへて、時賴の國をめぐられしは、美事(よきこと)に似て人主(じんしゆ)の所爲(しよゐ)にあらず。殿下若(も)しかれにならはせ給ひ、萬一の不虞(ふぐ)[やぶちゃん注:「不慮」。思いがけない出来事。]まさまさば、如何(いかゞ)とまうす。太閤またのたまひけるは、我(わが)神武(しんぶ)なる[やぶちゃん注:自分の神のようにこの上なく優れた武徳によって保たれた。]天下に敵なし。たとひひとり身にしてゆくとも、たれか我をはからんや。汝等かさねていふべからず、と御(おん)いかりの色みえ給へば、おのおの深くうれふるれども、再びいさめたてまつるものなし。それより三日過ぎて後(のち)、太閤䟽魯理を召て、世上に珍らしき事はなきか、と問はせ給ふ。䟽魯理めづらかなる事こそ侯へ。此ごろ京の賈人(あきんど)鞍馬山にのぼるとて、山の麓にいたるとき、晴れたる天(てん)忽にちにくれて黃昏(ゆふぐれ)の如し。天狗忽然として飛び來り、賈人を見ていはく、われ今(いま)食(しよく)に飢ゑたり。汝を取りてくらはんとのゝしる。其いきはひ、甚だおそろし。賈人いはく、われ運つきて今日(こんにち)公(こう)にあひ奉れり。にぐるとものがれがたし。ともかくもなし給ふべし。但しそれがしつねづね公の神通(じんづう)をきゝ候(さぶら)ひぬ。ねがはくは一目見せ給ふべし。左あらば死るともうらみ候はじ。天狗がいはく、なんぢがのぞみに任かせて神通を見すべし。先(まづ)大身(たいしん)を見せしめんといふとひとしく、其長(たけ)、鞍馬山より高くなる。賈人おどろきて、此上は小身(せうしん)を見候はゞやといへば、たちまち蜘蛛(くも)ほどになれり。賈人掌(たなごころ)をひらきて、此上にすわり給へといへば、天狗やがて飛びあがる。賈人急に口をあけてのみければ、天狗つひに腹中にて死し候とかたる。そのことば未(いま)だをはらざるに、太閤笑ひたまひて、世上に何ぞ此事あらんや。汝まうけ作りて、わが微行(ぎかう)の擧(きよ)を諷(ふう)するものなりとて、其後(そののち)廻國の沙汰なかりけりと記せり。これをもつて見れば、時賴の時に䟽魯理がたぐひの者だにもなきにや、いとあさまし。
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崑崙はこれを、「甚だ誤れり」と断じ、「蟠龍子、此二公の意を不察」(さつせず)「と云ふべし」と批難しているのであるが、ます、井沢も崑崙もともに時頼(こちらは既遂)及び秀吉(こちらは未遂)の回国伝説を信じていた。しかし、崑崙は彼らの市井に交って民意を知ろうとした為政者の誠意を全く理解していないとして批判しているのである。秀吉の話も怪しいが(そこでは寧ろ秀吉が主役ではなく、トリックスター曽呂利こそがそれであるところが如何にも作り話である)、北条時頼が隠居後に鎌倉御府内から出た形跡は「吾妻鏡」を子細に調べて見ても全く出てこないから、後世のデッチアゲ(謡曲「鉢木」で爆発的に流行)であることはもう確実であるから、私はこの回国類話全体が胡散臭い馬鹿話としてしか思われないから、崑崙の気持ちは心情的には共感出来るものの、その真面目腐った真っ向批判自体は「笑止」としか感じられぬ。因みに、回国伝説の神様水戸黄門光圀が江戸に出た以外に、実際に生涯に於いて旅行したのは鎌倉と六浦(現在の横浜市金沢区)へのただ一度きりであったこともここに言い添えておこう。序でだから追伸すると、光圀は実は大の神道好きで仏教嫌いあって、この時も諸所で野面の仏像等を損壊したりしているトンデモナイ文化破壊者であった。
「只し、理は不盡(ふじん)の妙にして、言々(げんげん)、何ぞ窮(きはま)る所あらんや」最後には崑崙先生、智の謙虚へと戻る。「但し、宇宙を支配する理(ことわり)は解明し尽くすことが出来ない霊妙なものであるからして、総てを言葉によって極め尽くすことは出来ない。それは私のここでの石鏃が鬼神の残存遺恨を元にした生成説もまた、その誤認の対象から免れるものではない、として、識者の意見を「俟つのみ」と擱筆するのである。うん! やっぱ、崑崙先生、好きッツ!!!]
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