北越奇談 巻之四 怪談 其十三(蝦蟇怪)
其十三
新泻真浄寺は大精舎(おほいなるてら)なり。寺中(じちう)の僧某(それがし)、秋の夜(よ)、いたく更行(ふけゆき)、寺に歸るとて、独(ひとり)、小家(こいへ)の軒(のき)を通りたるが、忽(たちまち)、心淋しくなりて、身の毛よだち、あたりを顧(かへりみ)れば、藁葺の厠(かはや)の屋根に、南瓜(かぼちや)繁り、纏(まと)ふたる葉の間に、靑みたる人の頸(くび)、一ツありて、かの僧に向ひ莞尓(にこ)と笑ふ。
僧、驚き、
「アッ。」
ト聲を出し、持ちたる杖にて、かの頸をしたたかに打(うつ)。
その声に近所の人々、目を覺(さま)し、
「誰(た)ぞ。」
と問ふ。僧の曰(いはく)、
「化物あり。起きよ、起き。」
と呼ぶほどに、近隣皆々、驚き出(いで)て、火を點(とも)し、是を見れば、南瓜に杖の打(うち)たる痕(あと)あり。人々、
「これは、人の頸にはあらず。『南瓜あたま』なりけり。」
と、笑ひけるに、僧も己(おのれ)が臆病を恥(はぢ)て、猶、其南瓜を打叩(うちたゝ)くに、
「グウグウ。」
と、声、あり。
人々、怪(あやし)み、葉の蔭を探し求(もとむ)るに、忽(たちまち)、大(おほきさ)狗子(いのこ)のごとくなる、蟇(ひき)一ツ、葉の蔭に竦(すく)み居たり。
「扨は。此、くせものなり。」
とて、遂に打殺(うちころ)しぬ。
「博物志」に蝦蟆(がま)の三奇を出(いだ)す。釋文(しやくもん)に、『蝦蟇、物を呑(のま)んとして口を開けば、其氣、物を引來(ひききた)りて、おのれと、口に入(いる)。故に「ひき」と言(いへ)、又、千里の外(ほか)に捨(すつ)れども、一夜(いちや)の中(うち)に歸り來(きた)る。故に「かへる」と和訓す』とあり。
予文化元甲子(きのえね)の夏六月、信州鬼無里(きなさ)山中(さんちう)、松巖禪寺(しようごんぜんじ)に停留し、障壁に画(ゑがく)こと数日(すじつ)、其寺の後園(こうゑん)に大蝦蟇(おほがま)数十(すじう)ありて、黃昏(たそがれ)より洞口(どうこう)を出(いで)、四方に亂飛(らんひ)して、食を求む。その聲、
「ガウガウ。」
と囂(かまびす)し。さなきだに、短夜(みじかよ)の眠(めふり)を妨ぐること、連夜なり。是(これ)に依(よつ)て、予堂頭(どうてう)和尚(おせう)に謁し、此ことを以(もつて)、かの蟇(ひき)を他所に移さんことを請ふ。
和尚の曰(いはく)、
「されば過(すぎ)し年、江湖(ごうこ)の僧ども、打寄(うちよ)りて、『此蝦蟇、禪定(ぜんじやう)を妨ぐ』とて、一夕(いつせき)、洞口より蚑出(はへいづ)るを、捕へ盡し、俵二ツに入(いれ)、門前の急流に捨てたりしが、翌朝、皆、歸り來りて、元のごとし。力(ちから)を勞して功なし。」
と。
予是を聞(きゝ)て、
「既に、蝦蟇の二奇を知る。今一奇なり。密室に封ずと雖も、一夜(いちや)にして出(いづ)ると云へり。吾、未(いまだ)是を試みず。」
と、語りけるに、若き僧達、その夕(ゆふべ)、竊(ひそか)に大蟇(おほひき)一ツを捕らへ、是を銅盥(かなだらゐ)に入(いれ)、石を以(もつて)、蓋(ふた)とし、其上に、猶、大石(たいせき)をのぼせ、我(わが)枕に近き障子の外に置きて、以(もつて)、その奇を試んとす。
扨、終夜(よもすがら)、他の蝦蟇(がま)、
「ガウガウ。」
と鳴渡(なきわた)るに、かの銅盥中(かなだらゐのうち)、只、時々、
「グウグウ。」
と微声(びせい)ありて、予も又、眠(ねふ)ること、能(あた)はず。
丑の時頃より、寺僧、起出(おきいで)て、堂上(どうしやう)に讀經(どくきやう)の声、喧(かまびす)し。
漸々(やうやう)明(あけ)七ツにもならんと思ふ時分、四方に散乱せる蝦蟇(がま)、忽(たちまち)、庭に聚來(あつまりきた)り、其鳴(なく)声、数百群(すひやくぐん)なりしが、忽、其声、止みて、肅然(しようぜん)と、物凄し。
又、銅盥(かなだらゐの)中(うち)の声も不ㇾ聞(きこへず)なりぬ。
予怪しみながら臥居たるに、早(はや)、若き僧達二、三人、走來り、
「如何に。」
と問ふ。依(よつ)て予も起上(おきあが)り、かの大石(たいせき)を除(の)け、板石(いたいし)を取りて、鋼盥(かなだらゐの)中(うち)を見るに、更に、一物(いちもつ)、なし。
不思義と云ふも、猶、あまりあり。
凡(およそ)、蝦蟇(がま)、烏(からす)を恐るゝのみ、犬猫と雖も、さらに省(かへりみ)ず、道を避けて行く。
實(じつ)に蝦蟇(がま)、虫類の怪物なり。此一事、他邦の奇なれども因(ちなみ)に擧ぐ。
[やぶちゃん注:蝦蟇(漢字表記は他に「蟇」「蟆」「蟇蛙」「蟾蜍」等)「ひきがえる」「がま」「ひき」の怪で、しかも後半はまたしても崑崙の実体験物。この手の実録随筆で筆者の怪奇体験がかなり克明に記されるケースは寧ろ、特異的と言ってもよい。
さて「ひき(がえる)」「がま(がえる)」は、一般には、大きな蛙を全般に指す語であるが、その実態はやはり、両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus と考えてよいと思われる。ヒキガエルは洋の東西を問わず、怪をなすものとして認識されているが(キリスト教ではしばしば悪魔や魔女の化身として現れる)、これは多分にヒキガエル科 Bufonidae の多くが持つ有毒物質が誇張拡大したものと考えてよい。知られるように、彼等は後頭部にある耳腺(ここから以下の毒液を分泌する際には激しい噴出を伴うケースがあり、これが本話でも言うところの、摂餌対象に「氣」を放って「引」くと言ったような、口から怪しい白気を吐く妖蟇(ようがま)のイメージと結びついたと私は推測している)及び背面部に散在する疣から牛乳様の粘液を分泌するが、これは強心ステロイドであるブフォトキシンなどの複数の成分や、発痛作用を持つセロトニン様の神経伝達物質等を含み(漢方では本成分の強心作用があるため、漢方では耳腺から採取したこれを乾燥したものを「蟾酥(せんそ)」と呼んで生薬とする)、ブフォトキシンの主成分であるアミン系のブフォニンは粘膜から吸収されて神経系に作用し、幻覚症状を起こし(これも妖蟇伝説の有力な原因であろう)、ステロイド系のブフォタリンは強い心機能亢進を起こす。誤って人が口経摂取した場合は、口腔内の激痛・嘔吐・下痢・腹痛・頻拍に襲われ、犬などの小動物等では心臓麻痺を起して死亡する。眼に入った場合は、処置が遅れると、失明の危険性もある。こうした複数の要素が「マガマガ」しい「ガマ」のイメージや妖異を生み出す元となったように思われるのである。因みに、筑波の「ガマの油売り」で知られる「四六のガマ」は、前足が四本指で後足が六本指のニホンヒキガエルで、超常能力を持った妖怪として、よく引き合いに出されるのであるが、これは奇形種ではない。ニホンヒキガエルは前足・後足ともに普通に五本指であるが、前足の第一指(親指)が痕跡的な骨だけで、見た目が四本に見え、後足では、逆に第一指の近くに内部に骨を持った瘤(実際に番外指と呼ばれる)が六本指に見えることに由来するものである。
なお、ここに記されたような「がま」の怪異は非常に多くの怪奇談に古くから書かれてある。私の電子化訳注或いは注したものでは、例えば、「耳囊 卷之四 蝦蟇の怪の事 附怪をなす蝦蟇は別種成事」、「耳囊 卷之五 怪蟲淡と變じて身を遁るゝ事」(これは本条の後半の崑崙の実体験の怪異と同じ密閉した空間から消えてなくなるそれである)、『柴田宵曲 妖異博物館 「古蝦蟇」』や『「想山著聞奇集 卷の參」「蟇の怪虫なる事」』などが大いに参考になるはずである。
「新泻真浄寺」新潟市中央区西堀通に現存する浄土真宗ここ(グーグル・マップ・データ)。野島出版脚注に『院家にて赤沼と号す。開基明慶坊は常陸の人。初』め、『土屋五郎重行と云。源家の勇士なりしが』、『後、出家して求道持經修行の功績をみて、頸城郡四江邑に居住せしに、親鸞國府に謫流の時、行きて謁して教導を受け、信心了解して弟子となり、法名を明慶と改め、師の東行に従い、信州水内郡』(みのちごうり)『赤沼に至る時、師の云、汝此処に止まり、專修念仏の法を弘む可しと因て一宇を造立して眞淨寺と名づく。其の後、故ありて新潟に移る。寺宝家蔵多あり(越後野志)』とある。
「博物志」晋の政治家文人張華(二三二年~三〇〇年)が撰した博物書。現行本は全十巻。神仙や人間を含む奇怪な動植物についての記録を主とし、民間伝説などが混じっている。一説には本来は四百巻あったが、武帝から内容が疑わしいとして削除を命ぜられ、十巻になったともいうが、六朝から唐にかけての伝奇や諸本草書に「博物志」として引用された文章で、現行本には記載されていないものがしばしばあり、また、原典の記載自体、断片的なものが多い点から、原本は、一度、失われてしまい、現行本は後人が他書に引用されたものを蒐集して纏めたものに過ぎないと考えられる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。但し、現行の十巻及び「太平廣記」で「博物志」引用とする文章を縦覧してみたが、蝦蟇の三つの奇異の記載は見出せなかった。識者の御教授を乞うものである。
「釋文(しやくもん)」その「博物志」の蝦蟇の三奇の記載を注釈したものと読んでおく。
『蝦蟇、物を呑(のま)んとして口を開けば、其氣、物を引來(ひききた)りて、おのれと、口に入(いる)。故に「ひき」と言(いへ)、又、千里の外(ほか)に捨(すつ)れども、一夜(いちや)の中(うち)に歸り來(きた)る。故に「かへる」と和訓す』この引用元を知りたい。識者の御教授を切に乞うものである。非常に面白い語源説ではある。如何にも眉唾っぽい(特に「かへる」の方)が、大槻文彦の「言海」の「ひき」(蟇)の冒頭には確かに、『氣ヲ以テ子蟲ヲ引寄セテ食ヘバ名トスト云フ』とあり(但し、直後に読点して『イカガ』と疑問を呈してもいる)、「日本国語大辞典」も「ひき」と「かえる」の語源説にこれらを一説としてちゃんと掲げてある。生命力が強く死んだように見えても、生き「かえる」からという説もあるが(ある種の両生類や爬虫類はショックを与えると一時的な生理的仮死状態になるものがいる)、それはもう、これより私は苦しいと思う。因みに、ちょっと脱線するが、私が青春時代を過ごした富山(高岡市伏木。大伴家持所縁の地である)では蛙を「ぎゃわず」と称した。これは万葉以来の歌語としての「かはづ」と同源と考えてよい。しかし私はその「かは」を「川」とは採らない。これはまさに「ギャ」「グヮ」という彼らの鳴き声のオノマトペイアが「くは」「かは」と転訛したと採るのが私には自然であるように思われる。
「文化元甲子」一八〇四年。
「信州鬼無里(きなさ)」長野県長野市鬼無里(偶然であろうが、ここは旧上水内郡で先の真浄寺があったのも同じ郡内であった)。ここ(グーグル・マップ・データ)。天武天皇の信濃遷都伝承に基づく鬼殲滅や平維盛の鬼女「紅葉」退治の伝説(「鬼無里」の名はそれに由来)、木曾義仲に纏わる話で知られる地である。
「松巖禪寺(しようごんぜんじ)」鬼女「紅葉」の守護神を祀ると伝える曹洞宗の寺である旧鬼立山(きりゅうざん)地蔵院。少なくとも現在は松巖寺(しょうがんじ)と読む。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「障壁」野島出版脚注に『堡障』(外塁壁)『のことであろうが、ここでは壁画か対立』(「衝立(ついたて)のことであろう)『の意であろう』とある。崑崙は画人として相応の評価があったことが、ここの事実から判る(野島出版版解説によれば、彼はそれ以前に、医学の素養があり、漢詩人としても知られていたようである。但し、博覧強記乍ら、それぞれの師が誰であったのかも皆目分らないそうである)。
「後園(こうゑん)」裏庭。
「洞口(どうこう)」山の斜面にある巣穴。
「亂飛(らんひ)して」跳躍跳梁して。
食を求む。その聲、
「さなきだに」(副詞「さ」+形容詞「なし」の連体形+限定類推の副助詞「だに」)そうでなくてさえ。
「堂頭(どうてう)和尚(おせう)」堂頭(どうちょう)の和尚(おしょう)。「和尚」の歴史的仮名遣は「をしやう」が正しい。禅寺の住持を「堂頭」という。
に謁し、此ことを以(もつて)、かの蟇(ひき)を他所に移さんことを請ふ。
「江湖(ごうこ)の僧」修学参禅を行う学僧。昔、唐代の名禅僧馬祖道は現在の江西省で禅宗を広め、同時代の今一人の名禅僧石頭希遷は南岳衡山(湖南省)に住し、天下の禅僧はこの二師のもとを往来したという故事に基づく。
「禪定(ぜんじやう)」思念を静めて心を明らかにし、真正の理を悟るための修行法。精神を集中し、三昧 (さんまい) に入って寂静の心境に達する禅行。
「蚑出(はへいづ)る」這い出す。
「門前の急流」同寺の前を裾花川(すそばながわ)が東へ流れ下る。
に捨てたりしが、翌朝、皆、歸り來りて、元のごとし。力(ちから)を勞して功なし。」
と。
予是を聞(きゝ)て、
「蝦蟇の二奇」先の釈文にある「気を吐いてそれで餌を誘引して喰らう」奇と、「どんなに遠く離れた場所へ移しても必ずもといたところへ戻ってくる帰巣本能の奇。
「丑の時」午前二時前後。禅宗の修行では起床を「開静(かいじょう)」呼ぶが、現行では午前三時から四時であるが(季節によって異なる。永平寺の修行体験例では夏で午前三時十分、冬で四時十分、春明は三時四十分とする)は、暁前がその規程であるから、この話柄の夏ならば、午前三時には起きていなくてはならず、そのための準備を考えれば、御前二時過ぎは正しい。実際、良寛の記録などを見ると、午前三時に開静している(解定(かいちん:就寝)は今も午後九時)。
「明(あけ)七ツ」定時法なら午前四時であるが、不定時法(夏)では三時半過ぎ。
「数百群(すひやくぐん)なりしが」聴くだけで数百(五,六百匹)の群れと覚えたが。
「蕭然(しようぜん)」ごくひっそりとして物寂しい様子。蕭条。ピタ! っと止んで後は「更に、一物(いちもつ)、なし」なんともはや、蝦蟇一匹どころか、全く、何も、なく、空っぽである。
「蝦蟇(がま)、烏(からす)を恐るゝのみ」雑食性のカラスは蛙も食うが、このカラスのみを恐れるという部分には、民俗学的に古えより神の使いとされた八咫烏(やたがらす)のイメージが包含されているのかも知れぬ。
「他邦」崑崙の実体験ながら、このロケーションは越後国ではなく信濃国。]
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